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東国の古代史

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2023-03-31 (Fri)

2023年3月30日 畑まで収穫散歩

2023年3月30日 畑まで収穫散歩

すでに道端の桜も散り始めている。例年より10日ほど早い。今冬は寒さが厳しかったが、寒暖を繰り返す事なく、春にまっしぐらです。飼っているメダカも既に産卵行動に入っている。例年だと、3月にはあり得ない事です。そのせいか、花粉症がひどくて思うように運動ができない日が多い。今日も飛散しています。でも、風が穏やかなので、実家の畑まで片道40分を歩いてみました。↑畑で収穫できるのはかき菜しかない。初めての栽培だが、...

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すでに道端の桜も散り始めている。例年より10日ほど早い。今冬は寒さが厳しかったが、寒暖を繰り返す事なく、春にまっしぐらです。飼っているメダカも既に産卵行動に入っている。例年だと、3月にはあり得ない事です。
そのせいか、花粉症がひどくて思うように運動ができない日が多い。今日も飛散しています。でも、風が穏やかなので、実家の畑まで片道40分を歩いてみました。


20230330畑までウォーキング2

↑畑で収穫できるのはかき菜しかない。初めての栽培だが、スーパーで売っているかき菜とちょっと違う気がする。間引き不足かな?まあ食べられれば見た目はどうでもいいけど。

20230330畑までウォーキング1

春のかき菜のらぼう菜は美味しい野菜です。早速、夜にゆでて食べましたが、甘みがあって美味しいです。特に茎と花の部分が旨い。

20230330畑までウォーキング3

↑玉ねぎは例年より株が大きくてトウ立ちの危険がありそうです。この野菜は、成長しすぎた苗が一定の低温環境にさらされるとトウ立ちするタイプです。苗は260本植えたが、寒さで5本くらい枯れました。

20230330畑までウォーキング5

↑スナップエンドウも大きくなってきた。支柱を添える時期だが、面倒で地這いになってます。笑

20230330畑までウォーキング6

↑急に暖かくなったので、九条ネギも一気にネギ坊主が出てきた。坊主も天ぷらにすると旨いが、数が多すぎて持って帰る気もしない。




20230330畑までウォーキング7

↑自宅へ帰る道沿いにある新堤という農業用水池です。近くに古堤もあります。見た目は比較的新しいが、驚くことに江戸時代に造られた池です。昭和50年ころまで鯉の養殖をやっていたので、地元の人は鯉池(こいけ)と呼んでいる。鯉は長野県の佐久市まで運んで佐久鯉として売っていたそうです。産地偽装ですね。笑
小学6年生頃には、近所の悪ガキと此処で鯉を密かに釣った記憶があります。小麦粉を油で練った餌で幾らでも釣れた。みな逃がしましたけどね。ところで、もう4月になろうとしてるのに、まだヒドリガモが越冬しています。今年の渡りは止めたんでしょうか?

20230330畑までウォーキング

↑天明3年(1783年)頃の工事らしいです。この年は岩木山浅間山が大噴火しています。天明8年まで続く天明の大飢饉が起きていますね。被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人が餓死したと杉田玄白は記録しています。



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2023-03-29 (Wed)

酒の強さから分かること(1/2) - 日本人のアルコール耐性度の要因 -

酒の強さから分かること(1/2) - 日本人のアルコール耐性度の要因 -

本稿は2020年に投稿した記事の前編ですが、後編記事の作成を忘れていました。当初の構想も忘れてしまったので、本稿を含めて記事を再構成して投稿しなおします。論旨は以前とかなり変わっています。下の画像は何を表しているか分かるでしょうか。NHKで放送されたNHKスペシャルPlusという番組から引用しました。↑アセトアルデヒド分解遺伝子の働きが弱い人の分布(クリック拡大)濃淡で示された図は、「アセトアルデヒド分解遺伝子...

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本稿は2020年に投稿した記事の前編ですが、後編記事の作成を忘れていました。当初の構想も忘れてしまったので、本稿を含めて記事を再構成して投稿しなおします。論旨は以前とかなり変わっています。


下の画像は何を表しているか分かるでしょうか。
NHKで放送されたNHKスペシャルPlusという番組から引用しました。

アセトアルデヒド分解遺伝子の働きが弱い人の分布。色が濃い地域ほど「酒に弱い遺伝子」を持つ人が多い
↑アセトアルデヒド分解遺伝子の働きが弱い人の分布(クリック拡大)

濃淡で示された図は、「アセトアルデヒド分解遺伝子の働きが弱い人の分布図」です。この名前は長過ぎるので、以後、「遺伝子分布図」と呼びます。この図は、色が濃い地域ほど酒に弱い遺伝子を持つ人が多いことを示します。アセトアルデヒドはエチルアルコールの分解過程で生成する有毒物質です。体内で分解して無毒化されるが、その反応には触媒となる酵素が必要です。人間はこの酵素を作る能力を持つが、遺伝的な個人差があってスムースに酵素を作れない人がいる。アセトアルデヒドの洗礼をもろに受けてしまう酒に弱い人です。分布を一見して目立つのは、中国長江より南の華南地方と西日本~関東地方までの類似性です。人類史をかじった方は、この分布は稲作の広がりに似ていることに気がつくでしょう。日本人の遺伝子や稲の遺伝子分析で、日本人のルーツは中国華南地方にあるらしい事は以前から定説になっています。


この図を見て面白いと思ったのは以下の点です。
①中国北部と朝鮮半島は酒に強いが、瀬戸内海近畿圏~関東は弱く、両地域は一致しない
②日本国内では、九州南部、北陸上越、東北、北海道が明らかに酒に強い

から単純に言えるのは、日本人のルーツは中国北部~朝鮮半島経由の可能性はかなり低いということです。これは、稲の遺伝子分析など他の状況証拠とも矛盾しません。かって、騎馬民族征服王朝説に代表されるような半島からの大規模かつ征服的な人の流入を主張する説がありました。いまではこの説も陳腐化しています。
有史以前から中国北部~朝鮮半島からの人の流入はあったと思いますが、大規模な移民によるクニを構築したという事実はないと判断できます。ただ、朝鮮半島人の多くが古代日本に帰化しているのは事実です。そういった人々が日本人と混血していったケースは多々あったでしょう。だが、その影響が日本人のアルコール耐性の地域変化に作用したとは思えません。帰化人の多くは、西日本に流入しています。しかし、古代日本の王権は彼らを徐々に北海道を除く日本全域に配属しているからです。帰化人流入の影響は均一に希釈されたと判断できます。

は注目すべき現象です。日本人の酒の強さの一般的な現代認識と矛盾してはいない。しかし、理由がよくわからない。他の記事でも書いたことがありますが、九州から北海道まで日本人の遺伝形質は、現代では同質といってもよい。古代には縄文人と弥生人の分別は明確であったかも知れないが、混血を繰り返して一様になったということです。しかしアルコール耐性については明らかな地域差がある。これを人類学的な遺伝と捉えるか、地域文化特性と捉えるかです。

以下のグラフは同じテレビ番組からの引用です。アフリカン・アングロサクソンが圧倒的に酒に強いのは明確ですが、韓国~日本~中国のデータが興味深い。アルコール耐性は、韓国>日本>中国の順です。

酒に弱い人の割合
↑国別の酒に弱い人の割合い

原因仮説は幾つか考えられるが、単純に考えれば酒に強い人種との混血が一番考えやすいと思います。酒に弱い中国華南地方人は拡散して行く過程で、酒に強い因子を持つアジア北方系人種との混血で酒に対する耐性を持って行ったと考えられる。北方民族の血の濃さが、韓国>日本>中国の順位を生み出している可能性は高いでしょう。

日本列島には、大陸系の弥生人が現われる以前に、縄文人が沖縄から北海道まで居住していたと推定されます。彼らは比較的アルコール耐性が強かった可能性が高い。縄文人も元を正せばアジア大陸各地から列島に渡ってきた人種が固定化した人々です。染色体分析では、沖縄・琉球人、北海道アイヌ人などは、その形質を残している。そして弥生時代に入ると、中国華南から人々の拡散が始まります。中国北部~朝鮮半島では、ツングース系の人種と混血して華南人よりも酒に強くなっていく。同じく華南から海洋ルートで日本列島に来た人々は西日本から東北に広がり、列島先行移住者の縄文人と共存・混血していく。渡来弥生人が特定地域の縄文人と混血することで酒に強くなったと推定することが出来ます。その後、長い期間を経て混血はあらゆる地域で繰り返される。しかし、遺伝的に全く同質になった訳ではないという事です。何れにしても遺伝的要因が大きい事は間違いないでしょう。

一方、アルコール耐性の差を飲酒の地域文化に要因を求めることは出来るでしょうか。酒をたしなむ文化が、人間のアルコール耐性を徐々に向上させた可能性はあると思います。ただし、人類学的な遺伝要因ほどの影響はなかったと予想します。

酒消費量順位
↑1人あたりの酒類消費量の上位10地域

酒類消費量のランキング表をみると、遺伝的に酒に強い地域は確かに上位に入っているので、この点では順当と言えます。しかし、おかしな点もあります。東京、大阪という地域が上位に食い込んでいる。両者は大都市圏ですが、遺伝子分布図でみると、酒に弱い地域に入っています。もし酒類消費量がアルコール耐性の強さに比例するなら、東京、大阪という地域が上位に入るのは不自然な現象とも思えます。
これには一つ理由があります。前述の遺伝子分布図では詳細な地域分布はよく分かりませんが、拡大した物を見ると、東京、大阪、名古屋などの大都市圏は中程度に酒が強い地域に入っているようです。東京、大阪に関しては消費量のデータと一致しているとも云える。
でも、やはり東北人や九州南部人ほどにはアルコール耐性はないようです。従って、アルデヒドの洗礼を受けながら、体に無理して吞んでいるとも云えます。都市圏の消費は接待等の社交的要因が大きいはずで、酒の消費量とアルコール耐性の強さは必ずしも比例しないのです。元々、大都市は地方からの移住者の集合体地域ですから、混血が繰り返されればアルコール耐性も平均化していくと推定できます。



