FC2ブログ

東国の古代史

Top Page » Next
2021-05-07 (Fri)

玉ねぎ成功!?

玉ねぎ成功!?

玉ねぎがそろそろ収穫時期を迎えます。260本植えましたが、とう立ちはゼロ、裂球は3本、生育不良は7本くらいですから、成功の部類に入ると思います。でも今年は小玉が多いみたい。それと陽気のせいか、早生、中生、晩生で大きさの差がない。同時収穫になってしまそうです。↑晩生種 ケル玉↑中生種 ネオアース↑早生種 赤玉ねぎ↑実エンドウ↑初めての栽培ですが、種まきが早すぎて殆どの株が寒波にやられました。でも、生き残った株...

… 続きを読む

玉ねぎがそろそろ収穫時期を迎えます。260本植えましたが、とう立ちはゼロ、裂球は3本、生育不良は7本くらいですから、成功の部類に入ると思います。でも今年は小玉が多いみたい。それと陽気のせいか、早生、中生、晩生で大きさの差がない。同時収穫になってしまそうです。

s-P_20210507_145617.jpg
↑晩生種 ケル玉

s-P_20210507_145517.jpg
↑中生種 ネオアース

s-P_20210507_145539.jpg
↑早生種 赤玉ねぎ

s-P_20210507_145559.jpg
↑実エンドウ

↑初めての栽培ですが、種まきが早すぎて殆どの株が寒波にやられました。でも、生き残った株が育って、そこそこ収穫できています。鞘も豆も甘くてうまい。

s-P_20210507_145634.jpg
↑そら豆

↑これも初めての栽培。樹が小さくて貧弱だが収穫できています。そら豆独特の風味があって旨いです。

s-P_20210507_145757.jpg
↑春キャベツ

↑キャベツは3年連続の失敗。巻いたのは10株に一つくらいで、直径10cmくらいしかない。巻かないやつはエグみが強くてまずい。畑が合わないのだろうか?来年はもうやめようと思う。

s-P_20210507_145708.jpg
↑四葉きゅうり

↑きゅうりは種から栽培しますが、早く食べたいので3株だけ苗を買いました。




日本史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
関連記事
2021-05-05 (Wed)

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(5/6)「畿内における神格の配置」

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(5/6)「畿内における神格の配置」

前稿からの続き多くの歴史学者が指摘していることですが、畿内にはニギハヤヒを祀る神社は非常に多いが、神武イワレヒコを祀る神社は極少ない。あっても、創建は明治以降であって、古いものは一切ありません。神社の存在が必ずしも神武の存在を反映するとは限らない。しかし、大王家の主張する過去の歴史が史実であるなら、古代に遡る国家神道として神武天皇を祀る神社があってもよいと思います。ニギハヤヒと神武イワレヒコを祀る...

… 続きを読む

前稿からの続き


多くの歴史学者が指摘していることですが、畿内にはニギハヤヒを祀る神社は非常に多いが、神武イワレヒコを祀る神社は極少ない。あっても、創建は明治以降であって、古いものは一切ありません。神社の存在が必ずしも神武の存在を反映するとは限らない。しかし、大王家の主張する過去の歴史が史実であるなら、古代に遡る国家神道として神武天皇を祀る神社があってもよいと思います。ニギハヤヒ神武イワレヒコを祀る神社の事例を後述しますが、その前に一つ補足事項を記載しておきます。

物部系神社を見る時には注意が必要です。物部氏はよく知られるように本宗家の物部大連守屋蘇我氏を中心とする勢力に敗退して戦死する。西暦587年のことです。物部氏は仏教に対しては強硬な廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立したと言われているが、此れは書紀の創作。実態は朝鮮半島政策や王位継承などが複雑に絡んだ権力闘争です。ちなみに物部氏は本拠地に寺を持っており、決して廃仏派ではない。この事件で物部氏自体は没落することになる。没落を契機として、祖神ニギハヤヒとの縁も遠のいていった可能性があります。
物部氏が復活するのは壬申の乱後です。物部連麻呂大友皇子側について参戦したが、大友皇子の死を看取るまで臣従した事が大海人皇子方から評価される結果になる。また、物部同族の朴井雄君が天武側で武勲をあげた事もあって、天武朝で重用されることになります。天武朝で復活する新生物部氏は、石上神宮と関係を持つようになり、氏族名も石上氏と改めている。物部連麻呂石上連麻呂に改名し、のちに朝廷から朝臣を賜って石上朝臣麻呂となる石上神宮の管理を任された物部氏は、この時期に氏族の祭神をフツヌシ神に変えていったと思われます。ちなみに石上神宮は少なくとも7世紀まで遡れる古社です。
物部氏の伝承には、石上神宮物部氏が創建したかのように記述されているが、物部氏の創作と思われる。神宮との関係は天武朝以降である可能性が高い。神宝は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)ですが、此れを神格化したのが、タケミカヅチ・フツヌシの二神です。この神は大王系の創作神です。従って、フツヌシを祭神とする物部系神社は物部氏の中でも後発に分化した氏族が祀った神社と考えられる。または、没落以前の創建であるなら、本来はニギハヤヒを祀っていたが、フツヌシに置き換えられた可能性があると考えています。物部大連守屋は朝廷に反逆する者として、皇族と朝廷臣下によって討たれています。おそらく、その後の物部氏に属することは、朝廷に反逆した一族という烙印を押されかねない雰囲気があったのだと思います。この時、ニギハヤヒを祀る物部系神社は祭神を置き換えたり、大王家の祭神を加えたりして生き残りを図った可能性があります。



(1)ニギハヤヒ系神社
■大阪府東大阪市 石切劔神社(上之社) 祭神:ニギハヤヒ、ウマシマチの親子
地元では石切さんとして親しまれている古社です。下之社(本社)と上之社がある。中世の兵火で消失して何れも復興したのは近代です。社伝では崇神天皇の御世に起源をもつとある。しかし、確認できる文献では、日本三代実録に「貞観7年(865年)9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がある。延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」と記載がある。ニギハヤヒを祀る古社である可能性は高いが、それでも創建は奈良時代かと思います。神階(神格の位階)については詳しくないが、位階が低いのは物部氏の没落と関係していそうな気もします。

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由4
↑石切劔神社上之社(Wikiより引用)

■大阪府八尾市 矢作神社 祭神:フツヌシ、ホムタワケ(応神天皇)、(ニギハヤヒ)
創建は平安時代と推定される。この神社は、元は物部氏の傍系一族である矢作連の屋敷跡という説がある。矢作連新撰姓氏録の河内国神別に「矢作連 布都怒志乃命之後也」とある氏族。矢作連は矢作部の管掌氏族であり、物部氏の配下と思われる。ホムタワケ応神天皇)が合祀されているのは、当地が平安時代末期に石清水八幡宮の荘園となったためです。主祭神はフツヌシとなっているが、神社は矢作連の祖神を祀るものであり、本来はニギハヤヒであったと推定される。

■大阪府八尾市 弓削神社 祭神:ニギハヤヒ、ウマシマチ、ホムタワケ(応神天皇)
大阪府八尾市内には、東弓削の弓削神社弓削町の弓削神社の2社がある。10世紀成立の延喜式神名帳で河内国若江郡に「弓削神社二座 大月次相嘗新嘗」と記載されている。国史には天安3年(859年)に弓削神の神階が従五位上に昇叙された記録があります。少なくとも平安時代まで遡る古社であるのは確かです。平安時代中期の和名類聚抄には河内国若江郡に弓削郷の記載があり、一帯は物部氏の支配地で、弓削氏はその配下にあって弓削部を管掌した伴造氏族です。新撰姓氏録では物部系氏族として弓削宿禰の記載も見える。弓削神社は弓削氏の氏神であった可能性が高い。現在の主祭神はニギハヤヒです。

■大阪府八尾市 渋川神社 祭神:アメノオシホミミ、ニギハヤヒ
式内社ですが、創建の時期は不明です。 飛鳥時代には物部守屋は本地域を本拠地としている。祭神にニギハヤヒが見えるので物部系の神社と思われる。アメノオシホミミアマテラススサノオの誓約で生まれた神です。大王系の神ですが、これは物部氏本宗家の没落後に祭神に加えられた神だと考えます。この神社は旧大和川の東側の字川向にあったが、戦国時代の洪水で流失していて現在地に再建されたらしい。

■大阪府八尾市 跡部神社 祭神:アマテラス阿刀連大神ニギハヤヒ
創建年代は不明です。延喜式神名帳に記載されていることから、少なくとも10世紀には存在していたと思われる。阿刀部氏が居住した時代に遡る可能性はあるでしょう。主祭神は阿刀連大神で、阿刀部氏の祖神を祀ったと言われている。阿刀部氏先代旧事本紀によると、物部氏の祖神とされるニギハヤヒの孫であるウマニシニギタを祖としている。何れにしても遠祖はニギハヤヒです。氏神に置き換えたのは、守屋滅亡の影響と見ます。由緒記に、アマテラスは明治5年に合祀されたと記載されているので、本来の祭神ではない。神社のある地は阿刀部連が居住していたとされ、物部守屋阿都の別業(別荘)があった場所とも言われている。

■大阪府交野市 磐船神社 祭神:ニギハヤヒ
神社の起源、創建年代は不明です。ニギハヤヒが天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にある。 天の磐船天野川を跨ぐように横たわる舟形巨岩を御神体としており、本殿はない。交野(かたの)に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が崇敬していたと言われている。肩野物部氏は岡山県にも居住地があり、同地で製鉄業を行っていたと見られる。 

