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日向国風土記「天孫降臨」は改竄されたものか?

天孫降臨神話の記事を以前書いたことがありますが、その時、記紀と一緒に日向国風土記逸文にも目を通しました。過去記事の中では触れる余裕がなかったが、気になる点があります


(1)記載の類似性

①日向国風土記逸文知鋪郷
釈日本紀卷八(萬葉集註)の日向国風土記逸文には「知鋪郷(高千穂)」の名称由来の逸話がある。以下のように記されている。

【原文】
日向國風土記曰△臼杵郡内△知鋪郷△天津彦々火瓊々杵尊△離天磐座△排天八重雲△稜威之道々別々而△天降於日向之高千穗二上峯△時△天暗冥△晝夜不別△人物失道△物色難別△於兹△有土蜘蛛△名曰大鉗小鉗二人奏言△皇孫尊△以尊御手△拔稻千穗爲籾△投散四方△必得開晴△于時△如大鉗等所奏△搓千穗稻△爲籾投散△即天開晴△日月照光△因曰高千穗二上峯△後人改號知鋪

【訳文】
日向の国の風土記に曰はく、臼杵の郡の知鋪の郷(の話)。
天照大神の孫、瓊々杵尊(ニニギノミコト)が天の磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、勢いよく道を開いて進み、日向の高千穂の二上の峰にお降りになった。時に、空は暗くて昼夜の区別がなく、人であろうが何であろうが、道を失って物の区別がつかなかった。その時、大鉗(おおくわ)・小鉗(こくわ)という二人の土蜘蛛がいた。彼等が言うには「瓊々杵尊が、その尊い御手で稲の千穂を抜いて籾(もみ)とし、四方に投げ散らせば、きっと明るくなるでしょう」と。そこでその通りに多くの稲の穂を揉んで籾とし、投げ散らした。すると、空が晴れ、日も月も照り輝いた。だから高千穂の二上の峰という。後世の人が改めて智鋪と言うようになりました。


②日本書紀神代編下「天孫降臨」
以下は日本書紀神代編下の天孫降臨シーンからの抜粋記述です。
【原文】
高皇産霊尊△以眞床追衾△覆於皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊使降之△皇孫乃離天磐座△且排分天八重雲△稜威之道別道別而△天降於日向襲之高千穗峯矣

【訳文】
高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)は眞床追衾(マトコオウフスマ)に瓊々杵尊(ニニギノミコト)を包んで降ろされた。皇孫は天の磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、勢いよく道を開いて進み、日向の襲の高千穂の峰にお降りになった。


③古事記 上つ巻天降り
【原文】
故爾詔天津日子番能邇邇藝命而△離天之石位△押分天之八重多那此雲而△伊都能知和岐知和岐弖△於天浮橋△宇岐士摩理△蘇理多多斯弖△天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。

【訳文】
しかるがゆえに、邇邇芸命(ニニギノミコト)は、天之石位(あめのいわくら)を離れ、天の八重になびく雲を押し分けて、いくつもの道をかき分けて、かき分けて、天の浮橋にうきじまり、そり立たせて、竺紫(つくし)の日向の高千穂の、くじふる嶺に天降りしました。



注目するのは、茶色文字で記載した部分です。この部分に限って見れば、日本書紀日向国風土記記述は80%が一致する。書紀は「眞床追衾に包んで」の記述が付加するだけで、他に一致しない箇所はない。また、古事記の記述は物語的でやや長いが、内容的に矛盾するところはない。三編の記述はよく似ていると思います。特に、日本書紀日向国風土記、理由はともかく、どちらかのコピーに間違いないでしょう。


日向風土記は改変されたのか?2
高千穂峰は宮崎県高千穂町と鹿児島県霧島市に候補地があるが
古代には同じ日向国に属する



(2)評価

①記載類似の原因
日本書紀が風土記の内容を真似たとは思えません。日本書紀の記載は、712年には完成している古事記の内容とも似ているからです。風土記の編纂は713年に詔が発せられてから着手していますから、書紀の記述のほうが先行して書かれていた可能性が高い。
ただ、執筆中にどちらかが参照したということではないと思います。風土記と日本書紀とは各々独自に執筆されていた。しかし、日本書紀の天孫降臨神話が最終的に完成した時、関連する風土記との整合性チェックがあったのだと思います。風土記は地方の伝承・逸話を纏めたものですが、特定の地域に関しては日本書紀と話がかぶります。おそらく、正史の記述と矛盾しないよう、風土記の改竄(かいざん)が行われたのではないかと考えています。特に、国譲りに関係する出雲国風土記や、天孫降臨の地である日向国風土記などは可能性が高い気がします。

【補足】
漢文の用字用法には個人の漢文能力や誤用などの癖が必ず現れます。もし、当初の執筆者と改竄者が異なり、改竄部分が局所的でなければ分析が可能です。漢籍・古文献の研究者に是非実施して欲しいと思います。


日向風土記は改変されたのか?1
古代文献の執筆推定年代(クリック拡大


上表は、歴史学者 森博達氏の日本書紀区分論より抽出した執筆分析と、古事記風土記(逸文を含む)の推定執筆期を纏めたものです。日本書紀の執筆期間は非常に長く、神代編は一番最後に書かれた事は氏の研究で証明されている。前述したが、風土記の方は713年頃から編纂開始されていても、完成時期は国によって差があるようです。古事記に関しては序文の内容を信用した成立年代です。


②日向国風土記逸文「智鋪」の原形推定
風土記というのは、古来より、その土地に伝わる伝承を纏めた書です。歴史研究者の中には、「日本書紀に先行する日向国風土記には書紀が完成する以前に天孫降臨神話が存在していた。風土記が天孫降臨の原形である」と主張する人もいます。しかし、私個人的には此の説は考えにくい。理由を以下に記載します。

(a)天孫が降臨するが活躍の実態がない
風土記の中で出てくる古代日本の皇孫といえば、景行天皇ヤマトタケル、または神功皇后と相場が決まっている。しかし、日向国風土記にはニニギノミコトが出てくる。この事だけでも奇異に感じます。なぜなら、他国の風土記にも記紀の日向三代に関する人物は登場しない。要するに、日向国風土記にのみニニギノミコトの天孫降臨が唐突に現れるのです。これは、本来の風土記にはニニギノミコトの話など無かった可能性が高い。天孫降臨の話が元からあったのなら、その後の天孫系譜の活躍話が無いのは不自然です。昼夜を分けるためだけに天孫降臨したとは思えません。
※日向国風土記は完本ではない。本来は他にもあった天孫記述が逸文として残らなかった可能性はあるかも知れませんが、他の残存風土記に天孫降臨がないのは事実です。

