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2019-10-15 (Tue)

古墳石室の構造変化(3/5) - 石室の構造と挙動解析 -

古墳石室の構造変化(3/5) - 石室の構造と挙動解析 -

前稿からの続きです。本稿では、関西大学工学部土木工学科教授である西形達明、西田一彦両氏が行った古墳石室の挙動解析の結果を紹介しながら、石室構造がその強度にどのような影響を及ぼすのかを見ていきます。両氏の実験には多くの観点を含んでいるが、ここに示すのは代表的なものだけを抽出しています。  (5)石室挙動解析結果①アーチ構造の必要性両氏は側壁形状が石室の安定性に及ぼす影響を確かめるために側壁部の石...

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前稿からの続きです。

本稿では、関西大学工学部土木工学科教授である西形達明西田一彦両氏が行った古墳石室の挙動解析の結果を紹介しながら、石室構造がその強度にどのような影響を及ぼすのかを見ていきます。両氏の実験には多くの観点を含んでいるが、ここに示すのは代表的なものだけを抽出しています。
  
(5)石室挙動解析結果

①アーチ構造の必要性
両氏は側壁形状が石室の安定性に及ぼす影響を確かめるために側壁部の石をアーチ状に積んだ場合と垂直に積んだ場合を比較しています。モデル1がアーチ状に積んだ場合の解析結果です。
 
 
古墳石室の構造変化7
モデル1
 

石室内部の埋め戻し土の除去を起点にして、石積みは石室内部に向かって僅かに圧縮変形し、容積が小さくなっているのが分かると思います(a→b→c)。しかし、その変化は大きいものではなく、安定した状態を維持しています。モデル図の中にStepという単位がありますが、個別要素法では各要素の運動方程式を時間経過で積分して挙動を計算しますが、その時間変数です。前稿で記載したように差分法により各構成粒子を動作させますが、粒子の移動~接触確認~作用力計算のループを15万回繰り返しているという意味です。
Stepについては以降のモデルも同様。

【補足】 
「差分法で粒子を動かす」という表現は理解しにくいと思いますので補足します。具体的に云うと、各構成粒子に発生しうる加速度を予め定数値として与え、現在の速度+加速度分の速度をステップ毎に計算しながら、粒子の新しい位置を計算し直す事を意味しています。例えば墳丘を覆う粒子は全て重力加速度を持つし、側壁横の粒子は石室に向いた水平方向の加速度を持ちます。各粒子は自由に運動できる仮想体とするのが前提なので、実体の挙動を数学的に疑似動作させることが出来ます。人によっては数式で表すほうが分かりやすいかも知れませんが、式自体の説明が必要で記事が長くなるので割愛します。
古墳石室の構造変化25


 
古墳石室の構造変化8
モデル2
 

 モデル2は石室側壁材を垂直に積んだ場合の解析結果です。この解析では側壁部の石積みが直線状になっているため、石室高さの中央部から下半分にかけて水平変異が大きくなっている。盛土の土圧を受けて石室内部に向けて座屈が起きています。座屈とは構造物に加わる荷重がある限界を超えた時に、急に変形を起こしてたわみを生ずる事を指します。つまり側壁は崩壊するということです。
 
以上の結果から石室内部側の壁面は曲線上のアーチ状にすることにより、古墳盛り土からの水平土圧を受け止める事が可能な事が分かります。僅かなアーチでも垂直の場合とは全く異なる結果が得られました。構造力学的に言えば、形状をアーチ状にする事で作用する土圧は壁面石積み間の垂直圧縮力に変換されます。言い換えると、石積み間のせん断抵抗をより大きくする事が可能になっている。せん断とは材料が土圧応力によって引き裂かれる事を言います。従って、せん断抵抗とは引き裂きに対する抗力、言い換えると石材と石材の間の摩擦力を指します。圧力によって石材間の摩擦抵抗が大きくなっているので、周囲の土圧に対する抵抗力があると理解すればよいでしょう。
 
 
②天井石に求められる重量
次は天井石の重量の影響を調べるために、天井石の大きさをモデル1の半分にした解析モデル3です。
 
 
古墳石室の構造変化9
モデル3
 

この解析ではモデル1の天井石の大きさを半分にしている点を除けばモデル1と同様条件となっている。にもかかわらず、石室壁部の石積みは大きく内側に押し出され、明らかに石室は崩壊状態に至る。これは天井石が石室の安定性に及ぼす影響が非常に大きい事を示している。墳丘の土砂よりも天井石の比重は大きいので、垂直方向の圧力が低下した結果だと推定できます。
古墳の場合はエスキモーの氷雪ブロックの家のように天井まで側壁と同じ構造材料では持ち堪えられない。大きな違いは側壁・天井外側からの土圧の有無です。実験者は重量の大きい天井石が石室上部に設置される事で上部盛土の荷重を受け持っている。さらに、側壁のせん断抵抗を増加させて石積みの安定性を向上させていると述べています。これは、側壁のアーチ形態の効果と同じく、天井石が側壁石材間の摩擦力を高める効果を持つ事を示している。

私の個人的なアイデアですが、天井石の重量低下分を墳丘の土砂量を増やして解決する方法もあると考えました。大型の天井石は運搬負担が大きいので築造工数に大きく影響します。しかし、よく考えると、天井石の面積を変えずに軽量化することは、墳丘の垂直土圧で折れやすくなる事が想定されます。天井石の折損強度と重量効果を考えれば、大型の天井石はやはり外せない要素かも知れません。今まで古墳石室の天井石の大きさは埋葬者の権威の象徴というイメージを持っていましたが、力学的にも意味を持っていたという事です。
  

③石室埋め戻しの必要性
モデル4の解析は古墳の施工手順を検討するために石室内の埋め戻しは行うが古墳の盛土を積み上げるまえに石室に充填した土を除去したと仮定した時の解析モデルです。
 
 
古墳石室の構造変化10
モデル4
 
 
石室内に土がない状態で盛土が石室の高さまで施工されると、容易に石室が不安定な状態に至ることを示している。つまり、墳丘盛土の積み上げ時は石室に大きな土圧が掛り、石室内側から支えて置かないと崩壊してしまうという事です。これはモデル3の場合と似ていますが、盛り土のない状況では天井石があっても石積みに掛る垂直荷重が不足している事を示していると思います。この不安定な状況を回避するためには、石室内に古墳盛土の積み上げが終わるまで、土砂を充填しておく必要があります。
高橋逸夫氏は1937年の論文で、古墳築造過程では、石室積み上げ~墳丘の盛上げと並行して、石室は土砂で充填していく必要があると論述しています。この主張は、この机上実験によっても実証されたと云えるでしょう。

以上の実験は、解析モデルなので天井石の移動過程における石室への偏った荷重変化などは考慮されていません。個別要素法は特定の条件のもと、静的な状態からの挙動解析を行います。従って天井石を乗せるという人為的な条件変化をシミュレーションする事はできません。つまり、天井石などは人力で引っ張るわけですから、石室に均等に荷重が掛かるのは真上にセットされたタイミング以降です。石を移動している最中は端から徐々に荷重がかかっていき、荷重バランスが崩れた過程を経ます。強力な石室内側からの支えがないと天井石の移動過程で石室は確実に崩壊するでしょう。当時はクレーンなどの重機は無いですから持ち上げたまま、静かに最終位置にセットすることは不可能だったと思います。最後は私見による推定が入りましたが、盛り土を積み上げる以前の段階でも、巨大な天井石移動に伴う荷重不均衡状態を支えるためには、埋め戻しの対応は必須となると判断します。
  
 
 
次回に続く
 
参考・引用資料
■土木史研究 第22号
 「古墳石室構造の歴史的変遷についての技術的考察」 西形達明、西田一彦
■石舞台古墳の巨石運搬ならびに其の築造法            高橋逸夫
■テキスト資材「個別要素法の基礎 -Distinct Element Method- 」



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訃報 * by 上州の人
今回の台風19号により、藤岡市の国史跡、「十二天塚北古墳」の墳丘の一部が崩落したとのことです。

Re: 訃報 * by 形名
上州の人さん、こんにちは。情報ありがとうございます。

> 今回の台風19号により、藤岡市の国史跡、「十二天塚北古墳」の墳丘の一部が崩落したとのことです。

十二天塚は猿田川河岸段丘の縁にありますから、地盤が弱いのかも知れないですね。
最近は樹木もみな伐採して裸状態ですからね。

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2019-10-12 (Sat)

古墳石室の構造変化(2/5) - 石室変化の要因と力学解析 -

古墳石室の構造変化(2/5) - 石室変化の要因と力学解析 -

前稿からの続きです。(3)石室変化の環境要因胴張型石室が特定の渡来系氏族と無関係に発展し、導入されていったとすれば、その契機・要因とは何なのか、推定を交えて考えてみます。先ずは私の考える環境要因です。①古墳の小型化近畿圏では6世紀後半から薄葬の流れが始まり、7世紀中期には朝廷から薄葬令が発布されて大型古墳は規制されていきます。薄葬令がどのように地方まで浸透したかは定かではないが、上毛野地方では、畿内で...

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前稿からの続きです。

(3)石室変化の環境要因
胴張型石室が特定の渡来系氏族と無関係に発展し、導入されていったとすれば、その契機・要因とは何なのか、推定を交えて考えてみます。先ずは私の考える環境要因です。

①古墳の小型化
近畿圏では6世紀後半から薄葬の流れが始まり、7世紀中期には朝廷から薄葬令が発布されて大型古墳は規制されていきます。薄葬令がどのように地方まで浸透したかは定かではないが、上毛野地方では、畿内で大型古墳が造られなくなってからも暫くの間は大型古墳が造られました。しかし、地方でもやがて古墳は急速に小型化していきます。きっかけは限られた地域に大型古墳を造り続ければ、やがて土地はなくなり、耕作地の確保にも支障が出てきます。その結果、合理的に考え、古墳を小型化したり、耕作地から離れた丘陵地などに移していくようになったと考えます。藤原京平城京もその都市構築において古墳をいくつも壊したり移築したりして土地を確保したことが分かっています。既に過密になりすぎていたのでしょう。しかし、墳墓が権威の象徴という文化はしばらくは続いたと思います。古墳は小型化しても石室自体が比例して小さくなる訳ではない。むしろコンパクトな墳丘に対して石室は相対的に大きなものとなっていきます。権力のある者は小型化の分、石室構造面から質の向上を図っていったと考えます。緻密な積石、精緻な切石の採用、装飾等です。奈良県明日香村にある古墳時代後期の石舞台古墳などは巨石に目が奪われがちです。多大な工数が掛かっているのは伝わってきますが、造形の質として見た場合には大雑把な造りと言う見方も出来ます。

 
古墳石室の構造変化22
 石舞台古墳の玄室


②石室材料の変化
石室を古墳時代中期のように巨大な石だけで造っていけば、その構築のための労力や期間は非常に大きくなります。薄葬令の主旨は土地の無駄使いだけではなく、労働力の徴収という民衆に負担のかかる習慣の改革であったと考えます。民衆に過剰な負担を強いれば、税収対象である民衆の生産力に影響が出るからです。そこで、石室の材料は身近で確保できる石材に変化していったでしょう。例えば、河原の石であったり、火山の噴火で出来た石を加工して積み上げる文化です。該当地方の環境条件に合った独特の構築技術が生まれていったと考えます。古墳築造労力の縮小・適正化という考えが、律令制度の構想の中で現れて制度化していったと思われます


③追葬墓の普及による石室の大容量化
古墳の埋葬主体部は、古墳時代前期~中期では竪穴式でした。同一古墳に追葬する場合は、墳丘の別な場所に埋葬部を造ることになります。これは墳丘が大きければこそ可能であった対応方法です。中後期に入って横穴式が出現すると同じ石室内に埋葬することが可能になります。しかし、追葬にはある程度の石室容量が必要です。古墳の全体の小型化の推移に反して石室は大きさが求められたということです。空間が大きくなれば、単純に考えても構造的に弱くなりやすい事は想像できます。小さな材料で、強度のある大きな空間を作るという新たな課題が胴張型石室に向かわせた可能性があります。


④古墳築造職人の専任化による技術集積・向上
以上3点とは観点が異なるが、古墳時代も後期になると、墳丘規模は小さくなっても技術的には高度化していきます。造墓に関わる人達も初期においては、地域住民の労力提供と古老の知識で対応してきたと考えますが、その技術が高度化してくると難しくなってきたと思います。また、一般の農民が造墓に関われるのは農閑期にしか対応出来なかったと思う。でも、専任化すれば時期的な制約からも開放されます。そこで、造墓を職掌とする専門技術集団が現れてきたのではないかと考えています。墳墓の築造に関わる職人が専任化すれば、技術が継承されるだけでなく、経験の積み重ねで技術の改革、進歩が期待できます。



(4)石室の構造力学解析法
さて前述したような環境要因から胴張型石室はどのように進化したのか、具体的な根拠を上げながら述べていきたい。しかし、単に言葉による推測説明だけでは説得力がありません。そこで、古墳築造を構造力学面から研究している研究者の実験結果を交えて見ていきたいと思います。関西大学工学部土木工学科では、過去に古墳石室の構造形式と築造手法をモデル化し、個別要素法という手法でシミュレーションして古墳築造方式の構造力学的な解析を行っている。下の図が解析モデルの一例です。 
古墳石室の構造変化6
解析モデル模式図


古墳石室の構造変化24
モデルとなった岩谷古墳の外観と断面構造


このモデルは山口県下関市にある岩谷古墳の構造をモデルに採用しているという。横穴式石室を持つ小さな古墳らしいが、壁材の積み上げ時に持ち送りという技法が使われている。石室材は面を平らにした石を積み上げた構造で、積む時に石を内部側にずらす事によりアーチ状に積み上げていく。断面図だけでは分かりづらいと思うが、胴張型の石室に近いモデルともいえる天井には大型の天井石が乗っています。その他、積み上げた石材間の摩擦係数と盛り土を構成する粒子間の摩擦係数等をモデル値として定数化しています。

個別要素法とは土木工学分野などで応用されている構造物の力学的な挙動を数学的に実験する手法です。私もシミュレーション手順をプログラミングレベルで理解できていないので、詳しい説明はできませんが、概要だけ記載しておきます。
構造物の挙動を机上実験するには、解析対象モデルを構成する要素、例えば古墳であれば、盛り土の粒や石室材の石などが自由に運動できる仮想的な、円形・球体・多角形の集合体として考えます。それらの各要素(砂粒や石片)を運動方程式で表せば、方程式を時間経過で積分計算して動き方を机上で実験することができます。具体的には以下の手順をプログラミングして実行します。②~④の間をループさせて時系列の逐次挙動を追跡しています。

古墳石室の構造変化23

本稿で紹介してるモデルは2次元個別要素法という最も単純なものです。補足しますが、この解析では、石室の構築手順も解析要素として推定し、前提としています。具体的にいうと、石室には壁石の積み上げと同時に石室内に土砂を充填していき、壁石の安定を保った状態で天井石を乗せ、後で土砂を取り除くという方式です。この手順を踏まないと、天井石移動中の荷重は不均衡に石室壁面に掛かり、最終位置に来る前に壁面は崩壊してしまいます。この工程を経た上で、内部の土砂を除去した瞬間を起点として、墳丘の土圧と天井石が及ぼす応力によって地下空間となった石室がどんな変化を起こすかをシミュレーションしている訳です。
 
 

次回に続く



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No Subject * by ViVid Mr.K
こんにちは。。。
古墳はいつも何かのついでや、神社の敷地にあったりしますと見ることはあるのですが、石室にも色々な造り方があるのですね・・・
勉強になります。。。
お邪魔いたしました。。。

Re: No Subject * by 形名
ViVid Mr.K さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

私も古墳めぐりの経験は少ないのですが、北関東だけ見ても石室のバリエーションは多いですね。
特に古墳時代後期と呼ばれる6世紀以降になると、地域に特化した材質や構築方法が採用されているようです。
古墳めぐりを趣味としている人もいますが、そんなところが面白いのかも知れませんね。

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2019-10-09 (Wed)

古墳石室の構造変化(1/5) - 胴張型石室は渡来系か? -

古墳石室の構造変化(1/5) - 胴張型石室は渡来系か? -

本稿シリーズは2014年に執筆した記事をベースに全面的に加筆・書き直したものです。(1)胴張型石室の形態胴張型石室とは、専門用語で横穴式石室の床面や壁面が曲面で構成された石室を指します。曲面といっても球形とまではいかず、多くは三味線の胴のような形が多いので、三味線型と呼ばれることもあります。この形の石室は埼玉県の旧比企郡地域(埼玉県の中央部)を中心に非常に多く見られます。群馬県にも南部の藤岡市にあります...

