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東国の古代史

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2016-08-19 (Fri)

花

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2020-06-05 (Fri)

海人族の末裔「海部氏」の遺跡

海人族の末裔「海部氏」の遺跡

愛媛県今治市に新谷古新谷遺跡(にやこにや・いせき)という舌を噛みそうな遺跡がある。東日本に住む人には古代史ファンであっても余り知られていないと思います。四国出張が多かったので、多少土地勘がありますが、今治市は瀬戸内海国立公園に面する風光明媚な場所です。遺跡の北方にある海山城公園は高台にある絶景スポットです。新谷古新谷遺跡はやや内陸に入る丘陵地と平地の境界にあります。遺跡として特徴的なのは、弥生時代...

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愛媛県今治市に新谷古新谷遺跡(にやこにや・いせき)という舌を噛みそうな遺跡がある。東日本に住む人には古代史ファンであっても余り知られていないと思います。四国出張が多かったので、多少土地勘がありますが、今治市は瀬戸内海国立公園に面する風光明媚な場所です。遺跡の北方にある海山城公園は高台にある絶景スポットです。新谷古新谷遺跡はやや内陸に入る丘陵地と平地の境界にあります。遺跡として特徴的なのは、弥生時代~古墳時代~奈良平安時代までの遺物が集中して出土する点です。古代から文化性の高い地域であった事が伺えます。

↑GoogleMAP

毎日新聞電子版によると、最近の調査で新たに丘陵部から7基の古墳群が発見されたという。古墳時代中期後半(5世紀後半)のものらしい。古墳の墓坑から、ガラス小玉、管玉、須恵器など多くの副葬品が出土しているそうだ。

海人族の末裔海部氏の遺跡3
↑古墳の土坑(毎日新聞オンライン)

海人族の末裔海部氏の遺跡1
↑土坑の土器群(毎日新聞オンライン)

海人族の末裔海部氏の遺跡5
↑出土土器(毎日新聞オンライン)

海人族の末裔海部氏の遺跡6
↑出土土器(毎日新聞オンライン)

灰色にくすんだ土器は須恵器です。保存状態が良いのは勿論だが、非常に品質の高いものに見えます。5世紀の後半に、このような土器を作れる技術があったとは驚きです。関東の須恵器も、この時代には一部で作られ始めているが品質が劣るものが多い。従来の土器焼成温度はせいぜい800~900度ですが、須恵器は1200度近くまで上げる必要がある。当然、専用の窯と燃焼管理が必要で高度な技術が伴う。出土品は、この地で焼かれた物か土質分析の情報がありません。当地産でないとすれば、大阪の陶邑窯跡群で焼成された可能性もあるでしょう。

瀬戸内海沿岸氏族の文化性は弥生時代から継続して高い事が分かっています。それは彼らの海人族としての航海技術や交易文化、その後の職掌が関係していると思われる。時代は下りますが、この遺跡から出土したもので有名な遺物は以下の2点でしょう。

①築状弦楽器
古墳時代後期の楽器です。一見、野球バットを縦に割ったような弦楽器です。古代中国の弦楽器「」と同じように、片手でバットのグリップにあたる部分を握り、上部の平らな面に張った弦をもう一方の手に持った棒ではらって演奏したと推定される。筑状弦楽器と呼ばれています。この地方で作られたものかは判明していない。数は多くはないが、日本各地で弥生時代の琴に似た弦楽器が発見されています。祭祀などで使われていた可能性があるでしょう。筑状弦楽器出土事例は少ない。おそらく貴重な宝物であり、新谷古新谷の埋葬者は財力を持っていたものと思われます。

海人族の末裔海部氏の遺跡7
↑「築」の出土状況(愛媛県教育委員会)

②刻字土器
2019年に8世紀後半の頃と見られる刻字文字のある須恵器が出土した。上部は欠けていて、小型の長頸壺と推定されている。注目されるのは記載された文字です。

海人族の末裔海部氏の遺跡2
刻字のある須恵器(愛媛県教育委員会)

直径約7センチの底部に「凡直」、その下に「万呂」を合わせたと考えられる1文字、右横に「」と推定される文字が刻まれている。凡直古代氏族、凡直(おおしのあたいうじ)を指すウジカバネです。須恵器の持ち主は凡直万呂という人物でしょう。が何を意味するのか分かりませんが、水神を指すのでしょうか。

凡直」は瀬戸内海の沿岸諸国に勢力を張り、海部(あまべ)を統率した伴造氏族です。系譜伝承では、讃岐(香川県)の国造の始祖である神櫛王景行天王皇子)の流れをくむという。神櫛王の子孫は讃岐で勢力を張っていた。敏達天皇の代に国造星直(ほしのあたい)が、国を押し統べるという意味で大押直(おおしのあたい)のカバネを賜い、のちに凡直(おおしのあたい)と改めたという。

【補足】
大化改新が実態的にどの時点で確立したかは、いろいろな説があります。その話は此処では置いておきますが、改新以前、朝廷や豪族は人民労役集団を所有しており、彼らは部民と呼ばれました。百済部制を導入したものと言われている。
朝廷の所属には伴造が統率する品部御名代部御子代部などがある。その他には海部(あまべ)というのがあります。朝廷に漁業航海技術をもって奉仕したです。海人部とも呼ばれる。海部を統率した氏族が海部氏(あまべうじ)と呼ばれる伴造氏族です。そのカバネには、連、直、臣、首、公の5種類がある。一方、豪族の所属は部曲 (かきべ) と呼ばれます。
部民は、農民、漁民、特殊技能民から成り、自立的な家族生活を営みがら、所属する朝廷や豪族に貢物や労役を提供していた。または集団ごとに地名、豪族名、職掌名などを冠して呼ばれる習慣がある。大化改新により組織上は廃止されたと書紀には記録されるが、氏族としては存続しています。また、地方のは大宝律令公布頃(701年)まで存続した可能性があります。


他稿でも触れたことがあるが、讃岐伊予には屯倉がありません。朝廷の直轄地が無いということは、当地の伴造氏族が全て自らの土地として所有していたという可能性があります。国内の反乱勢力討伐、朝鮮半島での海戦に備え、航海技術を重要視されていた彼らは優遇されていたのかも知れません。ただ、当地には頓田川富田という地名があり、朝廷の支配地であった屯田(とんでん、みた)の名残の可能性もある。地名由来を調べる必要があります。


海人族の末裔海部氏の遺跡8
↑西日本沿岸諸国に広がる凡直氏
(出典不明※歴史学者鈴木正信氏の論文か?)

