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東国の古代史

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2019-10-15 (Tue)

古墳石室の構造変化(3/5) - 石室の構造と挙動解析 -

古墳石室の構造変化(3/5) - 石室の構造と挙動解析 -

前稿からの続きです。本稿では、関西大学工学部土木工学科教授である西形達明、西田一彦両氏が行った古墳石室の挙動解析の結果を紹介しながら、石室構造がその強度にどのような影響を及ぼすのかを見ていきます。両氏の実験には多くの観点を含んでいるが、ここに示すのは代表的なものだけを抽出しています。  (5)石室挙動解析結果①アーチ構造の必要性両氏は側壁形状が石室の安定性に及ぼす影響を確かめるために側壁部の石...

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前稿からの続きです。

本稿では、関西大学工学部土木工学科教授である西形達明西田一彦両氏が行った古墳石室の挙動解析の結果を紹介しながら、石室構造がその強度にどのような影響を及ぼすのかを見ていきます。両氏の実験には多くの観点を含んでいるが、ここに示すのは代表的なものだけを抽出しています。
  
(5)石室挙動解析結果

①アーチ構造の必要性
両氏は側壁形状が石室の安定性に及ぼす影響を確かめるために側壁部の石をアーチ状に積んだ場合と垂直に積んだ場合を比較しています。モデル1がアーチ状に積んだ場合の解析結果です。
 
 
古墳石室の構造変化7
モデル1
 

石室内部の埋め戻し土の除去を起点にして、石積みは石室内部に向かって僅かに圧縮変形し、容積が小さくなっているのが分かると思います(a→b→c)。しかし、その変化は大きいものではなく、安定した状態を維持しています。モデル図の中にStepという単位がありますが、個別要素法では各要素の運動方程式を時間経過で積分して挙動を計算しますが、その時間変数です。前稿で記載したように差分法により各構成粒子を動作させますが、粒子の移動~接触~作用力計算のループを15万回繰り返しているという意味です。
Stepについては以降のモデルも同様。

【補足】 
「差分法で粒子を動かす」という表現は理解しにくいと思いますので補足します。具体的に云うと、各構成粒子に発生しうる加速度を予め定数値として与え、現在の速度+加速度分の速度をステップ毎に計算しながら、粒子の新しい位置を計算し直す事を意味しています。例えば墳丘を覆う粒子は全て重力加速度を持つし、側壁横の粒子は石室に向いた水平方向の加速度を持ちます。各粒子は自由に運動できる仮想体とするのが前提なので、実体の挙動を数学的に疑似動作させることが出来ます。数式で表すほうが分かりやすいのですが、説明が必要で記事が長くなるので割愛します。
古墳石室の構造変化25


 
古墳石室の構造変化8
モデル2
 

 モデル2は石室側壁材を垂直に積んだ場合の解析結果です。この解析では側壁部の石積みが直線状になっているため、石室高さの中央部から下半分にかけて水平変異が大きくなっている。盛土の土圧を受けて石室内部に向けて座屈が起きています。座屈とは構造物に加わる荷重がある限界を超えた時に、急に変形を起こしてたわみを生ずる事を指します。つまり側壁は崩壊するということです。
 
以上の結果から石室内部側の壁面は曲線上のアーチ状にすることにより、古墳盛り土からの水平土圧を受け止める事が可能な事が分かります。僅かなアーチでも垂直の場合とは全く異なる結果が得られました。構造力学的に言えば、形状をアーチ状にする事で作用する土圧は壁面石積み間の垂直圧縮力に変換されます。言い換えると、石積み間のせん断抵抗をより大きくする事が可能になっている。せん断とは材料が土圧応力によって引き裂かれる事を言います。従って、せん断抵抗とは引き裂きに対する抗力、言い換えると石材と石材の間の摩擦力を指します。圧力によって石材間の摩擦抵抗が大きくなっているので、周囲の土圧に対する抵抗力があると理解すればよいでしょう。
 
 
②天井石に求められる重量
次は天井石の重量の影響を調べるために、天井石の大きさをモデル1の半分にした解析モデル3です。
 
 
古墳石室の構造変化9
モデル3
 

この解析ではモデル1の天井石の大きさを半分にしている点を除けばモデル1と同様条件となっている。にもかかわらず、石室壁部の石積みは大きく内側に押し出され、明らかに石室は崩壊状態に至る。これは天井石が石室の安定性に及ぼす影響が非常に大きい事を示している。墳丘の土砂よりも天井石の比重は大きいので、垂直方向の圧力が低下した結果だと推定できます。
古墳の場合はエスキモーの氷雪ブロックの家のように天井まで側壁と同じ構造材料では持ち堪えられない。大きな違いは側壁・天井外側からの土圧の有無です。実験者は重量の大きい天井石が石室上部に設置される事で上部盛土の荷重を受け持っている。さらに、側壁のせん断抵抗を増加させて石積みの安定性を向上させていると述べています。これは、側壁のアーチ形態の効果と同じく、天井石が側壁石材間の摩擦力を高める効果を持つ事を示している。

私の個人的なアイデアですが、天井石の重量低下分を墳丘の土砂量を増やして解決する方法もあると考えました。大型の天井石は運搬負担が大きいので築造工数に大きく影響します。しかし、よく考えると、天井石の面積を変えずに軽量化することは、墳丘の垂直土圧で折れやすくなる事が想定されます。天井石の折損強度と重量効果を考えれば、大型の天井石はやはり外せない要素かも知れません。今まで古墳石室の天井石の大きさは埋葬者の権威の象徴というイメージを持っていましたが、力学的にも意味を持っていたという事です。
  

③石室埋め戻しの必要性
モデル4の解析は古墳の施工手順を検討するために石室内の埋め戻しは行うが古墳の盛土を積み上げるまえに石室に充填した土を除去したと仮定した時の解析モデルです。
 
 
古墳石室の構造変化10
モデル4
 
 
石室内に土がない状態で盛土が石室の高さまで施工されると、容易に石室が不安定な状態に至ることを示している。つまり、墳丘盛土の積み上げ時は石室に大きな土圧が掛り、石室内側から支えて置かないと崩壊してしまうという事です。これはモデル3の場合と似ていますが、盛り土のない状況では天井石があっても石積みに掛る垂直荷重が不足している事を示していると思います。この不安定な状況を回避するためには、石室内に古墳盛土の積み上げが終わるまで、土砂を充填しておく必要があります。
高橋逸夫氏は1937年の論文で、古墳築造過程では、石室積み上げ~墳丘の盛上げと並行して、石室は土砂で充填していく必要があると論述しています。この主張は、この机上実験によっても実証されたと云えるでしょう。

以上の実験は、解析モデルなので天井石の移動過程における石室への偏った荷重変化などは考慮されていません。個別要素法は特定の条件のもと、静的な状態からの挙動解析を行います。従って天井石を乗せるという人為的な条件変化をシミュレーションする事はできません。つまり、天井石などは人力で引っ張るわけですから、石室に均等に荷重が掛かるのは真上にセットされたタイミング以降です。石を移動している最中は端から徐々に荷重がかかっていき、荷重バランスが崩れた過程を経ます。強力な石室内側からの支えがないと天井石の移動過程で石室は確実に崩壊するでしょう。当時はクレーンなどの重機は無いですから持ち上げたまま、静かに最終位置にセットすることは不可能だったと思います。最後は私見による推定が入りましたが、盛り土を積み上げる以前の段階でも、巨大な天井石移動に伴う荷重不均衡状態を支えるためには、埋め戻しの対応は必須となると判断します。
  
 
 
次回に続く
 
参考・引用資料
■土木史研究 第22号
 「古墳石室構造の歴史的変遷についての技術的考察」 西形達明、西田一彦
■石舞台古墳の巨石運搬ならびに其の築造法            高橋逸夫
■テキスト資材「個別要素法の基礎 -Distinct Element Method- 」



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訃報 * by 上州の人
今回の台風19号により、藤岡市の国史跡、「十二天塚北古墳」の墳丘の一部が崩落したとのことです。

Re: 訃報 * by 形名
上州の人さん、こんにちは。情報ありがとうございます。

> 今回の台風19号により、藤岡市の国史跡、「十二天塚北古墳」の墳丘の一部が崩落したとのことです。

十二天塚は猿田川河岸段丘の縁にありますから、地盤が弱いのかも知れないですね。
最近は樹木もみな伐採して裸状態ですからね。

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2019-10-12 (Sat)

古墳石室の構造変化(2/5) - 石室変化の要因と力学解析 -

古墳石室の構造変化(2/5) - 石室変化の要因と力学解析 -

前稿からの続きです。(3)石室変化の環境要因胴張型石室が特定の渡来系氏族と無関係に発展し、導入されていったとすれば、その契機・要因とは何なのか、推定を交えて考えてみます。先ずは私の考える環境要因です。①古墳の小型化近畿圏では6世紀後半から薄葬の流れが始まり、7世紀中期には朝廷から薄葬令が発布されて大型古墳は規制されていきます。薄葬令がどのように地方まで浸透したかは定かではないが、上毛野地方では、畿内で...

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前稿からの続きです。

(3)石室変化の環境要因
胴張型石室が特定の渡来系氏族と無関係に発展し、導入されていったとすれば、その契機・要因とは何なのか、推定を交えて考えてみます。先ずは私の考える環境要因です。

①古墳の小型化
近畿圏では6世紀後半から薄葬の流れが始まり、7世紀中期には朝廷から薄葬令が発布されて大型古墳は規制されていきます。薄葬令がどのように地方まで浸透したかは定かではないが、上毛野地方では、畿内で大型古墳が造られなくなってからも暫くの間は大型古墳が造られました。しかし、地方でもやがて古墳は急速に小型化していきます。きっかけは限られた地域に大型古墳を造り続ければ、やがて土地はなくなり、耕作地の確保にも支障が出てきます。その結果、合理的に考え、古墳を小型化したり、耕作地から離れた丘陵地などに移していくようになったと考えます。藤原京平城京もその都市構築において古墳をいくつも壊したり移築したりして土地を確保したことが分かっています。既に過密になりすぎていたのでしょう。しかし、墳墓が権威の象徴という文化はしばらくは続いたと思います。古墳は小型化しても石室自体が比例して小さくなる訳ではない。むしろコンパクトな墳丘に対して石室は相対的に大きなものとなっていきます。権力のある者は小型化の分、石室構造面から質の向上を図っていったと考えます。緻密な積石、精緻な切石の採用、装飾等です。奈良県明日香村にある古墳時代後期の石舞台古墳などは巨石に目が奪われがちです。多大な工数が掛かっているのは伝わってきますが、造形の質として見た場合には大雑把な造りと言う見方も出来ます。

 
古墳石室の構造変化22
 石舞台古墳の玄室


②石室材料の変化
石室を古墳時代中期のように巨大な石だけで造っていけば、その構築のための労力や期間は非常に大きくなります。薄葬令の主旨は土地の無駄使いだけではなく、労働力の徴収という民衆に負担のかかる習慣の改革であったと考えます。民衆に過剰な負担を強いれば、税収対象である民衆の生産力に影響が出るからです。そこで、石室の材料は身近で確保できる石材に変化していったでしょう。例えば、河原の石であったり、火山の噴火で出来た石を加工して積み上げる文化です。該当地方の環境条件に合った独特の構築技術が生まれていったと考えます。古墳築造労力の縮小・適正化という考えが、律令制度の構想の中で現れて制度化していったと思われます