次稿に続く


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中国南部との関係 * by レインボー
たいへん興味深い記事でした。

中国南部(江南地方)に酒に弱い人が多いということは、稲作民族のマレー系との関係がある感じがします。

機会がありましたら引用させていただきます。

Re: 中国南部との関係 * by 形名
レインボーさん、こんにちは。

中国華南地方で突如アルコール耐性の弱い遺伝形質が生まれた原因は、実際にはまだ解明されたとは
言えないようです。本稿のデータを引用したNHKの記事に仮説が記載されていますが疑問が多いです。
湿地で暮らす人々にある種の感染症が広がったが、酒を分解しにくい人々は、体内のアルデヒドが
病原菌を殺してくれた為に淘汰を生き延びたという仮説ですが、説得力が薄い気がします。
ただ、原因が稲作生活に関連してる可能性は高いと思いますけどね。

東国の古代史ブログ * by 之乎哲也
形名さん:
私のブログ「世界遺産をゆく」を訪問して頂き有難うございました。形名さんのブログ、私にとってはやや難易度が高そうですが、お酒の話については面白く拝見しました、自らも酒好きですので面白く拝見させて頂きました。
なお、近年世界遺産でも古代の遺跡も多くなり、古代史があまり得意ではない私も先般北東北の世界遺産候補(亀ヶ岡、伊勢堂岱、大湯、田子屋野など訪問してきたところでした(ブログのアップはまだですが)。
今後、古代史も勉強するなかで形名さんのブログも拝見させて頂きたいと思いますので宜しくお願い致します。

Re: 東国の古代史ブログ * by 形名
之乎哲也 さん、おはようございます。

コメントありがとうございます。
日本の古代史には当時の産業と言える金属生産が大きく関わっていると思います。
実用性で言えば、鉄、銅ですね。貴金属で言えば金銀でしょう。
之乎哲也さんのブログに伺ったのは、おそらく長登銅山の歴史を調べている最中であった
と思います。山口県に関して詳細な記事を書かれていますね。
生地の中でも触れていましたが、武蔵の銅は銅貨発行のための瑞祥として利用された
もので、実用性があった訳ではないと思います。1~2年で衰退し、発見翌年には鋳銭司も
任を離れていますし、発掘を主導した渡来人も鳥取の国司に転任していますね。
古代史を政略・軍略史だけで理解するのは無理で、産業や農業など多面的な評価も必要だと
思います。そういった意味では世界遺産は、かなりの部分でオーバーラップするものだと
思いますね。私の記事はまだ少ないうえ、分析も情報収集も拙いのですが、よろしくお願
いします。

資源開発(金属生産)と古代史の関係 * by 之乎哲也
形名さん:

古代史と金属生産の関係についてご教示頂きまして有難うございます。なるほど、確かに鉄器などの金属を手にすることで生産性(農業、工業、鉱業ともに)が上がり、富の増殖を通じてさらに権力基盤の強化につながる。非常に判りやすい説明ですね。
ご指摘の長登銅山については第287話の山口県立博物館の記事でしょうか?大河ドラマ「花神」で大村益次郎の出身地が鋳銭司村ということは昔から知っていたのですが、その名前の由来に関係する銅山が美祢の長登銅山というのは山口博物館を見学して初めて知りました。

まだわたしのブログ記事には書けていませんが、世界遺産の石見銀山や国内外を問わず産業遺産関連の世界遺産も地域の権力を支えた歴史がありますね。今後形名さんから頂いた観点も気にしながらブログ記事も書いていきたいと思います。
取り急ぎ御礼まで、有難うございます。

Re: 資源開発(金属生産)と古代史の関係 * by 形名
之乎哲也 さん、こんばんは。

おっしゃるとおり、鉄は武器にも使えるし、農具の発達にも寄与して生産力が著しく伸びたんですね。8世紀には班田収授法、三世一身法、墾田永年私財法などの法律が立て続けて公布されました。農民には多くの水田が面積的には割り当てが可能でしたが、当時の労働力では、必要な土地開墾能力が不足していたんですね。そもそも木製農具では限界があるのは想像できます。鉄製農具が普及することで、新たな土地開墾が可能になってきたと言えるでしょう。

長登銅山の記事は287話の記事でした。私も知らなかったのですが、鋳銭司村という土地名があるのですね。鋳銭司というのは律令制の中の貨幣発行を司る役職名です。武蔵の場合は、有名な多治比真人三宅麻呂が担当しましたが、わずか1年で退任しています。山口県の場合も官吏がいたはずです。当時の銅生産で長登の銅が主力だったことが分かったのは、銅鉱石の出納帳のような木簡が大量に発見されたからですね。和同開珎も大仏も殆どが、ここの銅で造られたと言っても良いようです。
また、当時の奈良盧遮那仏は全身が金で装飾されていましたが、此れには水銀の利用が大きく関わっています。東北で産出した金を水銀に溶かして塗布するアマルガム法という方法で薄く塗ったんですね。塗った後、松明で焼いて水銀を気化すると金箔が残るという方法です。また水銀は、金銀鉱石から貴金属を抽出するのにも利用できたので、砂金だけでなく鉱石からの抽出が可能になったらしいです。水銀は奈良、和歌山が多いのですが西日本一帯からの産出が多いようですよ。

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2023-03-27 (Mon)

Ashley Davis - Auld Lang Syne

Ashley Davis - Auld Lang Syne

Ashley DavisAuld Lang Syne懐かしき日々Should auld acquaintance be forgot,and never brought to mind ?Should auld acquaintance be forgot,and days of auld lang syne ?旧友を忘れ、思い起こすことがなくても良いのか?昔懐かしい日々を忘れても良いのか?For auld lang syne, my dear,For auld lang syne.We'll tak a cup o' kindness yet,for auld lang syne.懐かしき昔のために我が友よ友情のさかずきを酌み交わそう懐か...

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Ashley Davisa
Ashley Davis



Auld Lang Syne
懐かしき日々

Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne ?
旧友を忘れ、思い起こすことがなくても良いのか?
昔懐かしい日々を忘れても良いのか?

For auld lang syne, my dear,For auld lang syne.
We'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
懐かしき昔のために我が友よ
友情のさかずきを酌み交わそう
懐かしき日々のために

We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' days of auld lang syne.
僕ら二人で駆け回ったあの山々
綺麗なヒナギクも摘んだ
だけど僕らはさまよい続け疲れてしまった
長い年月を経て

We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' days of auld lang syne.
僕ら二人は小川を渡った
朝日から夕暮れまで
だけど僕らを荒海が隔ててしまった
長い年月を経て

For auld lang syne, my dear,For auld lang syne.
We'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
懐かしき昔のために我が友よ
友情のさかずきを酌み交わそう
懐かしき日々のために

And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
この手をとってくれ 親友よ
そして君の手を僕に
さあ酒をぐいっと酌み交わそう
懐かしき日々のために

For auld lang syne, my dear,For auld lang syne.
We'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
懐かしき昔のために我が友よ
友情のさかずきを酌み交わそう
懐かしき日々のために

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2023-03-18 (Sat)

倉賀野宿 飯盛女の悲哀(5/5) ” 太鼓橋の真実 "

倉賀野宿 飯盛女の悲哀(5/5) ” 太鼓橋の真実

前稿からの続き最終稿では飯盛女が寄進したという太鼓橋の真実に迫ります。今回もローカルな話に終始します。ここで、もう一度、太鼓橋の横にある説明板を見てみましょう。↑太鼓橋の説明板↑説明板には、「~ 当時としては珍しいアーチ橋に架け替えられました。飯盛女が名を刻んで寄進したと伝えられ、現在、名を刻まれた石は倉賀野神社の境内に保管されていています」と記載されている。この文章を信じるならば、倉賀野神社に保管...

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前稿からの続き

最終稿では飯盛女が寄進したという太鼓橋の真実に迫ります。今回もローカルな話に終始します。
ここで、もう一度、太鼓橋の横にある説明板を見てみましょう。

太鼓橋説明版
↑太鼓橋の説明板

↑説明板には、「~ 当時としては珍しいアーチ橋に架け替えられました。飯盛女が名を刻んで寄進したと伝えられ、現在、名を刻まれた石は倉賀野神社の境内に保管されていています」と記載されている。この文章を信じるならば、倉賀野神社に保管されている名前を刻んだ石材とは、おそらく橋の欄干石材と思われます。その他には名を刻むような石材は考えられないからです。そこで実際の石材を倉賀野神社で見学してきました。

倉賀野神社に置かれた玉垣4
↑倉賀野神社境内の石柱群

↑境内の南側、北向道祖神横の木陰にずらっと並べられていました。

倉賀野神社に置かれた玉垣10
↑大型の石柱材5本

倉賀野神社に置かれた玉垣7
↑大型の石柱材の側面2面には連結用の穴がある

倉賀野神社に置かれた玉垣011
↑大型の石柱材の上面は屋根型に加工してある

↑石材には旅籠屋の名前と共に飯盛女の名が刻まれています。真ん中の石材には4名の名が刻まれている。左から2番目は、説明版にあった橋名「宝蔵橋」と刻まれている石です。この5本は他の石柱材よりも一回り太くて高さも高い。また、側面に連結用のダボが穿ってあります。この石材は非常に重くて「宝蔵橋」記名の石柱は連結穴があるか確認できませんでした。

倉賀野神社に置かれた玉垣2
↑小型の石柱材、礎石、屋根型石材

倉賀野神社に置かれた玉垣3
↑小型の石柱材

↑小型石柱の上面には屋根型加工はなく下面はいずれも礎石から叩き割って外したような跡が残る。

倉賀野神社に置かれた玉垣9
↑小型の石柱材の側面

↑他の小型の石柱は、ほぼ同じサイズで側面に連結用の穴は開いていない。すべての石柱には文字が刻まれているが、崩された書体なので一部の屋号しか読めません。

倉賀野神社に置かれた玉垣5
↑礎石と屋根型材

↑石柱を固定していた礎石材には大型と小型の2種類があり、いずれも石柱の割れた破片や漆喰が固定した穴に残っている。屋根型石材は1種類だけです。

並んでいる石材には以下の5種類があります。
①名が刻まれた大型の石柱材で側面に連結用の穴が穿ってあるもの.........5本(4本?)
名が刻まれた小型の石柱材で側面に連結用の穴がないもの................25本
③大型の石柱を固定していた礎石.................................................1本
④小型の石柱を固定していた礎石.................................................数本
⑤石柱材の上に乗っていたと思われる屋根型の石材.............................数本
 