系譜伝承の信憑性はよく分かりませんが、彼らが阿曇氏(あずみうじ)や尾張氏と同じ海人族の一派であることは間違いないでしょう。凡直氏は後に瀬戸内海各地に広がり、海部氏(あまべうじ)として勢力を張ったと思われる。凡直氏は所在の地域名を冠して呼ばれています。新谷古新谷古墳群の氏族は伊予凡直の一派ということになります。ただ凡直を冠するウジカバネが全て同族とは限らないと思います。出自の異なる氏族や擬制的に結びついた氏族もあったのではないか。

大宝律令が施行される8世紀初頭には、地方でも海部という組織は解体されています。それらを統率していた氏族は、そのまま朝廷の臣下として扱われ、地方豪族として力を温存していたものと思います。前述の須恵器の持ち主、凡直万呂も眼前の瀬戸大島伯方島の海上交通を掌握し、権勢を誇っていたものと思われる。晩年は筑状弦楽器を奏でるような生活をおくっていたのであろうか。なお、遺跡の位置はやや内陸にあるが、船舶を駆使する職掌から考えると、住居は平野部の蒼社川頓田川の水運を利用できる場所にあったのではないか。





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古墳時代中期後半(5世紀後半)のものらしい * by レインボー
>毎日新聞電子版によると、最近の調査で新たに丘陵部から7基の古墳群が発見されたという。古墳時代中期後半(5世紀後半)のものらしい。古墳の墓坑から、ガラス小玉、管玉、須恵器など多くの副葬品が出土している。

〇たいへん興味深い記事でした。
 5世紀というのは、大阪に巨大古墳がいくつも作られた時代です。おそらく、これら巨大古墳王権と関わりがあったのでしょう。
 楽器とか文字とか、興味深い遺品は興味深いです。
 草々

Re: 古墳時代中期後半(5世紀後半)のものらしい * by 形名
レインボーさん、こんにちは。

レインボーさんの記事にある河内の勢力に従属していたのでしょうね。奈良勢力と河内勢力の関係は、多くの学者が説を出していますが、いずれにしろ、当時の大王であったのは、ほぼ間違いないでしょう。この時代は、大王の意識が朝鮮半島に向かっていた蓋然性が高いと思います。とすれば海運を担う氏族が重視されるのは自然ですね。

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2020-05-30 (Sat)

古代北関東の古墳配置と水利

古代北関東の古墳配置と水利

以下に示す2つの画像は群馬県と埼玉県の利根川周辺域の古墳配置です。一見して目立つのは、利根川南岸の古墳密度の薄さでしょう。北岸に関しては密度の減少は顕著ではない。↑群馬県利根川北岸の古墳群(クリック拡大)↑埼玉県利根川南岸の古墳(クリック拡大)3世紀代において東海地方西部の氏族が東海道沿岸を航海し、関東地方の河川を遡上した可能性が高い。彼らが残した特徴のある土器が根拠となっています。当時の利根川は東京...

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以下に示す2つの画像は群馬県と埼玉県の利根川周辺域の古墳配置です。一見して目立つのは、利根川南岸の古墳密度の薄さでしょう。北岸に関しては密度の減少は顕著ではない。

古代北関東の水利と古墳配置2
↑群馬県利根川北岸の古墳群(クリック拡大)

古代北関東の水利と古墳配置3
↑埼玉県利根川南岸の古墳(クリック拡大)

3世紀代において東海地方西部の氏族が東海道沿岸を航海し、関東地方の河川を遡上した可能性が高い。彼らが残した特徴のある土器が根拠となっています。当時の利根川東京湾に注いでいました。海岸線は今よりも、かなり後退していたと思われるが、関東奥地に至る遡上ルートは古利根川に他なりません。

古代北関東の水利と古墳配置0
↑江戸時代以前(左)と江戸時代後(右)の関東河川図(クリック拡大)
ホームページ「荒川の開発史」より引用
【補足】
江戸時代以前の河川状態が3世紀代まで遡れる証拠はありません。ただ、山岳地の谷筋は2000年程度では変化が少ないので、元荒川を含む古利根川水系と入間川水系の合流有無は確かでなくても、両水系の存在は確実と考えます。

埼玉県の荒川は、現在、利根川とは別河川になっていますが、当時の元荒川古利根川の支流でした。現在の荒川あたりには吉野川入間川が流れていたはずです。元荒川は江戸時代に吉野川に付け替えられて現代に至ります。
3世紀ころの関東平野沿岸部は湿地帯ですが、歩けるような状態ではなかったろうと想像します。東京湾から利根川を遡上した氏族グループの一派は利根川本流を上り、群馬県、栃木県に入ります。もう一派は、本流から支流の元荒川入間川(現荒川)を遡上し、東松山周辺地域に定住したと推測される。関東の古式古墳は前方後方墳で始まるが、小型ながら残存している地域です。
古利根川本流を遡った人々の殆どは北岸に定着します。南岸域に定住出来なかったのは河川の氾濫が原因であると推定できます。おそらく、利根川氾濫原利根川を北限とする、その南部地域であったのでしょう。しかし、古墳の配置図を見ると、河川から離れた地域でも古墳の密度は群馬県には遠く及ばない。これは何故だろうか? 有史に入ってからも火山被害の多い群馬県に比べれば埼玉県のほうが安全な地域とも言えるでしょう。

その要因を考えると幾つかの仮説が上げられる。しかし、最も有力なのは水利であると思います。当時の土木技術では大河川からの導水は技術的に不可能であったと思います。現代のように堤防があれば、河床が浅くなって天井川になることもあるが、自然河川では有り得ない。標高の高い遥か上流まで遡って分流水路を引くしかありません。しかし、例え工事が可能であっても、暴れ川の利根川は氾濫のたびに流路を変える。恒久的に使える施設は維持出来なかったと思います。
では水利に何を利用したかというと利根川に注ぐ小河川です。測量技術がありませんから、平坦地で人工的な水路を流すのは不可能です。可能なのは緩い傾斜地の小河川です。利根川北岸には赤城山から流れ出す小河川が無数にあります。これらの河川から分流水路を引いて稲作を行ったと思われる。彼らの出発地点を伊勢湾岸の舌状地と推定すれば、当地は地形的に類似しており、彼らの持つ灌漑文化に適用しやすかったのかも知れません。

