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古代日本東国遺跡考カテゴリ記事一覧

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綿貫観音山古墳の天井石《高崎市》

この古墳は高崎市では最も有名な古墳と云えるでしょう。一番の理由は、盗掘を免れていたことに尽きると思います。古墳周囲の貴重な埴輪群は勿論だが、石室から発見された副葬品の豪華さは群を抜く。盗掘を免れた原因は巨大な石室上部の天井石の一部と側壁片面が崩壊して土砂が流入し、盗掘者も入れなかったからです。まさに不幸中の幸いということでしょう。
 
綿貫観音山古墳上空図 

綿貫観音山古墳俯瞰図 


私が小学生だった昭和40年代の話。綿貫観音山古墳の墳丘で埴輪のかけらを拾い集めていた頃ですが、後円部の頂上は現在の再現された墳丘とは違い表面もでこぼこで、高さも低かったと思います。たぶん、墳丘表面は自然な浸食と畑作(桑畑)による浸食で表土が削られ、天井石は表面に露出する寸前だったと思われる。

発掘前の綿貫観音山古墳 
発掘前の綿貫観音山古墳

img_10.jpg 
現在の復元後の墳丘

でこぼこだったのは、一部の天井石が石室内に崩れ落ちて墳丘表面まで陥没していたせいかも知れません。古い写真で見ても、左の前方部は形状がしっかりしてるが、後円部は現在と比べて低く乱れているのが分かると思います。子供の頃の記憶もまんざらではないと思いました。
石室の位置は開口部の側面写真から見てもかなり高い位置にある事が分かります。いずれにしろ、当時、地下にこんな巨大な石室があるなんて思いもしなかった。

綿貫観音山石室入口 
石室入口(石室復元後)

綿貫観音山古墳石室 
復元後の石室内

綿貫観音山古墳石室崩れ 
発掘時の石室崩壊状況

綿貫観音山古墳副葬品発掘 
副葬品の銅水瓶と祭祀土器の検出状況

ある古代史冊子に綿貫観音山古墳の天井石の事が書いてありました。この古墳の天井石は6個あって最大は22トンだったという。石室が崩れていたため、全部ばらして組み立て直しています。そのときに重量を測っている。


綿貫観音山古墳天井石 
最大の天井石

この天井石は15Kmほど南東方向にある牛伏山付近の岩盤で、牛伏砂岩と呼ばれています。上毛三碑の一つ、多胡の碑も牛伏砂岩で出来ています。比較的硬い砂岩だが、加工しやすいのでよく利用されたのでしょう。
何度か石のある場所を見に行ったが、実際には牛伏山ではなく、隣の八束山(城山)の中腹に露出した岩が見えます。崩壊した大きな岩も転がっている。ここから運んだものと思います。
ところで、22トンもの石をどうやって運んだのでしょうか。冊子の著者は鏑川や鮎川の流れを利用して烏川を下り、さらに井野川を遡って綿貫まで運んだと推定していました。つまりイカダを組んで運んだという推定でした。

しかし、この推定には疑問があります。
22トンの石をイカダで浮かせるには巨大なものが必要になります。いくら大きな杉やヒノキでも1本の浮力は高が知れている。例え作れても、コントロールできない可能性が高い。
仮にイカダが作れても、川の水深を考えると無理がある。1500年前でも集水面積は現在とそれほど変わらなかったでしょう。この水系にダムはないので、現在と水量は大差が無いと推定できます。鏑川や鮎川の平時の水深はやっと1m。烏川でも2m程度でしょう。小河川に巨大なイカダを浮かせるのは大雨による増水時でもなければ不可能です。しかし、そのような危険を冒すことは考えにくい。

答えは大阪で見つかっています。大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳の周濠から修羅(しゅら)が出土している。修羅は石を運ぶ木製のソリです。

修羅の発掘 
発掘された修羅

修羅 
出土品から復元された修羅

約15Kの距離を修羅に石を載せ、数百人で引っ張ったと思われます。古民俗学者によると当時の石棺や石室材の運搬はお祭りに近い行事だったのではないかと云われています。近隣の同盟地区から労働者が集められ協力したのでしょう。ただ問題は現在の烏川の河岸を見ると倉賀野付近は川による侵食で高い崖になってる。ここをどうやってクリアしたのか分からない。ずっと下流地域まで回ったのだろうか。

