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メンデルに操られた濃すぎる血

聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのみこ)が生きたのは、6世紀第4半期から7世紀初頭にかけての時代です。以下の図はこの時代前後の大王と王族の婚姻系譜です。

img_0.jpg 


6世紀後半ですから王権を継承する血統はかなり固定化された時代に入っていると思います。系譜を追ってみると近親結婚が非常に多いのが分かります。ざっと見ても以下のケースがありました。

①敏達天皇と額田部皇女(ぬかたべのひめみこ=後の推古天皇)は異母兄妹
②用明命天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとひめみこ)は異母兄妹で、
 かつ、従兄弟
③用明天皇と石寸名(いしきな)は叔母と甥
④穴穂部間人皇女と再婚相手の田目皇子(ためのみこ)は従兄弟
⑤舎人皇女(とねりのひめみこ)と当麻皇子(たいまのみこ)は叔母と甥
⑥長谷王(はっせおう)と佐富女王(さほのひめみこ)は叔母と甥
⑦春米女王(つきしねのひめみこ)と山背大兄王(やましろのおおえ)は異母兄妹

今の時代であれば、法律的にも倫理的にも問題のある結婚ばかりです。系譜の内容については日本書紀に基ずくので、全面的に信じられるか疑問もあります。しかし、このような婚姻系譜が当たり前のように記述されるということ自体が重要です。つまり、当時の王族の婚姻において近親結婚が忌避されることはなかったという事です。

理由としてよく上げられているのは、

(1)大王にミメを提供する外戚の意向
 大王を取り巻く外戚の権力、権益を守るために氏族の血が薄まることを嫌い、適当なミメがいない場合は外戚の血が流れる近親の中から配偶者を選ぼうとする傾向があった。

(2)王族の受け継ぐ財産の細分化防止
 王の血筋を引く皇子や皇女が宗主権を継承すれば莫大な財産が相続されます。宗主でなくても一定の財産が父方と母方から分与された筈です。この財産の分散化、細分化を防ぐために近親王族内での婚姻を行った。


(1)はこの時代に限らず、大王の外戚にはありがちな事と思います。(2)は王族としての財産の維持が目的です。この時代はまだ公地公民制度ではありませんから、大王といえども大きな勢力をもつ豪族と、それ程、差があったとは思えません。つまり、ミメを提供する氏族にも、それを受ける皇族にも共通の利点があったのでしょう。何れにしても当人どうしの感情ではなく、政略結婚の気配が濃厚です。

このように継体天皇の系譜を見ると、特にこの時代は近親婚が多いようです。不思議なのはこれ程“濃い血”が続けば体質的に弱い血筋となってしまい、王権の血統継承に支障をきたしたのではないかという疑問です。私は、古代の同一血統王権が長く続かないのは、この辺にも理由があるのではないかと思います。事実、記紀を読むと遺伝病を想像させるような形質描写が多いのに気づかれた人もいるでしょう。短命な皇子も実に多い。


現代の法律や倫理観が近親結婚を避ける傾向にあるのは理由があります。近親結婚を繰り返していくと、俗に“差しさわりがある子供が生まれる”というのは正しい表現ではありません。しかし、全く問題が無いかと云うと、これも間違いです。ある種の遺伝病の発生するリスクは近親婚によって増加するのです。

難しい話は割愛します。人の遺伝子は染色体の中にあります。染色体には、大別すると性染色体と常染色体の2種類があります。性染色体の遺伝子異常は近親婚でも、そうでない場合でも遺伝病の発生確率は変わらないそうです。しかし、後者の常染色体の異常による遺伝病は近親婚によって発生しやすくなるのです。

人の遺伝子の中には2万個以上の遺伝形質があります。これは意外と知られていないのですが、健康体の人でもこの遺伝形質の中には10個くらいの常染色体劣性遺伝病の因子(遺伝子欠陥)を持っているそうです。“劣性”というのは片親だけの因子では発生せず、父親と母親の両方に同じ因子がないと発生しない遺伝病です。中学生の理科の時間にエンドウ豆を例に勉強したメンデルの法則の一つ、『劣性遺伝の法則』です。

つまり、血縁がまったく無い人どうしの結婚では、同じ因子を持つ事は確率的にみて低いので、各々の異常因子はマスクされ、正常な子供が生まれやすいという事です。しかし、近親婚を繰り返した一族の中では、男性と女性の遺伝子の異常パターンが似てきます。これが問題なのです。そして、ある時、両親の2つの同じ異常因子が[AND]となり、異常のある子供が生まれるという仕組みです。

近代になってこの傾向が経験的に理解されるようになり、文化的、倫理的に近親婚を避ける風習が出来たと思います。しかし、当時としては、このような遺伝の問題などは想像もつかない事だったでしょう。一族のために良かれとして作った“濃すぎる血”が災いしてしまったという事です。







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擬制氏族の構成

以前、「古代氏族の系譜と実在性」の中で、系譜の中の種類として「擬制系譜」について触れました。今回は関連する「擬制氏族」に関する話です。
 
「擬制氏族」について触れる前に「氏族」とは何なのかというのをおさらいしておきます。高校生の頃、日本史をよく勉強した方は氏族というのが以下のような序列になっていることは覚えているかも知れない。
 
 氏上---氏人---部曲(かきべ)---奴(やっこ)・奴婢(ぬひ)
 
これらの組織の総称が氏族という訳です。氏上と氏人までが、同じ氏(うじ)と姓(カバネ)をもつ民です。氏上は統率者で普通は氏族宗家の頭領がなり、朝廷からカバネを授かっています。部曲は私有民で、奴・奴婢は奴隷として使役された人たちです。この形態が構成する人たち代々に受け継がれていくのが氏族集団です。
 
一般に氏族というのは天皇に服属している集団を指しています。広義に捉えれば、蝦夷や隼人にも氏族はあったと思いますが、ここでは服属している集団に限定しています。古い時代に遡れば、各氏族も天皇一族に敵対する集団だったでしょう。それが懐柔や武力によって恭順、服属していったと思われます。
 
氏人も最初は血縁集団を母体として形成されるケースが多かったが、大規模な氏族になれば血縁以外の結び付きも多く、これが擬制氏族と呼ばれる由縁です。具体的に云えば、他の小氏族が大規模な氏族の中に取り込まれて同族化する事もあるし、所属の部民の中から優秀な人物が氏人に昇格して名前を貰うこともあったようです。では、本当の血縁だけで結ばれた「氏族」というのがあったかというと、少なくとも、我々が見聞きするような氏族においては無かったと断言できる。
 