利根大堰10
↑現荒川水系と入間川水系に囲まれた東松山周辺

一方の利根川南岸の埼玉県側には小さな河川が非常に少ない。元荒川も支流とは云え大河川ですから水利を直接得るのは難しい。秩父山系を下る小河川は利根川支流であった元荒川まで届く河川は少なく、現荒川に相当する吉野川水系に吸収されてしまいます。古墳の配置も山間地域に近い入間川付近の密度が高い。

結論として考えられるのは、元荒川利根川本流の間にある現代のJR高崎線沿いは、水利のない不毛の地であった可能性があります。これが埼玉県中心部の古墳密度の薄さの要因であると考えます。この傾向は江戸時代以前まで続いていたと思われる。江戸時代に入ると灌漑用の溜池などが作られたが、それでも水不足は解消せず、後に河川からの導水工事に至ったようです。高崎線沿線には多くの用水路が開発されています。現代では此れらの水利工事によって、不毛の地域は首都圏の野菜需要を支える一大生産地に変貌しています。


古代北関東の水利と古墳配置5
↑行田市北部にある利根大堰

古代北関東の水利と古墳配置6
↑利根大堰のダム水門

古代北関東の水利と古墳配置8
↑水門下流側

古代北関東の水利と古墳配置4
↑導水制御している利根大堰須加樋管(水位差による自然流下式)

古代北関東の水利と古墳配置7
↑須加樋管から見た沈砂池と分流水路に続く整水堤

利根大堰11
↑3つの分流水路(左:見沼代用水 中:武蔵水路 右:埼玉用水

現在は、利根大堰という施設で利根川本流から水を分流し、水利の乏しかった地域にきめ細かく給水しています。因みに利根大堰は、見沼代用水武蔵水路(荒川に接続)、埼玉用水の3系統に分流している。埼玉県中心部が、大きな河川に囲まれながらも渇水の地であった事はあまり知られていない。しかし、取水施設の膨大な水量がこの地域の水不足の深刻さを物語っています。

古代北関東の水利と古墳配置10
↑さきたま古墳群の水利環境(現在の旧忍川は空堀状態)
(さきたま史跡博物館ホームページの引用画像を編集)

利根大堰の南方には古墳時代中期の有名なさきたま古墳群があります。水利に乏しい地域で、彼らが何世代にも渡り繁栄出来たのは、おそらく元荒川支流(旧忍川)の水利を上手く利用できる地形と土木技術を持っていたためと推定します。彼らは、この土地のネイティブではなく、おそらく後発の移住者であると思います。周辺には彼らの祖先に相当する古墳が存在しないからです。



【参考・引用】
・古墳検索サイト「古墳マップ」
ホームページ「荒川の開発史」
さきたま史跡博物館ホームページ
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さきたま古墳群 * by レインボー
>利根大堰の南方には古墳時代中期の有名なさきたま古墳群があります。水利に乏しい地域で、彼らが何世代かにわたり繁栄出来たのは、おそらく元荒川支流(旧忍川)の水利を上手く利用できる地形と土木技術を持っていたためと推定します。

〇たいへん興味深い記事でした。私は、さきたま古墳群の近くに8年ほど住んだことがありますが、ご指摘のとおりだと思います。
 この地域が、どのように水を得ていたのか、興味深いところです。

Re: さきたま古墳群 * by 形名
レインボーさん、おはようございます。

レインボーさんは確か農業技術系の職業をお持ちでしたね。
転勤が多かったんですかね。
記事の画像では写角に入っていないのですが、近くには見沼代用水が
走っていて、おそらく水不足に悩んだ地域ではと思っています。
さきたま古墳群の最初の首長は鉄剣で有名な稲荷山古墳ですが、この
古墳の北側には、旧忍川の跡があります。この流路も人工的なもの
である可能性は高いですが、何れにしても元荒川の支流が古代にも
付近にあったと思われます。
河川堤防のない当時は、自然に天井川ができる可能性は薄いですね。
導水は高度の技術が必要です。灌漑が必要な水田の標高よりも
高い位置まで河川を遡って分流水路を引く以外には方法がありませんね。
平坦地では距離が長くなるので、非常に困難であったと思います。
群馬県には平安時代の水路遺跡(女堀)がありますが、この時代に
なっても通水に失敗しています。

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2020-05-25 (Mon)

植物の重力感知「空はどっちにある?」

植物の重力感知「空はどっちにある?」

妙な話ですが、野菜を見てて何時も不思議に思うことがある。春暖かくなって適度な水分があれば、種や芋は目覚ましのスイッチが入ります。人は眼を覚ませば、視覚や平衡感覚器で自分の体勢が理解できるので問題なく起きられます。しかし野菜は何を元にして芽を出す方向を決めているのだろうか?例えば、ジャガイモは10cmくらいの土中に植えられるが、真っ暗闇で周囲の土圧差はそれほど差はないと思います。しかし、芽を出してる芋を...

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妙な話ですが、野菜を見てて何時も不思議に思うことがある。
春暖かくなって適度な水分があれば、種や芋は目覚ましのスイッチが入ります。人は眼を覚ませば、視覚や平衡感覚器で自分の体勢が理解できるので問題なく起きられます。しかし野菜は何を元にして芽を出す方向を決めているのだろうか?