■大阪府南河内郡 磐船大神社 祭神:ニギハヤヒ
創建経緯、時代は不明です。先代旧事本紀に「饒速日命十種の御宝を奉じ、天磐船に乗りて河内国河上の哮峰に天降り給う」とあり、これに由来すると思われ、古い時代は山を神体として崇めてきた。境内には舟の形をした巨岩がたくさんあり、磐船、浪石、燈明岩などと呼ばれる。この点は交野磐船神社とも似ている。

■奈良県大和郡山市 矢田坐久志玉比古神社 祭神:ニギハヤヒ
奈良県大和郡山市矢田町にある式内社。別名、矢落神社。延喜式神名帳に記載されている大和国添下郡十座の筆頭社で式内大社。創建は不明ではあるが、貞観元年(869)、従五位上を授けられている古社です。祭神はニギハヤヒと御炊屋姫神。社殿は室町時代の建築らしい。矢田地方は、矢田部氏の居住する地域で、その祖神はニギハヤヒと考えられている。

奈良県高市郡 櫛玉命神社 祭神:クシタマ(ニギハヤヒ)
奈良県高市郡明日香村に所在する神社。創建経緯や時代は不明。主祭神は櫛玉彦命であるが、この神の別名は「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」であり、ニギハヤヒを指すと見られる。その名を隠したのは、物部氏没落の影響の可能性がある。


以上、ニギハヤヒを祀る神社の代表例を列挙したが、所在地に着目すると、北河内、中河内が多く、奈良県ではやや少ない。古代の郡域で言うと、交野、若江、渋川、茨田、讃良、河内、高安に相当し、旧大和川の下流域にあたる。北河内、中河内はニギハヤヒを始祖とする物部氏の根拠地とした地域です。固有氏族名で言うと、物部連、矢作連、弓削連、阿刀連などが居住する。物部氏は旧大和川の水運力を掌握していたと見られます。


(2)神武天皇系神社
奈良県橿原市 橿原神宮 祭神:神武天皇
この神社は明治22年に作られた神社であることは明確で古社ではない。古い木材が使われているが、吉野山からの移築物だそうです。畿内に神武天皇・イワレヒコを祭神とする江戸時代以前に遡る神社は無いと思われます。ちなみにニニギノミコトを祭神とする神社は降臨伝承のある九州には多いが、近畿地方では極少ない。奈良県御所市の国見神社は主祭神として祀っているが、創建時期は不明。大阪府の聖神社も祭神としているが、配神であるので本来の祭神ではなく、後世に合祀されたものでしょう。



以上のように、畿内ではニギハヤヒの痕跡は濃いが、神武イワレヒコの痕跡は希薄というか、皆無と言わざるを得ない。これは古代において、記紀の創作伝承として神武イワレヒコは存在していても、一般臣下の諸豪族、民衆には知られていなかった可能性が高い。創作神話は世の中に浸透していなかったと判断できる。神武の実在はもちろん、8世紀の市井には彼の逸話伝承さえ無かった可能性がある。従って神武東征を史実と見るのは無理かと思います。




【補足】間接的に神武に関係する神社溝咋神社(みぞくいじんじゃ)
大阪府茨木市(摂津地方)にある神社。10世紀の延喜式神名帳には「摂津国島下郡 溝咋神社 鍬靫」の記載があり、朝廷から鍬(すき)と靫(ゆぎ)を賜ったことが記される。式内社であり古社と言えそうです。
主祭神は、
ヒメタタライスズヒメ(神武天皇の正室
タマクシヒメ(ヒメタタライスズヒメの母別名ミシマミゾクイヒメ
日本書紀神代巻では、事代主神が八尋熊鰐(ヤヒロノクマワニ)となってタマクシヒメのもとに通い、生まれたヒメタタライスズヒメが神武天皇の正室になったと記載する。
書紀は、国譲りのあった出雲には天孫降臨でも東征でも無視しています。しかし、ヤマトに入ってから、正妻としてヒメタタライスズヒメを得ている。この姫は幾つかの名前を持っていますが、母はタマクシヒメ、父は事代主(大物主という説もある)ですから出雲系です。国譲りを経ているとはいえ、出雲の血を入れることで、臣下との繋がりを強め、離反を防ぐための創作だと思います。九州隼人の場合と同じ戦略を採っている所が面白い。
一方の日向国のイワレヒコ妻である吾平津姫の子はタギシミミです。彼とヒメタタライスズヒメの子カムヌナカワミミ(綏靖天皇)は、後に後継者争いになります。従って、神武のヤマトでの婚姻はトラブルの発端を作ったとも言える微妙な逸話です。どんな意味があるのか不思議だが、現地妻は捨てられ、その子は殺されるでは立つ瀬がない話です。結局、隼人系の血筋より、出雲系を重要視したということでしょう。ヤマトの地には出雲系の神格、住民が多く、皇統に出雲の血を入れることは統治するのに必要だったのかも知れません。このあたりは東征とは無関係な部分です。創作話とはいえ、時と場所によって政権と従属氏族の関係性にプライオリティを付けてるような印象があります。



最終稿に続く

【参考・引用】
■六国史 テキスト版
■日本書紀 全現代語訳(上下巻) 講談社学術文庫        宇治谷孟
■口語訳 古事記         文藝春秋             三浦祐之
■敗者の古代史          岩波新書             森浩一
■ウィキペディアの神社項目



日本史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
関連記事
No Subject * by 至柔
畿内にはニギハヤヒを祀る神社は多いのに対し、イワレヒコを祀る神社はあまりないのですね。

そいうえば、至柔が以前参拝したことのある大阪府藤井寺市の辛国神社(からくにじんじゃ)は饒速日命を祭神としていました。神社の由緒によれば物部氏と関係のある神社みたいです。

Re: No Subject * by 形名
至柔さん、おはようございます。コメントありがとうございます。

記事の神社は物部氏一派の本拠地付近から抽出していますが、物部氏の殆どは血縁関係のない擬制氏族として集合したグループなので、氏族の広がりは尋常ではないようです。ニギハヤヒを祭神としているかどうかは別にして、物部系神社はたくさんあると思いますね。そのうちでも、式内社である場合は延喜式神名帳に記載があるということなので、少なくとも平安時代以前まで遡れる神社だと思います。辛国神社も社伝では5世紀創建になってるらしいが、8世紀までは遡るかも知れませんね。

ところで、「至柔」というハンドルネームは哲学的で難解な言葉ですね。柔軟な視点に立って歴史を観察するんだという自戒にも似た願望を込めているのかなー。

Comment-close▲

2021-04-30 (Fri)

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(4/6)「神武東征の下書き」

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(4/6)「神武東征の下書き」

前稿からの続き神武天皇の東征は史実ではないが、ニギハヤヒ=物部氏の東征・移住は史実を含む可能性があります。前稿で長々と物部氏の故地に触れたのは、神武天皇の東征に比べて、物部氏の祖ニギハヤヒの東征は、伝承レベルでも具体性に富むという事実です。それと比べると神武イワレヒコの軍団は、陣容にしても、東征期間においても具体性・真実性に欠ける物語となっている。随伴した人格も兄弟は明記されているが、その他は逸話...

… 続きを読む

前稿からの続き


神武天皇の東征は史実ではないが、ニギハヤヒ物部氏の東征・移住は史実を含む可能性があります。前稿で長々と物部氏の故地に触れたのは、神武天皇の東征に比べて、物部氏の祖ニギハヤヒの東征は、伝承レベルでも具体性に富むという事実です。それと比べると神武イワレヒコ軍団は、陣容にしても、東征期間においても具体性・真実性に欠ける物語となっている。随伴した人格も兄弟は明記されているが、その他は逸話的で具体性がない。特に兵員の構成や規模は一貫して記述されることがない。これは基本的に、創作に時間と工数を掛けていないためだと思います。
特に東征期間については、現実的な話となっていない。古事記では東征期間は18年にも及びます。これはあり得ない。弥生後期~古墳時代前期、いや其れ以降だとしても当時の平均寿命は40代に達しているかどうかです。出発したときの青年は老人になっています。東征中の世代交代などは現実的ではありません。日本書紀でも東征の期間は8年位になります。これでも異常です。時代がまったく異なるので同列比較はできないが、足利尊氏新田義貞軍に追われて京都から九州宮崎に敗走する。彼が再び軍を立て直して、宮崎から兵庫県湊川に達するまでに3ヶ月しか掛かっていません。戦争というのは勢いに乗らなければ勝利などありえない。年単位の東征などあり得ず、あったとしたら、それは単なる移住です。
それに対して、ニギハヤヒの航海の陣容は具体性があります。ただ、具体性があるからといって全て史実であるとは思いません。あくまでも物部氏の祖神人格の物語ですから創作要素がある点では神武の場合と同様です。史実要素を反映した逸話と、大王家の正統性を訴えるための創作物語の違いだと言えます。また、ニギハヤヒ実在したとは考えていない。ニギハヤヒ物部氏が祖先の功績を仮託した人格だと思います。祖先を代表して自身の系譜原点に架上した人物像ですから、個として存在ではなく祖先象徴として存在したと言えます。

神武寄港地2
↑古事記による神武東征の経由地
※日本書紀では畿内でルートが異なるが他はほぼ同じ


仮説ですが、神武東征逸話はニギハヤヒの九州からの東征(移住)を下書きにして創作された可能性がある。先代旧辞本記に描かれるニギハヤヒの降臨神話~東征をトレースしたように思います。もちろん企画したのは記紀神話の設計者という意味です。先代旧辞本記大同年間(806~810年)以後の平安時代初期に成立したとされます。従って、日本書紀の編纂者が直接に先代旧辞本記を参照したわけではない。しかし、この書物は、物部氏の出自伝承が記録された家記(墓記)が下地になっていると思います。物部氏は朝廷に氏族家記を提出している筈ですから、これを参照して神武イワレヒコの東征物語は記述されたと推定します。物部氏の家記は現存していませんが、内容的に先代旧辞本記と類似性があったと思っています。
記紀神話が物部氏家記を無視できなかったのは、記紀が編纂された当時、物部氏の出自伝承は朝廷に出仕する氏族官吏や一般民衆の間にも知られていたためと思います。朝廷としては、此れを無視することは出来なかった。何とかして、先行する天孫伝承を持つ物部氏の伝承に対して、大王家の優位性、正統性を創作する狙いがあったと考えます。