 
また氏族というのは、大きく別けると、皇別氏族、神別氏族に分かれます。皇別氏族は過去に大王(天皇)から系譜が分かれたとする氏族です。
 
神別氏族は大王とは祖先の異なる氏族です。大王を補佐する氏族がこのように性格付けされてる理由は、その出自によって朝廷内での身分が決まるからです。皇別氏族なら臣というカバネが与えられ、政治の中枢で働けることになります。中には大王にミメを提供し、外戚としても権力を握る場合もあります。代表的なのは、古くは葛城氏、後には蘇我氏、藤原氏などです。
 
神別氏族の場合は主に連(むらじ)と呼ばれる職掌氏族となります。しかし、これも氏族の勢力によリ、連でも臣クラスの地位につく人もいました。大伴氏や物部氏などの宗家は代表例でしょう。それは、カバネという出自を表す身分とは別に、朝廷内の冠位を表す身分制度が別にあり、その位によっても推定できます。
ただ、出自のカバネによって上り詰める冠位には限界があったようです。厳しい身分制度が基本となる当時の宮廷では、本人の能力よりも出自が尊貴であるか否かが出世のポイントだった訳です。
 
言い換えれば、一族の出自を証明し、アピールすることが最重要だったと考えられます。そのためには、系譜を飾る事、系譜を擬造して尊貴な氏族に化けることも多々ありました。擬制系譜とは擬制氏族になるための手続きの一つと捉えてもよいでしょう。
 
ただ、「古代氏族の系譜と実在性」のなかでも述べましたが、これ等の行為が一概に悪事とは捉えられてはいませんでした。それは、擬制氏族という仕組みが朝廷にとっても大きなメリットがあった事が理由です。理由に付いては先稿と話が重複しますので割愛します。
 
もちろん、系譜など擬造しなくとも擬制氏族となることは可能だったと思います。氏族といっても職掌をもって大王に仕えるような氏族では、その中の身分の低い氏人は宮廷に上がる訳でもありません。従って、冠位などには縁のない人が大多数だったと思います。特に巨大な氏族の場合は、幾つもの小氏族の統合を繰り返し、氏人といっても単層なものではなく、厳然たる階級が発生していたでしょう。
 
 
もう一つ忘れてはならないのが、渡来系氏族です。渡来系氏族も職掌によって朝廷に仕える民ですが、言葉の如く朝鮮半島を中心とする地域から来訪し、日本各地に定住した氏族です。カバネとしては忌寸(いみき)、首(おびと)、史(ふひと)などが知られていますが、全てがこのカバネ持ったとは限らない。日本人氏族として受け入れられた民、後に改姓申請して日本人になったた民も多い。
 
しかし、渡来系氏族は全て渡来人と捉えると、これまた氏族観を誤ります。特に秦氏のような巨大氏族になれば、その配下には、あらゆる渡来人、日本人、高貴な人から身分の低い人たちまで様々なはずです。氏族が形成された時期も長期間に渡り、統合は繰り返されただろうし、外国から来る人たちも順次取り込まれていきます。渡来系氏族の売りはハイテク技術集団です。しかし、外国の技術も進歩しますから、新規の渡来人を導入してゆかないと遅れをとる訳です。その職掌も単純なものではありません。秦氏だから機織りが専門分野などと思うのは誤りです。
 
一般に氏族の、職掌、専門性に目を向けるときには注意が必要です。例えば各氏族の信仰や宗教に対する考え方などは時に戦乱の原因などと捉えられます。祭祀、卜占を職掌とする氏族だから、他宗教とは相容れないのは当然と思われるのでしょうが、それでは記紀の術中に嵌ってしまいます。それらは真の戦乱の理由を隠すために、氏族や記紀が創作してきた伝承に過ぎません。確かに古い時代に大王から職掌を賜る事はあったかも知れませんが、後には出来る仕事は何でもやったと思います。それは朝廷の期待でもあった訳です。古代史のなかでも時代の変遷によって氏族の性格は変わっていく事に留意する必要があります。逆に云えば、変わらねば生き残ることは出来なかった。
 
 
これは渡来系氏族に限らずですが、古代日本の氏族というのは、現代の企業と捉えたほうが正確かも知れません。㈱蘇我組、㈱物部組、㈱秦組・・・
 
㈱秦組の社員は“秦組”の名刺を持っているが、元の氏名は色々で、出身もまた色々。外資系だった頃の創業社員もいれば、新規採用や転職組もいる。吸収合併した別会社の社員もいるでしょう。個人の出自は各々異なるが、秦組社員としての身分を保証されているわけです。現代企業と少し異なる点は、社員の同族意識にあるかも知れません。そこには、血縁集団に近いものがあり、結束力が代々継続していく元となっている。
 
企業の事業内容も多肢にわたります。繊維部門もあれば、土木建設部門や鉱業部門や製鉄金属部門もある。中には、官庁(朝廷)に出向して役職(冠位)を貰って働く人もいます。特に渡来系企業の人は、本庁や地方官庁の税務課や戸籍管理課で働く人が多かった。文字を書く事や計算にも明るかったという伝統でしょう。云わば、利益追求型の総合企業集団と考えられます。
 
最後は少し極端な例えになりましたが、「擬制氏族」のイメージは掴めたかと思います。要は、その内実は名前からイメージするほど氏族の個別色は濃くはなく、同じカバネをもつ氏族ならば内容も大差はなかった。そして、重要なのは、氏族は血縁だけで結ばれているのではないこと。氏人の出自は単層ではなく、多国籍であり、かつ、雑多であるということ。

 

 
【引用・参考文献】  
溝口睦子著  『日本古代氏族系譜の成立』
溝口睦子著  『古代氏族の系譜』
遠山美都男著 『天皇誕生』
成清弘和著  『日本古代の王位継承と親族』
熊倉浩靖著  『古代東国の王者』
門脇禎二著  『葛城と古代国家』
門脇禎二著  『蘇我蝦夷・入鹿』
松本清張著  『清張通史5 壬申の乱』
瀧音能之著  『日本史ハンドブック』
加藤謙吉著  『秦氏とその民-渡来氏族の実像』
大和岩雄(寄稿文)  『秦氏・葛城氏・蘇我氏』
平野邦雄・佐伯有清(対談)  『古代氏族をめぐって』
谷川健一・大和岩雄(対談)  『物部氏・阿倍氏と蝦夷・日本』



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榛名山噴火の理学的年代決定(学術発表サマリ転載)

  榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の理学的年代決定


早川由紀夫[1]; 中村賢太郎[2]; 藤根久[2]; 伊藤茂[2]; 廣田正史[2]; 小林紘一[2]
[1] 群馬大・教育; [2] (株)パレオ・ラボ


榛名山は古墳時代に2 回噴火した。その堆積物は山腹の放射谷を厚く埋めて分布するだけでなく、群馬県内平野部に広く展開する多数の考古遺跡でクロボクの中に薄い火山灰あるいは軽石層としてみつかる。また、尾瀬ヶ原の泥炭の中にも2 枚の火山灰層が挟まれている。伊香保温泉のすぐ上にある二ツ岳は、2 回の噴火をした火道に栓をした溶岩ドームである。