③追葬墓の普及による石室の大容量化
古墳の埋葬主体部は、古墳時代前期~中期では竪穴式でした。同一古墳に追葬する場合は、墳丘の別な場所に埋葬部を造ることになります。これは墳丘が大きければこそ可能であった対応方法です。中後期に入って横穴式が出現すると同じ石室内に埋葬することが可能になります。しかし、追葬にはある程度の石室容量が必要です。古墳の全体の小型化の推移に反して石室は大きさが求められたということです。空間が大きくなれば、単純に考えても構造的に弱くなりやすい事は想像できます。小さな材料で、強度のある大きな空間を作るという新たな課題が胴張型石室に向かわせた可能性があります。


④古墳築造職人の専任化による技術集積・向上
以上3点とは観点が異なるが、古墳時代も後期になると、墳丘規模は小さくなっても技術的には高度化していきます。造墓に関わる人達も初期においては、地域住民の労力提供と古老の知識で対応してきたと考えますが、その技術が高度化してくると難しくなってきたと思います。また、一般の農民が造墓に関われるのは農閑期にしか対応出来なかったと思う。でも、専任化すれば時期的な制約からも開放されます。そこで、造墓を職掌とする専門技術集団が現れてきたのではないかと考えています。墳墓の築造に関わる職人が専任化すれば、技術が継承されるだけでなく、経験の積み重ねで技術の改革、進歩が期待できます。



(4)石室の構造力学解析法
さて前述したような環境要因から胴張型石室はどのように進化したのか、具体的な根拠を上げながら述べていきたい。しかし、単に言葉による推測説明だけでは説得力がありません。そこで、古墳築造を構造力学面から研究している研究者の実験結果を交えて見ていきたいと思います。関西大学工学部土木工学科では、過去に古墳石室の構造形式と築造手法をモデル化し、個別要素法という手法でシミュレーションして古墳築造方式の構造力学的な解析を行っている。下の図が解析モデルの一例です。 
古墳石室の構造変化6
解析モデル模式図


古墳石室の構造変化24
モデルとなった岩谷古墳の外観と断面構造


このモデルは山口県下関市にある岩谷古墳の構造をモデルに採用しているという。横穴式石室を持つ小さな古墳らしいが、壁材の積み上げ時に持ち送りという技法が使われている。石室材は面を平らにした石を積み上げた構造で、積む時に石を内部側にずらす事によりアーチ状に積み上げていく。断面図だけでは分かりづらいと思うが、胴張型の石室に近いモデルともいえる天井には大型の天井石が乗っています。その他、積み上げた石材間の摩擦係数と盛り土を構成する粒子間の摩擦係数等をモデル値として定数化しています。

個別要素法とは土木工学分野などで応用されている構造物の力学的な挙動を数学的に実験する手法です。私もシミュレーション手順をプログラミングレベルで理解できていないので、詳しい説明はできませんが、概要だけ記載しておきます。
構造物の挙動を机上実験するには、解析対象モデルを構成する要素、例えば古墳であれば、盛り土の粒や石室材の石などが自由に運動できる仮想的な、円形・球体・多角形の集合体として考えます。それらの各要素(砂粒や石片)を運動方程式で表せば、方程式を時間経過で積分計算して動き方を机上で実験することができます。具体的には以下の手順をプログラミングして実行します。②~④の間をループさせて時系列の逐次挙動を追跡しています。

古墳石室の構造変化23

本稿で紹介してるモデルは2次元個別要素法という最も単純なものです。補足しますが、この解析では、石室の構築手順も解析要素として推定し、前提としています。具体的にいうと、石室には壁石の積み上げと同時に石室内に土砂を充填していき、壁石の安定を保った状態で天井石を乗せ、後で土砂を取り除くという方式です。この手順を踏まないと、天井石移動中の荷重は不均衡に石室壁面に掛かり、最終位置に来る前に壁面は崩壊してしまいます。この工程を経た上で、内部の土砂を除去した瞬間を起点として、墳丘の土圧と天井石が及ぼす応力によって地下空間となった石室がどんな変化を起こすかをシミュレーションしている訳です。
 
 

次回に続く



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No Subject * by ViVid Mr.K
こんにちは。。。
古墳はいつも何かのついでや、神社の敷地にあったりしますと見ることはあるのですが、石室にも色々な造り方があるのですね・・・
勉強になります。。。
お邪魔いたしました。。。

Re: No Subject * by 形名
ViVid Mr.K さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

私も古墳めぐりの経験は少ないのですが、北関東だけ見ても石室のバリエーションは多いですね。
特に古墳時代後期と呼ばれる6世紀以降になると、地域に特化した材質や構築方法が採用されているようです。
古墳めぐりを趣味としている人もいますが、そんなところが面白いのかも知れませんね。

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2019-10-09 (Wed)

古墳石室の構造変化(1/5) - 胴張型石室は渡来系か? -

古墳石室の構造変化(1/5) - 胴張型石室は渡来系か? -

本稿シリーズは2014年に執筆した記事をベースに全面的に加筆・書き直したものです。(1)胴張型石室の形態胴張型石室とは、専門用語で横穴式石室の床面や壁面が曲面で構成された石室を指します。曲面といっても球形とまではいかず、多くは三味線の胴のような形が多いので、三味線型と呼ばれることもあります。この形の石室は埼玉県の旧比企郡地域(埼玉県の中央部)を中心に非常に多く見られます。群馬県にも南部の藤岡市にあります...

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本稿シリーズは2014年に執筆した記事をベースに全面的に加筆・書き直したものです。

(1)胴張型石室の形態
胴張型石室とは、専門用語で横穴式石室の床面や壁面が曲面で構成された石室を指します。曲面といっても球形とまではいかず、多くは三味線の胴のような形が多いので、三味線型と呼ばれることもあります。この形の石室は埼玉県の旧比企郡地域(埼玉県の中央部)を中心に非常に多く見られます。群馬県にも南部の藤岡市にありますが絶対数は少ない。おそらく埼玉県の葬送文化の影響を受けているものと思います。

      
古墳石室の構造変化2
群馬県藤岡市にある伊勢塚古墳石室(藤岡市hpより) 


古墳石室の構造変化3
模様積みの石室壁面(日本の遺跡17群馬県西部版より) 


伊勢塚古墳は、古墳のデパート、群馬にあっても特異な古墳です。墳丘が不正八角形であることも特徴とされるが、目立つのは、石室壁面が大小の河原石を組み合わせた模様積みであることです。そのため見逃しやすいが、写真でも分かるように明らかに胴張型石室です。石室内部に鋭角的な箇所はなく、奥壁を除いて床面も壁面も緩いカーブを描いているのが特徴です。古墳の外見的なサイズに比べて石室は非常に広く、かつ、天井が高い。力学的にも高度な技術が使われているのは素人にも分かります。このような石室は今まで見たことがありません。大型の石室材は天井石のみで、他には小さな自然石が多いせいか、中に入ると崩れないか不安に感じます。しかし、築造から1500年の間には大きな地震もあったと思います。それに耐えたということは安定した構造であることを証明していると言えるでしょう。
 

古墳石室の構造変化1
伊勢塚古墳は不正八角形墳とされているが外見は円墳に見える(藤岡市hpより)


古墳石室の構造変化4
胴張型の床面と壁面
 

古墳石室の構造変化5
粘土基盤層に細長い石を叩き込んだ裏込め手法による模様積み壁面


埼玉県秩父郡皆野町金崎に所在する大堺2号墳は典型的な埼玉型の胴張型石室をもつ。伊勢塚古墳は大量の粘土を基層にして自然石を挿して曲面を作っているが、こちらは埼玉県西北部にある緑泥片岩の板石を持ち送りの技法で曲面に積み上げている。画像でも分かるが小さな墳丘に対して大きな石室を実現しており、構造的にも安定しているように見える。
 

古墳石室の構造変化19
金崎古墳群に残存する4基の中の大堺2号墳


古墳石室の構造変化20
大堺2号墳の石室(板石の持ち送り積みによる胴張型石室)


群馬の伊勢塚古墳と埼玉の大堺2号墳の石室は形状的によく似ているが、築造方法には大きな違いがある。形態的な影響は受けていても、各々の環境条件に合った独自の方式を編み出している点に注目する必要があるでしょう。伊勢塚古墳は付近の鏑川の河床から自然石が入手でき、埴輪窯が多い土地柄ですから粘土が容易に手に入る。一方、金崎古墳群の近所では石室材料の緑泥片岩(武蔵青鉄平石)の露頭があちこちにあります。この石は片理と呼ばれる板状に割れやすい性質があり、加工運搬が容易です。両者とも無理をせず、立地環境に合った築造方法を工夫しています



(2)胴張型石室と築造氏族の関係
埼玉県立さきたま史跡博物館や埼玉県立博物館の館長を務めた金井塚良一氏は数年前に亡くなられた。同氏は、1980年代から一貫して以下のような説を述べています。

胴張型石室は7世紀の初頭に埼玉県比企地方で出現し、以後、急激な展開を示している。墓制を持ち込んだのは壬生吉志などを代表とする渡来系氏族であると推定できる。根拠は入植の時代や地域と展開の仕方が一致するためである。この墓制は吉見丘陵東松山台地に始まり、西に向かって荒川中流右岸に至り、嵐山方面にも広がっている。
 
古墳石室の構造変化21
金井塚良一氏

金井塚氏のこの説は有名なものですが、現在では他の研究者から否定的な評価を受けています。この説が提唱された時代は埼玉の考古調査も十分ではなく、やむを得ない部分があると思います。否定されている根拠を以下に示します。
 
①埼玉県でのその後の調査成果
埼玉の古墳調査や研究が進むにつれて、胴張型石室壬生吉志の展開地域とは別な場所にいくつも発見されている。また、胴張型石室を持つ古墳は7世紀初頭だけではなく、6世紀後半のものも見つかっており、壬生吉志氏族が入植した時期よりも前に出現している。
 
②群馬県の渡来氏族の墓制
上毛野国と武蔵国は文化的にも共有範囲と見ることが可能である。また、群馬県にも渡来系氏族(吉志集団)の入植があったことは文献史研究などから確実視されている。しかし、入植した地域と胴張型石室という墓制分布が必ずしも一致しない。さらに、前述したように非常に数が少なく、渡来系氏族がその他の形態の墓制も取り入れていたと考えないと無理がある。
  
③胴張型石室の分布状況
最近は全国的な規模での調査が行われており、分布範囲が明確になってきている。その結果、埼玉県の特定地域に限定しているわけでなく、東北南部関東北部信濃相模駿河三河尾張美濃と東日本全域にあるといってもよい。九州をはじめ西日本にも分布している。これらの地域にも渡来系の氏族は入植していないとは言えないが、吉志集団という特定の渡来系氏族の居住地とは言い難い。同一氏族依存の墓制となると広すぎて説明できない。
 

したがって、吉志集団と胴張型石室という墓制とは直接関係しないという事は、状況証拠として明確に言えると思います。ただ、吉志集団は胴張型石室を採用しなかったと言っている訳ではありません。渡来系氏族が独自の墓制を持っていたことは十分考えられるが、移住先の地方には地方独自の墓制習慣があったはずです。新たに入植してきた氏族が氏族墓制を守り通す場合もありうるが、地方の文化を受け入れて融合していく場合も多いと思います。氏族と墓制を連結することは重要なヒントであるが、頑なに連結して固定化してしまうのは柔軟な考え方とは言えないと思います。

もし、胴張型石室が特定氏族独自の文化ではないとしたら、何故、生まれてきたのか? 次稿からは其の点を検討したいと思います。
 


次稿に続く
 
参考・引用資料
■『古代東国史の研究』  金井塚良一 著
古代東国の原像   金井塚良一他 著
古代東国と大和政権 森田悌 著
古代の群馬埼玉   松島栄治他 著




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No title * by 形名
こんばんは。tat**465さん。

鍵はいりませんよ!
いつでも、どんな内容でもけっこう。

これが私の趣味No1です。
にゃんことメダカは残念ながら出てこないのです。^^ゞ

No title * by tat**465
お気遣いありがとう!