(b)敵対氏族の土蜘蛛が天孫に従順である
土蜘蛛は、天孫や天皇へ恭順しない土着豪族などの蔑称です。土蜘蛛は風土記定番の登場人物ですが、殆どが天孫、天皇に対して敵対的に行動します。風土記全体では、40人くらいの土蜘蛛の名前が上がりますが、天孫に従順なのは、日向風土記に現れる土蜘蛛、大鉗小鉗と、肥前国風土記の中に出てくる女土蜘蛛、大山田女狭山田女だけです。両書の土蜘蛛が天孫に対して協力的なのは、風土記の中の例外ではなく、改竄によって主人公が入れ替わっているために協力者にされたと見たほうが考えやすい。何故なら、土蜘蛛自体が「皇孫に敵対する者」の象徴であり、時や地域によって協力者であったり、敵対者であったりする事は概念的に矛盾するのです。改竄した時に、本来は協力者として別な人格を起こすべきであったが、面倒な作業なので流用されたと見ます。

(c)天孫降臨時に地上は暗黒
仮に本来の日向国風土記に天孫降臨があったとすれば、神話世界の共通認識として降臨以前に天岩戸に隠れた天神アマテラスの再生があったと思われる。アマテラスが天岩戸にこもったとき高天原も地上も暗黒になった。神々は協力してアマテラスを引き出します。そのとき復活したアマテラスは日神として再生しており、地上は再び明るさを取り戻している。アマテラス子孫であるニニギが降臨する地が昼夜の別れていない暗黒の地というのは矛盾している。この風土記の本来の話は、天神とは無関係の話であったとみれば、主人公のみ入れ替えた結果、矛盾があるとも考えられる。


以上の観点から、日向国風土記ニニギノミコトの天孫降臨は、本来は天孫ではなく、出雲国のオオクニヌシのような国津神が主人公であったと思います。つまりすり替えられたのです。国津神は高天原とは無関係で、日向国を創生した国土神です。土蜘蛛が従順であるのは、国津神が土蜘蛛の祖神・守護神であったからだと思います。他の多くの土蜘蛛と同様に、大鉗小鉗天孫に従順であった訳ではない。また、籾を撒くことで昼夜を分けたのは国津神の功績であったのでしょう。現日向国風土記では土蜘蛛がニニギに籾を撒くことを教えるが、本来は国津神が稲作農耕を土蜘蛛等に教え、文化を開いたことを象徴しているように思います。

そもそも、地方に根ざす風土記神話には天神という認識があったのか疑問です。7世紀以前では、全て自然の中に宿る八百万神であったのではないか。天神の概念がなければ天孫降臨もあり得ない。天神は記紀神話で発明された(または大陸から伝わった)神の新しい概念でしょう。天神が国津神を統括することで、天孫子孫である天皇が人民を統治する正当性を示すために創作されたものと思います。そう考えると、中央政治とは無縁の地方逸話に天孫ニニギノミコトが現れる事自体が不審なのです。風土記の中では景行天皇ヤマトタケルが活躍する事実はあります。また、歴代の天皇の名も現れるが、記紀神話が確立していく過渡期の古いタイプの天皇だと思います。また、730年代に完成した風土記の場合は、日本書紀や古事記の新しい概念が、地方伝承に影響を与えた可能性もあるでしょう。風土記の編纂は朝廷官人である国司の役目ですから、あるがままの地方伝承に忠実であったとは言い切れない面もあります。





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関連記事

曹操の鏡と大分県日田出土の鉄鏡

2019年9月8日のオンラインニュースで次のような記事が掲載されていました。

**引用開始*******************************************

曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」中国の研究者発表
 9/8(日) 8:00配信朝日新聞デジタル

曹操墓出土の鏡1
曹操高陵出土の鉄鏡(全面さびに覆われている)


中国の三国志時代の英雄で、の礎を築いた曹操(155~220年)。その墓から出土した鏡が、大分県日田市の古墳から戦前に出土したとされる重要文化財の鏡と「酷似」していることがわかった。


曹操墓出土の鏡2日田金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
日田市ダンワラ古墳から出土したと伝承される「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」


中国の河南省安陽市にある曹操の墓「曹操高陵」を発掘した河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が、東京国立博物館で開催中の三国志展(16日まで)に関連した学術交流団座談会で明らかにした。
2008年から行われた発掘で見つかったが鉄製でさびがひどく、文様などはよくわかっていなかった。同研究院でX線を使って調査したところ、表面に金で文様が象嵌(ぞうがん)され、貴石などもちりばめられていることがわかった。研究員は「日本の日田市で見つかったという鏡『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)』とほぼ同型式である可能性が高い」と話す。
金銀錯嵌珠龍文鏡は、1933年(昭和8年)に鉄道の線路工事の際に見つかったといわれ、考古学者の梅原末治によって1963年に報告された。翌64年に重文に指定されている。邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとみて、「邪馬台国九州説」を補強する材料の一つと考える研究者もいた。(編集委員・宮代栄一)

***************************************引用終了******


2008年、中国で曹操の墓が発見された時は話題になりました。決め手になったのは出土した墓誌です。曹操墓はたび重なる盗掘を受けており、遺体の骨も散乱していたが、確認された3体の人骨分析が行われ、2018年に結果が発表されている
■60歳前後の男性...曹操本人と推定(155-220)
■50歳前後の女性...曹操の次男or三男曹丕の母(へん)夫人(160-230) と推定
■約20歳の女性......曹操の長男曹昂を出産後亡くなった劉夫人(生没不明)と推定

※女性の殉死説を述べる人がいるが、曹操自身が殉死を禁止している。卞夫人曹操より長生きしており、劉夫人曹操よりずっと早く死亡しているから殉死はあり得ない。曹操高陵で間違いなければ、追葬または曹操死亡時に合葬したとみるべきです。曹操の一番目の夫人は劉夫人、劉夫人死後は(てい)夫人が正妻になるが、義息曹昂の戦死事件が原因で離縁し、その後は側室の卞夫人が正妻となる。夫人が埋葬されていないのは生前に離縁したためと考えられる。


曹操墓出土の鏡7
曹操高陵の玄室(中国考古発掘情報サイトより)


曹操墓出土の鏡3
曹操を指す魏武王銘の石版(中国考古発掘情報サイトより)


曹操は自らの墓を秘匿し、薄葬とすることを遺言している。従って、このような墓誌が埋納されること自体が不審であり、偽墓と考える研究者もいるそうです。中国には系譜が比較的明らかな曹氏が多いので、遺骨との父系遺伝子調査(Y染色体DNA分析)も行われた筈だが結果については不明です。


曹操墓出土の鏡4
曹操の頭骨(中国考古発掘情報サイトより)


2010年に愛媛大学で行われた国際シンポジウム『三国志・魏の世界 - 曹操高陵の発見とその意義 -』 では、新聞記事にもある発掘リーダーの潘偉斌(パン・ウェイビン)がパネリストとして参加しています。報告によると、中国古代の帝王の墓には「瓦鼎十二」と呼ばれる耳と足の付いた陶器12種類を副葬する習慣があるそうです。また鉄鏡も帝王特有の副葬品とのこと。曹操の墓はこれら全てが出土しています。副葬品を見る限り矛盾は無いようです。なお、写真の出土鉄鏡はサビだらけで目視判別はできませんが、非破壊のX線回折法で鉄鏡表面の金アマルガムや金箔等の材質判定ができます。またX線透視イメージングを使えば装飾形象も確認できる。