この噴火の年代は考古学者によって精力的に研究された。それはどちらも6 世紀前半であり、軽石・火山灰と重なる土器の型式変化から2 回の噴火の時間差は20-30 年程度だと考えられている。
軽石・火山灰の中から取り出した炭化木の放射性炭素年代を単発で測った理学的報告も断片的ながらいくつかある。そのなかには6 世紀ではなく5 世紀を示した例もあったようだ。

2007 年9 月下旬、渋川市内の大規模寺院建設現場(施主:臨済宗日本佛光山、
施工:(株)熊谷組)の地下から大きな倒木が複数みつかった。場所は、二ツ岳の東隣にある水沢山溶岩ドームの東山腹、標高696 メートル地点である。1 回目の噴火(渋川噴火、FA)の初期に降り積もったアズキ色火山灰の中に斜めに倒れていた。倒木を取り囲んでいた火山灰部分はアズキ色ではなく青黒色をしていて、発掘されるまで無酸素状態が保たれていたことを示していた。アズキ色火山灰の厚さは約4 メートルで火山豆石を含んでいた。下はクロボクに、上は熱雲が残した軽石まじりの砂礫層に覆われていた。


榛名山噴火の理学的年代決定1 
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私たちは、カエデ属(試料番号BK926A)、ブナ属(BK926B)、ハンノキ亜属(BK928D)の三本を実験室に持ち帰り、ウィグルマッチング法による放射性炭素年代測定を行った。もっとも太いBK928D は直径55 センチ、長さ5 メートルで、155 の年輪が数えられた。三本とも樹皮を残していて、晩材で成長が停止していた。これは、埋没水田の研究から渋川噴火が初夏に起こったとする考古学の既存知見と矛盾しない。


榛名山噴火の理学的年代決定2 
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榛名山噴火の理学的年代決定3 
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榛名山噴火の理学的年代決定4 
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年輪を5 輪づつ切り出して、ひとつ置きに測定試料とした。BK926A は最外年輪から95 年輪までの10 試料を、BK926Bは最外年輪から85 年輪までの9 試料を、BK928D は年輪幅が狭くて分割しにくかった外側の30 年輪を除いて31 年輪から155 年輪までの13 試料を測定した。放射性炭素含有量の測定は群馬県桐生市黒保根町にある(株)パレオ・ラボのAMS システムを用いておこなった。
産出状況から三本は榛名山の噴火によって同時に埋没したと考えられるので、得られた32 測定値すべてを使ってウィグルマッチングした。その結果、渋川噴火の年代として次が得られた。
AD489-498(AD495/+ 3/- 6)。誤差は標準偏差である。

榛名山噴火の理学的年代決定5 
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渋川噴火の年代は、従来考えられていた6 世紀前半よりやや古く、5 世紀末の495 年前後だったことが今回わかった。


※本稿は冒頭示した表題、識者による研究発表サマリを無編集で転載したものです。


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古代のタイムスタンプ(3) -争点の解決へ-

早川由紀夫教授とパレオ・ラボによる成果報告にも記載されていますが、この実年代測定によって、ある古代史の争点に影響を与える事になりました。3回目はこれについて触れる事にします。
 
埼玉県行田市には埼玉(さきたま)古墳という有名な古墳群があります。この古墳群で最初に築造された稲荷山古墳から、1968年に鉄剣が出土し、10年後に鉄剣から115文字の銘文が発見されました。
 
稲荷山古墳上空画像 
後円部の白い部分が埋葬主体部の位置

此の埋葬主体部が後円部の中心から僅かに外れているので、発見されていない埋葬墓が他にもあるのではないかという推定があるようです。
 

稲荷山古墳礫槨 
 鉄剣が発見された埋葬主体部の展示レプリカ

銘文には、剣が「辛亥年」に作られた事や大王の名は「ワカタケル大王」であることが書かれていました。「ワカタケル大王」とは雄略天皇に比定されてる人物です(説であって確定している訳ではない)。これは世紀の大発見で、関東の古代史の推移を揺るがす大事件となります。
 
稲荷山古墳鉄剣 
 
 
そこから大きな争点も生まれました。『辛亥年』の実年代に関してです。日本の古代の暦は中国から伝わった暦を使っています。
十干(じっかん)  =甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・・壬・癸(10種類)
十二支(じゅうにし)=子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・(12種類)
 
この2種類を組み合わせて年数を数えます。最近の日本では十二支しか使いませんから、12年に一回の周期で回ります。しかし、当時は十干と十二支を合わせて使いますので、60年を一周期として暦が回ります。組み合わせるといっても数学でいう「組み合わせ」でありません。これだと120年になってしまう。両者の暦を両方の頭から順に並べるという意味です。従って辛亥年というのは、西暦に直すと以下になります。
(西暦への変換に関する話は長くなるので割愛します)
 
辛亥年 
 

稲荷山鉄剣銘文の辛亥年は、この中のどれかに相当するはずです。一般的には471年説と531年説が有力です。定説としては471年ですが、強硬な反対意見もありました。

実は稲荷山古墳の埋葬主体部層からは、榛名山噴火に伴う降灰物が検出されていないのです。降灰物の影響は風に影響され、主にどの方向へ流れたのか分布を見ればわかりますが、埼玉県にも確実に降灰があった事は他の地質調査で分かっています。
 
元々、出土した土器編年から古墳の築造は西暦500年頃との推定がありました。しかし、稲荷山古墳には主体部に2ヶ所の埋葬があり、追葬が行われています。従って、古墳自体の築造年と鉄剣所有者の埋葬年が同じとは限らない事が争点のもとでした。しかし、噴火に伴う降灰物がないことが確かであれば、鉄剣の埋葬はHr-FA(西暦495年)よりも以前という事になります。鉄剣が作成されてから埋葬されるまでの経緯や時間は不明ですが、鉄剣が作られた辛亥年は西暦471年である事を証明します。

それだけではありません。西暦531年であれば、ワカタケル大王の雄略比定説は崩れるのですが、471年ならば雄略天皇の蓋然性は強まります。また中国の『宋書』に出てくる、476年に倭国から朝貢したのは雄略天皇の使者である可能性が高くなるといった具合です。現在でも531年説を唱えている人がいるのですが、これらの地質的な事象を踏まえて欲しいと思います。
この事例はほんの一例ですが、火山灰降下というのは広範囲に及びます。古代の“タイムスタンプ”をフルに活用すれば、もっと解き明かされる謎もあるかも知れません。