堂々たるレスで来たわ♪


このテの事は興味持つとハマリそうね~


深く飽きる事ない趣味だと思うわ~(^^)v

No title * by 形名
tat**465さん。
興味はあっても中々記事を書くのは大変ですね。
歳のせいか素早く書けなくなってます。
読書量が落ちているのも原因かな。
本当はもっと重いテーマで書きたいんですけど。
いずれね。おやすみ。

No title * by sagami_wan
おはようございます。初めて知る新しい事実です。少し難しい記事内容のため、消化が進みません。少しづつ咀嚼します。(笑)

進化した技術集団の築いた横穴墓と見るべきでしょうか。ここでも尾張は不気味な存在感を見せていますね。

No title * by 形名
sagamiwanさん、こんにちは。
古墳石室の変遷にも触れず、いきなり本題に導入したので分かりにくいかも知れませんね。それに文章がヘタなので…

私は、古墳時代の前期においては各氏族の葬送文化が自由に現れていたと思うのですが、7世紀初頭からは律令の前段階に相当するような規制の枠が徐々に進行した時代と考えています。まだ不文律だったと思いますが。此処に上げた石室築造形式という一例も氏族に特化したものではなく、環境要因で必然的に発生した技術だと思っています。記事中に記載してませんが、実は九州にも胴張型の石室は多いようです。列島各地への広範囲な展開を見ると氏族限定文化とみるのは無理があるように思います。

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2019-10-07 (Mon)

木漏れ日の曼珠沙華

木漏れ日の曼珠沙華

群馬県伊勢崎市早川淵...

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s-DSC_0143.jpg
群馬県伊勢崎市早川淵


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2019-10-04 (Fri)

FC2ブログに移行して半年経ちました《感想》

FC2ブログに移行して半年経ちました《感想》

Yahooブログから移行して半年が過ぎました。ブログを運営してる会社は幾つもあるが、ブログ機能には各社の特色があります。また、そこで運用してるブロガーにも違いがあるように思います。①勘違いブロガーがいない!?Yahooブログにはファン登録機能(読者登録ブックマーク)があって、登録にはブログ管理者の承認は必要ありませんでした。ファン登録すると、全ての登録者の新規記事が一括で通知されるので便利でした。管理者のフ...

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Yahooブログから移行して半年が過ぎました。ブログを運営してる会社は幾つもあるが、ブログ機能には各社の特色があります。また、そこで運用してるブロガーにも違いがあるように思います。

①勘違いブロガーがいない!?
Yahooブログにはファン登録機能(読者登録ブックマーク)があって、登録にはブログ管理者の承認は必要ありませんでした。ファン登録すると、全ての登録者の新規記事が一括で通知されるので便利でした。管理者のファン向け公開記事も見えるようになります。この仕様が影響していると思いますが、勝手にファン登録することに対して極度に神経質な人が多かった。中には「了承なくファン登録したら削除します」とか「記事に無関係なコメントは削除します」と警告する人もいました。確かに気持ちは理解できますが、ブログとは不特定多数の読者に対して自分の記事を読んでもらうのが、先ずは基本だと思います。「貴方に読ませてあげるんだ」「読みたい人はそこに並びなさい」という意識には勘違いが多分にあるのではないかと感じます。この現象は、Yahooブロガ―の多くが他のブログを知らず、ブログ理解の浅い初心者集団であることも影響していると思います。その点、FC2では、そんな意識を前面に出す人を見かけたことがない。これは少し驚きでした。良い意味でも悪い意味でも、FC2ブログはマニアックな仕様で、ブロガー間の距離も相対的に離れている特性かも知れません。

②ブログカテゴリに合わないテンプレート
日記系ブログと、歴史系・自然科学系・ノウハウ集等のデータベース的なブログでは、読者の記事の参照の仕方はかなり異なると思います。純粋な日記系だと、あまり過去記事を参照することは少ないのではないか。しかし、後者の場合は最新記事だけででなく、過去記事にも目を通す事が多いでしょう。非常に興味深い記事を書いてる方がいても、記事カテゴリ分類も殆ど無く、記事本体でしか参照できないテンプレートで公開してる人が時たまいらっしゃいます。各カテゴリ毎に数十個程度なら問題ないが、数百もあったら古い記事には実質到達できません。とても残念に思うことがあります。Yahooブログでは、テンプレートという考え方はなく、システム標準機能で表題一覧モードと記事本体表示モードが逐次選択できたので問題なかった。しかしFC2ではテンプレート機能に全て依存しています。マッチングしていないテンプレートだと読みたい記事が即座に参照できないという問題があります。

③効率の悪いFC2ブログ全体の記事検索機能
これはFC2ブログのシステム仕様の問題です。一般的にFC2ブログ全体の記事を検索する機能を利用してる人は殆どいないのではないかと思います。私の場合は多用するのですが、この検索機能は投稿日時でのソート機能がないので効率がすこぶる悪い。検索結果の表示順序が何に準拠してるのかさっぱりわかりません。ブロガ―の中には開設しても、バックアップ保管してるだけの人、ある時点まで運用したが辞めてしまった人が殆どです。Yahooブログでは単純に新しい投稿日時順でした。降順で並んでいれば、放置ブロガ―の記事は確率的にも順位が下がるので排除できます。従って、見たい記事を投稿していて、かつ、活動的な人が優先的に見つかるというメリットがありました。FC2で最優先に改善されないかと思う点です。参考にURLを記載しておきます(最上段が検索フィールド)。


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No Subject * by kanna
自分の記事の検索は大事ですし時々使用します。

私の場合山の紅葉はいつ頃だかとか、あそこでワラビをとったのは栗を拾ったのはとかですけどね...。

Re: No Subject * by 形名
kannaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私は、マイブログ検索もfc2内検索もよく使います。記事が増えてくると、どこかの記事で書いたんだけど、思い出せないなんてことはよくありますね。栗拾いはkannaさんの定番でした。
そう云えば、yahooブログでは、マイブログ内検索のプラグインを表示してる人は非常に少なかった。fc2では表示してる人は結構いるような気がします。これを出してくれると、読者側としても目的のキーワードがある場合はとても効率的です。

FC2ブログのシステム仕様の問題 * by レインボー
>これはFC2ブログのシステム仕様の問題です。一般的にシステム検索を利用してる人は殆どいないのではないかと思います。

〇この問題指摘は当たっています。
 しかし、小生の場合、過去記事は、検索欄に言葉を入れ、過去記事を確認うるようになり、問題は感じなくなりました。
 草々

Re: FC2ブログのシステム仕様の問題 * by 形名
レインボーさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

はい。私も個人ブログの中の検索用プラグインは活用しています。目的の記事キーワードがはっきりしてる場合はとても便利ですね。訪問者のためにも、自身のためにも此のプラグインを表示するのは良い事だと思いますね。問題は、以下URLのFC2ブログ全体の検索機能なんです。私はこの機能を常用してるのですが、記事にも記載してるように投稿日でソートされません。検索キーワードの類似文言拡張機能もあるらしく、無関係な記事も多量に引っかかってきます。レインボーさんは使われていませんか?検索仕様のカスタマイズができないのか調べたのですが、どうやら固定仕様のようです。
https://blog.fc2.com/

※上記URLの最上段にある検索フィールドです。

FC2ブログ全体の検索機能(追伸) * by レインボー
追伸します。

FC2ブログ全体の検索機能がしっかりしていると便利というのは、その通りだと思います。

記事検索ですが、小生の方は、Yahooなどインターネット検索で対応しています。

自分の記事が、その検索で出てくると喜んだりしています(笑)。
草々

Re: FC2ブログ全体の検索機能(追伸) * by 形名
レインボーさん、こんにちは。追伸ありがとうございます。

一つのブログで長く運用してる人は、既に固定客がついていますから、それ程には感じないかも知れませんが、開設したばかりだと訪問者が少なくて寂しいもんですね。必然、同じような記事を書いてる人を探すことになります(笑)。
私もyahooやgoogle検索を使ってますが、ブログ記事のヒットもかなり多いですね。汎用検索エンジンだと、他ブログもヒットしますから広く探れます。でも検索企業のキャッシュサーバの更新は非常に遅いので、私の記事なんて、未だにyahooで投稿した記事がヒットします。yahoo側の記事はとっくに削除してるので、アクセスしてもエラーになるだけなんですけどね。yahooでの訪問者の半分はgoogle経由だったので残念です。

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2019-09-24 (Tue)

神話の形成と目的(3/5) - 神武東征の意味「相戦う天孫族」 -

神話の形成と目的(3/5) - 神武東征の意味「相戦う天孫族」 -

前稿からの続きです。神武天皇の本名カムヤマトイワレヒコノミコトは、彼がヤマトに入ってからの名前です。九州時代はヒコホホデミですが、あまりポピュラーではない。本稿では古事記での名称を省略形でイワレヒコと呼びます。ついでに云うと、ヒコホホデミという名前は、日本書紀では彼の祖父=山幸彦と同じ名前です。山幸彦とイワレヒコは本来は同一人物であり、系譜はもっとシンプルであった可能性がある。日向三代が長い歳月で...

