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東国の古代史

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2021-03-03 (Wed)

北関東の「前方後方墳分布の様相」について

北関東の「前方後方墳分布の様相」について

以下の図面は、群馬県と栃木県の前方後方墳の分布を示したものです。前方後方墳とは、弥生時代の各地方独自の要素を持つ方形周溝墓から進化し、前方後方形周溝墓の段階を経て定型化した墓制を意味しています。↑群馬県と栃木県の前方後方墳の分布(梅沢重昭1992から引用して画像編集)クリック拡大   群馬県            栃木県          栃木県2:  茶臼山西古墳        41:茂原権現山古...

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以下の図面は、群馬県と栃木県の前方後方墳の分布を示したものです。前方後方墳とは、弥生時代の各地方独自の要素を持つ方形周溝墓から進化し、前方後方形周溝墓の段階を経て定型化した墓制を意味しています。

北関東の前方後方墳分布の様相
↑群馬県と栃木県の前方後方墳の分布(梅沢重昭1992から引用して画像編集)クリック拡大
   群馬県            栃木県          栃木県
2:  茶臼山西古墳        41:茂原権現山古墳                51:下侍塚古墳
10:下佐野寺前第6号墳              42:茂原大日塚古墳              52:上侍塚古墳
11:堀ノ内CK12号墳                 43:茂原愛宕山古墳                53:駒形大塚古墳
17:元島名将軍塚古墳                44:三王山南塚2号墳              54:那須八幡塚古墳
19:下郷SZ42号墳                    45:三王山南塚1号墳           
24:前橋八幡山古墳                   46:山崎1号墳                      
27:華蔵寺裏山古墳                   47:亀の子塚古墳                                    
29:太田寺山古墳                      48:浅間塚古墳                                     
35:藤本観音山古墳                   49:二根二子塚2号墳
40:山王大桝塚古墳                   50:浅間山古墳
※番号は図中の番号と対応する
※定型化した前方後方墳を対象としており、弥生後期の前方後方形周溝墓は含めていない
藤本観音山古墳山王大桝塚古墳は栃木県の古墳だが、水系地域から群馬県側に入れる


両県の前方後方墳の様相の違いにお気づきでしょうか?
群馬県の場合は、利根川水系の各支流域に墳形としては単独で分布しているのが特徴です。墳形不明のまま削平されてしまったケースも存在しますから、一概には言えないのですが、地域特性として捉える事は可能と思います。一方の栃木県では、各水系地域に複数の前方後方墳が存在する。これは言い換えると、各地域において複数の首長世代に渡って築造されたという事です。両県で一斉に前方後方墳の築造が始まったとすれば、群馬県では短期間しか築造されず、栃木県では長い期間で築造されたと解釈できる。この様相の違いが昔から非常に気になっていました。

当初は、栃木県では前方後方墳を造った氏族の当地への入植が早く、結果的に前方後円墳に移行するまでの期間が長かったと考えていた。関東の前方後方墳から前方後円墳への移行時期は全域で一斉に起こったと考えていたからです。しかし、この考えは誤っているようです。考えて見ると、氏族の移住時代は弥生時代後期です。東海地方伊勢湾岸から移住した氏族は、当初は弥生墳丘墓である方形周溝墓前方後方形周溝墓を造っていました。群馬、栃木を含む関東全域で弥生後期の墓制はたくさん検出されています。また、パレス式土器S字状口縁台付甕などの東海地方西部の土器を伴う事から彼らの出自が特定できる。やがて彼らは弥生墳丘墓を進展させ、定型化した前方後方墳を造り始めます。この墓制変化の時期は発掘調査によって関東全域でほぼ一致しています。つまり、関東全域に前方後方墳文化が一律に浸透した事を示している。または、移住時に既に該当文化の素形を持っていたという事かも知れません。
栃木県の前方後方墳のあり方は、この墓制の時代が群馬県よりも長く続いていた。前方後方墳のスタート時期はほぼ一緒であったが、その終わりは各地域一律ではなかったということです。

しかし、なぜ栃木県で前方後方墳の時代が長く続いたのかという疑問が新たに生まれます。これを地域固有の事情と言い放つのは簡単だが、何となく釈然としません。そこで、もう少し地域を広げて考えてみます。弥生時代中期~後期に東海地方西部を起点として拡散した氏族は、中部北陸、関東地方、東北地方中部まで広がります。これらの地域での前方後方墳分布の様相も確認しておく必要があります。と云っても、中部・北陸は勉強不足で全く確認が取れていない。分かっている範囲で整理してみると以下の様になります。

①前方後方墳が地域分散して単独で存在する地方
 群馬県
 大型が比較的多いものの、分散傾向にある。同一地域の同墳形での首長継承がない。
 埼玉県
 最大で60mで小規模墳が多い。比企、美里で一部集中が認められるが、大半は弥生
 墳丘墓である。全体的に前方後方墳が隆盛しているとは言えない。唯一の首長継承例
 は塩古墳群1号墳2号墳だけである。
 東京都
 残存自体が少なくて評価不能。
 神奈川県
 最大でも55m級で数も少なく、分散している。同一地域、同墳形で首長継承している
 地域はない。
 千葉県
 数も少なく分散傾向にある。同一地域、同墳形で首長継承している地域はない。

②前方後方墳が特定地域に複数世代で存在する地方
 栃木県
 前掲の通り地域集中している。
 茨城県
 巴川桜川流域において地域集中が認められ、同墳形で首長継承している久慈川水系
 と那珂川下流域では分散傾向にある。
 福島県
 山通りの会津地域で集中が認められるが、同一地域の首長継承とまでは言い切れない。
 中通りは、むしろ関東南部に近く、比較的大型の大安場古墳があるが、同墳形での首長
 継承はない。尚、北部の福島市は前期古墳の過疎地域で宮城県への地域連続性がない。
 福島県への移住経路は北関東から陸路、宮城県への移住経路は海路の可能性がある。
 宮城県
 前方後方墳の北限で知られる名取市では顕著な集中が認められる。同墳形での首長継承
 が5代も続いている。前方後方墳の時代が長く続いた事は明白。至近距離にある東北最大
 の前期前方後円墳ある雷神山古墳の埋葬者に権力継承されたと推定できる。

栃木県前方後方墳の様相13
名取市HPより(クリック拡大)


このように整理してみると、おぼろげながら傾向らしきが見えてくる。西日本から遠隔な地域に前方後方墳の集中が見られる。言い換えれば、遠隔地域ほど前方後方墳の時代が長かったという現象が浮かび上がります。具体的に言うと、6~8世紀の東山道、東海道で考えた時の畿内から距離で現象が変わっている。もちろん、弥生後期~古墳時代前期に東山道東海道も存在しない。しかし、当時の文化伝播は人的往来が唯一の手段であった筈で、古東山道は既に機能していたと思います。弥生時代、東海地方からの氏族移住の移動手段は船であったでしょう。移住には多くの炊事土器、種籾の貯蔵土器、耕作道具、食料の搬送が必要だからです。しかし、その後の人的往来の多くは陸路であったと想像します。遭難の危険性を伴う海路移動が定常的に行われていたとは考えにくいからです。

仮説を述べる前に前提的な考え方を明示しておきます。
東国での前方後方墳は、前方後円墳に先行する墓制であると考えます。前方後方墳西日本にも分布していますが、西日本では弥生時代の円形墳丘墓から発展した前方後円墳が主流を占めていた。『前方後円墳体制は歴史学者である都出比呂志氏が提唱した学説です。私はこの説を全てでは無いが、基本的には支持しています。西日本では、弥生時代から古墳時代出現期において、地方独特な形の墳墓はゆっくりと前方後円墳という共通の葬送儀礼に変化していきます。この現象は、地域首長のゆるい同盟関係、言い換えると精神的紐帯の上に成り立つ前方後円墳同盟を想定しないと説明しづらいと考えている。これは決して軍事的な支配関係を意味するものではありません。軍事力を背景にした全国的な統制が古墳時代出現期に達成できていたとは到底思えないからです。西日本では、この同盟が形成されていた。この同盟関係は、前方後方墳墓制にほぼ統一されていた東日本にも徐々に浸透し始めます。