【補足】
記紀に出てくる雄略天皇の実在性に関しては疑問の余地もありますが、5世紀において大王(おおきみ)の権力を増大させ地方への統制力を強化したり、中国との関係を築こうとした人物は存在したと思います。それは古墳等の考古学的見地からみた変化によっても想定可能で矛盾していません。例え、雄略天皇が架空の存在だとしても、彼の事績を担った大王は明らかに存在したと思います。


 


【参考・引用】
 
 


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古代のタイムスタンプ(2) -噴火年代の決定-

前回は美しい榛名山も恐ろしい一面があったことに触れました。しかし、火山による温泉や地熱そのものを利用する事も可能で、マイナス面ばかりではありません。我々の生活に直接の恩恵はないものの、古代史を解明しようとするときにも役立つことがあります。
遺跡というのは地下に埋もれている場合が殆どですが、ある遺物が出てきたときに、其の遺物が埋もれた時代を知る事が基本です。でもそれは簡単な事ではありません。
 
古い文献に記載されている事でしたら文献から分かるかも知れませんが、そんな事は稀です。どうするかと云うと、同じ地層から出てくる土器などの特徴から類推するのです。土器の形状、文様、製作技法などから、製作された時代の前後関係を推定し、時間軸上に並べたものを土器編年と呼びます。出土した土器形式をこれと比較して時代推定を行うわけです。
 
でも土器編年はピンポイントで時代確定できる訳ではありません。実態を云えば、最小でも20~30年の範囲を持った推定値でしか出す事が出来ません。時にはもっとラフな見積もりになります。形式分類毎の前後関係は正しくても、絶対年代を保証する手法ではないのです。また、最大の欠点は遺物の近くに土器自体が無いと成り立たないと云う事です。
 
以下は土器編年と、それから推定される年代です。
 
土器形式     推定年代               出来事
 Ⅰ式   5世紀第3四半期(450-475).......
 Ⅱ式   5世紀第4四半期(475-500).......埼玉県稲荷山古墳、群馬県三ツ寺遺跡
 Ⅲ式   6世紀第1四半期(500-525).......Hr-FA、 群馬県御布呂遺跡
 Ⅳ式   6世紀第2四半期(525-550).......Hr-FP、 群馬県黒井峯遺跡
 Ⅴ式   6世紀第3四半期(550-575)
 Ⅵ式   6世紀第4四半期(575-600)

それに引きかえ、火山灰の地層に遺物が埋もれていたらどうでしょう。もし噴火が起きた絶対年代が分かれば、遺物が埋もれた時代もおのずと分かります。仮に遺物が火山灰の中になくとも、火山噴火より以前なのか、以降のなのかという事は確定します。それだけでも有効なことが多いのです。つまり、火山現象は“タイムスタンプ”として利用しうるという事です。

以下は群馬県地域の火山噴火による災害年表です。
 
指標となるテフラ 
 災害年表(クリック拡大)
 
時間軸の中に此れだけの定点指標候補があります。しかし、新しい時代のものは文献で年代がはっきり分かっていますが、古墳時代以前のものは噴火の絶対年代を知るのも大変です。しかし、噴火は地表の植物を必ず巻き込み、火山灰はそれらをパックしてしまうので年代特定が可能な場合もあるのです。私が知る限りでは、現在、年代を決める方法には2つあります。
 
①14C測定法
噴火による炭化物や枯死した木材の中の放射性同位元素の含有量を測って年代を測定する方法です。自然界には常に一定量の質量数14の放射性炭素が存在しています。この炭素は非常にゆっくりと崩壊する性質を持っています。一方、生きている樹木の中には空気中と同じ比率で一定量の炭素14が含まれます。樹木が枯死すると以降は代謝がなくなるので、樹木中の炭素14は崩壊が進んだ分だけ量が減ります。この量を測定する事により、枯死した年代を測定します。
この測定法は誤差が大きいのですが、最近は較正技術が向上しており、従来よりも精度が向上しているようです。14C測定値は予め年代差の判明してる資料の測定値で較正しないと信頼性が上がりません。多くの年輪を持った試料等、較正のためのサンプルを多数揃えられるか否かが測定精度に影響します。
 
パレオラボ 
放射性同位元素の質量分析装置
 
②年輪年代法
噴火によって地中に埋もれた杉や檜(ひのき)を発見して、その年輪から年代を割り出す方法です。年輪というのは一定の幅を持つわけではなく、年によって変動します。この年輪幅のゆらぎを測定して標準資料としてデータベース化しておきます。杉と檜に付いては2000年以上前までの年輪間隔パターンのスケールが出来あがっています。
これとサンプルを比較して相関係数を計算することによって、木材が埋没した時期を正確に計算できます。相関係数とは統計的手法による計算ですが、要は両者の変化パターンに関連性(一致性)がどの程度あるかを数学的に計算します。
因みに、年輪幅のゆらぎは日本列島程度の範囲なら、地域によって強弱の差があるものの、基本的な変化パターンは一致するという特徴を持っていることがミソです。但し、信頼性を上げるには、木材の外皮の部分が残っている、200年分以上の年輪を持つ杉や檜を見つける必用があります。完璧なサンプルがあれば、枯死したり伐採された年と季節まで確定できます。

以下の図は、標準パターン(黒線)と測定サンプル(赤線)の計測値をグラフ化して一致性の最も高い場所で固定しています。計算方法は、赤線グラフをずらしながら、黒線グラフと一致度の高い場所を計算しながら探し出します。この操作によって、サンプルの最外皮の板材の伐採年が特定できるわけです。判明するのは伐採年なので、材木が伐採後、どのくらい乾燥などのために放置されていたかは分かりません。例えば、建物の構築年代等は推定になるわけです。それでも、14C測定法などから比べると、その精度は非常に高いものと言えます。
 
年輪年代法相関図 
サンプルの年輪幅のゆらぎと暦年標準パターンの比較(クリック拡大)
 
 

前述の表の中で榛名山の2回の噴火時期は以下のように書いてあります。
■Hr-FA=西暦495年
■Hr-FP=西暦520年
 
2007年に榛名山麓で工事中に噴火によって埋もれたブナやカエデ材が発見されました。実は、この値は木材を14C測定法で測定した結果なのです。測定は群馬大学の火山学者である早川由紀夫教授と遺跡分析などを専門に行っているパレオ・ラボという会社が共同で行っています。この成果報告の詳細は早川由紀夫教授のホームページで読む事が出来ます。(2009年に発表公開)
 
前述したように、従来、榛名山の噴火は6世紀前半くらいに2回あったと云われてきました。しかし、正確には絞り込まれていませんでした。今回、良質なサンプルを沢山使って値を出したのは初めてではないでしょうか?だからといって、このデータが絶対正しいとは言い切れませんが、測定の方法などを見ると従来値よりも信頼性が高い気がします。その測定結果は従来予想よりも早い時期となっています。
 