①、②の石材は全部で30本ありました。③、④、⑤の部材は30本の柱分はないので、おそらく一部だけで、他は廃棄されたのかも知れません。おそらく寄進者の名のある柱を残すために、礎石や屋根型材は破壊されたものが多かったのではないか。比較的状態の良い礎石や屋根型材のみ残したように思います。因みに倉賀野神社の宮司さんは、石柱は27本であると言ってます。また、橋が改修された時に直接持ち込まれたのではなく、民家の庭に埋められていたものを発掘して運んだと言う。

倉賀野神社に設置された玉垣
↑倉賀野神社の古い玉垣

↑この画像は倉賀野神社の玉垣のうち、古い部分を撮影したものです。保管されている5種類の石材から元の構造は、この玉垣と同じものであったと思われます。太い石柱は屋根材を連結しているため穴が穿ってある。小型石柱は中間の屋根型材を乗せたものです。柱の間隔もほぼ一致します。思うに、此れが橋の欄干とは考えにくい。このような狭い間隔の欄干は見た事がありません。
以下の橋は、地方にあるやや規模の大きなものですが、典型的な江戸時代の石製太鼓橋です。欄干の間隔は60㎝程度と思われます。

江戸時代の石製太鼓橋例
↑江戸時代の石製太鼓橋例

ここで、太鼓橋の石材と伝わる石は、実は倉賀野神社の古い玉垣ではないのかと疑いました。しかし、飯盛女が倉賀野神社を信仰していたという情報はありません。そもそも倉賀野神社の祭神は大國魂大神ですから、大国主神と同神であり、国土創生神です。どうも飯盛女の信仰対象とはイメージが合わない。また神社の現宮司が他から持ち込まれた物と言っているので、倉賀野神社の玉垣の可能性はないと思います。
でも此の疑問は簡単に解消しそうです。以下は倉賀野神社にある常夜灯と神社入口の両脇にある玉垣に関する説明版です。

倉賀野神社玉垣説明板
↑倉賀野神社の説明版(クリック拡大)

↑この説明によると、神社入口の飯盛女の寄進した玉垣は三光寺稲荷から移設したものと記載されている。入口にある2基の玉垣は大型のものですが、境内にあった30本の石材も三光寺稲荷にあったものと考えれば、移設経緯として考えやすい。両者の大きさは異なるが高さは一致します。

倉賀野神社入口玉垣
↑神社入口の両脇にある名入り玉垣

倉賀野神社玉垣2
↑左玉垣の拡大画像

倉賀野神社常夜灯
↑三光寺稲荷から移設された倉賀野神社常夜灯二基

しかし、倉賀野神社の説明版にもあるように、太鼓橋は飯盛女が寄進したとあります。冒頭の太鼓橋の説明版には、その証拠品の石材は倉賀野神社に保管されているとあった。30本の石材は、三光寺稲荷の玉垣だったのか、それとも太鼓橋の欄干石だったのか、はっきりしません。前述したように形態的には玉垣であった可能性が高い。推定が正しければ、飯盛女が寄進したのは三光寺稲荷の玉垣であって、太鼓橋の石材、もしくは、寄進という話は成立しない事になります。しかし、太鼓橋石材説を否定する直接証拠にはなっていない。

そこで何か発見はないかと、三光寺稲荷のあった、現在の冠稲荷を訪問してみました。


冠稲荷の現社殿
↑冠稲荷の社殿

冠稲荷は前稿で記載したが、三光寺稲荷が明治42年(1909年)に廃社され、後の昭和11年(1936年)に再び再建された稲荷神社です。祭神は同一という事になります。三光寺稲荷は寺があった時代の俗称であって、本来は冠稲荷が正式名称のようです。従って、稲荷神社の名称が変わった訳ではないようです。

冠稲荷の玉垣2

↑現在の冠稲荷にある玉垣です。高さが倉賀野神社にある玉垣とは違い、低いです。これが三光寺稲荷の時代のものであるなら、高さの違いに疑問が生じます。日付がないか確認したが読めませんでした。しかし、昭和11年に再建された時の玉垣の可能性が高いでしょう。三光寺稲荷時代の玉垣は、倉賀野神社養報寺に分散して移設されたらしいので、現地には残っていないと思います。

冠稲荷説明版
↑冠稲荷の説明版

結局、冠稲荷を訪問しても、倉賀野神社の30本の石材の出所に関する疑問は解決しませんでした。
しかし、太鼓橋の説明版にあった絵図には見落としていた点があった。これに気付いて、やっと疑問は解けることになります。以下は絵図の拡大画像です。

太鼓橋説明板絵図拡大図

↑橋の欄干石は絵図の中に書かれていました。当時の絵図というのは抽象的イメージで書かれたものではありません。絵は稚拙ですが、云わば写真なのです。写実性を持って描かれていると考えられる。以下に太鼓橋絵図の欄干石と倉賀野神社保管の30本石柱との違いをまとめます。

①絵図の欄干石は横に伸びる石材で連結されている。倉賀野神社の30本の石柱のうち、大型4~5本は横に連結されていた痕跡はあるが、小型25本には連結痕はなかった。
②絵図の石柱の数は片側8本で計16本。神社保管数は30本であるから数が合わない。ただ絵図の石柱に大小があるかは判別できない。
③絵図の橋の長さは5~6mであるから柱の間隔も推定できる。倉賀野神社の石柱礎石の間隔よりも明らかに広く、柱自体の幅を考慮すれば、間隔は60cm程度になる。
欄干石を横に繋ぐ石材は円弧を描いて加工されているが、倉賀野神社にそのような石材はない。
⑤倉賀野神社にある屋根型の石材は、絵図の橋には使われていない可能性が高い。

この事から、倉賀野神社保管の30本の石柱は太鼓橋の石材ではあり得ず、三光寺稲荷の玉垣であったと間接証明できます。飯盛女が寄進したのは、信仰していた三光寺稲荷の玉垣であって太鼓橋の石材ではないという事です。


では、なぜ太鼓橋は飯盛女が寄進したものという伝承が出来てしまったのでしょうか?これについては文献を調べても分かりませんでした。しかし、今回の一連記事で参考にしているブログの『 隠居の思ひつ記 史跡看板散歩-55 太鼓橋』に管理者の迷道院高崎さんの推理が掲載されています。以下に引用します。

引用開始
『 ~前略~ 享和三年(1803)、倉賀野宿問屋年寄たちが高崎町奉行と道中奉行に橋架け替えを報告した文書に、こう書かれています。
「享和二壬戌年十二月、宿内旅篭屋溜銭積金弐百両余出金、石橋ニ架替、翌亥年八月出来、字太鼓橋ト唱」文献による倉賀野三巻)
出した二百両は「旅篭屋溜銭積金」とあります。倉賀野宿では、旅籠屋から飯盛女一人につき165文(天保八年時)の「刎ね銭」を取り、これを宿場の歳入に充てていました。この「刎ね銭」を溜めたのが「溜銭積金」で、たしかに元をたどれば飯盛女に由来はしますが、寄進したということではありません。
それがなぜ「飯盛女が寄進した」として伝わっているのでしょう。推測ですが、その元は昭和十五年(1940)に発行された「伝説之倉賀野」という本ではないかと思います。皇紀二千六百年の記念行事として、倉賀野の小学校研究部で編纂されたこの本は、当時の町民、特に子どもたちへの愛国心・愛郷心教育という目的が強かったようです。

その序文には、このようなことが書いてあります。
「茲(ここ)に我國は光輝ある年を迎へ躍進日本の巨歩を東亜の天地に記しつゝある秋、國民は一層日本の歴史や國柄を善く知る必要があると同時に、其細
「胞である鄕土の姿をはっきりと認め、一層愛國心と愛鄕心を高潮させ國力の發展に寄與せねばならぬ、此意味に於て此冊子の出現は善い結果を齎(もた)らす事と信ずる。」

「傾城(飯盛女)という身分でありながら、自発的に公のために寄進した。」という美談として子ども心に植え付けられ、そのまま大人になっても信じ込まれていたのではないでしょうか。
教育とは、一面、恐ろしいものでもあります。 ~後略~ 
引用終了

【補足】「文献による倉賀野史第三巻」の記載事項の出展は、明治期の高崎の土屋家当主であった土屋老平が執筆した「倉賀野誌」だと思います。この書籍は明治14年にまとめられたものですが、江戸時代初期からの郷土文献資料を土屋老平が収集・編纂したものです。


迷道院高崎さんの推理は鋭いです。
太鼓橋を造るのにかかった費用200両の原資は、飯盛女の稼いだ揚代積立から捻出されたが、本人の意思によるものではないのは明白です。従って寄進とは言えない。俗な言い方をすればピンハネです。宿場役人の財務処理で決まった事です。また、飯盛女が寄進したという美談が定着した経緯にも納得できます。富国強兵の機運が高まる近代においては、愛国心が求められた。身を捨てても国のための奉仕する精神が尊ばれたのでしょう。太鼓橋寄進の伝承も、はじめは単なる誤解であったものが、美談として定着してしまったのではないだろうか。

飯盛女は、ただ自身の安寧と苦界からの救済を求めて三光寺稲荷に祈っていたはずです。求めるモノの対価として玉垣の寄進という行為に及んだのではないか。太鼓橋は彼女達も利用したであろうが、彼女らにとって重要なものでは無かったはずです。太鼓橋への寄進という動機付けがあり得るか考えた場合、可能性は薄いと言わざるを得ない。そこには信仰心という強い行動意識が無いからです。きっと、後世の都合により美談とされるのは、浄土にいる彼女たちにとって、自身の信仰を無に帰す心外な話だと思います。