書紀の神武東征逸話でも、出発する前に神武イワレヒコは目的地のヤマトに先住降臨氏族であるニギハヤヒがいる事を知っている設定です。神武ニギハヤヒの東征をトレースすることにより、ニギハヤヒ勢力からの国譲りを正当化したかったのではないか。もちろん、九州日向国に降臨した都合、ヤマト国に移動する何らかの契機と手順が必要だったことは明白です。

大王家はすでに神話の中で、出雲からは国譲りを完了している建前です。「イズモ」という概念が物理的な中国地方の出雲国を指すのか、はたまた、概念的な地上世界の葦原中国(あしはらのなかつくに)を表す象徴的存在なのか判断しがたい。しかし、天孫降臨以降、神武東征にいたるまで、出雲の地が全く関わらないのは後者と判断するしかない。そうだとすれば、ヤマトに進出するのは国譲りの手順を踏んでいるので問題は無いはずです。しかし、ニギハヤヒに関しては問題が残る。イワレヒコニギハヤヒも天孫であり、天神の意思で降臨を果たしている建前だからです。大王家が優位に立つには、戦って勝利するか、ニギハヤヒ自ら大王家に権益を譲るかのいずれかであろう。しかし、天孫どうしの戦いは憚れるので、戦う相手はニギハヤヒの後援者である土蜘蛛にすり替えてうまく隠している。併せてニギハヤヒにもヤマト支配の権益辞退を述べさせて解決しているのだと思います。ニギハヤヒが開拓してきたヤマトを、後から来てかすめ取るような印象を避けるために、自らの東征という手順を踏んだのだと考えます。



次稿に続く

【参考・引用】
■六国史 テキスト版
■日本書紀 全現代語訳(上下巻) 講談社学術文庫        宇治谷孟
■口語訳 古事記         文藝春秋             三浦祐之
■敗者の古代史          岩波新書             森浩一




日本史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
関連記事
2021-04-29 (Thu)

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(3/6)「物部氏の故地は北九州か?」

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(3/6)「物部氏の故地は北九州か?」

前稿からの続きここで少し寄り道をします。話を6世紀初頭に持っていく。以下の漢文は、『日本書紀』巻十七継体天皇二一年(西暦526年)からの引用です。継体大王が、筑紫磐井の反乱に際して、征討将軍に任命された物部連麁鹿火(もののべ・むらじ・あらかひ)に討伐の檄を飛ばすシーンです。【原文】詔曰「良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。」重詔曰「大將、民之司命。社稷存亡於是乎在。勗哉、恭行天罰。」天...

… 続きを読む

前稿からの続き


ここで少し寄り道をします。話を6世紀初頭に持っていく。
以下の漢文は、『日本書紀』巻十七継体天皇二一年(西暦526年)からの引用です。継体大王が、筑紫磐井の反乱に際して、征討将軍に任命された物部連麁鹿火(もののべ・むらじ・あらかひ)に討伐の檄を飛ばすシーンです。

原文
詔曰「良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。」重詔曰「大將、民之司命。社稷存亡於是乎在。勗哉、恭行天罰。」天皇親操斧鉞、授大連曰「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」

訳文
継体天皇は詔して言われた。
「良将は出陣に当たっては将士をめぐみ、そして攻める勢いは怒濤や疾風のごときである」、また「大将は兵士の死命を制し国家の存亡を支配する。謹んで天誅を加えよ」と。天皇は将軍の印綬を大連に授けて、「長門より東方は我が治めよう。筑紫より西はお前が統治せよ。賞罰も思いにままに行なえ。いちいち報告する必要はない。」と言われた。

「筑紫より西はお前が統治せよという表現の意味は分かるが、何故このような表現するのか不思議です。磐井を滅ぼせば将軍としての任務は完了するはずだが、「占領した筑紫はお前に与える」と聞こえます。これは、暗に物部氏が九州に権益を保有していたことを前提とした発言と取れない事もない。また、この檄文の前には、磐井征討将軍の人選記述があり、大伴連金村物部連麁鹿火を継体大王に推薦している場面もある。
この檄文の記録には原形があります。中国の唐代類書(辞典)である『芸文類聚』から文章を引用し、人物名を入れ替えただけで使用しています。漢文音韻学者の森博達博士によれば「日本書紀巻十四~二十一」は中国人続守言によって執筆されたと推定している。従って巻十七継体記も該当します。中国知識人であれば中国文献に精通しているのは当然とも言えましょう。
継体大王が、磐井征討に、大伴連金村物部連麁鹿火を派遣したのは、大伴氏の家記にも記録があるので確かなような気がします。しかし、歴史学者の多くは、この檄文を書紀の創作と指摘する。私自身も継体大王の檄文内容は事実ではないと思います。歴史的に見ても磐井の乱以降に物部連麁鹿火が九州を自ら統治した実績が無いからです。しかし重要なのは、そこではない。檄文を創作した7~8世紀の日本書紀編纂者の意識に立って考える必要があります。つまり書紀編纂の時代には、物部氏の祖先が九州を本拠地としていたと知られていた可能性があるからです。だからこそ、この檄文が創作されたと考えられる。全ての国土を統治する大王が、臣下である征討将軍に、例え勇気付ける場面でも「お前が統治せよ」とは普通は言わない。大王家朝廷は、自身が覇権を握る以前の物部氏の本来出生地を認識していたのではないか。そう考えると継体大王に「長門より東方は我が治めよう。筑紫より西はお前が統治せよ。」と発言させた意味が理解できる。

物部氏の始祖はニギハヤヒです。彼は天孫であると、日本書紀にも記録されている。そして神武天皇に先駆けて畿内に入っている。物部氏の家記は現存していないが、先代旧事本紀という9世紀に成立した歴史書がある。神代から推古天皇に至るまでの歴史を、古事記、日本書紀、古語拾遺などを参考にして作られた偽書と言われている。特に天孫本紀国造本紀には、尾張氏物部氏の伝承等古い資料に依拠していて、記紀にはない記述が見られます。作者は物部氏の子孫である可能性が高い。偽書ではあるが、この文書は物部氏の家記(墓記)と類似していた可能性があると考えています。序文だけは明らかにデタラメですが、不自然なのは限られた部分だけであり、記紀に準じる史料価値を認めてもよいと思います。物部氏の出生を伝承逸話的に包含している可能性があるからです。 

記紀にはニギハヤヒの天孫降臨伝承を記載しているが、その経緯は詳しくない。しかし、先代旧事本紀にはかなり詳しく記述されています。ニギハヤヒに随伴して船で航海した配下の氏族名が詳細に列記されている。「降臨に随伴した」という記載は現実の地上世界での移住を表現している可能性が高い。天から地上に降るのに、わざわざ船団を組み、氏族の役割分担まで記載する必要性はないからです。また船団を必要とするのは、氏族の故地がヤマトと地続きの地域ではない事を示しています。
物部氏の本拠地は近畿地方では、北河内、中河内の旧大和川の下流域にあたります。しかし、その同族は西国に広く分布する。特に、九州北部に分布するが、福岡県の遠賀川水系筑後川水系には濃密に居住しています。さらには、肥前・豊後、四国に渡って伊予・讃岐、近畿地方の紀伊、大和に居住地は広がる。

筑後国・・・三瀦(みづま)、山門、御井(みい)、竹野、生葉(いくは)
筑前国・・・嘉麻(かま)、鞍手(くらて)
肥前国・・・三根(みね)、松浦、壱岐

この移住展開を暗に示すのが、物部氏の祖ニギハヤヒの降臨~随伴航海伝承である可能性はかなり高い気がします。「ニギハヤヒの東征」と形容される場合も多いが、実態は氏族の繁栄と増大を基盤とした移住であった可能性が高い。天神本紀にみえるニギハヤヒの降臨に供奉した集団には、北部九州と畿内の地名を負ったものが多い。その中には九州と畿内の両方にある地名の場合も見られます。この事実は旧大和川下流域を本拠地とする物部氏が北部九州と何らかの地縁があることを示している。ただ、移住だとしても実年代については、はっきりと分かりません。弥生時代後期~古墳時代前期初頭に掛かるのかも知れません。


物部氏の物部とは部民としての「物部」を統率する伴造氏名(うじめい)です。物部氏が成立したのは古墳時代中期以降だと思いますが、大化改新以前は物部連伴造として管掌してきた。物部氏は、その数が多かったので、物部八十氏、または、物部百八十氏などと呼ばれ事もある。配下の実務を担当する氏族が数多くいるためだが、統率する伴造物部氏(連姓)の数は少ない。また、配下氏族は自立しており、結びつきは強くはなかったらしい。擬制的に結びついた技術屋集団であって、全体が纏まりのある本来の氏族とは言えないグループです。
記紀、旧辞本記の神話の大元になっているムスヒ神話を見ると、7~8世紀の物部氏が連姓氏族として扱われている状況は非常に矛盾しています。物部氏は大王家と同格のニギハヤヒを始祖としながら職掌氏族なのです。
これに対して、古物部氏である本来の物部氏の存在があったという説がある。事例を上げると穂積氏です。この氏族はニギハヤヒの後裔である大水口宿禰を遠祖としている神別氏族です。系図学者の室賀寿男氏は穂積氏から別れたのが物部氏だという説を上げている。穂積氏は奈良県の唐古・鍵遺跡の付近が本拠地です。なお穂積氏は伴造物部氏のように連姓ではなく、後に朝臣の賜る臣姓を持っている(後の天武朝には物部連、穂積臣は朝臣姓に改姓する)。
ちなみに他にも「積(ツミ)」を含む氏族には、出雲積鰐積津積阿曇などがいる。ツミは大綿津見神の「津見」と同意です。「海に住む人」を意味するという海神なので、「ツミ」氏族は海神族と見られます。従って、本来の物部氏は海神族の一派なのかも知れません。海神族は瀬戸内海、近畿、東海地方を含む広範囲に定着しています。ヤマトに定着した穂積氏や、その分派がニギハヤヒを祖または遠祖して後に物部氏となった可能性があるでしょう。
ちなみに津積尾張氏の原始姓であり、ホアカリノミコトを祖神としている。先代旧事本紀では、ホアカリノミコトニギハヤヒは同一神としています。つまり両氏族は祖神を共有している。古物部氏尾張氏も海神族として同族の可能性は高いと思います。海神族の故地は中国南部、東南アジア沿岸と言われているが、日本列島では九州に当初定住し、後に東へ拡散した可能性があるでしょう。