曹操墓出土の鏡5
曹操高陵の発掘リーダー潘偉斌(パン・ウェイビン )


さて問題は、曹操の鏡と酷似と表現された、大分県日田市の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎん・さくがん・しゅりゅうもん・てっきょう)」です。帝王の鏡とも言える鉄鏡がどうして日田市から出土したのか? 発見されたきっかけは学術発掘ではなく、出土した場所は小規模な古墳(石棺)であったそうです。鉄鏡は後漢時代の鋳造とされており、中国でもありふれた物でないことは確かです。金銀象嵌やトルコ石などを使った細工は財宝にもふさわしい。


曹操墓出土の鏡6
日田市ダンワラ古墳出土の鉄鏡復元レプリカ


魏志倭人伝には、卑弥呼が貰った鏡は銅鏡と記載されています。百枚の中に鉄鏡は混じっていないと思います。どうして倭国の小規模な古墳に副葬されたのか、とんと見当がつきません。日田市は水害でも有名になったが、かなり内陸の狭い盆地にあります。中国との交易に直接関与した氏族とは思えない。また、此処には邪馬台国日田説もあったような気がします。大分県に入るが、筑後川水系にあって地勢的には久留米平野の奥座敷になる。また水系の接続は無いが筑紫野市を経て福岡平野にも出やすい特異な地形にあります。邪馬台国日田説は有力とは言いにくい面もあるが、何らかの有力な国があったと見るべきなのか?


曹操墓出土の鏡8
九州の弥生遺跡(左)と前期古墳分布(右)
クリック拡大

曹操墓出土の鏡9
九州の前期古墳一覧(二段クリック拡大

上図表は、九州全域の弥生遺跡と、その後の前期古墳を洗い出したものです。遺跡状況で見ると、弥生時代と古墳時代前期の間はスムースに継承していない地域もあります。問題の日田市には、弥生時代~古墳時代前期の遺跡は小迫辻原遺跡(3~4世紀)があるが、鏡が出土したダンワラ古墳とは5Kmほど離れている。またこの地域には前期古墳はない。日田市付近の氏族が勢力を持ったのは古墳時代も中期以降と考えられる。鉄鏡の鋳造時代を後漢(25-220年)と考えると、倭国に入った時期はから西普時代でしょう。西普以降の中国は内乱の時代で、倭国からの朝貢は266年を最後に途絶えた可能性があるからです。弥生末期遺跡の分布状況から見て、当初入手したクニは北九州福岡市付近にあったと見る方が考えやすい。その後、九州倭国内の争乱等によって鉄鏡が日田に流出したという仮説も有り得るのではないか。





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上毛野氏とは何者か?(4/8) -諸資料から見える氏族の痕跡-

(1)上毛野氏の人物痕跡
古代の群馬県に上毛野氏が居住していたのは確かだが、その痕跡は希薄と言わざるを得ない。文献や金石文等で散見される上毛野氏の記録を以下の表に纏めてみた。ピックアップしたのは上毛野に居住しているか、上毛野から畿内に出仕してるのが確実なケースだけです。なお、金石文の人物出自は可能性はあるものの、100%確実なものではありません。


上毛野氏とは何者か5
上毛野氏の地方人物一覧(クリック拡大


人物属性では、全部で12名が確認できますが、確実な本流上毛野氏はたったの4名です。しかも4名のうち1人は上毛野君小熊ですから、実在性はあると考えていますが、100%とは言いきれない。そもそも6世紀代の小熊が「上毛野氏」と呼ばれていた可能性はないと思う。ウジ呼称が定着したのは氏族形成が進んだ7世紀中葉以降ではないだろうか。その他の人物は、物部系、渡来系氏族から擬制同族化した人たちです。
本流で人物像が分かるのは以下の2名だけです。

①勢多郡少領  外従五位下 上毛野朝臣足人
②多古郡八田郷 官位不明 上毛野朝臣甥

上毛野朝臣足人少領とは郡司の副官です。おそらく郡司も親族であったのでしょう。外従五位下は地方官としてはトップクラスの官位ですが、外位は地方官人の官位ですから、禄は宮中内位より少ないはずです。でも記録は国分寺創建時の寄進に対する報償ですから、貴重な瓦などを寄付できる余裕があったことは確かです。
また、この記録のおかげで本来の上毛野氏が勢多郡域に居住していたことが分かります。足人は8世紀中葉の人物ですが、この地域に代々住んでいたとすれば、6世紀代の大室古墳群上毛野氏の初期奥津城の可能性がある。群馬県西部は榛名山浅間山の噴火による自然災害が多かった。暴れ川である利根川とも離れた中毛地域の赤城山麓を選んだのかも知れない。墓域の特定は彼らの移住時代を考える上で非常に重要です。大室古墳群であれば、移住期は6世紀初頭の可能性が高まります。全て横穴式古墳ですが、石室は畿内型を採用しています。


上毛野氏とは何者か6
大室古墳群初代 前二子古墳石室(6世紀初頭築造)


本来の上毛野氏が赤城山の麓にあたる勢多郡を本貫地としていたのは、三輪氏が三輪山の大神信仰を持っていたように、赤城山を信仰の対象にしていたせいでしょう。平安時代の神道集をみると赤城山信仰が盛んであったことが伺えます。現代は、三夜沢赤城神社が有名ですが、本来は前橋市の二宮赤城神社が本社という説が有力です。二宮町は勢多郡域の南端にあたります。
朝倉君は、書紀大化2年3月条の国司不正事件の際に殊勝であると褒められている。実在は確かです。ただ、上毛野君本流氏族なのか文献からは確認できません。しかし、那波郡朝倉郷(現在の前橋市文京町)には、天川二子山古墳104mがあり、築造は6世紀中葉です。地域、古墳サイズ、時代から判断して上毛野氏以外は考えにくい。大室古墳群よりも大型であり、権力があったと推定できます。

上毛野氏とは何者か25
前橋市文京町の天川二子山古墳(wikiより)


なお定説として、前橋市の総社古墳群も上毛野氏の8世紀の墓域説がありますが、榛名山麓から西に移動した物部氏の可能性もあります。総社古墳郡の石室をみれば氏族の繁栄状況は確実ですが、8世紀は本来の上毛野氏よりも物部系氏族のほうが優勢となっている。これは物部氏が上毛野氏と拮抗していた訳ではなく、上毛野氏の主流が畿内に戻って行き、物部氏(石上部氏)を中心とする擬制氏族が空白を埋めたと見たほうが正確です。ただ地方に残った上毛野氏自体は、奥津城は勢多郡域でも住居は国府付近にあったと思います。

上毛野朝臣甥は正倉院宝物の調布墨書銘に現れる人物です。多古郡八田郷とは、多胡郡矢田郷のことです。は朝臣を賜姓されています。畿内居住なら渡来田辺史系も考えられるが、上毛野国にいるので、本来の上毛野氏であるが、傍系人物の可能性が高いと思います。足人と同様に官位を持っていたと思うが、調布墨書銘なので省略されたのでしょう。調布調(みつき)ですから、多胡郡で税を管理していた官人であるかも知れません。居住地は多胡郡矢田郷になっていますが、本来の家ではなく、郡領として多胡郡正庁で勤務するための仮住まいとも考えられる。