一方で、倉賀野神社保管の石材が太鼓橋の石材だという誤解はなぜ広まってしまったのだろうか?三光寺稲荷が廃社されたのは1909年です。太鼓橋が改修で廃棄されたのは1936年です。27年も時差がある。信憑性は分からないが、三光寺稲荷の玉垣石材は、当初、養報寺の池に埋められたという情報があります。一方の太鼓橋の石材は道路の下、または近所の民家敷地に埋められたと言われている。本稿の推測が正しければ、前者は池から掘り出されて倉賀野神社に運ばれたと推定される。また、太鼓橋の石材が道路または民家庭から掘り出されたという記録は確認していないが、倉賀野神社の現宮司は、民家庭から掘り出されたと述べている。どうも一旦埋められた石材が掘り出された場所に関して、情報の交錯・誤解・齟齬が起きているような気がします。養報寺の池の発掘という話が、民家の庭からの発掘と入れ替わってしまったために、玉垣と太鼓橋石材が入れ替わってしまったのではないだろうか。

迷道院高崎さんは、太鼓橋説明版にある「宝蔵橋」の画像についても推理しています。説明版では太鼓橋の正式名は宝蔵橋であると暗に写真を掲載しているが、両社は別物であると。宝蔵橋三光寺稲荷の前の五貫堀に架かっていた橋名ではないかと述べている。

三光寺稲荷の参道に架かる橋
寛政12年頃の三光寺稲荷周辺絵図(中山道往還絵図)

↑画像は、中山道往還絵図に描かれた太鼓橋ができる前の三光寺稲荷周辺です。3Dで描かれていて見やすい。旧中山道から稲荷に至る参道が描かれており、参道入口には鳥居があります。参道は五貫堀を渡ることになるが、ここには小さな橋が架かっていたのが分かります。この橋が宝蔵橋ではないかと推理している訳です。

冠稲荷参道入口
鳥居が描かれてる三光寺稲荷参道入口(クリック拡大)

↑旧中山道から見る三光寺稲荷参道入口。右奥に見える階段下に橋があった。ただ、中山道に架かる橋も寛政12年(1800年)には板橋ですから、宝蔵橋も板橋であったのは確実です。板橋の標識に石製の標識を添えるかという疑問は確かにありますが、無いとは言えない気もします。三光寺稲荷が廃社されたときに、参道もかたずけられて、橋の標識と玉垣は養報寺の池に埋められた。そして、後日、発掘されて玉垣と一緒に倉賀野神社に移されたのかも知れません。
そうでないとすれば太鼓橋の正式な橋名標識の可能性が高くなりますが、いずれも確実とは言えない気がします。「文献による倉賀野史第三巻」には、当時の公式文書である道中奉行への橋築造報告書が掲載されており、その文書には「字太鼓橋ト唱」と書かれているそうです。宝蔵橋」が正式名だったなら、公式文書に俗称で記述することは考えにくい気がします。「字」の意味が「あざな=実名以外の俗称」とみる事も可能だが、なぜ正式名を使わないのか不明です。参考に倉賀野神社宮司の記載資料を以下に添付します。宮司は倉賀野神社で保管している石柱は太鼓橋の部材だという伝承に従って記載しているようです。

倉賀野神社社報
↑倉賀野神社社報(クリック拡大)



【参考・引用】
■新編高崎市史 通史編3 近世
■高崎市史民俗調査報告書 第7集 倉賀野町の民俗 ー街道筋の民俗とその変化ー
「飯盛女ー宿場の娼婦たち」五十嵐富夫著 新人物往来社 
■ブログ「隠居の思ひつ記」史跡看板散歩-55 太鼓橋
■ブログ「隠居の思ひつ記」史跡看板散歩-56 冠稲荷神社
倉賀野神社 社報「くらがの」第63号 平成29年発行



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2023-03-16 (Thu)

倉賀野宿 飯盛女の悲哀(4/5) ” 飯盛女が寄進した橋 "

倉賀野宿 飯盛女の悲哀(4/5) ” 飯盛女が寄進した橋

前稿からの続き倉賀野宿の飯盛女の実態について記載してきたが、最後に、彼女らが関係する倉賀野宿のエピソードについて二回に分けて触れてみたいと思います。ローカルな話で恐縮ですが、旧中山道の宿場散策を趣味とする人には知られている話です。宿場散策ガイドブックに必ずと言ってよいほど掲載されているからです。↑旧中山道の低地部分↑倉賀野町の中心部から、旧中山道と例幣使街道が分岐する閻魔堂方面に向かうと、道路が低い...

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前稿からの続き

倉賀野宿の飯盛女の実態について記載してきたが、最後に、彼女らが関係する倉賀野宿のエピソードについて二回に分けて触れてみたいと思います。ローカルな話で恐縮ですが、旧中山道の宿場散策を趣味とする人には知られている話です。宿場散策ガイドブックに必ずと言ってよいほど掲載されているからです。

太鼓橋付近の低地
↑旧中山道の低地部分

↑倉賀野町の中心部から、旧中山道例幣使街道が分岐する閻魔堂方面に向かうと、道路が低い部分がある。この低地は、古代~中世に自然河川が流れていて、氾濫で削られた河岸段丘跡だと思います。河川は向かって左から右へ流れて烏川に合流していました。

現在の太鼓橋上の旧中山道2
↑低地部分の道路両側にある橋の欄干フェンス

この最低地に太鼓橋と呼ばれる目立たない橋があります。太鼓橋の下には今、五貫堀と呼ばれる人工水路が通っている。しかし、暗渠になっていて水流は見えず、その上は細い生活道路になっています。

現在の太鼓橋上の旧中山道1
↑旧中山道に対して斜めに潜る五貫堀

↑旧中山道を通る自動車からは橋がある事にも気が付かない場所です。現在の旧中山道は幅が広いため橋は斜めに掛かっているが、江戸時代の太鼓橋は長さ5~6m、幅3mしかなかったので、斜めに架かっていた訳ではない。

五貫堀の流路1
↑点線で示した線が五貫堀の流路(暗渠)

倉賀野五貫堀低地3D図
↑五貫堀低地3D図

倉賀野城跡
↑倉賀野城の土塁を兼ねる五貫堀の流れ(赤色部)

五貫堀の元となった自然河川は倉賀野城の土塁外側の堀を兼ねていました。倉賀野城が築造されたのは南北朝時代ですが、防御用設備が充実したのは、戦乱の激しくなった戦国時代かと思います。ただ1590年の小田原城の落城とともに、北条氏支配下にあった城は開城し、廃城となりました。倉賀野宿が設置された江戸時代には存在しません。
五貫掘の水源でもある長野堰用水は、水利に乏しい高崎地域を潤すために造られました。開削が始まったのは約1000年前と言われている。江戸時代の1814年にはサイホン設備を備えて、既存河川を横断したという記録が残っています。長野堰から分流する倉賀野堰がいつ頃出来たのか不明だが、明治時代には原形があったのでしょう。倉賀野の五貫堀もその頃からと思います。この流れは太鼓橋の下を流れて烏川に排水されています。

太鼓橋説明版
↑太鼓橋説明板

太鼓橋説明板絵図3
太鼓橋説明板絵図の拡大画像

↑現在の太鼓橋の近くに設置されている説明板と絵図です。太鼓橋が作られたのは享和三年(1803年)ですが、絵図が記載されたのは築造された翌年の文化元年(1804年)の日付になっている。石橋になる以前は板橋であったが、水路が氾濫すると度々流されてしまうので、石造りの堅固な橋が架けられたようです。橋の工事は江戸の石工石田屋太右衛門という人物に依頼して行ったそうです。
この説明板では太鼓橋の絵図の横に「宝蔵橋」と書かれた標識の写真が添えられている。太鼓橋の正式名は宝蔵橋と言いたげな記述です。しかし、当時の絵図の中には太鼓橋と記載されています。この疑問点については次稿で触れます。
また、重要ポイントですが、この橋は飯盛女が寄進したと記載されています。また、その証拠の欄干石材が倉賀野神社に保管されているという。この説明板の影響かと思いますが、地元でも「飯盛女が寄進した太鼓橋」の話は有名です。この話は街道ウォーキングを趣味とする人にも知られており、多くのブログ記事に引用されている。

島田四郎撮影大正9年太鼓橋画像1024ー3
大正9年の太鼓橋と下を流れる五貫堀

↑上の写真は、倉賀野の郷土史家前澤辰雄氏が昭和40年(1965年)に発行した「上州倉賀野河岸」という本に掲載されている大正9年の太鼓橋です。この画像は倉賀野まちづくりネットワーク作成のパンフレットにも掲載されているが、撮影は大正13年とある。撮影者は当時の写真家である鳥羽四郎氏という人のようですが、詳しい事は分かりません。この人は旧中山道杉並木にある「左側通行」標識説明板写真にも名前が記載されています。
画像を見ると、太鼓橋の道幅は狭いが堅固な造りであったようです。五貫堀も水深は浅いようだが、現在よりも川幅が広いようです。この橋は昭和10年(1935年)に道路改修で撤去されますが、それまでの132年間にわたって使用されたことになります。できれば廃棄せずに、近所に移設して残して欲しかったと思う。そうすれば少なくとも群馬県の指定文化財に登録されたでしょう。

九品寺の橋供養塔2
↑太鼓橋の供養塔と伝わる石碑

なお、倉賀野の九品寺には、文化4年(1807年)建立の橋供養塔がある。これは太鼓橋の供養塔だと言われているが、疑問があります。橋供養とは新橋を架けた時に、使用前に安全を祈願して行うものです。1803年に築造した太鼓橋の橋供養塔が1807年に建立されるのは違和感があります。

現在の太鼓橋1
↑現在の太鼓橋の下の五貫堀下流側(暗渠となっている)