歴史学者によると、物部氏の九州での広がりは、通説的に以下の2つの要因と認識されている。
①朝鮮半島への進出に伴う氏族移住
物部氏が圧倒的に多いが、その他にも、紀氏吉備氏上毛野氏大伴氏など、日本書紀の朝鮮関係記事に多く現われる諸氏族が、瀬戸内から北部九州の海岸沿いに濃い分布を見せている。
②磐井の乱での物部氏の九州出征の功績
畿内から出征した物部兵士が移住した訳ではなく、磐井鎮圧の功労者であった物部氏に対して朝廷は九州への部曲(かきべ)設置を広範囲に認めた結果と考えられる。

確かに上の2つの要因が影響しているのは事実だと思います。しかし、これが物部氏の本来の居住地が北九州である事を否定する事にはならないと思う。古い時代に九州北部から東に徐々に移住を繰り返して近畿地方まで広がり、大王に臣従する。その後の政治情勢で九州にリターンした可能性も十分考えられます。

また、有名なことだが、九州と近畿地方の間では顕著な地名類似現象がある。これは偶然とは考えられないので、人の移動による影響と推定できます。しかも、両地域とも広範囲におよび、特定氏族だけの移動・移住に閉じていないことが想定される。

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由2
↑九州と近畿地方の地名類似と位置関係

この現象の解釈には4つの要因説がある。いずれも人の移住・移動を要因としている点では共通している。
①朝鮮半島進出と磐井の乱の影響説
前述した朝鮮半島への進出や磐井の乱による影響での氏族移住です。この結果だとすると、地名の類似は5世紀後半~6世紀中葉ころに畿内の地名が北部九州に移ったという事になります。
②邪馬台国東遷説
これは説明するまでもないが、九州の邪馬台国が東遷してヤマト王権を作ったという説です。九州から畿内へ地名が移ったことになります。
③神武東征説
これも説明するまでもない。九州から畿内へ地名が移ったことになるが、類似地域の中心が日向三代が治めた地域と異なるという疑問もある。
④ニギハヤヒの移住説
弥生時代に北部九州で興った物部氏の祖先が、瀬戸内海を東遷・移住して畿内に到達し、後にヤマト王権に臣従したとする解釈です。北部九州から畿内へ地名が移ったことになります。

以上の他にも、ヤマト王権の九州王権簒奪の一環というような説もあるらしい。ニギハヤヒの移住史実性を支持する自分としては、説を支持したいところです。しかし、この説だけで前述の全ての地名類似の要因と言うには根拠が弱い気がします。の朝鮮半島進出と磐井の乱の影響説は説得力があり、可能性が高い気もする。はベクトルが異なるので、九州と畿内の地名類似現象については評価を保留します。

以上、「天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由」の考察に物部氏の故地を持ち出したのは理由があります。記紀の神武東征創作には下書きがあり、それは物部氏の祖ニギハヤヒの東征ではないかと考えているからです。本題は次稿で記載します。


次稿に続く

【参考・引用】
■六国史 テキスト版
■日本書紀 全現代語訳(上下巻) 講談社学術文庫        宇治谷孟
■口語訳 古事記         文藝春秋             三浦祐之
■敗者の古代史         カドカワ中経の文庫 森浩一  
■ホームページ「オカルトオンライン」


日本史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
関連記事
No Subject * by 至柔
物部氏が天皇家と別の天孫降臨神話を持っていたという点は興味深いです。『日本書紀』巻3神武紀を見ると、神武天皇側と饒速日命側が互いに相手を天孫だと認めていますから、天皇家は物部氏が天孫の末裔であることを承認していたのでしょうね。

ニギハヤヒの東征を下敷きにして、神武東征が創作されたという説はおもしろいですね。

ただ至柔は、『日本書紀』にあるように、物部氏の故地は奈良県北西部(奈良市西部から生駒市あたり)なんだろうと思っています。

大塚初重著『邪馬台国をとらえなおす』や白石太一郎著『古墳とヤマト政権』に、3世紀、近畿から九州への土器の移動はあるが、九州から近畿への土器の移動はほとんどないと書いてあったので、神武東征はなかっただろうと思っていますし、ニギハヤヒ東征もないのではという気がします。

ニギハヤヒの東征、あるいは物部氏の移住があったとすれば、なにかしらの考古学的証拠があるといいですね。

『先代旧事本紀』という書物のことはよく知らなかったのですが、何かしらの史実を伝えている部分もあるかもしれないとしたら、ちょっと気になる資料ではあります。

Re: No Subject * by 形名
至柔 さん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私も「物部氏」の故地は奈良西部を含む大和川中下流域だと思います。ただ、物部氏というのは、本来、物作りを担当する伴造氏族の分類名であって。固有の氏族名ではありません。氏族形成が進む段階を経て物部氏という固有名に近い呼称グループとして成立したと考えています。後期物部氏が成立したのは古墳時代中期以降だと思いますが、その氏族故地は大和川流域と私も捉えています。では、本来の物部氏とは、どの氏族なのかという事になりますが、筆頭候補は穂積氏です。他にも出雲積、鰐積、津積、阿曇などが候補です。名前を見ると俗に海神族といわれる氏族群を含んでいるのが特徴です。穂積氏は奈良県の唐古・鍵遺跡の付近が本拠地とされている。私は穂積が本来の物部の宗家だと考えています。穂積は伴造物部氏のように連姓ではなく、後に朝臣の賜る臣姓豪族です。この豪族達の移住は、時代的には弥生後期~古墳時代前期を想定しています。当時の氏族名は、前述氏族の祖先(原始的姓氏)と考えている。だが確信がないので本稿では記載していません。九州に割拠している物部氏は一般的に言われているように磐井戦争の功績により6世紀に畿内から移住した物部の部民や部民管掌者一族だと思います。
なお、考古遺物からの評価は、本稿の第6稿で纏めています。おっしゃるとおり考古遺物のベクトルは西向きであり、その点では、全ての東向きの移動説は否定されると思います。ただし、移住に仕方にもよるのではないかと。弥生時代後期の東海地方西部から中部・関東・東北に向かったような人の大移動では生活土器遺物が残りやすい。しかし、小集団の移住が、断続的、長期間、短距離で続くような移住の仕方では、生活土器の形態は出身地の特徴が残りずらく、検出されにくいと考えています。従って従来考古実績だけで、人の東進を100%否定するのは危険かなとも思います。

Comment-close▲

2021-04-24 (Sat)

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(2/6)「風土記逸話の改竄と相違点」

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(2/6)「風土記逸話の改竄と相違点」

前稿からの続き(1)風土記逸話の改竄日向国には地域の伝承逸話を纏めた風土記があります。風土記ですから、基本的には記紀神話のように大王家の正統性を謳う目的を持って制作されたものでありません。土地に長く伝わる逸話や地名由来を集めたものです。従って、大王家の祖先が、この国を治め、何かの事情でヤマトに国替えをしたとすれば、それに関係する伝承が残っていても不思議ではない。実際に日向国風土記にはニニギノミコトの...

… 続きを読む

前稿からの続き

(1)風土記逸話の改竄
日向国には地域の伝承逸話を纏めた風土記があります。風土記ですから、基本的には記紀神話のように大王家の正統性を謳う目的を持って制作されたものでありません。土地に長く伝わる逸話や地名由来を集めたものです。従って、大王家の祖先が、この国を治め、何かの事情でヤマトに国替えをしたとすれば、それに関係する伝承が残っていても不思議ではない。実際に日向国風土記にはニニギノミコト天孫降臨が描かれています。しかし、この記述が不審であり、記紀神話に合わせて後から改竄された可能性がある。日向国風土記は完本ではないので、100%確実とは云えないが、本書だけでなく、他の九州風土記にも日向三代のような天孫は現れない。九州島の風土記伝承には、景行天皇ヤマトタケル神功皇后等しか登場していない。これを踏まえれば、九州を出身とする大王家祖先の話など無かった可能性が高いと思います。状況証拠ではあるが、大王家の九州出身を史実と考えるのは無理があります。以下、具体的な記述について観察します。

日向国風土記逸文「智鋪」の記述
日向国風土記逸文「智鋪」は、日向国の智鋪(ちほのごう)の地名由来の記述です。
※知鋪郷(比定地:宮崎県西臼杵郡高千穂町)