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前稿からの続きです。

神武天皇の本名カムヤマトイワレヒコノミコトは、彼がヤマトに入ってからの名前です。九州時代はヒコホホデミですが、あまりポピュラーではない。本稿では古事記での名称を省略形でイワレヒコと呼びます。


神話の形成と目的6


ついでに云うと、ヒコホホデミという名前は、日本書紀では彼の祖父=山幸彦と同じ名前です。山幸彦とイワレヒコは本来は同一人物であり、系譜はもっとシンプルであった可能性がある。日向三代が長い歳月であることを強調するために系譜が引き伸ばされたか、または、海幸・山幸の神話を最終段階で挿入するために系譜が伸ばされた可能性もあるでしょう。

■海幸彦(大隅隼人の始祖)      ホデリ(古事記)   ホスセリ(日本書紀) 
■山幸彦阿多隼人の始祖)    ホオリ(古事記)   ヒコホホデミ(日本書紀)
■神武天皇                イワレヒコ(古事記) ヒコホホデミ(日本書紀)

イワレヒコの父ウガヤフキアエズなどは存在感が余りありません。欠史八代と似ています。日本書紀では、ニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメを娶り、ブス?のイワナガヒメを実家へ返してしまった結果、彼女に呪われて永遠の命を失います。一方で日向三代は180万年も統治した事になっています。いったい、呪いで寿命がどう縮んだのか突っ込みたくなるようなホラ話です。古事記では、山幸彦は580歳まで生きたと記載されている。


さて本題の、イワレヒコが突然、日向を離れ東に向かう理由について考えたいと思います。ニニギノミコトは高天原の天神一同の総意によって九州に降臨しました。それは、日向の地を天孫が治めるという使命を帯びていたに違いない。なのに、ニニギノミコトの曾孫世代のイワレヒコは何故ヤマトを目指すのでしょうか? 説得力のある理由があるとすれば何なのか考えてみたが思いつかない。やはり、7世紀末の朝廷の立場になって考えるしかないと思います。
前稿で述べたように九州の敵対氏族を統治する正当性を示すために九州降臨を果たしたと考えています。海幸彦山幸彦が、各々吾田隼人大隅隼人の始祖になっているのを見れば一目瞭然です。それだけ隼人が強敵であったという事です。それは、思想統制に失敗して反乱がおき、鎮圧にかかった期間を見ても分かります。おそらく東北蝦夷の比ではなかったのでしょう。隼人の大規模反乱は720年2月。日本書紀が完成する僅か3ヶ月前の事です。天孫降臨から日向三代の神話が世に出るのがもう半世紀早ければ、状況は変わっていたかも知れません。書紀の編纂は遅すぎたが、隼人の同族化構想を盛り込むという意味では目的を達成したわけです。

では次にイワレヒコが日向を離れ、東征を決める協議のシーンを見てみましょう。原文は省略して訳文だけにします。

①『古事記 神代編 其の七』
兄イッセノミコトと弟イワレヒコは高千穂の宮で話し合い、弟は兄に次のように提案します。
いかなる地に住まいすれば、平らかに天の下の政(まつりごと)を治めることができましょうか。ここから出て東に行きませんか。
兄は同意したらしく、すぐに2人は出発する。東というだけで、目的地がヤマトの地とは言っていない。

②『日本書紀 巻三「カムヤマトイワレヒコノミコト」』
イワレヒコが兄弟や子供たちを前にして云う。
高皇産霊尊と天照大神が、豊葦原瑞穂国をニニギにミコトに授けられた。代々父祖は善政を敷き、恩沢が行き渡った。そして、ニニギミコトが降臨してから179万2千4百70余年が経過したが、未だに遠い国には王の恵みが届かない。そして、村々は未だに互いにいがみ合い戦っている。
塩土翁の云うことには、「東の方に良い土地が有り、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗って飛び降って来た者がある」と。思うにその土地は大業をひろめ、天下を治めるに良いであろう。きっとこの国の中心地であろう。その飛び降ってきた者は、ニギハヤヒという者であろう。そこに行って都を作ってみようと思う。 
と話して出発の準備を始める。

古事記ではイワレヒコ兄弟で話し合うが、具体的な理由も明らかにせず、あっさりと東征を決めてしまう。書紀の方は、それでも国々の問題を理由に上げているが、ヤマトへ行くと何故問題が解決するのか、明確にはしてはいない。今更、国替えするなら、なぜ九州に降臨したんだろう?イワレヒコの言葉は明らかに、この地は地上を治めるのに相応しくないと言っている。また、日向国が日本の地理的中心でないことは降臨する時から暗黙の認識だったのではないか。
古事記も、日本書紀の設計者も、うまいアイデアは見つからなかったようです。両書とも、とってくっつけたようなストーリーと云えなくもない。ヤマトでなければ成し得ない切実な理由とは言い難く、本人も確信を持っていない描写です。天孫降臨を強引に九州に持ってきたが、今度はヤマトに帰る理由づくりに困ってしまったというところでしょう。それでも設計者としては、なんとか理由を付けて舞台をヤマトに移さないと、現実路線のヤマトでの皇統につながりません。

注目すべきは、天孫ニギハヤヒノミコトが既に降臨しており、国を作っている事を知っている事です。つまり、裏を読むと、イワレヒコがヤマトの地に向かうことは、ニギハヤヒに国譲りさせるか、武力で奪うかという覚悟を決めたことになる。此処で不審なのは、ニギハヤヒも天の磐船に乗って降臨した天孫であり、ニニギノミコトも天孫です。各々、異なる地に降臨して国を治めている。これは、天神(日本書紀の場合は高皇産霊尊)の意志でもあったはずです。ヤマトでの争乱の途中で互いに天孫である証拠品を見せあい確認している。しかし、記紀神話ではこの矛盾を説明しないばかりでなく、高皇産霊尊も天照大神も東征においてイワレヒコを支援しています。場当たり的な展開になっているのは、この神話が複数の個別神話を接着し、統合したことを思い起こさせます。明らかにニギハヤヒの神話とニニギノミコトの神話は全く別物です。接着による話の不整合を推敲しきれていない。これは本稿シリーズの第1稿「神話の形成と目的 - 天孫降臨の地 -でも記載しました。大王家と、物部氏大伴氏など王権中枢の伴造氏族が作成した神話をムスヒ神話といいます。「産(むす)」は生み出す、「霊(ひ)」は霊威の意です。本来の氏族固有神話の中の祖神を表しています。この段階では大王家祖神にアマテラスはまだ存在しない。

■大王家…タカミムスヒノミコト(高皇産霊尊
■物部氏…ニギハヤヒノミコト(饒速日命
■大伴氏…アメノホシヒノミコト(天忍日命


不自然なストーリーの発生過程の一端は、7世紀末の朝廷政策に現れています。朝廷は、690年代初頭に、各氏族から氏族の墓記先祖伝承記録)の提出を命令しています。記紀神話を統合制作するための準備段階に間違いありません。物部氏墓記は、現代では残存しないもっと古い時代の文献にあった可能性もあります。だが何れにしろ、物部氏が自身の始祖伝承としてニギハヤヒの降臨伝承を提出したのは間違いないと思います。物部氏は大氏族ですから、すでに此の伝承も既成事実化して伝聞されていたと思います。しかし、朝廷としては大王家の立場を正当化しなければならない。臣下豪族の伝承をそのまま受け入れることはできないのです。記紀神話の創作過程で、大王家と他氏族の墓記で決定的に対立的なのは物部氏(尾張氏含)以外にはなく、後者は大きく歪められたと言っても良いでしょう。これらの神話統合の主導者が誰なのか明確ではありません。執筆者は山田史御方である可能性は高いが、彼が設計構想まで一任されていたのか疑問もある。720年には書紀編纂の報奨として従五位上に昇進しているが、文学者的な存在であり、正史編纂政策をコントロールしていたとは思えない。後に国司職を得た時に、納税品の横領事件を起こしています。あまりに書紀編纂の貢献度が大きいため、不問に付されているが、大した人物とは思えません。

古事記においては強引であるが、ニギハヤヒはイワレヒコがアマテラスの子孫である事を知り、初めから服従の意思を持っていたことになっている。敵対してはいません。一方、日本書紀ではイワレヒコはニギハヤヒ勢力と戦っています。ニギハヤヒを武力で服従させ、先行降臨氏族を臣下とすることの正当性を図ったのです。やがてニギハヤヒは降伏し、土蜘蛛の首魁であるナガスネヒコは悪者に仕立てられ、ニギハヤヒ自身によって殺されます。土蜘蛛ですから討伐される運命にありますが、ニギハヤヒの罪を軽減させるためのスケープゴートとも云えるでしょう。これは、8世紀時点での物部氏への配慮かも知れません。但しイワレヒコはニギハヤヒと直接交戦していない。戦ったのは配下のナガスネヒコです。おそらく先行する降臨氏族であるニギハヤヒと直接戦うことは、天孫族どうしの争いを前面に出す事になり忌避したのでしょう。これは記紀以外の文献でも、うまく戦いを回避している点で共通しています。やはり、神話の統合に際して天孫どうしが戦うという問題意識は持っていたようです。

既に臣下となっている物部氏の祖神を神話で貶める必要はなかったと思うが、朝廷としてはやむを得なかったのでしょう。物部氏の祖神は天孫でありながら、新撰姓氏録でも皇別氏族には入らず、神別氏族ですから格下の臣下扱いです。カバネも多くは(むらじ)であり、後に一部が朝臣(あそみ)を賜るに留まる。宗家は6世紀末には大連として権勢を誇ったが、大王家にヒメを提供するような事はなく、物部氏にとっては屈辱的だったように思います。平安時代初頭になって、物部氏尾張氏の伝承を詳しく記載した先代旧事本記が作成されたのは、物部子孫の鬱憤晴らしのような気もします。この文献の序文は偽書でも、本編は暗に物部氏の復権を期待しているのは間違いない。文献批判は勿論必要ですが、記紀神話が成立する以前の氏族闘争を検討する材料になる事は確かです。



次稿に続く


【参考・引用】
■六国史 テキスト版
■日本書紀 全現代語訳(上下巻) 講談社学術文庫        宇治谷孟
■口語訳 古事記         文藝春秋             三浦祐之




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2019-09-23 (Mon)

ハブダイナモが買えない私のお勧め?

ハブダイナモが買えない私のお勧め?

今や、ママチャリでもライトはハブダイナモが主流です。しかし、スポーツ車のジャンルでは、標準装備でハブダイナモ装着車は皆無でしょう。最近のは性能向上が著しい。特にLEDライト専用なら、ライトONしても負荷増は気が付かないくらい小さい。実際にON-OFFせずに常時点灯のハブダイナモが2年ほど前から販売されている。しかし、問題は値段です。ママチャリ車用ハブダイナモなら完組リムでも非常に安いが、スポーツ車のリムではか...

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今や、ママチャリでもライトはハブダイナモが主流です。しかし、スポーツ車のジャンルでは、標準装備でハブダイナモ装着車は皆無でしょう。最近のは性能向上が著しい。特にLEDライト専用なら、ライトONしても負荷増は気が付かないくらい小さい。実際にON-OFFせずに常時点灯のハブダイナモが2年ほど前から販売されている。
しかし、問題は値段です。ママチャリ車用ハブダイナモなら完組リムでも非常に安いが、スポーツ車のリムではかなり出費になります。自転車ショップで自分のリムサイズに合わせて、ハブダイナモ、スポークを組付けるので、お金が掛かるのです。中には完組で販売してる店もありますが、細いタイヤ用のリム幅が狭い組み合わせが多くて使えない。


ハブダイナモ
ママチャリクラスのハブダイナモ(発電機)


私も今までは電池ライトをメインに使ってきたが、いつも電池の残量を気にしているので負担になってました。万が一、薄暗くなってきても、無理して漕ぎ倒して帰ってきた。
ところが最近は加齢で無理が効かない。前述したようにオーダーするハブダイナモは高価なので、ブロックダイナモを装着しました。メインのツーリング車ならハブダイナモ化を検討しますが、近所の普段乗りなら此れでもいいでしょう。


マグボーイ


私の自転車にはランプ用の台座がロウ付けされていないので、後付け台座を使いました。丈夫な台座だが重量もかさみます。見た目もよくないが、ダイナモ自体は使ってみると昔の製品とは随分違います。相変わらず、ブーンという共振音は出るが、負荷はあまりなく明るい。歩いて押しても十分な明るさです。因みに装着したのは、日本メーカーが中国工場で生産している製品です。非常に安い。ブロックダイナモの良いところは、使わない時の負荷抵抗はゼロなのと、軽量な点ですね。


おわり
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No title * by kanna24b
このブロックダイナモは、自転車売り場の部品コーナーで見た事がありますが、文面からするとダイナモ自体も従来の物より軽くて負荷が少ないようですね。

私が今メインで使用している自転車にはバッテリー式(電池式)のライトを取り付けていて替えの電池をバッグの中に入れて走っていますが、ランドナーには大昔のダイナモと電球式のランプが装着されていて、実際のナイトラン特に峠道の上りではホタルの明かり程度で別にバッテリーランプ(電池式)を装着しないと危なくて走れたものではありませんでした...。

若い頃ツーリングで予定がくるってしまい、雨の峠道や地道の峠道を真っ暗な中走ったり押したりしたのを思い出しますねぇ。

Re: No title * by 形名
kannaさん、おはようございます。

ブロックタイプは、昔からあるパナソニックブランド(サギサカ製)と私の付けた丸善製の実質2製品しかないですね。丸善マグボーイは負荷の軽さでは今一番のようです。
メインのツーリング車をハブダイナモ化しようとショップに行ったことがあるのですが、びっくり見積もりでした。自分で組めないこともないが、振れ取りなどの工具がないと無理なんですね。それにkannaさんが云うように登りでは暗いかも。また所詮、夜のパンク修理を考えたら電池ライトを予備に持たざるを得ないのですよね。それなら、全部電池でいいだろ云うことになる(笑)。最近は電池もUSB充電が多いようですね。明るいが、リチウムイオンなので充電300回くらいが限界のようです。私は、今、単2電池2個が入る旧式電球ランプの電球をLEDに替えて使ってます。使用時間に余裕があります。でも防水性がないのがネック。雨が降ったらビニル袋かぶせないと(笑)。

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2019-09-17 (Tue)

日向国風土記「天孫降臨」は改竄されたものか?