↑暗渠化されて現在の堀幅は2m程度しかないが、当時の堀は橋の長さから考えて、4mくらいの幅があったと思います。

冠稲荷前でカーブする五貫堀
↑太鼓橋下流の冠稲荷神社の前で大きくカーブする五貫堀

五貫堀右岸の石垣部分は倉賀野城の土塁跡です。左岸側との落差は4~5mの高さがあり、強固な防御性があったものと思われます。下画像も同様です。

冠稲荷前でカーブする五貫堀2
↑冠稲荷神社の前で大きくカーブしたあと烏川に向かう五貫堀

↑正面の石垣の上に冠稲荷神社があります。江戸時代には三光寺という寺があり、その境内の中に三光寺稲荷と呼ばれていた社があったようです。前述の倉賀野城の絵図にも五貫堀の横に、この名前が記載されている。当時、三光寺稲荷は近隣では有名な神社で、たいそう参拝者を集めていたそうだ。今の現地には残っていないが、奉納された玉垣、御神燈なども多かったようです。一般の町民だけでなく、宿場の飯盛女もこの稲荷を信仰しており、お参りしていたそうです。短い命と悟っている彼女らは、信仰にすがるしか頼れるものは無かったものと思います。前稿で紹介した木崎宿では、色地蔵と呼ばれる地蔵が飯盛女の信仰を集めていたようです。
また、太鼓橋から下を流れている堀にびた銭を投げて拝むと、その日はお茶をひかないと信じられていたそうです。夕方になるとば飯盛女が太鼓橋に集まり、多くの客が付くことを祈ったらしい。おそらく目の前の三光寺稲荷に向かって祈ったのだと思います。

倉賀野河岸場絵図3

↑上の絵図は寛政12年(1800年)の絵図です。まだ太鼓橋が設置される以前なので、中町板橋と補記されいるが、五貫堀の流路は同じです。橋の下流で堀が大きくカーブしている。因みに当時の三光寺稲荷明治42年(1909年)に政府の合祀令によって、倉賀野神社に合祀されました。今でも境内に冠稲荷として祀られています。廃社された三光寺稲荷社殿は前橋市川曲町にある諏訪神社に売却されたそうです。これには後日談があります。倉賀野神社に移された三光寺稲荷祭神が、ある晩、一人の町民の夢に現れ、「元の社に帰りたい」と訴えたという。その話が広がり、元の場所に再び稲荷が祀られたそうです。再建された神社が現在の冠稲荷神社です。元の三光寺稲荷ほど大きな社ではなく、ごく小さなものらしい。

前橋川曲諏訪神社~冠稲荷の旧社殿
↑飯盛女が信仰した元の三光寺稲荷社殿(前橋市川曲町諏訪神社)

川曲町は私の母の出身地であり、この諏訪神社の社殿の前庭で子供の頃はよく遊んだ覚えがあります。高校時代は、自宅からこの神社の前を通って近くの高校に通いました。愛着のある神社ですが、倉賀野から売却されたことは知りませんでした。

本稿は飯盛女が寄進したと伝わる太鼓橋がテーマですが、飯盛女が信仰した三光寺稲荷が、この話の続きに関わるので神社の紹介も併せて行いました。最終稿では、太鼓橋設置の真実について記載します。


次稿に続く


【参考・引用】
■新編高崎市史 通史編3 近世
「上州倉賀野河岸」1965年 前澤辰雄著 
パンフレット「倉賀野めぐり」倉賀野まちづくりネットワーク監修
■前橋市地区情報サイトあずまある「高崎・倉賀野との縁深く前橋川曲の諏訪神社」
■ブログ「隠居の思ひつ記」史跡看板散歩-55 太鼓橋
■ブログ「銀次のブログ」倉賀野宿を歩く②…五貫堀川・飯盛女と倉賀野河岸



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アプリケーションをPC-PC間でインストールする方法

アプリケーションをPC-PC間でインストールする方法

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古いパソコンで使っていたアプリケーションを、新しく購入したパソコンでも使おうと思ってインストールしようとしたが、既にネット上からダウンロード出来なくなっていたという経験はありませんか?
こんな時、古いパソコンのシステム域からプログラムファイルをコピーして、新しいパソコンに移植しても、多くの場合、動作しない。プログラムが正常に動作するためには、関連ファイルやレジストリ情報なども整合しないと、正常に実行できないからです。こんな時に便利なツールを一つ紹介します。
Todo PCTrans Freeというソフトです。HDDやSSDのクローン作成ツールで有名なイーザスソフトウェア社の製品ですが、これは無料版です
【注】この会社は中国の会社です。以下のフリーソフト提供企業と取引があるので、一般のソフトウェア開発企業並みの信頼性はあると思いますが、中国系企業のソフトウェアを忌避されている方にはお勧めできませんので明記しておきます。
株式会社ベクター、株式会社インプレス 窓の杜、株式会社エクサゴン、株式会社DEGICA、株式会社イーフロンティア、アマゾンジャパン株式会社、楽天株式会社、フリーソフト100、オールフリーソフト、ソフトニック

以下に当ソフトウェアの使用方法を記載します。
①Todo PCTrans Freeを2台のPCにインストールし、同時に実行します。

easeustodopctrans0.jpg
クリック拡大
↑②両方のパソコンで「PCからPCへ」を選択します。この時、2台はLANで接続されている必要があります。同一LAN上でもインターネット経由でも可能ですが、前者の方が安心かと思います。

easeustodopctrans2_20230314174306e06.jpg
クリック拡大
↑③転送元のパソコンで右側の”転送元”をクリックします。移行先のパソコンが自動的に検出され、左側に表示されます。

easeustodopctrans4_20230314174300f87.jpg
クリック拡大
↑④転送元パソコンでアプリーケーションタグを選び、インストールしたいプログラムを選択します。因みにアプリケーション以外のファイルやアカウントなどもインストールできます。

easeustodopctrans05.jpg
クリック拡大
↑⑤転送ボタンを押下するとインストールが開始されます。インストールが正常終了したら、再起動してアプリケーションの起動確認を行います。単独で機能するタイプのアプリなら問題ないはずです。エラーになる場合は、必要な何らかの外部ルーチンが不足しているケースが多いです。

※本ツールは必要な外部ルーチン(別ソフトウェア)まで移植してくれる訳ではありません。例えば、Microsoft Visual C ++で開発されたアプリケーションを動作させる場合は、Visual Studio 20XX、または、Visual Studio 20XX tools for Runtime等が予めインストールされていることが前提になっています。インストールされていない場合は、本ツールを使って転送元からコピーするか、または、ネット上からMicrosoft Visual C++ 再頒布可能パッケージ等のインストールが必要です。なお、不足している外部ルーチンの有無は、アプリを動作させた時のエラーメッセージに不足しているdll名が表示されれば、その名前からソフトウェア名が特定できます。


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2023-03-14 (Tue)

古代遺物と中世伝説の接点「倉賀野町40号墳」

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倉賀野町40号墳は昭和10年の上毛古墳綜覧でも同名で呼ばれている。つまり、上毛古墳綜覧の名称が正式名となっています。この古墳だけでなく付近にあった古墳も同様です。しかし、周囲に残っている古墳は殆ど削平されて残っていない状態です。

↑Google MAP

この古墳から東方面には倉賀野東古墳群(大道南群)があるが、上毛古墳総覧の46~206号墳の160基とカウントされており、40号墳は含まれていない。しかし立地は倉賀野東古墳群の西端に位置するので、築造時代は、ほぼ同一と推定できると思います。倉賀野東古墳群、全て円墳で、横穴式石室であることは分かっているが、破壊が進んでおり正確な築造時代は判定出来ていない。しかし、およそ6世紀後葉から築造が始まり、7世紀後葉の早い段階で築造を終えたと見られている。

倉賀野40号古墳位置2
↑周囲の残存古墳と削平古墳の配置(2段クリック拡大)

倉賀野町40号墳は、ちょうど2つの古墳群に挟まれた位置で、古墳密度の薄い場所のようです。北西方向の近距離に長賀寺山古墳という60m級の前方後円墳がありますが、その他は小型の円墳ばかりです。

倉賀野40号墳1948
↑1948年画像(2段クリック拡大)

倉賀野40号墳19602
↑1960年画像(2段クリック拡大)

↑1960年画像では墳丘はやや整ってるように見えるが、大きさは現状とあまり変わらないと思います。1948年でも同様です。


以下に現在の現地画像を掲載します。いずれも画像クリックで拡大します。

倉賀野40号古墳6
↑倉賀野緑地公園入口

↑以前は旧中山道から古墳が見えましたが、現在では住宅に囲まれて見えません。古墳は倉賀野緑地公園の入り口にある駐車場と畑の境界にあります。この付近は倉賀野町字荒神山と呼ばれた地域です。

倉賀野40号古墳3
↑北より

倉賀野町40号墳の形状は円墳です。現在のサイズで直径約5.0m、高さ約2mあります。古墳頂上の祠周囲には、杉の木が数本植えてあり、古墳西側には庚申塔の板碑が設置されている。学術的な調査は全く行われておらず、築造時代も埋葬形式も不明です。

倉賀野40号古墳1
↑南西より

倉賀野40号古墳2
↑西より

形状は明らかに駐車場のある北側が削り取られています。円墳だとすれば、本来はもっと大きな墳丘であったと思われる。どの程度削平されたかにもよるが、既に埋葬施設は無い可能性もあるでしょう。前述したように、1948年まで遡って確認しても、現状と大きさはたいして変わらないようです。削平されたのは近代以前の古い時代だと思われます。

倉賀野40号古墳4
↑北東より

倉賀野40号古墳5
↑南東より

↑南東から見ると、きれいな墳丘に見えます。倉賀野東古墳群の円墳は墳丘が崩されて、石室が露出しそうな古墳が殆どでしたが、この古墳はやけに墳丘が高く残っています。

ただ、個人的には本墳は古墳ではない可能性もあると思っています。実は地元では本墳のことを「荒神山の一本杉」と呼んでいます。伝承によると、江戸時代に造られた墓であるという。伝説であって、真実か否かの確証は全くありません。本来は古墳であったものが、江戸~明治時代の伝承と結びついて、勝手に江戸時代の墓にされてしまった可能性もあります。この古墳の形状が、高さのある塚に保たれているのは、この伝説のためではないかと思います。