天照大神の孫、瓊々杵尊(ニニギノミコト)が天の磐座を離れ、天の八重雲を押し開き、勢いよく道を開いて進み、日向の高千穂の二上の峰にお降りになった。時に、空は暗くて昼夜の区別がなく、人であろうが何であろうが、道を失って物の区別がつかなかった。その時、大鉗(おおくわ)・小鉗(こくわ)という二人の土蜘蛛がいた。彼等が言うには「瓊々杵尊が、その尊い御手で稲の千穂を抜いて籾(もみ)とし、四方に投げ散らせば、きっと明るくなるでしょう」と。そこでその通りに多くの稲の穂を揉んで籾とし、投げ散らした。すると、空が晴れ、日も月も照り輝いた。だから高千穂の二上の峰という。後世の人が改めて智鋪と言うようになりました。

評価
太字で表記した高千穂への降臨描写日本書紀の「天孫降臨」記述と非常によく似ている。単語の一致率は80%に達する。古事記の記述とも内容的に違わない。つまり、記紀の内容が日向国風土記に反映されていることは間違いない。では、記述の特異性について具体的に評価します。

(a)天孫が降臨するが、活躍の実態がない
風土記の中に出てくる古代日本の皇孫といえば、景行天皇ヤマトタケル、または神功皇后と相場が決まっている。しかし、日向国風土記にはニニギノミコトが出てくる。この事だけでも奇異に感じます。なぜなら、他国の風土記にも記紀の日向三代に関する人物は登場しない。日向国風土記にのみニニギノミコトの天孫降臨が唐突に現れるのです。これは、本来の風土記にはニニギノミコトの話など無かった可能性が高い。天孫降臨の話が元からあったのなら、その後の天孫系譜の活躍話が無いのは全く不自然です。昼夜を分けるためだけに天孫降臨したとは思えません。

(b)敵対氏族の土蜘蛛が天孫に従順である
土蜘蛛は、天孫や天皇へ恭順しない土着豪族などの蔑称です。土蜘蛛は風土記定番の登場人物ですが、殆どが天孫、天皇に対して敵対的に行動します。風土記全体では、40人くらいの土蜘蛛の名前が上がりますが、天孫に従順なのは、日向風土記に現れる土蜘蛛大鉗小鉗と、肥前国風土記の中に出てくる女土蜘蛛大山田女狭山田女だけです。両書の土蜘蛛が天孫に対して協力的なのは、風土記の中の例外ではなく、改竄によって主人公が入れ替わっているために協力者にされたと見たほうが考えやすい。何故なら、土蜘蛛自体が「皇孫に敵対する者」の象徴であり、時や地域によって協力者であったり、敵対者であったりする事は概念的に矛盾するのです。改竄した時に、本来は協力者として別な人格を起こすべきであったが、面倒な作業なので流用されたと見ます。

(c)天孫降臨時に地上は暗黒である
日本書紀の神話では、降臨以前に天岩戸に隠れた天神アマテラスの再生があります。アマテラスが天岩戸にこもったとき高天原も地上も暗黒になった。神々は協力してアマテラスを引き出します。そのとき復活したアマテラスは日神として再生しており、地上は再び明るさを取り戻している。日本書紀にもニニギの降臨時はまだ雲が厚くて薄暗かったという描写はあるが、暗黒ではない。一方、日向国風土記ではアマテラス子孫であるニニギが降臨する地が昼夜の別れていない暗黒の世界と描写されている。おそらく、風土記の本来の話は、書紀の天孫降臨とは無関係な話であり、他の人格者が稲籾を撒くことで昼夜を分けた逸話であったと推定できます。

日向国風土記逸文「智鋪」の原形推定
前項の観点から、日向国風土記ニニギノミコトの天孫降臨は、本来は天孫ではなく、出雲国のオオクニヌシのような国津神が主人公であったと思います。つまりすり替えられたのです。国津神は高天原とは無関係で、日向国を創生した国土神です。土蜘蛛が従順であるのは、国津神土蜘蛛の祖神・守護神であったからだと思います。他の多くの土蜘蛛と同様に、大鉗小鉗も天孫に従順であった訳ではない。また、籾を撒くことで昼夜を分けたのは国津神の功績であったのでしょう。現日向国風土記では土蜘蛛がニニギに籾を撒くことを教えるが、本来は国津神が稲作農耕を土蜘蛛等に教え、文化を開いたことを象徴しているように思います。
そもそも、地方に根ざす風土記神話には天神という認識があったのか疑問です。7世紀以前では、全て自然の中に宿る八百万神であったのではないか。天神の概念がなければ天孫降臨もあり得ない。天神は記紀神話で発明された神の新しい概念でしょう。天神が国津神を統括することで、天孫子孫である天皇が人民を統治する正当性を示すために創作されたものと思います。そう考えると、中央政治とは無縁の地方逸話に天孫ニニギノミコトが現れる事自体が不審なのです。


(2)景行天皇、ヤマトタケルの九州征討の相違点
記紀におけるヤマトタケルは日本各地を平定した英雄です。しかし九州風土記におけるヤマトタケルの活躍は表記の有無という点では日本書紀と一致する。しかし、九州におけるヤマトタケルの活躍は記紀の記述とはだいぶ異なる。記紀の九州平定話は征討対象が熊襲のみであり、その途次などは一切記載されていない。一方、肥前国風土記には熊襲については一切記述されず、土蜘蛛を征討しながら各地を巡行する存在として描かれている。これは景行天皇の巡幸話の場合も同様です。風土記の土蜘蛛常連登場者であり、土蜘蛛が砦を作ったという話は、風土記ではよく見られる。熊襲土蜘蛛の範疇だと言えば矛盾はないが、風土記の土蜘蛛は全国の風土記にも登場する共通の反大王勢力概念です。九州南部を具体的に指す熊襲とは位置付けが異なる。

【事例】
肥前国風土記には以下のような郡名の由来逸話が記載されている。
昔、この村に土蜘蛛がおり、堡(をき=砦)を作って隠れ、天皇の命に従わなかった。日本武尊の巡幸時、全てこれを罰し滅ぼした。よって小城郡と名付けた

豊後国風土記には景行天皇が征討後に凱旋した話として、日田郡名の由来話がある。
景行天皇が、この郡にやってきたとき、久津媛という神が人の姿をして出迎え、地域の状態を明瞭に報告し、それによって久津媛の郡というようになり、訛って日田郡というようになったとある。また、土蜘蛛が築いた砦が大分県日田市石井の地名由来というのもあります。


九州の風土記に登場する景行天皇ヤマトタケルという存在は、皇統人格というよりも、地方の土蜘蛛を征討しながら巡幸する英雄譚として描かれている。しかし、記紀の描写では、これらの話は熊襲(熊曾)と戦った英雄として記述しています。これは天孫である日向三代隼人(熊襲)を同族とする同じ記紀神話とは内部矛盾している部分です。
背景にあるのは、大王家と隼人を同族とする思想統制の失敗にあると思われる。出自を共有するという懐柔策にもかかわらず、隼人の反抗を押さえきれない事実が影響している。朝廷はやむなく、矛盾していても、地方を平定する勇猛将軍像として仮託されたヤマトタケルに熊襲征伐の役目を与えたと考えます。隼人の反抗のピークは正に記紀編纂の最盛期に当たります。言い換えれば、大王家と隼人の関係は侵略者と被侵略者の関係以外の何者でもないと理解できる。

※隼人と熊襲の言葉の意味は多々あり、定説はないと考えている。隼人はヤマト朝廷に帰属した人々を指し、熊襲は南九州地域、または、そこに居住する人々を指すという説もある。また熊襲は伝承上の架空国とする説もあります。ただ、本稿主旨には影響は少ないので、ほぼ同義として扱っている。


次稿に続く

【参考・引用】
■六国史 テキスト版
■日本書紀 全現代語訳(上下巻) 講談社学術文庫        宇治谷孟
■口語訳 古事記         文藝春秋             三浦祐之


日本史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
関連記事
2021-04-20 (Tue)

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(1/6)「大王家に執拗に敵対する隼人」

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由(1/6)「大王家に執拗に敵対する隼人」

天孫降臨と其れに続く神武イワレヒコの東征は、史実を反映していると考える人は一定数いらっしゃると思います。在野のアマチュア歴史家の中にも神武イワレヒコが実在し、東征した証拠はイワレヒコの足跡として各地に数え切れないほど残っていると主張しておられる。しかし、それらは創作された可能性が高いと思います。江戸時代中期から後期にかけて、記紀の内容は国学者、文献学者による解釈書によって、一般民衆にも徐々に知られ...

… 続きを読む

天孫降臨と其れに続く神武イワレヒコの東征は、史実を反映していると考える人は一定数いらっしゃると思います。在野のアマチュア歴史家の中にも神武イワレヒコが実在し、東征した証拠はイワレヒコの足跡として各地に数え切れないほど残っていると主張しておられる。しかし、それらは創作された可能性が高いと思います。江戸時代中期から後期にかけて、記紀の内容は国学者文献学者による解釈書によって、一般民衆にも徐々に知られるようになります。証拠の類は、それを契機として記紀神話・伝承に基づいて創作されたものが多いと考えています。少々過激な言い方ですが、いわゆる郷土自慢、町おこし捏造文化の流れと同類と言ってもよい。これらの中には東征するイワレヒコに関連する神社・社伝等も含まれます。

