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東国の古代史

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2024-04-14 (Sun)

移住氏族の墓「行田稲荷山古墳」(1/2) ~ 鉄剣出土した埋葬主体部の時代推定

移住氏族の墓「行田稲荷山古墳」(1/2) ~ 鉄剣出土した埋葬主体部の時代推定

埼玉県行田市には埼玉(さきたま)古墳という有名な古墳群があります。全部で9基ある古墳群は5世紀の後半に突然築造され始めます。通常、ある地域の氏族の勢力というのは、小規模から始まり、次第に成長し、やがて衰退するというのが常です。従って、その勢力を示す古墳の規模も小古墳から始まるのが普通です。しかし、行田稲荷山古墳はいきなり墳長120mの大古墳として始まる。たったの一代で勢力を増大させたとも考えられるが、可能...

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埼玉県行田市には埼玉(さきたま)古墳という有名な古墳群があります。全部で9基ある古墳群は5世紀の後半に突然築造され始めます。通常、ある地域の氏族の勢力というのは、小規模から始まり、次第に成長し、やがて衰退するというのが常です。従って、その勢力を示す古墳の規模も小古墳から始まるのが普通です。しかし、行田稲荷山古墳はいきなり墳長120mの大古墳として始まる。たったの一代で勢力を増大させたとも考えられるが、可能性は少ない。一番可能性が高いのは、すでに有力な人物が集団を伴って他の地域から移住してきたケースです。
しかも、墳丘長120mは5世紀後半の地方古墳としては異常なサイズと言えます。畿内地域を除いて、すでに全国的に100mを超える古墳は消滅した時代だからです。その原因は畿内王権の統制によることは明白です。この事を考えれば当然の帰結として、行田稲荷山古墳の初代埋葬者は王権と何らかの関係性を持つ首長と考えられる。もっと具体的に云えば王権が地方の統制を強化するために派遣した軍事的な任務を担う人物の可能性が高いと思いますまた、この氏族は6世紀に入ると勢力を増大させ、武蔵国造に任じられた可能性が高いでしょう。日本書紀の安閑期に現れる笠原直使主の墓は、行田稲荷山古墳に続く8基の中に必ずあると思います。

【補足】
考古学者の中には、さきたま古墳群を築造した氏族は、武蔵中部の東松山付近の氏族が移住したと主張する人もいます。つまり野本将軍塚古墳や、のちの雷電山古墳の氏族を同族と見ている。しかし、私は東松山の前期古墳勢力は、弥生時代後期に東海地方西部からの拡散移住し、元荒川流域に定着した氏族と見ています。また、さきたま古墳の初代埋葬者氏族は畿内からの移住者であると推測している。主な根拠は、さきたま古墳がこの時代の国造氏族である点ですが、国造でも地方氏族の場合には120~140mクラスの大型古墳の築造が許される可能性は極めて少ない。5世紀末期の全国的な築造古墳を調べると、政権による地方の古墳規模統制は非常に厳しかったと思われる。4世紀代の前方後円墳墓制を共有した緩い広域首長同盟の時代と、中央集権化された5世紀中葉以降とでは全く違うのです。この事から推測できることは、行田稲荷山古墳行田二子山古墳は例外的規模であり、当時の政権と親密な人物系譜と考えるのが妥当と思われます。


行田稲荷山古墳1937年画像
 ↑前方部が削平される以前の行田稲荷山古墳(1937年)

↑墳丘の前方部は、1937年に周辺の沼地の埋め立て用土として採取されて破壊されたそうです。画像を見ると前方部手前に大きな欠損があるので、既に工事が始まった時期の撮影のようです。

行田稲荷山古墳1947
↑すでに前方部が削平されている1947年の行田稲荷山古墳

行田稲荷山古墳現代 
↑現在の行田稲荷山古墳の墳丘画像(前方部は復元されたもの)

その後1968年に埋葬施設の発掘調査が行われた。発掘時は後円部の破壊が進んでいたそうです。また、1976年に内堀の一部が復元され、2003年には前方部の墳丘復元工事が行われました。

豪族居館水祭祀の発祥52
↑行田稲荷山古墳の礫槨の位置(Aの存在は推測)

↑行田稲荷山古墳の2つの埋葬主体部の一方から鉄剣が出土し、10年後に鉄剣から115文字の銘文が発見されました。以下の表は個人的に推測する埋葬者の関係表です。

豪族居館水祭祀の発祥39
↑行田稲荷山古墳埋葬者の関係表(クリック拡大)

稲荷山古墳礫槨 
 鉄剣が発見された埋葬主体部Bの展示レプリカ
(※墳丘表面に展示設置されているが本来は地中にあった礫槨です)

鉄剣銘文には、剣が辛亥年に作られた事や、埋葬者が仕えた大王の名はワカタケル大王であることが記されていました。ワカタケル大王とは雄略天皇に比定される人物だが、一説であって確定している訳ではない。この鉄剣は世紀の大発見で日本古代史の推移を揺るがす大事件となります。
 
稲荷山古墳鉄剣 
↑行田稲荷山古墳西礫槨から出土した鉄剣
 
そこから大きな争点も生まれました。記載された辛亥年の実年代に関してです。辛亥年というのは、西暦に直すと以下になります
 
辛亥年 
 

稲荷山鉄剣銘文の辛亥年は、この中のどれかに相当するはずです。一般的には471年説と531年説が有力です。定説としては471年ですが、強硬な反対意見もありました。

実は行田稲荷山古墳の鉄剣出土の埋葬主体部のあった地層からは、榛名山噴火に伴う降灰物Hr-FA(西暦495年/+3/-6が検出されていないのです。降灰物の影響は風に影響され、主にどの方向へ流れたのか分布を見れば分かります。埼玉県にも確実に降灰があった事は他の地質調査で確認されている。地中の埋葬主体部層に降灰層が認められないという事は、埋葬は降灰時期よりも前に行われているという事です。なお、タイムスタンプとなる噴火年代は、地質火山学者の早川由紀夫氏によって、埋没樹木によるウィグル・マッチング法測定されている。

【補足】
 元々、古墳から出土した土器編年から築造は5世紀末頃との推定があった。古墳の造出祭祀場で出土した須恵器の分析で築造時期を特定している。須恵器はTK-47と判定されるが、その中でも古い段階に相当するという。この形式は、いわゆる雄略期須恵器として指標となっており、西暦470年から490年頃に相当する。なお、考古学者の白石太一郎氏は、須恵器は大阪の陶邑窯跡群製と見ている。これが確かなら畿内からの移住者の可能性は高まる。この時代は関東でも須恵器の製造は始まっているが、技術的に未熟で品質が劣っている。登り窯を焼成に必要な1200度の温度に長時間維持できなかったと思われる。

行田稲荷山古墳には主体部に2ヶ所の埋葬施設があり、追葬が行われています。従って、古墳自体の築造年と鉄剣所有者の埋葬年が同じとは限らない事が争点のもとでした。しかし、噴火に伴う降灰物がないことが確かであれば、鉄剣の埋葬はHr-FA495年/+3/-6)よりも以前という事は確実です。鉄剣が作成されてから埋葬されるまでの経緯や時間は不明ですが、鉄剣が作られた辛亥年は西暦471年である事を証明します。
それだけではありません。西暦531年であれば、ワカタケル大王の雄略比定説は崩れるのですが、471年ならば雄略天皇の可能性は高まります。また中国の宋書に出てくる、476年に倭国から朝貢したのは雄略天皇の使者である可能性が高くなります。現在でも531年説を唱えている人がいますが、これらの地質的な事象を踏まえると説得力のない説となります。
記紀に出てくる雄略天皇の実在性に関しては疑問の余地もあります。しかし、古墳時代中期の5世紀において大王(おおきみ)の権力を増大させ、地方への統制力を強化したり、中国との関係を築こうとした大王は存在した可能性が高い。それは畿内を除く大型古墳の突然の消滅という考古学的見地からも推定可能です。仮に雄略天皇が架空の存在だとしても、彼の事績を担った大王は明らかに存在したと思います。


次稿へ続く


【参考引用】
■論文『榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の理学的年代決定 早川由紀夫 他
■国土地理院 航空写真アーカイブ 「1947年行田地区の航空写真画像」
■ホームページ『さきたま史跡の博物館』 「金錯銘鉄剣画像」
■本ブログ記事 考古遺物の年代測定(3/3)「ウィグル・マッチング法」
本ブログ記事 豪族居館・水祭祀の発祥(5/6) -仮説根拠と評価②-
■ウイキペディア  「行田稲荷山古墳の画像」
■Google Map  「行田稲荷山古墳の画像」

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No Subject * by ありあんね
形名様
おはようございます。
稲荷山古墳を取り上げていただいて興味深く拝見しました。
行田さきたま古墳群は、私の古墳巡りの原点です。
あのように地域を整備して、その歴史資産を大切にしてくれているのはありがたいことですね。

Re: No Subject * by 形名
ありあんねさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

さきたま古墳の稲荷山古墳と保渡田古墳群の井出二子山古墳は
私にとっても非常に興味ある古墳です。
推測精度に自信はないものの、自分の中では埋葬者の出自や目的意識が
ある程度明確化されているからです。
確かに現状では2つの古墳が大事に保護されて一般の人にも理解しや
すいように展示されているのは素晴らしい事ですね。

No Subject * by ありあんね
形名様

いつも興味深く、記事を拝見しています。
ワカタケル大王、倭の五王は
誰に比定されるのか?
想像が広がります。

ありあんね


Re: No Subject * by 形名
ありあんね さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

倭の五王の問題はそれぞれの王名をどの天皇に比定するかと云うと難しいですね。
宋書によると各王からは遣宋使があったと記録されているのと、
特に雄略期の記録には呉(宋)への使者派遣が幾つも記録されているので、この時代に
朝貢があった事には間違いない。九州王朝説では五王は九州倭国の王だといって
ますが、五王は畿内王権で間違いないと思います。

ただ、この時代の天皇の系譜は書紀の記述をまともには信用できない。
個人的にはワカタケル大王以外は確実性がないと思っています。日本書紀側に
遣宋使の記録が雄略期を除いて殆どないという事は書紀が参照した原記録は
完全なものではなく、大王の名も含めて信頼できる記録ではないと思われます。
従って、倭の五王との比定を厳密に行ってもあまり意味が無いような気もしますね。
ただ「武」がワカタケル大王に相当する可能性が高いという点は、江田船山古墳や
行田稲荷山古墳の鉄剣から認めてもよいと思いますが。

No Subject * by ありあんね
形名様

詳細なご返信ありがとうございました。
ワカタケル大王の時代の比定がネックですね!