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本稿シリーズは2014年に執筆した記事をベースに全面的に加筆・書き直したものです。

(1)胴張型石室の形態
胴張型石室とは、専門用語で横穴式石室の床面や壁面が曲面で構成された石室を指します。曲面といっても球形とまではいかず、多くは三味線の胴のような形が多いので、三味線型と呼ばれることもあります。この形の石室は埼玉県の旧比企郡地域(埼玉県の中央部)を中心に非常に多く見られます。群馬県にも南部の藤岡市にありますが絶対数は少ない。おそらく埼玉県の葬送文化の影響を受けているものと思います。

      
古墳石室の構造変化2
群馬県藤岡市にある伊勢塚古墳石室(藤岡市hpより) 


古墳石室の構造変化3
模様積みの石室壁面(日本の遺跡17群馬県西部版より) 


伊勢塚古墳は、古墳のデパート、群馬にあっても特異な古墳です。墳丘が不正八角形であることも特徴とされるが、目立つのは、石室壁面が大小の河原石を組み合わせた模様積みであることです。そのため見逃しやすいが、写真でも分かるように明らかに胴張型石室です。石室内部に鋭角的な箇所はなく、奥壁を除いて床面も壁面も緩いカーブを描いているのが特徴です。古墳の外見的なサイズに比べて石室は非常に広く、かつ、天井が高い。力学的にも高度な技術が使われているのは素人にも分かります。このような石室は今まで見たことがありません。大型の石室材は天井石のみで、他には小さな自然石が多いせいか、中に入ると崩れないか不安に感じます。しかし、築造から1500年の間には大きな地震もあったと思います。それに耐えたということは安定した構造であることを証明していると言えるでしょう。
 

古墳石室の構造変化1
伊勢塚古墳は不正八角形墳とされているが外見は円墳に見える(藤岡市hpより)


古墳石室の構造変化4
胴張型の床面と壁面
 

古墳石室の構造変化5
粘土基盤層に細長い石を叩き込んだ裏込め手法による模様積み壁面


埼玉県秩父郡皆野町金崎に所在する大堺2号墳は典型的な埼玉型の胴張型石室をもつ。伊勢塚古墳は大量の粘土を基層にして自然石を挿して曲面を作っているが、こちらは埼玉県西北部にある緑泥片岩の板石を持ち送りの技法で曲面に積み上げている。画像でも分かるが小さな墳丘に対して大きな石室を実現しており、構造的にも安定しているように見える。
 

古墳石室の構造変化19
金崎古墳群に残存する4基の中の大堺2号墳


古墳石室の構造変化20
大堺2号墳の石室(板石の持ち送り積みによる胴張型石室)


群馬の伊勢塚古墳と埼玉の大堺2号墳の石室は形状的によく似ているが、築造方法には大きな違いがある。形態的な影響は受けていても、各々の環境条件に合った独自の方式を編み出している点に注目する必要があるでしょう。伊勢塚古墳は付近の鏑川の河床から自然石が入手でき、埴輪窯が多い土地柄ですから粘土が容易に手に入る。一方、金崎古墳群の近所では石室材料の緑泥片岩(武蔵青鉄平石)の露頭があちこちにあります。この石は片理と呼ばれる板状に割れやすい性質があり、加工運搬が容易です。両者とも無理をせず、立地環境に合った築造方法を工夫しています



(2)胴張型石室と築造氏族の関係
埼玉県立さきたま史跡博物館や埼玉県立博物館の館長を務めた金井塚良一氏は数年前に亡くなられた。同氏は、1980年代から一貫して以下のような説を述べています。

胴張型石室は7世紀の初頭に埼玉県比企地方で出現し、以後、急激な展開を示している。墓制を持ち込んだのは壬生吉志などを代表とする渡来系氏族であると推定できる。根拠は入植の時代や地域と展開の仕方が一致するためである。この墓制は吉見丘陵東松山台地に始まり、西に向かって荒川中流右岸に至り、嵐山方面にも広がっている。
 
古墳石室の構造変化21
金井塚良一氏

金井塚氏のこの説は有名なものですが、現在では他の研究者から否定的な評価を受けています。この説が提唱された時代は埼玉の考古調査も十分ではなく、やむを得ない部分があると思います。否定されている根拠を以下に示します。
 
①埼玉県でのその後の調査成果
埼玉の古墳調査や研究が進むにつれて、胴張型石室壬生吉志の展開地域とは別な場所にいくつも発見されている。また、胴張型石室を持つ古墳は7世紀初頭だけではなく、6世紀後半のものも見つかっており、壬生吉志氏族が入植した時期よりも前に出現している。
 
②群馬県の渡来氏族の墓制
上毛野国と武蔵国は文化的にも共有範囲と見ることが可能である。また、群馬県にも渡来系氏族(吉志集団)の入植があったことは文献史研究などから確実視されている。しかし、入植した地域と胴張型石室という墓制分布が必ずしも一致しない。さらに、前述したように非常に数が少なく、渡来系氏族がその他の形態の墓制も取り入れていたと考えないと無理がある。
  
③胴張型石室の分布状況
最近は全国的な規模での調査が行われており、分布範囲が明確になってきている。その結果、埼玉県の特定地域に限定しているわけでなく、東北南部関東北部信濃相模駿河三河尾張美濃と東日本全域にあるといってもよい。九州をはじめ西日本にも分布している。これらの地域にも渡来系の氏族は入植していないとは言えないが、吉志集団という特定の渡来系氏族の居住地とは言い難い。同一氏族依存の墓制となると広すぎて説明できない。
 

したがって、吉志集団と胴張型石室という墓制とは直接関係しないという事は、状況証拠として明確に言えると思います。ただ、吉志集団は胴張型石室を採用しなかったと言っている訳ではありません。渡来系氏族が独自の墓制を持っていたことは十分考えられるが、移住先の地方には地方独自の墓制習慣があったはずです。新たに入植してきた氏族が氏族墓制を守り通す場合もありうるが、地方の文化を受け入れて融合していく場合も多いと思います。氏族と墓制を連結することは重要なヒントであるが、頑なに連結して固定化してしまうのは柔軟な考え方とは言えないと思います。

もし、胴張型石室が特定氏族独自の文化ではないとしたら、何故、生まれてきたのか? 次稿からは其の点を検討したいと思います。
 


次稿に続く
 
参考・引用資料
■『古代東国史の研究』  金井塚良一 著
古代東国の原像   金井塚良一他 著
古代東国と大和政権 森田悌 著
古代の群馬埼玉   松島栄治他 著




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No title * by 形名
こんばんは。tat**465さん。

鍵はいりませんよ!
いつでも、どんな内容でもけっこう。

これが私の趣味No1です。
にゃんことメダカは残念ながら出てこないのです。^^ゞ

No title * by tat**465
お気遣いありがとう!

堂々たるレスで来たわ♪


このテの事は興味持つとハマリそうね~


深く飽きる事ない趣味だと思うわ~(^^)v

No title * by 形名
tat**465さん。
興味はあっても中々記事を書くのは大変ですね。
歳のせいか素早く書けなくなってます。
読書量が落ちているのも原因かな。
本当はもっと重いテーマで書きたいんですけど。
いずれね。おやすみ。

No title * by sagami_wan
おはようございます。初めて知る新しい事実です。少し難しい記事内容のため、消化が進みません。少しづつ咀嚼します。(笑)

進化した技術集団の築いた横穴墓と見るべきでしょうか。ここでも尾張は不気味な存在感を見せていますね。

No title * by 形名
sagamiwanさん、こんにちは。
古墳石室の変遷にも触れず、いきなり本題に導入したので分かりにくいかも知れませんね。それに文章がヘタなので…

私は、古墳時代の前期においては各氏族の葬送文化が自由に現れていたと思うのですが、7世紀初頭からは律令の前段階に相当するような規制の枠が徐々に進行した時代と考えています。まだ不文律だったと思いますが。此処に上げた石室築造形式という一例も氏族に特化したものではなく、環境要因で必然的に発生した技術だと思っています。記事中に記載してませんが、実は九州にも胴張型の石室は多いようです。列島各地への広範囲な展開を見ると氏族限定文化とみるのは無理があるように思います。

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2019-09-24 (Tue)

神話の形成と目的(3/5) - 神武東征の意味「相戦う天孫族」 -

神話の形成と目的(3/5) - 神武東征の意味「相戦う天孫族」 -

前稿からの続きです。神武天皇の本名カムヤマトイワレヒコノミコトは、彼がヤマトに入ってからの名前です。九州時代はヒコホホデミですが、あまりポピュラーではない。本稿では古事記での名称を省略形でイワレヒコと呼びます。ついでに云うと、ヒコホホデミという名前は、日本書紀では彼の祖父=山幸彦と同じ名前です。山幸彦とイワレヒコは本来は同一人物であり、系譜はもっとシンプルであった可能性がある。日向三代が長い歳月で...

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前稿からの続きです。

神武天皇の本名カムヤマトイワレヒコノミコトは、彼がヤマトに入ってからの名前です。九州時代はヒコホホデミですが、あまりポピュラーではない。本稿では古事記での名称を省略形でイワレヒコと呼びます。


神話の形成と目的6


ついでに云うと、ヒコホホデミという名前は、日本書紀では彼の祖父=山幸彦と同じ名前です。山幸彦とイワレヒコは本来は同一人物であり、系譜はもっとシンプルであった可能性がある。日向三代が長い歳月であることを強調するために系譜が引き伸ばされたか、または、海幸・山幸の神話を最終段階で挿入するために系譜が伸ばされた可能性もあるでしょう。

■海幸彦(大隅隼人の始祖)      ホデリ(古事記)   ホスセリ(日本書紀) 
■山幸彦阿多隼人の始祖)    ホオリ(古事記)   ヒコホホデミ(日本書紀)
■神武天皇                イワレヒコ(古事記) ヒコホホデミ(日本書紀)

イワレヒコの父ウガヤフキアエズなどは存在感が余りありません。欠史八代と似ています。日本書紀では、ニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメを娶り、ブス?のイワナガヒメを実家へ返してしまった結果、彼女に呪われて永遠の命を失います。一方で日向三代は180万年も統治した事になっています。いったい、呪いで寿命がどう縮んだのか突っ込みたくなるようなホラ話です。古事記では、山幸彦は580歳まで生きたと記載されている。


さて本題の、イワレヒコが突然、日向を離れ東に向かう理由について考えたいと思います。ニニギノミコトは高天原の天神一同の総意によって九州に降臨しました。それは、日向の地を天孫が治めるという使命を帯びていたに違いない。なのに、ニニギノミコトの曾孫世代のイワレヒコは何故ヤマトを目指すのでしょうか? 説得力のある理由があるとすれば何なのか考えてみたが思いつかない。やはり、7世紀末の朝廷の立場になって考えるしかないと思います。
前稿で述べたように九州の敵対氏族を統治する正当性を示すために九州降臨を果たしたと考えています。海幸彦山幸彦が、各々吾田隼人大隅隼人の始祖になっているのを見れば一目瞭然です。それだけ隼人が強敵であったという事です。それは、思想統制に失敗して反乱がおき、鎮圧にかかった期間を見ても分かります。おそらく東北蝦夷の比ではなかったのでしょう。隼人の大規模反乱は720年2月。日本書紀が完成する僅か3ヶ月前の事です。天孫降臨から日向三代の神話が世に出るのがもう半世紀早ければ、状況は変わっていたかも知れません。書紀の編纂は遅すぎたが、隼人の同族化構想を盛り込むという意味では目的を達成したわけです。

では次にイワレヒコが日向を離れ、東征を決める協議のシーンを見てみましょう。原文は省略して訳文だけにします。

①『古事記 神代編 其の七』
兄イッセノミコトと弟イワレヒコは高千穂の宮で話し合い、弟は兄に次のように提案します。
いかなる地に住まいすれば、平らかに天の下の政(まつりごと)を治めることができましょうか。ここから出て東に行きませんか。
兄は同意したらしく、すぐに2人は出発する。東というだけで、目的地がヤマトの地とは言っていない。

②『日本書紀 巻三「カムヤマトイワレヒコノミコト」』
イワレヒコが兄弟や子供たちを前にして云う。
高皇産霊尊と天照大神が、豊葦原瑞穂国をニニギにミコトに授けられた。代々父祖は善政を敷き、恩沢が行き渡った。そして、ニニギミコトが降臨してから179万2千4百70余年が経過したが、未だに遠い国には王の恵みが届かない。そして、村々は未だに互いにいがみ合い戦っている。
塩土翁の云うことには、「東の方に良い土地が有り、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗って飛び降って来た者がある」と。思うにその土地は大業をひろめ、天下を治めるに良いであろう。きっとこの国の中心地であろう。その飛び降ってきた者は、ニギハヤヒという者であろう。そこに行って都を作ってみようと思う。 
と話して出発の準備を始める。

古事記ではイワレヒコ兄弟で話し合うが、具体的な理由も明らかにせず、あっさりと東征を決めてしまう。書紀の方は、それでも国々の問題を理由に上げているが、ヤマトへ行くと何故問題が解決するのか、明確にはしてはいない。今更、国替えするなら、なぜ九州に降臨したんだろう?イワレヒコの言葉は明らかに、この地は地上を治めるのに相応しくないと言っている。また、日向国が日本の地理的中心でないことは降臨する時から暗黙の認識だったのではないか。
古事記も、日本書紀の設計者も、うまいアイデアは見つからなかったようです。両書とも、とってくっつけたようなストーリーと云えなくもない。ヤマトでなければ成し得ない切実な理由とは言い難く、本人も確信を持っていない描写です。天孫降臨を強引に九州に持ってきたが、今度はヤマトに帰る理由づくりに困ってしまったというところでしょう。それでも設計者としては、なんとか理由を付けて舞台をヤマトに移さないと、現実路線のヤマトでの皇統につながりません。

注目すべきは、天孫ニギハヤヒノミコトが既に降臨しており、国を作っている事を知っている事です。つまり、裏を読むと、イワレヒコがヤマトの地に向かうことは、ニギハヤヒに国譲りさせるか、武力で奪うかという覚悟を決めたことになる。此処で不審なのは、ニギハヤヒも天の磐船に乗って降臨した天孫であり、ニニギノミコトも天孫です。各々、異なる地に降臨して国を治めている。これは、天神(日本書紀の場合は高皇産霊尊)の意志でもあったはずです。ヤマトでの争乱の途中で互いに天孫である証拠品を見せあい確認している。しかし、記紀神話ではこの矛盾を説明しないばかりでなく、高皇産霊尊も天照大神も東征においてイワレヒコを支援しています。場当たり的な展開になっているのは、この神話が複数の個別神話を接着し、統合したことを思い起こさせます。明らかにニギハヤヒの神話とニニギノミコトの神話は全く別物です。接着による話の不整合を推敲しきれていない。これは本稿シリーズの第1稿「神話の形成と目的 - 天孫降臨の地 -でも記載しました。大王家と、物部氏大伴氏など王権中枢の伴造氏族が作成した神話をムスヒ神話といいます。「産(むす)」は生み出す、「霊(ひ)」は霊威の意です。本来の氏族固有神話の中の祖神を表しています。この段階では大王家祖神にアマテラスはまだ存在しない。