神社の中には本当に古代に遡るものもあります。しかし、7世紀以前に遡る古社を自称している神社について、少なくとも平安初期以前の文献に神名や信仰した氏族が実在したのか確認が必要だと思います。また、そこに祀られている祭神は、当初の祭神と必ずしも同じだとは限らない。中には時代変遷による国家神道の圧力により、祭神が入れ替わってしまった神社も多数存在します。神社の創建経緯を見極める必要があります。
古来、日本人は山や草木、巨石といった自然に魂が宿ると信じ、八百万の神と言われる多くの神々を崇拝してきた。これは精霊崇拝信仰です。また、民衆の中には祖先を神として祀る祖霊信仰も存在した。精霊崇拝祖霊信仰の二つが神道の起源になっている。両者は融合し、後に、神社の原初形態である産土神社(うぶすなじんじゃ)が生まれてくる。だが、現在に伝わる神社・祭神は祖霊信仰産土神社は少し形態が異なる。祭神とは、氏族集団という組織が発展した過程で、集団の信仰面から生まれてきたものだと思います。特定の氏族集団を結束するための信仰的象徴として存在する。それは、必ずしも祖霊信仰のように血縁を意味していない。従って、氏族勢力の消長によって神社の存立も大きく影響を受けている。
単一氏族というものは歴史的に見ても繁栄するのは長くて数百年です。衰退していくのは、死に絶える事ではないが、分化して埋没していく。従って、氏族と神社との関係は、時代を経るに従って疎になっていく傾向がある。一方で、神社は特定氏族との縁が薄くなっていくと、氏族結束の象徴から離れ、独自の商業主義に走るところが現れる。つまり、一般民衆の崇敬を集める形態に変化していく神社が現れるのです。その過程では、虚飾、捏造が更に進み、今に至るのが現実だと思います。社伝など、安易には信じられないケースもあるという事です。特に、明治初期までは小さな社であったものが、戦前の国家神道の発展に伴って、社格が著しく上昇した神武関連神社は多数あります。


前稿「神話の形成と目的(1~3)」では、記紀神話天孫降臨~神武東征が創られた目的論について、その背景を推定してきました。結論としては神武イワレヒコが九州出身という話は政権に対する反対勢力を服属させるための精神的な仕掛けだと結論付けた。言い換えれば、神武イワレヒコが九州出身という話も、神武東征話も史実ではなく創作であるという考えです。
ちなみに、創作の主体者は7~8世紀の朝廷官吏と思われるが、誰なのかは分かりません。執筆者は推定されているが、構想を練った本人ではないと思います。日本書紀紀年構造は非常に複雑で、かつ、計算され尽くされた構成となっている。従って主体者は、よく言われる藤原不比等のような政治家とは考えにくい。日本書紀執筆の全体統括者は非常に頭の切れる文官か、学者のような人物だと考えます。

話の前置きはこれくらいにします。本稿では、天孫降臨~神武イワレヒコの東征が史実ではないことを、前稿「神話の形成と目的(1~3)」とは違った観点も含めて考察してみたいと思います。


(1)なぜ隼人は大王家と執拗に敵対するのか?
大王家は本当に南九州出身者だと考える人は結構いるかも知れません。歴史学者でも極少数だがいらっしゃいます。もし日向三代が九州出身者なら、大王家は隼人とは同じ国の氏族ということになる。また、記紀神話にあるように天孫子孫である海幸彦・山幸彦隼人の始祖であるなら、当然、大王家とも同族になります。ではなぜ隼人は、7世紀から9世紀に至るまで一貫して、執拗に大王家=ヤマト政権に反抗するのだろうか?これは大きな矛盾なように感じます。隼人も東北蝦夷も、投降した人物は朝廷に臣従していることが記録されている。しかし、現地の氏族総意が臣従していないのは明らかです。

日本書紀崇神紀には近畿山城においてタケハニヤス王とその妻吾田媛が反乱を起こし大規模な内乱に発展した記録があります。吾田媛の出自は大隅隼人です。崇神天皇自体を実在とは考えていないが、記録は朝廷軍と反乱軍の動きも詳細であり、地理的な描写も矛盾しない。何らかの事実を基に記録された可能性があります。

8世紀の南九州熊襲地域には、日向国(南部)、薩摩国大隅国多禰国(たねのくに)の4つの国が置かれています。ヤマト朝廷の支配に対する隼人熊襲)の抵抗が初めて記録されるのは、続日本紀の西暦700年6月3日の条です。「武器を持って朝廷が派遣した国使の活動を妨害したため、筑紫の惣領(太宰府)に勅を下し処罰した」と記す。また、西暦702年8月1日の条で「薩摩多禰王化に服さず、命に逆らう。是に兵を発して征討し、戸籍をつくって常駐役人を置く」とある。これらを見ると、ヤマト朝廷は武力を使って先ず薩摩国を設置したようです。さらに、西暦713年4月3日の条で、「日向国の肝坏・贈於・大隅・姶鑼の四郡を割きて、始めて大隅国を置く」と記している。薩摩国の次に侵略したのは大隅国です。西暦720年2月29日条には「大宰府が朝廷に隼人反きて、大隅国守を殺せりとの奏言を発する」とあります大隅国では中央派遣の国司の支配に対して激しい抵抗が発生している。隼人律令制度の浸透に対して強い抵抗を示しているのです。特に西暦720年の軍事衝突は1年と数か月にも及びます。「首を斬られた者や捕虜になった者は合わせて1400余人」と続日本紀に記録されている。ヤマト政権軍の投入も数派に及ぶ規模であったことが記録から伺え、鎮圧には1年以上もかかっている。抵抗の激しさを物語っています。隼人は征討軍に平定され、一旦は服従しますが、暫くの間は両者の緊張は続いたようです。また反乱以外にも反抗的な動きがあったことは推測できます。

これらの事実は、天孫である日向三代隼人とは全く無関係な氏族であることを物語っている。両者の関係悪化は、おそらく、ヤマト政権隼人に服従・朝貢を要求したことに始まり、後には律令制度への組み込みを迫った時点で関係が破綻したのでしょう。勿論、同族でも時にはトラブルを起こす可能性はありますが、同一氏族の中で、こうも長期に渡って敵対し、侵略する事例はない。記紀神話に記載された大王家の出自が南九州であり、隼人とは同族とする伝承が虚偽であるのは決定的だと思います。

九州が律令制度に組み込まれたのは比較的早い時期であったのは残存する文献遺物で分かっています。しかし隼人族に関しては例外です。隼人が律令制度に組み込まれるのは、他の地域から100年遅れる西暦800年頃になります。

天孫降臨~神武東征が史実となり得ない理由
↑鹿児島県霧島市隼人町の隼人塚(HPかごしまの旅より引用)

残念ながら、隼人の抵抗を直接示す考古遺物は発見されていません。しかし、敗れた隼人の供養のために建てられたと伝えられる隼人塚に痕跡らしきがあります。現在、霧島市国分と霧島市隼人町の2ヵ所に隼人塚がある。隼人塚築造は、8世紀の初頭に、隼人の反乱による死者の慰霊のために作られたという説がある。しかし、発掘調査の結果、かつてこの地にあった正国寺の前身寺院の仏塔という説が有力です。築造時代も平安時代後期の可能性が大きい。この仏塔が隼人の供養のために建立された証拠はないが、可能性はあると思います。大規模反乱から時代は下るが、隼人の抵抗は、現地で長らく記憶されたのは間違いない。西暦720年の反乱を最後に隼人の抵抗は収束していく。しかし、当地への律令制度の本格導入は9世紀になります。この時代に入ると隼人の朝貢も停止され、班田収受も施行されるなど、南九州も律令体制に組み込まれていく。その後は、文献上、南九州の住民を隼人と呼ぶこともなくなっていきます。我々は、この戦いを南九州の反乱と捉えがちです。しかし、支配地である行政区にヤマト朝廷朝貢を求める事は矛盾する。実態は、隼人族薩摩大隅国は独立国家であらんとし、侵略するヤマト国と生存を賭けて戦ったのだと思います。その両国が出自を共有する同族であるはずがありません。



次稿に続く

【参考・引用】
■六国史 テキスト版
■日本書紀 全現代語訳(上下巻) 講談社学術文庫        宇治谷孟
■口語訳 古事記         文藝春秋             三浦祐之
■ホームページ「かごしまの旅」


日本史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
関連記事
No Subject * by 至柔
「神武イワレヒコが九州出身という話は政権に対する反対勢力を服属させるための精神的な仕掛け」という説に賛成します。

至柔は以前、岡田英弘『倭国』(中公新書)の、「天孫が天上から日向の高千穂に降臨するのは」、「皇室と隼人とを同祖、したがって同じ日本民族と主張するために作られた話」(201ページ)であるという記述を読んで、なるほどと思いました。

隼人を取り込むために、大王家と隼人が同祖だという物語を作ったのだと、至柔も思います。

隼人が大和朝廷に反抗するのは、大和と言語も文化も異なっていたからではないでしょうか。

言語も文化も違う人々と手を携え、団結するためには、祖先を同じくするんだという物語が必要だったのだと思います。

Re: No Subject * by 形名
至柔さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

岡田英弘さんの当該記述には気が付きませんでした。最も、読んだのはだいぶ昔なので
忘れている部分が多いかも。もう一度、眼を通してみます。
隼人の文化人類学的な評価については、詳しい本を読んだ事が無いのですが、文化性は
ヤマトとはだいぶ違った事は想像できますね。それは東北蝦夷も同様かと思います。
「熊襲」という蔑称と思われる呼び名からも推定できますね。

Comment-close▲

2021-04-05 (Mon)

考古遺物の年代測定(3/3)「ウィグル・マッチング法」

考古遺物の年代測定(3/3)「ウィグル・マッチング法」

前稿からの続きウィグル・マッチング法は”放射性炭素14”年代測定の応用手法です。対象試料から、時代差の分かっている部分を複数切り出し年代測定を行い、その変化パターンと標準スケール化された炭素14変化パターンを比較して年代照合する方法です。原理は単純な”放射性炭素14”年代測定法とは全く異なるので、独立した測定方法として記載しています。実態的には、木材の年代を測定する場合に使われるケースが多い。木材には年輪が...