ありあんね

Re: No Subject * by 形名
ありあんねさん、こんにちは。

ワカタケル大王の即位事情の信憑性はともかく、実在としても、確かに在位期間には
疑問もありますね。
日本書紀の雄略紀年は中国の記録等から計算される西暦と6年のズレがあるんです。
各天皇の紀年というのはしっかりと直列している訳でなく、並列しているところもあります。
その原因が2人の天皇即位が並立しているためか、現代で云う天皇と皇太子の関係なのか、
それとも天皇空位期間が関係しているのか、不明なところです。


No Subject * by ありあんね
形名様

おはようございます。
昨日 市原歴史博物館へ行って
「王賜」銘鉄剣見てきました。
また 近いうちに記事にしますね!

ありあんね

Re: No Subject * by 形名
ありあんねさん、こんにちは。

行ってきましたか!
私は見たことがないので楽しみです。
確か博物館は稲荷台1号墳のすぐ近くでしたね。

古代史記事を書き始めたころ、割と近い姉崎二子塚古墳は見学したことが
あるのですが、稲荷台1号墳は時間がなくて多分パスしてしまった
覚えがあります。

この剣の「王」とは誰かというのが一番の興味を引くところですが、
少なくとも畿内王権の大王だと思います。昔は、関東の有力豪族という
説も半分あったのですが、他の古墳の事例も合わせると畿内の王という
評価が有力になっていったようです。

江田船山古墳も行田稲荷山古墳も鉄剣の持ち主は当時の国造氏族の
可能性が高い。また鉄剣を造らせたのは、首長の息子でしょう。
当時の地方有力豪族の息子は朝廷の軍務に一定期間奉仕する慣例(義務)
があったらしいです。

稲荷台1号墳の埋葬者も本人は大首長ではないが、その息子でしょう。
国造氏族の息子の可能性があります。
一方、稲荷台1号墳から西へ7㎞ほどの距離に姉崎二子塚古墳があります。
この大型古墳102mは間違いなく国造氏族の墓です。先代旧事本紀・国造本紀
に記載のある上海上国造家墓域の可能性が高い。
やや距離が遠いが、稲荷台1号墳埋葬者は上海上国造の息子かも知れません。
国造後継者が長男とすれば、埋葬者は次男以降であり、墓域が離れている
原因と考えても矛盾はありません。

Re: No Subject * by 形名
私の持ってる書籍には稲荷台1号墳からはTK-208形式の須恵器が出ていると
記載されています。

須恵器形式
TK-208  西暦450~465  允恭・安康時代に相当
TK-23  西暦460~475  雄略時代に相当
TK-47  西暦475~490  雄略または次代に相当
(行田稲荷山古墳須恵器ははTK47の初期)

従って、鉄剣の「王」とは允恭・安康時代となり、当時の大王は正確には
誰か不明ですがワカタケルの先代と思われます。
埋葬者は行田稲荷山古墳の鉄剣持ち主の1~2代前の人物ですね。

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2024-04-11 (Thu)

2024年4月10日 花見ポタリング《佐波郡玉村町》

2024年4月10日 花見ポタリング《佐波郡玉村町》

今日は天気がいいので自転車で花見に出かけた。といっても桜はもう見飽きました。↑自宅から玉村町へ向かう途中にある高崎市立岩鼻小学校です。我が母校。昭和4●年卒。左寄りにある桜の大木は在学時もあった。だからそんなに昔の事ではない。最近は自転車で玉村町を走ることが多い。特に当てはなくとも細い路地を通って街並みを観察するのが楽しい。玉村町の住所は「群馬県佐波郡玉村町宇○○」だが、佐波郡には玉村町しかない。昔は...

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今日は天気がいいので自転車で花見に出かけた。といっても桜はもう見飽きました。

20240410花大根ポタ1

↑自宅から玉村町へ向かう途中にある高崎市立岩鼻小学校です。我が母校。昭和4●年卒。
左寄りにある桜の大木は在学時もあった。だからそんなに昔の事ではない。

最近は自転車で玉村町を走ることが多い。特に当てはなくとも細い路地を通って街並みを観察するのが楽しい。玉村町の住所は「群馬県佐波郡玉村町宇○○」だが、佐波郡には玉村町しかない。昔は他の町もあったが、前橋、伊勢崎と次々に合併して玉村町だけが残ったという。つまり「佐波郡=玉村町」です。
「たまむら」というのは、いかにも田舎っぽい響きです。昔、玉村の知人が「東京でホテルに泊まっても住所を書くのが恥ずかしい」と言ってました。その気持ちは分かります。確かに玉村は田舎ではあるが、でも卑下するような土地柄ではない。玉村町を自転車で走っていると、高崎市とは違う雰囲気がある。近代的な住宅は少ない代わりに豪勢な造りの邸宅が目立ちます。建坪300平方メートル近いものもあれば、敷地500坪も珍しくない。屋根瓦は立派な黒瓦です。この町は古風な高級住宅街とも言えます。
玉村は江戸~明治の豪農の多い土地柄です。豪農と呼ばれる家系は、埼玉県では北部の深谷~本庄~児玉方面に多い。群馬県では、藤岡市の一部、玉村町~伊勢崎市方面に分布しています。なぜか群馬県と埼玉県の境界部に集中している。何か要因がありそうです。

旧渋沢邸
↑旧渋沢栄一邸(生家)

豪農は農家ではあるものの、大地主ですから小作農家に土地を貸したり、生糸を生産させて納めさせ、販売していた。単なる地主ではなく、商売っ気があったようです。その財力は中級武士階級を凌いだという。有名な深谷市の渋沢栄一も豪農の家系です。


広大な面積を持つ玉村町の南西辺を抜けると烏川の河川敷に出ます。
河川敷には玉村水辺の森公園がある。東西550m、南北160mの自然公園ですが、隣接する岩倉自然公園と合わせる倍の面積になります。

20240410花大根ポタ2

↑今日はハナダイコンの花見に来ました。私のお気に入りの野草。別名ショカツサイとも呼ばれるアブラナ科の花です。中国の三国志に出てくる諸葛亮孔明の名から採られているらしいが、由来はよく知りません。正式名はオオアラセイトウですが、これも聞かない名前です。一般的にハナダイコンが通称だと思います。

20240410花大根ポタ13
↑2段クリック拡大画像

↑この花は画像のような半日陰を好んで群落を作ります。この公園には昔から繁殖しているが、どうした訳か例年の1/5くらいしかない。河川敷のあちこちで花は見かけるが、大きな群落は少ないようです。外れ年なのだろうか?

20240410花大根ポタ4

↑中国からの外来植物ですが、花は薄紫色で綺麗です。でも例年から比べると少しまばらな感じです。

20240410花大根ポタ6

↑この辺りも昔はハナダイコンで埋まっていたような気がする。一方、菜の花が勢力を広げているようです。植生が変化しているのでしょう。菜の花の香りが漂っています。

20240410花大根ポタ5

↑公園内のビオトープです。公園の周囲には延長1.5Kmくらいの遊歩道があって散歩にはもってこいです。季節毎に色んな花が見られます。


20240410花大根ポタ7

↑某サイクリストの模倣です。

20240410花大根ポタ8

↑鏑川から見る景色は花粉のせいか霞んで見えます。


・走行コース 倉賀野→佐波郡玉村町→公園→高崎伊勢崎自転車道→鏑川側道→阿久津→倉賀野
・走行時間   1時間30分
・走行距離 計測せず


【参考】
2017年に撮影したハナダイコンの花を参考に添付します。クリックすると大きな画像で見られます。

20240410花大根ポタ9

20240410花大根ポタ11

20240410花大根ポタ15

20240410花大根ポタ10

20240410花大根ポタ12



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2024-04-10 (Wed)

2024年4月10日 畑の様子

2024年4月10日 畑の様子

今日は暖かくて良い天気です。畑には2~3日に一回は来るのですが、久しぶりに記事にしてみます。↑かき菜です。春の野菜では最も好きなもの。かき菜は肥料分が豊富な土壌で、株を大きくした方が収量が大きくなります。今年は間引き不足で株が小さい。このような場合は、まっすぐ伸びた幹の中間部分から上を切り取ってしまうと効果的です。すると、下の方にも養分が行き渡り、脇芽が伸びてきます。花を咲かせると種を作るために養分が...

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今日は暖かくて良い天気です。畑には2~3日に一回は来るのですが、久しぶりに記事にしてみます。

20240410畑の様子1

かき菜です。春の野菜では最も好きなもの。かき菜は肥料分が豊富な土壌で、株を大きくした方が収量が大きくなります。今年は間引き不足で株が小さい。このような場合は、まっすぐ伸びた幹の中間部分から上を切り取ってしまうと効果的です。すると、下の方にも養分が行き渡り、脇芽が伸びてきます。花を咲かせると種を作るために養分が使われてしまいます。


20240410畑の様子2

↑かき菜は葉物野菜ですが葉っぱは食べません。茎と葉の間に出る脇芽を収穫します。画像は収穫直後なので花芽が一本しかしか写っていない。上の方に出る花芽も旨いが、本当に旨いのは下ほうに出る脇芽です。さっとゆでると甘味があっておいしい。炒め物にも合うので重宝する野菜です。


20240410畑の様子3

↑ニンニクは青森産のホワイト片が安定の旨さだが、群馬県では暖かすぎて良いものが採れません。仕方なく暖地向けの嘉定種を植えてます。群馬県は種袋の裏記載では暖地と寒地の境界ですが、最近は完全に暖地になっています。嘉定種は、ホワイト片より辛みが強く香りも強い。粒も小さいので調理が面倒くさい。


20240410畑の様子4

↑中生玉ねぎを200株植えてある。親戚の分も作っているので数が多い。保存性を考えて小玉になるように肥料などはやりません。これから玉の肥大期に入るので、混植の雑草は除去しました。ビニルマルチは使ってません。


20240410畑の様子5

↑九条ネギは4月1日頃までは、とても旨かったが、もう急速に味が落ちている。やはり冬野菜ですね。肥料もやったことが無いが、雑草の中でも絶える事なく育ちます。でもネギは日照を遮られると急速に弱るので、背丈のある雑草は低く抑えて日当たり良くしている。分結だけで増やしており、種を蒔くことはありません。
ネギは食用にもしますが、殆どは土壌改良のために栽培してます。ネギの根は粘土質の土壌の通気性を改善し、野菜の病原菌も抑制してくれます。ネギの後作では多くの野菜がうまく育つ。連作障害が強く出るスイカ等の野菜も、間に1年間ネギを密植すると障害を軽減してくれます。


20240410畑の様子6

↑スナップエンドウですが、支柱を立てるのが面倒で地這いです。雑草と混植なので支柱がなくとも、そこそこ収穫できますが、やっぱり収穫はやりずらい。


20240410畑の様子7

↑今年2月に植えた柿(太秋)です。無地、芽吹きました。


20240410畑の様子8

↑その他の柿も一斉に芽吹いている。今後、アメリカシロヒトリの産卵に気を付ければ今年も豊作が期待できます。




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No Subject * by むさしの想坊
畑の手入れは大変でしょうね。
かき菜は脇芽を食べるのですか。
こちらの農産物直売所で、かき菜をみかけたことは
ありませんので、興味深く写真に見入りました。
わが家の猫の額ほどの庭で育つ野菜を、
ネット検索して、トライしてみようと思いました。