日向国風土記「天孫降臨」は改竄されたものか?

天孫降臨神話の記事を以前書いたことがありますが、その時、記紀と一緒に日向国風土記逸文にも目を通しました。過去記事の中では触れる余裕がなかったが、気になる点があります。(1)記載の類似性①日向国風土記逸文「知鋪郷」釈日本紀卷八(萬葉集註釈)の日向国風土記逸文には「知鋪郷(高千穂)」の名称由来の逸話がある。以下のように記されている。【原文】日向國風土記曰△臼杵郡内△知鋪郷△天津彦々火瓊々杵尊△離天磐座△排天八重...

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天孫降臨神話の記事を以前書いたことがありますが、その時、記紀と一緒に日向国風土記逸文にも目を通しました。過去記事の中では触れる余裕がなかったが、気になる点があります


(1)記載の類似性

①日向国風土記逸文知鋪郷
釈日本紀卷八(萬葉集註)の日向国風土記逸文には「知鋪郷(高千穂)」の名称由来の逸話がある。以下のように記されている。

【原文】
日向國風土記曰△臼杵郡内△知鋪郷△天津彦々火瓊々杵尊△離天磐座△排天八重雲△稜威之道々別々而△天降於日向之高千穗二上峯△時△天暗冥△晝夜不別△人物失道△物色難別△於兹△有土蜘蛛△名曰大鉗小鉗二人奏言△皇孫尊△以尊御手△拔稻千穗爲籾△投散四方△必得開晴△于時△如大鉗等所奏△搓千穗稻△爲籾投散△即天開晴△日月照光△因曰高千穗二上峯△後人改號知鋪

【訳文】
日向の国の風土記に曰はく、臼杵の郡の知鋪の郷(の話)。
天照大神の孫、瓊々杵尊(ニニギノミコト)が天の磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、勢いよく道を開いて進み、日向の高千穂の二上の峰にお降りになった。時に、空は暗くて昼夜の区別がなく、人であろうが何であろうが、道を失って物の区別がつかなかった。その時、大鉗(おおくわ)・小鉗(こくわ)という二人の土蜘蛛がいた。彼等が言うには「瓊々杵尊が、その尊い御手で稲の千穂を抜いて籾(もみ)とし、四方に投げ散らせば、きっと明るくなるでしょう」と。そこでその通りに多くの稲の穂を揉んで籾とし、投げ散らした。すると、空が晴れ、日も月も照り輝いた。だから高千穂の二上の峰という。後世の人が改めて智鋪と言うようになりました。


②日本書紀神代編下「天孫降臨」
以下は日本書紀神代編下の天孫降臨シーンからの抜粋記述です。
【原文】
高皇産霊尊△以眞床追衾△覆於皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊使降之△皇孫乃離天磐座△且排分天八重雲△稜威之道別道別而△天降於日向襲之高千穗峯矣

【訳文】
高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)は眞床追衾(マトコオウフスマ)に瓊々杵尊(ニニギノミコト)を包んで降ろされた。皇孫は天の磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、勢いよく道を開いて進み、日向の襲の高千穂の峰にお降りになった。


③古事記 上つ巻天降り
【原文】
故爾詔天津日子番能邇邇藝命而△離天之石位△押分天之八重多那此雲而△伊都能知和岐知和岐弖△於天浮橋△宇岐士摩理△蘇理多多斯弖△天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。

【訳文】
しかるがゆえに、邇邇芸命(ニニギノミコト)は、天之石位(あめのいわくら)を離れ、天の八重になびく雲を押し分けて、いくつもの道をかき分けて、かき分けて、天の浮橋にうきじまり、そり立たせて、竺紫(つくし)の日向の高千穂の、くじふる嶺に天降りしました。



注目するのは、茶色文字で記載した部分です。この部分に限って見れば、日本書紀日向国風土記記述は80%が一致する。書紀は「眞床追衾に包んで」の記述が付加するだけで、他に一致しない箇所はない。また、古事記の記述は物語的でやや長いが、内容的に矛盾するところはない。三編の記述はよく似ていると思います。特に、日本書紀日向国風土記、理由はともかく、どちらかのコピーに間違いないでしょう。


日向風土記は改変されたのか?2
高千穂峰は宮崎県高千穂町と鹿児島県霧島市に候補地があるが
古代には同じ日向国に属する



(2)評価

①記載類似の原因
日本書紀が風土記の内容を真似たとは思えません。日本書紀の記載は、712年には完成している古事記の内容とも似ているからです。風土記の編纂は713年に詔が発せられてから着手していますから、書紀の記述のほうが先行して書かれていた可能性が高い。
ただ、執筆中にどちらかが参照したということではないと思います。風土記と日本書紀とは各々独自に執筆されていた。しかし、日本書紀の天孫降臨神話が最終的に完成した時、関連する風土記との整合性チェックがあったのだと思います。風土記は地方の伝承・逸話を纏めたものですが、特定の地域に関しては日本書紀と話がかぶります。おそらく、正史の記述と矛盾しないよう、風土記の改竄(かいざん)が行われたのではないかと考えています。特に、国譲りに関係する出雲国風土記や、天孫降臨の地である日向国風土記などは可能性が高い気がします。

【補足】
漢文の用字用法には個人の漢文能力や誤用などの癖が必ず現れます。もし、当初の執筆者と改竄者が異なり、改竄部分が局所的でなければ分析が可能です。漢籍・古文献の研究者に是非実施して欲しいと思います。


日向風土記は改変されたのか?1
古代文献の執筆推定年代(クリック拡大


上表は、歴史学者 森博達氏の日本書紀区分論より抽出した執筆分析と、古事記風土記(逸文を含む)の推定執筆期を纏めたものです。日本書紀の執筆期間は非常に長く、神代編は一番最後に書かれた事は氏の研究で証明されている。前述したが、風土記の方は713年頃から編纂開始されていても、完成時期は国によって差があるようです。古事記に関しては序文の内容を信用した成立年代です。


②日向国風土記逸文「智鋪」の原形推定
風土記というのは、古来より、その土地に伝わる伝承を纏めた書です。歴史研究者の中には、「日本書紀に先行する日向国風土記には書紀が完成する以前に天孫降臨神話が存在していた。風土記が天孫降臨の原形である」と主張する人もいます。しかし、私個人的には此の説は考えにくい。理由を以下に記載します。

(a)天孫が降臨するが活躍の実態がない
風土記の中で出てくる古代日本の皇孫といえば、景行天皇ヤマトタケル、または神功皇后と相場が決まっている。しかし、日向国風土記にはニニギノミコトが出てくる。この事だけでも奇異に感じます。なぜなら、他国の風土記にも記紀の日向三代に関する人物は登場しない。要するに、日向国風土記にのみニニギノミコトの天孫降臨が唐突に現れるのです。これは、本来の風土記にはニニギノミコトの話など無かった可能性が高い。天孫降臨の話が元からあったのなら、その後の天孫系譜の活躍話が無いのは不自然です。昼夜を分けるためだけに天孫降臨したとは思えません。
※日向国風土記は完本ではない。本来は他にもあった天孫記述が逸文として残らなかった可能性はあるかも知れませんが、他の残存風土記に天孫降臨がないのは事実です。

(b)敵対氏族の土蜘蛛が天孫に従順である
土蜘蛛は、天孫や天皇へ恭順しない土着豪族などの蔑称です。土蜘蛛は風土記定番の登場人物ですが、殆どが天孫、天皇に対して敵対的に行動します。風土記全体では、40人くらいの土蜘蛛の名前が上がりますが、天孫に従順なのは、日向風土記に現れる土蜘蛛、大鉗小鉗と、肥前国風土記の中に出てくる女土蜘蛛、大山田女狭山田女だけです。両書の土蜘蛛が天孫に対して協力的なのは、風土記の中の例外ではなく、改竄によって主人公が入れ替わっているために協力者にされたと見たほうが考えやすい。何故なら、土蜘蛛自体が「皇孫に敵対する者」の象徴であり、時や地域によって協力者であったり、敵対者であったりする事は概念的に矛盾するのです。改竄した時に、本来は協力者として別な人格を起こすべきであったが、面倒な作業なので流用されたと見ます。

(c)天孫降臨時に地上は暗黒
仮に本来の日向国風土記に天孫降臨があったとすれば、神話世界の共通認識として降臨以前に天岩戸に隠れた天神アマテラスの再生があったと思われる。アマテラスが天岩戸にこもったとき高天原も地上も暗黒になった。神々は協力してアマテラスを引き出します。そのとき復活したアマテラスは日神として再生しており、地上は再び明るさを取り戻している。アマテラス子孫であるニニギが降臨する地が昼夜の別れていない暗黒の地というのは矛盾している。日本書紀にもニニギの降臨時はまだ雲が厚くて薄暗かったという描写はあるが、暗黒ではない。この風土記の本来の話は、天神とは無関係の話であり、他の人格者が稲籾を撒くことで昼夜を分けたとすれば矛盾は解消されます。


以上の観点から、日向国風土記ニニギノミコトの天孫降臨は、本来は天孫ではなく、出雲国のオオクニヌシのような国津神が主人公であったと思います。つまりすり替えられたのです。国津神は高天原とは無関係で、日向国を創生した国土神です。土蜘蛛が従順であるのは、国津神が土蜘蛛の祖神・守護神であったからだと思います。他の多くの土蜘蛛と同様に、大鉗小鉗天孫に従順であった訳ではない。また、籾を撒くことで昼夜を分けたのは国津神の功績であったのでしょう。現日向国風土記では土蜘蛛がニニギに籾を撒くことを教えるが、本来は国津神が稲作農耕を土蜘蛛等に教え、文化を開いたことを象徴しているように思います。