前方後円墳同盟を主導する氏族国家がどの地域であったのかは不明ですが、西日本から陸路で東国に使節がやってきたと推定しています。古東山道も、ほぼ8世紀の東山道と重複していたでしょうから、関東では群馬県が最初に同盟参加への要請圧力が掛かったと思います。群馬県では、前方後方墳がほぼ一世代で終了し、その後は前方後円墳になってしまう。この現象は前方後円墳同盟に早々に参画することになった事が原因と推定します。栃木県、茨城県以北では、距離的な要素、異文化要素で同盟要請が浸透するのに時間を要したという事だと思う。その間、旧墓制は維持された訳です。7~8世紀のヤマト朝廷にとっても、常磐、東北地方は異国として認識されている。上毛野国に相当する群馬県は、ヤマト朝廷対東北政策の前線基地として位置付けられていた。恐らく弥生後期の時代においても、西日本から見れば、栃木以北、常磐、東北には遠い異国認識があったのだと思われます。
また、もう一つ要素として考えられる事がある。西日本の前方後円墳同盟は「精神的紐帯の上に成り立つ」と前述しました。しかし、これは同盟初期の話で、時代が下るほどに参画要請は徐々に強圧的になったと考えている。言い換えれば、群馬県の首長たちは早々に圧力に屈服した可能性もあるでしょう。それに対して以北の地域は、新たな同盟要請には抵抗する意識があったのかも知れません。


【補足】
古墳時代出現期には、前方後円墳同盟は精神的な連帯で運営されたと考えています。しかし、古墳時代中期に入るとこの関係は激変していく。全国的に築造されていた大型前方後円墳は突然に消滅し始める。この変化は全国的に殆ど時差がありません。現象は地域首長の自粛とは考えにくい。大型古墳は首長の権力の象徴でもあったはずです。西暦400年頃、古墳時代中期初頭において、幾つかの大首長はまだ全国制覇の可能性を残した勢力であったと考えられるが、ゆるい同盟という制約の中で象徴文化を捨てるとは考えられない。大型古墳の築造が九州から東北まで、畿内を除外して停止したのは、畿内勢力が前方後円墳同盟、言い換えると広域地方首長同盟の協定を裏切り、急速に集権化を推し進めたと考えるのが自然です。つまり旧同盟は解体され、新たな枠組みが軍事力を背景に達成されたと考えられる。もし権力が横並びであるなら、畿内だけに巨大古墳の築造が続くことを說明できるだろうか。実際に軍事力を行使したのは畿内の反抗勢力と吉備・出雲地方に限られたと思われるが、威嚇行使は全国的に行われた可能性がある。






【補足】栃木県の前方後方墳事例
(1)侍塚古墳群
栃木県の前方後方墳那珂川水系と鬼怒川水系に分別される。以下の3つの前方後方墳那珂川右岸河岸段丘上の、直線距離で600mの範囲に築造されている。

①下侍塚古墳(全長84m、栃木県那須郡湯津上)
栃木県前方後方墳の様相1
↑「日本一美しい古墳」がキャッチフレーズの墳丘

②上侍塚北古墳(全長48.5m、栃木県那須郡湯津上)
栃木県前方後方墳の様相2
↑墳形がかなり崩されている(左手後方の林は上侍塚古墳)

③上侍塚古墳(全長114m、栃木県那須郡湯津上)
栃木県前方後方墳の様相3
↑右側の林が前方部(耕作面は周堀)

栃木県前方後方墳の様相4
↑前方部後方より墳丘側面を撮影(左側が後方部)


(2)那須小川古墳群
那須小川古墳群は、栃木県那須郡那珂川町にある古墳群で、駒形大塚古墳・吉田温泉神社古墳群・那須八幡塚古墳の総称です。駒形大塚古墳だけは、やや離れた単独古墳であるが、吉田温泉神社古墳群と那須八幡塚古墳は600mの範囲内に存在する。

駒形大塚古墳(全長64m、栃木県那須郡那珂川町)
栃木県前方後方墳の様相7
↑手前が前方部、前方部の現状は極端に低い(削平された形跡あり)

②吉田温泉神社古墳(全長47m、栃木県那須郡那珂川町)
 当古墳は神社が乗っている前方部のみ残して削平されているため、発掘調査の測量図を示します。ちなみに、吉田温泉は「よしだゆぜん」と読みます。

栃木県前方後方墳の様相5
↑墳丘測量図

③那須八幡塚古墳(全長62m、栃木県那須郡那珂川町)
栃木県前方後方墳の様相6
↑左側が前方部、右側が後方部


(3)茂原古墳群
茂原古墳群鬼怒川水系の支流である田川姿川に挟まれた河岸段丘上にある。周囲の水田に対しで数メートル高い丘陵上に築造されています。古墳群は直線で400mの範囲内に集中している。

①茂原愛宕塚古墳(全長50m、栃木県宇都宮市茂原
栃木県前方後方墳の様相9
↑左側が前方部、右側が後方部

②茂原大日塚古墳(全長36m、栃木県宇都宮市茂原)
栃木県前方後方墳の様相8
↑左側が前方部、右の茂みが後方部

③茂原権現山古墳(全長63m、栃木県宇都宮市茂原

栃木県前方後方墳の様相12
↑前方部の正面(南)から撮影
(盛り上がりが前方部の墳頂で、後方部墳丘は正面奥の林の中にある)

栃木県前方後方墳の様相11
↑後方部の正面(北)から撮影


補足おわり



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2021-02-19 (Fri)

前橋八幡山古墳「群馬県最古の前方後方墳?」《前橋市朝倉町》

前橋八幡山古墳「群馬県最古の前方後方墳?」《前橋市朝倉町》

群馬県前橋市の前橋八幡山古墳は大型前方後方墳です。参考に同型墳丘サイズの全国トップ10を添付します。全て古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)の古墳です。1 西山古墳    185m 奈良県天理市杣之内2 波多子塚古墳 144m 奈良県天理市萱生町3 前橋八幡山古墳 130m 群馬県前橋市朝倉町4 新山古墳    126m 奈良県北葛城郡広陵町5 藤本観音山古墳 117m 栃木県足利市藤元町6 下池山古墳 115m 奈良県天理市成願寺町...

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群馬県前橋市の前橋八幡山古墳は大型前方後方墳です。参考に同型墳丘サイズの全国トップ10を添付します。全て古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)の古墳です。

1 西山古墳    185m 奈良県天理市杣之内
2 波多子塚古墳 144m 奈良県天理市萱生町
前橋八幡山古墳 130m 群馬県前橋市朝倉町
4 新山古墳    126m 奈良県北葛城郡広陵町
5 藤本観音山古墳 117m 栃木県足利市藤元町
6 下池山古墳 115m 奈良県天理市成願寺町
7 上侍塚古墳 114m 栃木県那須郡湯津上村
8 フサギ塚古墳 110m 奈良県天理市成願寺町
9 浅間山古墳 103m 静岡県富士市増川
10紫金山古墳 100m 大阪府茨木市宿久庄

半数を奈良県の古墳が占め、その他は北関東の古墳が多いと言えます。東国の前方後方墳は東海地方西部を起点として中部・北陸~関東~東北南部に広がっているが、起点の東海地方西部には大型前方後方墳は少ない。古墳時代出現期まで遡ると言われる愛知県の東之宮古墳も70m程度です。長野県で古いのは弘法山古墳ですが、70m未満のはず。大型が揃う奈良県の前方後方墳は、古墳時代前期の中でも中葉に相当する。しかし、東海地方を起点とした氏族による築造かは不明です。
前橋八幡山古墳は全国でも3番目の規模を持つ。しかし、墳丘の保存性を踏まえると日本で一番美しい大型前方後方墳ともいえます。奈良県の前期古墳は形状破壊が進んでいる。前橋八幡山古墳昭和10年頃の墳丘測定値と現測定値が完全に一致している。古くから形状を保ってきた証拠です。取材日は2021年2月19日。