石上部氏が4名見えるが、名前からも推察できる物部氏です。上毛野氏とは同族関係を持った擬制氏族です。大宝元年(701年)には登与という人物が上毛野坂本君登与の名を賜る。他の2名、上毛野坂本朝臣男嶋上毛野坂本朝臣黒益は767年に朝臣を賜っている。おそらく登与の子孫でしょう。男嶋の出身は碓氷郡坂本郷(横川)ですが、宮廷にずっと出仕している。賜姓も含めて官位上昇の記録が5回もあります。官位評定は4年に一回ですから、少なくとも20年以上は畿内で暮らしている訳です。
石上部君諸弟は国分寺へのに知識物献上で749年に、前述した上毛野朝臣足人と共に褒賞記録がある。同じ石上部氏であるが、上毛野君、上毛野坂本朝臣などの名を賜っていないので、坂本郷ではなく磯部郷の物部氏かも知れません。本流の上毛野氏との婚姻関係の有無等で同じ石上部氏でも賜姓の有無があるようです。

官位が一番高いのは称徳天皇の采女(うねめ)として仕え、従五位上まで出世した檜前部老刀自(ひのくまべおいとじ)という人物です。采女は郡司の姉妹、娘の中から美人を選んで採用した官人です。称徳天皇に重用された采女として有名です。この人物も晩年は佐位郡(伊勢崎市)に戻っていると考えるが、父か兄弟が郡司であったのは確実です。檜前部君は渡来系と見られているが、後に上毛野佐位朝臣の名を賜る。


赤堀茶臼山古墳9
檜前部老刀自の親族墓の可能性が高い多田山12号墳
(老刀自が追葬されている可能性あり)


赤堀茶臼山古墳8
多田山12号墳出土の唐三彩陶枕
(称徳天皇から下賜された可能性がある)

山上碑金井沢碑に出てくる氏族については過去記事で詳しく述べてるので割愛します。
なお、人物一覧に国司は含めていません。国司は二年の任期がある朝廷の官人ですから、地方在住者とは違います。上毛野氏の中で同国に赴任した国司は上毛野朝臣馬長ただ一人です。本来の上毛野氏と見るが畿内居住は確実です。上毛野国司を六国史から抽出してみると色々な氏族の名が現れます。


上毛野氏の在地居住者の記録が少ないのは、以下のような理由によるものと推定します。
①上毛野氏を統率した主要な人物は、地方経営が軌道に乗ると、畿内に戻り、朝廷に出仕することが多かった。
上毛野氏宗家嫡流は、東北への出兵で赴任して来る時以外は、上毛野に長期常駐することはなかった。
③地方に残った上毛野氏は、宮廷出仕者よりも賜姓機会や昇進回数も少なく、記録される頻度が低い。
④上毛野氏でも、のちに同族化した氏族の中には、朝廷移民政策によって東北地方に移住させられた。

一番の大きな要因は①であると思います。経営統治が安定した結果、活躍の場を畿内の宮廷に求めたと見ます。地方にいては出世するチャンスが乏しかったのではないか。④の東北移住は吉弥侯部氏(きみこべし)など上毛野氏の部民が六国史に記録されている。彼らの移住は自らの意志ではなく、氏上や朝廷の指示があったと考えられます。
このように上毛野国出身者の人物痕跡が薄いのは、この地域が朝廷から与えられた部民が多くを占めたことを物語っている。本来の上毛野氏は一握りであったと思います。


(2)上毛野国の郷名から類推する居住氏族
人物属性以外では、郷名と神名から氏族の存在を推定できるものもあります。しかし、これらの証拠を見る前に、上毛野氏を構成する氏族の候補を知っておく必要がある。六国史には該当する氏族名の記録がありますが、その名称は居住地域名から発生したことが推定される。そこでまず文献に現れる関係氏族を以下に記載します。

①『日本書紀』天武天皇13年(684年)11月条
八色の姓において、朝臣の姓を授けられた52氏の中に、上毛野君下毛野君車持君佐味大野君池田君の六氏の名が見えるが、六氏が上毛野氏同族であるとは書かれてはいない。

②『続日本紀』桓武天皇延暦10年(791年)4月条
池原公綱主らの言の中に、池原氏上毛野氏のニ氏の出自は豊城入彦命であること、豊城入彦命の子孫には「東国六腹朝臣」がいて東国の居地によって氏姓を得たことが記載されている。しかし六腹がどの氏族を指すのか明記されていない。

③新撰姓氏録 弘仁6年(815年)
以下記述があり、上毛野氏始祖系譜と併せて判断すれば、六氏は同族と見られる。
右京 上毛野朝臣  崇神天皇皇子の豊城入彦命の後
左京 下毛野朝臣  崇神天皇皇子の豊城入彦命の後
右京 大野朝臣   豊城入彦命四世孫の大荒田別命の後
左京 池田朝臣   上毛野朝臣同祖。豊城入彦命十世孫の佐太公の後
右京 佐味朝臣   上毛野朝臣同祖。豊城入彦命の後
左京 車持公    上毛野朝臣同祖。豊城入彦命八世孫の射狭君の後

④『日本三代実録』元慶元年(877年)12月25日条
上毛野、大野、池田、佐味、車持の各朝臣は崇神天皇の後裔であり、同祖だと記載される。


この他にも同族と判断できる氏族名はあるが省略します。纏めると、始祖関係が明記されてる新撰姓氏録の六氏が中心であるのは、他記述と併せて間違いないようです。なお、上毛野氏を構成する氏族のうち畿内にしか居住していないと判断できる氏族(池原公田辺史等)は除外してあります。

一方、和名類聚抄、上毛野国神名帳から抽出される郷名(郡名)や神名から抽出したのが以下の表です。

上毛野氏とは何者か7
上毛野氏と関連が推定できる郷名と神名クリック拡大


前述した上毛野氏の構成氏族名と和名類聚抄の郷名・郡名から判断すると、朝倉君池田君佐味君有馬君大野君の5氏族が居住候補には上げられる。しかし、池田郷大野郷は全国に数多く存在する。池田郷は群馬での数の多さから可能性はあるが決定打とは言えない。特に桐生の大野郷大野君との関連を考えるのは無理がある。有馬君は畿内居住です。群馬居住が明確なのは、朝倉君佐味君佐位朝臣檜前部君の3氏族だけでしょう。
神名や神社では、車持君有馬君との関連が指摘されているが、両者とも在地の人物記録もないし、神格の低い神社があるのみで痕跡としては希薄です。前述してるが有馬君(公)は畿内の氏族であり上毛野との接点は無いと思います。