ジャガイモ上下


例えば、ジャガイモは10cmくらいの土中に植えられるが、真っ暗闇で周囲の土圧差はそれほど差はないと思います。しかし、芽を出してる芋を掘ってみれば、空を目指して発芽したのは歴然です。四方八方に芽を伸ばしてはいない。複数箇所からか芽を出すが、全て空に向かって伸び、芋の側面や下側にあった芽は伸びていません。ジャガイモ周囲の土圧に差が少ないのは、芋を水中に沈めた場合を考えれば理解しやすい。だが容積の大きいジャガイモの場合は、上面と下面で水深が異なるから受ける圧力が異なる。従って当初は土圧の微妙な差が発芽方向を決める要素かと考えた。しかし、メロンの種を考えれば否定的です。メロンの種の厚みは0.5mm程度しかないが、10mmの深さから空に向けて正確に発芽する。計算上、土圧の差は5%程度しかない。
春先にダンボール箱に入ったジャガイモはあらゆる位置から一斉に発芽してくる。あれは芋の全周が僅かな光、または、空気を感じて、既に地上に出たと認識してるのだと思います。しかし、暗黒土中のジャガイモ重力を感じて発芽位置と方向を決めてるとしか思えない。消去法で考えても正確な方向を決められる要素は他に無いからです。好光性種子は光を感じる深さでないと発芽しにくいが、明るさに対する反応では正確な発芽方向を決定できないでしょう。ましてや嫌光性種子であれば、明るい場所では発芽しないので、光を頼るのは矛盾している。
しかし、そもそも種や芋はどうやって重力方向を感じるのだろうか? 人間の内耳には、先端にオモリのついた毛がたくさん生えていて、その傾きで平衡感覚を得ています。でも植物の場合は同様の構造は少なくとも無い。細胞内に何らかの単純な感知機能があると思われるが、そのメカニズムが分かりません。



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No Subject * by kanna_24b
なるほど重力ですか...

私は何の確証もありませんが、わずかな光か熱を感じているのかと思っていました。

Re: No Subject * by 形名
kannaさん、こんにちは。

種は好光性種と嫌光性種があって、後者は光を遮断する深さでないと発芽しないそうです。
「1~2cmの深さに覆土する」と書いてあるのは嫌光性種ですね。此のくらいだと光を感じる
かも知れませんね。熱は考えなかったな・・・
でもジャガイモは15cmの深さでもちゃんと発芽します。多分、光は届いていないでしょう。
やっぱり重力のような気がしますが、どのようにして重力方向を知るのかが分かりません。笑

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2020-05-21 (Thu)

草ぼうぼうの畑で種まき

草ぼうぼうの畑で種まき

例年ならクソ暑い5月ですが、肌寒くてしかたがないです。野菜の種も発芽しないし育たない。今日は土が湿っている畑に落花生と枝豆を蒔きましたが、高温性の豆科には辛いかも知れない。↑草だらけの空き畝も除草しました。全て人力なので疲れました。今月中には、種蒔きでほぼ埋まります。左手にいるのは落花生が大好きな常連盗人カラス。防鳥ネットがあっては黄昏れるばかり。笑↑草ぼうぼうエリアはスイカの予定です。でも、この寒...

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例年ならクソ暑い5月ですが、肌寒くてしかたがないです。野菜の種も発芽しないし育たない。今日は土が湿っている畑に落花生枝豆を蒔きましたが、高温性の豆科には辛いかも知れない。

20200521畑2

↑草だらけの空き畝も除草しました。全て人力なので疲れました。今月中には、種蒔きでほぼ埋まります。左手にいるのは落花生が大好きな常連盗人カラス。防鳥ネットがあっては黄昏れるばかり。笑


20200521畑3

↑草ぼうぼうエリアはスイカの予定です。でも、この寒さでポット苗は2~3本しか発芽していない。まともな苗は出来そうにない。代わりの野菜を考えた方が良さそう。

20200521畑1

↑苗で購入したキュウリ(夏すずみ)は接ぎ木苗のせいか、活着も良くて大きくなった。しかしどう見ても立ち性のキュウリですね。天井につかえてます。地這いでも育つだろうか? 支柱仕立ては面倒で台風にも弱いので、うちでは皆地這いにしてしまう。


【5/23追記

20200521畑4

↑キュウリのトンネル支柱を交換して天井を高くしました。キュウリは午前中だけ陽が当たれば十分です。西日を嫌うから西側は遮光ネットを張ってあります。根本のネギは病気予防のコンパニオン。根を絡ませるとツル割れ病が少なくなります。

20200521畑5

↑まるで種芋を植えたような自生ジャガイモ!?自生栽培は収穫時に極小芋を土に戻すだけですから簡単です。でも連作障害を起こすので、1年2回やったらネギを植えて土壌環境を回復させます。畝が2本あれば連続運用できる。少し面倒になるがネギの根本に小芋を埋め戻せば連作障害も起きません。ジャガイモは芽欠きした芽を植えても収穫できるくらいですから、種芋など無くても育つ野菜です。



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No Subject * by kanna_24b
寒いですね...
昨日は最高気温でも10度に届かずでした。

うちも種で植えたトウモロコシと枝豆は古い種で植えたせいだと思いますが殆ど発芽せずでした・・・これは寒さとは関係ないと思いますが 笑

Re: No Subject * by 形名
kannaさん、こんばんは。

そちらも寒いですね。
こちらは最高気温では10度を超えますが、夜は一桁まで下がりますね。
この気温が続くと野菜の苗をつくるのは無理です。

スイカなどの種は寿命が長いですが、枝豆、トウモロコシは
1~2年でダメですね。有効期限内に使い切った方法がいいです。
またエダマメは低温では発芽しないと思います。
だいたい夏野菜は高温性なのが多いですね。

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2020-05-18 (Mon)

新田氏の中世「武家の棟梁」への道《書評》

新田氏の中世「武家の棟梁」への道《書評》

新田氏と足利氏は源義国の子から分岐する氏族です。その系譜の中には教科書にも出てきた人物名があります。新田氏と足利氏に関しては古文献が多いせいか、研究者も多くて歴史解説書も豊富です。ただ、それらは基本的に『太平記』という物語の記載に沿っているものが多いと思います。太平記は、14世紀代に編纂されたと考えられているが、作者や正確な成立時期は分かっていない。文献では、2つの氏族は互いに独立した勢力として覇権...