■大王家…タカミムスヒノミコト(高皇産霊尊
■物部氏…ニギハヤヒノミコト(饒速日命
■大伴氏…アメノホシヒノミコト(天忍日命


不自然なストーリーの発生過程の一端は、7世紀末の朝廷政策に現れています。朝廷は、690年代初頭に、各氏族から氏族の墓記先祖伝承記録)の提出を命令しています。記紀神話を統合制作するための準備段階に間違いありません。物部氏墓記は、現代では残存しないもっと古い時代の文献にあった可能性もあります。だが何れにしろ、物部氏が自身の始祖伝承としてニギハヤヒの降臨伝承を提出したのは間違いないと思います。物部氏は大氏族ですから、すでに此の伝承も既成事実化して伝聞されていたと思います。しかし、朝廷としては大王家の立場を正当化しなければならない。臣下豪族の伝承をそのまま受け入れることはできないのです。記紀神話の創作過程で、大王家と他氏族の墓記で決定的に対立的なのは物部氏(尾張氏含)以外にはなく、後者は大きく歪められたと言っても良いでしょう。これらの神話統合の主導者が誰なのか明確ではありません。執筆者は山田史御方である可能性は高いが、彼が設計構想まで一任されていたのか疑問もある。720年には書紀編纂の報奨として従五位上に昇進しているが、文学者的な存在であり、正史編纂政策をコントロールしていたとは思えない。後に国司職を得た時に、納税品の横領事件を起こしています。あまりに書紀編纂の貢献度が大きいため、不問に付されているが、大した人物とは思えません。

古事記においては強引であるが、ニギハヤヒはイワレヒコがアマテラスの子孫である事を知り、初めから服従の意思を持っていたことになっている。敵対してはいません。一方、日本書紀ではイワレヒコはニギハヤヒ勢力と戦っています。ニギハヤヒを武力で服従させ、先行降臨氏族を臣下とすることの正当性を図ったのです。やがてニギハヤヒは降伏し、土蜘蛛の首魁であるナガスネヒコは悪者に仕立てられ、ニギハヤヒ自身によって殺されます。土蜘蛛ですから討伐される運命にありますが、ニギハヤヒの罪を軽減させるためのスケープゴートとも云えるでしょう。これは、8世紀時点での物部氏への配慮かも知れません。但しイワレヒコはニギハヤヒと直接交戦していない。戦ったのは配下のナガスネヒコです。おそらく先行する降臨氏族であるニギハヤヒと直接戦うことは、天孫族どうしの争いを前面に出す事になり忌避したのでしょう。これは記紀以外の文献でも、うまく戦いを回避している点で共通しています。やはり、神話の統合に際して天孫どうしが戦うという問題意識は持っていたようです。

既に臣下となっている物部氏の祖神を神話で貶める必要はなかったと思うが、朝廷としてはやむを得なかったのでしょう。物部氏の祖神は天孫でありながら、新撰姓氏録でも皇別氏族には入らず、神別氏族ですから格下の臣下扱いです。カバネも多くは(むらじ)であり、後に一部が朝臣(あそみ)を賜るに留まる。宗家は6世紀末には大連として権勢を誇ったが、大王家にヒメを提供するような事はなく、物部氏にとっては屈辱的だったように思います。平安時代初頭になって、物部氏尾張氏の伝承を詳しく記載した先代旧事本記が作成されたのは、物部子孫の鬱憤晴らしのような気もします。この文献の序文は偽書でも、本編は暗に物部氏の復権を期待しているのは間違いない。文献批判は勿論必要ですが、記紀神話が成立する以前の氏族闘争を検討する材料になる事は確かです。



次稿に続く


【参考・引用】
■六国史 テキスト版
■日本書紀 全現代語訳(上下巻) 講談社学術文庫        宇治谷孟
■口語訳 古事記         文藝春秋             三浦祐之




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2019-09-17 (Tue)

日向国風土記「天孫降臨」は改竄されたものか?

日向国風土記「天孫降臨」は改竄されたものか?

天孫降臨神話の記事を以前書いたことがありますが、その時、記紀と一緒に日向国風土記逸文にも目を通しました。過去記事の中では触れる余裕がなかったが、気になる点があります。(1)記載の類似性①日向国風土記逸文「知鋪郷」釈日本紀卷八(萬葉集註釈)の日向国風土記逸文には「知鋪郷(高千穂)」の名称由来の逸話がある。以下のように記されている。【原文】日向國風土記曰△臼杵郡内△知鋪郷△天津彦々火瓊々杵尊△離天磐座△排天八重...

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天孫降臨神話の記事を以前書いたことがありますが、その時、記紀と一緒に日向国風土記逸文にも目を通しました。過去記事の中では触れる余裕がなかったが、気になる点があります


(1)記載の類似性

①日向国風土記逸文知鋪郷
釈日本紀卷八(萬葉集註)の日向国風土記逸文には「知鋪郷(高千穂)」の名称由来の逸話がある。以下のように記されている。

【原文】
日向國風土記曰△臼杵郡内△知鋪郷△天津彦々火瓊々杵尊△離天磐座△排天八重雲△稜威之道々別々而△天降於日向之高千穗二上峯△時△天暗冥△晝夜不別△人物失道△物色難別△於兹△有土蜘蛛△名曰大鉗小鉗二人奏言△皇孫尊△以尊御手△拔稻千穗爲籾△投散四方△必得開晴△于時△如大鉗等所奏△搓千穗稻△爲籾投散△即天開晴△日月照光△因曰高千穗二上峯△後人改號知鋪

【訳文】
日向の国の風土記に曰はく、臼杵の郡の知鋪の郷(の話)。
天照大神の孫、瓊々杵尊(ニニギノミコト)が天の磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、勢いよく道を開いて進み、日向の高千穂の二上の峰にお降りになった。時に、空は暗くて昼夜の区別がなく、人であろうが何であろうが、道を失って物の区別がつかなかった。その時、大鉗(おおくわ)・小鉗(こくわ)という二人の土蜘蛛がいた。彼等が言うには「瓊々杵尊が、その尊い御手で稲の千穂を抜いて籾(もみ)とし、四方に投げ散らせば、きっと明るくなるでしょう」と。そこでその通りに多くの稲の穂を揉んで籾とし、投げ散らした。すると、空が晴れ、日も月も照り輝いた。だから高千穂の二上の峰という。後世の人が改めて智鋪と言うようになりました。


②日本書紀神代編下「天孫降臨」
以下は日本書紀神代編下の天孫降臨シーンからの抜粋記述です。
【原文】
高皇産霊尊△以眞床追衾△覆於皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊使降之△皇孫乃離天磐座△且排分天八重雲△稜威之道別道別而△天降於日向襲之高千穗峯矣

【訳文】
高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)は眞床追衾(マトコオウフスマ)に瓊々杵尊(ニニギノミコト)を包んで降ろされた。皇孫は天の磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、勢いよく道を開いて進み、日向の襲の高千穂の峰にお降りになった。


③古事記 上つ巻天降り
【原文】
故爾詔天津日子番能邇邇藝命而△離天之石位△押分天之八重多那此雲而△伊都能知和岐知和岐弖△於天浮橋△宇岐士摩理△蘇理多多斯弖△天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。

【訳文】
しかるがゆえに、邇邇芸命(ニニギノミコト)は、天之石位(あめのいわくら)を離れ、天の八重になびく雲を押し分けて、いくつもの道をかき分けて、かき分けて、天の浮橋にうきじまり、そり立たせて、竺紫(つくし)の日向の高千穂の、くじふる嶺に天降りしました。



注目するのは、茶色文字で記載した部分です。この部分に限って見れば、日本書紀日向国風土記記述は80%が一致する。書紀は「眞床追衾に包んで」の記述が付加するだけで、他に一致しない箇所はない。また、古事記の記述は物語的でやや長いが、内容的に矛盾するところはない。三編の記述はよく似ていると思います。特に、日本書紀日向国風土記、理由はともかく、どちらかのコピーに間違いないでしょう。


日向風土記は改変されたのか?2
高千穂峰は宮崎県高千穂町と鹿児島県霧島市に候補地があるが
古代には同じ日向国に属する



(2)評価

①記載類似の原因
日本書紀が風土記の内容を真似たとは思えません。日本書紀の記載は、712年には完成している古事記の内容とも似ているからです。風土記の編纂は713年に詔が発せられてから着手していますから、書紀の記述のほうが先行して書かれていた可能性が高い。
ただ、執筆中にどちらかが参照したということではないと思います。風土記と日本書紀とは各々独自に執筆されていた。しかし、日本書紀の天孫降臨神話が最終的に完成した時、関連する風土記との整合性チェックがあったのだと思います。風土記は地方の伝承・逸話を纏めたものですが、特定の地域に関しては日本書紀と話がかぶります。おそらく、正史の記述と矛盾しないよう、風土記の改竄(かいざん)が行われたのではないかと考えています。特に、国譲りに関係する出雲国風土記や、天孫降臨の地である日向国風土記などは可能性が高い気がします。

【補足】
漢文の用字用法には個人の漢文能力や誤用などの癖が必ず現れます。もし、当初の執筆者と改竄者が異なり、改竄部分が局所的でなければ分析が可能です。漢籍・古文献の研究者に是非実施して欲しいと思います。


日向風土記は改変されたのか?1
古代文献の執筆推定年代(クリック拡大


上表は、歴史学者 森博達氏の日本書紀区分論より抽出した執筆分析と、古事記風土記(逸文を含む)の推定執筆期を纏めたものです。日本書紀の執筆期間は非常に長く、神代編は一番最後に書かれた事は氏の研究で証明されている。前述したが、風土記の方は713年頃から編纂開始されていても、完成時期は国によって差があるようです。古事記に関しては序文の内容を信用した成立年代です。


②日向国風土記逸文「智鋪」の原形推定
風土記というのは、古来より、その土地に伝わる伝承を纏めた書です。歴史研究者の中には、「日本書紀に先行する日向国風土記には書紀が完成する以前に天孫降臨神話が存在していた。風土記が天孫降臨の原形である」と主張する人もいます。しかし、私個人的には此の説は考えにくい。理由を以下に記載します。

(a)天孫が降臨するが活躍の実態がない
風土記の中で出てくる古代日本の皇孫といえば、景行天皇ヤマトタケル、または神功皇后と相場が決まっている。しかし、日向国風土記にはニニギノミコトが出てくる。この事だけでも奇異に感じます。なぜなら、他国の風土記にも記紀の日向三代に関する人物は登場しない。要するに、日向国風土記にのみニニギノミコトの天孫降臨が唐突に現れるのです。これは、本来の風土記にはニニギノミコトの話など無かった可能性が高い。天孫降臨の話が元からあったのなら、その後の天孫系譜の活躍話が無いのは不自然です。昼夜を分けるためだけに天孫降臨したとは思えません。
※日向国風土記は完本ではない。本来は他にもあった天孫記述が逸文として残らなかった可能性はあるかも知れませんが、他の残存風土記に天孫降臨がないのは事実です。

(b)敵対氏族の土蜘蛛が天孫に従順である
土蜘蛛は、天孫や天皇へ恭順しない土着豪族などの蔑称です。土蜘蛛は風土記定番の登場人物ですが、殆どが天孫、天皇に対して敵対的に行動します。風土記全体では、40人くらいの土蜘蛛の名前が上がりますが、天孫に従順なのは、日向風土記に現れる土蜘蛛、大鉗小鉗と、肥前国風土記の中に出てくる女土蜘蛛、大山田女狭山田女だけです。両書の土蜘蛛が天孫に対して協力的なのは、風土記の中の例外ではなく、改竄によって主人公が入れ替わっているために協力者にされたと見たほうが考えやすい。何故なら、土蜘蛛自体が「皇孫に敵対する者」の象徴であり、時や地域によって協力者であったり、敵対者であったりする事は概念的に矛盾するのです。改竄した時に、本来は協力者として別な人格を起こすべきであったが、面倒な作業なので流用されたと見ます。

(c)天孫降臨時に地上は暗黒
仮に本来の日向国風土記に天孫降臨があったとすれば、神話世界の共通認識として降臨以前に天岩戸に隠れた天神アマテラスの再生があったと思われる。アマテラスが天岩戸にこもったとき高天原も地上も暗黒になった。神々は協力してアマテラスを引き出します。そのとき復活したアマテラスは日神として再生しており、地上は再び明るさを取り戻している。アマテラス子孫であるニニギが降臨する地が昼夜の別れていない暗黒の地というのは矛盾している。日本書紀にもニニギの降臨時はまだ雲が厚くて薄暗かったという描写はあるが、暗黒ではない。この風土記の本来の話は、天神とは無関係の話であり、他の人格者が稲籾を撒くことで昼夜を分けたとすれば矛盾は解消されます。


以上の観点から、日向国風土記ニニギノミコトの天孫降臨は、本来は天孫ではなく、出雲国のオオクニヌシのような国津神が主人公であったと思います。つまりすり替えられたのです。国津神は高天原とは無関係で、日向国を創生した国土神です。土蜘蛛が従順であるのは、国津神が土蜘蛛の祖神・守護神であったからだと思います。他の多くの土蜘蛛と同様に、大鉗小鉗天孫に従順であった訳ではない。また、籾を撒くことで昼夜を分けたのは国津神の功績であったのでしょう。現日向国風土記では土蜘蛛がニニギに籾を撒くことを教えるが、本来は国津神が稲作農耕を土蜘蛛等に教え、文化を開いたことを象徴しているように思います。

そもそも、地方に根ざす風土記神話には天神という認識があったのか疑問です。7世紀以前では、全て自然の中に宿る八百万神であったのではないか。天神の概念がなければ天孫降臨もあり得ない。天神は記紀神話で発明された(または大陸から伝わった)神の新しい概念でしょう。天神が国津神を統括することで、天孫子孫である天皇が人民を統治する正当性を示すために創作されたものと思います。そう考えると、中央政治とは無縁の地方逸話に天孫ニニギノミコトが現れる事自体が不審なのです。風土記の中では景行天皇ヤマトタケルが活躍する事実はあります。また、歴代の天皇の名も現れるが、記紀神話が確立していく過渡期の古いタイプの天皇だと思います。また、730年代に完成した風土記の場合は、日本書紀や古事記の新しい概念が、地方伝承に影響を与えた可能性もあるでしょう。風土記の編纂は朝廷官人である国司の役目ですから、あるがままの地方伝承に忠実であったとは言い切れない面もあります。






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正史の記述と矛盾しないよう風土記の改竄 * by レインボー
>風土記は地方の伝承・逸話を纏めたものですが、特定の地域に関しては日本書紀と話がかぶります。おそらく、正史の記述と矛盾しないよう、風土記の改竄(かいざん)が行われたのではないかと考えています。

〇興味深い記事でした。
 「正史の記述と矛盾しないよう、風土記の改竄(かいざん)が行われた」のはその通りだと思います。
 似た方法は、邪馬台国など倭国の記述がないことです。これも、一貫した編集方針だったと思います。
 なお、「天孫降臨時に地上は暗黒」とは、通夜のときの現生(夜)と死後の世界(昼)の関係と同じですね。これは日本の宗教そのもので、面白いと思ったしだいです。
 草々

Re: 正史の記述と矛盾しないよう風土記の改竄 * by 形名
レインボーさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

邪馬台国の記述が無いのも、記紀、風土記で一貫していますね。書紀では卑弥呼=神功皇后に比定させようとしたフシはありますが、場所の記述がないのは残念です。3世紀代の記憶が無い可能性もありますが、大和政権は九州倭国の痕跡を消し去りたかった。言い換えれば、大和政権は倭国政権を引き継ぐものではなかったということなんですかねー。この辺りをテーマにして記事を書きたい気もしますが、あまりにも重すぎて踏み込めません。
通夜のときの現生(夜)と死後の世界(昼)という考えは面白いですね。これは知りませんでした。昼夜が別れていないという概念も不思議ですが、籾を撒くことで分かれるという理由もよく分かりません。脱穀することで、玄米と籾殻に分かれるという事をさしているのか?逸話を余り突っ込んでも仕方ないですがね。

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2019-09-08 (Sun)

曹操の鏡と大分県日田出土の鉄鏡

曹操の鏡と大分県日田出土の鉄鏡

2019年9月8日のオンラインニュースで次のような記事が掲載されていました。**引用開始*******************************************「曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」中国の研究者発表」 9/8(日) 8:00配信朝日新聞デジタル曹操高陵出土の鉄鏡(全面さびに覆われている)中国の三国志時代の英雄で、魏の礎を築いた曹操(155~220年)。その墓から出土した鏡が、大分県日田市の古墳から戦前に出土したとされる重要文化財の鏡と「...