そもそも、地方に根ざす風土記神話には天神という認識があったのか疑問です。7世紀以前では、全て自然の中に宿る八百万神であったのではないか。天神の概念がなければ天孫降臨もあり得ない。天神は記紀神話で発明された(または大陸から伝わった)神の新しい概念でしょう。天神が国津神を統括することで、天孫子孫である天皇が人民を統治する正当性を示すために創作されたものと思います。そう考えると、中央政治とは無縁の地方逸話に天孫ニニギノミコトが現れる事自体が不審なのです。風土記の中では景行天皇ヤマトタケルが活躍する事実はあります。また、歴代の天皇の名も現れるが、記紀神話が確立していく過渡期の古いタイプの天皇だと思います。また、730年代に完成した風土記の場合は、日本書紀や古事記の新しい概念が、地方伝承に影響を与えた可能性もあるでしょう。風土記の編纂は朝廷官人である国司の役目ですから、あるがままの地方伝承に忠実であったとは言い切れない面もあります。






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正史の記述と矛盾しないよう風土記の改竄 * by レインボー
>風土記は地方の伝承・逸話を纏めたものですが、特定の地域に関しては日本書紀と話がかぶります。おそらく、正史の記述と矛盾しないよう、風土記の改竄(かいざん)が行われたのではないかと考えています。

〇興味深い記事でした。
 「正史の記述と矛盾しないよう、風土記の改竄(かいざん)が行われた」のはその通りだと思います。
 似た方法は、邪馬台国など倭国の記述がないことです。これも、一貫した編集方針だったと思います。
 なお、「天孫降臨時に地上は暗黒」とは、通夜のときの現生(夜)と死後の世界(昼)の関係と同じですね。これは日本の宗教そのもので、面白いと思ったしだいです。
 草々

Re: 正史の記述と矛盾しないよう風土記の改竄 * by 形名
レインボーさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

邪馬台国の記述が無いのも、記紀、風土記で一貫していますね。書紀では卑弥呼=神功皇后に比定させようとしたフシはありますが、場所の記述がないのは残念です。3世紀代の記憶が無い可能性もありますが、大和政権は九州倭国の痕跡を消し去りたかった。言い換えれば、大和政権は倭国政権を引き継ぐものではなかったということなんですかねー。この辺りをテーマにして記事を書きたい気もしますが、あまりにも重すぎて踏み込めません。
通夜のときの現生(夜)と死後の世界(昼)という考えは面白いですね。これは知りませんでした。昼夜が別れていないという概念も不思議ですが、籾を撒くことで分かれるという理由もよく分かりません。脱穀することで、玄米と籾殻に分かれるという事をさしているのか?逸話を余り突っ込んでも仕方ないですがね。

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2019-09-08 (Sun)

曹操の鏡と大分県日田出土の鉄鏡

曹操の鏡と大分県日田出土の鉄鏡

2019年9月8日のオンラインニュースで次のような記事が掲載されていました。**引用開始*******************************************「曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」中国の研究者発表」 9/8(日) 8:00配信朝日新聞デジタル曹操高陵出土の鉄鏡(全面さびに覆われている)中国の三国志時代の英雄で、魏の礎を築いた曹操(155~220年)。その墓から出土した鏡が、大分県日田市の古墳から戦前に出土したとされる重要文化財の鏡と「...

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2019年9月8日のオンラインニュースで次のような記事が掲載されていました。

**引用開始*******************************************

曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」中国の研究者発表
 9/8(日) 8:00配信朝日新聞デジタル

曹操墓出土の鏡1
曹操高陵出土の鉄鏡(全面さびに覆われている)


中国の三国志時代の英雄で、の礎を築いた曹操(155~220年)。その墓から出土した鏡が、大分県日田市の古墳から戦前に出土したとされる重要文化財の鏡と「酷似」していることがわかった。


曹操墓出土の鏡2日田金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
日田市ダンワラ古墳から出土したと伝承される「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」


中国の河南省安陽市にある曹操の墓「曹操高陵」を発掘した河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が、東京国立博物館で開催中の三国志展(16日まで)に関連した学術交流団座談会で明らかにした。
2008年から行われた発掘で見つかったが鉄製でさびがひどく、文様などはよくわかっていなかった。同研究院でX線を使って調査したところ、表面に金で文様が象嵌(ぞうがん)され、貴石などもちりばめられていることがわかった。研究員は「日本の日田市で見つかったという鏡『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)』とほぼ同型式である可能性が高い」と話す。
金銀錯嵌珠龍文鏡は、1933年(昭和8年)に鉄道の線路工事の際に見つかったといわれ、考古学者の梅原末治によって1963年に報告された。翌64年に重文に指定されている。邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとみて、「邪馬台国九州説」を補強する材料の一つと考える研究者もいた。(編集委員・宮代栄一)

***************************************引用終了******


2008年、中国で曹操の墓が発見された時は話題になりました。決め手になったのは出土した墓誌です。曹操墓はたび重なる盗掘を受けており、遺体の骨も散乱していたが、確認された3体の人骨分析が行われ、2018年に結果が発表されている
■60歳前後の男性...曹操本人と推定(155-220)
■50歳前後の女性...曹操の次男or三男曹丕の母(へん)夫人(160-230) と推定
■約20歳の女性......曹操の長男曹昂を出産後亡くなった劉夫人(生没不明)と推定

※女性の殉死説を述べる人がいるが、曹操自身が殉死を禁止している。卞夫人曹操より長生きしており、劉夫人曹操よりずっと早く死亡しているから殉死はあり得ない。曹操高陵で間違いなければ、追葬または曹操死亡時に合葬したとみるべきです。曹操の一番目の夫人は劉夫人、劉夫人死後は(てい)夫人が正妻になるが、義息曹昂の戦死事件が原因で離縁し、その後は側室の卞夫人が正妻となる。夫人が埋葬されていないのは生前に離縁したためと考えられる。


曹操墓出土の鏡7
曹操高陵の玄室(中国考古発掘情報サイトより)


曹操墓出土の鏡3
曹操を指す魏武王銘の石版(中国考古発掘情報サイトより)


曹操は自らの墓を秘匿し、薄葬とすることを遺言している。従って、このような墓誌が埋納されること自体が不審であり、偽墓と考える研究者もいるそうです。中国には系譜が比較的明らかな曹氏が多いので、遺骨との父系遺伝子調査(Y染色体DNA分析)も行われた筈だが結果については不明です。


曹操墓出土の鏡4
曹操の頭骨(中国考古発掘情報サイトより)


2010年に愛媛大学で行われた国際シンポジウム『三国志・魏の世界 - 曹操高陵の発見とその意義 -』 では、新聞記事にもある発掘リーダーの潘偉斌(パン・ウェイビン)がパネリストとして参加しています。報告によると、中国古代の帝王の墓には「瓦鼎十二」と呼ばれる耳と足の付いた陶器12種類を副葬する習慣があるそうです。また鉄鏡も帝王特有の副葬品とのこと。曹操の墓はこれら全てが出土しています。副葬品を見る限り矛盾は無いようです。なお、写真の出土鉄鏡はサビだらけで目視判別はできませんが、非破壊のX線回折法で鉄鏡表面の金アマルガムや金箔等の材質判定ができます。またX線透視イメージングを使えば装飾形象も確認できる。


曹操墓出土の鏡5
曹操高陵の発掘リーダー潘偉斌(パン・ウェイビン )


さて問題は、曹操の鏡と酷似と表現された、大分県日田市の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎん・さくがん・しゅりゅうもん・てっきょう)」です。帝王の鏡とも言える鉄鏡がどうして日田市から出土したのか? 発見されたきっかけは学術発掘ではなく、出土した場所は小規模な古墳(石棺)であったそうです。鉄鏡は後漢時代の鋳造とされており、中国でもありふれた物でないことは確かです。金銀象嵌やトルコ石などを使った細工は財宝にもふさわしい。


曹操墓出土の鏡6
日田市ダンワラ古墳出土の鉄鏡復元レプリカ


魏志倭人伝には、卑弥呼が貰った鏡は銅鏡と記載されています。百枚の中に鉄鏡は混じっていないと思います。どうして倭国の小規模な古墳に副葬されたのか、とんと見当がつきません。日田市は水害でも有名になったが、かなり内陸の狭い盆地にあります。中国との交易に直接関与した氏族とは思えない。また、此処には邪馬台国日田説もあったような気がします。大分県に入るが、筑後川水系にあって地勢的には久留米平野の奥座敷になる。また水系の接続は無いが筑紫野市を経て福岡平野にも出やすい特異な地形にあります。邪馬台国日田説は有力とは言いにくい面もあるが、何らかの有力な国があったと見るべきなのか?


曹操墓出土の鏡8
九州の弥生遺跡(左)と前期古墳分布(右)
クリック拡大

曹操墓出土の鏡9
九州の前期古墳一覧(二段クリック拡大

上図表は、九州全域の弥生遺跡と、その後の前期古墳を洗い出したものです。遺跡状況で見ると、弥生時代と古墳時代前期の間はスムースに継承していない地域もあります。問題の日田市には、弥生時代~古墳時代前期の遺跡は小迫辻原遺跡(3~4世紀)があるが、鏡が出土したダンワラ古墳とは5Kmほど離れている。またこの地域には前期古墳はない。日田市付近の氏族が勢力を持ったのは古墳時代も中期以降と考えられる。鉄鏡の鋳造時代を後漢(25-220年)と考えると、倭国に入った時期はから西普時代でしょう。西普以降の中国は内乱の時代で、倭国からの朝貢は266年を最後に途絶えた可能性があるからです。弥生末期遺跡の分布状況から見て、当初入手したクニは北九州福岡市付近にあったと見る方が考えやすい。その後、九州倭国内の争乱等によって鉄鏡が日田に流出したという仮説も有り得るのではないか。






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地勢的には久留米平野の奥座敷になる * by レインボー
>また、此処には邪馬台国日田説もあったような気がします。大分県に入るが、地勢的には久留米平野の奥座敷になる。邪馬台国だとは言いませんが、何らかの有力な国があったと見るべきなのか?

〇興味深い記事でした。
 邪馬台国時代は多くの小国があった時代で、場所的に、その周辺の一つであった可能性がありますね。
 これからの研究が楽しみです。
 草々

Re: 地勢的には久留米平野の奥座敷になる * by 形名
レインボーさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
日田の鉄鏡は、銅鏡のように倭国で作成したとは思えませんから、朝貢の機会に
入手したか、中国使節の贈答品かも知れない。しかし、どのクニの朝貢なのか
ということは、まったく分かりません。邪馬台国かもしれないし、他のクニの
朝貢の可能性もあるでしょうね。でも、記事でも書きましたが、日田は内陸部
なので余計考えにくい地勢という気もします。倭国内の戦乱の結果、奪われた
ような宝物とでも考えたほうが・・・

No title * by bigbossman
いつも興味深く拝見させていただいております
この鉄鏡は古物商で発見されたんですよね
それが出土したとされる古墳も破壊されてしまって詳細不明
ですから、明治から戦前にかけて中国から持ち出され
日本に渡った可能性もあると自分は考えています

Re: No title * by 形名
bigbossman さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
梅原末治と渡辺音吉の現地調査は発見から30年も経過してるし、現地確認してるとはいえ怪しい点がありますね。古墳の形態も竪穴式と横穴式が混在してるような証言で疑問があります。それ以前に音吉という人物像が分からず、信頼できるのかという問題もありますね。 また19世紀末の中国清朝においては、イギリス、ロシアなどの欧米列強の食い物にされており、美術品の不正持ち出しは多かったろうと想像できます。日本に降伏してからは、軍部やそれに近い民間人による持ち出しも十分考えられますね。仮に音吉の偽証となれば、どんなルートで入手したのか、何の意図があったのかという観点でも調べる必要がありますね。でも、どうも音吉についてはどんな人物か分かりません。bigbossman さんに調査依頼しますかね!