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新田氏足利氏源義国の子から分岐する氏族です。その系譜の中には教科書にも出てきた人物名があります。新田氏足利氏に関しては古文献が多いせいか、研究者も多くて歴史解説書も豊富です。

気になる2つのお墓1

ただ、それらは基本的に『太平記』という物語の記載に沿っているものが多いと思います。太平記は、14世紀代に編纂されたと考えられているが、作者や正確な成立時期は分かっていない。文献では、2つの氏族は互いに独立した勢力として覇権を争ったと描かれている。しかし、物語と実際の歴史は乖離しているケースが多々あります。物語が客観的に描かれていることなどあり得ません。それは物語自体が、特定の立場を取る人物や集団の利益・正統性を主張するために描かれているからです。


新田氏の中世


画像の書籍は、『新田一族の中世』という変わった表題の本です。比較的新しい本ですが、従来の太平記ベースの歴史解説ではなく、実際の新田氏足利氏とはどんな関係だったのかを分析しています。また太平記がどんな思惑で書かれたものかという点にも言及している。まだ読み終えていないが、着目点が新鮮で面白いです。具体的な内容について此処では触れないが、いろいろな視点で歴史を見ることが重要だと気づかせてくれる。著者の田中大喜さんというのは学習院大学の史学科出身ですが、まだ若い方のようです。歴史研究者も世代交代しています。





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箱根竹ノ下の戦い * by むく
御殿場に居た頃に時々歩いて尊氏と義貞の運命を変える闘いの合った竹之下や足柄峠に足を伸ばしました。今は籠坂峠を越えた山中湖ですが。歴史探訪は夢が膨らみますね。

Re: 箱根竹ノ下の戦い * by 形名
むくさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

建武新政も長続きはせず、後醍醐側の義貞と反旗を翻した尊氏の対立は徐々に激化していきますね。箱根竹之下の戦いは参戦した人数もけっこう多かったようです。政権争いに巻き込まれた感じの義貞ですが、もともと鎌倉幕府や足利氏には重要視されていなかった義貞には強い不満があったのでしょう。私も神奈川県に住んでいた時期もありました。箱根方面も行きましたが、当時は歴史趣味はなかったので、一度、戦乱のあった場所を訪問してみたいです。

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2020-05-17 (Sun)

箸墓古墳のミューオン透視調査《記事抜粋》

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2020年1月に、各メディアから一斉に報じられた箸墓古墳ミューオン透視調査の記事が再び読売新聞に掲載された。特に目新しい内容はないが記録しておく。↑読売新聞2020年5月17日記事より抜粋↑透視原理と春日古墳のミューオン透視画像 日本史ランキング にほんブログ村...

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2020年1月に、各メディアから一斉に報じられた箸墓古墳ミューオン透視調査の記事が再び読売新聞に掲載された。特に目新しい内容はないが記録しておく。

箸墓ミューオン2
↑読売新聞2020年5月17日記事より抜粋

箸墓ミューオン4
↑透視原理と春日古墳のミューオン透視画像




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2020-05-16 (Sat)

榛名山二ツ岳溶岩ドームについて

榛名山二ツ岳溶岩ドームについて

群馬県の上毛三山の一つ、榛名山は火山です。現在、噴火活動はありませんが、何れ活動を再開する可能性は隣の赤城山よりも高いと思います。最後に噴火した二ツ岳は恐ろしい火砕流を起こしていますが、被災地域からは意外と離れた榛名山群中心部に近い場所にあります。↑高崎市北部から見た榛名山 クリック拡大榛名山が噴火活動を開始した時期は50万年前と考えられている。噴火活動は休止期を挟んで二期に分けられます。①古期榛名火...

… 続きを読む

群馬県の上毛三山の一つ、榛名山は火山です。現在、噴火活動はありませんが、何れ活動を再開する可能性は隣の赤城山よりも高いと思います。最後に噴火した二ツ岳は恐ろしい火砕流を起こしていますが、被災地域からは意外と離れた榛名山群中心部に近い場所にあります。

榛名山二ツ岳溶岩ドームの変容6
↑高崎市北部から見た榛名山 クリック拡大

榛名山が噴火活動を開始した時期は50万年前と考えられている。噴火活動は休止期を挟んで二期に分けられます。

①古期榛名火山:約50万年前~約25万年前ごろ
 活動休止期 :約25万年前~約5万年前
②新期榛名火山:約5万年前~古墳時代~現在


榛名山二ツ岳溶岩ドームの変容1
↑榛名山の地質図(産業技術総合研究所ホームページより)クリック拡大

上の地質図で、茶系色黄系色で示した部分は古期火山で形成された部分です。赤色桃色で示した部分は古期の上に乗った新期火山によるものです。山群の東側古期形成部の上には新期火山で発生した火山灰や火砕流の堆積があります。これらの堆積地は細かい赤点で示している。新期榛名火山では複数の溶岩ドームが形成されたが、その順序は以下となります。

榛名富士・蛇ヶ岳(3万年前)→相馬山(1.7万年前)→水沢山(1万年前)→二ッ岳(4世紀~)

噴火間隔は徐々に短くなっています。榛名山群は不気味な山です。二ツ岳の噴火は100年ほど続くが、5世紀終末期から6世紀前半の2回の噴火は大規模でした。降灰は東北福島県まで達しています。すでに古墳時代に入っていますから、当時の生活遺跡には多大な災害痕跡が残されている。現在までに発見されている火山災害遺跡を以下に示します。


榛名山二ツ岳溶岩ドームの変容5
渋川市の古墳時代の火山噴出物と主な遺跡 クリック拡大
(群馬県埋文事業団ホームページより)


一般的に有名なのは、①黒井峯遺跡の埋没水田、②金井東裏遺跡の甲冑遺体、③中筋遺跡の埋没住居、④白井・吹屋遺跡の馬蹄跡でしょうか。何れも榛名山二ツ岳の北西~東にあたる渋川市に集中しています。しかし火砕流や泥流の被害は渋川市を超えて榛名山の東~南全域に及んでいます。