倉賀野には「皇紀二千六百年 伝説之倉賀野(昭和十五年十一月五日発行)」という名前の書籍があります。著者の徳井敏治氏は、昭和8年から16年まで倉賀野尋常小学校の校長先生を務めていた方です。この本は、徳井氏が在任中の昭和15年に皇紀二千六百年記念事業として倉賀野城周辺の伝説を調査し、編集したものです。自ら伝承を尋ね歩き、歴史のある倉賀野の町の伝説を後世に残そうと尽力されたということです。

伝説の倉賀野
伝説之倉賀野

一本杉

荒神山の一本杉の話は、目次の「三、一本杉」に掲載されている。以下に内容を転載します。
天下麻の如く亂れた戰國の世も、元和の春と共に、世は太平を謳歌する時代となった。
甲阪新之助は、とある旗本の嫡男に生まれた。父は旗本八萬騎の四天王の一人として多數の部下を統率する身であった。その性質は勤嚴そのものの古武士、大阪夏冬の陣に其の名を謳はれた勇將にて、暇ある毎に語り聞かすは當時の武勇傳であった。
新之助の生みの母は早逝した。父は後添を貰った。後添には一人の娘が居た。名を桃千代と呼び母子は新之助と晴れて夫婦になる日を楽しみにして待って居た。然し、運命は皮肉にも新之助の心は、いつか許嫁とは反對な邸(やしき)の門番の娘お露にあった。『忍ぶれど色に出にけり我戀は、物や思ふと人の問ふまで』いつまでも知れずにはゐなかった。
桃千代を通じて繼母に、繼母より父へと知られた。如何に辯解したとて名ある旗本の嫡男の身が、いやしき門番の娘などと・・・・・
清廉潔白の士を以って世に聞ゆる父に許され樣もない事を知った二人は、或る夏の夜兩國大花火を期して姿を消した。行く先は豫(か)ねて便りに薄ら記憶の老女中、お藤の餘世を送る上州碓氷の坂本宿であった。江戸を出てから夜に日を次いで武州熊谷も過ぎ、本庄に辿りついた。何の用意とてない上に御苦労知らず、働く能なき二人には、それは此の世ながらの生地獄であった。折しも豪雨降り續き、河といふ河は未曾有の増水となった。船賃とて持たぬ上に、江戸から追手が迫ってくると聞いた兩名は、どうしてもこの川を渡らねばならなかった。
或る夜、淺瀬を見付けて川越しをした。だが不幸にも足はすべって河中に・・・・・・怒り狂ふ荒波の中に。明くる朝河岸近くの河原に多くの人が集まってゐた。近寄って見れば何と互ひに胴を結びし男女の溺死體であった。然も可憐にも女の體には新しい肉塊の動きさへ見受けられた。純朴な村人の目には涙さへ催された。
やがて二人のために河岸近くの高臺に比翼塚が建立された。兩親も江戸より馳付けた。此の二人のいぢらしさに肉親の愛情がこみ上げてきた。一切を許して立派な塚が立てられ、その上に二本の杉が植ゑられた。一本は大きく一本は小さくとは優しい村人の心遣ひの表象(あらわれ)であった。さゝやか乍も石塔も立てられた。
よく其處には訪れる人の供へた、だんご草花の供養も見出だされる。其の邊を荒神山(くわうしんやま)と云ひ、人々はあの杉を荒神山の二本杉と呼び慣らした。それから荒神山はただ荒れるに委せられて狐や貉の巣くふ荒山となった。
星移り年も幾度か改まって明治となった。さしも荒れに荒れた荒神山一帶も文明開化の叫びと共に、次第に開墾され田畑となった。荒神と名づけた田も出來た。だがどうした理由か、水田の水掛りが悪い上によく人々が怪我をする。又其の田を耕す者の家には必ず不幸が見舞ふとさへ云はれた。
人々は古老の言に從って二人の供養塔を立てゝ懇ろに弔った。其れ以來惡い事もなくなったと人々は喜んだのである。植ゑた二本杉は年を經て、すくすくと靑天に聳ゆる大木となった。
或る年雷が落って一本が真二つに割れてしまった。幸ひ枯れはしなかったが、その空洞になった所に、時々乞食どもが集まって火を燃してゐた。或る冬の朝、村人たちは怒って追出したが、すぐに又集まって來た。遂に一本は枯れた、だが抜目のない乞食どもは、他の一本にも空洞を見付けて、相變らず火を燃やしてゐた。
訪れる人々はその一本杉の根元に黒くこげた、むごたらしい痕跡を見つけて、風雨幾星霜にさらされて立つ梢を、深い感槪を以って眺めることであらう。

この話には、他にも幾つかバリエーションがありますが、大筋は似ています。こ伝承の出展元に関する情報はありません。従って事実にもとずく伝承なのか、創作話なのか不明です。しかし地元の人々にこの話が伝わっていたのは事実なので、荒神山は男女の墓として守られてきたものと思います。ただ、内容を吟味すると、武蔵の本庄まで辿りついた後に遭難した訳ですが、そこからの経過時間も流された場所も明記されておらず、倉賀野に流れ着き埋葬された経緯が不自然ではあります。
この伝説本が編集されたのは昭和15年ですが、上毛古墳総覧は昭和10年に纏められています。主に学校の教職員が調査まとめ役でしたから、明らかに江戸時代の墓であれば、古墳としての記録は無かったと思います。倉賀野町40号墳が総覧に記録されたという事は、一本杉伝承は必ずしも全ての人に信じられていた訳ではないのかも知れません。
古代の遺跡なのか、江戸時代の墓なのか、真実は不明です。倉賀野町40号墳に石室が残っていて、学術調査されれば決着がつくと思いますが、おそらく考古学的には大きな価値は認めらないと思うので、調査される事は無いでしょう。なお、倉賀野町西部には有名な大鶴巻古墳・小鶴巻古墳の近所に一本杉古墳という中型の円墳がありました。こちらも既に削平されていますが、この古墳は学術調査されており、記録も残っています。本伝説とは無関係です。



【参考・引用】
■新編 高崎市史 資料編Ⅰ 原始古代Ⅰ
高崎市史民俗調査報告書 第7集 倉賀野町の民俗 ー街道筋の民俗とその変化ー

株式会社アミッツ ホームページ 伝説之倉賀野




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2023-03-10 (Fri)

倉賀野宿 飯盛女の悲哀(3/5) ” 飯盛女の出自とその要因 ”

倉賀野宿 飯盛女の悲哀(3/5)  ” 飯盛女の出自とその要因 ”

前稿からの続き前稿では、倉賀野宿の飯盛女の出身地は越後が多い事に触れた。しかし、これが倉賀野宿特有の現象であった可能性はある。そこで、他の地域の宿場の状況も調べてみました。①事例1 木崎宿(きざきじゅく)木崎宿は、倉賀野宿から日光例幣使街道で5つ目の宿場です。例幣使街道5番目の宿である木崎宿は例幣使一行が小休止するに過ぎない小さな宿場であった。文化元年(1804年)の旅籠の数は27軒程でした。しかし飯盛り...

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前稿からの続き

前稿では、倉賀野宿の飯盛女の出身地は越後が多い事に触れた。しかし、これが倉賀野宿特有の現象であった可能性はある。そこで、他の地域の宿場の状況も調べてみました。

①事例1 木崎宿(きざきじゅく)
木崎宿は、倉賀野宿から日光例幣使街道で5つ目の宿場です。例幣使街道5番目の宿である木崎宿は例幣使一行が小休止するに過ぎない小さな宿場であった。文化元年(1804年)の旅籠の数は27軒程でした。しかし飯盛り女がいたことから街道最大級の宿場に発展し、最盛期の弘化2年(1845年)には63軒の旅籠と260人の飯盛り女で大変賑わったそうです。木崎宿足尾銅山へと続く銅街道が分岐し、鉱山関係者が数多く利用した事も発展の要因です。この260人の出身地内訳は不明です。新田町誌 第3巻 特集編「日光例幣使道・木崎宿」によれば、木崎宿の飯盛女33人のうち17人が越後出身で、蒲原郡三島郡のいずれかの出身者であった記載している。群馬県高崎市の郷土史家永岡利一氏が木崎宿の飯盛女の墓を調査しているので、この数値も飯盛女の墓からの集計だと思います。木崎宿でも倉賀野宿と同様に半数以上が越後出身者であったのです。後述しますが、木崎宿には祭りで披露される木崎節という唄がある。オリジナルの木崎節は越後の蒲原郡出身の飯盛女が伝えたそうです。

事例2 粕壁宿(かすかべじゅく)
粕壁宿は、江戸時代の日光街道及び奥州街道の宿場町です。日本橋から4つ目の宿場です。現在の春日部市になります。天保十四年(1843年)『日光道中宿村大概帳』によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒があり、日光街道23宿のうちの6番目の規模でした。この宿場については、仁平佐智子「日光道中粕壁の飯盛女について」に詳細な調査データが掲載されています。

粕壁宿への奉公人の出身地状況
↑粕壁宿への奉公人の出身地内訳状況(クリック拡大)

表の「飯盛旅籠」は飯盛女を置く旅籠、「その他」は平旅籠や商家などを指す。なお、下女(a)と下女(b)は性格を異にしている。(a)は下女とは言いながら実質は飯盛女であり、飯盛女の数を少なく見せるために飯盛旅籠が虚偽申告している可能性が高い。(b)については下働きの奉公人を指しており飯盛女ではありません。飯盛女63人中、越後蒲原郡出身者が45人と70%を占めています。平旅籠や商家などの下女は武蔵国出身者が多いのに、飯盛旅籠の場合は越後の出身者が異常とも思える比率を占める。