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2019年9月8日のオンラインニュースで次のような記事が掲載されていました。

**引用開始*******************************************

曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」中国の研究者発表
 9/8(日) 8:00配信朝日新聞デジタル

曹操墓出土の鏡1
曹操高陵出土の鉄鏡(全面さびに覆われている)


中国の三国志時代の英雄で、の礎を築いた曹操(155~220年)。その墓から出土した鏡が、大分県日田市の古墳から戦前に出土したとされる重要文化財の鏡と「酷似」していることがわかった。


曹操墓出土の鏡2日田金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
日田市ダンワラ古墳から出土したと伝承される「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」


中国の河南省安陽市にある曹操の墓「曹操高陵」を発掘した河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が、東京国立博物館で開催中の三国志展(16日まで)に関連した学術交流団座談会で明らかにした。
2008年から行われた発掘で見つかったが鉄製でさびがひどく、文様などはよくわかっていなかった。同研究院でX線を使って調査したところ、表面に金で文様が象嵌(ぞうがん)され、貴石などもちりばめられていることがわかった。研究員は「日本の日田市で見つかったという鏡『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)』とほぼ同型式である可能性が高い」と話す。
金銀錯嵌珠龍文鏡は、1933年(昭和8年)に鉄道の線路工事の際に見つかったといわれ、考古学者の梅原末治によって1963年に報告された。翌64年に重文に指定されている。邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとみて、「邪馬台国九州説」を補強する材料の一つと考える研究者もいた。(編集委員・宮代栄一)

***************************************引用終了******


2008年、中国で曹操の墓が発見された時は話題になりました。決め手になったのは出土した墓誌です。曹操墓はたび重なる盗掘を受けており、遺体の骨も散乱していたが、確認された3体の人骨分析が行われ、2018年に結果が発表されている
■60歳前後の男性...曹操本人と推定(155-220)
■50歳前後の女性...曹操の次男or三男曹丕の母(へん)夫人(160-230) と推定
■約20歳の女性......曹操の長男曹昂を出産後亡くなった劉夫人(生没不明)と推定

※女性の殉死説を述べる人がいるが、曹操自身が殉死を禁止している。卞夫人曹操より長生きしており、劉夫人曹操よりずっと早く死亡しているから殉死はあり得ない。曹操高陵で間違いなければ、追葬または曹操死亡時に合葬したとみるべきです。曹操の一番目の夫人は劉夫人、劉夫人死後は(てい)夫人が正妻になるが、義息曹昂の戦死事件が原因で離縁し、その後は側室の卞夫人が正妻となる。夫人が埋葬されていないのは生前に離縁したためと考えられる。


曹操墓出土の鏡7
曹操高陵の玄室(中国考古発掘情報サイトより)


曹操墓出土の鏡3
曹操を指す魏武王銘の石版(中国考古発掘情報サイトより)


曹操は自らの墓を秘匿し、薄葬とすることを遺言している。従って、このような墓誌が埋納されること自体が不審であり、偽墓と考える研究者もいるそうです。中国には系譜が比較的明らかな曹氏が多いので、遺骨との父系遺伝子調査(Y染色体DNA分析)も行われた筈だが結果については不明です。


曹操墓出土の鏡4
曹操の頭骨(中国考古発掘情報サイトより)


2010年に愛媛大学で行われた国際シンポジウム『三国志・魏の世界 - 曹操高陵の発見とその意義 -』 では、新聞記事にもある発掘リーダーの潘偉斌(パン・ウェイビン)がパネリストとして参加しています。報告によると、中国古代の帝王の墓には「瓦鼎十二」と呼ばれる耳と足の付いた陶器12種類を副葬する習慣があるそうです。また鉄鏡も帝王特有の副葬品とのこと。曹操の墓はこれら全てが出土しています。副葬品を見る限り矛盾は無いようです。なお、写真の出土鉄鏡はサビだらけで目視判別はできませんが、非破壊のX線回折法で鉄鏡表面の金アマルガムや金箔等の材質判定ができます。またX線透視イメージングを使えば装飾形象も確認できる。


曹操墓出土の鏡5
曹操高陵の発掘リーダー潘偉斌(パン・ウェイビン )


さて問題は、曹操の鏡と酷似と表現された、大分県日田市の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎん・さくがん・しゅりゅうもん・てっきょう)」です。帝王の鏡とも言える鉄鏡がどうして日田市から出土したのか? 発見されたきっかけは学術発掘ではなく、出土した場所は小規模な古墳(石棺)であったそうです。鉄鏡は後漢時代の鋳造とされており、中国でもありふれた物でないことは確かです。金銀象嵌やトルコ石などを使った細工は財宝にもふさわしい。


曹操墓出土の鏡6
日田市ダンワラ古墳出土の鉄鏡復元レプリカ


魏志倭人伝には、卑弥呼が貰った鏡は銅鏡と記載されています。百枚の中に鉄鏡は混じっていないと思います。どうして倭国の小規模な古墳に副葬されたのか、とんと見当がつきません。日田市は水害でも有名になったが、かなり内陸の狭い盆地にあります。中国との交易に直接関与した氏族とは思えない。また、此処には邪馬台国日田説もあったような気がします。大分県に入るが、筑後川水系にあって地勢的には久留米平野の奥座敷になる。また水系の接続は無いが筑紫野市を経て福岡平野にも出やすい特異な地形にあります。邪馬台国日田説は有力とは言いにくい面もあるが、何らかの有力な国があったと見るべきなのか?


曹操墓出土の鏡8
九州の弥生遺跡(左)と前期古墳分布(右)
クリック拡大

曹操墓出土の鏡9
九州の前期古墳一覧(二段クリック拡大

上図表は、九州全域の弥生遺跡と、その後の前期古墳を洗い出したものです。遺跡状況で見ると、弥生時代と古墳時代前期の間はスムースに継承していない地域もあります。問題の日田市には、弥生時代~古墳時代前期の遺跡は小迫辻原遺跡(3~4世紀)があるが、鏡が出土したダンワラ古墳とは5Kmほど離れている。またこの地域には前期古墳はない。日田市付近の氏族が勢力を持ったのは古墳時代も中期以降と考えられる。鉄鏡の鋳造時代を後漢(25-220年)と考えると、倭国に入った時期はから西普時代でしょう。西普以降の中国は内乱の時代で、倭国からの朝貢は266年を最後に途絶えた可能性があるからです。弥生末期遺跡の分布状況から見て、当初入手したクニは北九州福岡市付近にあったと見る方が考えやすい。その後、九州倭国内の争乱等によって鉄鏡が日田に流出したという仮説も有り得るのではないか。






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地勢的には久留米平野の奥座敷になる * by レインボー
>また、此処には邪馬台国日田説もあったような気がします。大分県に入るが、地勢的には久留米平野の奥座敷になる。邪馬台国だとは言いませんが、何らかの有力な国があったと見るべきなのか?

〇興味深い記事でした。
 邪馬台国時代は多くの小国があった時代で、場所的に、その周辺の一つであった可能性がありますね。
 これからの研究が楽しみです。
 草々

Re: 地勢的には久留米平野の奥座敷になる * by 形名
レインボーさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
日田の鉄鏡は、銅鏡のように倭国で作成したとは思えませんから、朝貢の機会に
入手したか、中国使節の贈答品かも知れない。しかし、どのクニの朝貢なのか
ということは、まったく分かりません。邪馬台国かもしれないし、他のクニの
朝貢の可能性もあるでしょうね。でも、記事でも書きましたが、日田は内陸部
なので余計考えにくい地勢という気もします。倭国内の戦乱の結果、奪われた
ような宝物とでも考えたほうが・・・

No title * by bigbossman
いつも興味深く拝見させていただいております
この鉄鏡は古物商で発見されたんですよね
それが出土したとされる古墳も破壊されてしまって詳細不明
ですから、明治から戦前にかけて中国から持ち出され
日本に渡った可能性もあると自分は考えています

Re: No title * by 形名
bigbossman さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
梅原末治と渡辺音吉の現地調査は発見から30年も経過してるし、現地確認してるとはいえ怪しい点がありますね。古墳の形態も竪穴式と横穴式が混在してるような証言で疑問があります。それ以前に音吉という人物像が分からず、信頼できるのかという問題もありますね。 また19世紀末の中国清朝においては、イギリス、ロシアなどの欧米列強の食い物にされており、美術品の不正持ち出しは多かったろうと想像できます。日本に降伏してからは、軍部やそれに近い民間人による持ち出しも十分考えられますね。仮に音吉の偽証となれば、どんなルートで入手したのか、何の意図があったのかという観点でも調べる必要がありますね。でも、どうも音吉についてはどんな人物か分かりません。bigbossman さんに調査依頼しますかね!

No title * by bigbossman
こんにちは
ふたたびコメントさせていただきます
自分が言ってるのはあくまで可能性の問題で
日本にはお金持ちの古鏡コレクターがいるんですが
その方たちはじつに様々な方法で鏡を手に入れているので
そこから思いいたりました

ただ、反証になるかはわかりませんが、
この近隣から金錯鉄帯鉤というものが発見されていて
それと関係があるとしたら、鏡も実際の出土物なのかもしれません
どちらにしても、出土状況が不確かで考古学者は口を出しにくいだろうと思います
これは中国で発見された三角縁神獣鏡も同様です

あと、日田については、ヤマト王権の九州進出の
拠点の一つだと考えています

Re: No title * by 形名
bigbossman さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

日田市の鉄鏡は群馬の蟹沢古墳の正始元年銘三角縁神獣鏡の出土経緯と似たところがあって興味をひくのですが、日田の場合は通常の古墳からは出土しないモノであるので、よけい不思議です。説としてあるようですが、出土が事実なら九州北部のクニから倭国内乱を機に流出した宝物のような気がします。もっとも出土した古墳の築造年代もわからないので、すぐに埋納されたのか、伝世鏡で長く保管後の埋納なのか分かりませんけどね。土地勘がないのですが、日田は耕地面積からして大人口を維持できるような大きなクニの可能性は薄いと考えています。独自の力で中国より入手したものとは考えにくいだろうと。
すぐ隣のうきは市は5世紀中葉には、畿内出身の豪族、的臣が入っていますね。でも、入植はしているが、その後の文化性を見ると周辺の九州勢力に溶け込んだような印象があります。もともと九州の東岸の前期古墳は大和政権の影響が強いので、豊前から遡上したヤマト勢力の影響はあったのでしょう。ただ、筑前南部も、のちに筑紫磐井の勢力が及んでいますからね。継続的にヤマト優勢の地であったのかは、よく分からないです。

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2019-09-05 (Thu)

上毛野氏とは何者か?(4/8) -諸資料から見える氏族の痕跡-

上毛野氏とは何者か?(4/8) -諸資料から見える氏族の痕跡-

(1)上毛野氏の人物痕跡古代の群馬県に上毛野氏が居住していたのは確かだが、その痕跡は希薄と言わざるを得ない。文献や金石文等で散見される上毛野氏の記録を以下の表に纏めてみた。ピックアップしたのは上毛野に居住しているか、上毛野から畿内に出仕してるのが確実なケースだけです。なお、金石文の人物出自は可能性はあるものの、100%確実なものではありません。上毛野氏の地方人物一覧(クリック拡大)人物属性では、全部で12...

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(1)上毛野氏の人物痕跡
古代の群馬県に上毛野氏が居住していたのは確かだが、その痕跡は希薄と言わざるを得ない。文献や金石文等で散見される上毛野氏の記録を以下の表に纏めてみた。ピックアップしたのは上毛野に居住しているか、上毛野から畿内に出仕してるのが確実なケースだけです。なお、金石文の人物出自は可能性はあるものの、100%確実なものではありません。


上毛野氏とは何者か5
上毛野氏の地方人物一覧(クリック拡大


人物属性では、全部で12名が確認できますが、確実な本流上毛野氏はたったの4名です。しかも4名のうち1人は上毛野君小熊ですから、実在性はあると考えていますが、100%とは言いきれない。そもそも6世紀代の小熊が「上毛野氏」と呼ばれていた可能性はないと思う。ウジ呼称が定着したのは氏族形成が進んだ7世紀中葉以降ではないだろうか。その他の人物は、物部系、渡来系氏族から擬制同族化した人たちです。
本流で人物像が分かるのは以下の2名だけです。

①勢多郡少領  外従五位下 上毛野朝臣足人
②多古郡八田郷 官位不明 上毛野朝臣甥

上毛野朝臣足人少領とは郡司の副官です。おそらく郡司も親族であったのでしょう。外従五位下は地方官としてはトップクラスの官位ですが、外位は地方官人の官位ですから、禄は宮中内位より少ないはずです。でも記録は国分寺創建時の寄進に対する報償ですから、貴重な瓦などを寄付できる余裕があったことは確かです。
また、この記録のおかげで本来の上毛野氏が勢多郡域に居住していたことが分かります。足人は8世紀中葉の人物ですが、この地域に代々住んでいたとすれば、6世紀代の大室古墳群上毛野氏の初期奥津城の可能性がある。群馬県西部は榛名山浅間山の噴火による自然災害が多かった。暴れ川である利根川とも離れた中毛地域の赤城山麓を選んだのかも知れない。墓域の特定は彼らの移住時代を考える上で非常に重要です。大室古墳群であれば、移住期は6世紀初頭の可能性が高まります。全て横穴式古墳ですが、石室は畿内型を採用しています。


上毛野氏とは何者か6
大室古墳群初代 前二子古墳石室(6世紀初頭築造)