 
 



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古代のタイムスタンプ(1) -榛名山の噴火-

ここは高崎市北部の浜川町です。夕暮れの榛名山が近くに見えます。

榛名山 


まだ標高も高崎市中心部とあまり変わりません。なのにこの辺り一帯は火山噴火による火砕流や火山礫によって埋め尽くされています。
群馬県は長野県境にある浅間山による噴火で度々被害を受けています。古墳時代、平安期、江戸期天明の噴火は特に有名で壊滅的な打撃を受け、多くの命を失っています。私が生まれてからも小規模な噴火を何回か起こして火山灰を降らせました。
しかし、この浜川町の台地を覆っている泥流や火山灰の多くは浅間山のものではありません。原因を作ったのは眼の前に美しい姿を見せる榛名山です。この山も浅間山に劣らず恐ろしい山だったようです。
現在は火山の分類が変わり榛名山は活火山に含まれますが、昔は休火山と呼ばれていました。つまり、お休みしている火山で、何時かまた噴火する可能性を残しています。榛名山は50万年前に出来たそうです。かっては富士山のように大きな山でしたが、あちこちの噴火で山体が吹き飛んでしまい、今の形になっているそうです。

               
榛名溶岩ドーム 
榛名山の火砕流跡(クリック拡大)

全景中央の薄い茶色の部分が火砕流が流れ出た痕跡。

         
榛名山2 
榛名山にある溶岩ドーム(クリック拡大)

榛名富士溶岩ドームは3万年前、伊香保温泉の東にある水沢山も1万年前にできた溶岩ドームです。1万年前の活動以降は大きな火山活動はなかったがようですが、5~6世紀に活動を再開し、2回の大規模な噴火を起こしました。
最初の噴火は二ツ岳付近からのマグマ水蒸気爆発で始まり、やがて火砕流を発生させます。数百度の火砕流が高速で山麓を流れ下ってくるものです。この噴火は学術用語で“Hr-FA”と呼ばれています。一枚目の写真で二ツ岳の手前が滑らかな斜面になっていますが、これが火砕流が下った跡です。
         
二ツ岳 
手前にあるのが榛名山二ツ岳(群馬埋文事業団より)

火砕流の恐ろしさは、九州の雲仙普賢岳で消防署員や報道関係者を一瞬で焼き尽くした事件として記憶にあります。山体に溶岩ドームができ、やがて崩壊して麓に熱雲とともに流れ下り、全てを焼き尽くす。
火砕流は榛名山北西部と南東部に流れ下り、この浜川町付近まで到達したそうです。それは想像を絶する規模で、古代人たちは多くの犠牲者を出したと思います。

噴火の後には、火山灰やなぎ倒された木が谷をせき止めてダムを作ります。そして、やがて決壊して大規模な土石流を起こす。渋川市~高崎市一帯は火砕流の後に土石流に襲われました。その厚さは場所によって数メートルの高さまで達しています。

           
榛名火砕流1 
二ツ岳から北東に流れ下った火砕流の痕
 
榛名火砕流2 
二ツ岳から南東に流れ下った火砕流の痕

2回目の噴火は25年後に発生します。噴石を大量に吐き出す噴火です。こぶし大の焼けた軽石が一挙に数メートルも降り積もる。その厚さは伊香保近辺で4m、渋川市で2m、赤城山麓でも40~80cmです。この噴火は学術用語で“Hr-FP”と呼ばれています。

南西風に煽られて、火山灰は栃木県、福島県から遠く仙台まで達したそうです。子持村には火山灰で埋もれた村である黒井峯(くろいみね)遺跡があります。ここでは、榛名山の噴火によって2mもの軽石で住居が埋まってしまったそうです。子持村は“日本のポンペイ”と呼ばれています。
  
黒井峯遺跡 
軽石の下からみつかった黒井峯遺跡の集落跡(群馬埋文事業団より)
     
テフラ層 
 群馬町同道遺跡の火山灰の地層(群馬埋文事業団より)


数メートルにおよぶ土石流を掘り下げて、更に小豆色の火砕流層を剥がすと、その下から黒い地面が現れます。これが噴火前の5~6世紀の大地です。現れた地面にはマス目が整然と並んでいます。古墳時代の水田遺跡です。

   
古代水田跡 
浜川町御布呂遺跡の火山灰の下から出現した水田
(群馬埋文事業団より)


噴火の後は恐らく何年も耕作は出来なかったでしょう。食料が確保できなければ人口も減ってしまったと思います。でも彼等はこの土地を完全に見捨ててしまった訳ではなさそうです。発掘調査の結果では、土石流や火山灰に埋まった土地を、また耕して水田を復旧させている場所もたくさん見つかっています。水田というのは火山礫や火山灰のような透水性のある土地では出来ません。人力だけで復旧させるのは非常に大変だったと思います。





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アイヌ民族広域分布説

アイヌ民族に関する情報を集めていると気になる記述が見つかる。それは、日本における古代アイヌ民族の分布に関する話。明治時代には、チェンバレンやバチェラーなど、アイヌ語研究を行った外国人研究者がいたのは有名です。彼等の学説は、「アイヌ語の地名が日本に広く分布してるので、古代にはアイヌ人が日本全域に分布していた」というものです。自分はこの学説を否定するつもりはありません。納得できる根拠があるなら素直に信じたいと思います。しかし、アイヌ民族が自分達の居住する狭い範囲に名付けた地名が、「大和」「出雲」「能登」などといった広域地名に無理やり関連付けられていたりする。殆ど語呂合わせの世界に近い。広域地名以外にも以下のようなものも事例とされている。

江ノ島のエノ・・・・・・イナウ(祈る)
富士・・・・・・・・・・フチカムイ(火の神)
指宿・・・・・・・・・・イープシーキ(爆発のあった場所)
別府・・・・・・・・・・ペップ(川の端)
四万十・・・・・・・・・シマント(澄んだ水)
熊野・・・・・・・・・・キムンナイ(熊=神のいる湿地)
日光二荒・・・・・・・・プタアラ(美しい高原)
利根川・・・・・・・・・トネ(もっとも長い)
黒部・・・・・・・・・・クロペ(魔の川)
遠野・・・・・・・・・・トーヌップ(高原の湖)
庄内・荘内・・・・・・・ショーナイ(滝のある川) 
花巻・・・・・・・・・・パナマキ(川の中流にある平野)