前橋八幡山古墳の位置

前橋八幡山古墳19
↑古利根川氾濫原の河岸段丘台地にある古墳群(赤:消滅古墳 緑:残存古墳)

前橋八幡山古墳古利根川の氾濫原南端を流れる広瀬川の南側にあります。氾濫原を見下ろす台地になっている。当時の古利根川の氾濫にも耐えうる地勢であったと思われます。この地域は古墳が密集していた場所ですが、広瀬団地の開発で殆どが消滅した。今では幾つかの古墳が残っている程度です。これらの古墳は前橋八幡山古墳を築造した氏族子孫のものでしょう。

前橋八幡山古墳17
↑前橋八幡山古墳の墳丘標高図と周堀範囲(点線)

以下は全て現状での計測値です。
 全長 :130m、墳丘方位は南南東ー北北西
 後方部:幅72m、高さ12m
 前方部:幅59m、高さ8m
 周堀 :幅25~30m

前橋八幡山古墳1
↑史跡標識と墳丘全景(北西より撮影)

前橋八幡山古墳2
↑墳丘東南側から全景撮影

前橋八幡山古墳3
↑前方部東端より全景撮影

前橋八幡山古墳4
↑前方部端部を南から撮影

↑原因は不明ですが、前方部の端部は西側だけが少し欠損しています。前掲の墳丘標高図で見るとよく分かります。

前橋八幡山古墳5
↑墳丘の西側前方部端より全景撮影(クリック拡大)

↑↓周堀外辺に沿ったフェンスに張り付いて撮影してますが、墳丘が大きすぎて超広角レンズでも写角に収まりません。画像接続しています。

前橋八幡山古墳6
↑墳丘の西側真横より全景撮影(後方部は前方部より4m高い)
(クリック拡大)

前橋八幡山古墳12
↑後方部墳頂(過去、八幡宮が設置されていた場所)

前橋八幡山古墳8
↑後方部墳頂より前方部を撮影

前橋八幡山古墳10
↑後方部墳頂より後方部北西角部を撮影

前橋八幡山古墳9
↑前方部墳頂より後方部を撮影

前橋八幡山古墳13
↑墳丘後方部の東北角部(角錐形であることが分かる)

↑墳丘の形状は保たれているが、子供達がダンボールでソリ遊びをするので崩れている場所があると、保存会の人が話していました。放ったらかしで保存されている訳ではなさそうです。

前橋八幡山古墳14
↑墳丘後方部の北面(角錐平面が明確に分かる)

前橋八幡山古墳15
↑後方部東北から墳丘東面を撮影

前橋八幡山古墳18
↑墳丘くびれ部西側のトレンチから検出された築造時の葺石

↑葺石の上に火山灰降下物や堀に流れ込んだ土砂の堆積が厚くあり、墳丘の真の基壇面は現地表よりも低い。墳丘高さ、範囲とも僅かながら影響を受けるものと思われます。

前橋八幡山古墳は墳丘の範囲調査だけで、埋葬主体部は発掘調査されていません。国指定史跡となっており、発掘の可能性は低いでしょう。外周からは土器の小破片が数点出土しています。しかし、少量であり、土器形態から築造時代を割り出すのは難しいと思います。研究者の評価では、火山堆積物の調査と併せて、3世紀後葉から4世紀前半の範囲で推定されている。
一方、群馬県における古式古墳の在り方は前方後方墳前方後円墳がペアで存在するという特徴があります。
■高崎市東部の元島名将軍塚古墳下郷天神塚古墳(距離的にやや離れている)
■太田市西部の寺山古墳大田八幡山古墳(距離的にやや離れている)
■太田市東部の藤本観音山古墳矢場薬師塚古墳(近距離)
■前橋市の前橋八幡山古墳前橋天神山古墳(至近距離)

このペアの古墳は規模も近似していて、築造時期も連続していた可能性が高い。従って、前橋天神山古墳の築造時代から逆算して前橋八幡山古墳の築造を推定するのが、現状では確実だと思われます。前橋天神山古墳前橋八幡山古墳の南200mの位置に隣接する古式前方後円墳です。前橋市の教育委員会は八幡山古墳天神山古墳の築造順序を保留としていますが、前者が先行するのは、ほぼ間違いない。天神山古墳の築造は出土遺物から4世紀前半と推定されている。従って、八幡山古墳は其れよりも先行する可能性が大きい。3世紀後葉に入る可能性があると思います。八幡山古墳は群馬県では最古の古墳と言える。天神山古墳の埋葬者は八幡山古墳埋葬者の後継者と言ってよいと思います。



【補足】前橋天神山古墳

前橋天神山古墳1
↑1968年(昭和43年)の前橋天神山古墳画像

前橋八幡山古墳20
↑1946年(昭和21年)の前橋八幡山古墳(左)と前橋天神山古墳(右)

↑1868年の画像では前橋天神山古墳は完存しているように見えるが、1946年には既に東側面1/2が破壊されている。一方、前橋八幡山古墳は完全保存されている。

前橋天神山古墳4
↑前橋天神山古墳の埋葬粘土槨(1968年発掘)

前橋天神山古墳3
↑現在は後円部墳丘の埋葬主体部のみが切り残されて保存されている

前橋天神山古墳2
↑前橋天神山古墳の現地説明板



前橋八幡山古墳の見学当日は「古墳を守る会」のボランティアの方に案内していただき、墳丘樹上にあるオオタカの巣まで教えてもらいました。感謝致します。



【参考・引用資料】
■史跡「八幡山古墳」範囲確認調査報告書   前橋市教育委員会
■「朝倉・広瀬古墳群」パンフレット     前橋市教育委員会
■前橋天神山古墳  現地説明板       前橋市教育委員会
■国土地理院 航空写真アーカイブ
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2021-02-14 (Sun)

三津屋古墳「珍しい八角形墳」《群馬県北群馬郡吉岡町》

三津屋古墳「珍しい八角形墳」《群馬県北群馬郡吉岡町》

この古墳は昭和10年の上毛古墳綜覧で駒寄村42号墳として一時期は知られていたようです。しかし、その後は忘れ去られて古墳として記録される事はなかった。再発見されたのは、周辺の宅地開発のための事前調査が1993年に実施されたタイミングでした。調査以前は緩やかな斜面に瘤状に盛り上がった地形だったそうです。取材日は2021年2月14日。↑三津屋古墳の位置↑1961年7月25日(昭和36年)の画像(クリック拡大)↑宅地開発される以前...

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この古墳は昭和10年の上毛古墳綜覧駒寄村42号墳として一時期は知られていたようです。しかし、その後は忘れ去られて古墳として記録される事はなかった。再発見されたのは、周辺の宅地開発のための事前調査が1993年に実施されたタイミングでした。調査以前は緩やかな斜面に瘤状に盛り上がった地形だったそうです。取材日は2021年2月14日。

↑三津屋古墳の位置

三津屋古墳17
↑1961年7月25日(昭和36年)の画像クリック拡大

↑宅地開発される以前の丘陵斜面には円錐状に見える突起地形が微かに確認できる。

三津屋古墳13
↑形状復元された三津屋古墳(クリック拡大

墳丘は二段構築から成る八角形墳ですが、正確には上方八角下方八角墳です。角を揃えた八角墳が上下に重なっています。八角形墳全国でも天皇陵を含めて15例ほどが確認されているに過ぎない。この墳形は7世紀から8世紀にかけて畿内の天皇陵古墳に代表されるが、発掘調査で本来の姿が確認されている訳ではない。殆どが墳丘基壇面の八角形が確認されているレベルです。三津屋古墳は、葺石や墳丘の陵角が良好に残り、立体的にその存在が確認された唯一の例として全国から注目を集めている。貴重な墳形なのに国指定史跡にならなかったのは、埋葬主体部が破壊され尽くされていて出土品が無かったことが影響しているのだろうか?