Re: No Subject * by 形名
むさしの想坊 さん、こんばんは。

畑は最近フル活用しておらず、野菜も自分のお気に入りしか作らないので手間は掛からないですよ。
かき菜は群馬県東毛と栃木県佐野地方の伝統野菜です。スーパーでも似たものは売っていますが、
風味は少し違いますね。種はどこでも売ってるので、畑があるのでしたら作ってみてください。
種は10~11月頃蒔きます。とても美味しいですよ。

No Subject * by kanna_24b
私は畑の方は、術後休んでからそのままになっています。
そのうちまた始めようと思っています。

かき菜は甘くて食感も良く美味しいですね。
私は酒の肴に辛子醤油に浸けて食べるのも好きです。

Re: No Subject * by 形名
kannaさん、こんばんは。

畑仕事も運動にはなるから、また借りてやるのもいいですね。
私も普通のおひたしに飽きたら、わさび醤油で食べることがあります。
ぴりっとくると旨いですね。
今は野菜が高騰してるので助かってます。

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2024-04-07 (Sun)

九州風土記と日本書紀の関係 ~ 豊後国風土記の記述から分かる事

九州風土記と日本書紀の関係 ~ 豊後国風土記の記述から分かる事

九州諸国の風土記として残存するものに豊後国風土記と肥前国風土記がある。ただ何方も抄出本で完全なものではない。この2つの風土記以外にも、後世の書物(釈日本紀等)に引用される形で残る逸文と呼ばれる風土記もある。これらの風土記抄出本と逸文は2種類に分類されている。一つは律令制度以降の国名で呼ばれる甲類風土記、もう一つは律令制度以前の国名で呼ばれる乙類風土記です。甲類......豊前風土記、豊後風土記、肥前風土記、...

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九州諸国の風土記として残存するものに豊後国風土記肥前国風土記がある。ただ何方も抄出本で完全なものではない。この2つの風土記以外にも、後世の書物(釈日本紀)に引用される形で残る逸文と呼ばれる風土記もある。これらの風土記抄出本と逸文は2種類に分類されている。一つは律令制度以降の国名で呼ばれる甲類風土記、もう一つは律令制度以前の国名で呼ばれる乙類風土記です。
甲類......豊前風土記、豊後風土記、肥前風土記、肥後風土記、筑前風土記、筑後風土記
乙類......筑紫風土記

甲類風土記は、西暦717年以降に施行された郷里制によって記述されている点や、日本書紀の参照引用があることが特徴となっています。従って書紀が完成した西暦720年から730年代にかけて執筆されたと言われている。また、甲類風土記群には共通する表記が多い点も特徴であって、九州諸国を管轄していた太宰府において一括して編纂されたと指摘する学者もいます。
甲類風土記日本書紀を参照して書かれている事はほぼ確実ですが、記載の仕方には明確な違いがあります。書紀は編年体・時系列で記録しているのに対して、風土記は地名の謂われを中心とした地理誌として記述されている。また、書紀には記載されていない風土記独自の地方伝承が記録されている点も見逃せない点です。一方の乙類風土記に関しては、不明確な点が多くて定説的な見解は無いと言ってよい。律令制が施行された西暦701年以前の7世紀末に記載されたと考える人が多いが、日本書紀の影響を受けている事も確かです。

(1)九州風土記と日本書紀の比較
ここで、九州風土記と日本書紀の関係性について、事例をあげて内容比較してみたいと思います。比較するのは、風土記と書紀の両者に同一の記載内容のある部分になります。事例は結構多いのですが、以下の2点を抽出してみます。
■日本書紀 巻7 景行記 景行12年条
■豊後国風土記 速見郡の項、直入郡の項、大野郡の項
なお、漢文読み下し文では理解しにくいので、両者とも現代語版で比較します。文章が長くなるが、記載内容が比較できる範囲まで引用します。


①日本書紀 巻7 景行記 景行12年条
景行天皇十二年
天皇はついに筑紫にお出でになり、豊前国の長峡県(福岡県長尾)に着いて、行宮を立ててお休みになった。そのところを名づけて京(福岡県京都)という。
冬十月、碩田国(おおきたこく)に着かれた。その地形は広く大きく美しい。よって碩田(おおきた)と名づけられたという。
そして速見邑に着かれた。そこには女性がいて、これを速津媛という。その地の長である。
天皇がお出でになると聞いて、速津媛は自らお迎えに出て、「この山に大きな石窟があり、鼠の石窟といいます。そこに二人の土蜘蛛が住んでいます。一人をといい、もう一人をといいます。また直入県の禰疑野に三人の土蜘蛛がいます。一人を打猿といい、もう一人を八田といいます。さらに国麻侶というのがいます。この五人はそれぞれ強力で仲間が多く、 皆、皇命には従わないと言っています。もし従うことを強いられたら、兵を興して戦うと言っています」と申し上げた。
しかし天皇は好ましくないと思われ、進まれなかった。来田見邑に留まって、仮の宮を建ててお住みになった。また群臣と謀って、「今、多くの兵を動かして土蜘蛛を討とう。もし、我が兵の勢いに恐れて山野に隠れたら、後にきっと災いをなすだろう」と言われた。
椿の木を取って椎(槌)を作り、これを武器とされた。強い兵を選んで椎を授け、山を穿ち、草を払って、石室の土蜘蛛を襲い、稲葉の川上に破り、ことごとくその仲間を殺した。血は流れて踩(くるぶし)まで浸かった。当時の人は、椿の椎を作ったところを海石榴市(つばきいち)と呼び、また血の流れたところを血田といった。
次に、打猿を討つため禰疑山(ねぎやま)を越えたところで、反乱軍たちが横の山から矢を射かけて来たので、天皇軍の前方に矢がまるで雨のよう降ってきました。そこで天皇は城原まで退却し、川原で占いをしました。そして軍勢を整えると、まず禰疑野で八田を討ち破りました。これにより打猿は勝てないと観念し、服従を申し出ます。しかし天皇はこれを許さず、一族郎党は自ら谷に飛び込んで死んだといいます。

②豊後国風土記 速見郡の項直入郡の項、大野郡の項
速見郡
■ 5人の土蜘蛛(打猿八田国麻侶)の伝説(速見郡の由来)
昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球磨贈於(くまそ)を征伐しようと筑紫に向かった。そこで周防国の佐婆津(さばつ)から船出して海部郡の宮浦に到った時、この村には速津媛という女がおり、この者は村の長であった。
速津媛は自ら出向いて天皇を迎えると「この山には鼠磐窟(ねずみのいわや)という大きな磐窟があり、そこには2人の土蜘蛛が住んでいます。その名をと言います。
また、直入郡禰疑野(ねぎの)には3人の土蜘蛛がいます。その名を打猿八田国摩侶と言います。この5人の人となりは並んで強暴で、また多くの仲間がおります。そして皆誹って「天皇になど従うものか」と言っており、もし服従を強いるならば、「兵を起こして抵抗するでしょう」と教えた。
そこで天皇は兵を遣わせると、兵たちは要害を遮って土蜘蛛たちを悉く誅滅した。これによって速津媛国と名付けられたが、後の人によって速見郡と改められた。

直入郡
■ 土蜘蛛の打猿八田国摩侶
昔、纏向日代宮御宇大足彦天皇(景行天皇)が行幸した時、この野には打猿八田国摩侶という3人の土蜘蛛がいた。天皇は自ら賊を討伐しようと思い、この野にやって来て あまねく兵たちをねぎらった。これによって禰疑野(ねぎの)と呼ばれるようになった。蹶石野(ふみいしの)。柏原郷の中にある。

大野郡
■ 鼠石窟の土蜘蛛(海石榴市・血田の由来)
昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球覃の仮宮に住んでいた。そこで鼠石窟(ねずみのいわや)に住む土蜘蛛を討伐しようと、群臣たちに命じて海石榴(つばき)の樹を伐らせ、それで槌を作って武器とし、勇猛な兵に授けた。
それから、兵たちは槌で山に穴を開け、草を押し倒して土蜘蛛を襲い、悉く誅殺した。すると、土蜘蛛たちの血がくるぶしに達するまで流れ出た。その槌を作った場所を海石榴市と言い、血が流れた場所を血田という。網磯野(あみしの)。郡の西南にある。


豊後国
↑豊後国郡名図(速見郡、直入郡、大野郡の位置)


(2)比較結果
日本書紀景行天皇の事績記述は、豊後国風土記では地理誌として3つ郡の由来話に分解されているが、全体の内容はほぼ一致している。ただ文面をそのまま引用している訳ではなく、地名の由来に主眼を置いており、物語の展開そのものは要約的な記載としている。また一つの纏まりのある逸話を複数に分割しているため、説明上、内容の重複が見られる。
ただ、一致しない点もある。日本書紀では景行天皇の征討は陸地移動しているが、風土記では明らかに船で移動している。これは検討すべき違いです(→両者本文の下線部参照)。

【補足】
日本書紀は物語を時系列で記載しており、先に、大野郡の青・白を討伐し、次に直入郡の打猿・八田・国摩侶を討伐する。豊後国郡名図、現地図と照らすと、天皇は大野川を下流から遡上しながら討伐したことになる。しかし、5人の土蜘蛛との戦いの前に来田見邑(風土記では球覃)の仮宮を住地にしている。来田見邑の比定地は現在の直入郡久住町、直入町あたり一帯に比定される。つまり直入郡に先に入っています。これは、風土記と書記の違いではなく、両書の物語の中での位置的な矛盾と言える。

大分県
↑クリック拡大
これを解決するには、
①大分郡から大分川~芹川を遡って来田見邑(球覃)の仮宮に入る。
②来田見邑(球覃)から大野川下流部に向けて山越えし、鼠石窟で青・白を討伐。
③大野川を遡って禰疑野に入って打猿・八田・国摩侶を討伐。
または、来田見邑(球覃)の仮宮を拠点として、大野川下流部と上流の禰疑野に各々放射状に討伐したとも考えられる。しかし、いずれも地形や距離を考えると、ちぐはぐな戦略には違いない。ただ、創作話のルート分析を厳密に行っても意味はないでしょう。また、この矛盾は風土記と書紀共通の問題ですから、両者の違いという観点では問題にならない。


(3)比較評価
豊後国風土記日本書紀の内容と細部まで似ており、明らかに参照・引用していると判断できます。厳密に云うと一字一句同じではないが、少なくとも矛盾しないように記述している。従って甲類風土記の執筆時期は書紀が完成する720年以降という判断は妥当性がある。