一般に上毛野を車持氏の出身地のごとく記載してる情報ソースが多いが、本拠地は摂津です。車持氏は車持部の伴造氏族として西国、東国に広く展開している。上毛野氏と始祖伝承を共有しており、居住を否定はすることはできないが、車持部の管掌者がいたレベルでしょう。貴族階級の車持君が居たとは思えない。車持君の存在が否定的なのは、群馬郡域には該当する有力古墳がないからです。保渡田古墳群車持君の墓所とする説もありますが、5世紀代中葉~後半の古墳です。可能性はありません。また、藤原朝臣不比等の母、車持君与志古娘(よしこのいらつめ)が上毛野出身と云う説もありますが根拠がない。やはり摂津の車持氏の本拠地と思います。そもそも大王の輿を造る職掌から始まった氏族です。後に氏族中核は朝廷官吏に変容していくが、本拠地が遠隔の地方であるというのは無理がある。職掌を担う対価として車持部を上毛野に給わったと見るのが自然です。

なお、本来の上毛野氏の祭神は赤城山(赤城明神)であると思われるが、「赤城」という名称が上毛野氏の伝承の中に現れないので表の中には載せていない。赤城神社は、上毛野氏の痕跡とされているが、関東地方とその近在には赤城神社は非常に多い。残存するものだけで以下の神社があります。
・群馬県..... 118社  ・栃木県........  9社   ・新潟県........13社
・埼玉県........23社  ・茨城県........10社   ・福島県........11社

その他を合わせて計191社あり、合併又は廃社を併せると334社あるそうです。これらが全て8~10世紀まで遡るとは思えません。殆どが中世~江戸期の分社でしょう。ただ、赤城神社以外にも上毛野氏の始祖を祀っている神社に、栃木県二荒山神社、青森県猿賀神社など幾つかあります。関東以北に分散していることは確かです。
上毛野氏は8世中葉には宗家嫡流は衰退し、擬制氏族に置き換わっていきますが、同族化した氏族も信仰的には統一されていた可能性が高い。神社、祭神がみな上毛野氏の足跡とは言い切れないが、福島にある神社などは創建を調べてみる必要があります。
720年には東北地方の行政官であった上毛野朝臣広人が蝦夷に殺害されていますし、大野朝臣東人の実績もあるので東北統治に関わったのは事実です。8世紀も中葉までは軍事的な平定が盛んだったようだが、8世紀末期に入ると、行政統治の時代に入っていたように思えます。この時代には本来の上毛野氏を核にして増大した擬制氏族が関東・東北地方に入植していったと見ています。この過程で信仰の痕跡も広がりを持ったのでしょう。




次回に続く




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迷惑メールが検出されてますか?

個人が所有するパソコンが、いわゆるウイルスソフトに感染したり、フィッシング等の悪意プログラムを動作させてしまう原因になるのは、圧倒的に怪しい受信メールを開くことから始まります。最近のメーラー(Outlookなどのアプリ)は、専用のセキュリティソフトを導入していなくても、メーラー独自の迷惑メール対策機能を持っている場合もあり、一定の効果はあります。しかし、フィルタリング機能が一般的に弱いので、検出されない場合も多いようです。むやみに強化すると重要なメールが迷惑メールとして扱われて弊害が発生する場合があるからでしょう。

そのため、セキュリティソフトによる迷惑メール、ウイルスメールの検出は非常に重要です。セキュリティソフトを導入している人は、ほぼ毎日、自身のメーラーで、迷惑メールや、時にはウイルスメールを検出している人が多いのではないか。
私の場合ですと、一日に10個の迷惑メールと週1個のウイルスメールが来るのが平均的です。迷惑メールといっても、押しつけ広告メールなどではありません。いわゆるフィッシング詐欺メールですから、記載されてるURLにアクセスしてしまえば、ウイルスを送信されたり、偽サイトに誘導されてアカウント情報を盗み出そうとします。URLも本物のアドレスに偽装していますので、慣れないと引っかかる恐れがあります。

もし、セキュリティソフトを使ってるのに迷惑メールやウイルスメールが検出されていないという人は、セキュリティソフトが正常に動作していない可能性があります。もちろん、導入しているセキュリティソフトに迷惑メール対策機能がない場合や、メーラー側が外部セキュリティソフトと連携できない仕様であれば、いくらセキュリティソフトを導入していても機能しません。gmailのようなGoogle製の場合、独自にアドイン機能を追加する機能がありますが、一般のセキュリティ製品のアドインの登録は出来ないようです。

セキュリティ対応ソフトを導入してるのに検出されないのは、幾つか原因が考えられますが、一番多いのは以下でしょう。

「セキュリティソフトがメーラーに提供しているCOMアドインというチェックルーチンの動作が無効になっている」

これが原因の場合は、最初は迷惑メールを検出していたのに、いつの間にか機能しなくなっているという特徴があります。
COMアドインは実際にメールの中身を覗いて怪しい箇所がないかチェックするプログラムです。メーラーには外部のソフトウェアが提供する機能を登録できる仕掛けがあります。メーラーはメールを受信すると、登録されている外部COMアドインルーチンを自動的に呼び出します。COMアドインはメールをチェックして異常だった場合は受信したメールを無害化して、別の受信フォルダに格納するという手順を実行します。

セキュリティソフトが提供するCOMアドインの仕様にもよるが、メールのチェックには時間がかかる場合があります。メーラーは外部COMアドインを呼び出す時には、終了して戻ってくるまでの時間を計測しています。この時間が許可されてる時間よりも長い場合は、異常が発生したと認識し、該当COMアドインを無効化してしまう場合があるのです。なぜこんな仕様になっているかと云うと、COMアドインは外部の会社のソフトウェアですからバグを含む可能性があります。たぶんメーラーは自身がダウンしたように見えないよう予防してるのだと思います。
一端、COMアドインが無効化されると自動で有効化されることはありません。トラブルが発生したことはユーザーにメッセージ通知されるが、気が付かないでいるとメールチェック機能が動作しないままの状態になります。

有効状態かどうかは、メーラーによって確認の仕方が異なると思います。一般的には、受信トレイメール一覧の各メールを右クリックするとコンテキストメニューが表示されます。その中に使用してるセキュリティソフト会社の項目があるがどうかで確認できる場合が多いです。正常であれば、トレンドマイクロノートンESETなどの名前が表示されているはずです。また、アカウント情報の中に、現在無効になっているCOMアドイン名を表示していると思います。注意して参照するとよいでしょう。無効になっていれば、もう一度有効化を設定すれば正常に戻ります。

その他の原因としては、セキュリティソフト側の動作設定でメールチェック機能がOFFになっている場合などもあり得ますが、こういったソフトは必ずデフォルトで実行するように設定されています。むやみに動作環境をいじっていなければ心配ありません。


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古代中国の距離計測法と短里の存在性評価

魏志倭人伝書かれた前後の時代において、遠隔地の距離がどのように計測されたのか。また、魏志倭人伝を解読するうえで短里説は妥当なのか。本や論文で学んだ事を中心に自身の感想も交えて記載します。本稿は以前の記事「陳寿にはめられた日本人」の補足稿になります