発音が近いと事は認められるが、偶然と言えないこともない。更に、どれも特定の場所を指すような意味を持っておらず、汎用的な形容表現です。これを根拠とするのは説得力に欠ける。
近代の言語学者によっても厳しく批判され、否定されているのも頷けます。しかし、未だに、この学説を引用してる人がいるのには驚きます。先学の研究成果を踏まえてもなお、そう考えられる根拠が十分あるなら致しかたない。
しかし、もしアイヌ民族広域分布説を主張するなら、そろそろ古い地名発音からのアプローチではなく、考古学や理化学的な手法で証明して欲しいと思います。でないと近年の研究成果が生かされない事になる。これは勿体ない話です。

語呂合わせといえば、アイヌ関連だけではない。外国語の単語の「音」と日本語の「音」の似た点を見つけてきて、それを根拠に歴史をつくってしまう人達もいます。世界には古言語を合わせれば数百では追いつかない程の言語がある。人間の発音できる音声パターンには限度がある。「音」だけに着目したら確率的にも似たものがあるのは当然だと思う。それらを発音だけで結びつけて、超古代史やトンデモ歴史論を語るなど信じ難いことです。





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重量級の大仏さん

日本書紀と続日本紀のテキストデータを金属鉱物用語で検索を掛けると意外と面白い。もっとも、検索する時は現代用語で検索しても引っ掛かりません。当時の用語を使わないとダメです。
日本書紀には、日本で鉱物が発見されたとか、採掘されたという記事はあまり多くはない。でも、六国史第二弾となる続日本紀には、記事が結構あります。日本書紀から続日本紀に移る西暦697年あたりを境にして、日本でも鉱物資源の探索に力を入れていた様子が分かります。
要因の一つは、国力増強に金属が重要である事に朝廷も気がついたと云うことでしょうか。7世紀中葉には朝鮮半島において中国軍に破れ、戦争技術においても武器においても遅れていることが身にしみたのかも知れない。
 
また、朝鮮半島の戦乱や、百済滅亡という事態は大量の移民は発生させたのでしょう。新しい土木技術や鉱山開発技術を持った、テクノクラートの流入があったと思われます。朝廷が彼等をどんどん地方に送り込み、探索と増産に努めたことは想像できます。文献にも渡来系の人々を移住させた記事はかなりあります。
もう一つの契機は奈良にあるでっかい盧舎那仏でしょうか。創建当時の伽藍や仏像は戦乱で焼け落ちてしまい、現代のものは鎌倉期以降に再建されたものです。初期の伽藍は現代より雄大であったらしい。今の大仏殿も大きいですが、それでも創建当時の2/3の大きさに縮小されているそうです。また、消失して復元することが出来なかったツインタワーの七重塔は96mもあったということ。当時としては恐ろしい高層建築です。
 

もうだいぶ前になりますが、NHKのテレビ番組で「大仏開眼」という吉備真備を主人公とするドラマがありました。その中で、聖武天皇が東大寺の大仏建立を発案し、実行される場面がありました。この大仏の造営には当時としては最先端の技術が応用されていたようです。

 

 
 
まず、度肝を抜かれてしまうのが、使われている金属の量。大きさから云っても100トンくらいは使われてるだろうとは思ってました。しかし、実際は想像を超えるものです。
東大寺には大仏を建立した時の文献記録が残っているんだそうです。以下の記録は『東大寺要録 巻第二 醍醐寺本』からの抜粋です。

「・・・始奉鋳鎔。
以勝宝元年歳次己丑十月二十四日。奉鋳已了。三箇年八ケ度奉鋳御体。
以天平勝宝四年歳次壬辰三月十四日。
始奉塗金。・・・
用熟銅七十三万九千五百六十斤。
白=一万二千六百十八斤。
錬金一万四百四十六両。
水銀五万八千六百二十両。
炭一万六千六百五十六斛。・・・」

この中で勝宝元年という年号が見えますが、これは西暦749年です。従って、この記録は創建当時のものです。

それによると、
①銅   500トン
②錫   8.5トン
③金   150キロ
④水銀  820キロ
が使用された記載されています。
 
これは鉱石の量ではありません。不純物を取り除いたあとの金属の重量です。銅と錫は混ぜて溶かし、大仏本体を鋳込みます。金は水銀にアマルガムとして溶かし、金メッキに使われています。当時のメッキ法というのは消メッキといって、鋳込んだ銅合金の表面を磨いたあと、梅の実(クエン酸)で表面を洗い、アマルガムを塗布します。その後、タイマツの火であぶって水銀だけを飛ばします。従って、有毒な金属水銀蒸気が大量に出ます。おそらく作業員は水銀中毒になっていたでしょう。水俣病の水銀というのは有機水銀のメチル水銀(CH3)2 Hgですが、どちらも有毒なことには変わりはありません。
 
この造営のために各地から鉱石や砂金などが集められたらしいが、当時としては桁外れの量であり、かなり苦労したようです。聖武天皇が造立の詔を出したのが西暦743年。開眼供養が752年。大仏本体の完成が755年です。光背まで完成したのは実に771年でした。大仏建立というのが、当時の国家プロジェクトであったというのは誇張ではなかったようです。
 
  



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古墳の探し方

古墳好きの人が最初にお世話になるのが古墳ガイドブックだと思います。
でも、古墳ガイドブックも詳細で正確な地図が載っていることは少ないです。むしろ簡略図のような場合が多い。実際、現地に行っても有名な大型古墳ならともかく、案内が整備されていない地区や、マイナーな古墳は簡単に見つかることは稀です。小さな古墳などは2回3回と探索しても見つからない事がしばしばある。群馬県は古墳の数では全国でも5番以内に入ってると思いますが、やはり近畿地方のように大型は少なく、小さな円墳などのほうが圧倒的に多い。そこで、ある程度見慣れた人なら当り前の知識なんですが、古墳を探す時のポイントを紹介します。



①もっこり雑木林を探せ

これは、まったく古墳の所在地に関して情報がない場合には基本となります。古墳が裸山であるのは墳形復元されている場合に限られます。一般的にはこんもりと雑木が繁っている場合が殆どなので、これを目安に歩くと効率的。下の古墳などはマイナーな古墳で、私有地の畑の真ん中にあります。シノ竹で覆われているため、古墳と知っている人は近所でも殆どいない。

           

柴崎浅間山古墳(高崎市柴崎町)


②神社を探せ

小さな神社が高いマウンドの上にあったら、九分九厘、その下には古墳があります。高くない場合でも削られているケースもあり、見過ごしてはいけません。稲荷山古墳だとか、○○神社古墳などと名前が付いていれば必ず神社が乗っかっています。古墳の上に神社を作るなど失礼な話ですが、おかげで削平されずに残っていると考えれば貴重な慣習かも知れない。

         

綿貫稲荷山古墳(高崎市綿貫町)