天皇の征討移動方法が両文献で異なる理由を考えてみたが、豊後国風土記の執筆者が単なる思い付きで変えたとは思えない。考えられるのは、甲類風土記は日本書紀完成後に新たに書かれた訳ではなく、原本・原資料が存在した可能性です。おそらく原本の記述は船による移動であった可能性が高い。豊後国風土記執筆者はそれに従ったのであろう。

【補足】
では日本書紀は、何故陸路を採用し、風土記原本の船移動記述に従わなかったのだろうか? この点についても検討してみた。おそらく次のような理由によると思います。
日本各地の街道整備天武朝(673~686年)において始まったというのが有力説です。しかし、西海道は一番遅れて8世紀初頭から整備が開始されている。街道整備は律令制度の一環として行われたので、公的な移動は陸路に制限されます。九州北部であれば太宰府を経由しての移動が義務付けられる。原則として海路は禁止された時期もあったようです。しかし当時の陸路移動は非常に労苦が多くて、実態としては船による移動が多かったと言います。また時代が下ると陸路は衰退し、海路の制限も緩和されました。
書紀の編纂時期は長期に及ぶが、後半は西海道の整備時期と重なっています。おそらく、正史である日本書紀は律令による原則街道使用の立場から、天皇の征討逸話も準じて陸路を採用したのではないかと思います。風土記原本・原資料の方は、執筆時期が先行していたため、陸路整備が行われておらず、海路使用で記述されていたのではないか。また、720~730年代編纂の甲類風土記が書紀に倣わずに風土記原本に従ったのは、政権の公的文書ではないので、執筆当時の移動実態に合わせたものと考えます。

九州の甲類風土記の原本・原資料が何時の時代に書かれていたのか明確には分かりません。ただ、元明天皇「風土記執筆の詔」は西暦713年です。この付近で執筆されたのではないか。原本がそのまま朝廷に提出されなかった理由については以下のように推定している。
天皇の出身地は九州という神話を構想していたため、原資料と書記神話を整合させる必要がある。
■ヤマトタケルや景行天皇が九州各地の反抗勢力を征討した逸話を矛盾なく挿入する必要がある。
つまり九州の風土記原資料の内容は、日本書紀の構想に沿って検閲・改変が必要であったと思われる。ところが日本書紀の天皇征討話を含む巻1~13の執筆は編纂の最終段階であったため、書紀の完成まで甲類風土記の作成・改変作業に着手できなかったのではないか。

以下の文献執筆推定年代表を見ると、一見、風土記と日本書紀は独立した文献のようにも見えます。しかし、風土記の編纂が天皇の命令で行われたのは目的があってのことです。その目的とは正史である日本書紀の編纂であったのは間違いない。天皇の祖先が国々を征討した事を歴史記録として創作するには、個々の地方伝承がベースとして必要だったと考えます。

古文献執筆推定時期表2
日本書紀古事記風土記の推定執筆期と参照引用関係(クリック拡大)

この推測は別な観点からも裏付けられる。例えば、書紀景行記の物語としての詳細さとリアリティです。景行記が全くのゼロからの創作であったなら、数多い土蜘蛛の反抗逸話の創作までは現実的に無理であったと思います。言い換えると、甲類風土記は、風土記原本をベースに日本書紀の記述と矛盾しないように改変された文献であると考えます。もちろん、日本書紀の征討逸話は風土記原本・原資料をネタとして取り込んで作成されています。つまり、両者は時代変遷の中でお互いに参照しあい、整合性を持たせようと図ったと思われる。

これも推測になりますが、風土記原本を作成した時の原資料である土蜘蛛逸話は、現存する甲類風土記とは違っていたように思います。登場人物は似ていても、ストーリーは全く異なっていた可能性がある。そもそも、地方に閉じた地域伝承・逸話に天皇が登場すること自体に違和感があります。本来の地方逸話に天皇の巡幸・征討という物語を挿入合体させたのではないか。
豊後国風土記速見郡に登場する速津媛は天皇に従順な族長です。しかし本来は土蜘蛛たちの祖神である国津神であったのではないか。「速津」とは急流河川または速い潮流を指すとすれば、そこに宿る水神かも知れません。速津は土蜘蛛と協力して国の開拓を担う逸話だったような気がします。ところが改変逸話では土蜘蛛を告発し、裏切る立場に設定されている。
歴史学者によっては別の見方もあって、九州地域には女性の首長が多かった名残が物語に反映されていると見る人もいます。確かに九州風土記には女性首長の登場が多いのは事実です。だが、個人的には何れも土地神国津神たる女神の改変された姿かと思っています。
このように考えるのには根拠があります。景行記12年条を読んで違和感を覚えないでしょうか?
速津速見郡の族長です。しかるに、彼女の語る話は全て他の郡域の話です。また他の郡の族長は登場しない。風土記日田郡項では久津媛と五馬姫が登場するが、前者は土地神であり、後者は土蜘蛛とされている。久津媛は人に化けて天皇の前に現れるが、郡内の報告をするだけです。ただ一人族長とされる速津豊後国を統括する存在なのかも知れません。可能性のある行政的な役割は国造ですが、逸話からは国造のイメージは浮かばない。やはり可能性が高いのは、国土の創生神である国津神が本来の姿のような気がします。

【補足】
土蜘蛛も族長も、地域の首長であることには変わりない。前者は天皇に反抗する首長であり、後者は天皇に降伏・帰順した首長とも言える。また、日田郡の久津媛の逸話のように風土記においては、人と土地神の存在は容易に入れ替わるものとして描かれている。




【参考・引用】
■日本書紀 全現代語訳(上) 宇治谷 孟著 講談社学術文庫  →「巻7 景行記 景行12年条」
■ ホームページ『人文研究見聞録』
 ・日本書紀   現代語訳    →「景行記 景行12年条」
 ・豊後国風土記 現代語訳    →「速見郡/直入郡/大野郡」
■風土記の世界     三浦祐之著 岩波新書 →「豊後国郡名図
■本ブログ記事「古文献推定執筆時期(基礎資料)」→「文献執筆推定年代表」
■本ブログ記事「古代日本のハイウェー(1~5)


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2024-04-02 (Tue)

磐井・継体戦争の発生要因(1/5)「戦乱発生要因の要素仮説」

磐井・継体戦争の発生要因(1/5)「戦乱発生要因の要素仮説」

本稿のテーマを「磐井・継体戦争の発生要因」としています。一般的には日本書紀の記述に沿い、「磐井の乱」と呼ばれている。当然ですが、「乱」とした場合の意味合いは主君に対する反乱という事です。具体的に言えば、筑紫磐井が継体大王に突然反旗を翻したという事になる。日本書紀の記録は、他の古文献に比べると非常に詳しく記録している。戦乱の経緯については明確な反乱という位置付けです。反乱に対して継体大王は臣下を派兵...

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本稿のテーマを「磐井・継体戦争の発生要因」としています。一般的には日本書紀の記述に沿い、「磐井の乱」と呼ばれている。当然ですが、「乱」とした場合の意味合いは主君に対する反乱という事です。具体的に言えば、筑紫磐井継体大王に突然反旗を翻したという事になる。日本書紀の記録は、他の古文献に比べると非常に詳しく記録している。戦乱の経緯については明確な反乱という位置付けです。反乱に対して継体大王は臣下を派兵して磐井を誅殺したとされる。しかし、これは勝者の記録ですから、まともに受け取る訳にはいきません。日本書紀には事実を隠蔽したいケースでは、ドラマチックな表現が多くなり、記述量も大きい傾向があります。政権の対応を正当化したいのでしょう。修飾や誇張、創作個所を特定して事実を推測するのは難しい。だが、少なくとも他の書物や考古遺物による文献評価が必要です。
この戦いの前後の国内と朝鮮半島の状況を調べていくと、この戦乱は反乱と捉えるのは適切でないという気もします。むしろ戦いを仕掛けたのは継体大王ではないのか?それも、突発的な事件をきっかけに戦いを始めた訳でなく、計画的に磐井の粛清を図った可能性もあります。

この戦いの要因につながる要素仮説としては、以下の2点があると考えています。
① 磐井が掌握していた半島国家との実践的外交パイプ
磐井は朝鮮半島の国々との実践的な外交窓口としての役割を担っていた。また海上運輸に携わる北部~中部九州の地方豪族の取りまとめ役として、大きな力を保有していた可能性がある。時の政権による朝鮮半島外交も、方針自体は政権の決定事項であろうが、実践的には磐井の持つ外交パイプに依存していたのではないか。
補足私自身は九州王朝説を支持していませんので、あくまでの磐井自身は継体大王の臣下としての位置付けであったと考えている。彼自身も積極的に王権外交を牛耳る意識はなかったように思います。磐井自身が独立国家の構築を目論んでいたという説はあるが、九州の各地域国家、氏族の行動に、そこまで組織的な連携は確認できない。むしろ磐井・継体戦争末期には、磐井を支援する勢力は非常に少なかったように感じられからです。逆に言えば、九州の豪族間の結束は国家を目指すほど強くは無かった。戦乱以前は磐井の主導を認め、同調していたものの、ヤマト政権と対決する意識までは無かったと考えている。特に戦前までは有明海沿岸の豪族は継体大王の支持勢力が多かった大和盆地東麓エリアとの親和性が高いという証拠がある。北九州~日向地域の前方後円墳の墓制を見ても大和地域の影響を受けた古墳が混在しており、6世紀初頭において九州をヤマトとは独立した王朝国家と見るのは無理がある。

② 継体大王が目指した政権主導による外交政策の一元化
継体天皇は即位後も敵対勢力の抵抗を受けて大和に入るのに19年を要しており、非常に苦労している。それは王権を継承すべき正統な血統でない事を意味しており、従来の王権継承とは異質な環境に置かれていた。それだけに政権を把握した後は、抵抗勢力や、抵抗勢力に成り得る力を排除したり、粛清する事に専念した可能性がある。彼は政権主導による外交政策の強化、一元化を実現しようと考えていた。
補足継体大王大和入りに19年を要したというのは書紀の創作の可能性があります。「隅田八幡神社人物画像鏡」の銘文が継体大王を指し、銘文年号が503年であるなら、即位前の503年において継体は既に大和国忍坂宮にいたことになる。しかし、仮にそうであったとしても継体大王の王位継承権は血統的には不利であり、相対的に抵抗勢力が多かった事は推測可能だと考えている。継体の最大の敵対勢力は葛城氏連合であるが、継体支持派の蘇我氏の台頭で葛城系が弱体化した結果、実権の掌握が可能となっている。磐井の粛清時期と実権を掌握した時期は一致している。