… 続きを読む

前稿からの続き

ウィグル・マッチング法”放射性炭素14”年代測定の応用手法です。対象試料から、時代差の分かっている部分を複数切り出し年代測定を行い、その変化パターンと標準スケール化された炭素14変化パターンを比較して年代照合する方法です。原理は単純な”放射性炭素14”年代測定法とは全く異なるので、独立した測定方法として記載しています。

実態的には、木材の年代を測定する場合に使われるケースが多い。木材には年輪があり、時代差が1年毎に明確に分かるので、確実な試料が得られるからです。しかし、木材ならば、前述の年輪年代法があるではないかと思われる方がいると思います。しかし、年輪年代法は樹皮を含む100年分の資料が必要です。また、標準スケールと照合しても明確な一致点を特定できないケースもある。従って、試料条件が良ければ、先ずは年輪年代法で測定を試み、結果を得られなかった場合にウィグル・マッチング法を行うケースが多いようです。
この測定法では、試料木材から、連続する10年分の年輪を60~70g以上、全部で40~50年分以上採取できれば可能です。つまり、1試料からの測定点数は5点以上あればよい。大気中の炭素14濃度は時代毎に不規則に変化しているため、ウィグル・マッチングでは標準炭素14変化パターンと比較照合して年代測定を行う。標準パターンは、予め年代の分かっている木材試料を測定して長い年月分が作成されています。そして、遺跡出土の木材を測定した変化パターンと照合する。一致する部分をあれば、出土木材の枯死した年代と判定します。これは年輪年代法における標準年輪変化パ ターンの代わりに、炭素14濃度の標準変化パターンを用いたと考えればよい。ウィグル・マッチング法年輪年代法と類似した測定技術なのです。

対象試料は木材の場合、年輪が計測できる生材と炭化材が対象となります。樹皮直下の最外年輪が確認される木材か、それに近い部位の辺材のほうが測定精度は上がります。この点は年輪年代法より条件が緩い。また、測定する年輪数が多いほど、精度の高い年代が得られるが、標準炭素14変化パターンによっては少ない年輪数でも絞り込める場合もあると言います。
試料の前処理工程は”放射性炭素14”年代測定法と同じですが、計測箇所が多いので工程処理には時間を要します。重要な点ですが、”放射性炭素14”年代測定と同じく、約5点の試料測定値は標準較正曲線を使って較正を行います。その後に、試料の変動パターンと標準炭素14変化パターンとの照合を行うが、これは年代較正解析ソフトウェアというコンピュータソフトで処理するそうです。

測定の精度は、標準スケールである標準炭素14変化パターンの正確さで決まります。10年単位で作成された標準スケールであれば、±5年の精度で年代決定を行うことが可能です。”放射性炭素14”年代測定法から見ると飛躍的に精度が高くなります。火山の噴火時期の計測には、この方法が採用されている。火山災害で枯死、埋没する樹木が多いためです。また、もし1年間隔の標準スケールがあれば、誤差ゼロで測定が可能となります。しかし、何百年、何千年の標準スケールを1年間隔で作るには膨大なコストがかかり、現実的ではないようです。現在は国際標準の炭素14変化パターンが使われる事が多いが、日本固有の炭素14変化パターンもあります。使用するスケールが異なれば結果にも影響が出るので、標準スケールの選別は非常に重要なポイントになります。
※炭素14標準変化パターン(較正曲線)の代表例として、10年単位の[Stuiver1982;Stuiver andBecker1986]が使用されるケースが多い。

最後に、ウィグル・マッチング法で実際に測定した事例を記載します。以下の測定は、群馬県渋川市の寺院建設現場の地下から発見された倒木の試料です。倒木は榛名山二ッ岳の噴火で埋没したことは明確なので、噴火年代を測定することを目的に行っています。因みに計測プロジェクトリーダは群馬大学教育学部の早川由紀夫教授です。

考古遺物の年代測定9
↑地下から出土した炭化していない木材

考古遺物の年代測定7
              印  カエデ属の生材(BK926A)
              印  ブナ属の生材(BK926B)
              印  ハンノキの生材(BK928D)
※グラフ中の縦棒は標準偏差範囲.較正曲線は IntCal04を使用

出土した倒木3本は榛名山の噴火によって同時に埋没したと考えられる。従って、測定は3種の樹木各々の年輪から5年輪単位で試料を切り出し、”放射性炭素14”年代測定を行っている。一番右端のプロットが木材の最外年輪部に相当する。ハンノキは最外年輪部が抽出できなかったらしいので右端のデータがないのだと思います。得られた測定値を使ってウィグル・マッチングしてAD489-498(AD495/+3/-6)を得ている。誤差は標準偏差です。5年輪ずつ纏めての試料を切り出しているので、噴火を経験した最外年輪は、2年を加えてAD491-500(AD 497/+3/-6)になる。引用した図面に正規分布標準偏差1σ/2σの記述があります。従って、噴火年代は68%の確率で西暦491年から500年の間に入り、95%の確率で西暦487年から506年の間に入るという事だと思います。



【参考引用】
■株式会社パレオ・ラボ ホームページ
■榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の理学的年代決定  早川由紀夫 他

関連記事
2021-04-05 (Mon)

考古遺物の年代測定(2/3)「"放射性炭素14"年代測定法」

考古遺物の年代測定(2/3)「

前稿からの続き"放射性炭素14"年代測定法は炭化物や枯死した木材の中の放射性同位元素の含有量を測って年代を測定する方法です。自然界には常に一定量の質量数14の放射性炭素が存在しています。この炭素は非常にゆっくりと崩壊する性質を持っています。一方、生きている樹木の中には空気中と同じ比率で一定量の炭素14が含まれます。樹木が枯死すると以降は代謝がなくなるので、樹木中の炭素14は崩壊が進んだ分だけ量が減ります。こ...

… 続きを読む

前稿からの続き

"放射性炭素14"年代測定法炭化物や枯死した木材の中の放射性同位元素の含有量を測って年代を測定する方法です。自然界には常に一定量の質量数14の放射性炭素が存在しています。この炭素は非常にゆっくりと崩壊する性質を持っています。一方、生きている樹木の中には空気中と同じ比率で一定量の炭素14が含まれます。樹木が枯死すると以降は代謝がなくなるので、樹木中の炭素14は崩壊が進んだ分だけ量が減ります。この量を測定する事により、枯死した年代を測定します。

考古遺物の年代測定5
↑炭素14減少率と経過時間の関係
      ※横軸はT=木材枯死後の経過年
      ※縦軸のN=試料中の炭素14含有率、N0=木材生育時の大気中炭素14含有率
  
試料中の炭素14が元の状態から何%減少しているのか分かれば、木材が枯死してからの経過時間が得られるという原理です。しかし、この測定法は誤差が大きいので、必ず測定値の較正が必要です。というのは、大気中の炭素14量は一定ではなく、時代によって宇宙線の影響や、海洋に蓄積された古い炭素との循環で変動しているためです。この変動データは既に標準データ(較正曲線)として公開されており、これを使用して較正をかけます。

言葉では説明しづらいので、実際の測定事例を以下に示します。以下の図は、ある古文書の和紙2点(試料1/試料2)の炭素14年代測定値の較正結果を示している。

考古遺物の年代測定3
↑大気中の炭素14濃度較正曲線による測定値の較正例
          ※較正曲線=StuiverandPearson1993
          縦軸:放射性炭素年代[西暦1950年をゼロ起点とした前年代(calBP)]
          横軸:暦年代[西暦紀元を基準とする年代(calAD)]

↑縦軸が試料の炭素14年代測定値で横軸は較正された暦年代です。図中の破線は、大気中炭素14濃度に時代変動がないと仮定した場合の炭素14年代と暦年代の関係です。これに対して実際の暦年代と炭素14年代の間には較正曲線で示した関係がある。大まかに見ると、この時代は西暦1400年以前の試料は実際の暦年代よりも古い炭素14年代が検出され、西暦1400年以降の試料は、逆に新しい炭素14年代が検出される傾向があるようです。
試料1と試料2の各々3本の測定値横線のうち、中央の線が炭素14年代の平均値を示し、上下のものが誤差範囲を示す。横線と較正曲線との交点から横軸に垂線を下ろすことで暦年代が得られます。
■試料1=炭素14年代 845±51⇨較正後の暦年代⇨ 1166年(1220年)1262年【calAD】
■試料2=炭素14年代582± 47⇨較正後の暦年代⇨1310年()1353年、1385(1400年)1413年【calAD】
試料2に関しては較正曲線の凹凸により、推定暦年代が2箇所に分散する。このように較正曲線が短い期間で凹凸を繰り返す期間では、暦年代を狭い範囲に絞り込めない問題が発生する。

この測定法は、木材だけでなく、煮沸用土器に付着して焼付いた穀類や、吹こぼれて焼き付いた炭化物の年代測定にも使用できます。ほんの僅かな試料でも測定が可能なのが、この方法のメリットです。分析計に用いる試料は純粋なグラファイト(炭素)に換算して、0.2~2mgあれば可能です。土器形態からの実年代変換はこの方法で測定されている。
測定精度に関しては、較正をかけても誤差は比較的大きい。一般的に、数千年前までの比較的新しい試料については、±20~±35 年程度です。試料の年代が古くなると誤差はこれより大きくなる。これは、時間の経過で放射性炭素14の崩壊スピードが遅くなるので、測定誤差が増大するという原理的な問題です。特に、試料の前処理が悪い場合は、±100年の誤差が出ることもあるそうです。

なお、年輪年代法は年輪の幅を計測するので、試料を輪切りにすることを除けば、非破壊検査です。しかし、放射性炭素を使う測定では、試料の前処理工程があります。①試料のクリーニング、②試料の切り出し、③不純物の薬剤処理、④二酸化炭素の抽出、⑤二酸化炭素のグラファイト化を経て、やっと加速器質量分析計(AMS)で測定可能となります。

考古遺物の年代測定6
↑群馬県桐生市の㈱パレオ・ラボ所有の加速器質量分析計(AMS)

"放射性炭素14"年代測定は、測る試料の量に自由度があるので、もっとも測定実績が多い方法です。ただ測定には加速器質量分析計(AMS)が必要です。装置は高価であり、維持コストも大きい。一部の研究機関や民間調査会社で保有するが、その数は多いとは言えないようです。測定に掛かるコストも高額が予想されるので、測定されないまま保存されている考古遺物も多いと思います。


次稿に続く

【参考引用】
■加速器質量分析計による古文書の放射性炭素年代測定 名古屋大学年代測定資料研究センター


関連記事
2021-04-05 (Mon)

考古遺物の年代測定(1/3)「年輪年代法」

考古遺物の年代測定(1/3)「年輪年代法」

古墳などの遺跡の築造年代や、遺跡から出土する遺物の製作年代を測定する方法は幾つかあります。他稿で土器の編年分析については記載していますが、編年は時代の順序を明確化する手段であって、実年代が分かる訳ではありません。本稿では実年代の代表的な測定方法について触れています。ただ、私自身が詳細に把握している訳ではないので、平易に記述したつもりですが、分かりにくい説明になっている部分もあると思います。また、使...