③お墓を探せ

こんもり盛り上がった地形にあるお墓はかなりの確率で古墳の上に造られた墓所です。墓所に限らず、庚申塔や祠(ほこら)、古碑などの場合もあります。但し、古墳ではなくて信仰塚の場合もありますので確認が必要。地方には富士塚と呼ばれるマウンドをよく見かけます。

       

手前の墓所となってる盛り上がり全体が円墳(高崎市下佐野町)

       

墓所になってる円墳(高崎市下佐野町)

           

 高崎市柴崎町所在の富士塚

これは私も古墳と思いましたが、実は信仰塚でした。富士塚とも呼ばれますが、古墳と外見は似ているので調べてみる必要があります。

④マウンドを探せ

丘陵地や山中では無理ですが、平坦な農地などにある微妙なマウンドは古墳の可能性があります。元は小さな円墳であったものが耕作などで表土を削られて小さくなったケースです。単に工事用土砂の集積の場合もあるので判断は難しい。群馬県の場合は、浅間山の噴火のせいで火山灰が大量に降ったことがあり、火山灰を掻き集めて山にしてあるところがけっこうあります。そういう時は少し掘ってみて土質を確認します。


畑の中のわずかなマウンドだが恐らく古墳(高崎市下佐野町)


奥の大きなマウンドではなく手前の小さな墳丘が古墳(高崎市山名町)
       

神社の境内の小マウンドも古墳(高崎市下佐野町 定家神社境内)
       

これは近年に盛られた土だと思います(高崎市下佐野町)

マウンドは探してみる沢山ありますが、工事残土などの場合も多い。明らかに摩滅していない墳丘は残土の場合が多いが一概には言えません。もし私有地でなければ少し掘ってみれば、古いものか分かります。また私有地であれば聞いてみるのが手っ取り早いでしょう。


⑤川原石を探せ

これは全ての古墳には当てはまりませんが、古墳には葺き石といって、築造された当初は全面が石で覆われているケースが多い。その場合は墳丘の斜面などに古い川原石が散乱しています。川の近くでもないのに丸い川原石が散乱してる場合は古墳です。また、円筒埴輪を古墳の上部や周囲に配置していた場合には茶褐色の焼き物のカケラが見つかる場合もあります。

梁瀬二子塚古墳(安中市)

⑥地割りを探せ

今は土地区画整備事業が進んで、田んぼも住宅地も殆どは四角い形をしています。しかし、一部には整備されていない地区もあります。そんな場所では古墳の周りを丸くあぜ道が囲んでいる場合があります。古墳の墳丘自体は削平されていても道だけが残る場合がある。今ではめったにお目にかかれないですが覚えておくと役に立ちます。現実的には現地確認するよりも、古い地図で地割を確認するか、古い航空写真で確認するのが確実です。国土地理院のホームページでは昭和初期~中期のアメリカ軍が撮影した航空写真がライブラリ化されています。また現在の地図と明治大正昭和時代の地図を対比して表示するツールなどもあるので、これらを応用すると役立ちます。
       

既に削平された越後塚古墳の旧地割り跡(高崎市上中居町)

御堂塚古墳の削平跡 
御堂塚古墳の削平跡(高崎市上佐野町)

これは現在も残っている御堂塚古墳の地割ですが、周濠の周りに道路が、墳丘の周りにも小道が残っています。これほど痕跡がはっきりしたケースは珍しいが、区画整理されていない地域で、不自然に道路が褶曲している場合は、古墳総覧などで削平済みの古墳があった場所でないか確認してみるのも手です。



⑦見晴らしのよい場所を探せ

谷底や低湿な場所にある古墳にはお目に掛かったことがない。むしろ、高台だったり微高地や台地の上に在る場合が多い。河川の氾濫に備えたものと考えられます。河岸段丘の上部のほうは適地です。また山の中腹にある場合もあります。専門用語で山寄せ古墳と呼びますが、小さな円墳の場合が多く石室が露出していない限り、探し出すのは面倒です。
           

白石稲荷山古墳(藤岡市平井地区)
    

山の斜面にある石室崩壊している山ノ上西古墳(高崎市山名町)

              

⑧シュロの植えてある場所を探せ

シュロはヤシ科の常緑植物で背が高くなります。幹の周りに毛が生えていて昔はシュロ縄を作ったそうです。この目印は少しマニアックです。これは群馬県に特に多いのですが、小さな円墳にシュロが数本植えられている場合があります。古墳に植えられたというより、墓所、祠、古碑などを飾るために植えられたのかも知れません。一般的には、松の木が一本という場合のほうが多いかも知れませんね。
話が発散してしまうが、シュロの皮の繊維は非常に強力でしなやかです。強いだけでなく耐久性にも優れています。シュロの木を伐採して放置しておくと20~30年くらいで木質部は腐食しますが、皮の繊維はまったく劣化がありません。そのためシュロ繊維で編んだシュロ縄が昔は使われていた。この縄が何時の時代まで遡るのか調べたことがありますが、江戸時代に使われていることは分かったがそれ以上は分かりません。
古墳の天井石などを運ぶ時は大勢の民衆が木のソリを曳いたわけですが、そのためには強力な縄が必須であったはずです。麻縄も強いがシュロ縄には敵わないでしょう。もし古墳時代にもシュロの木があったとすればシュロ縄が使われた可能性はあると思います。この植物は熱帯性でありながら耐寒性がつよく、北海道でも繁殖しているくらいです。
           

妙音子山古墳(高崎市下佐野町)

⑨石垣を探せ

これも少しマニアックになります。街中など住宅街にある古墳は周りが削られて、石垣が積まれている場合も多い。単なる盛り土と見過ごさずに確認が必要です。
 

推定古墳であるが一致するデータなし(高崎市下佐野町 定家神社境内)

⑩つぼやまを探せ

かなりマニアックです。古い民家の庭には、“つぼやま”があることが多いです。しかし、庭の広さに対して不釣合いに大き過ぎる“つぼやま”は円墳の可能性があります。このようなケースは個人所有なので勝手に見るわけにはいきませんが、家の主人がいたら 聞いてみるのも手です。
        

 民家の庭先の円墳(藤岡市白石古墳群)


⑪山の頂を探せ

これもマニアックです。山の頂上は元々墳丘状になっているのは当たり前なので気が付かない場合が多いですが頂き自体が古墳の場合もあるのです。特に円墳の場合は判別しにくいです。石室片や埴輪片などがあれば注意を引きますが、事前に存在情報を得ていないか限り、素人には難しいですね。
      

 小高い低山の頂上にある円墳(富岡市北山茶臼山古墳)
        

低山の頂上にある前方後方墳(太田市寺山古墳)