本来の上毛野氏が赤城山の麓にあたる勢多郡を本貫地としていたのは、三輪氏が三輪山の大神信仰を持っていたように、赤城山を信仰の対象にしていたせいでしょう。平安時代の神道集をみると赤城山信仰が盛んであったことが伺えます。現代は、三夜沢赤城神社が有名ですが、本来は前橋市の二宮赤城神社が本社という説が有力です。二宮町は勢多郡域の南端にあたります。
朝倉君は、書紀大化2年3月条の国司不正事件の際に殊勝であると褒められている。実在は確かです。ただ、上毛野君本流氏族なのか文献からは確認できません。しかし、那波郡朝倉郷(現在の前橋市文京町)には、天川二子山古墳104mがあり、築造は6世紀中葉です。地域、古墳サイズ、時代から判断して上毛野氏以外は考えにくい。大室古墳群よりも大型であり、権力があったと推定できます。

上毛野氏とは何者か25
前橋市文京町の天川二子山古墳(wikiより)


なお定説として、前橋市の総社古墳群も上毛野氏の8世紀の墓域説がありますが、榛名山麓から西に移動した物部氏の可能性もあります。総社古墳郡の石室をみれば氏族の繁栄状況は確実ですが、8世紀は本来の上毛野氏よりも物部系氏族のほうが優勢となっている。これは物部氏が上毛野氏と拮抗していた訳ではなく、上毛野氏の主流が畿内に戻って行き、物部氏(石上部氏)を中心とする擬制氏族が空白を埋めたと見たほうが正確です。ただ地方に残った上毛野氏自体は、奥津城は勢多郡域でも住居は国府付近にあったと思います。

上毛野朝臣甥は正倉院宝物の調布墨書銘に現れる人物です。多古郡八田郷とは、多胡郡矢田郷のことです。は朝臣を賜姓されています。畿内居住なら渡来田辺史系も考えられるが、上毛野国にいるので、本来の上毛野氏であるが、傍系人物の可能性が高いと思います。足人と同様に官位を持っていたと思うが、調布墨書銘なので省略されたのでしょう。調布調(みつき)ですから、多胡郡で税を管理していた官人であるかも知れません。居住地は多胡郡矢田郷になっていますが、本来の家ではなく、郡領として多胡郡正庁で勤務するための仮住まいとも考えられる。

石上部氏が4名見えるが、名前からも推察できる物部氏です。上毛野氏とは同族関係を持った擬制氏族です。大宝元年(701年)には登与という人物が上毛野坂本君登与の名を賜る。他の2名、上毛野坂本朝臣男嶋上毛野坂本朝臣黒益は767年に朝臣を賜っている。おそらく登与の子孫でしょう。男嶋の出身は碓氷郡坂本郷(横川)ですが、宮廷にずっと出仕している。賜姓も含めて官位上昇の記録が5回もあります。官位評定は4年に一回ですから、少なくとも20年以上は畿内で暮らしている訳です。
石上部君諸弟は国分寺へのに知識物献上で749年に、前述した上毛野朝臣足人と共に褒賞記録がある。同じ石上部氏であるが、上毛野君、上毛野坂本朝臣などの名を賜っていないので、坂本郷ではなく磯部郷の物部氏かも知れません。本流の上毛野氏との婚姻関係の有無等で同じ石上部氏でも賜姓の有無があるようです。

官位が一番高いのは称徳天皇の采女(うねめ)として仕え、従五位上まで出世した檜前部老刀自(ひのくまべおいとじ)という人物です。采女は郡司の姉妹、娘の中から美人を選んで採用した官人です。称徳天皇に重用された采女として有名です。この人物も晩年は佐位郡(伊勢崎市)に戻っていると考えるが、父か兄弟が郡司であったのは確実です。檜前部君は渡来系と見られているが、後に上毛野佐位朝臣の名を賜る。


赤堀茶臼山古墳9
檜前部老刀自の親族墓の可能性が高い多田山12号墳
(老刀自が追葬されている可能性あり)


赤堀茶臼山古墳8
多田山12号墳出土の唐三彩陶枕
(称徳天皇から下賜された可能性がある)

山上碑金井沢碑に出てくる氏族については過去記事で詳しく述べてるので割愛します。
なお、人物一覧に国司は含めていません。国司は二年の任期がある朝廷の官人ですから、地方在住者とは違います。上毛野氏の中で同国に赴任した国司は上毛野朝臣馬長ただ一人です。本来の上毛野氏と見るが畿内居住は確実です。上毛野国司を六国史から抽出してみると色々な氏族の名が現れます。


上毛野氏の在地居住者の記録が少ないのは、以下のような理由によるものと推定します。
①上毛野氏を統率した主要な人物は、地方経営が軌道に乗ると、畿内に戻り、朝廷に出仕することが多かった。
上毛野氏宗家嫡流は、東北への出兵で赴任して来る時以外は、上毛野に長期常駐することはなかった。
③地方に残った上毛野氏は、宮廷出仕者よりも賜姓機会や昇進回数も少なく、記録される頻度が低い。
④上毛野氏でも、のちに同族化した氏族の中には、朝廷移民政策によって東北地方に移住させられた。

一番の大きな要因は①であると思います。経営統治が安定した結果、活躍の場を畿内の宮廷に求めたと見ます。地方にいては出世するチャンスが乏しかったのではないか。④の東北移住は吉弥侯部氏(きみこべし)など上毛野氏の部民が六国史に記録されている。彼らの移住は自らの意志ではなく、氏上や朝廷の指示があったと考えられます。
このように上毛野国出身者の人物痕跡が薄いのは、この地域が朝廷から与えられた部民が多くを占めたことを物語っている。本来の上毛野氏は一握りであったと思います。


(2)上毛野国の郷名から類推する居住氏族
人物属性以外では、郷名と神名から氏族の存在を推定できるものもあります。しかし、これらの証拠を見る前に、上毛野氏を構成する氏族の候補を知っておく必要がある。六国史には該当する氏族名の記録がありますが、その名称は居住地域名から発生したことが推定される。そこでまず文献に現れる関係氏族を以下に記載します。

①『日本書紀』天武天皇13年(684年)11月条
八色の姓において、朝臣の姓を授けられた52氏の中に、上毛野君下毛野君車持君佐味大野君池田君の六氏の名が見えるが、六氏が上毛野氏同族であるとは書かれてはいない。

②『続日本紀』桓武天皇延暦10年(791年)4月条
池原公綱主らの言の中に、池原氏上毛野氏のニ氏の出自は豊城入彦命であること、豊城入彦命の子孫には「東国六腹朝臣」がいて東国の居地によって氏姓を得たことが記載されている。しかし六腹がどの氏族を指すのか明記されていない。

③新撰姓氏録 弘仁6年(815年)
以下記述があり、上毛野氏始祖系譜と併せて判断すれば、六氏は同族と見られる。
右京 上毛野朝臣  崇神天皇皇子の豊城入彦命の後
左京 下毛野朝臣  崇神天皇皇子の豊城入彦命の後
右京 大野朝臣   豊城入彦命四世孫の大荒田別命の後
左京 池田朝臣   上毛野朝臣同祖。豊城入彦命十世孫の佐太公の後
右京 佐味朝臣   上毛野朝臣同祖。豊城入彦命の後
左京 車持公    上毛野朝臣同祖。豊城入彦命八世孫の射狭君の後

④『日本三代実録』元慶元年(877年)12月25日条
上毛野、大野、池田、佐味、車持の各朝臣は崇神天皇の後裔であり、同祖だと記載される。


この他にも同族と判断できる氏族名はあるが省略します。纏めると、始祖関係が明記されてる新撰姓氏録の六氏が中心であるのは、他記述と併せて間違いないようです。なお、上毛野氏を構成する氏族のうち畿内にしか居住していないと判断できる氏族(池原公田辺史等)は除外してあります。

一方、和名類聚抄、上毛野国神名帳から抽出される郷名(郡名)や神名から抽出したのが以下の表です。

上毛野氏とは何者か7
上毛野氏と関連が推定できる郷名と神名クリック拡大


前述した上毛野氏の構成氏族名と和名類聚抄の郷名・郡名から判断すると、朝倉君池田君佐味君有馬君大野君の5氏族が居住候補には上げられる。しかし、池田郷大野郷は全国に数多く存在します。池田郷は群馬での数の多さから可能性はあると思いますが、桐生の大野郷大野君との関連を考えるのは無理がある。具体的な人格記録はなく、時代と郡域の合う古墳は中塚古墳一基しかないからです。有馬君の畿内居住は確実です。群馬居住が確実なのは、朝倉君佐味君佐位朝臣檜前部君の3氏族だけかも知れません。

神名や神社では、車持君有馬君との関連が指摘されているが、両者とも在地の人物記録もないし、神格の低い神社があるのみで痕跡としては希薄です。前述してるが有馬君(公)は畿内の氏族であり上毛野との接点は無いと思います。一般に上毛野を車持氏の出身地のごとく記載してる情報ソースが多いが、本拠地は摂津です。車持氏は車持部の伴造氏族として西国、東国に広く展開している。上毛野氏と始祖伝承を共有しており、居住を否定はすることはできないが、車持部の管掌者がいたレベルでしょう。貴族階級の車持君が居たとは思えない。車持君の存在が否定的なのは、群馬郡域には該当する有力古墳がないからです。保渡田古墳群車持君の墓所とする説もありますが、5世紀代中葉~後半の古墳です。可能性はありません。また、藤原朝臣不比等の母、車持君与志古娘(よしこのいらつめ)が上毛野出身と云う説もありますが根拠がない。やはり摂津の車持氏の本拠地と思います。そもそも大王の輿を造る職掌から始まった氏族です。後に氏族中核は朝廷官吏に変容していくが、本拠地が遠隔の地方であるというのは無理がある。職掌を担う対価として車持部を上毛野に給わったと見るのが自然です。氏上の所在する本拠地と、氏族が賜った車持を一緒くたにするのは疑問です。

なお、本来の上毛野氏の祭神は赤城山(赤城明神)であると思われるが、「赤城」という名称が上毛野氏の伝承の中に現れないので表の中には載せていない。赤城神社は、上毛野氏の痕跡とされているが、関東地方とその近在には赤城神社は非常に多い。残存するものだけで以下の神社があります。
・群馬県..... 118社  ・栃木県........  9社   ・新潟県........13社
・埼玉県........23社  ・茨城県........10社   ・福島県........11社

その他を合わせて計191社あり、合併又は廃社を併せると334社あるそうです。これらが全て8~10世紀まで遡るとは思えません。殆どが中世~江戸期の分社でしょう。ただ、赤城神社以外にも上毛野氏の始祖を祀っている神社に、栃木県二荒山神社、青森県猿賀神社など幾つかあります。関東以北に分散していることは確かです。
上毛野氏は8世中葉には宗家嫡流は衰退し、擬制氏族に置き換わっていきますが、同族化した氏族も信仰的には統一されていた可能性が高い。神社、祭神がみな上毛野氏の足跡とは言い切れないが、福島にある神社などは創建を調べてみる必要があります。
720年には東北地方の行政官であった上毛野朝臣広人が蝦夷に殺害されていますし、大野朝臣東人の実績もあるので東北統治に関わったのは事実です。8世紀も中葉までは軍事的な平定が盛んだったようだが、8世紀末期に入ると、行政統治の時代に入っていたように思えます。この時代には本来の上毛野氏を核にして増大した擬制氏族が関東・東北地方に入植していったと見ています。この過程で信仰の痕跡も広がりを持ったのでしょう。




次回に続く



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No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんにちは。大野東人も上毛野氏だったのですね。多賀城碑にその名がありますね。旧勢多郡新里村にある、「山上多重塔」の碑文、「為□無間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」は、切実な叫びだったのですね。

Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

大野東人は桐生の山田郡、または、栃木県那須郡大野邑の人とい説はあるのですが残念ながら最近では否定的です。本稿の次稿ではもう少し触れていますが、壬申の乱で、大野果安と田辺史は大友皇子側に付いて参戦しました。敗戦すると、大野氏と田辺史は天武天皇から東北出兵のペナルティを得ます。その過程で上毛野氏と行動をともにしたことが縁で同族化したという説が有力です。東人は果安の息子ですから、東北出兵に関わらざるを得なかったようです。でも才覚を発揮してその後も軍人として活躍しますね。創作された系譜をみると下毛野君と同族化してるので、書紀に現れる上毛野田道の子孫ということになってます。推定ですが、実態は紀伊または大阪湾岸出身氏族と思います。あるいは、田辺史と行動をともにするので同じ渡来系かもしれません。
山上多重塔のことはよく知らなかったのですが、随分古い金石文ですね。是非、本物を見に行きたいと思います。大室古墳群とは北へ5kmしか離れていないです。

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。懇切丁寧なご教示ありがとうございます。山上多重塔は、上野三碑につぐ、第四の碑ということで、群馬県立歴史博物館の常設展会場に上野三碑とともにレプリカがあります。国宝だった時代もあったといいますけど、地元の人達は、その存在をあまり気にしていないようです。

Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私が書いてる上毛野氏の記事は、どちらかと云えば一般的に知られている定説とは異なります。nonokomamaさんもご存知と思いますが、上毛野氏を地方出身者と考える研究者はまだ多いようです。そういった方は東毛の大型古墳も上毛野氏のものと見ていますし、細かい人物単位の話も影響を受けています。従って私の説明も一つの説に過ぎないという事は、お伝えしておきます。

確かに私も山上多重塔の名前は知っていましたが、どこにあるのか知りませんでした。昨日、以下の5地点をgoogleで調べて地図に転記し、訪問準備完了しました。私は近隣の見学は全て自転車でこなすので、アナログなんです。(笑)
山上多重塔       桐生市新里町山上2555
天神古墳        桐生市新里町小林60-1
中塚古墳        桐生市新里町新川2592
武井廃寺塔跡      桐生市新里町武井598
善昌寺の新田義貞公首塚 桐生市新里町新川2728

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。
天神古墳は新里中央小学校の校庭の北の隅にあります。
一応公園風になってますけど、校庭なので「無断立ち入り禁止」みたいな立て札があったと思います。
誰も文句を言う人はいませんが、それがなければ、いい雰囲気だったと思います。
善昌寺の新田義貞の首塚には、新田郡出身者の私には、とても抵抗感があります。
善昌寺にはちょっと目立たないところに(本堂を通って内庭に)、弁天様か薬師様を祀る石宮のようなものがありました。古墳ではないかと思いました。ちょっと記憶があいまいですけど。


Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

小学校の校庭ですか。そう云えば、高崎市八幡小学校の庭にある古墳を見学してて不審者と間違われたことがありますね。挨拶してから入りますよ。新田義貞は確か福井で戦死でしたね。墓も福井のはずです。ただ御首は検分のため京都へ送られたんじゃなかったかな?悪源太義平と同じパターンで首を奪ったという伝承があるのでしょうが、どうなんですかね?私は新田源氏が好きなので、関係する史跡は出来る限り見るようにしてます。天気が良くないので、何日か先になりそうです。

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。
過去の記事を探すのはなかなか大変ですね。
善昌寺の石宮の弁天様の記事は、FC2ブログ2017年8月31日の記事の後半にありました。
メインの記事ではなかったので、題名等にはありませんでした。
御朱印の日付でやっとみつけました。
まあ、とにかく古墳だらけの村だったようです。
新田の人間には、義貞の首塚は、やっぱり勾当内侍の花見塚(旧新田郡尾島町)です。
史実はどうかわかりませんけど。

Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私は善昌寺の首塚が、勾当内侍が奪いとった首を埋葬したものと思っていましたが、別に首塚があるのですね。尾島町のほうですか。実は、おおたんの観光マップで回っているのですが、花見塚は掲載されていないので見落としていました(笑)。時間に余裕があれば回りたいが、いっぺんには無理かな。花見塚には勾当内侍の墓もあるみたいですね。それにしても、新田義重の娘が、夫義平の首を京の三条河原から家臣に奪わせた話と全く同じですね。それだけ義貞が地元の人に愛されていたということでしょう。確か金山城付近には義貞の供養塔もありましたね。新田義貞の居館跡と伝えられるのは、太田市の明王院安養寺の境内ですから、首塚が尾島町というのは至極当然という気がします。直ぐ近くですね。逆に、桐生の善昌寺にもあるのは何か訳がありそうですが、経緯を調べる楽しみができました。ありがとうございます。

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。
新里では、船田善昌が義貞の首を持ってきたとか、船田善昌は高齢なので戦線離脱して善昌寺に居るところに、桃井某が首を届けたという話になっています。桃井某はその後切腹したということで、桃井塚なるものも存在します。
花見塚の方には新田義貞だけでなく、南朝の話も付いてます。花見塚にある花見塚神社には菊の紋章があったと思います。新里の方には、南朝の話はないようです。
世良田の毛呂権蔵は、善昌寺で聞かされた話を納得しませんでした(『上野国誌』)。毛呂家は船田善昌館跡なのだそうです。
不思議な事に、新里の奥沢から流れ出した早川が、花見塚の脇を流れています。



Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

なるほど、妻である勾当内侍系と、義貞の家臣(執事)系の伝承で分かれているわけですね。桐生市のホームページには善昌寺は船田善昌の縁で名前を変えたとありました。新田氏も決して一枚岩ではないし、家臣家も含めれば、尚更でしょう。本来、詐称の意識はなくとも、民衆の誤解や想像が、時を経ていつしか事実と伝承されるようになる場合もありますからね。特に有名な人物で、普通の死に方でない場合は尾ひれが付きやすい。歴史を創作してはいけないが、より身近に墓を置きたいという思いは理解できますね。

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2019-08-29 (Thu)

古代中国の距離計測法と短里の存在性評価

古代中国の距離計測法と短里の存在性評価

魏志倭人伝が書かれた前後の時代において、遠隔地の距離がどのように計測されたのか。また、魏志倭人伝を解読するうえで短里説は妥当なのか。本や論文で学んだ事を中心に自身の感想も交えて記載します。本稿は以前の記事シリーズ「陳寿にはめられた日本人1~4」の補足稿になります。(1)三国時代の距離計測法『一寸千里法』日本の研究者、特に在野研究者は、魏志倭人伝の邪馬台国への里程を使節の歩測や所要時間などで記載していると...