No title * by bigbossman
こんにちは
ふたたびコメントさせていただきます
自分が言ってるのはあくまで可能性の問題で
日本にはお金持ちの古鏡コレクターがいるんですが
その方たちはじつに様々な方法で鏡を手に入れているので
そこから思いいたりました

ただ、反証になるかはわかりませんが、
この近隣から金錯鉄帯鉤というものが発見されていて
それと関係があるとしたら、鏡も実際の出土物なのかもしれません
どちらにしても、出土状況が不確かで考古学者は口を出しにくいだろうと思います
これは中国で発見された三角縁神獣鏡も同様です

あと、日田については、ヤマト王権の九州進出の
拠点の一つだと考えています

Re: No title * by 形名
bigbossman さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

日田市の鉄鏡は群馬の蟹沢古墳の正始元年銘三角縁神獣鏡の出土経緯と似たところがあって興味をひくのですが、日田の場合は通常の古墳からは出土しないモノであるので、よけい不思議です。説としてあるようですが、出土が事実なら九州北部のクニから倭国内乱を機に流出した宝物のような気がします。もっとも出土した古墳の築造年代もわからないので、すぐに埋納されたのか、伝世鏡で長く保管後の埋納なのか分かりませんけどね。土地勘がないのですが、日田は耕地面積からして大人口を維持できるような大きなクニの可能性は薄いと考えています。独自の力で中国より入手したものとは考えにくいだろうと。
すぐ隣のうきは市は5世紀中葉には、畿内出身の豪族、的臣が入っていますね。でも、入植はしているが、その後の文化性を見ると周辺の九州勢力に溶け込んだような印象があります。もともと九州の東岸の前期古墳は大和政権の影響が強いので、豊前から遡上したヤマト勢力の影響はあったのでしょう。ただ、筑前南部も、のちに筑紫磐井の勢力が及んでいますからね。継続的にヤマト優勢の地であったのかは、よく分からないです。

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2019-09-05 (Thu)

上毛野氏とは何者か?(4/8) -諸資料から見える氏族の痕跡-

上毛野氏とは何者か?(4/8) -諸資料から見える氏族の痕跡-

(1)上毛野氏の人物痕跡古代の群馬県に上毛野氏が居住していたのは確かだが、その痕跡は希薄と言わざるを得ない。文献や金石文等で散見される上毛野氏の記録を以下の表に纏めてみた。ピックアップしたのは上毛野に居住しているか、上毛野から畿内に出仕してるのが確実なケースだけです。なお、金石文の人物出自は可能性はあるものの、100%確実なものではありません。上毛野氏の地方人物一覧(クリック拡大)人物属性では、全部で12...

… 続きを読む

(1)上毛野氏の人物痕跡
古代の群馬県に上毛野氏が居住していたのは確かだが、その痕跡は希薄と言わざるを得ない。文献や金石文等で散見される上毛野氏の記録を以下の表に纏めてみた。ピックアップしたのは上毛野に居住しているか、上毛野から畿内に出仕してるのが確実なケースだけです。なお、金石文の人物出自は可能性はあるものの、100%確実なものではありません。


上毛野氏とは何者か5
上毛野氏の地方人物一覧(クリック拡大


人物属性では、全部で12名が確認できますが、確実な本流上毛野氏はたったの4名です。しかも4名のうち1人は上毛野君小熊ですから、実在性はあると考えていますが、100%とは言いきれない。そもそも6世紀代の小熊が「上毛野氏」と呼ばれていた可能性はないと思う。ウジ呼称が定着したのは氏族形成が進んだ7世紀中葉以降ではないだろうか。その他の人物は、物部系、渡来系氏族から擬制同族化した人たちです。
本流で人物像が分かるのは以下の2名だけです。

①勢多郡少領  外従五位下 上毛野朝臣足人
②多古郡八田郷 官位不明 上毛野朝臣甥

上毛野朝臣足人少領とは郡司の副官です。おそらく郡司も親族であったのでしょう。外従五位下は地方官としてはトップクラスの官位ですが、外位は地方官人の官位ですから、禄は宮中内位より少ないはずです。でも記録は国分寺創建時の寄進に対する報償ですから、貴重な瓦などを寄付できる余裕があったことは確かです。
また、この記録のおかげで本来の上毛野氏が勢多郡域に居住していたことが分かります。足人は8世紀中葉の人物ですが、この地域に代々住んでいたとすれば、6世紀代の大室古墳群上毛野氏の初期奥津城の可能性がある。群馬県西部は榛名山浅間山の噴火による自然災害が多かった。暴れ川である利根川とも離れた中毛地域の赤城山麓を選んだのかも知れない。墓域の特定は彼らの移住時代を考える上で非常に重要です。大室古墳群であれば、移住期は6世紀初頭の可能性が高まります。全て横穴式古墳ですが、石室は畿内型を採用しています。


上毛野氏とは何者か6
大室古墳群初代 前二子古墳石室(6世紀初頭築造)


本来の上毛野氏が赤城山の麓にあたる勢多郡を本貫地としていたのは、三輪氏が三輪山の大神信仰を持っていたように、赤城山を信仰の対象にしていたせいでしょう。平安時代の神道集をみると赤城山信仰が盛んであったことが伺えます。現代は、三夜沢赤城神社が有名ですが、本来は前橋市の二宮赤城神社が本社という説が有力です。二宮町は勢多郡域の南端にあたります。
朝倉君は、書紀大化2年3月条の国司不正事件の際に殊勝であると褒められている。実在は確かです。ただ、上毛野君本流氏族なのか文献からは確認できません。しかし、那波郡朝倉郷(現在の前橋市文京町)には、天川二子山古墳104mがあり、築造は6世紀中葉です。地域、古墳サイズ、時代から判断して上毛野氏以外は考えにくい。大室古墳群よりも大型であり、権力があったと推定できます。

上毛野氏とは何者か25
前橋市文京町の天川二子山古墳(wikiより)


なお定説として、前橋市の総社古墳群も上毛野氏の8世紀の墓域説がありますが、榛名山麓から西に移動した物部氏の可能性もあります。総社古墳郡の石室をみれば氏族の繁栄状況は確実ですが、8世紀は本来の上毛野氏よりも物部系氏族のほうが優勢となっている。これは物部氏が上毛野氏と拮抗していた訳ではなく、上毛野氏の主流が畿内に戻って行き、物部氏(石上部氏)を中心とする擬制氏族が空白を埋めたと見たほうが正確です。ただ地方に残った上毛野氏自体は、奥津城は勢多郡域でも住居は国府付近にあったと思います。

上毛野朝臣甥は正倉院宝物の調布墨書銘に現れる人物です。多古郡八田郷とは、多胡郡矢田郷のことです。は朝臣を賜姓されています。畿内居住なら渡来田辺史系も考えられるが、上毛野国にいるので、本来の上毛野氏であるが、傍系人物の可能性が高いと思います。足人と同様に官位を持っていたと思うが、調布墨書銘なので省略されたのでしょう。調布調(みつき)ですから、多胡郡で税を管理していた官人であるかも知れません。居住地は多胡郡矢田郷になっていますが、本来の家ではなく、郡領として多胡郡正庁で勤務するための仮住まいとも考えられる。

石上部氏が4名見えるが、名前からも推察できる物部氏です。上毛野氏とは同族関係を持った擬制氏族です。大宝元年(701年)には登与という人物が上毛野坂本君登与の名を賜る。他の2名、上毛野坂本朝臣男嶋上毛野坂本朝臣黒益は767年に朝臣を賜っている。おそらく登与の子孫でしょう。男嶋の出身は碓氷郡坂本郷(横川)ですが、宮廷にずっと出仕している。賜姓も含めて官位上昇の記録が5回もあります。官位評定は4年に一回ですから、少なくとも20年以上は畿内で暮らしている訳です。
石上部君諸弟は国分寺へのに知識物献上で749年に、前述した上毛野朝臣足人と共に褒賞記録がある。同じ石上部氏であるが、上毛野君、上毛野坂本朝臣などの名を賜っていないので、坂本郷ではなく磯部郷の物部氏かも知れません。本流の上毛野氏との婚姻関係の有無等で同じ石上部氏でも賜姓の有無があるようです。

官位が一番高いのは称徳天皇の采女(うねめ)として仕え、従五位上まで出世した檜前部老刀自(ひのくまべおいとじ)という人物です。采女は郡司の姉妹、娘の中から美人を選んで採用した官人です。称徳天皇に重用された采女として有名です。この人物も晩年は佐位郡(伊勢崎市)に戻っていると考えるが、父か兄弟が郡司であったのは確実です。檜前部君は渡来系と見られているが、後に上毛野佐位朝臣の名を賜る。


赤堀茶臼山古墳9
檜前部老刀自の親族墓の可能性が高い多田山12号墳
(老刀自が追葬されている可能性あり)


赤堀茶臼山古墳8
多田山12号墳出土の唐三彩陶枕
(称徳天皇から下賜された可能性がある)

山上碑金井沢碑に出てくる氏族については過去記事で詳しく述べてるので割愛します。
なお、人物一覧に国司は含めていません。国司は二年の任期がある朝廷の官人ですから、地方在住者とは違います。上毛野氏の中で同国に赴任した国司は上毛野朝臣馬長ただ一人です。本来の上毛野氏と見るが畿内居住は確実です。上毛野国司を六国史から抽出してみると色々な氏族の名が現れます。


上毛野氏の在地居住者の記録が少ないのは、以下のような理由によるものと推定します。
①上毛野氏を統率した主要な人物は、地方経営が軌道に乗ると、畿内に戻り、朝廷に出仕することが多かった。
上毛野氏宗家嫡流は、東北への出兵で赴任して来る時以外は、上毛野に長期常駐することはなかった。
③地方に残った上毛野氏は、宮廷出仕者よりも賜姓機会や昇進回数も少なく、記録される頻度が低い。
④上毛野氏でも、のちに同族化した氏族の中には、朝廷移民政策によって東北地方に移住させられた。

一番の大きな要因は①であると思います。経営統治が安定した結果、活躍の場を畿内の宮廷に求めたと見ます。地方にいては出世するチャンスが乏しかったのではないか。④の東北移住は吉弥侯部氏(きみこべし)など上毛野氏の部民が六国史に記録されている。彼らの移住は自らの意志ではなく、氏上や朝廷の指示があったと考えられます。
このように上毛野国出身者の人物痕跡が薄いのは、この地域が朝廷から与えられた部民が多くを占めたことを物語っている。本来の上毛野氏は一握りであったと思います。


(2)上毛野国の郷名から類推する居住氏族
人物属性以外では、郷名と神名から氏族の存在を推定できるものもあります。しかし、これらの証拠を見る前に、上毛野氏を構成する氏族の候補を知っておく必要がある。六国史には該当する氏族名の記録がありますが、その名称は居住地域名から発生したことが推定される。そこでまず文献に現れる関係氏族を以下に記載します。

①『日本書紀』天武天皇13年(684年)11月条
八色の姓において、朝臣の姓を授けられた52氏の中に、上毛野君下毛野君車持君佐味大野君池田君の六氏の名が見えるが、六氏が上毛野氏同族であるとは書かれてはいない。