継体大王は西暦507年に即位する。当初は磐井とも良好な協力関係にあったと思われるが、互いに相容れない2点の仮説要素が次第に増幅していく。継体大王が実質的に政権を掌握して大和入りする西暦526年、大王の意識として亀裂は決定的となっていく。そして、手始めに磐井の外交玄関口の港湾を政権接収する旨を伝えて対決姿勢を示した可能性が大きい。継体大王磐井が抵抗すれば粛清する腹づもりであったと推測する。つまり仕掛けたのは継体大王側ではないか。西暦527年、磐井は港湾接収への対応に悩むが、ついに政権との対決に踏み切ってしまう。磐井継体大王の罠に嵌ったと言えなくもない。太平洋戦争前夜、アメリカは日本との開戦の口実作りに石油の禁輸等あらゆる手段を使ったのと似ている。

以降、下記の分割予定で前掲の要素仮説を検証したいと思います。
(1)磐井・継体戦争の発生要因(1/5)「戦乱発生要因の要素仮説」
(2)磐井・継体戦争の発生要因(2/5)「考古学から見た朝鮮半島・栄山江流域の前方後円墳」
(3)磐井・継体戦争の発生要因(3/5)「6世紀初頭の朝鮮半島地政学」
(4)磐井・継体戦争の発生要因(4/5)「継体天皇の出身地と九州勢力との関係」
(5)磐井・継体戦争の発生要因(5/5)「文献史からの評価」


次稿に続く


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古文献推定執筆時期(基礎資料)

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以下表は、日本書紀、古事記、風土記(逸文を含む)の推定執筆期を纏めたものです。↑日本書紀、古事記、風土記の推定執筆期と参照引用関係(クリック拡大)【補足】①日本書紀については歴史学者 森博達氏の音韻や漢文用法による日本書紀区分論から抽出。②九州風土記の甲類と乙類の分類は執筆時代を示す指標である。本資料では「国名」呼称で分類している。同じ分類でも地方官制の「縣」・「郡」表記で分類する方法もあり、そ...

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以下表は、日本書紀古事記風土記(逸文を含む)の推定執筆期を纏めたものです。
古文献執筆推定時期表2
日本書紀古事記風土記の推定執筆期と参照引用関係(クリック拡大)
【補足】
①日本書紀については歴史学者 森博達氏の音韻や漢文用法による日本書紀区分論から抽出。
②九州風土記の甲類と乙類の分類は執筆時代を示す指標である。本資料では国名」呼称で分類している。同じ分類でも地方官制の「」・「」表記で分類する方法もあり、その場合は肥前筑後は乙類となり、推定執筆時期も変わる可能性がある。従って分類が必ずしも時代を正確に表さないケースもある。
③九州風土記に関しては、8世紀前半に当時の西海道節度使だった藤原宇合が九州の各地域の風土記を編纂したという説があるが、確定している訳ではない。



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2024-03-18 (Mon)

古事記神話 「神の世界は下請け制?」

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「はじめに天地創造があった、万能の神は全てを造りたもうた。光、水、大地を造り、そしてそこに住まうもの達を造ろう・・・と思ったけれど面倒になって、生き物を造るのは“下請け”に任せることにした。その下請けである『天地創造社』のデザイナーたちが生き物の案を出し、エンジニアが実現可能か検証し、クライアントである神が採用の可否を決定する。」これは『天地創造デザイン部』という『月刊モーニングtwo』(講談社)で連...

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「はじめに天地創造があった、万能の神は全てを造りたもうた。光、水、大地を造り、そしてそこに住まうもの達を造ろう・・・と思ったけれど面倒になって、生き物を造るのは“下請け”に任せることにした。その下請けである『天地創造社デザイナーたちが生き物の案を出し、エンジニアが実現可能か検証し、クライアントである神が採用の可否を決定する。」
これは『天地創造デザイン部』という『月刊モーニングtwo』(講談社)で連載していた漫画の紹介文です。万能の神から依頼を受けて生き物をデザインする天地創造社の社員たちの悪戦苦闘を描いたファンタジーコメディです。

この漫画は西洋の神話をモチーフにしています。でも日本神話とも通ずる部分はあるような気がします。実際にストーリーを見てみたが、なるほどと思わせる部分もあります。日本神話を題材にしている訳ではないので天地の概念が一致しなかったり、神の機能は異なるが、アイデアとしては面白いと思います。

古代の歴史書である日本書紀古事記には各々に神話編を含む。しかし、神話編の比率には大きな違いがあります。日本書紀では6%程度であるが、古事記では約35%を占めます。比率の大きさは、各々における神話の重要性を示しているとも言えます。これは前者が正史の体裁であり、後者は天皇家の固有歴史書である事にも関係している。日本書紀は国外の読者も意識している文書です。従って、各国固有の文化性がある神話よりも政治的な記事(国家の正統性)を重要視しているのかも知れません。また、神話の記載でも日本書紀古事記では細部において内容に違いがあります。古事記では書紀に比べて一貫した物語性があります。書紀では「一書に曰く」の客観視的な記載があって、やや繋がりの分かりにくい話となっている。以降は主に古事記神話に沿って話をします。

古事記の上位神
↑古事記で最初に出現する天津神12代17神 クリック拡大

物語の最初のほうで出現する計12代の天津神は、誰かが生み出した訳ではなく、ただ唐突に出現します。独神とは性別の無い神、双神は男女ペアの神です。
漫画では、まず神は万物を創造したとするが、古事記で最初に現れるアメノミナカヌシ天之御中主神)は万物の創造神ではなく、天地を支配する神でもない。天地は創造されたものではなく、天も地も最初から存在したというのが古事記の世界観です。天地初発という言葉で言い表されている。ただ、天地はあるものの、混沌としていて、大地は硬く固まってはおらず、天も薄暗く雲に覆われている。アメノミナカヌシという神名は、天地を作ったのではなく、天地の中心を高天原にして領有した事を示す。ただ、至高の神とされる具体的記述はない。古事記では最初の11代までの天津神は出現するものの、それぞれがどんな使命を帯びているのか明確ではない。また何をしたのかも記述されていない、読者はその神名からある程度推測できるだけです。

11代までの天津神たちの事績はとても少ない。12代目に登場するイザナギ・イザナミに対し「海に漂っている脂のような国土を固めよ」と命令し、矛(ほこ)を授ける部分です。具体的に誰が命令したとも記載されておらず、天津神の神々としているのみ。そして、具体的な事績の記述は無いまま、隠れてしまいます。古事記では上位の偉大な神ほど影が薄い傾向にあります。「下請け神」に命令だけして後は知らんぷりといえる。そして二度と姿を現さない。例外はタカミムスヒカミムスヒです。両者は何度か登場しますが、いずれも下位神への指令神として登場します。自身で何かを成し遂げることは無く、重大な時だけ現れて命令だけする。事績とは言えないが、後述するアマテラス系譜では、タカミムスヒの娘はニニギノミコトの母となる。本来、性別の無い神に娘がいるという不思議な設定です。もっとも神は物や、肉体の一部からも化成しますから普通のことかも。

小林永濯画
↑小林永濯『天之瓊矛を以て滄海を探るの図』(1880年代)

天津神で中で具体的な仕事をして役目を果たすのは、12代目のイザナギ・イザナミだけです。海に漂っていた脂のような国土を固めるべく、天浮橋から天沼矛(あまのぬほこ)で海をかき回し、出来上がったオノコロ島で結婚する。国産み・神産みの仕事において、国土を形づくったり、多数の子神を儲けます。その中には淡路島、本州、四国、九州等の島々と、海・水・山など森羅万象の神が含まれます。
神産みは、男女神が結婚して産み出すパターンと、肉体の部位や身につけた物から化成するパターンが主流です。しかし、神の行為する場所からも産まれるパターンが少しあります。このあたりは理由を論考しても、あまり意味が無いような気がします。数が多いだけに思い付きで創作しているように感じられる。生成した神には、親神から使命が与えられて役目を下請けさせていきます。

古事記神産み
イザナギ・イザナミの神産みの図 クリック拡大

↑上図はイザナギイザナミの夫婦が生んだ神々です。イザナミは最後にヒノカグツチを産んだ際にやけどを負い、やがて死んでしまう。イザナギイザナミを死に至らしめたヒノカグツチを切り殺す。上図にはヒノカグツチの死体から生まれた神も含んでいます。


黄泉の国から帰ったイザナギの禊で生まれた神
↑イザナミの禊(みそぎ)から生まれ神の系譜 クリック拡大

↑上図は、黄泉の国から帰ったイザナギの禊で生まれた神々です。アマテラスツクヨミスサノオは三貴神と呼ばれ、天津神に属します。特にアマテラス指令神としても、自らも行動する神としても描かれている。本来ならアマテラスタカミムスヒに次ぐ位置づけの神です。しかし、おそらくは創作された時期が遅い神のため、化成する段階も低いのだと思われます。高い位置に挿入してしまうと既存の話の多くに影響が出てしまい、修正が大変だからです。
スサノオについては、皇統神話の創作段階で出雲神話との神話統合があったために、アマテラスと兄弟とされているが、本来は出雲の土着神であったと考えている。詳細は神社新羅起源説批判(2/2)「神社新羅起源説の評価」を参照してください。日本神話・逸話では兄弟の年長者は悲惨な運命にあるケースが多い。この兄弟ではむしろ逆転している。大方の天津神が隠れたのち、至高の指令神としての役目を負うアマテラスは長姉にせざるを得なかったのであろう。
ツクヨミに関しては古事記では殆ど登場せず、貴神ながら影の薄い神です。おそらくアマテラススサノオという対照的な性格の神に対して、中性的で静かな存在をバランスのために配置したのでしょう。神話の中では役目を持たない神と言っても差し支えない。

アマテラスとスサノオの誓約
↑アマテラスとスサノオの誓約で生まれた神

↑さらに、アマテラススサノオの誓約(うけひ)の段でも神産みがある。イザナミに追放されたスサノオが高天原のアマテラスに挨拶に行く。スサノオの攻撃を警戒したアマテラススサノオに攻撃の意図が有るか無しかを二人で占いで決めるという話。互いに相手が持つ物実を噛み砕いて吹き出し、神を生成する。物実とは、本質を象徴・匹敵・代行させる物体を指す。難解表現だが、この場合は神が宿る(内包する)神宝と捉えて問題ないと思います。二人の占い勝負は、生み出す神の内容で競ったと思わるが、古事記では勝利根拠が明確でない逸話となっている。女神を生んだスサノオが勝ったと宣言しているが、数では男神を生んだアマテラスが勝っている。でも何故かスサノオの勝利を受け入れています。なお日本書紀では勝利の条件を明確に決めてから誓約を行っている。