【補足】
上図赤枠に、Hr-FA(6世紀初頭)とHr-FP(6世紀中葉)と記述があります。水沢観音の北西1kmにある佛光山法水寺の建設現場地中から発見された樹木遺物によって、現在では、もう少し確度の高い情報があります。最外樹皮の放射性炭素年代分析AMS)と暦年代較正ウイグルマッチング法)によって以下の結果が出ている。
①Hr-FA(古墳時代1回目の噴火)
 誤差の標準偏差1ρ・・・・・西暦489-498(西暦495/+ 3/- 6)
   誤差の標準偏差2ρ・・・・・西暦485-504(西暦495/+ 9/-10)
 ※西暦489-498範囲に入る確率は68%、 西暦485-504範囲に入る確率は95%です。
  従って標準偏差1ρでは5世紀終末、2ρでは5世紀終末から6世紀初頭にも入る可能性があるという事です。
②Hr-FP(古墳時代2回目の噴火)
   Hr-FAからの相対年代で+25年程度の経過後


前述の地質図では地形が把握しづらいので色別標高図を以下に示します。


榛名山二ツ岳溶岩ドームの変容2
↑榛名山標高図(国土地理院標高図より)クリック拡大

榛名山二ツ岳溶岩ドームの変容3
↑榛名山標高図の拡大図 クリック拡大

新期榛名火山期の溶岩ドームを見ていて不思議なことがあります。古墳時代に入って大噴火を起こしたのは最後発の二ツ岳です。前述したように、二ツ岳に先行して相馬山水沢山はすでに形成されています。地形をよく観察すると、二ツ岳の南は相馬山に、東は水沢山に一部ブロックされています。しかも、大きなカルデラ内に完全に収まっています。にもかかわらず、二ツ岳の火砕流は榛名山東側全域に及んでいる。火砕流の発生状況は雲仙普賢岳の映像でも確認できますが、谷筋を高速で下り、麓で広範囲に広がることはない。だとすれば、現状の地形では二ツ岳火砕流の範囲は広過ぎます。地形を把握しやすくするために前述画像を3D化したのが以下画像です。


榛名山二ツ岳溶岩ドームの変容4
↑榛名山標高図の3D画像 クリック拡大

二ツ岳というのは頂上部が3つに別れていて外輪山を形成しています。中心の火口2が噴火鎮静期の火口と思われます。だが、この火口地形では火砕流の広がりは説明しにくい。おそらく噴火最盛期の二ツ岳は図中火口1カルデラ全域を山体とする榛名山最大標高を持つ溶岩ドームであったと思われます。現在では相馬山のほうが標高が高いが、当時は逆転していたのではないか。相馬山は先行する溶岩ドームだが、やがて二ツ岳溶岩ドームに取り込まれていたような気もします。そう考えると巨大な溶岩ドームが崩壊して周囲全周に火砕流となって下った現象を考えやすい。

浅間山は2万4千年前に大噴火を起こしています。当時の浅間山は、外輪山である黒斑山と現浅間山を含む山体で火口も現在より大きかったはずです。今は標高2568mですが、噴火前の標高は3000mを優に超えていたと思われる。当時の山体上部は爆発と火砕流で崩壊流失しています。浅間山の北側に流れ下った火山灰泥流は吾妻渓谷を経て利根川に流れ込み、前橋台地を形成した榛名山カルデラ内に浮かぶ現二ツ岳浅間山の構造に似ている気がします。元の二ツ岳は今よりも大きな山体を持つ巨大溶岩ドームであったと思われる。

榛名山二ツ岳溶岩ドームの変容7
↑浅間山のカルデラ構造(Google/Earth) クリック拡大



【参考・引用】
・「榛名山の活動史」 産業技術総合研究所ホームページ
・「渋川市の古墳時代遺跡群の概要」 群馬県埋蔵文化財事業団ホームページ
・「群馬県の遺跡5 古墳時代Ⅱ集落」 群馬県埋蔵文化財事業団監修 上毛新聞社
・「榛名山噴火の理学的年代決定」  群馬大学 早川由紀夫研究室ホームページ
・ 国土地理院標高図、Google/Earth


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2020-05-03 (Sun)

2020年 夏野菜始動

2020年 夏野菜始動

2020年夏野菜の種まきと植え付けが始まりました。例年だと、いろいろな種類を作るが、今年は自分の好きな野菜だけ。畑に合わないナス科野菜はやめました。ジャガイモは自生(おのればえ)です。基本、苗は購入しませんが、キュウリの第一派分だけは買いました。4月の当地は寒くて、温室のない自分にはポット苗を作るのが難しい。第二派以降は全て自前の苗でやろうと思います。作付け表(クリック拡大)赤字は畑や育苗ポットに種ま...

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2020年夏野菜の種まきと植え付けが始まりました。例年だと、いろいろな種類を作るが、今年は自分の好きな野菜だけ。畑に合わないナス科野菜はやめました。ジャガイモは自生(おのればえ)です。基本、苗は購入しませんが、キュウリの第一派分だけは買いました。4月の当地は寒くて、温室のない自分にはポット苗を作るのが難しい。第二派以降は全て自前の苗でやろうと思います。

2020野菜計画
作付け表(クリック拡大)

赤字は畑や育苗ポットに種まきが終わったところ。黒字はこれから6月末頃まで順次続きます。夏野菜と書いたが落花生の収穫は11月頃。ネギ類の苗植えはありません。エンドレス栽培なので、8月に干しネギを作って植え替えます。秋冬の葉物野菜は9月上旬になってからスタートします。


メロン

育苗中のマクワウリとニューメロンです。この他にキュウリやスイカなど育苗中。早くに種を蒔いても気温が上がらないと発芽しないので難しい。昨年までは保温も行ったが、今年は自然に任せます。フライングするより、適温になった時に一気に蒔いたほうが、発芽も、その後の生育も早いみたい。種袋記載の薪時は目安であって、実気温を優先に考えた方が良いようです。

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No Subject * by kanna_24b
多種にわたって栽培ですね。
キュウリなんかはけっこな量なりそうですが、漬物ですか?