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魏志倭人伝書かれた前後の時代において、遠隔地の距離がどのように計測されたのか。また、魏志倭人伝を解読するうえで短里説は妥当なのか。本や論文で学んだ事を中心に自身の感想も交えて記載します。本稿は以前の記事シリーズ「陳寿にはめられた日本人1~4」の補足稿になります


(1)三国時代の距離計測法一寸千里法
日本の研究者、特に在野研究者は、魏志倭人伝邪馬台国への里程を使節の歩測や所要時間などで記載しているという前提で論じている人が多い気がします。それは当時の計測法という点で疑問です。江戸時代に正確な日本地図を作成した伊能忠敬は、短い距離を歩測と方位記録を繰り返す事で測量しています。しかし中国使節団が行っていたとは到底思えません。なぜなら非常に時間の掛かる作業で、伊能が何年かけて日本地図を作成したかを考えれば自明です。海上移動もありますし、他に目的を持つ使節団にそのような時間的余裕はないはずです。

当時の中国の首都から遠隔地への距離計測は、以下の中国古代学術書に記載されている一寸千里法で計測された可能性が高い。
周代の天文数学書『周髀算經(しゅうひさんけい)-上巻- 』に記載される『一寸千里法
 【補足】正式な漢字名称は『周髀算經』ですが、日本では『周髀算』と記述される場合が
      多いので、本稿でも以降は周髀算』と表記します
前漢天文数学書『淮南子(えなんじ)- 天文訓- 』に記載される『一寸千里法
両者とも蓋天説と呼ばれる宇宙概念を前提として、夏至南中時の(測量用の棒)が作る日影長を測ることで、それを緯度に代わる指標として計測しています。ただ、蓋天説は地上が球体という概念はないので、正確には現代の緯度と同じ考え方ではない。周髀算経も下巻では渾天説という、天は半球面という概念に変わっていくが、地上は平面のままで計算上は蓋天説と変わっていない

周髀算経(上巻)の記述する蓋天説の概念は、「天地は互いに8万里を隔てた平行な平面をなし、天の太陽、月、星は北極が天と交わる点を中心に円盤軌道で日周運動する 」というのもの。この記述だと太陽は常に天のどこかにあって沈まないが、太陽の光が届く距離には制限があるため夜になるという考え方です。一寸千里法の名称由来は言葉の通り、「日影長の一寸が地上の距離千里に相当する」という原理ですが、周髀算経では次のように考えているようです。


陳寿にはめられた日本人29
周髀算経の蓋天説概念図クリック拡大


上の概念図に示したように、(ひょう)と日影がつくる三角形AXY と、日下Oと太陽Sの作る三角形OXS とは相似形になる。日下とは太陽の真下で日影長がゼロになる地点です。言い換えると黄道面、北回帰線上になる。従っての観測点から日下までの距離OXは影の長さ s に比例する 。従って L=asとなります。aは比例定数で、天の高さHと表の高さhの比に等しい。つまり、a =H /h です。
天の高さは8万里とされ、の高さは 8 尺=80寸ですから、比例定数aは、
a=H/h= 80000里/80寸=1000里/寸
となる。これは概念上の例定数であり、一寸千里法の基本原理です。

【補足】
周髀算経には「周城における夏至の正午の影長が16寸であるのに対して、正北1000里の地点点では17寸となり、正南1000里では15寸となる」という記述がある。これは当時の実測値であると考えてる人もいる。でも現代では前述したように、天高8万里とする蓋天説の概念上から導き出される原理を記述したものという考え方が主流です一寸千里については、中世中国でも疑問視されていて、代になると検証のための測量実験も行われている。結果、一寸千里が成立しないことが確認されているそうです。また淮南子蓋天説では天高10万里で、表(ひょう)の長さは100寸としています。周髀算経と同じ方法で計算すれば、一寸は1000里に相当します。つまり蓋天説では、宇宙原理で日影長一寸=1000里と初めから決めており、実測の考え方は端から無い事が裏付けられる。


天地が互いに平行平面をなすという蓋天説では、天の高さは、場所、季節、時刻と無依存に8万里という一定の値だとしている。従って、一寸千里普遍的に成立するという前提に立つ。しかし、実際には地球は楕円球体であるのと、日影長が長くなる高緯度地域では誤差の要素が大きくなり、この前提は成り立たない。従って蓋天説と現実世界との違いは決定的であり、この方法で計測した距離は実際の距離とは乖離があると思われます。

測定方法を以下の図で具体的に示すと、周陽城観測地点から太陽の直下の地点(日下)までの距離は、水平な地面に垂直にたてられた高さ8尺の表の影の長さを測り、一寸千里法を適用することによって求められる。


陳寿にはめられた日本人18
測定概念図


周陽南千里間の距離 y式で表せば、
  ー L 
周陽城では日影長はb=16寸ですから、日下からの観測点の距離=16000里。周陽城南千里(回帰線寄りに)の地点はa=15寸ですから15000里となる。
  ー L 16000里 ー 15000里 = 1000里
※周陽城は実在ですが、南に千里の具体地名は明示されておらず、仮想地点です。

観測は夏至の太陽が南中したときの日影長の長さを測定します。蓋天説では天の高さは一定だが、太陽の軌道は夏至と冬至の間で変化すると考えていた。観測時期は太陽が観測点から最も高い位置にくる夏至に統一している。2点間の日影長の差は緯度の違いに相当します。現代の知識からすれば南北緯度方向の距離を求めた事になります。

この方法では子午線南北方向の距離しか計測できないが、経度の違う地点の距離を求めるためには、目的地の正確な方位を知れば計測は可能です。方位は恐らく夜間の星による観測ではないかと思います。ただ、行われていたと推定しますが、測量法として古代文献に記載があるのか確認は出来ていません。ご存じの方は教えて頂きたいと思います。


陳寿にはめられた日本人20
測定例


上の図例は高崎市から東京駅までの測定概念図です。実際には目視観測に頼るので、もっと短い区間で測量したと考えられる。子午線に沿った南北方向の距離ABと目的地Cの正確な方位が分かれば求められます。当時は三角関数の知識はなかったが、予めAC方位角度毎に、南北距離ABと東西距離BCの比を相似形の原理( △abc △ABC)から机上で求めておけば、BC、ACの長さが計算できる。ACは三平方の定理の応用でも求められます。 

陳寿にはめられた日本人19

当時の中国では既にピタゴラスの定理は独自に理解されており、周髀算経にも勾股(こうこ)定理として記載されています。



繰り返しますが、一寸千里法自体は誤差の大きい測量法です。一番の問題は、場所や季節に無依存に一寸の日影長が千里に相当するという原理自体が誤っているからです。緯度が変わると、実際には日影長一寸に対する地上距離は変わっている。太陽仰角の小さい高緯度地域や季節(日影長の長いケース)では誤差が大きくなる。例えば夏至の時期ではなく、冬至に観測しただけで一寸に相当する距離は1/3以下になってしまうそうです。逆に云えば、この方法が優れているのは観測時期を夏至に統一していた点です。この規定によって宇宙概念が現実とは乖離していても一定の観測精度が出たとも云える。後に蓋天説渾天説に変わっても夏至という一時点で見れば影響は無視できるからです。大変なのは辺境の地に観測者を派遣する点でしょう。行くことは出来ても、夏至というピンポイントに合わせて各地でいっせいに測量するのは国外では難しい。実態として夏至に近い期間の旅で測量したと思われます。ここにも誤差の要因があります。

魏志倭人伝の里程評価に話を戻しますが、このような現代知識から見たら原理的に不正確な測量方法が、魏代前後の時代に運用されていた訳です。私自身は、当時の里程と方位は、別な観点から誇張・改竄が入っていると考えますが、仮に誇張など無かったとしても、この方法で得た値で邪馬台国までの里程や正確な位置を決めるのは無理だと感じます。



(2)谷本茂氏の一里計算法
魏の時代の1里=約434mです。時代によって多少の変動はあるが大幅に変わる事はありません。研究者の中には1里の長さを極端に過小(70~90m程度)に解釈する人がいます。日本の短里説は、もともと魏志韓伝の「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」を単純に近代の実測値から逆算した値です。しかし、後に古代史研究家の谷本茂氏が周髀算経の記載と現代天文知識から計算した1里=76.9mという結果を出した。偶然にも関わらず、両者の値が近かったため、短里の存在は証明されたと主張してる人も多い。谷本氏の計算は一寸千里法という中国古代の天文原理と現代知識を併せている。なお、地球球体説が中国に導入されるのは17世紀であるのは確実です。谷本氏の計算方法を以下に示す。


一寸千里法から一里を求める - コピー
谷本氏の測定図


周髀算経に記載のおける日影長は以下
  周陽城A地点)=16寸
  南千里 (地点)=15寸
■日影長を測る棒「(ひょう)」の長さは8尺なので表長=80寸(185cm)

A地点と地点の太陽の仰角をθaθbとすると、

計算 - コピー

【補足】
ラジアンは円の半径に等しい長さのの中心に対する角度。1ラジアンは57.29578° に相当。tan-1は逆三角関数arccotを示す。

A地点と地点間の距離をAB、地球の半径をとすると

計算2

周髀算経ではAB間の距離を1000里としているので、1里=76.9mとなる。

【補足】
現代知識を応用する場合は、赤道~北極間の子午線長は 10000kmと分かっていますから、緯度1度当たりの距離を導入しても、両者の緯度差から距離は単純に計算できる。緯度1度は約111kmに相当する。

地球を球体とする現代知識によれば、原理的に2点間の太陽仰角の差が地上での距離に比例している。一方、一寸千里法では2点間の日影長の差が地上距離に比例していると考えている。谷本氏の計算は太陽仰角の差から角距離を出す手順において間違いはないが、最後は周髀算経一寸千里法の原理である一寸1000里を使っている。蓋天説でしか通用しない原理定数を、現実世界の1里計算に使っている訳です。1000里が実測値であれば参考になると思いますが、当時の宇宙概念を無視している点と併せても、意味のない計算ではないかと感じます。



(3)大月氏国への距離から推定する一里の長さ
の時代、倭国は中国に朝貢し、親魏倭王の称号をもらっていたのは有名ですが、西の大国である西トルキスタン(現代のアフガニスタン)の大月氏国も同じように親魏大月氏王の称号を得ています。

①漢書西域伝(西暦80年頃の成立)
「大月氏国、(中略)長安を去ること万一千六百里」

②後漢書西域伝(西暦432年以降の成立)
「大月氏国、(中略)洛陽を去ること万六千三百七十里」

漢書西域伝では、長安から大月氏国まで11600里と記されている。もう一方の後漢書西域伝には、洛陽から大月氏国まで16370里と記録されています。邪馬台国の場合は洛陽から17000里と三国志に記録されています。後漢書と比較すれば、同程度の距離感ということになるが、余りにも僅差で恣意的なバランスと云える。後漢書16370里は5世紀になってから書かれた訳ではなく、代の書に既に値が採用されていたのでしょう。これに対して倭国への行程17000里がサジ加減されたと思われます。


20110924_2485834.jpg
洛陽~大月氏国首都間ルート図(クリック拡大


洛陽から大月氏国首都までのシルクロードには幾つかのルートがあるが、代表的なのは北側のルートだと思われます。


距離測定1
洛陽~大月氏国首都間の測距離(クリック拡大

このルートをGoogle Earthで距離を計測してみると、4700Km程度になる。このツールは標高・傾斜を意識していないので、実際には5000Km以上になると思います。なお、洛陽長安は直線距離で約320kmくらいです。

一里の長さは概算ですが、
①漢書西域伝の場合(長安~大月氏国首都)
(5000Km-320Km) ÷ 11600里 ≒ 403m/里

後漢書西域伝の場合(洛陽~大月氏国首都)
 5000Km ÷ 16370里 ≒ 305m/里

漢書では標準里に近い値が出ます。後漢書の場合は標準里を下回るが、少なくとも一里は300mを超えています。中国では朝貢の価値は遠方になるほど高いものになるので、後漢書の場合は誇張がかなり入っていると思われる。後漢書三国志よりも後に書かれた正史ですから、三国志と同じく代政情の影響を強く受けている。実態里程で考えると、恐らく一里は400mに近いでしょう。
以上の点から考えても、邪馬台国に至る行程が短里であったなどとは考えにくい。短里説主張者は、同時代でも東と西で標準里短里が混在していたと主張する人がいる。中には帯方郡から先だけが短里になっていると主張する人もいます。これは、当時の中国人を愚弄する論です。西の大月氏国を朝貢させたのは曹真曹操の甥)という武将であり、東夷の領土拡張・朝貢を促進した司馬懿西普皇帝司馬炎の祖父)とはライバル関係にありました。二人の功績がなにかと比較競争される時勢において、片方の距離単位だけを変える訳がない。そんなことをしたら司馬懿がバカにされたと怒り出します(笑)。


陳寿にはめられた日本人22
洛陽~沖縄南端までの行程距離(クリック拡大


上の図は、の首都洛陽から福州市の真東にあたる沖縄那覇までの行程距離図です。誤差が大きいでしょうが、沖縄まで入れても、約4000~4200Km程度でしょう。この値は、17000里=7395Kmを考えれば、まだまだ差が大きい。東夷方面における邪馬台国までの17000里は、西域よりも距離が、より誇張されているのは確実です。この問題は、短里などという帳尻合わせのロジックを持ち込んで解決するのではなく、中国の辺境に対する五服思想や、当時の政治、権力闘争、三国鼎立による戦略等から解釈すべき問題と思います。