神話の形成と目的1
↑アマテラスの系譜から生まれる初代天皇

アマテラスの系譜からは天皇家の祖、天孫である人間が生まれる。以上の系譜図で示す通り、イザナギイザナミが生み出す神は非常に多く、次々に派生します。しかし、古事記は天孫以外の人間や、その他の生き物の生成に関しては一切記述していません。西洋には創世記という動物創造の話があるが、日本神話においては無い。
スサノオの子孫である国津神のオオクニヌシはワニサメによって傷ついたウサギを保護するが、ワニサメやウサギがどうして生まれたのか記載していない。天地が最初からあったように、地上世界の人間も動物も最初からいたのでしょうか?そういえば、イザナギ・イザナミが作った国津神たちは静的なものばかりで、動物を司る神はいない。古事記神話の表す天地は、あるがままの自然であり、本質的な創生という概念は無いのかも知れない。
一方の日本書紀天地開闢(かいびゃく)は渾沌とした世界が先ずあり、やがて陰陽に分離して天地となる。書紀の方が古事記よりも天地の造形は明らかにあいまいであった表現です。でも続く神々の登場に関しては書紀もほぼ同様です。天地創造デザイン部が担う動物の設計は日本神話の中では必要とされないようです。

古事記が描きたかった事は、国津神に対する天津神の優位性であったと思います。天地創造や生き物の創生などはどうでもよかったのではないか。国津神とは、皇統とは別の氏族の神を表わす。イザナギ・イザナミが生み出した国津神に対して天津神が命令する場面を再三描くことで、その優位性を強調したかったと思われる。天孫降臨神話では、天孫である人間天皇にも国津神を制する力を与え、地上世界を治める正統性を印象付けるための仕掛けを施している。こうしてみると、西洋の神話は全能の神の偉大さを語る逸話であるが、日本神話は人民を統制するための神話であると感じます。神が次々に神を生み、仕事を下請けさせていくという概念も、西洋神話には無い特徴と言える。まさに日本は多神教文化の中にある。



【参考・引用】
■『古事記口語訳完全版  文藝春秋  三浦祐之著
『日本書紀全現代語訳  講談社学術文庫 宇治谷孟著
■天地創造デザイン部ホームページ 「アニメ紹介文」引用
■Amazon Prime Video 「天地創造デザイン部」配信動画
日本神話.comホームページ 「天津神分類表」引用
■ウィキペディア 小林永濯『天之瓊矛を以て滄海を探るの図』/「古事記神産み系譜図面」引用
■ふるさとコミュニケーションサイトふるコミュ宮崎 「日向神話系譜図」引用


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2024-03-13 (Wed)

大山積神の神名について ~ 「ツミ」の意味するところ

大山積神の神名について ~ 「ツミ」の意味するところ

以下の画像は、群馬県藤岡市上日野という山中にある大山祇神社です。群馬県には大山祇神社が多く、数では全国2位の79社があるという。特に榛名山の麓には大山祇神社が濃密に分布しています。また同じヤマツミ神を祀っている三島神社も8社ほどあり、祭神名でいうと、もう少し多くなります。ただ何れもごく小さな社で大きな神社は少ない。祠(ほこら)と言ってもよいレベルの社が山の麓に多くあります。という話は前振りでして、話はす...

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以下の画像は、群馬県藤岡市上日野という山中にある大山祇神社です。

大山祇神社

群馬県には大山祇神社が多く、数では全国2位の79社があるという。特に榛名山の麓には大山祇神社が濃密に分布しています。また同じヤマツミ神を祀っている三島神社も8社ほどあり、祭神名でいうと、もう少し多くなります。ただ何れもごく小さな社で大きな神社は少ない。祠(ほこら)と言ってもよいレベルの社が山の麓に多くあります。という話は前振りでして、話はすっかり変わります。

ヤマツミ神は日本書紀では「大山祇神」または「大山積神」と書きます。古事記では「大山津見神」と記述する。愛媛県今治市大三島にある大山積神を祭る神社の総本社は「大山祇神社」と書きます。しかし、祭神名は大山積神」であり、本来は神社名も「大山積神社」であったようです。

このヤマツミ神については昔から疑問に思っていることがあります。以下の2つの事例に関係します。

①【大山積(オオヤマツミ)という呼称の由来】
定説では「オオ(大)」は美称、「ツミ(積・津見)」の「ツ=の」であり、「ミ=御魂、御霊(みたま)」であるという。従って「山の御霊(みたま)」という意味になる。また、美称があることから、単なる山の精霊を指すのではなく、山=国土を支配する神という意味だという。

②【氏族名に「積(ツミ)」が入る氏族】
氏族名に「積(ツミ)」が入る例には、饒速日命(ニギハヤヒ)を祖先とする穂積氏(ホヅミ)、綿津見神(ワタツミ)を祖先とする阿曇氏(アヅミ)、和珥氏原始性である鰐積氏(ワニヅミ)、出雲国造の同族と見られる出雲積氏(イヅモヅミ)、尾張氏の原始性である津積氏(ツヅミ)がある。
これらの氏族は全て海神族と言われている。海上運輸を職掌とする氏族として始まった集団です。どれも瀬戸内海地方の沿岸に多い氏族で、海神である大綿津見神(オオワタツミ)の名、または、国土神であるを大山積(オオヤマツミ)から「積」をとって氏族名に入れている。後述するが大山積は航海神としての位置付けもある。

ここで疑問が湧きます。では「ツミ」の解釈は異なっています。「積=津見=○○の御霊」という意味なら、「ツミ」自体は固有名称ではないことになる。海を意味する「ワタ」を氏族名に入れるなら分かるが、「○○のミタマ」を意味する「ツミ」では解せない。
では「ツミ」は海神または海を意味しないと筋が通りません。確かに大綿津見神の「綿(ワタ)」は「海」の古称であるのは間違いないが、積・津見(ツミ)も海に関係する言葉ではないかと思います。一説には「津見」は音の借用ではなく、「津=港、見=司る」で「港を司る人」または「海を司る人」という意味があるという説もあるようです。こじ付けっぽいが、この解釈の方が筋が通る気がします。
また、は一見説得力がある定説ですが、「ツミ」が「○○のミタマ」の意味なら、神名に「ツミ」が付くケースは無数にあるはずです。神の多くは形あるものに宿る性質があるからです。しかし、「ツミ」の付く神名は存在するが少数に留まります。しかも何れも山神、水神に限定される点は、「ツミ」が「○○のミタマ」とは一概に言えず、山や海(水)に関係している事を示す。
もちろん、「穂積」が「穂のミタマ」または「炎のミタマ」の可能性はあるが、「出雲」「」などは広域地名や地形・形態を表す単語であり、「出雲のミタマ」「のミタマ」は考えにくい。また、氏族名に神名そのものを付ける例も、祭祀する神に対して敬意を払っておらず、考えにくい筈です。従って、説は完全否定はできないが、少なくとも問題のある解釈だと感じます。


【補足】
■『伊予国風土記』逸文によると、大山積(オオヤマツミ)は別名「和多志(ワタシ)」大神とも言われ、海の神の性格も持つという。「ワタ」は海を意味し、「シ」は司(つかさどる)ことを意味するから、海をも支配する神とも解釈される。他説では「和多志(ワタシ)」は「渡し」であり、大山積神は航海神としての信仰を集めていたというものもある。どちらが正しいのかは不明ですが、海神族が山の支配者である大山積を崇拝していたのは確かなようです。当時の航海において、船の位置を知る手掛かりは陸地の山しかない筈です。現在では漁船にGPSが付いてるのは当たり前ですが、今でも老漁師は「山だて」という方法で漁場を決める事があります。従って、山の神ヤマツミは正しい航路への導きの神、一方の海の神ワタツミは海を鎮める神だったのではないか。また、山は水を生み、水は海に流れる事を考えれば、両者は表裏一体の神と考える事も出来る。

古事記の神産み神話で生まれた「ツミ」を含む神13柱
(1)イザナギとイザナミが生んだ神
水神と山神。生まれた順は同時ではなく水神が先。
 大綿津見神(おわたつみ)
 大山津見神(おやまつみ)
(2)火之迦具土神の死体から生まれた神
イザナミにやけどを負わせて死に至らしめた火之迦具土神をイザナギは切り殺す。火之迦具土神の死体から生まれた神。何れも山神である。山体の各部分や山の様相を示すとみられるが、火山を含む可能性もある。火山は温泉を生み、水に至るという関連性がある。火之迦具土神は別府温泉源の神でもある。
 正鹿山津見神(まさかやまつみ)
 淤縢山津見神(おどやまつみ)
 奥山津見神(おくやまつみ)
 闇山津見神(くらやまつみ)
 志藝山津見神(しぎやまつみ)
 羽山津見神(はやまつみ)
 原山津見神(はらやまつみ)
 戸山津見神(とやまつみ)
(3)イザナギ禊から生まれた神
イザナギが黄泉の穢れから身を清めるため、水中で禊(みそぎ)を行う最中に生まれた神。何れも水神。底津、中津、上津の「津」は「~の」とも読めるが、「津」が海や水中を示し、その水深を表すとも考えられる。
 底津綿津見神(そこつわたつみ)
 中津綿津見神(なかつわたつみ)
 上津綿津見神(うはつわたつみ)

(2)項と(3)項は生成に大山津見大海津見は関わっていないが、両者の分身・分離です。言い方を変えると抽象の神と具体の神の関係にある。ある意味、「ツミ」を含む神名は実質2柱しかないとも言えます。



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Re: 大山積という神について * by 形名
内緒さん、ご指摘ありがとうございます。

ご指摘内容は概略ですが確認しました。

縷々… * by むさしの想坊
形名 さま

こんにちは。

目がどんどん吸い寄せられて、とても勉強になり
ました。
一説によると、…などという表示の文章を見ると、
どこから引用したのだろうと、素朴な気持ちが
湧いてきますが、拠りどころと、推測の起承転結
がはっきりしていると、読みごたえが深まります。

Re: 縷々… * by 形名
むさしの想坊さん、こんにちは。

評価いただいて恐縮です。
私は手ごろなところでは、ウィキペディアも参照しますが、主に
J-STAGEという日本の論文データベースを参考、引用しながら
自分の考えを交えて記載するパターンが多いです。
むさしの想坊さんも調べものがある時は使ってみてください。
論文検索の掛け方にコツが要りますが無料登録で使用できます。
論文はPDF化されているので、やや読みにくものの全体が参照できます。

福島県の会津地方には、大山祇神社は多くありませんが・・ * by ☘雑草Z☘
 西会津町の大山祇神社は、遙拝殿から本社まで4kmの長い参道があります。愛媛県今治市の大社に次いで大きな大山祇神社かと思います。
 本社の更に奥の崖の小道の先に奥の院があるようですが、ほとんどの人は奥の院まではいきません。
6月いっぱいお祭りで賑わいます。
http://www.ooyamazumi.net/sandou.html

Re: 福島県の会津地方には、大山祇神社は多くありませんが・・ * by 形名
拝殿から本社まで4㎞とはすごいです。参拝というよりハイキングコースと云ったところです。群馬の場合は祠レベルの神社が殆どですが、規模が大きい神社ですね。

大三島の大山祇神社は行ったことがありませんが、この神社は、いわくがありそうな神社です。伝承では現在地の前に元宮があるらしい。古代において朝廷の命令で祭神の入れ替えがあったらしいです。朝廷の祭祀を司った中臣氏が作った祝詞(のりと)に大祓詞(おほはらへのこと)というものがあるが、この中に瀬織津姫と言う神が出てきます。記紀には登場しない神です。大三島大山祇神社の元宮では、瀬織津姫を祀っていたが、朝廷の指示で大山積神に置き換えられたという。原因はよくわかりませんが、何か事情があったようです。
また、瀬織津姫を祀っていた神社は全国に非常に多かったが、明治政府の命令(明治天皇の勅命)で大山積神に替えさせられたという経緯もあるそうです。ひょっとしたら、西会津の大山祇神社も元の祭神は瀬織津姫だったかも知れませんね。東北地方にも瀬織津姫を祀っている神社はあるそうです。
この神については、「エミシの国の女神-早池峰-遠野郷の母神」や「円空と瀬織津姫」などの著作のある菊池展明という人の本が詳しいそうですよ。

なるほど・・ * by ☘雑草Z☘
大三島の大山祇神社を知るまでは、西会津の大山祇神社が大社だと思っておりました。ご推測のように西会津の大山祇神社はルーツが違うのかも知れませんね。
記事も含め、知識豊富なマニアックな内容で、知らない事ばかりでした。
毎回非常に丹念に調べられた学術的記事ですね。その手の学会で発表されては如何でしょう?