… 続きを読む

古墳などの遺跡の築造年代や、遺跡から出土する遺物の製作年代を測定する方法は幾つかあります。他稿で土器の編年分析については記載していますが、編年は時代の順序を明確化する手段であって、実年代が分かる訳ではありません。本稿では実年代の代表的な測定方法について触れています。ただ、私自身が詳細に把握している訳ではないので、平易に記述したつもりですが、分かりにくい説明になっている部分もあると思います。また、使っている単語も自分の理解で表記してるので正しいかどうか分かりません。



測定対象が、木造物で樹皮を含む100年分以上の年輪試料が得られる場合は、年輪年代法での測定が可能な場合があります。原理は、木材の1年毎の年輪の間隔を精密に計測し、その変動パターンを数値グラフ化します。それと、作成済みの該当木材の標準変動パターン(標準スケール)と照合して、パターンの一致する箇所を見つけるという手順です。

考古遺物の年代測定8
↑木材の年輪読取装置

年輪の標準変動パターンは、スギやヒノキが代表的です。各時代の該当木材の年輪をつなぎ合わせて、数千年分のスケールが作られている。また、異なる樹種間でも応用が可能だと言われている。年輪は気候に影響されるので、樹種が異なっても、年輪の変動パターンは類似します。樹木間の固有変動を平均化する技術で、樹木差の影響を排除した共通の標準年輪スケールも作られています。

考古遺物の年代測定1
↑産地が異なっても同期するヒノキの年輪変動パターン

考古遺物の年代測定4
↑標準変動パターン(黒)と出土した柱根の変動パターン(赤)

この方法の凄いところは、試料の条件が良好であれば、理論的には誤差ゼロで測定できる点です。ただし、木が伐採されたか、枯死した時代が判明するのであって、木材で造られた遺物の製造年代が分かる訳ではありません。それでも、伐採年が判明するだけでも有力な情報となりうる。例えば、木製の仏像であれば、材木の乾燥・保管期間を加算することで製造年を推定できます。また、木像の様式鑑定と併用することで測定の検証も可能でしょう。

考古遺物の年代測定2
↑平安時代初期の行基菩薩坐像の年輪照合(伐採年は西暦997年)
(黒線:ヒノキ標準変動パターン、赤線:木像の年輪変動パターン)

年輪年代法の実際手順を分かりやすく解説している書籍は少ない。一番気になるのは照合操作ですが、方法は2種類あるようです。一つは、試料の年輪変動パターンをグラフ化して、標準スケールと人間の眼で照合していくスタイル。変動変化が比較しやすいように、トレーシングペーパーの対数化グラフにプロットして行います。もう一つは、試料の変動パターンを特殊な数値化処理を行なって、それをコンピュータで統計的に処理する方法です。移動平均法と呼ばれる方法で数値化し、標準スケールとの相関係数を計算しながら照合していきます。試料の個体差で目視での照合が難しいケースに適用されている。しかし、照合一致するとは限らず、相関係数が一定基準に達しない場合は測定不可で終わるケースもあります。

年輪年代法は、試料の条件制約が厳しいうえに、樹皮を含む100年分以上の年輪が必要な事から、木材が出土しても適用できるケースは少ない。また実際に測定しても、年輪パターンの照合一致に至らないケースも多いという。どんな条件でも応用できる万能な測定法とは言えないようです。また、理論的な測定精度は高いのですが、弥生時代にいたる遺物測定においては、従来の推定値よりも大幅に遡る結果が得られている。有名な事例は、大阪池上曽根遺跡奈良唐子・鍵遺跡です。大型建築物の柱を年輪年代法で測定したケースでは、予想を100年以上も遡る紀元前1世紀の結果が出ました。つまり近畿圏の遺跡の時代判定は大幅に見直される事になりました。この結果を疑問視する研究者もいるわけです。

年輪年代法のヒノキやスギの標準変動パターンは過去の多くの古木材を分析し、つなぎ合わせて作成するが、つなぎ合わせの精度が直接分析精度に影響する。しかし、各時代に連続した都合のよいサンプルが多量にあるとは限らない。特定の時期だけはサンプルが少なく、標準変動パターンの信頼性が落ちる期間があるのは確かです。また、この解析方法を導入した光谷拓実さん自身が標準データを公開していないらしい。そのため、奈良文化財研究所の人間しか検証できていないと疑問を投げかける研究者や歴史学者もいるそうです。確かに標準スケールの製作は密室で行われるにしても、後述する他の測定方法のように公開されるべきものかも知れません。このような経緯から、年輪年代法はオープンな環境で、誰もが平等な条件で測定できる方法とは言えないものとなっている。そこには、学派・組織的な閉鎖性があるようにも思えます。後述する他の測定法の精度が今後改善されていくと、この測定法は使用される頻度が落ちていく可能性があります。


次稿に続く


【参考引用】
■日本美術6「年輪年代法と文化財」 東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館

関連記事
ウィグル・マッチング法 * by 至柔
初めてコメントさせていただきます。

ウィグル・マッチング法という方法があるということを初めて知りました。

木材の年輪を10年ごとに区切って、10年ごとに放射性炭素14の含有量を測定する。そして、その10年ごとの炭素14の変化を、標準炭素14変化パターンに当てはめて、年代を割り出すということなんですね。勉強になりました。

Re: ウィグル・マッチング法 * by 形名
至柔 さん、こんにちは。

ウィグル・マッチング法は放射性炭素年代測定法の誤差を改善するために
開発された手法みたいですよ。
基礎的な統計学を勉強すれば、もっと深く理解できるのですが、
なかなか勉強嫌いでして追いつけませんね。笑

Comment-close▲

2021-04-04 (Sun)

The Bonnie Banks of Loch Lomond

The Bonnie Banks of Loch Lomond

Traditional song performed by Ella RobertsThe Bonnie Banks of Loch Lomond美しきローモンド湖の丘By yon bonnie banks and by yon bonnie braes,Where the sun shines bright on Loch Lomon'Where me and my true love will never meet again,On the bonnie, bonnie banks o' Loch Lomon'そこには美しき岸辺がありそこには美しき丘が広がるローモンド湖に太陽の光が輝く私が本当の愛を、二度と得られない場所美しき岸辺、美し...

… 続きを読む


Traditional song performed by Ella Roberts


The Bonnie Banks of Loch Lomond
美しきローモンド湖の丘

By yon bonnie banks and by yon bonnie braes,
Where the sun shines bright on Loch Lomon'
Where me and my true love will never meet again,
On the bonnie, bonnie banks o' Loch Lomon'
そこには美しき岸辺があり
そこには美しき丘が広がる
ローモンド湖に太陽の光が輝く
私が本当の愛を、二度と得られない場所
美しき岸辺、美しき丘、ローモンド湖

O ye'll take the high road and I'll take the low,
An' I'll be in Scotland afore ye
For me and my true love will never meet again
On the bonnie, bonnie banks o' Loch Lomon'
あなたは高い道を行き、私は低い道を行く
私はあなたより先にスコットランドに着くでしょう
だけど私の愛する人には二度と会えない
美しき岸辺、美しき丘、ローモンド湖

'Twas there that we parted in yon shady glen,
On the steep, steep side o' Ben Lomon'
Where in the purple hue the Hieland hills we view,
An' the moon comin' out in the gloamin'
私達が別れたのは、あのときだった
あの谷間で、険しい険しいローモンド山の中腹で
ハイランドの山々が紫にかすみ
薄明かりの中に月が出ていた

O ye'll take the high road and I'll take the low,
An' I'll be in Scotland afore ye
For me and my true love will never meet again
On the bonnie, bonnie banks o' Loch Lomon'
あなたは高い道を行き、私は低い道を行く
私はあなたより先にスコットランドに着くでしょう
だけど私の愛する人には二度と会えない
美しき岸辺、美しき丘、ローモンド湖

The wee birdies sing and the wild flow'rs spring,
And in sunshine the waters are sleepin'
But the broken heart it kens nae second spring again,
Tho' the waefu' may cease frae their greetin'
小鳥が歌い、野の花が咲いていた
陽光の中に湖水が眠っている
だが、傷ついた心で
来年の春を見ることは出来ない
苦悩する身で言葉も交わせない

O ye'll take the high road and I'll take the low,
An' I'll be in Scotland afore ye
For me and my true love will never meet again
On the bonnie, bonnie banks o' Loch Lomon'
あなたは高い道を行き、私は低い道を行く
私はあなたより先にスコットランドに着くでしょう
だけど私の愛する人には二度と会えない
美しき岸辺、美しき丘、ローモンド湖


関連記事