この2例以外にも、越後出身者が多いのは関東一円の宿場の特徴のようです。ただ、具体的数値で示されるデータが乏しいので事例としては以上とします。


五十嵐富夫氏は著書「飯盛女―宿場の娼婦たち」の中で、佐藤信淵の著書を引用して「越後国は赤子を殺すこと甚だ少し。その代わりに女子をば、七、八歳以上に至れば夥しく他邦へ売り出す風習とす。故に北越の買婦は一箇の物産なり」と記載している。佐藤信淵とは、江戸時代後期の出羽国出身の医師であり、また、思想家、経済学者、農学者でもある。彼は、1781年12歳で父とともに諸国遊歴の旅に出ている。遊歴で各地の風習に触れ、その著作に記録している。特に心を痛めたのは東北北陸などの日本海側の旅で見聞した農村の悲惨な間引きや身売りという風習であったという。
また、五十嵐富夫氏は同書の中で、江戸期の旗本の執筆と推定される『世事見聞録』(武陽隠士 7巻 文化13年1816年頃成立)引用して、「身売り女は国々の内にも越中、越後、出羽あたりより多く出るなり。わづか三両か五両の金子に詰まりて売るといふ。」と記載する。その要因として、越中、越後、出羽は雪国であり、一毛作地である事を上げる。一毛作地域は冷害や洪水があると、それが直接的に一家を困窮に陥れてしまうという。私個人的には一毛作地域の不作に対する脆弱性は否定はしない。しかし、越後地域の身売りの多さは別の要因の方が大きいと考えている。この点については、同書の記載する要因説には疑問があります。


以下に個人的に越後における身売りが多かった要因と考えられる事項について記載します。
①越後の地形的特徴
越後地域の農村の貧困要因は地形的な条件からくる可能性が高い。下図は江戸初期の正保年間(1644-1648)に描かれた越後絵図です。

信濃川阿賀野川河口絵図
↑1645年頃の信濃川と阿賀野川の河口部絵図(クリック拡大)

江戸時代の新発田地区
↑1647年頃の阿賀野川から荒川の絵図(北蒲原=現代の新発田クリック拡大

 この絵図で目立つのは、湖とも沼とも川とも判別できない潟が点在しています。この時代の北蒲原地域は、信濃川から荒川までの間に、海に注ぐ川が1本も無く、海岸線には砂丘が連なっている。雪解けや梅雨の時期になると、決まって川や潟湖が氾濫したそうです。信濃川の決壊に限っても、享保19(1734)から明治17(1884) 年までの150年間に98回を数える。そのあとには、水辺の植物である蒲が生い茂るため、蒲原北蒲原地域一帯は「水沼の蒲原」と呼ばれる湿地帯であった。今でこそ有名な水田地帯となっているが、かつては「三年一作」などと揶揄された不毛の地でした。このような低湿地での稲作は低い農業生産力に甘んじねばならなかった。困窮のどん底にあえぐ農民は農地を次々と手放し、小作農や地主に雇われる奉公人になっていったという。

信濃川~荒川新発田地域
↑現代の阿賀野川と荒川間の掘削河川図(クリック拡大)

信濃川流域では、河川を日本海へ分水する治水工事が1922年(大正15年)に大河津分水として完成している。この工事では実に殉職者100名を数える難工事だったそうです。しかし、阿賀野川以東の蒲原北蒲原の治水工事は昭和時代まで待たされることになります。昭和初期から戦後にかけて日本海に注ぐ河川が掘削され、現在では、信濃川から荒川までの間に7本の川が海に注いでいます。これらの治水事業が現在の新潟を米どころと変えている。

②女衒に狙われた越後
身売りが地域的に偏っているのは、第一の要因として貧困農民が多いという事実はあったと思います。当時の東日本、特に東北や越後、北陸、飛騨地方などは気候的な厳しさがあり、ひとたび冷害などの農作物の不作が発生すると、貧困層は生活苦に陥った可能性が高いでしょう。ただ、その中でも越後の蒲原郡が突出して身売りが多かったのは別の要因もあったはずです。身売りには介在する業者の存在が前提になっています。宿場の飯盛旅籠への身売りを仲介した女衒(ぜげん)の活動地域という観点でも評価する必要があると思う。越後には女衒に狙われた要素があるのではないか。江戸時代において貧しかったのは、なにも越後だけではない。
日本の三大美人地域には、秋田、新潟が入ります。何れも日本海側です。人の移動が自由な現代では主観的といえるかもしれないが、国をまたぐような移動が殆どない当時の状況では、あり得ると思います。日照時間が短く、紫外線が少ないため、色白のきめ細かな肌の女性が多くなったと言われている。新潟の郷土史研究家大田朋子氏によれば、「当時の江戸において、越後は遠く離れた雪の国で、女性は色白で情け深く、辛抱強く働き者と思われていた」と述べている。つまり、江戸時代の人が持つ地域イメージに越後の女性の美しさ、我慢強さ、働き者としての意識が定着していたという事です。女衒にとっても、買う旅籠屋にも其の意識があり、越後の女性は高値で取引されたものと思います。女衒の収入は取引額の一定歩合だったと思われますから、女衒の活動地域として越後は旨味のある場所だったと推定します。

③人口の多い越後
以下のデータを見ると、明治初期においては何故か新潟県の人口は日本で首位となっています。信じがたいが新潟は東京をはるかに上回っている。この現象は、明治期になって突然人口が増えたとは思えない。江戸時代の末期には既に人口が多かったはずです。

明治6年の日本の人口
↑明治6年1873年の日本の人口上位県(クリック拡大)

一説によると、新潟や北陸地方は、浄土真宗をはじめとした仏教が強く信じられた地域という要因があるとしている。そのため、口減らしのためにかつて日本中の多くの農村でみられた「間引き」が非常に少なかったため、人口は増えていったというのです。しかし、この説には疑問もあります。いくら間引き少なかったとしても、日本一の人口の多さの要因にはなり得ないのではないか? 現時点では、この人口現象の要因は分かりません。個人的に身売りが多かった主因と考える地形要素とは、むしろ矛盾するが、何らかの要因で人口が多かったという事です。農村部人口の多さは、米の不作による食料生産の減少時には困窮につながりやすい。従って、身売りという現象を引き起こす要因にはなり得ると思います。
一点補足するが、新潟は江戸時代から日本海交易拠点として港湾が栄えたという特徴がある。人口の多さが港湾部の発達によるものだとしたら、農村部の身売りの多さの要因にはならないかも知れません。当時の人口分布が分からないので決め手がありません。


江戸時代の越後では、生産率の低い農地で米作を行わざるを得なかった。不作の年は、年貢を納められない場合は多かったと想像できます。結果的に貧しい農民は娘を身売りせざるを得なかったのではないか。 蒲原郡地域では、洪水等が原因で身売りされた女性が歌った蒲原口説(くどき)が唄われていたと言います。歌詞を見るとまさに、この地域の困窮の原因が唄いこまれています。本来の木崎節は越後から飯盛女として売られた女性が伝えた蒲原口説が原形だというが、現在の木崎音頭は全く歌詞が異なっている。原形の歌詞はあまりにも悲惨で露骨表現なので、のちに祭りにふさわしくないと忌避されたのでしょう。

蒲原口説

越後蒲原 ドス蒲原で 雨が三年 旱りが四年
出入り七年 困窮となりて 新発田様には御上納がならぬ
田地売ろかや 子供を売ろか 田地は小作で 手がつけられぬ
姉はジャンカで 金にはならぬ
妹売ろうと相談きまる 妾しや上州に 行てくるほどに
さらばさらばよ お父さんさらば
さらばさらばよ お母さんさらば
またもさらばよ 皆さんさらば
越後女衒(ぜげん)に お手てをひかれ 三国峠の あの山の中 
雨はしょぼしょぼ 雄るん鳥は啼くし やっと着いたが 木崎の宿よ
木崎宿にて その名も高き 青木女郎やと いうその内で
五年五ヵ月 五五二十五両 永の年季を一枚紙に 
封じられたは くやしはないが
知らぬ他国の ぺいぺい野郎に 二朱や五百で 抱き寝をされて
五尺からだの 真ん中ほどに 鍬も持たずに 掘られた くやしいなあ

ドス:強調接頭語の「ど根性」等と同じ
旱り(ひでり): 旱魃/干魃(かんばつ)
ジャンカ:できそこない
ぺいぺい:地位の低い者

前稿で紹介した倉賀野雁会がまとめた書籍に「文献による倉賀野史(第1巻城砦編 第2巻河岸編 第3巻宿場編)があります。この第3巻宿場編に、越後国小嶋谷村の喜左衛門が倉賀野宿の旅籠屋善兵衛に出した、「飯売下女年季奉公人請状之事」という証文が載っているそうです。あいにく、まだこの書籍を入手出来ていません。申し訳ないが、ブログ「隠居の思ひつ記・史跡看板散歩ー54九品寺」から引用させて貰いました。ブログを書かれている迷道院高崎さんによると、原文は候文だが現代語訳版を掲載したそうです。以下に全文を転載します。

『 越後国三嶋郡小嶋谷村喜左衛門の娘ちい十六歳で、よんどころない金子入用のため、親類一同相談の上、倉賀野へ連れて来て、旅篭屋善兵衛方へ旅篭屋飯売下女として、年季奉公に出す。文政七年(1824)八月から天保二年(1831)まで、六年六カ月間、給金は拾八両と極(き)め、給金残らず慥(たしか)に受取りました。
そうしたからには、諸親類や外の者より異議申立をする者は一人もありません。もし、何か申す者が出たならば、我等何方(いずかた)までも出掛け、貴殿には御苦労をお掛け致しません。万一、取り逃げ、欠落など致しましたら、早速尋ね出し、お渡し致します。もし行方知れずの場合には、代わりの人なりとも、給金でも、思召次第に差出します。年季中勝手なお暇など決して取らせません。ことに、ご家内の風にあいませんときは、お知らせ次第出掛けて来て、他の宿へ渡しても良いし、我等遠方のために貴殿の手筋で、他の旅篭屋へ住替えさせ、お金を御取り下さい。後日に加印請状を改めます。
もし、年季中に妻に欲しいとの人がありましたら本人得心の上、先様を見届けの上、貴殿(主人)の娘として、縁付かせてください。万一このもの煩死・病死・けが・あやまちにて、不慮の死の場合は、お知らせ次第お伺いして、立合い致すつもりですが、遠方のためできかねますから倉賀野宿の請け人(勘七)立合の上で、貴殿旦那寺に御取置、後日に法名をおつけください。