(4)中国の距離単位系から見た短里
下表は中国の各時代毎の長さ・距離単位系の変遷を示しています。当たり前ですが、どの時代も各単位間には一定比率の約束事があります。値と比率は時代で変化しますが、この約束事は守られている。言い換えると単位というのは、このように一定比率で上位~下位単位が存在するからこそ利用価値があるのだと思います。日本の尺貫法も同じです。ある単位だけが単独で存在しても利用価値がない。「私の身長は5尺7寸5分です」というように端数表現ができなくなるからです。の範囲なら10進単位ですから、少数点を使えば一つの単位で表現できますが、直感的に長さが理解できなくなります。また、は10進ではない。


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長さの単位の時代別変遷『邪馬台国の会』より(クリック拡大


表を参照すると、について言えば、との比率が変化していますが、下位単位の種類は変わっていません。もし短里があるなら、対応する一定比率のがないとおかしい気がする。しかし、中国の歴史書を見ても短里に対応する下位単位など存在しません。一方、もし一里が50歩の短里を新しく追加しただけで、下位単位の変更は無かったと仮定すれば矛盾はない。しかし、一国内に単位呼称も同じ、50歩のと300歩のを置く必然性が分からない。使用する人間が混乱するだけで、科学的にも、文化的にもあり得ないと思います。短里を主張するなら、度量衡制度史観点から作られた目的を論証して欲しいと思います。

邪馬台国研究者の中には、地域的短里説という考え方を説く人もいます。具体的には朝鮮半島の帯方郡(現在のソウルの南側)から先の里程は地域的短里だと説く。その論は、「周、春秋戦国の時代には色々な尺度が混在しており、三国時代になっても特定地域だけの短里が倭韓だけ残っていた可能性が大きい」と述べている。短里を使っていた理由は古来からの名残だったというのです。まるで雲を掴むような話で証拠も提示されていない。そして陳寿は、距離単位が変わっていることに気が付かず、魏志倭人伝を記載したという。しかし、代の楽浪郡は紀元前108年から存続しており、漢書地理志には楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とある。定期的に倭人の朝貢を受けたと記載されているから、少なくとも楽浪郡まで往来しているのは確実です。なのに中国の官吏は400年間も倭韓短里であることに知らなかったということになる。東夷諸国側はともかく、中国歴代王朝は倭韓を属国視していた。そのような話はとても信じられません。自説に都合よくの単位を改変し、邪馬台国を九州島の中に収めようという思惑が透けて見えます。

ここで日本の尺貫法における「」について触れておく。日本の「」は約4キロメートルです。尺貫法では里の下位単位は「」ですが、1里=36町としている。これを36町里と呼ぶ。1町≒109mなので正確には1里3924mです。日本も古代では一里は300歩=550mくらいであった。これは中国の単位系をそのまま導入したからでしょう。
ところが、日本では中世(12~15世紀)において、「」の考え方を根本的に改めている。人が一定時間(半時≒約1時間)に歩ける距離単位に改制している。改制の理由は、従来、例えば300里という距離で示されても、歩いてどのくらい時間を要するのか分かりにくいという問題があった。しかし、一定時間で歩ける距離を一里とすれば、移動する所要時間が把握しやすいというメリットがあります。最終的には一里は36町里という長さに統一されたらしいが、その過程においては、1里の長さは、36町里40町里48町里などと地域によって違っていたそうです。これは人の歩行能力に対する考え方や、歩行する地形、道路整備状況などの違いで、地域によって相違があったのではないかと推定します。日本が統一されておらず、制度を決める行政が各国に任されていたのが原因でしょう。つまり、これこそ「地域固有里」です。このように新たな「」の概念と、地域による固有値があった理由が明確であれば、論理的な存在根拠といえる。
しかし、前述したように中国の「」は純粋に距離を表す尺度の範疇であり、一定数の「」に対応します。運用する人間や場所の影響を受けない。例え地域が違っても基本的には比率が変わる要素はないと考えられる。もし仮に、帯方郡から先だけに地域的短里があったとすれば、国内で50歩の里と300歩の里が混在したことになる。そこには、明確な単位改制の目的があったはずです。これを示さない限り、地域的短里の存在を論証したとは云えない。
邪馬台国が九州に収まれば、それでいいと云うような考えは無責任です。自分は邪馬台国は九州ではないと主張している訳ではありません。九州の可能性は十分にあるが、魏志倭人伝の里程を、短里という帳尻合わせ論で解決する訳にはいかないと思うだけです。それに、もうそろそろ魏志倭人伝の里程で場所を決めようとするアプローチはやめた方がよいと思います。


また短里の存在を示す根拠としてよく上げられる以下2点に関して見解を述べます。
①王朝交代による受命改制度量衡の制度が変わり、魏の短里が生まれた
中国の王朝には、前王朝の暦、法律、度量衡の制度を改めて、新たに制定する「受命改制」の思想があったのは事実です。前表の値の変動も受命改制の結果の変動です。しかし、表の値を見ても分かる通り、全時代を通じて里の変動量は最大でも6%以内です。の時代に「」が改制されても、前代の1/6まで縮小する事など到底あり得ない。また中国西域では標準里が使われている。新王朝として始める記念すべき受命改制の意義からしても、倭国に至る行程のみ改制が適用されたと云う論は非常に不自然です。受命改制(237年)は後漢からの変化に相当するが、表で見ても標準の変動は5%に満たない。「改制思想があったので短里が生まれた」という主張は、生まれた契機の話です。肝心の短里の値は、度量衡の変遷実績を無視した意味を成さない主張でしょう。

②『海島算経』という書物に標準里ではあり得ない測量記述がある
中国には三国志に先行する『海島算経』という測量技術指南の例題集のような書物があります。海を隔てた島にある山の高さと距離を測るものです。30尺の棒2本を使って、棒の先端から山頂を見通せる位置関係から距離を計算します。概念は一寸千里法の場合と似ています。この例題は、標準里だと山までの距離が遠すぎて、視認する仰角が小さく、地球の丸み問題で測定が困難なことから、短里を前提とした例題だという主張がある。確かに例題には現実的でない無理がある。しかし、この例題が実際の地形を想定して作られたとは限らないと思います。山が遠くて仰角の値が小さ過ぎるのも、机上の論理例題と考えれば矛盾はない。測量手順を指南するのが目的の書物です。短里を導入しなくても例題として成り立ちます。また、例題の前提原理そのものは地上平面説に立っているのは明白です。球体の認識があれば、そもそも、この例題は原理的に解法できないからです。この測量例題を根拠に短里実在を主張するのは、いささか強弁が過ぎます。


この他にも中国の古典に出てくる距離記述から短里の可能性が高いという事例を何点も上げている研究者がいますが、現在地との比定や記述解釈が恣意的で客観性が薄い気がする。また、何れも一寸千里法で計測した距離ですから、根拠とはならないと思います。
漢籍では「千里、ニ千里」と言った大雑把な表現がよくある。観点が違うが、中には具体的距離を指すというより、「遠い、長大な」という意味で文章を飾っている場合も多いような気がします。概して言葉のリズムや荘厳さに重点を置く傾向があり、中国人は内容の客観性には価値を置いていても、同時に才筆であることが重視されている。




【参考・引用資料】
■書籍『邪馬台国はなかった』 朝日文庫         古田武彦著
書籍『倭国の時代』     筑摩書房         岡田英弘著
■書籍『邪馬台国への道』   徳間文庫           安本美典著
■論文『古代中国の緯度測量法』             野上道男著
■論文『周髀算経にみられる数値について』          下司和男著
■論文『魏志倭人伝の里程単位(一寸千(短 )里説批判』   篠原俊次著  
■講演会レジュメ『古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置』    
                                                                                   野上道男著
■論文集『東アジアの古代文化 34/53/61号』 大和書房  
■ホームページ 邪馬台国の会
■ Google Earth 
■ウィキペディア 尺貫法、里、町


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通りすがりにお邪魔しますm(_ _)m * by hyena_no_papa
「短里」についての記事が目に止まりましたので、ついついお邪魔させて頂きましたm(_ _)m 

私も古田氏の「魏西晋朝短里説」には非常に関心を持っておりまして、いろいろと当時の漢籍に当たって調べてみました。その結果は、倭韓を除いて「短里」の存在はありえないとの結論になりました。これは安本氏の所見の通りです。

特に『三国志』中の里程記事や、魏西晋朝の中枢にいた人物の書いた文献からも、「魏西晋朝短里説」など成立しないことが明らかです。

また、「周髀算経」から谷本氏が算出した値も、「知日之高大」にかかる計算手順を読めば、意味のないものであることは明白です。

私自身のHPにもまとめてありますのでご覧頂きましたら幸です。
http://hyenanopapa.obunko.com/tanri_ronten.html

尚、リンク先のYahoo!ブログは本年12月15日にて閉鎖されますが、既にFC2へと移転を済ませておりますので蛇足ながらご案内させていただきます。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/

大変お邪魔致しましたm(_ _)m

Re: 通りすがりにお邪魔しますm(_ _)m * by 形名
hyena_no_papa さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

hyena_no_papa さんの記事は全部ではないのですが、yahooブログで読ませていただきました。この記事にも、勉強させていただいた知識が入っていると思います。ホームページのほうはまだ訪問したことはありませんでした。なかなか、専門的な内容なので、私には付いていくのが大変だと思いますが、読ませていただきます。ご指導お願いいたします。

ところで、hyena_no_papa さんは、安本氏の「地域短里説」にたっておられますか?私の場合は、現時点ですが、地域短里説にも疑問を持っています。もう既に古典的な論ですが、誇張説、または、行程欺瞞説で考えています。今や少数派ですかね?(笑)
安本氏の書籍は余り読んではいないのですが、地域短里の存在根拠として、日本の中世以降の「里」を上げていますが、日本の「里」は中国の里とは意味が違うようですね。単位時間あたりに歩ける距離を基本に考えていると聞きます。個人の歩行速度に依存するものなので、36町里、40町里などバリエーションがあるようです。この点を見れば、地域短里が存在する現象と同じでなんですが、これは個人の歩行能力や、地域の地形、道路の整備状況に関係するからだと思います。一方、中国の「里」は厳密な尺度の世界であり、一定の「歩」に対応します。例え地域が違っても基本的には比率が変わる要素はないと考えています。もし、帯方郡から先だけに地域短里があるとすれば、その意義とか目的は何なのでしょうね?ここが疑問を感じている点です。この辺りもホームページを読めば記載されていますかね。

おはようございます。 * by hyena_no_papa
早速のご返信、ありがとうございます。

>私の場合は、現時点ですが、地域短里説にも疑問を持っています。もう既に古典的な論ですが、誇張説、または、行程欺瞞説で考えています。今や少数派ですかね?(笑)

実は私も「倭韓短里説」より「誇張説」の方に幾分傾いています。既にご存知かもしれませんが、『魏志』「国淵伝」に戦果を10倍に誇張するという話が出てきます。曹操と国淵との会話中にですね。

誇張して書かれているかどうか、陳寿は知る由もないわけですよね。

しかし、既に私のブログをお読みいただいているとは汗顔の至りです(^^;) ミスや勘違いも多々あると思いますので、お気づきの点などありましたら何なりとご指摘いただきたくよろしくお願いいたしますm(_ _)m

Re: おはようございます。 * by 形名
hyena_no_papa さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

>「誇張説」の方に幾分傾いています。
そうなんですか!国淵伝は読んでいませんが、10倍誇張の話は引用話として聞いています。具体的な盛り具合は分かりませんが、曹操が生きていた時代は、まだ、司馬氏も拮抗するほどの力はなかったものの、戦果を競う体質は十分あり得たでしょうね。私は、この誇張と陳寿の入手した情報の関係を検討しようと考えているのですが、なかなか文献を読む力がないので進まないです。
私の日本史考フォルダに「陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か? 」という記事があるのですが、最後の纏め第3稿が書けない理由です。hyena_no_papa のホームページに関係する記事があるといいなと思ってます。
hyena_no_papa さんの記事はyahoo時代に読んだのですが、討論をトレースする形態だったので最初は全く付いていけませんでした。でも面白かったです。私の短里に対する基本的な考えは、あの記事群で固まったといってもよいです。

裴秀の地図 * by hyena_no_papa
>「陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か? 」

裴秀の地図は本を読んでいると時折遭遇しますね。申し訳ないのですが裴秀の地図についてはほとんど考慮に入れたことがありません。掲示板時代に身についた習性で、基本的事実を知らない事柄については口を挟まないようにしてきたんですね。生活の知恵とでもいいましょうか、、、(^^;)

下手に口を挟んで大やけど!という経験をしましたんで、それがトラウマになったみたいです。

しかし、掲示板というのは非常に有益なシステムでしたね。色んな人達と会話するうちに、どんどん知識や考え方が身についていきましたから、、、

話が長くなりました。こんなお話も掲示板があれば、気軽におしゃベルできるんですが、、、(^^;)

それでは今夜はこのへんで失礼いたしますm(_ _)m

Re: 裴秀の地図 * by 形名
こんばんは。

確かに気軽に書き込みできる掲示板は欲しいですね。見てるだけで勉強になりますね。

* by 無記名様
長安~洛陽間が4670里? 大月氏国から漢の首都までの距離が滅茶苦茶変じゃないですか。しかも三國志の記録に洛陽から邪馬壹国までの距離が17000里?なんか有り得ない。これ本当に1里にそれほど違いがなかったと断言するほうがおかしいんじゃないですか?

気になって計算してみました。 * by 無記名様
西安~洛陽間の距離が約330キロメートルとして約4700里。330000メートル➗4700里=1里約70メートル、ヤバいっすね。大都市間の距離で過大報告が認められるのかどうか。皇帝にそんな報告をする将軍がいたのでしょうか。

Re: 気になって計算してみました。 * by 形名
無記名様

本稿の中で中国国内の長安~洛陽間を4670里と記述してある箇所はありません。もしかしたら、大月氏国までの距離である漢書西域伝記載の11600里と後漢書西域伝記載の16370里の差分から計算しているのでしょうか?(それにしても計算が合わないが・・・) だとすると無理があります。両書の記述には400年の年代差があり、そもそも見積もりの精度や五服思想による誇張具合が異なると思えるからです。三国時代の魏朝以降においては、それ以前の時代に比べて三国間の情報戦略の影響から、朝貢国の距離感は大幅に誇張されていると考えます。1里の距離計算を行うなら、両書各々の記述単独で行うべきです。
また補足になりますが、私は魏志倭人伝の解釈として、邪馬台国の位置に関して『距離方位欺瞞説』に立っています。魏の対呉戦略の必要性から、呉の南東海上に同盟国である倭国があると擬装して呉を牽制したという考え方です。17000里などという途方も無い記述や方位もデタラメとなった原因は単に五服の影響や大月氏国との距離バランスだけではないと考えます。ましてや、邪馬台国に至る行程のみ短里であったなどという都合の良い解釈が成り立たないと考えるのは本稿に記したとおりです。
なお、本稿は冒頭でも記載してますが、「陳寿にはめられた日本人1~4」稿の補足稿なので、前稿と合わせて読むことを前提に記載しています。

* by 無記名様
大月氏国~西安&洛陽の絶対距離を変えることは不可能でも、里数を増やして誇大報告することは可能ですから。まず長里での西域と都市の間の距離が合っているから誇大報告ではないと言えますよね。しかし、西安洛陽間を長里換算すると約800里。逆に大月氏国から各都市の記述距離を機械的に引き算して4770里、約6倍の差です。この長里換算した都市間の里数が正しいとすると約4000里をどこに持っていきます?大月氏国西安間に足した場合、いやがおうにもこの距離は長里換算出来ない。誇大報告した場合、わざわざ元の2つの距離をだいたい長里換算可能にしていることを考えれば、本当に誇大報告だったのかとなるでしょう。都市間330kmを4770里で割ったら長里なんて吹っ飛びます。そこまで適当に出来たのでしょうか?