八束山観音山古墳距離 
牛臥砂岩の露頭のある八束山と綿貫観音山古墳の距離

修羅は引っ張るときに下にコロをいれるので平地であれば比較的楽に移動は可能です。実際に実験も行われてる。でも、崖や急な坂は無理があるでしょう。
地形的に見て、当時から鮎川、鏑川はあったと思います。しかし、烏川本流はもっと北を流れていた可能性もあると思います。現在の井野川と合流して流れていたかも知れない。
柴崎蟹沢古墳のあった高崎市柴崎町から栗崎町、岩鼻町には明らかな河岸段丘があります。この河岸段丘の北側一帯は綿貫古墳群の手前まで古墳の過疎地域となっています。

当時は治水技術も無いから氾濫の度に流路が変わることが多かったはずです。特に浅間、榛名の火山灰の降る当時は砂により川床がすぐに浅くなり流路が変わりやすかった。利根川でさえ、12世紀までは前橋市の北側を流れていました。烏川の流路がもっと北部であったなら、碓氷川の本流に対して鏑川、鮎川が合流するだけです。倉賀野近辺も水量は少なく、侵食も少なくて現在の崖もなかったかも知れません。

倉賀野東古墳群 
烏川北岸の群集墳

群集墳のある烏川北岸崖 
烏川北岸の崖は高崎市倉賀野町から岩鼻町まで続く

流路変更推定の理由は他にもある。烏川を渡るJR高崎線橋付近には非常に多くの群集古墳群があった。いま残っているのは上の地図で黒丸のものだけで、赤丸は全て削平されてます。しかし、両者とも切り立った川の崖っぷちまで迫っています。実際には川の侵食で崩落したものもあるでしょう。古代人も侵食されて崩れそうな場所に古墳を造るとは考えられない。おそらく当時は川からかなり離れていたか、水量が少なく崩落の危険はなかったのでしょう。なだらかな地形を整地しながら修羅を引張っていったのではないでしょうか。

 


【補足】
その後、群馬県のボーリング地質調査論文を調べた結果、烏川が現在の碓氷川との合流ではなく、井野川と合流して流れていた可能性は高いのですが、その時期は約1万年ほど前の事であることが分かりました。従って、本記事の中で古墳時代に烏川の流路が現在と異なるという推定は間違っています。ただ、天井石の運搬ルートが影響を受けたと思いますが、運搬方法自体は変わらないと考えますので、記事文章は訂正せず、補足として記載しておきます。



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信仰塚だった富士塚古墳《高崎市》

信仰塚だった富士塚古墳《高崎市》 

富士塚(高崎市柴崎町)


柴崎町の進雄(すさのう)神社の北東300mの地点。新旧の354号線の間に存在する。水田の中に残っている円墳上の墳丘。周辺の削平分を入れれば、直径15mくらいあるように見える。苔むした石の祠が置いてある。以下は、上毛古墳総覧からの情報です。


総覧番号 1890

綜覧名称 大類村11号古墳(富士塚)

総覧住所 群馬郡大類村大字下大類8

現住所  高崎市柴崎町939-2 (元高崎市下大類町)

所在地の地番が度々変わっており、現在は高崎市柴崎町になっているようです。総覧では、大きさ45尺(約13.6m)、高さ7尺(約2.1m)とある。綜覧では円墳とされているが、古墳ではなく中世の信仰塚である。以前、須恵器の破片がひとつだけ出土したことがあり、所有者はそれを根拠に古墳だとしてきたのであるが、調査した結果では古墳時代の土壌はまったく見つからなかったらしい。また、ネット上から以下の記述も見つかった。


*******引用開始*******
「まず下大類にある富士塚古墳ですが、群馬県遺跡台帳Ⅱ〔西毛編〕にある「墳丘周囲から土師器片が出土している」とある記述ですが、この土師器片がクセモノで、実は断片一個で古墳とは言い切れない。考えられるのは、どこからか集めた墳丘用の土に土師器のかけらが混じってしまったケース。これは境町の下武士古墳群にもあったケースで、土器片出土の記録から古墳とされていたものの、掘ってみたら何も出てこなかった。これと同じような事と判断されています。
地元民が「浅間さま」と呼ぶ富士塚ですから、純粋な信仰塚である可能性が最も高く、綜覧時代及び遺跡台帳時代の誤認、というのが高崎市教委の現段階での結論です。
もっとも、掘ってみたら塚の下に古墳が隠れていた、なんてケースもあるので完全否定はしてないそうですが、そういう古墳確率の低いものを市史別冊では省いてあるそうです。」
*******引用終了*******

結論として古墳ではないと思った方がよさそうです。



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