身売りは、表向きは下女奉公なので、きちんと年季と給金を取り決め、証文(契約書)を取り交わした。この証文の記載事項は当時の定型文であった可能性が高いと思います。この証文を読むと当時の身売りという契約がどんなものだったのか良く分かります。娘が死んだ時の事まで記載されています。娘の年季が明けて家にもどり、家族と再開することを前提としていない。娘の給金の全額を親に前渡しして、本人はいやおうなく飯盛女になりますから、事実上の人身売買でした。また他には「不通縁切証文」という、親兄弟など家族と縁を切り、娘を妓楼に養女として渡す契約もあったそうです。証文名に違いはあれど、どちらも縁切りと同意であった事には変わりありません。
こうした人身売買を仲介する女衒は人買い稼業と云ってもよい。不作などで困窮した農村を女衒がまわり、女子を仕入れていたのです。転載した証文も売った喜左衛門の筆ではなく、女衒の書いたものでしょう。当時の農民の多くは文盲であり、たとえ文字が読めても書ける人間は殆どいない。対して女衒の文筆能力は非常に高かったと言います。人身売買に関する契約上の専門知識に精通していたはずです。


次稿に続く

【参考・引用】
新田町誌 新田町誌編さん室編 第3巻 特集編「日光例幣使道・木崎宿」
■「飯盛女ー宿場の娼婦たち」五十嵐富夫著 新人物往来社
■駒沢史学論文「日光道中粕壁の飯盛女について」仁平佐智子
■明治学院大学リポジトリ「越後から上州へ渡った飯盛女と八木節」 齋藤百合子
■関西大学文学論集「蒲原平野における歴史生態システムと農業景観」 野間 晴雄
水の歴史ガイド「蒲原郡地域」(画像引用)
■ブログ「隠居の思ひつ記・史跡看板散歩ー54九品寺」(身売り証文の全文引用)
■ブログ「銀次のブログ・上州倉賀野宿を歩く①…飯盛女の墓石(九品寺)」
■ウィキペディア「佐藤信淵」


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2023-03-09 (Thu)

2023年3月9日 春霞のポタリング

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花粉がすごいです。何事にも集中できません。↑クリック拡大↑クリック拡大...

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花粉がすごいです。何事にも集中できません。

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No Subject * by kanna_24b
私も車のボンネットに着いた花粉をみると花粉症ではないものの走りに出かけるのを躊躇してしまいます。

やっと暖かくなったと思ったら花粉で走り辛いし、それをやり過ごせば梅雨に入ってしまうし、その後は猛暑となかなか走りにくいですね。

Re: No Subject * by 形名
kannaさん、こんばんは。

花粉症を発症していない人でも、花粉を多量に体に入れると
突然発症する場合もあるようですね。
昨年の夏の気温が高いので、今年は当たり年なんでしょう。
今シーズンは迷わず、内服薬と点眼薬を使ってます。
運動にも影響が出るのは困りますね。

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2023-03-06 (Mon)

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藤岡市の中栗須というところに群馬では余り聞きなれない神社があります。その名を神明宮という。神明とは伊勢神宮を奉祀する神社を指します。従って祭神は天照大神と決まっている。北関東では天照大神を祀る神社は割と少ないと思います。むしろ大国主命系を祭神とする神社のほうが多い。神明境内は非常に広いが、華やかさが無いというか、商業ずれしていないというか、置き去られた雰囲気のある神社です。

20230306藤岡ポタリング1

↑神社は南向きで一の鳥居があります。手前左手に「郷社神明宮」と刻まれた社号標が立っています。陰に隠れてしまったが、後ろに猿田彦大神」と刻まれた石碑もある。

20230306藤岡ポタリング2

↑参道途中の二の鳥居です。扁額には「諏訪大明神」と記されている。ここで「あれ?」と思ったわけですが、理由は後述します。通常、扁額には神社に祭祀されている神格名が表記される場合がほとんどです。

20230306藤岡ポタリング3

↑三の鳥居です。ここに道路が通っていて参道が分断されてます。一の鳥居から拝殿までは、200mくらいある立派なあつらえです。拝殿前の広場も球技ができるくらい広い。

20230306藤岡ポタリング4

↑屋根の瓦葺は比較的新しいが、木材は朽ちており、相当古いようです。

20230306藤岡ポタリング5

↑神楽殿も古いが立派な造りです。今でも春には例祭があるらしい。

20230306藤岡ポタリング6

↑由緒書きには、祭神は大日孁命(おおひるめのみこと)とあるので、やはり天照大神です。天照大神という女神は後発の神であって、本来の大王家(天皇家)の祖神は高御産巣日神たかみむすひのかみ)と言われている。天照大神が創作され、最高神となったのは恐らく7世紀末の持統朝あたりだと思います。持統天皇が女帝であった事と無関係ではないような気がします。この時期に出雲神話とヤマト神話は統合改変されて現在の記紀神話になったと考えられます。
合祀されてる祭神は他には無いようです。二の鳥居の扁額にある「諏訪大明神」は何処にいるのでしょう?由緒書きの日付けは昭和57年ですから最新情報と言える。なお、創建は1192年、源頼朝の発願となっている。明治13年に拝殿改築とあるので、見た目が古いはずです。

20230306藤岡ポタリング9

↑立派な絵馬が掛かっているが、塗りがはがれていて、絵のテーマは分かりません。

20230306藤岡ポタリング7

↑由緒書きによると、後ろの本殿は1585年の築造になるが、おそらく明治時代に改築されているものと思います。438年前の建築とは思えない。

20230306藤岡ポタリング11

↑境内にはたくさんの末社・摂社があるが、いずれも説明がないので何を祀っているのか分かりません。社殿の裏にも境内は70m四方の広さを持っている。広さだけは十分ある神社です。

ここで奇妙な神社である理由を書いておきます。神明宮祭神は大日孁命(おおひるめのみこと)とあるので天照大神です。由緒書きには他に合祀されてる祭神はありません。しかし、二の鳥居の扁額には「諏訪大明神」と記されていました。扁額の神名と祭紳が一致しない神社というのは初めて見ました。諏訪大明神とは建御名方神たけみなかたのかみ)のことです。全国諏訪神社の祭神ですから、本社は長野県諏訪市にあります。扁額の「諏訪大明神」が神明宮に合祀されている事を表すのであれば、これは非常に奇妙です。建御名方神大国主神の次男坊ですから出雲系の神です。天照大神はもちろん天孫ですから、現天皇家の祖ということになる。出雲の神々から天孫への国譲りのピソードは非常に有名です。

『大国主神による天孫への国譲り際、経津主神建御雷神は、大国主神の御子事代主神から国譲りの意志を示された。大国主神は「我が子でもう一人意見を聞いてもらいたい子がいる。それは建御名方神である」と申された。そこへ、千人かかっても持ち上げられないような大石(千引石)を軽々と両手でささげ持って建御名方神がやってきた。建御名方神は「力競べをして決めよう」と言い、建御雷神の手をつかんだ。 すると建御雷神の御手は氷柱に化し、次いで剣刃に変わってしまった。 建御名方神は、畏れ驚き手を引っこめたが、建御雷神建御名方神の手を握ると、その手は葦のように柔らかくなってしまった。建御名方神はあわてて逃げ去るが、洲羽海(諏訪湖)に追いつめられ殺されそうになり、「命だけは助け給え。この地以外にはどこへも行かない。また父大国主神と兄事代主神の命令や意志には背かない。この豊葦原の中国は天つ神に奉ります」と申された。

「国譲り」と呼ばれるが、出雲神は追い出され、暗示的には殺されたという事。つまり、出雲神と天孫は敵対関係にあり、出雲神は敗者です。従って、両者が合祀されることは本来ならあり得ない。私には建御名方神が天孫に報復するために、天照大神を鳥居という結界を張って封印しようとしているのかと思えました。つまり、二の鳥居は「伏敵門として存在するのではないか? 伏敵とは敵の気づかぬ所に兵を隠すこと。伏敵門とは敵勢力を密かに阻止する防御設備を指します
ただ、逆もあり得るか。天照大神から見たら「伏敵門」建御名方神から自身の神域を守る結界ともいえます。でもそれなら扁額に「天照大神」とあるべきで、尊称の諏訪大明神」とあるのは解せない気もします。おそらくは、境内のどこかにある末社・摂社に諏訪明神が配祀されているというのがオチかも知れません。しかし、そうだとしても違和感の拭えない神社である事には変わりない。通常、末社・摂社には主祭神と関係の深い神々配祀されるからです。

一般的に今の神社は、多くの祭神を取り込む傾向にある。その要因は複数上げられる。
7~8世紀における神話の統合化再編によって、各氏族の神は、大王家を頂点とする序列化や新たな神話の創作によって、必ずしも敵対関係にある神格という概念が薄れてきたこと。
②明治時代末期の合祀令により、合祀により神社の数を減らして、神社の継続的経営環境を改善しようしたこと。また、これには神社は宗教ではなく「国家の宗祀」であるという明治政府の国家原則に従って、地方公共団体から神社への公費提供を実現させるために、財政負担が可能なレベルまでに神社の数を減らす目的もあった。
③大正時代~昭和時代に入って、合祀令の制約が緩むと、商業主義神社は参拝者を獲得するために有名な神格を合祀するようになったこと。
特に②の合祀令の影響は大きく、全国で1914年(大正3年)までに約20万社あった神社は7万社まで減った。廃止消滅した神社もあれば、他の神社に合祀されて数を減じている。従って、中には、天孫系神格と出雲系神格が合祀されている事例もある。また、創建時本来の祭神が後に合祀された祭神に置き換わってしまい、「軒を貸して母屋を取られる」事例も沢山ある。また日本の神社の中には、神社名と一般的な祭神名が一致しない神社もあるらしい。中栗須神明宮にどんな経緯があるのか興味が湧きます。


【追記
現在は更新を止めてるHP「玄松子の記憶」によると、中栗須神明宮の末社は以下19社あるようですが、「諏訪大明神」は存在していませんでした。お諏訪さまは行方不明です。
国造社、高木神社、造化神社、六神社、風宮、雨神社、産泰神社、榛名神社、疱瘡神社、八坂神社、八幡宮、蠶神社、稲荷神社、阿夫利神社、武尊社、石神社、荒御前神社、奥玉神社、東屋神社




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