今年もいろいろ教えてください。

Re: No Subject * by 形名
kannaさん

種類でいうと去年の半分くらいですね。
気に入った種類を時期を分けて長く収穫する方式に変えています。
トウモロコシ、ニガウリ、ナス、トマト、ピーマン、オクラなどは止めました。
きゅうりは例年4回くらい蒔くのですが、確かにピーク時は食べ切れずに
収穫率は50%くらいです。おばけキュウリになってしまうので食べられない。
畑が自宅から離れてるのが原因です。でもピークが外れるとちょうどよい量で
収穫できますね。

管理人のみ閲覧できます * by -

依頼者さま * by 形名
依頼者さま

私のブログはリンクフリーなので全く問題ありません。
ただ私の記事は戦国時代とは無縁であり、お互いにメリットはないと思いますよ。
それでも宜しければ了承いたします。

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2020-05-02 (Sat)

お墓を探して痛ぅリング - 新田義貞編 -

お墓を探して痛ぅリング - 新田義貞編 -

今年の春は自転車の走行距離を案外伸ばしている。最近、記事にはしていないので、今日は書いておきます。相変わらず実態は史跡訪問なんですが。2020年5月1日、珍しく家を朝8時に出ました。いつもは大抵10時頃からノロノロと出陣します。↑20Kmほど走って前橋市本所の産直館で休憩。コロナがあるのでコンビニには寄りません。これから大胡町に入るのでコースは登りになります。赤城山の裾野の上ですからダラダラ坂です。↑今日の目的...

… 続きを読む

今年の春は自転車の走行距離を案外伸ばしている。最近、記事にはしていないので、今日は書いておきます。相変わらず実態は史跡訪問なんですが。


2020年5月1日、珍しく家を朝8時に出ました。いつもは大抵10時頃からノロノロと出陣します。

お墓を求めて痛リング1

↑20Kmほど走って前橋市本所の産直館で休憩。コロナがあるのでコンビニには寄りません。これから大胡町に入るのでコースは登りになります。赤城山の裾野の上ですからダラダラ坂です。

お墓を求めて痛リング2

↑今日の目的地は桐生~太田ですが、大胡で寄り道。堀越古墳という古墳時代終末期の円墳です。丘陵地の斜面にあり、完全に住宅に囲まれています。住民に聞いてやっとたどり着きました。

お墓を求めて痛リング3

お墓を求めて痛リング4

お墓を求めて痛リング5

↑最奥玄室の写真を撮り、戻って振り返ると妙なものが壁に!

お墓を求めて痛リング6

↑大胡の首長には守護神が付いているようです。撮影中は頭の直ぐ横にいたらしい。マムシだったら襲われていました。だから潜りたくないんだよな~

お墓を求めて痛リング22
マムシ

マムシはくさり模様なので直ぐ分かります。この守り神はアオダイショウの幼体だと思いますが、かなり大きい。岩の隙間で冬眠していたのを起こしてしまったらしい。当分、トラウマで石室に潜ることはないでしょう。笑

お墓を求めて痛リング7

↑寝起きで機嫌の悪い神様のバチが当たりました。街中で歩道の歩行者を避けて車道に出た瞬間に段差を超えられず転倒。右膝打撲でズボンが裂けてます。擦過傷で血がにじんでる。ヘルメットはしてるので頭は大丈夫。転ぶと無意識に頭を守るので、その分、膝や腕を傷めます。今日は痛ぅリングになりそうだ。あとは左足で漕ぐしかない。


お墓を求めて痛リング8

↑自転車は小破ですが、ハンドルを固定するステムボルトが緩んでしまいました。変速ブレーキレバーも曲がっていますが、固定バンドがずれただけで破損はない。シマノSORAは廉価ですが頑丈です。バーテープは交換ですね。


お墓を求めて痛リング9

↑第一の目的地善昌寺に到着です。丘の上にあって脚に効いてます。おまけに気温は28度くらいありそう。門前でしばらく動けませんでした。

お墓を求めて痛リング10

↑寺の背後に新田義貞公の墓があります。

お墓を求めて痛リング11

↑鎌倉時代中期の特徴を示す大きな五輪塔です。屋根のような火輪の張り出しが非常に小さい。ただ他の五輪塔から比べると風化しておらず、おそらく義貞が討ち死にした鎌倉時代後期以降に造り直したものではないだろうか? 北陸で討たれ、京都に送られた義貞公の首が本当に埋められているかは別稿記事で。笑

お墓を求めて痛リング12

↑小高い丘の上から見ると景色が良いです。でも画像に熱気が感じられるでしょう。暑くて山門の日陰で20分程へたり込んでいました。

お墓を求めて痛リング13

↑また神様の使いか?こっちへおいでと念を送ったら逃げていった。
桐生では、他にもまだ見たいところが残っているが、今日は無理。ここから一気に南下して伊勢崎市を経由して太田市に向かいます。途中の神社で昼食を取ったが写真を撮るのを忘れた。


お墓を求めて痛リング23

太田市の二体地蔵塚古墳です。以前来た時は鬱蒼としてましたが伐採されてしまった。

お墓を求めて痛リング14

古墳の上に鎌倉時代の二体地蔵があります
鎌倉幕府の北条高時が、幕府の戦費を取り立てるために派遣した黒沼彦四郎入道出雲介親連を、激怒した新田義貞は首をはね、この塚で晒首にした。この事件で幕府の義貞追討の命が下ります。義貞の鎌倉攻めには色々な要因があるが、直接発端となった事件です。高時の奢りが自らと親族の悲惨な最期をもたらした。清和源氏の軍事力をなめていた結果です。だが、その義貞も5年後には首と胴が離れることになる。まさに盛者必衰の理をあらわしてゆく。
因みに地蔵が設置されたのは、事件後、人が争う声がこの塚から聞こえるようになり、住民が供養に設置したという。怖い話です。


お墓を求めて痛リング15

花見塚神社です。太田市の街から外れた間道は歩道整備が遅れています。危険なので早川のサイクリング道路からアプローチしました。拍子抜けするような小さな公園ですが、ツツジが咲いていて綺麗です。

お墓を求めて痛リング21

↑勾当内侍の慰霊塔。

お墓を求めて痛リング17

↑正面、大きめの2つが新田義貞公と妻である勾当内侍の五輪塔です。形式でいうと鎌倉時代中後期の作風です。

お墓を求めて痛リング16

この小さな墓が本当に二人のものであれば良いと思いますが、歴史の観点からすると疑問があります。そもそも、義貞公の墓は多すぎます。私が知るだけでも全国に9ヶ所はある。足利尊氏から比較するとマイナーな人物ですが、地元では人気者なんですね。笑