(1)三国時代の距離計測法一寸千里法
日本の研究者、特に在野研究者は、魏志倭人伝邪馬台国への里程を使節の歩測や所要時間などで記載しているという前提で論じている人が多い気がします。それは当時の計測法という点で疑問です。江戸時代に正確な日本地図を作成した伊能忠敬は、短い距離を歩測と方位記録を繰り返す事で測量しています。しかし中国使節団が行っていたとは到底思えません。なぜなら非常に時間の掛かる作業で、伊能が何年かけて日本地図を作成したかを考えれば自明です。海上移動もありますし、他に目的を持つ使節団にそのような時間的余裕はないはずです。

当時の中国の首都から遠隔地への距離計測は、以下の中国古代学術書に記載されている一寸千里法で計測された可能性が高い。
周代の天文数学書『周髀算経(上巻) 』に記載される『一寸千里法
前漢天文数学書『淮南子(天文訓) 』に記載される『一寸千里法
両者とも蓋天説と呼ばれる宇宙概念を前提として、夏至南中時の(測量用の棒)が作る日影長を測ることで、それを緯度に代わる指標として計測しています。ただ、蓋天説は地上が球体という概念はないので、正確には現代の緯度と同じ考え方ではない。周髀算経も下巻では渾天説という、天は半球面という概念に変わっていくが、地上は平面のままで計算上は蓋天説と変わっていない

周髀算経(上巻)の記述する蓋天説の概念は、「天地は互いに8万里を隔てた平行な平面をなし、天の太陽、月、星は北極が天と交わる点を中心に円盤軌道で日周運動する 」というのもの。この記述だと太陽は常に天のどこかにあって沈まないが、太陽の光が届く距離には制限があるため夜になるという考え方です。一寸千里法の名称由来は言葉の通り、「日影長の一寸が地上の距離千里に相当する」という原理ですが、周髀算経では次のように考えているようです。


陳寿にはめられた日本人29
周髀算経の蓋天説概念図クリック拡大


上の概念図に示したように、(ひょう)と日影がつくる三角形AXY と、日下Oと太陽Sの作る三角形OXS とは相似形になる。日下とは太陽の真下で日影長がゼロになる地点です。言い換えると黄道面、北回帰線上になる。従っての観測点から日下までの距離OXは影の長さ s に比例する 。従って L=asとなります。aは比例定数で、天の高さHと表の高さhの比に等しい。つまり、a =H /h です。
天の高さは8万里とされ、の高さは 8 尺=80寸ですから、比例定数aは、
a=H/h= 80000里/80寸=1000里/寸
となる。これは概念上の例定数であり、一寸千里法の基本原理です。

【補足】
周髀算経には「周城における夏至の正午の影長が16寸であるのに対して、正北1000里の地点点では17寸となり、正南1000里では15寸となる」という記述がある。これは当時の実測値であると考えてる人もいる。でも現代では前述したように、天高8万里とする蓋天説の概念上から導き出される原理を記述したものという考え方が主流です一寸千里については、中世中国でも疑問視されていて、代になると検証のための測量実験も行われている。結果、一寸千里が成立しないことが確認されているそうです。また淮南子蓋天説では天高10万里で、表(ひょう)の長さは100寸としています。周髀算経と同じ方法で計算すれば、一寸は1000里に相当します。つまり蓋天説では、宇宙原理で日影長一寸=1000里と初めから決めており、実測の考え方は端から無い事が裏付けられる。


天地が互いに平行平面をなすという蓋天説では、天の高さは、場所、季節、時刻と無依存に8万里という一定の値だとしている。従って、一寸千里普遍的に成立するという前提に立つ。しかし、実際には地球は楕円球体であるのと、日影長が長くなる高緯度地域では誤差の要素が大きくなり、この前提は成り立たない。従って蓋天説と現実世界との違いは決定的であり、この方法で計測した距離は実際の距離とは乖離があると思われます。

測定方法を以下の図で具体的に示すと、周陽城観測地点から太陽の直下の地点(日下)までの距離は、水平な地面に垂直にたてられた高さ8尺の表の影の長さを測り、一寸千里法を適用することによって求められる。


陳寿にはめられた日本人18
測定概念図


周陽南千里間の距離 y式で表せば、
  ー L 
周陽城では日影長はb=16寸ですから、日下からの観測点の距離=16000里。周陽城南千里(回帰線寄りに)の地点はa=15寸ですから15000里となる。
  ー L 16000里 ー 15000里 = 1000里
※周陽城は実在ですが、南に千里の具体地名は明示されておらず、仮想地点です。

観測は夏至の太陽が南中したときの日影長の長さを測定します。蓋天説では天の高さは一定だが、太陽の軌道は夏至と冬至の間で変化すると考えていた。観測時期は太陽が観測点から最も高い位置にくる夏至に統一している。2点間の日影長の差は緯度の違いに相当します。現代の知識からすれば南北緯度方向の距離を求めた事になります。

この方法では子午線南北方向の距離しか計測できないが、経度の違う地点の距離を求めるためには、目的地の正確な方位を知れば計測は可能です。方位は恐らく夜間の星による観測ではないかと思います。ただ、行われていたと推定しますが、測量法として古代文献に記載があるのか確認は出来ていません。ご存じの方は教えて頂きたいと思います。


陳寿にはめられた日本人20
測定例


上の図例は高崎市から東京駅までの測定概念図です。実際には目視観測に頼るので、もっと短い区間で測量したと考えられる。子午線に沿った南北方向の距離ABと目的地Cの正確な方位が分かれば求められます。当時は三角関数の知識はなかったが、予めAC方位角度毎に、南北距離ABと東西距離BCの比を相似形の原理( △abc △ABC)から机上で求めておけば、BC、ACの長さが計算できる。ACは三平方の定理の応用でも求められます。 

陳寿にはめられた日本人19

当時の中国では既にピタゴラスの定理は独自に理解されており、周髀算経にも勾股(こうこ)定理として記載されています。



繰り返しますが、一寸千里法自体は誤差の大きい測量法です。一番の問題は、場所や季節に無依存に一寸の日影長が千里に相当するという原理自体が誤っているからです。緯度が変わると、実際には日影長一寸に対する地上距離は変わっている。太陽仰角の小さい高緯度地域や季節(日影長の長いケース)では誤差が大きくなる。例えば夏至の時期ではなく、冬至に観測しただけで一寸に相当する距離は1/3以下になってしまうそうです。逆に云えば、この方法が優れているのは観測時期を夏至に統一していた点です。この規定によって宇宙概念が現実とは乖離していても一定の観測精度が出たとも云える。後に蓋天説渾天説に変わっても夏至という一時点で見れば影響は無視できるからです。大変なのは辺境の地に観測者を派遣する点でしょう。行くことは出来ても、夏至というピンポイントに合わせて各地でいっせいに測量するのは国外では難しい。実態として夏至に近い期間の旅で測量したと思われます。ここにも誤差の要因があります。