Re: なるほど・・ * by 形名
雑草さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

私は神社の歴史に詳しくないので、受け売り的な情報が殆どです。
瀬織津姫の話も最近知ったくらいです。
大半の神は、ある目的に沿って積極的に創作された産物であること、
商業神社の縁起そのものが欺瞞に満ちていると考えており、
あまり真面目に向き合う気がしないのも事実です。

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2024-03-04 (Mon)

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(5/9)「近代から現在の古堤・新堤」

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(5/9)「近代から現在の古堤・新堤」

前稿からの続き新堤は倉賀野駅の100mほど東、高崎線北側の線路沿いにある灌漑用水池です。駅のホームとも隣り合う位置なので電車からも良く見える。灌漑用の溜池だが、周囲には農地など残っていません。↑2023年現在の新堤・古堤画像(クリック拡大)↑溜池の周囲は倉賀野駅の北口にあたるが、住宅街だけで商店も無く閑散としている。東側には細い幹線道路があって自動車が通るが、交通量も少なくて静かな地域です。↑2024年の新堤(ク...

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前稿からの続き

新堤は倉賀野駅の100mほど東、高崎線北側の線路沿いにある灌漑用水池です。駅のホームとも隣り合う位置なので電車からも良く見える。灌漑用の溜池だが、周囲には農地など残っていません。

2023年新古堤
↑2023年現在の新堤・古堤画像(クリック拡大)

↑溜池の周囲は倉賀野駅の北口にあたるが、住宅街だけで商店も無く閑散としている。東側には細い幹線道路があって自動車が通るが、交通量も少なくて静かな地域です。

倉賀野堰16
↑2024年の新堤(クリック拡大)

超広角で撮影してるので広さが誇張されているが、実際はそれ程広くはありません。溜池への導水口は手前左隅の角にあります。出水口は対角線上に水門があって、そこから出水します。現在では導水も出水も行われてはいないようです。

倉賀野堰17
↑2024年の新堤(クリック拡大)

↑周辺は倉賀野町桜木町と呼ばれている。この溜池の周囲には桜がたくさん植えられているので付けられた名前かも知れません。私が子供の頃はまだ小木だったが、今では大木になっています。溜池の東側は、かっては関東電工という肥料会社がありましたが、現在は規模を縮小し、跡地にはショッピングセンターとパチンコ店がある。

倉賀野堰18

新堤のほとりに建つ石碑には「新舊(旧)溜池改修記念碑」と刻まれています。1936年(昭和11年)に、新堤古堤は改修工事がなされているので、その時に建てられた記念碑と思われます。舊(旧)溜池というのは古堤(ふるづつみ)のことです。古堤は高崎線の南側、新堤の南東400mの所にあります。2つの溜池は長野堰から引水しています。その経路は別稿で紹介しますが、江木町の円筒分水筒倉賀野堰(五貫堀に分流して、長い経路を経てようやく細々とした水路が接続しています。江戸時代から昭和中期までは、長野堰の水量は十分ではなく、水路の末端は深刻な水不足に陥っていた。しかし、この溜池のおかげで多少は水不足が緩和されたようです。長野堰末端の農家にとって、古堤新堤は大事な溜池だったことは想像できます。

以下は倉賀野町下町(しもちょう)にある現在の古堤の様子です。倉賀野町の地域名称(あざ名)には「町」が付く場合が多い。

倉賀野堰20
↑2024年の古堤(クリック拡大)

↑導水口のある西側は土砂が堆積して葦が密集している。溜池としての維持管理は行われていないようです。


倉賀野堰21
↑2024年の古堤(クリック拡大)

↑手前の設備が出口水門跡だが閉じられている。古堤の左側に見えるのは高崎市立倉賀野保育所です。この正門には古堤の由緒碑が建っています。なぜこの保育所に由緒碑があるかというと、保育所の敷地は元古堤だったからです。つまり、古堤は本来もっと広かったのです。恐らく、近年には灌漑用水としての利用が激減し、埋め立てられて公立の学校施設地として利用されたのでしょう。

倉賀野堰22
↑古堤改修碑文(クリック拡大)

↑碑文は読めるように撮影しましたが、字数が多く読みずらいので、文章をテキストで以下に記載します。

古堤の由緒
古堤は倉賀野町字荒神にあり、面積は六反三畝五歩にして、徳川四代将軍家綱公の寛文年代、全国的な大旱魃起り、時の高崎藩主は、年貢を減少する代償として、農民の労力により灌漑用貯水池として建設したと伝えられる。
その後管理は名主、組頭、百姓代に依ってなされたが、明治に至り町の所有となり、下組水利組合が管理運営にあたり、下流地域一帯の田畑を潤し、農民はその恩恵に浴す。
時は移り世は変り、町村合併により高崎市の所有となり、幼児教育の重要なる事を認めて相謀りて、ここにその半ばを埋め立て、保育所を建設するに至る。
この農民の歴史を後世に伝えんとして、この碑を建つ。昭和五十二年四月吉日 倉賀野下組水利組合

古堤の埋め立ては1977年(昭和52年)です。埋立以前の近接写真を探しましたが、書籍掲載の不鮮明な画像のみで、規模が分かる鮮明写真は見つかりませんでした。そこで、国土地理院が公開している航空写真を掲載します。古堤新堤も周辺の環境や用途の変化に応じて改変を受けていることが確認できます。

1942年新古堤2
↑1942年(昭和17年)の新堤・古堤画像(クリック拡大)

↑国土地理院が保有する一番古いもので戦時中の写真です。不鮮明ですが、周辺に宅地は無く、水田ばかりです。農地面積としては最大期に当たり、灌漑用水としての利用も盛んであったと思われます。なお、古堤の用水供給地は高崎線の南側のみ、新堤は画像右側の高崎線北側です。

1948新古堤
1947年(昭和22年)の新堤・古堤画像(クリック拡大)

古堤の西側と北側に宅地が出来始める。新堤付近も建物が見えるが、用水利用は盛んな時期が続きます。なお、新堤と北部にある川の面堰の間には現在は存在しない水路が五貫堀から分流し、東中里町の南側まで流れているようです。倉賀野駅から北東に伸びる線路は日本で一番短い鉄道「岩鼻軽便鉄道」の跡です。

1961年新古堤
↑1961年(昭和36年)の新堤・古堤画像(クリック拡大)

↑宅地と農地の状況は見た目には1947年と大差はない。しかし、農地面積の減少期に入る頃です。この頃の新堤は鯉の養殖にも使われていました。灌漑利用も多少は減ってはいるものの、続いています。新堤からの水路は関東電工の敷地南側を南下し、線路沿いに東に向かう2本の水路がはっきり見えます。

1974年新古堤
↑1974年(昭和49年)の新堤・古堤画像(クリック拡大)

↑両堤とも周辺に宅地が急激に増えています。古堤は既に灌漑利用がほぼなくなっています。画像右側に残る広大な農地も、北端部の灌漑には北を流れる川の面堰から引水しています。画像右側中央部の水田は、1974年時点では新堤から供給されているのか、川の面堰からの供給なのか分かりません。

1980年新古堤
↑1980年(昭和55年)の新堤・古堤画像(クリック拡大)

古堤の南半分は保育園を建設するために埋め立てられている。完全に水の利用は無くなっている時期です。水深は分からないが、残存部は綺麗に残っています。新堤の方は導水口の形状が変わっているが、この時期までは面積的に変化がありません。だが、1974年に東部にあった農地は殆ど工場に置き換わっています。工場団地として造成中の地域ですから、用水利用は停止したと思われる。

2006年新古堤1
↑2006年の新堤・古堤画像(クリック拡大)

新堤は西側の約30%が埋め立てられている。おそらく2005~2006年の工事だと思います。

2023年新古堤
↑2023年現在の新堤・古堤画像(クリック拡大)

新堤埋め立て
↑埋め立てられて縮小した新堤(クリック拡大)

新堤の埋め立てられた土地には2010年頃に倉賀野桜木町公民館が建てられている。

2023年古堤上空画像
↑2023年の古堤画像(クリック拡大)

↑保育園の敷地を含めると元の古堤の形が良く分かります。画像では分からないが古堤は水位が下がって水量は僅かしかないようです。このままだと干上がるかも知れません。古堤への導水口は溜池北西隅にあります。現地踏査の結果では堆積した土砂と雑草で覆われており、最近、通水された形跡はありませんでした。
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倉賀野堰の五貫堀のシリーズ * by ☘雑草Z☘
 記事の一つ一つが長くて更に9回まであるとは、ブログ記事と言うよりも研究論文ですね。最初から9回と決めて記事を計画的にアップされるのも緻密です。他でも発表されてください。
 私も堰には興味を持っています。幅の狭い提でも、側面が石畳石垣で出来ていたりすると歴史の重みを感じます。石畳石垣の隙間にオイカワとか蟹とかがいると最高です。

※3/12 ちょっと訂正いたしました。

Re: 倉賀野堰の五貫堀のシリーズ * by 形名
雑草Zさん。おはようございます。コメントありがとうございます。

こういった記事の写真取材はあらかじめ済ましてあるので、だいたい記事の量は
踏まえていますが、回数はいい加減です。
次第に増えていくのが普通で、本稿も5つくらいから始まって今は9個の予定です。笑


灌漑用水などに興味を持っている人ってけっこういますね。ブログでも見かけます。
私もウオーキングなどで歩くうちに興味を持ちました。でも、地元範囲で、他県まで
出かけるほどのパワーは無いです。
水路に魚やザリガニがいると楽しいですが、高崎の堰で魚を見かけたことがないです。
河川からの取水ですから、いてもいい気がしますがね。どうしてだろう?