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2019-08-21 (Wed)

日本の徐福伝説地と秦氏

日本の徐福伝説地と秦氏

もう40年近く昔の1982年、ある中国人学者が江蘇省連雲港市贛楡(かんゆ)で徐阜(じょふ)という村を発見しました。その後の調査によると、村は清の乾隆帝の時代以前には「徐福村」と呼ばれていたことが分かった。中国でも伝説であり、史実としては疑問を持たれていた秦の方士「徐福」の出生地だったのです。この発見によって徐福は実在人物の可能性が高くなってきた。徐氏の子孫は現代でもこの地域に生活していることも判明してい...

… 続きを読む

もう40年近く昔の1982年、ある中国人学者が江蘇省連雲港市贛楡(かんゆ)で徐阜(じょふ)という村を発見しました。その後の調査によると、村は乾隆帝の時代以前には「徐福村と呼ばれていたことが分かった。中国でも伝説であり、史実としては疑問を持たれていたの方士「徐福」の出生地だったのです。この発見によって徐福は実在人物の可能性が高くなってきた。徐氏の子孫は現代でもこの地域に生活していることも判明しています。


日本の徐福伝承地と秦氏の関係4
中国で発見された徐福村の位置と日本への想定航路(クリック拡大


紀元前219年に始皇帝は全国巡幸の旅に出る。旅の途中で琅邪(徐福村の近隣地域)に滞在している。この時、徐福は皇帝に不老不死薬探索に関する意見書を上奏したそうです。始皇帝が神薬を求めたのは有名なことです。以前から計画作成の命令があったのでしょう。
徐福の出自である田斉(BC386-221年)の名族らしい。田斉中国を統一したが最後に滅ぼした国です。始皇帝はあらゆる手を使って反抗した国の民を虐殺していた。彼はについても、反乱を未然に防ぐために抹殺する計略を持っていた可能性があるそうです。徐福始皇帝の臣下ながら危険な立場にあった訳です。皇帝の焚書坑儒(BC213年)は有名ですが、方士儒者460人を生き埋めにしています。徐福も方士ですから注視されていたのでしょう。

司馬遷史記秦始皇本紀」には、徐福らは始皇帝の命を受けて出航したが、膨大な期間と費用を掛けても神薬を手に入れる事は出来なかった。帰還して皇帝に「蓬莱へ行けば必ず神薬を得ることが出来るが、我々は大鮫に苦しめられて遂に島へ行くことが出来ませんでした」と報告している。つまり嘘をついた訳ですが一度目は皇帝も許したようです。史記では、徐福は皇帝を欺くペテン師として記録されている。また別の経緯談である史記 淮南・衡山列伝の中では以下のように記述している。
始皇帝は道士の徐福に命じて海上に神仙を求めさせた。徐福は帰還して報告した。「自分は海中において大神に逢いました。大神に長寿の霊薬を頂きたい」と話すと、彼は「汝が仕えている秦王の礼物が薄いのでやるわけにはいかない」と答えた。徐福は再拝して、「どのような物を献上したらよいか」と尋ねると、大神は「良家の善男善女と諸々の技術者、五穀を献じれば薬をやろう」と答えた
始皇帝は、BC210年にも巡幸したが、再び琅邪を訪れて徐副に神薬を求めて出航するように命令をします。徐福は2回目の探索において、一族男女三千人を集め、食料と技術者を載せて出航した。徐副は一連の任務が達成不可能であること、目的を達成できなければ処刑される恐れがあることを認識していたようです。殺される前に一族を連れて逃亡することを計画していたのでしょう。前述の徐福の報告は将来の逃亡に備えて始皇帝を欺き、準備に不審を持たれないよう画策したということです。


では日本にある徐福伝説のある地域を確認してみましょう。日本には徐福伝説が非常に多い。北海道を除く全国的にあると言っても過言ではありません。韓国の済州島にも徐福伝説はあるそうです。

日本の徐福伝承地と秦氏の関係3
日本各地の徐福伝説クリック拡大


しかし、徐福と三千人男女の出航の話が史実でも、さらに無事日本に到達できたとしても、こうも日本列島を広範に拡散したとは思えない。この現象には何か理由がありそうです。
個人的な見方ですが、徐福伝説のある地域の多くは、朝鮮半島からの渡来系氏族である秦氏の居住した地域と重なりがあるような気がします。一般に、秦氏は中国始皇帝の末裔を自称したと云われている。始皇帝は残虐非道であったため、命令を達成できなかった臣下の中には処刑を恐れて逃亡した者も多かったそうです。秦氏もそういった逃亡民の可能性があるのかも知れません。もっとも、もしそんな経緯があるなら、非道な皇帝を氏族の始祖とすることに違和感を感じます。秦氏の始祖伝承は信用できるものではないが朝鮮半島の新羅または百済を経由した渡来人であるのは間違いないようです。

私は、秦氏が主張する始祖伝承と徐福伝説は本来は無関係と思います。しかし、どちらも始皇帝と密接に関連する話なので、いつの時代にか融合してしまったのではないかと考えている。つまりに何らかの起源を持つ秦氏は、やがて徐福が日本に連れてきた男女三千人の末裔に変化してしまったのではないか? 両話の融合が、一般民衆の自然な誤解から発生したのか、または、秦氏自身が暴虐非道の始祖から、日本人に好かれる徐福に始祖をすり替えたのかは分かりません。何れにしても、秦氏の子孫は非常に多いので徐福伝説の地も必然多くなったような気がします。

一部の研究者の中にも、中国を脱出した徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫が秦氏となったたとする説を述べてる人がいます(此の説の根拠出典は後述)。しかし、徐福が集めた三千人徐氏の一族であったはずです。他の無関係な民衆が到達できる保証もない移住に応じるとは思えない。善男善女とは下層民ではなく良家の男子女子を指します。前述したように、徐福始皇帝に何れを滅ぼす計略があることに危機感をもっていた。できるだけ多くの一族を助け出したいと目論んだのだと思います。しかし、からすれば田斉を滅ぼした始皇帝は憎悪の対象ですから、運良く生き延びても自分たちをの末裔と主張するはずがない。秦氏などと自称するはずもないでしょう。名族であるの名を使ったはずです。従って、秦氏徐福の子孫というのは、説得力に欠けたあり得ない説だと思います。



さて徐福伝説の背景についてざっと触れてきましたが、中国での新発見によって徐福は実在性を帯びてきた。司馬遷(BC145-87年)史記は中国古代文献の中では群を抜いて正確な書物であると云われています。しかし私が史記を信じるのには他にも理由がある。史記が記述されたのは、徐福が出航してから130年程しか経っていない時期だからです。同時代史として記録された徐福の話の史実姓は高い。ただ、不明な点が無いわけでもない。2回目の出航命令があった同年に始皇帝は死去します。その死は暫く伏せられ、宦官趙高李斯による政治が数年続き、BC206年には滅びます。これが2回めの探索に影響したのか分からない。徐福始皇帝の死去以前に出航したと思われるが、正確な出航日時が分かりません。また、BC210年7月の皇帝の死は反乱を恐れて伏せられた訳ですが、何時まで隠されたのか不明です。

徐福の二回目の東方探索は、一回目のような誤魔化しではなく、逃亡の覚悟を決めた真剣な旅であったと思います。紀元前の時代、中国人にも東方海上の正確な地理認識は殆どなかったはずです。でも、大陸の海岸線伝いに航路をとるか、江蘇省から正確に東に向かえば朝鮮の済州島か、北九州、中国地方に到達した可能性は十分にある。私は徐福の亡命移住で何割の人が無地にたどり着いたのか分からないが、史実だと思っています。
前述したように多くの伝承地は秦氏の居住に端を発する伝承であると推測するが、それらの中には真実の徐福来訪の地が隠されている可能性はあるでしょう。
ならば、その地は具体的にどこにあるのだろうか。一つの資料として、中国の中世地図「東南海夷図に参考になる記載がある。この地図は過去記事でも紹介したことがあるが、もう一度引用します。


日本の徐福伝承地と秦氏の関係1
中国の東南海夷図二重クリック拡大
※東南海夷図には「東西南海夷諸國総圖」という複写版があるが、描画精度がやや低い。


日本の徐福伝承地と秦氏の関係2
東南海夷図の日本列島拡大図クリック拡大


中国人がどんな方法で此の地域の情報を入手したのか分かりません。この地図が作られたのは西暦1300年頃ですが、鎌倉時代から室町時代にかけての時代です。日本は中国の元寇を撃退したあとの時期です。894年に遣唐使が廃止された後は定期的な交流はなくなっていますが、公的な往来はなくとも、商業的交流はあったでしょう。日本人が日本国内の伝承に基づいて中国人に教えた可能性はあると思います。でなければ、徐福が到達した国という認識はあっても具体的な地域と地名まで中国人に分かるとは思えません。徐福は中国に帰ってはいないのですから。
実際に、日本の徐福伝説は後周(951年-960年)の時代に中国に伝えられています。中国には「義楚六帖」という僧義楚が著した仏教書があります。その中で日本の僧寛輔なる人物が伝えた話として「日本の富士山は蓬莱に他ならず、徐福は此処に住んで、その子孫は秦氏になった」と記している。山梨県富士吉田徐福伝説はこの書の影響かと思います。しかし、この話は寛輔なる人物の想像か、当時あった秦氏の伝承をそのまま述べたものだと思います。10世紀の僧が弥生時代の事を正確に把握できていたとは思えない。前述したように秦氏出自との伝承融合は10世紀には周知されていたと推定します。地域も富士山周辺ですから東南海夷図徐福記述は寛輔が伝えた話とは違うようです。


東南海夷図では、日本列島は四島に描かれているが、地名同定から左から3番目の島が中国地方四国相当するのは、まず間違いない。古地図の地名と現代地名との対応を推定します。

■迎江 →  松江or近江? 江とは浅い海の意。近江だと地図上の島が異なるか?
■長門 →  長門     地名変化がない。門は瀬戸内海への入口の意であろうか。
徐福相 → 徐福祠      「相」は「祠」の誤記か?祠は先祖や神を祀る場所。
              この地で徐福は亡くなったと考えることもできる。
■修前 →  備前?   付近の広域地名で前・後の付くのは備前、備後がある。
■修後 →  備後?    同上
周長 →  周防(周芳) 備後との隣接から安芸または周防付近か。
赤関 →  明石?   関は狭い海峡の意。明石海峡か。明石=赤石説がある。
讃  →  讃岐    四国の讃であろう。


日本の徐福伝承地と秦氏の関係6
東南海夷図地名と実際地域の対応推定


徐福祠は囲まれた地名から考えて、中国地方西部の山口県~島根県~広島県あたりの可能性が高いと思います。徐福伝説所在地で言えば、山口県上関祝島や広島県厳島の宮島町は候補となります。ただ両者とも時代の合う客観的な証拠遺物などがある訳ではない。伝承があるだけです。また、日本の中世には行基図という正確な地図があります。くまなく探してみたが、「徐福」の記載は見つかりませんでした。徐福が上陸した伝承はあったかも知れませんが、日本では地名にはならなかったようです。
なお、史記によると「徐福は平原広沢を得て王となり、二度と帰ってこなかった」と記録している。平原広沢とは広い平野と湿地という意味です。史記には具体的な地名の記載はないが、これを信じれば山岳の多い小さな島ではありえず、最終的に定着したのは河口平野部ということになる。また疑問なのは司馬遷はこの情報をどこから入手したかです。時代は邪馬台国さえない弥生中期中葉です。この時代に日本から中国への情報入手があり得るだろうか。史記と同時代に書かれた漢書地理志には「楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とあり、倭国は既に楽浪郡までは朝貢していたふしがある。朝貢した倭人徐福の近況を伝えたということだろうか?だとすれば、BC200~100年頃の倭人に徐福の移住は知られていた事になる。朝貢した倭人は、時代的に九州北部を本拠地としていたと思われる。倭人が徐福を知っているなら、上陸定住地は九州または近隣の中国地方西部の可能性が高い。少なくとも紀伊、東海は考えにくいだろう。

日本の徐福伝承地と秦氏の関係5
クリック拡大

徐福たちは、日本に上陸して永住したのか、また更に移住拡散していったのかは全く分からない。何しろ弥生時代のことですから記録などは期待できない。日本人と混血していったとすれば、痕跡を検出するのは難しいでしょう。各地に残る徐福の墓なども殆ど近世に造立されたものです。観光用の町興しに近い。日本には朝鮮半島国家からの亡命者はやたらと多いという印象があるが、中国からの移住者というのは極少ない。もし一部の日本人に中国系の血が入っているとしたら、面白い話だと思います。中国には系譜の確かな一族がいるようですから、日本の伝説地の人々とDNAを比較してみたいものです。ついでに、日本の秦、羽田、波多さんとも比較して貰えれば、私の徐福・秦氏無関係説も証明できるかも?




【参考引用】
■秦の始皇帝  講談社学術文庫版/集英社版  吉川忠夫著  
■混一疆理歴代国都之図と日本2016      村岡 倫
ホームページ 江蘇省の歴史を歩く「徐福の里を訪ねて」
■ホームページ 邪馬台国大研究 / 徐福伝説


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韓国にも除(ソウ)さん * by レインボー
>中国には系譜の確かな除氏一族がいるようですから、日本の除福伝説地の人々とDNAを比較してみたい。

〇興味深い記事でした。
 DNAですが、韓国にも除(ソウ)さんがいますね。
 日本はどうなのでしょう。
 草々

Re: 韓国にも除(ソウ)さん * by 形名
レインボーさん、こんにちは。

韓国の徐ソ姓も有名ですね。
朝鮮の氏族辞典で調べると「徐」はいずれも中国系の姓になるので、元は中国人なんでしょう。
3派があるようですが、2派は高麗時代からなので10世紀代の移住のようです。
もう1派の利川徐氏は少し古いみたいです。
日本の場合はよく分からないですが、韓国由来は利川徐氏が大阪のほうにいるようです。
中国由来も神奈川県にいるようですが、横浜市山下町なので横浜中華街に関係する帰化人
かもしれないですね。
しかし2200年も前の移住だと日本では氏姓形成されていない時代かも知れないので
徐氏姓が残る可能性は少ないような気がしますね。

No Subject * by sazanamijiro
京都の太秦に住む在日朝鮮人の知人は、昭和の渡来ですが、日本姓を「畑」として、秦氏の末裔のふりをしていました。(本人いわく)
古くから秦氏も雑多な人々が混じっていたようで、平安京に限って言えば、「秦嫌い」でも「秦氏」のふりして実を取る人がいたかもしれませんね(笑)

秦氏にも徐福にも興味があるので、精緻な史料にいいヒントをいただきました。ありがとうございます。
(オールポチです)

Re: No Subject * by 形名
sazanamijiro さん、おはようございます。コメントありがとうございます。

秦氏というのは渡来人としては大きな集団だったようですね。氏族というのは、血縁で結ばれていると考えがちですが、実態としては、擬制氏族が殆どで、利益による結びつきが多いと聞きます。その時々の状況で、所属する氏族を変更するような事も頻繁にあったようです。秦氏の場合は、始祖伝承になりますが、日本で馴染みのない始皇帝よりも、徐福と結びついたほうが有利だったのかも知れないですね。
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