魏志倭人伝の里程評価に話を戻しますが、このような現代知識から見たら原理的に不正確な測量方法が、魏代前後の時代に運用されていた訳です。私自身は、当時の里程と方位は、別な観点から誇張・改竄が入っていると考えますが、仮に誇張など無かったとしても、この方法で得た値で邪馬台国までの里程や正確な位置を決めるのは無理だと感じます。



(2)谷本茂氏の一里計算法
魏の時代の1里=約434mです。時代によって多少の変動はあるが大幅に変わる事はありません。研究者の中には1里の長さを極端に過小(70~90m程度)に解釈する人がいます。日本の短里説は、もともと魏志韓伝の「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」を単純に近代の実測値から逆算した値です。しかし、後に古代史研究家の谷本茂氏が周髀算経の記載と現代天文知識から計算した1里=76.9mという結果を出した。偶然にも関わらず、両者の値が近かったため、短里の存在は証明されたと主張してる人も多い。谷本氏の計算は一寸千里法という中国古代の天文原理と現代知識を併せている。なお、地球球体説が中国に導入されるのは17世紀であるのは確実です。谷本氏の計算方法を以下に示す。


一寸千里法から一里を求める - コピー
谷本氏の測定図


周髀算経に記載のおける日影長は以下
  周陽城A地点)=16寸
  南千里 (地点)=15寸
■日影長を測る棒「(ひょう)」の長さは8尺なので表長=80寸(185cm)

A地点と地点の太陽の仰角をθaθbとすると、

計算 - コピー

【補足】
ラジアンは円の半径に等しい長さのの中心に対する角度。1ラジアンは57.29578° に相当。tan-1は逆三角関数arccotを示す。

A地点と地点間の距離をAB、地球の半径をとすると

計算2

周髀算経ではAB間の距離を1000里としているので、1里=76.9mとなる。

【補足】
現代知識を応用する場合は、赤道~北極間の子午線長は 10000kmと分かっていますから、緯度1度当たりの距離を導入しても、両者の緯度差から距離は単純に計算できる。緯度1度は約111kmに相当する。

地球を球体とする現代知識によれば、原理的に2点間の太陽仰角の差が地上での距離に比例している。一方、一寸千里法では2点間の日影長の差が地上距離に比例していると考えている。谷本氏の計算は太陽仰角の差から角距離を出す手順において間違いはないが、最後は周髀算経一寸千里法の原理である一寸1000里を使っている。蓋天説でしか通用しない原理定数を、現実世界の1里計算に使っている訳です。1000里が実測値であれば参考になると思いますが、当時の宇宙概念を無視している点と併せても、意味のない計算ではないかと感じます。



(3)大月氏国への距離から推定する一里の長さ
の時代、倭国は中国に朝貢し、親魏倭王の称号をもらっていたのは有名ですが、西の大国である西トルキスタン(現代のアフガニスタン)の大月氏国も同じように親魏大月氏王の称号を得ています。

①漢書西域伝(西暦80年頃の成立)
「大月氏国、(中略)長安を去ること万一千六百里」

②後漢書西域伝(西暦432年以降の成立)
「大月氏国、(中略)洛陽を去ること万六千三百七十里」

漢書西域伝では、長安から大月氏国まで11600里と記されている。もう一方の後漢書西域伝には、洛陽から大月氏国まで16370里と記録されています。邪馬台国の場合は洛陽から17000里と三国志に記録されています。後漢書と比較すれば、同程度の距離感ということになるが、余りにも僅差で恣意的なバランスと云える。後漢書16370里は5世紀になってから書かれた訳ではなく、代の書に既に値が採用されていたのでしょう。これに対して倭国への行程17000里がサジ加減されたと思われます。


20110924_2485834.jpg
洛陽~大月氏国首都間ルート図(クリック拡大


洛陽から大月氏国首都までのシルクロードには幾つかのルートがあるが、代表的なのは北側のルートだと思われます。


距離測定1
洛陽~大月氏国首都間の測距離(クリック拡大

このルートをGoogle Earthで距離を計測してみると、4700Km程度になる。このツールは標高・傾斜を意識していないので、実際には5000Km以上になると思います。なお、洛陽長安は直線距離で約320kmくらいです。

一里の長さは概算ですが、
①漢書西域伝の場合(長安~大月氏国首都)
(5000Km-320Km) ÷ 11600里 ≒ 403m/里

後漢書西域伝の場合(洛陽~大月氏国首都)
 5000Km ÷ 16370里 ≒ 305m/里

漢書では標準里に近い値が出ます。後漢書の場合は標準里を下回るが、少なくとも一里は300mを超えています。中国では朝貢の価値は遠方になるほど高いものになるので、後漢書の場合は誇張がかなり入っていると思われる。後漢書三国志よりも後に書かれた正史ですから、三国志と同じく代政情の影響を強く受けている。実態里程で考えると、恐らく一里は400mに近いでしょう。
以上の点から考えても、邪馬台国に至る行程が短里であったなどとは考えにくい。短里説主張者は、同時代でも東と西で標準里短里が混在していたと主張する人がいる。中には帯方郡から先だけが短里になっていると主張する人もいます。これは、当時の中国人を愚弄する論です。西の大月氏国を朝貢させたのは曹真曹操の甥)という武将であり、東夷の領土拡張・朝貢を促進した司馬懿西普皇帝司馬炎の祖父)とはライバル関係にありました。二人の功績がなにかと比較競争される時勢において、片方の距離単位だけを変える訳がない。そんなことをしたら司馬懿がバカにされたと怒り出します(笑)。


陳寿にはめられた日本人22
洛陽~沖縄南端までの行程距離(クリック拡大


上の図は、の首都洛陽から福州市の真東にあたる沖縄那覇までの行程距離図です。誤差が大きいでしょうが、沖縄まで入れても、約4000~4200Km程度でしょう。この値は、17000里=7395Kmを考えれば、まだまだ差が大きい。東夷方面における邪馬台国までの17000里は、西域よりも距離が、より誇張されているのは確実です。この問題は、短里などという帳尻合わせのロジックを持ち込んで解決するのではなく、中国の辺境に対する五服思想や、当時の政治、権力闘争、三国鼎立による戦略等から解釈すべき問題と思います。



(4)中国の距離単位系から見た短里
下表は中国の各時代毎の長さ・距離単位系の変遷を示しています。当たり前ですが、どの時代も各単位間には一定比率の約束事があります。値と比率は時代で変化しますが、この約束事は守られている。言い換えると単位というのは、このように一定比率で上位~下位単位が存在するからこそ利用価値があるのだと思います。日本の尺貫法も同じです。ある単位だけが単独で存在しても利用価値がない。「私の身長は5尺7寸5分です」というように端数表現ができなくなるからです。の範囲なら10進単位ですから、少数点を使えば一つの単位で表現できますが、直感的に長さが理解できなくなります。また、は10進ではない。