三津屋古墳12
↑現地説明板

↑現地説明板には、築造時代は7世紀後半と記載されています。乙巳の変大化改新)よりも後に築造された古墳ということになる。天皇でいうと孝徳斉明天智あたりでしょうか。築造時代推定については幅があるようで、7世紀前半と記載している資料もあります。何れにしても、殆どの八角形墳の築造は7世紀中葉~末期に集中しているのは確かなようです。

三津屋古墳1
↑南側の駐車場から撮影(開口部は南)

三津屋古墳2
↑南側から撮影

↑墳丘は版築による2段築成、全角135度の正八角形墳対角間の長さ約23.8m、残存高約4.5m、1辺の長さは下段約9m、上段約6m、葺石・周溝を備える。

三津屋古墳3
↑開口部前の前庭

↑復元墳丘内部には残存していた石室が展示されています。

三津屋古墳11
↑下方八角墳の石積み

三津屋古墳4
↑西側からの撮影

上方八角下方八角墳であるが、斜面に築造されているため、下方部北側は埋もれていて見えない。土中まで八角形の石積みがあるのかは不明。

三津屋古墳5
↑西側上方からの撮影

三津屋古墳6
↑北側からの上方八角部

三津屋古墳7
↑残存していた石室の復元展示

埋葬施設は南側に入口をもつ横穴式石室で、調査時には既に破壊されていたが、一部に切石を使用した自然石乱石積みで全長約7.5mだったと推定される。副葬品は見つかっていない。

三津屋古墳16
↑石室内の説明

三津屋古墳9
↑奥壁付近を上から撮影

三津屋古墳10
↑石室入口部を上から撮影(右側が羨道部)


以下は古墳紹介パンフレットから転写した発掘途中の画像です。

三津屋古墳14
↑墳丘発掘調査中の画像(上方八角部)

三津屋古墳の形状復元が推定に基づいて行われたのではない事が、この画像ではっきりと確認できます。稜角は積石パターンが変えられており、きっちりと135度角で正八角形が構築されている。

三津屋古墳15
↑墳丘覆土を取り除いた発掘中石室部の画像


参考に全国で確認されている15例の八角墳上方八角下方墳)一覧を添付します。地方首長墓では、半数を群馬県の古墳が占めているのが特徴的です。天皇および天皇近親の墳形は、7世紀の朝廷が道教思想の影響を受けていた証拠と見ることができる。しかし、北関東の葬送儀礼に採用された経緯については不明です。天皇や天皇近親者と同じ墳形を採用することが地方首長に許されていたのか?もし墳形に制約がなかったのなら、なぜ全国的に普及しなかったのかという疑問もある。

■天皇または天皇近親陵
・牽牛子塚古墳(斉明陵の可能性高い)
・段ノ塚古墳(現舒明天皇陵)
・御廟野古墳(現天智天皇陵)
・野口王墓古墳(現天武持統合葬陵、上方八角下方墳)
・中尾山古墳(文武天皇陵の可能性高い)
・束明神古墳(草壁皇子稜の可能性高い、八角墳の可能性が高い)
・岩屋山古墳(斉明陵説あり、上八角下方墳の可能性あり)
■地方首長墓
・三津屋古墳(群馬県北群馬郡吉岡町、上方八角下方八角墳)
・伊勢塚古墳(群馬県藤岡市※6世紀築造であり八角墳では全国で最初に築造されている
・武井廃寺塔跡古墳(群馬県桐生市新里町)
・神保一本杉古墳(群馬県高崎市吉井町)
・稲荷塚古墳(東京都多摩市)
・経塚古墳(山梨県笛吹市)
・中山荘園古墳(兵庫県宝塚市※国指定史跡
・尾市1号墳(広島県福山市)



【参考・引用】
■群馬県指定史跡「三津屋古墳」パンフレット 吉岡町教育委員会文化財センター
■「三津屋古墳」現地説明板  吉岡町教育委員会、群馬県教育委員会
■国土地理院 航空写真アーカイブ
■ウィキペディア「八角墳」



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No Subject * by sazanamijiro
いやー、なかなか異質感満載で、第二次世界大戦の要塞かと思うくらいです(^^♪
貴重な映像ありがとうございました。

Re: No Subject * by 形名
sazanamijiro さん、こんにちは。

普通の古墳とはちょっと異質な感じはありますね。
確かにコンクリート製の砲台のようにも見えます。
この古墳の存在はだいぶ前から知っていたのですが、ホームページに掲載されてる
復元画像を見て、推定による復元なのかと思ってました。八角墳の候補は実は結構
あるのですが、基壇面の調査で推定されているだけの物もあるようです。
この古墳のように立体的に八角石積みが確認された古墳は初めてなんだそうです。
こんな地方の半分山深い地域に、このような古墳が作られて経緯が知りたいですね。
八角墳文化の伝播でないとすれば、埋葬者は畿内と関係する人物なのかも知れません。

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2021-02-12 (Fri)

北谷遺跡「大規模豪族居館跡」《群馬県高崎市》

北谷遺跡「大規模豪族居館跡」《群馬県高崎市》

北谷遺跡は「豪族居館・水祭祀の発祥(1)~(6)」の中でも紹介した国指定史跡です。国内でも詳細な調査が行われた大規模豪族居館跡は少なく、貴重な史跡です。見学済ではありましたが、詳しい写真を撮っていなかったので再訪してみました。取材日は2021年2月12日。↑北谷遺跡の位置↑Google衛星画像(クリック拡大)北谷遺跡は5世紀後半から6世紀初頭の豪族居館跡です。遺跡は平面が一辺90メートルの方形で、南側を除く三方には2ヶ所の...

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北谷遺跡は「豪族居館・水祭祀の発祥(1)~(6)」の中でも紹介した国指定史跡です。国内でも詳細な調査が行われた大規模豪族居館跡は少なく、貴重な史跡です。見学済ではありましたが、詳しい写真を撮っていなかったので再訪してみました。取材日は2021年2月12日。

↑北谷遺跡の位置

北谷遺跡1
↑Google衛星画像(クリック拡大)

北谷遺跡は5世紀後半から6世紀初頭の豪族居館跡です。遺跡は平面が一辺90メートルの方形で、南側を除く三方には2ヶ所の張出しがある。濠は、幅が30メートル以上、深さも3メートル以上ある大規模なもので、濠の内側の斜面には石積みが確認されている。北側と東側の濠は土橋状の施設によって隔てられていて、北側と西側の濠には水が貯えられていたと考えられている。堅固な城郭とも思える構造となっている。

北谷遺跡2
↑豪族居館の構造(クリック拡大)

↑Google画像と構造図の方位が合っていないので分かりづらいが、90メートル四方の平面に大きな張出部と土橋が併設されているので総面積は広大です。北側の張出は現存してる部分もあり、大型張出部も地割に明確に残っている。

豪族居館水祭祀の発祥7
↑類似構造を持つ三ツ寺Ⅰ遺跡の復元模型(かみつけの里博物館展示品)

北谷遺跡の居館跡は、約3キロメートル離れた所にある三ツ寺Ⅰ遺跡の居館跡と規模・形態が類似しており、共通の規格で築造されたとみられている。しかし、後者は完全に濠に囲まれていますが、北谷遺跡は防御性のある土橋という構造で周囲とは地続きであるようです。
また、三ツ寺Ⅰ遺跡では、居館内部で大型の掘立柱建物跡竪穴建物跡導水施設を伴う祭祀場などが確認されていることから、北谷遺跡でも同様の施設があったと推定されている。三ツ寺Ⅰ遺跡は完全に埋め戻されて、現在は明確な痕跡を見るのは困難です。一方、北谷遺跡は詳細な内部調査は実施されていないが、本体構造が露出した形で保存されているのは幸いです。

北谷遺跡3
↑現地案内板の説明(クリック拡大)