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古代氏族の系譜と実在性

古代史好きは天皇やそれを取り巻く氏族系譜を見ることが多いのですが、やけに長いし、こんなものが本当に信用できるのか怪しいと思うのが本音です。しかし、氏族系譜の実態を知れば何となく信用できる部分と胡散臭い部分の推定もできて興味も湧きます。そこで以下にどんな種類の嘘と本当があるのか、私が知る限りで分類してみました。尚、分類名は私の理解で付けているものもあり正しい専門用語ではありません。

(1)実在系譜

実際に血縁で結ばれた事実系譜です。
古代系譜そのものが氏族の権威付けのために作られる傾向にありますから、全て実在などというケースは滅多にないと思います。また、殆どが父系系譜に描かれていますが、怪しいところです。現実的に完全父系などありえないでしょう。また、実在系譜でも各個人の人格や事績が真実とは限りません。実在するが、その人物像はフィクションであり、ギャップのある場合が殆どです。脚色が極端な場合は、実在と言うべきか、架空というべきか悩むところです。特に事績創作のあるものを脚色実在系譜と呼びます。

(2)祖先人格化系譜

自分達の祖先に特定の事績を持った人物がいたことは確かだが、古い話で名前も分からない。何人いたのかもハッキリしない。そんな時、祖先を代表する人格を新たに起こす場合があります。そして、何人もの祖先が代々成し遂げてきた事績を架空の人物に託すのです。天皇家の例になってしまいますが、ヤマトタケルなどは天皇が各地に派遣した将軍をモデルに作られた人格でしょう。経過した時間の長さによって一人のこともあれば複数の人格を起こす事もあります。架空ですから厳密には実在しないのだが、モデルとなる人々がいたというケースです。

(3)共通祖先人格化系譜

(2)と同じですが、新たに起こされた架空の人格を複数の氏族が共有する場合です。一般的には、氏族名が異なっていても同族どうしの氏族が共有する場合が多いです。ある氏族が創作した祖先人格だったものが、後に縁故の氏族が共用するようになるケースです。300歳近くまで生きたとされる武内宿禰などは良い例でしょう。葛城氏、蘇我氏、巨勢氏、平群氏などの共通祖先ですが、もちろん架空です。




(4)擬制系譜

ある氏族が自分達をより権威あるグループの氏族系譜に組み込むことがあります。もちろん血縁はないのですが、婚姻関係、従属関係、同一神信仰などで深い縁がある場合です。系譜の作成には2通りあると思います。一つは親グループの中の人物を我が氏族の始祖として接続するケース。もう一つは、架空の人格をつくり、目的の系譜の中に挿入してそれを自分達の始祖とする方法。古代の系譜は、建前上、「父系系譜」になっていますが、直系に入れる場合と傍系として入れる場合があります。これで新たな親系譜グループの一員になります。たいていは天皇と縁のある大きな氏族のなかに組み込むために行います。こういうと、何かインチキのように感じますが、この方法は組み込まれる側の氏族も朝廷も暗黙公認と考えられます。

なぜ公認かというと訳があります。天皇とそれを取り巻く氏族というのは、会社の中の組織に似ています。大きな会社になれば、社長の下に平社員が何百人もいたら指示系統が多過ぎて回りません。そこで、部課長を作って指示は部門のトップに出せばあとは部門の中で回すようになります。この部門を氏族グループに置き換えたものです。細かい氏族がたくさんいるより、大きな氏族グループとして纏まっていたほうが便利なのです。

これは指示系統を簡略化するだけの効果ではありません。擬制系譜のメリットは、そのシステムが強い結束力で代々継承されていく事です。企業においてはビジネスライクな関係だけですが、擬制氏族の中ではもっと強い血筋や思想に近い結束力が代々継承されるのです。これは、束ねる天皇にとってはかけがえのないシステムとなります。

(5)共通擬制系譜

(2)と(3)の関係と同じです。親系譜の特定人物や組み込まれた架空の人物を複数の氏族が始祖として共用し
ます。この場合も共有するのは何かしら縁故のある氏族どうしです。

(6)粉飾架上系譜

氏族の系譜を作るうえで、世代の調整や系譜を長く古く見せたい場合に挿入する架空の人格です。例えば、天皇系譜でも欠史八代と呼ばれているが、第二代から第九代までの天皇は架空という説があります。天皇の始祖を古い時代に置いた為に天皇の数が足りなくなり、架空に天皇を挿入したと云われています。欠史八代が架空かどうかは別として氏族の場合もこれと同じことがあり得ます。事績の伝承が必要な場合は、創作するか、実在人格の事績を分割して設定します。

以上、6つあれば殆どの系譜は分類できるでしょう。


ではこれらを実際の系譜に当てはめてみます。あまり長い系譜では疲れるので、古代史本によく出てくる「さきたま稲荷山古墳」の「辛亥鉄剣銘文」を例にしてみます。辛亥鉄剣銘文には8代の系譜が記載されています。
          

 辛亥鉄剣銘文の系譜の推定分類

辛亥鉄剣銘文で実在性があるのは、オワケノ臣の祖父の代までの3代だけという説が有力です。その上の5代に付いては、他の氏族の系譜か、何らかの架空系譜と思われます。

オワケノ臣の父と祖父には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかず、呼び捨てです。その上の5代とラストは、ヒコ→スクネ→ワケ×3→臣と変化しており、これは祖先系譜の類型パターンで非常に類例が多い。特に畿内の中央豪族に多い系譜パターンです。従って、類型パターンを使って全くの創作を行った
か、有力な他氏族の共通祖先人格化系譜に擬制系譜の手法を使って接続を図ったと考えられます。恐らく後者だと思います。

一番上のオオヒコは日本書紀に出てくる開化天皇の兄であるオオヒコという説があります。それが事実なら、書紀によるとオオヒコを始祖とする氏族は幾つかありますので、オワケ臣もそれらの氏族の可能性があります。阿倍氏や膳氏はオオヒコを始祖としてるので武蔵と関係が深いので可能性はある。系譜上ではオオヒコ以外の人名一致はないようですが、新撰姓氏録によるとオオヒコの子孫からは多くの氏族が発生したという伝承があるようです。その中にいるのかも知れません。

辛亥鉄剣銘文の例ではオワケノ臣と関係する系譜を特定できないため、分類名の適用は正しくないかも知れません。でもこのような系譜構成の基本が分かれば氏族系譜を見るのも興味をもって見ることができます。





参考文献  溝口睦子著  『日本古代氏族系譜の成立』
      溝口睦子著  『古代氏族の系譜』
      遠山美都男著 『天皇誕生』
      熊倉浩靖著  『古代東国の王者』
      金井沢良一対談集『古代東国の原像』
      小林敏男講演 『115文字の銘文が語る古代東国とヤマト王権』
      群馬県立女子大学「北川研究室」公開テキスト版『新撰姓氏録』
      ホームページ 『おとくに
       他




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