「ブログ紹介」記事にコメント欄がないので、こちらにコメント致します。 * by ☘雑草Z☘
 ここのブログはテンプレートをしっかりカスタマイズされたようで、システマティックな構成になっていますね。
記事の1つ1つもかなり丁寧に時間を掛けて作られているようです。
ブログ紹介ページに
>本当はホームページを運営したいのですが、
と書かれていますが、形名さんならば、ホームページ運営もこなせそうです。

Re: 「ブログ紹介」記事にコメント欄がないので、こちらにコメント致します。 * by 形名
雑草zさん、コメントありがとうございます。

「ブログ紹介」にはゲストブックへのリンクが貼ってあるのですが、分かりにくかったですね。
私の使ってるテンプレートは以下のものを使ってるのですが、目次機能が優れていて私の
ホームページ的運用には適しています。
「*Essence」
オリジナルのテンプレートの見かけの部分はカスタマイズしてますが、基本機能はそのままです。
テンプレートを提供している人はwebデザイナーの人が殆どですが、これも同様です。
初めは別のテンプレートに自分で目次機能をコーディングしていましたが、性能が出ないので
使用を断念しました。

もとは、水路そのものよりもそこの生態系に興味を持っておりました。 * by ☘雑草Z☘
 水路を覗いて魚が泳いでいるとほっとしたものです。

 以前の街中の職場の塀の外側を流れている、またげるくらい狭い堰に、熱帯魚のような青に赤い縞の魚が泳いでいた時は興奮しました。それが繁殖期のオイカワでした。その堰は小さく浅いのですが、小魚(アブラハヤなど)が沢山泳いでおります。台風の後などは大きい鯉も流れてきましたが、深さが足りずに横になってたのをすくったこともあります。鴨も泳ぎに来ます。多くの通行人は、そこの生態系が豊かな事に気付かずに通り過ぎていきます。

 経験上、河川からの取水でも三面張りで水流が強く、小石や泥や水草が生えていない堰には魚は見られません。流れてきても定着しないのでしょう。

 ところで、ここの記事の最初の私のコメント、「石畳」を「石垣」に書き換えたので、また「承認待ち」になっておりますので、承認宜しくです。

Re: もとは、水路そのものよりもそこの生態系に興味を持っておりました。 * by 形名
雑草さん、こんばんは。

丁寧に修正してくれたんですね。ありがとうございます。

私のブログカテゴリに「メダカ」がありますが。私は魚が大好きです。
あいにく庭が狭いので、小型のメダカで我慢してますが。
水路を歩くときは、止水の場合はメダカがいないか何時も探しているのですが
見掛けないですね。といっても最近の話で、大昔はフナ、コイ、タナゴ、
ザリガニ、サワガニが堰にはたくさんいましたよ。

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2024-03-04 (Mon)

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(4/9)「現在の五貫堀 粕沢水門~新堤古堤」

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(4/9)「現在の五貫堀 粕沢水門~新堤古堤」

前稿からの続き本稿で記載する範囲は五貫堀の幹線部分の後半部分、粕沢水門から末端までの範囲です。↑長野堰の概略図(クリック拡大)以下の画像を左クリックするとGoogleMapの水路ルート画面が別タグで開きます。↑クリック水路図表示↑GoogleMapのルート図には河川や水路のルート表示モードはないため、水路ルートは歩行ルートで代替しています。水路が道路沿いにない場合、ルート図は水路から外れていますが、付近にはあります。以...

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前稿からの続き

本稿で記載する範囲は五貫堀の幹線部分の後半部分、粕沢水門から末端までの範囲です。

倉賀野堰流路図
↑長野堰の概略図(クリック拡大)

以下の画像を左クリックするとGoogleMapの水路ルート画面が別タグで開きます。


↑クリック水路図表示

GoogleMapのルート図には河川や水路のルート表示モードはないため、水路ルートは歩行ルートで代替しています。水路が道路沿いにない場合、ルート図は水路から外れていますが、付近にはあります。
以下画像は赤外フィルターを除去した改造カメラで撮影しています。一般撮影用のホワイトバランス調整を行っているが、調整しきれておらず、色調が正常ではありません。

五貫堀1

↑前半部記事で掲載した五貫堀は通水を止めていたが、この日は水路に水が流れています。

五貫堀3

↑下之城町のJR社宅跡と旧中山道の間を流れる五貫堀です。この部分は古い水路で非常に狭い。江戸時代の中山道は現在地よりも10mほど北にあったらしいので、五貫堀は杉並木の道沿いを流れていたものと思います。

五貫堀4

↑旧中山道の横を並行して流れる五貫堀。右側は道路です。下流方向を撮っています。水量が少ないため流れが見えません。この部分は比較的最近に改修されています。

五貫堀6

↑旧中山道から離れて、倉賀野町正六と下之城町の境を流れる流路です。水門は五貫堀正六水門と呼ばれている。水門ゲートは下之城町側に付いているが、閉じられていて通水されていない。この付近の水田は遠に消えています。

五貫堀7

五貫堀正六水門の下流100ⅿにある水門も正六水門です。この水門は重要で、水門の南東にある巨大な前方後円墳(倉賀野浅間山古墳)の周囲水田を灌漑している。画像左方向に分流しています。水が使われない季節は南部を流れる粕沢川に排水されます。

ウォーキングコースの史跡高崎市倉賀野町中山道16
倉賀野浅間山古墳の周囲に残る水田(クリック拡大)

五貫堀8

↑下之城町と倉賀野町の境界を流れる五貫堀。下流方向を撮っています。この付近は水路が広がり、幅は4ⅿほどあります。流路の先は倉賀野町です。

五貫堀9

↑倉賀野町にある無名水門です。正面の側溝に分水する施設ですが、冬場の時期は使われていません。夏になると水位が上がる事があるので通水は可能なようです。

五貫堀10

↑同じく倉賀野町の流路下流方向を撮っています。この付近は幅5m近くあります。相当な量の貯水が可能です。

五貫堀27

↑倉賀野町の幹線道路下を潜る直前の五貫堀上流方向を撮っている。倉賀野駅から1Kmほど西の位置です。左側の高い位置にある細い水路は分流水路ですが、先は完全な暗渠で追跡できませんでした。道路の側溝暗渠は複雑に接続するのと、流水があるか確認できないので追うのは難しい。

五貫堀の分岐
↑五貫堀分流図(2段クリック拡大)

五貫堀は倉賀野駅に近づくと水路は分流するので、地図を添付します。永泉寺裏水門(仮称)と上田堰水門で3つの流路に分けている。文字色は図面の線色と一致しています。
①新堤流路・・・・・・・倉賀野駅北東の新堤に給水するルート
②古堤流路・・・・・・・倉賀野駅南東の古堤に給水するルート
③五貫堀本線流路・・・  倉賀野町中心部を暗渠で烏川まで流れるルート

五貫堀11
↑水路分割する永泉寺裏水門

五貫堀12
↑水路分割する倉賀野駅横の上田堰水門


①新堤流路
倉賀野駅北東の新堤に給水するルートです。現在は通水されていないようです。新堤自体が灌漑には使われていないためでしょう。

五貫堀31

↑高崎線の線路下に潜る此の流路入口は、当初、下之城堰の排水を五貫堀に流す排水口と考えていた。しかし、それでは水門がある意味が無くなってしまいます。流路を追ったところ、新堤に向かう水路のようです。

五貫堀18

永泉寺裏水門の線路反対側にある水路です。場所は矢中踏切の北詰です。どうやら下之城堰水路ともつながっていますが、撮影位置背後にある新堤へ接続しているようです。水門ゲートは元キリンビール倉賀野工場の東側にあった水田に給水するための水門と思われます。現在は全て宅地に変わっています。

五貫堀15

新堤の導水口です。倉賀野駅北口の道路側溝として流れ、新堤南西隅に注ぐように造られている。

倉賀野堰16
↑新堤の画像手前左隅に導水口がある


②古堤流路
倉賀野駅南東の古堤に給水するルートです。このルートはやや距離があるので、前述の五貫堀分流図を参照してください。

五貫堀30

↑古堤への分流口探索には苦労しましたが、どうやら画像の上田堰水門東奥にある水路が入口のようです。水路面は高いので、水門でかなり水位を上げないと通水はできないようです。水路の様子から近年通水があったとは思えません。

五貫堀20

↑線路脇のすぐ下に古堤への水路はある。上流側の上田堰水門の方向を撮っています。水路は完全に乾燥状態です。

五貫堀21

↑暗渠に入った水路をたどると、倉賀野駅舎の南側に露出状態の水路があります。ここも近年通水した形跡はない。

五貫堀22

↑高崎線の南側に続く古堤への水路です。上流方向を撮っています。遠くに見えるのが倉賀野駅の駅舎です。

五貫堀24

↑高崎線の中里街道踏切の南詰めで水路は南に向くが、すぐに暗渠となって東進します。水路には泥が堆積して長く機能していない事を示している。

五貫堀25

古堤そばの道路側溝が水路です。ずっと暗渠の状態です。

五貫堀26

↑道路突き当りにある金網フェンスが古堤を囲う柵です。出口で確認したが、通水した形跡はない。おそらく通水を止めて以来、水路を流れるのは大雨で雨水が流れ込む時だけでしょう。

倉賀野堰20

古堤の導水口は溜池奥の右側隅にあります。堤からの出水ルートも追ってみましたが、すでに農地はない。宅地の中を流れる暗渠は分岐の連続で、通水のない状態では追跡は難しい。

③五貫堀本線流路
倉賀野町中心部を暗渠で烏川まで流れるルートです。

五貫堀14

上田堰水門の下流側です。上田という名称が何に由来するのか不明です。倉賀野町に上田地区は無いと思う。標識の背景にあるのは分かりにくいが古い設置記念石碑です。苔むした石が古さを物語る。

五貫堀19

上田堰水門の下流直下です。五貫堀本線はここから烏川に排水されるまで暗渠となり、露出する事はありません。暗渠の長さは2Km以上あるかも知れない。少なくとも灌漑には使われていないが、一切露出していないので、生活排水が流れ込むのか否かも確認できません。従って灌漑用水としての五貫堀は、ここが実質終点であり、排水口とも言えます。

五貫堀28

↑旧中山道の下を潜る五貫堀本線流路です。上の橋は太鼓橋として別稿で紹介しています。暗渠の上は生活道路になっているが歩いている人を見たことが無い。商店街のある道路ではないので当然です。

五貫堀29

太鼓橋下流域の水路です。烏川への排水口は近い。
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