②『続日本紀』桓武天皇延暦10年(791年)4月条
池原公綱主らの言の中に、池原氏上毛野氏のニ氏の出自は豊城入彦命であること、豊城入彦命の子孫には「東国六腹朝臣」がいて東国の居地によって氏姓を得たことが記載されている。しかし六腹がどの氏族を指すのか明記されていない。

③新撰姓氏録 弘仁6年(815年)
以下記述があり、上毛野氏始祖系譜と併せて判断すれば、六氏は同族と見られる。
右京 上毛野朝臣  崇神天皇皇子の豊城入彦命の後
左京 下毛野朝臣  崇神天皇皇子の豊城入彦命の後
右京 大野朝臣   豊城入彦命四世孫の大荒田別命の後
左京 池田朝臣   上毛野朝臣同祖。豊城入彦命十世孫の佐太公の後
右京 佐味朝臣   上毛野朝臣同祖。豊城入彦命の後
左京 車持公    上毛野朝臣同祖。豊城入彦命八世孫の射狭君の後

④『日本三代実録』元慶元年(877年)12月25日条
上毛野、大野、池田、佐味、車持の各朝臣は崇神天皇の後裔であり、同祖だと記載される。


この他にも同族と判断できる氏族名はあるが省略します。纏めると、始祖関係が明記されてる新撰姓氏録の六氏が中心であるのは、他記述と併せて間違いないようです。なお、上毛野氏を構成する氏族のうち畿内にしか居住していないと判断できる氏族(池原公田辺史等)は除外してあります。

一方、和名類聚抄、上毛野国神名帳から抽出される郷名(郡名)や神名から抽出したのが以下の表です。

上毛野氏とは何者か7
上毛野氏と関連が推定できる郷名と神名クリック拡大


前述した上毛野氏の構成氏族名と和名類聚抄の郷名・郡名から判断すると、朝倉君池田君佐味君有馬君大野君の5氏族が居住候補には上げられる。しかし、池田郷大野郷は全国に数多く存在します。池田郷は群馬での数の多さから可能性はあると思いますが、桐生の大野郷大野君との関連を考えるのは無理がある。具体的な人格記録はなく、時代と郡域の合う古墳は中塚古墳一基しかないからです。有馬君の畿内居住は確実です。群馬居住が確実なのは、朝倉君佐味君佐位朝臣檜前部君の3氏族だけかも知れません。

神名や神社では、車持君有馬君との関連が指摘されているが、両者とも在地の人物記録もないし、神格の低い神社があるのみで痕跡としては希薄です。前述してるが有馬君(公)は畿内の氏族であり上毛野との接点は無いと思います。一般に上毛野を車持氏の出身地のごとく記載してる情報ソースが多いが、本拠地は摂津です。車持氏は車持部の伴造氏族として西国、東国に広く展開している。上毛野氏と始祖伝承を共有しており、居住を否定はすることはできないが、車持部の管掌者がいたレベルでしょう。貴族階級の車持君が居たとは思えない。車持君の存在が否定的なのは、群馬郡域には該当する有力古墳がないからです。保渡田古墳群車持君の墓所とする説もありますが、5世紀代中葉~後半の古墳です。可能性はありません。また、藤原朝臣不比等の母、車持君与志古娘(よしこのいらつめ)が上毛野出身と云う説もありますが根拠がない。やはり摂津の車持氏の本拠地と思います。そもそも大王の輿を造る職掌から始まった氏族です。後に氏族中核は朝廷官吏に変容していくが、本拠地が遠隔の地方であるというのは無理がある。職掌を担う対価として車持部を上毛野に給わったと見るのが自然です。氏上の所在する本拠地と、氏族が賜った車持を一緒くたにするのは疑問です。

なお、本来の上毛野氏の祭神は赤城山(赤城明神)であると思われるが、「赤城」という名称が上毛野氏の伝承の中に現れないので表の中には載せていない。赤城神社は、上毛野氏の痕跡とされているが、関東地方とその近在には赤城神社は非常に多い。残存するものだけで以下の神社があります。
・群馬県..... 118社  ・栃木県........  9社   ・新潟県........13社
・埼玉県........23社  ・茨城県........10社   ・福島県........11社

その他を合わせて計191社あり、合併又は廃社を併せると334社あるそうです。これらが全て8~10世紀まで遡るとは思えません。殆どが中世~江戸期の分社でしょう。ただ、赤城神社以外にも上毛野氏の始祖を祀っている神社に、栃木県二荒山神社、青森県猿賀神社など幾つかあります。関東以北に分散していることは確かです。
上毛野氏は8世中葉には宗家嫡流は衰退し、擬制氏族に置き換わっていきますが、同族化した氏族も信仰的には統一されていた可能性が高い。神社、祭神がみな上毛野氏の足跡とは言い切れないが、福島にある神社などは創建を調べてみる必要があります。
720年には東北地方の行政官であった上毛野朝臣広人が蝦夷に殺害されていますし、大野朝臣東人の実績もあるので東北統治に関わったのは事実です。8世紀も中葉までは軍事的な平定が盛んだったようだが、8世紀末期に入ると、行政統治の時代に入っていたように思えます。この時代には本来の上毛野氏を核にして増大した擬制氏族が関東・東北地方に入植していったと見ています。この過程で信仰の痕跡も広がりを持ったのでしょう。




次回に続く



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No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんにちは。大野東人も上毛野氏だったのですね。多賀城碑にその名がありますね。旧勢多郡新里村にある、「山上多重塔」の碑文、「為□無間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」は、切実な叫びだったのですね。

Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

大野東人は桐生の山田郡、または、栃木県那須郡大野邑の人とい説はあるのですが残念ながら最近では否定的です。本稿の次稿ではもう少し触れていますが、壬申の乱で、大野果安と田辺史は大友皇子側に付いて参戦しました。敗戦すると、大野氏と田辺史は天武天皇から東北出兵のペナルティを得ます。その過程で上毛野氏と行動をともにしたことが縁で同族化したという説が有力です。東人は果安の息子ですから、東北出兵に関わらざるを得なかったようです。でも才覚を発揮してその後も軍人として活躍しますね。創作された系譜をみると下毛野君と同族化してるので、書紀に現れる上毛野田道の子孫ということになってます。推定ですが、実態は紀伊または大阪湾岸出身氏族と思います。あるいは、田辺史と行動をともにするので同じ渡来系かもしれません。
山上多重塔のことはよく知らなかったのですが、随分古い金石文ですね。是非、本物を見に行きたいと思います。大室古墳群とは北へ5kmしか離れていないです。

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。懇切丁寧なご教示ありがとうございます。山上多重塔は、上野三碑につぐ、第四の碑ということで、群馬県立歴史博物館の常設展会場に上野三碑とともにレプリカがあります。国宝だった時代もあったといいますけど、地元の人達は、その存在をあまり気にしていないようです。

Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私が書いてる上毛野氏の記事は、どちらかと云えば一般的に知られている定説とは異なります。nonokomamaさんもご存知と思いますが、上毛野氏を地方出身者と考える研究者はまだ多いようです。そういった方は東毛の大型古墳も上毛野氏のものと見ていますし、細かい人物単位の話も影響を受けています。従って私の説明も一つの説に過ぎないという事は、お伝えしておきます。

確かに私も山上多重塔の名前は知っていましたが、どこにあるのか知りませんでした。昨日、以下の5地点をgoogleで調べて地図に転記し、訪問準備完了しました。私は近隣の見学は全て自転車でこなすので、アナログなんです。(笑)
山上多重塔       桐生市新里町山上2555
天神古墳        桐生市新里町小林60-1
中塚古墳        桐生市新里町新川2592
武井廃寺塔跡      桐生市新里町武井598
善昌寺の新田義貞公首塚 桐生市新里町新川2728

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。
天神古墳は新里中央小学校の校庭の北の隅にあります。
一応公園風になってますけど、校庭なので「無断立ち入り禁止」みたいな立て札があったと思います。
誰も文句を言う人はいませんが、それがなければ、いい雰囲気だったと思います。
善昌寺の新田義貞の首塚には、新田郡出身者の私には、とても抵抗感があります。
善昌寺にはちょっと目立たないところに(本堂を通って内庭に)、弁天様か薬師様を祀る石宮のようなものがありました。古墳ではないかと思いました。ちょっと記憶があいまいですけど。


Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

小学校の校庭ですか。そう云えば、高崎市八幡小学校の庭にある古墳を見学してて不審者と間違われたことがありますね。挨拶してから入りますよ。新田義貞は確か福井で戦死でしたね。墓も福井のはずです。ただ御首は検分のため京都へ送られたんじゃなかったかな?悪源太義平と同じパターンで首を奪ったという伝承があるのでしょうが、どうなんですかね?私は新田源氏が好きなので、関係する史跡は出来る限り見るようにしてます。天気が良くないので、何日か先になりそうです。

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。
過去の記事を探すのはなかなか大変ですね。
善昌寺の石宮の弁天様の記事は、FC2ブログ2017年8月31日の記事の後半にありました。
メインの記事ではなかったので、題名等にはありませんでした。
御朱印の日付でやっとみつけました。
まあ、とにかく古墳だらけの村だったようです。
新田の人間には、義貞の首塚は、やっぱり勾当内侍の花見塚(旧新田郡尾島町)です。
史実はどうかわかりませんけど。

Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私は善昌寺の首塚が、勾当内侍が奪いとった首を埋葬したものと思っていましたが、別に首塚があるのですね。尾島町のほうですか。実は、おおたんの観光マップで回っているのですが、花見塚は掲載されていないので見落としていました(笑)。時間に余裕があれば回りたいが、いっぺんには無理かな。花見塚には勾当内侍の墓もあるみたいですね。それにしても、新田義重の娘が、夫義平の首を京の三条河原から家臣に奪わせた話と全く同じですね。それだけ義貞が地元の人に愛されていたということでしょう。確か金山城付近には義貞の供養塔もありましたね。新田義貞の居館跡と伝えられるのは、太田市の明王院安養寺の境内ですから、首塚が尾島町というのは至極当然という気がします。直ぐ近くですね。逆に、桐生の善昌寺にもあるのは何か訳がありそうですが、経緯を調べる楽しみができました。ありがとうございます。

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。
新里では、船田善昌が義貞の首を持ってきたとか、船田善昌は高齢なので戦線離脱して善昌寺に居るところに、桃井某が首を届けたという話になっています。桃井某はその後切腹したということで、桃井塚なるものも存在します。
花見塚の方には新田義貞だけでなく、南朝の話も付いてます。花見塚にある花見塚神社には菊の紋章があったと思います。新里の方には、南朝の話はないようです。
世良田の毛呂権蔵は、善昌寺で聞かされた話を納得しませんでした(『上野国誌』)。毛呂家は船田善昌館跡なのだそうです。
不思議な事に、新里の奥沢から流れ出した早川が、花見塚の脇を流れています。



Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

なるほど、妻である勾当内侍系と、義貞の家臣(執事)系の伝承で分かれているわけですね。桐生市のホームページには善昌寺は船田善昌の縁で名前を変えたとありました。新田氏も決して一枚岩ではないし、家臣家も含めれば、尚更でしょう。本来、詐称の意識はなくとも、民衆の誤解や想像が、時を経ていつしか事実と伝承されるようになる場合もありますからね。特に有名な人物で、普通の死に方でない場合は尾ひれが付きやすい。歴史を創作してはいけないが、より身近に墓を置きたいという思いは理解できますね。

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