陳寿にはめられた日本人30
長さの単位の時代別変遷『邪馬台国の会』より(クリック拡大


表を参照すると、について言えば、との比率が変化していますが、下位単位の種類は変わっていません。もし短里があるなら、対応する一定比率のがないとおかしい気がする。しかし、中国の歴史書を見ても短里に対応する下位単位など存在しません。一方、もし一里が50歩の短里を新しく追加しただけで、下位単位の変更は無かったと仮定すれば矛盾はない。しかし、一国内に単位呼称も同じ、50歩のと300歩のを置く必然性が分からない。使用する人間が混乱するだけで、科学的にも、文化的にもあり得ないと思います。短里を主張するなら、度量衡制度史観点から作られた目的を論証して欲しいと思います。

邪馬台国研究者の中には、地域的短里説という考え方を説く人もいます。具体的には朝鮮半島の帯方郡(現在のソウルの南側)から先の里程は地域的短里だと説く。その論は、「周、春秋戦国の時代には色々な尺度が混在しており、三国時代になっても特定地域だけの短里が倭韓だけ残っていた可能性が大きい」と述べている。短里を使っていた理由は古来からの名残だったというのです。まるで雲を掴むような話で証拠も提示されていない。そして陳寿は、距離単位が変わっていることに気が付かず、魏志倭人伝を記載したという。しかし、代の楽浪郡は紀元前108年から存続しており、漢書地理志には楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とある。定期的に倭人の朝貢を受けたと記載されているから、少なくとも楽浪郡まで往来しているのは確実です。なのに中国の官吏は400年間も倭韓短里であることに知らなかったということになる。東夷諸国側はともかく、中国歴代王朝は倭韓を属国視していた。そのような話はとても信じられません。自説に都合よくの単位を改変し、邪馬台国を九州島の中に収めようという思惑が透けて見えます。

ここで日本の尺貫法における「」について触れておく。日本の「」は約4キロメートルです。尺貫法では里の下位単位は「」ですが、1里=36町としている。これを36町里と呼ぶ。1町≒109mなので正確には1里3924mです。日本も古代では一里は300歩=550mくらいであった。これは中国の単位系をそのまま導入したからでしょう。
ところが、日本では中世(12~15世紀)において、「」の考え方を根本的に改めている。人が一定時間(半時≒約1時間)に歩ける距離単位に改制している。改制の理由は、従来、例えば300里という距離で示されても、歩いてどのくらい時間を要するのか分かりにくいという問題があった。しかし、一定時間で歩ける距離を一里とすれば、移動する所要時間が把握しやすいというメリットがあります。最終的には一里は36町里という長さに統一されたらしいが、その過程においては、1里の長さは、36町里40町里48町里などと地域によって違っていたそうです。これは人の歩行能力に対する考え方や、歩行する地形、道路整備状況などの違いで、地域によって相違があったのではないかと推定します。日本が統一されておらず、制度を決める行政が各国に任されていたのが原因でしょう。つまり、これこそ「地域固有里」です。このように新たな「」の概念と、地域による固有値があった理由が明確であれば、論理的な存在根拠といえる。
しかし、前述したように中国の「」は純粋に距離を表す尺度の範疇であり、一定数の「」に対応します。運用する人間や場所の影響を受けない。例え地域が違っても基本的には比率が変わる要素はないと考えられる。もし仮に、帯方郡から先だけに地域的短里があったとすれば、国内で50歩の里と300歩の里が混在したことになる。そこには、明確な単位改制の目的があったはずです。これを示さない限り、地域的短里の存在を論証したとは云えない。
邪馬台国が九州に収まれば、それでいいと云うような考えは無責任です。自分は邪馬台国は九州ではないと主張している訳ではありません。九州の可能性は十分にあるが、魏志倭人伝の里程を、短里という帳尻合わせ論で解決する訳にはいかないと思うだけです。それに、もうそろそろ魏志倭人伝の里程で場所を決めようとするアプローチはやめた方がよいと思います。


また短里の存在を示す根拠としてよく上げられる以下2点に関して見解を述べます。
①王朝交代による受命改制度量衡の制度が変わり、魏の短里が生まれた
中国の王朝には、前王朝の暦、法律、度量衡の制度を改めて、新たに制定する「受命改制」の思想があったのは事実です。前表の値の変動も受命改制の結果の変動です。しかし、表の値を見ても分かる通り、全時代を通じて里の変動量は最大でも6%以内です。の時代に「」が改制されても、前代の1/6まで縮小する事など到底あり得ない。また中国西域では標準里が使われている。新王朝として始める記念すべき受命改制の意義からしても、倭国に至る行程のみ改制が適用されたと云う論は非常に不自然です。受命改制(237年)は後漢からの変化に相当するが、表で見ても標準の変動は5%に満たない。「改制思想があったので短里が生まれた」という主張は、生まれた契機の話です。肝心の短里の値は、度量衡の変遷実績を無視した意味を成さない主張でしょう。

②『海島算経』という書物に標準里ではあり得ない測量記述がある
中国には三国志に先行する『海島算経』という測量技術指南の例題集のような書物があります。海を隔てた島にある山の高さと距離を測るものです。30尺の棒2本を使って、棒の先端から山頂を見通せる位置関係から距離を計算します。概念は一寸千里法の場合と似ています。この例題は、標準里だと山までの距離が遠すぎて、視認する仰角が小さく、地球の丸み問題で測定が困難なことから、短里を前提とした例題だという主張がある。確かに例題には現実的でない無理がある。しかし、この例題が実際の地形を想定して作られたとは限らないと思います。山が遠くて仰角の値が小さ過ぎるのも、机上の論理例題と考えれば矛盾はない。測量手順を指南するのが目的の書物です。短里を導入しなくても例題として成り立ちます。また、例題の前提原理そのものは地上平面説に立っているのは明白です。球体の認識があれば、そもそも、この例題は原理的に解法できないからです。この測量例題を根拠に短里実在を主張するのは、いささか強弁が過ぎます。


この他にも中国の古典に出てくる距離記述から短里の可能性が高いという事例を何点も上げている研究者がいますが、現在地との比定や記述解釈が恣意的で客観性が薄い気がする。また、何れも一寸千里法で計測した距離ですから、根拠とはならないと思います。
漢籍では「千里、ニ千里」と言った大雑把な表現がよくある。観点が違うが、中には具体的距離を指すというより、「遠い、長大な」という意味で文章を飾っている場合も多いような気がします。概して言葉のリズムや荘厳さに重点を置く傾向があり、中国人は内容の客観性には価値を置いていても、同時に才筆であることが重視されている。




【参考・引用資料】
■書籍『邪馬台国はなかった』 朝日文庫         古田武彦著
書籍『倭国の時代』     筑摩書房         岡田英弘著
■書籍『邪馬台国への道』   徳間文庫           安本美典著
■論文『古代中国の緯度測量法』             野上道男著
■論文『周髀算経にみられる数値について』          下司和男著
■論文『魏志倭人伝の里程単位(一寸千(短 )里説批判』   篠原俊次著  
■講演会レジュメ『古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置』    
                                                                                   野上道男著
■論文集『東アジアの古代文化 34/53/61号』 大和書房  
■ホームページ 邪馬台国の会
■ Google Earth 
■ウィキペディア 尺貫法、里、町

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