北谷遺跡4
↑居館西側の土橋跡地から見た全景(クリック拡大

北谷遺跡居館面は現地表面から+2mの比高で台地状に残存している。この残存状況は三ツ寺Ⅰ遺跡も同様で、水田の中に浮かぶ島のように見えたため、周辺では島畑と呼ばれていたそうです。

北谷遺跡8
↑居館西側の境界部(道路部分は西、この面にも2つの張出部あり)
クリック拡大

北谷遺跡10
↑西濠部分(クリック拡大)

北谷遺跡22
↑西濠に張り出した張出部の発掘状況(前画像の左側水田部分位置)
クリック拡大

北谷遺跡9
↑居館南側の染谷川侵食崖(道路部分と右側の住宅部分が侵食崖)
クリック拡大

北谷遺跡5
↑居館内西部(クリック拡大)

北谷遺跡7
↑居館内中央部(クリック拡大)

↑居館内には一片が12mもある巨大な竪穴建築物が検出されている。ただ、居館内の詳細な発掘調査は実施されておらず、建築群の配置は不明です。周辺は広範囲に国指定史跡に指定されてしまったので、土地開発、宅地化される危険はなくなりました。従って早急な発掘調査が行われる可能性はないでしょうが、是非、調査して欲しいと思います。

北谷遺跡6
↑居館内南部(クリック拡大)

北谷遺跡11
↑居館東側の東(左側低地)、住宅2軒の位置が張出部(クリック拡大)

北谷遺跡12
↑居館東側の土橋構造部(クリック拡大)

北谷遺跡13
↑居館北側に残存する張出構造(低地部分は北濠)クリック拡大

↑居館面と北濠底の比高差は現在2~3m程度だが、元は5m以上あったものと推定されている。

北谷遺跡16
↑居館北側の全景(左手は居館から続く土橋構造)クリック拡大

北谷遺跡17
↑右の石垣が居館北側の大型張出部側面(クリック拡大)

北谷遺跡14
↑居館北側の大型張出部全景(赤枠内)クリック拡大

↑北側の大型張出部は水田耕作によって低くなっているが、元は居館面と同じ高さであったと思われる。背景の山は遺跡北西方向の榛名山。


参考に群馬県で発見されている大規模豪族居館一覧を添付します。
北谷遺跡21
↑豪族居館一覧(クリック拡大)

豪族居館水祭祀の発祥21
↑群馬県の扇状地に点在する大規模豪族居館跡(クリック拡大)

群馬県には周濠を持つ持つ大規模な豪族居館跡が、少なくとも8ヶ所確認されている。何れも微高地の極緩い緩斜面にあって付近の小河川を周濠に引き込み、一定の防御制を有している。これらの施設を築造した氏族は同一文化性を持つ移住氏族ではないかと個人的に考えています。





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2021-02-06 (Sat)

塩古墳群《埼玉県熊谷市江南町》

塩古墳群《埼玉県熊谷市江南町》

古墳時代前期の前方後方墳を求めて熊谷市の塩古墳群(しおこふんぐん)を訪ねてみました。変わった名称ですが、「塩」は熊谷市江南町塩という字名から取られている。取材日は2021年2月5日です。前稿の鷺山古墳の記事で、埼玉県の前期古墳は北部の本庄児玉地方と南部の比企地方に分かれると記載しました。塩古墳群は両者の中間に位置しています。両群には含まれない古墳群と云えます。また、塩古墳群の前方後方墳は単独で存在するので...

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古墳時代前期の前方後方墳を求めて熊谷市塩古墳群(しおこふんぐん)を訪ねてみました。変わった名称ですが、「」は熊谷市江南町塩という字名から取られている。取材日は2021年2月5日です。
前稿の鷺山古墳の記事で、埼玉県の前期古墳は北部の本庄児玉地方と南部の比企地方に分かれると記載しました。塩古墳群は両者の中間に位置しています。両群には含まれない古墳群と云えます。また、塩古墳群の前方後方墳は単独で存在するのではなく、方墳、円墳を含む群集墳の中にあります。その中で前方後方墳は2つだけです。墳形の違いは埋葬者の地位と関係していると思われます。

↑塩古墳群の位置

当地は小高い丘陵地の杉林の中にあります。夏は涼しそうな場所だが、観察するには適当な時期ではない。以下のような状態だからです。どこの古墳も見学は冬が最適です。

塩古墳群25
↑夏の塩古墳群(google SVより引用)

塩古墳群1
↑塩古墳群Ⅰ支群の現地説明板

↑現在は熊谷市ですが、合併する以前は大里郡江南町です。江南とは荒川よりも南にあるため付けられた名称でしょう。

塩古墳群2
↑Ⅰ支群の主な墳丘名称(右側が北)

塩古墳群30
↑前方後方墳のあるⅠ支群全体図(発掘調査報告書より引用)

塩古墳群31
↑全支群(Ⅰ~Ⅶ)の墳丘配置図(発掘調査報告書より引用)

塩古墳群は古墳時代前期を中心とする古墳群です。全体では7つの支群より構成され、Ⅰ支群には前方後方墳2基、方墳26基、円墳8基からなると説明板にあります。全支群を合わせると倍の数の墳丘がありそうです。前方後方墳を含む方墳と円墳は混じり合っておらず、何か出自階層の違いのようなものを感じさせます。しかし、時代差もあるので葬送儀礼慣習の変遷かも知れません。

塩古墳群21
↑Ⅰ支群は杉林を貫く道路の両側に墳丘が密集する


(1)墳丘外観
①1号墳(前方後方墳)
塩古墳群最大の古墳が1号墳です。主軸方位はN―36°―W。墳丘主軸長35.8m、後方部軸長21.4m、後方部辺長20m、くびれ部幅5.2m、前方部長13.9m、前方部幅11.9m、後方部高4.2m、前方部高1.2m。後方部軸長と前方部軸長の比は2対3。墳形は典型的な古式前方後方墳で前方部は低く小さい。林間にあるせいか侵食を受けておらず、墳形がよく残っている。明瞭な周溝は後方部北側部分と前方部の取り巻で確認できる。周溝は後方部北側では幅6.1m、深さ0.7m。

塩古墳群28
↑1号墳測量図(発掘調査報告書より引用)

塩古墳群3
↑西側真横から撮影(左が後方部、右側が前方部)クリック拡大

↑右側が日陰で暗くて分かりづらいが、後方部と前方部の高さの差が明確に分かります。

塩古墳群13
↑前方部の西端から後方部を撮影(クリック拡大)

塩古墳群6
↑前方部の東端から後方部を撮影(クリック拡大)

塩古墳群8
↑後方部墳丘の側面を真横から撮影(クリック拡大)

塩古墳群7
↑後方部墳頂から前方部を撮影(クリック拡大)


②2号墳(前方後方墳)
塩古墳群で2番目に大きい古墳が2号墳です。2号墳は後方部の主軸と前方部の主軸が一致していない。後方部はN―46°―W、前方部はN―34°―Wです。墳丘主軸長30.1m、後方部軸長18.1m、後方部辺長20.1m、くびれ部幅5.3m、前方部長12.0m、前方部幅11.4m、後方部標高83.18m、前方部標高80.61m。後方部軸長と前方部軸長の比は2対3。1号墳と同じく古式前方後方墳で前方部は低く小さい。墳丘上面は凹凸が激しく後世の盗掘等による撹乱を受けている。周溝は後方部と前方部の一部で確認でき、後方部西側では幅5.3m、深さ0.3mある。

塩古墳群29
↑2号墳測量図(発掘調査報告書より引用)

塩古墳群17
↑東側真横から撮影(クリック拡大)

塩古墳群16
↑前方部の西端から後方部を撮影(クリック拡大)

塩古墳群12
↑墳丘東側面を斜めに撮影(右側後方部、左側奥前方部)クリック拡大

塩古墳群18
↑後方部墳丘を東から撮影(クリック拡大)


③その他の方墳・円墳
3号墳はかなりの大型で明確に方墳と分かる。他の小型の墳丘は方噴が多いはずですが、外観は円墳にも見えます。特にサイズが小さくなると外観では判別できない。