お墓を求めて痛リング18

↑群馬県太田市と埼玉県深谷市を結ぶ上武橋です。近隣では一番古い橋でしたが、隣に新しい橋が掛けられて開通してました。これから自宅まで河川堤防のサイクリング道で帰ります。快適な道です。

お墓を求めて痛リング19

↑坂東太郎。日本一の水量を誇る河川も渇水のようです。広い草原状の河川敷には、焦げ茶色の野ウサギがたくさんいます。橋を自動車でさっと通過してしまう人には、きっとお目にかかれない光景でしょう。

お墓を求めて痛リング20

↑坂東大橋まで戻ってきた。ここまで来ると見慣れた景色です。もうだいぶ陽が傾いてます。打撲した右膝をかばっているので左膝に痛みが出てきました。



※Googleの自動車ナビ機能による作図なので、自転車で実際に走った道路とは殆ど一致していません。
走行距離   約105Km
走行時間帯 08:00~18:40



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No Subject * by けきすけ
堀越古墳もいいなあ~、なんて思いながら読んでいましたがびっくりですねv-12
藤岡の伊勢塚古墳でちょっとしたトラウマがありまして、夏は石室に入らないようにしていますが、蛇がいるとは想像もしていませんでした。石室に入るなら冬ですね(^^;)

武井廃寺跡も行ってみます。ありがとうございます!

Re: No Subject * by 形名
けきすけさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

私も石室潜りはあまり好きではないですね。伊勢塚古墳などは、カマドウマなので、それほど怖くないのですが、ゲジゲジ~ムカデ系はだめです。蛇なんて尚更です。堀越古墳で至近距離で見ていたら卒倒したかも。あれは住み着いているのかも知れないですね!
武井廃寺と隣の中塚古墳はいいですよ。中に潜るのでしたらライト必須です。

No Subject * by kanna_24b
暑さに体が慣れていないなかで105km恐れ入りました。

現在、日曜の朝BSで「太平記」の再放送が行われているので益々興味深く記事を拝見しました。

足お大事にしてくださいね...。

Re: No Subject * by 形名
kannaさん、こんにちは。

確かに気温が急に上がると体がついて行かないですね。
伊勢崎市や熊谷市は暑さで売ってる地域ですが、本当にきついです。
ただ、殆ど平地で山登りは無いので、距離が伸びても脚が全く
回らなくなるような事はないです。
膝は擦過傷だけで、打ち身のよう痛みは無いので大丈夫みたいです。
転んだのは久しぶりですね。転倒すること自体が老化現象ですね。⤵

No Subject * by nonokomama
こんばんは。
長距離走行、お疲れ様でした。
二体地蔵塚は、ずいぶんとスッキリしましたね。いいのか悪いのかわかりませんけど。
花見塚神社は、小さな神社で、みなさん菊の紋章に気がつきません。かくいう私も何度目か(2018年5月「つつじ咲く花見塚神社」)で、菊の紋章が気になり、掲げられている由来を真面目に読んでみました。
創建はなんと、あの後醍醐天皇の皇子・宗良親王だとあります。そして親王は、義貞と高等の内侍の娘・山吹姫の間に国良親王をもうけ、その子孫が宮下姓を名乗ったとあります。
そういえば、同級生に宮下君・宮下さん、いました。
ことの真偽はわかりませんけど、実はすごい神社のようです。


Re: No Subject * by 形名
nonokomama さん、こんばんは。

二体地蔵はどうしちゃったんでしょうね。鬱蒼としていたので刈り込んだのでしょうが、
木が枯れてしまいそうです。北側の畑の持ち主から苦情でも出たのかな?
全景写真も撮ったので追記しておきます。

花見塚の菊の紋章は気が付きませんでした。説明文も読んでなかったです。
nonokomama さんの記事に写真が撮ってあるようなので読んでみます。
これは昔の個人的な感想ですが、私は勾当内侍は名前も不明な人物で、太平記の創作ではないか
と思っていたんです。太平記は南朝の後醍醐天皇に好意的で、楠木正成も高く評価してますが
新田義貞は器の小さな人物だとけなしています。大事に女性にうつつを抜かすことを強調する
ために、彼女を創作したのではないかと。これは昔NHKの大河ドラマを見た頃の感想でなので、
勾当内侍についてはもう一度本などを読んでみます。何か参考になる書籍などありましたら
教えてください。義貞と内侍の間に子がいたという伝承もあるんですね。知らなかったです。
一方の義貞公は政治家にはなれない人物に思えますが、誠実な人間臭さがあって私は好きですね。

Re: Re: No Subject * by 形名
> nonokomama さん

nonokomama さんの記事にある花見塚神社説明文の文責者「小此木實次」さんというのは、
旧尾島町助役をしていた人で郷土史の研究家みたいですね。
生きておられれば86歳位の人です。その方が文献で調べて纏めたもののようですね。

No Subject * by nonokomama
こんばんは。
衝撃映像の二体地蔵塚ですね。
史跡のイメージ、なくなりそうです。
そうそう、善昌寺から尾島までのツーリング、なんとなく、上野国山上の行仙上人が、世良田長楽寺の明仙長老を度々訪れていた話を思い出しました。ほぼ一直線といったらいいすぎですけど、まあそんな感じですものね。
お疲れ様でした。
小此木さんは、わかりません。
実家の親たちより少し若し。
でも情報ありがとうございます。



Re: No Subject * by 形名
nonokomama さん、おはようございます。

以前の二体地蔵は少々不気味でしたが、陽に晒されて雰囲気がすっかり変わりました。
善昌寺あたりから長楽寺はほぼ真南になりますね。当日は、途中で気が変わって
金山の金龍寺にも寄って行こうと考えたのですが、道に迷って結局、新田庄に向かいました。
でも寄ってるとおそらく帰宅は夜になってましたね。高崎からは太田はやはり遠いです。
自動車で回れば簡単なんですが、土地の雰囲気が味わえないし、自転車だと思わぬものが
発見できて楽しいです。

No Subject * by むく
こんにちは!
私も先月冬眠から覚めて穴を出て来たアオダイショウを目撃。
山ノ神社の下の熔岩の割れ目の洞でした。
山中湖でヘビは珍しいので、しばらく観察しましたが、写真の紹介はネェ、です。
怪我にじゅうぶんお気を付けください。

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