塩古墳群203号
↑3号方墳(クリック拡大)

塩古墳群1178号
↑後方に見える左が8号方墳、右が7号方墳(クリック拡大)

↑埼玉県の研究者の評価では7号方墳塩古墳群の中でも最古とされている。出土した土器片からの編年分析です。

塩古墳群2412号
↑後方左手に見える12号方墳(右側映り込みは2号墳の前方部)クリック拡大

塩古墳群231415号
↑道路東側の14号方墳(手前)と15号方墳(後方)クリック拡大

↑道路東側の墳丘は、方墳なのか円墳なのか判別しにくいが、前述図面によれば全て方墳のようです。


(2)出土遺物
1号墳の墳丘と周溝外側部分から、二重口縁壺、甕が出土している。遺物は後方部墳丘上から転落したものと推定されている。他は砕片の土師器が出土したのみで遺物量は少ない。二重口縁壺には2種類があり、時代差が見られる。口縁部~頸部まで完存し、外面全体と頸部内側まで赤彩の痕跡が残る。体部は胴中央部に最大径を有する球胴形をなすと推定されている。口縁部には焼成前の穿孔により、直径約1.3cmの円孔二個を1組として対向配置されてる。口径30.6cm、頸部の高さ9.1cm、頸部の直径9.6cm。

塩古墳群331
↑1号墳出土の二重口縁壺と7号墳出土の二重口縁壺(右下)
発掘調査報告書より引用)

2号墳の出土遺物は、墳丘北側と周溝部分から、有段口縁壺などが出土している。他は砕片の土師器が出土したが遺物量は少ない。1号墳の二重口縁壺の土器編年は布留式0~1式(250~270年くらい)に置かれ、2号墳の有段口縁壺は布留2~3式(290~350年くらい)の特徴を示すそうです。なお、古墳群最古の方墳と見られる7号墳から出土した二重口縁壺口縁部には棒状装飾が付されており、時代は1号墳に先行するという。縄文土器を連想させる装飾は素人目にも違いが分かる。
注目すべきは、群馬県を含む北埼玉地域の二重口縁壺との形状類似性です。この土器文化を東海地方西部を出発する以前に氏族が持っていたものだとすれば不思議ではない。しかし、定着以降の文化伝播だとすれば、関東広域の中で人の交流があった証拠となる。しかも二重口縁壺の類似性は関東に限らず、東北から九州でも散見される現象です。一つの土器文化も、人が分散していけば、各地でオリジナリティ化が進む。にも関わらず、共通性を持ち続けるのは葬送儀礼における広域共有文化があった事の証明になろう。弥生時代終末期から古墳時代前期初頭に、このような共通性が既にあったという事に認識を改めなければならない。


(3)築造時代と移住ルート
前稿の鷺山古墳記事でも使った埼玉県の前期古墳築造推移図を添付します。1号墳2号墳鷺山古墳と築造時代が並行しています。実年代は350年くらいと推定されているが、300年より遡る可能性もあると思います。特に塩7号墳などは完全に200年代に入るような気がする。出土土器による編年で記載されているので、各古墳の築造順番は正しいと思うが、絶対築造年代の信頼性はそれ程高くはない。土器や埋葬遺物に炭化物が残っていて、高度補正技術を伴うAMS加速器質量分析計が使用できないと、絶対年代値の精度は上がらないと思います。

塩古墳群27
前期古墳築造推移図
(平成26年ほるたま考古学セミナーテキストより引用)

最後に旧大里郡江南町付近の水系に触れておきます。最寄りの河川は滑川になります。この河川は現荒川の支流である市野川の更に支流となる。現荒川は古代吉野川でしたから、滑川吉野川の孫支流ということになります。塩古墳群の氏族は比企地方の氏族と異なるルートで遡上しているが、遡上支流が一つ異なるだけです。また江南町比企丘陵の一端ではあるので近縁の同族と見てよいかも知れません。

■本庄児玉地域・・・利根川小山川志戸川水系
大里郡江南町・・・荒川(古代吉野川)市野川滑川水系   
■比企地域・・・・・荒川(古代吉野川)入間川越辺川都幾川水系




【参考・引用】
埼玉県指定史跡「塩古墳群」の発掘調査報告書2011   熊谷市教育委員会
■埼玉県埋蔵文化財調査事業団設立記念事業「平成26年ほるたま考古学セミナー」テキスト   
 研究報告1「古墳」 青木弘 
■論文「古墳出現期の北武蔵 - 前方後方墳の成立 -」 増田逸郎
Google Earth 画像



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2021-02-04 (Thu)

鷺山古墳《埼玉県本庄市児玉町》

鷺山古墳《埼玉県本庄市児玉町》

埼玉県北部の古墳時代前期古墳では最古の築造と言われている鷺山(さぎやま)古墳を訪ねてみました。場所は関越道本庄児玉インターチェンジの南方500mにあります。付近には多くの前方後方型周溝墓や、後に定型化した前方後方墳が小規模ながらある。南部の比企地方と併せて関東の初期古墳を観察できる興味深い地域です。因みに本古墳の公式な築造時代は3世紀末〜4世紀初頭と推定されている。取材日は2021年2月3日。↑鷺山古墳の位置た...

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埼玉県北部の古墳時代前期古墳では最古の築造と言われている鷺山(さぎやま)古墳を訪ねてみました。場所は関越道本庄児玉インターチェンジの南方500mにあります。付近には多くの前方後方型周溝墓や、後に定型化した前方後方墳が小規模ながらある。南部の比企地方と併せて関東の初期古墳を観察できる興味深い地域です。因みに本古墳の公式な築造時代は3世紀末〜4世紀初頭と推定されている。取材日は2021年2月3日。

↑鷺山古墳の位置

ただ、此等の古式古墳の詳細調査は限定的であり、詳しい情報は少ないという印象です。鷺山古墳も墳丘の形状・範囲調査は実施されているが、埋葬主体部は発掘調査されておらず、不明となっている。にもかかわらず、築造時代が推定されるのは墳丘の形状や出土した土器の分析によるものです。この時代の北関東には東海地方に起源を持つ土器類が観察されるのが常ですが、この古墳も例外ではない。おそらく土器文化の自然伝播ではなく、東海地方西部からの移住者によるものと推定されています。この点では群馬県利根川水系の前期古墳と同様です。


(1)墳丘外観

鷺山古墳21
↑鷺山古墳の現在のGoogle衛星画像(クリック拡大)

↑標高84mの丘陵頂上部にある前方後方墳ですが、墳形整備されていないため、墳丘方位は後述の現地撮影画像でも全く分かりません。夏場は下草が繁茂して近付けないため、2021年2月3日に現地踏査した。しかし、笹ヤブに覆われているため、冬季でも明確な墳形を観察することは出来ませんでした。以降、現地撮影画像を添付します。

鷺山古墳1
↑北西方向からの撮影(クリック拡大)

鷺山古墳2
↑南側古墳標識位置からの撮影(クリック拡大)

↑標識後方の左手前に見える比高1mほどの段差は、前方部墳丘の側面と思われる。前方部の破壊が著しいのは、写真にも写り込んでる農耕機械による耕うんの影響が多いと思います。近年に後方部の破壊は大きく進んだのでしょう。

鷺山古墳10
↑墳丘南側からの撮影(クリック拡大)

鷺山古墳11
↑墳丘西側からの撮影(クリック拡大)

鷺山古墳12
↑墳丘北側からの撮影(クリック拡大)

墳丘北側には耕作平面があるが、この位置は周堀に相当する地形と思われます。墳丘北側は全体的に笹ヤブに覆われているので形状は全く判別できません。

鷺山古墳3
↑古墳標識側面の説明文(クリック拡大)

鷺山古墳5
↑後方部の全景(南より撮影)
(クリック拡大)

鷺山古墳8
↑後方部墳丘南面(クリック拡大)

鷺山古墳9
↑後方部と前方部の中間くびれ部分に相当する位置(南面より撮影)
(クリック拡大)

鷺山古墳4
↑墳丘中心のくびれ部(クリック拡大)

鷺山古墳7
↑後方部墳丘頂上(クリック拡大)

鷺山古墳6
↑後方部墳丘頂上の三角点84.4m(クリック拡大)

↑後方部の東側からの撮影を忘れたが、基壇面まで続く急な斜面となっている。基壇面と頂上の比高は、目視感触でも5mくらいと判断できます。


(2)墳丘の形状と方位
鷺山古墳は周囲の水田面から最大比高差7mの「く」の字形の丘陵頂点に築かれている。後方部の墳丘の頂点に標高84.4mの三角点がある。全長は約60m、後方部の墳丘の高さは5.4m、後方部の一辺が37m、くびれ部の幅11mで前方部につながる。後方部は完全な方形ではなく、四隅の部分が切り落とされた不正八角形に近いらしい。前方部は初期古墳独特の墳丘が低い形状。前方部前面の最大幅は約30m。前方部の盛土は後方部に近い部分が高くなり、標高80.3mであった。前方部全面の扇形に広がる部分は一段低くなっている。周堀は、ほぼ全周すると考えられていて、幅は4.3m、深さ1m程あるとのこと。

鷺山古墳13
↑南東方向に「くの字」形にひらく丘陵頂上部の墳丘(国土地理院3D画像)
(クリック拡大)

鷺山古墳14
↑丘陵頂上部の拡大画像(クリック拡大)

鷺山古墳15
↑拡大画像と墳丘測量図の重ね合わせ(クリック拡大)

↑墳丘の測量図は1985年に実施された墳丘調査資料から転記した図面です。墳丘方位は、南北線から25度西に傾いた方位で築造されている。前方部は未発達な柄鏡式古墳の形状に近く、典型的な古式前方後方墳となっている。現状の前方部は耕作によって、ほぼ破壊されており、明確には判別できません。因みに、破壊が進む前の過去画像を調べて見たが、墳丘が明確に確認できる画像はありませんでした。1960年の航空写真では、前方部の盛り上がりが東南部で僅かに確認できるレベルです。しかし、過去画像から周堀跡が地割に確認できます。以下に画像2点を添付します。

鷺山古墳18
↑1947年の国土地理院航空写真(周堀跡の地割が確認できる)
(クリック拡大)

鷺山古墳19
↑1960年の国土地理院航空写真(東南側の前方部が一部確認できる)
(クリック拡大)


(3)出土遺物
前方部と後方部を繋ぐ、くびれ部の西側の周堀から焼成前に底部穿孔した二重口縁壺が出土している。口縁部直径25cm、口縁部下端18cm、胴部の最大径が28.5cm、器高34cmで焼成後に彩色されている。口縁部の縁帯の幅は8cmで直径1.8cmほどの円形の透かし孔があけられていた。 また、完形品の碗型土器二重口縁壺の口縁部破片や、東海地方独特のS字状口縁台付甕の胴部と脚部をつなぐ破片が出土している。此等は、いずれも初期古墳の特色を示す遺物です。二重口縁壺型土器碗型土器は葬送儀礼の際に用いられ、墳丘に置かれたものが周堀に転落したものと考えられるそうです。

鷺山古墳16
↑墳丘表面から出土した二重口縁壺
(本庄早稲田の杜ミュージアム公開画像より引用)

墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形状や副葬品の内容は明らかになっていない。なお、墳丘表面から埴輪や葺石は発見されておらず、配置されていなかった模様。これは、築造が埴輪文化が広がる以前の時代であることを端的に示していると思われる。


(4)氏族の移住経路
前述したように、この古墳を築造した氏族は東海地方西部から移住した氏族であると推定します。埼玉県には北部の本庄児玉地域と南部の比企地方に古式古墳が分布します。前者は元荒川を遡上して当地に定住したと考えていた。しかし、現地の河川分布を調べてみて、この判断は誤っていました。本庄児玉地域に分布する多くの古式古墳は小山川とその支流である志戸川沿いに展開している。小山川は群馬県と埼玉県の県境を流れる利根川本流の支流です。

鷺山古墳25
鷺山古墳26
↑北部の本庄児玉地域と南部の比企地方に分布する前期古墳群
(平成26年ほるたま考古学セミナーテキストより引用画像を文字編集)

推定として言えるのは、埼玉県北部と南部の比企地方の移住氏族は、起源は同じ東海地方西部でも、移住した経路、時期が異なる可能性がある。本庄児玉地方に展開した氏族は、群馬県の利根川水系に定着した氏族と近縁であり、移住時期が一致していた可能性もあるでしょう。

鷺山古墳22小山川河口2
↑利根川本流に合流する小山川

鷺山古墳23小山川最下流の小山川橋より下流方向
↑小山川最下流の小山川橋から見た河口方向


鷺山古墳24
↑埼玉県の前期古墳の築造推移
(平成26年ほるたま考古学セミナーテキストより引用画像を編集)

↑築造推移図は各古墳から出土した土器形式からの編年で組み立てられている。実年代との対応は埼玉の研究者の推定値です。明確な根拠はないが、個人的には鷺山古墳が3世紀代に入る可能性もあると思っています。群馬県の元島名将軍塚古墳も3世紀代の可能性があります。この表では、比企地方の古墳は本庄児玉地域よりも、やや先行しているようにも見えます。何れにしても、利根川水系を遡上したグループも元荒川を遡上したグループも非常に古い時期に移住していることが分かります。
一つ疑問に思うことは、前方後方墳の規模の違いです。群馬県には、全長130mの前橋八幡山古墳を筆頭に100m級の前方後方墳が幾つも存在する。しかし、埼玉県の場合は、最大が鷺山古墳の60mであり、規模が圧倒的に小さい。後の古式前方後円墳では、野本将軍塚古墳雷電山古墳など大型古墳も散見されるが、それでも数は少ない。考えられる要因として、土地の生産力の大きさが影響してることは想像がつく。生産力の差が権力の大きさに比例していると考えるのが自然です。ただ、生産力の違いの具体的な要因が、他稿でも触れたことがある農耕水利の差であるのか、または、その他にも要因があるのか明確な答えは不明です。




【参考・引用】
■埼玉県埋蔵文化財調査事業団設立記念事業「平成26年ほるたま考古学セミナー」テキスト   
 研究報告1「古墳」 青木弘 
■論文「古墳出現期の北武蔵 - 前方後方墳の成立 -」 増田逸郎
ホームページ「本庄早稲田の杜ミュージアム」
■ウィキペディア「鷺山古墳」
■国土地理院 3D標高図、航空写真アーカイブ画像
Google Earth 画像



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2021-01-24 (Sun)

にいぼり公園古墳? 《高崎市某町》

にいぼり公園古墳? 《高崎市某町》

体重維持のために出来るだけ毎日歩くようにしてます。歩くコースはだいたい同じですが、飽きてくるので路地裏などに入って変化を付けてます。今日は宅地に囲まれた小さな公園で珍しいものを見つけたので写真を撮ってきました。超小型の前方後円墳です。仮に公園の名前を頂いて「にいぼり公園古墳」と呼んでおきます。笑。↑全景↑前方部俯瞰↑後円部俯瞰↑後円部墳頂↑後円部の盗掘痕?■墳形   前方後円墳■墳丘長  約12m■高さ  ...

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体重維持のために出来るだけ毎日歩くようにしてます。歩くコースはだいたい同じですが、飽きてくるので路地裏などに入って変化を付けてます。今日は宅地に囲まれた小さな公園で珍しいものを見つけたので写真を撮ってきました。

超小型の前方後円墳です。仮に公園の名前を頂いて「にいぼり公園古墳」と呼んでおきます。笑。

にいぼり公園古墳1
↑全景

にいぼり公園古墳2


にいぼり公園古墳3


にいぼり公園古墳4
↑前方部俯瞰

にいぼり公園古墳5
↑後円部俯瞰

にいぼり公園古墳6
↑後円部墳頂

にいぼり公園古墳7
↑後円部の盗掘痕?


■墳形   前方後円墳
■墳丘長  約12m
■高さ   後円部墳頂で基底面から1.5m
■埋葬施設 不明
■特徴   横から見ると前方部の平らな古墳時代前期古墳だが、前方部平面形は幅の広い
      中期~後期の特徴示す。墳形から築造時代の推定が難しい古墳。^^
■築造時期 西暦2006~2012年頃と推定
      ※2006年国土地理院航空写真では確認できず、2012年のGoogle Earth
       ストリートビュー画像では確認できる。



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2021-01-01 (Fri)

2021

ろうばい

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ギックリ腰 再発

ギックリ腰 再発

腰痛持ちのギックリ腰が再発しましてリハビリ中です。長い時間、パソコンの前に座れません。しばらく新規投稿はお休みかも知れません。...

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腰痛ベルト

腰痛持ちのギックリ腰が再発しましてリハビリ中です。長い時間、パソコンの前に座れません。
しばらく新規投稿はお休みかも知れません。


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* by いろは
お大事にしてください。腰痛辛いですよね。私は靭帯骨化症だったりヘルニアだったりしますが痛くなるとロキソニンが効かないので疎経活血湯を飲んでますがまぁまぁ効果あります。早くよくなりますように。

No Subject * by fukuchan
蜂を飼育しています。家に2群、借りている畑に8軍、山の林道の法面に4群おいています。来春は林道に6群置こうかと思っています。林道はライバルが多いです。

No Subject * by kame-naoki
おはようございます。

それはお辛いですね。

少しでも早く治りますように。お大事になさって下さい。

No Subject * by kanna_24b
お大事にしてください。

ぎっくり腰は一度やると癖になってしまいますね。
私も先日事務仕事していてただ座っていただけなのにキュッと神経に触りしばらく動けなくなってしまいました。
幸い大事に至らなかったのでストレッチなどで緩和するようにしています...。

Re: タイトルなし * by 形名
いろはさん、おはようございます。

ありがとうございます。
私のは若い頃からの癖になっており、腰を使う作業をやり過ぎると疲労して起こります。
腰のトラブルを抱える人は結構多いですよね。完治はしなくとも、対処しながら
付き合っていくしか無いですよね。

Re: No Subject * by 形名
fukuchan さん、おはようございます。

そうですか。本格的に養蜂を行っているんですね。
昔、レンゲ畑を求めてトラックで移動する養蜂家の話を聞いたことが
ありますが、環境条件が揃えば定着して行うことも出来るんですね。

Re: No Subject * by 形名
kame-naoki さん、おはようございます。

ありがとうございます。
ギックリ腰は1週間ほど安静にしたら、その後は多少痛んでも体を動かしたほうが
よいので、我慢してます。

Re: No Subject * by 形名
kanna_24b さん、おはようございます。

ありがとうございます。
私の腰も癖になってまして、疲労性だと思います。といっても、それほど
労働してるわけでは無いのですが、腰が弱くて疲れやすいのでしょう。
kannaさんもトラブルが出ることがあるんですね。
ちょっとした動きで、神経に触る事ってありますよね。

No Subject * by ご〜ご〜ひでりん
形名さま、こんばんは。
今年の冬は今のところかなり寒いですし、お大事にしてくださいね。奇遇ですが、私も3週間前にぎっくり腰をやりまして、1週間は使い物になりませんでした。。。

Re: No Subject * by 形名
ご〜ご〜ひでりんさん、こんにちは。

ありがとうございます。
ひでりんさんもやりましたか。
寒さも少し関係があるのかも知れないですね。
ギックリ腰は4~5日は安静が必要でも、その後は多少痛くても普通の
生活をしたほうが回復が早いそうですね。
私も腰の緊張状態で強張っており、前屈できなくて辛いのですが、
今は我慢して動いています。
腰は運動の要ですから、お互い大事にしましょうね。

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2020-12-06 (Sun)

葉物野菜のトンネル栽培に挑戦

葉物野菜のトンネル栽培に挑戦

12月に入り、群馬県高崎市でも最低気温が0度に迫る日があります。こう寒くなると、露地栽培で蒔ける野菜は殆どない。例年、この期間で生育してるのは、収穫期のネギ、大根、白菜の3種くらいになる。でも、今年は冬季の葉物野菜を作ってみようと思います。路地では無理なので、トンネル栽培というやつです。↑無孔の透明ビニールトンネル今まで、防虫ネットや不織布は使っていましたが、ビニールを使うのは初めてです。作る野菜はホ...

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12月に入り、群馬県高崎市でも最低気温が0度に迫る日があります。こう寒くなると、露地栽培で蒔ける野菜は殆どない。例年、この期間で生育してるのは、収穫期のネギ、大根、白菜の3種くらいになる。でも、今年は冬季の葉物野菜を作ってみようと思います。路地では無理なので、トンネル栽培というやつです。

トンネル栽培3
↑無孔の透明ビニールトンネル

今まで、防虫ネットや不織布は使っていましたが、ビニールを使うのは初めてです。作る野菜はホウレン草。この野菜には洋種と和種がありますが、次郎丸という和種でやってみます。
ビニールトンネルは保温性が高いですが、密閉すると、冬でも天気の良い日は内部が40度近くまで上がるそうです。これでは寒暖差が激し過ぎます。通気孔の空いたビニール資材もありますが、ビニールの裾に隙間を作って設置する方法でやってみます。この方法なら氷点下5度くらいまでなら栽培が可能かも知れません。難点は雨が浸透しないこと。冬場なので頻繁な水やりは不要ですが、表面の乾き具合で適時散水が必要だと思います。


トンネル栽培2
↑無孔の半透明ビニールトンネル

透明資材と半透明資材で差が出るのか実験しています。


トンネル栽培1
↑発芽したほうれん草

発芽したてのホウレン草は芝のような形状ですが、成長すると葉が広がってきます。冬場に栽培するホウレン草は、凍結防御のために糖度が上がり、とても甘いそうです。上手く行けば、1月末頃には収穫できますが、未経験ゆえ捕らぬ狸~もありうる。



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No Subject * by kanna_24b
寒い時期にできたほうれん草は甘くておいしいですね。
子供のころは苦手だったのですが、今は普通に茹でたほうれん草に鰹節と醤油をかけただけで酒とご飯が進みます...笑

Re: No Subject * by 形名
kannaさん、こんにちは。

ホウレン草は秋冬ものが旨いですね。
私も子供の頃は、苦味を感じて嫌いでした。
でもいつの間にか好物に変わっています。
おかかをたっぷりかけたホウレン草のおひたしは大好物です。
おひたしと白菜の漬物があれば、他に何もいらない口です。

No Subject * by fukuchan
高崎に住んでいるのですか。高崎も広いでしょうね。東京で仕事をしていた時、高崎出身の仲良しがいましたよ。私もほうれん草をたくさん作っています。虫に食べられないでよいです。おひたしにして酢醤油とおかかをかけて食べるのが好物です。

Re: No Subject * by 形名
fukuchan さん、こんばんは。

fukuchan さんは九州大分県でしょうか。
私も現役サラリーマン時代は九州北部に頻繁に出張してました。
良いところにお住まいですね。

野菜栽培は始めて日が浅い初心者です。自宅に畑がないので実家の
畑でやってます。ほうれん草は最近栽培を始めたのですが、美味しいですね。
私もおかかたっぷりのおひたしが大好きです。

No Subject * by fukuchan

出身は東京の多摩です。田舎です。博多へ転勤して、北九州市で定年を迎えました。大分の別府の温泉は大好きです。
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Re: No Subject * by 形名
fukuchan さん

出身は東京なんですね。では関東の地理感もあるわけだ。
大分は温泉地で有名ですね。そういう点は群馬とも共通点があります。
私は主に博多と佐賀市で勤務しましたが、北九州は海もあって魅力的な場所です。
冬は意外と寒いですが、群馬生まれの私も住んでみたいと思う地域ですね。

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