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東国の古代史

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2019-08-21 (Wed)  22:15

日本の徐福伝説地と秦氏

もう40年近く昔の1982年、ある中国人学者が江蘇省連雲港市贛楡(かんゆ)で徐阜(じょふ)という村を発見しました。その後の調査によると、村は乾隆帝の時代以前には「徐福村と呼ばれていたことが分かった。中国でも伝説であり、史実としては疑問を持たれていたの方士「徐福」の出生地だったのです。この発見によって徐福は実在人物の可能性が高くなってきた。徐氏の子孫は現代でもこの地域に生活していることも判明しています。


日本の徐福伝承地と秦氏の関係4
中国で発見された徐福村の位置と日本への想定航路(クリック拡大


紀元前219年に始皇帝は全国巡幸の旅に出る。旅の途中で琅邪(徐福村の近隣地域)に滞在している。この時、徐福は皇帝に不老不死薬探索に関する意見書を上奏したそうです。始皇帝が神薬を求めたのは有名なことです。以前から計画作成の命令があったのでしょう。
徐福の出自である田斉(BC386-221年)の名族らしい。田斉中国を統一したが最後に滅ぼした国です。始皇帝はあらゆる手を使って反抗した国の民を虐殺していた。彼はについても、反乱を未然に防ぐために抹殺する計略を持っていた可能性があるそうです。徐福始皇帝の臣下ながら危険な立場にあった訳です。皇帝の焚書坑儒(BC213年)は有名ですが、方士儒者460人を生き埋めにしています。徐福も方士ですから注視されていたのでしょう。

司馬遷史記秦始皇本紀」には、徐福らは始皇帝の命を受けて出航したが、膨大な期間と費用を掛けても神薬を手に入れる事は出来なかった。帰還して皇帝に「蓬莱へ行けば必ず神薬を得ることが出来るが、我々は大鮫に苦しめられて遂に島へ行くことが出来ませんでした」と報告している。つまり嘘をついた訳ですが一度目は皇帝も許したようです。史記では、徐福は皇帝を欺くペテン師として記録されている。また別の経緯談である史記 淮南・衡山列伝の中では以下のように記述している。
始皇帝は道士の徐福に命じて海上に神仙を求めさせた。徐福は帰還して報告した。「自分は海中において大神に逢いました。大神に長寿の霊薬を頂きたい」と話すと、彼は「汝が仕えている秦王の礼物が薄いのでやるわけにはいかない」と答えた。徐福は再拝して、「どのような物を献上したらよいか」と尋ねると、大神は「良家の善男善女と諸々の技術者、五穀を献じれば薬をやろう」と答えた
始皇帝は、BC210年にも巡幸したが、再び琅邪を訪れて徐副に神薬を求めて出航するように命令をします。徐福は2回目の探索において、一族男女三千人を集め、食料と技術者を載せて出航した。徐副は一連の任務が達成不可能であること、目的を達成できなければ処刑される恐れがあることを認識していたようです。殺される前に一族を連れて逃亡することを計画していたのでしょう。前述の徐福の報告は将来の逃亡に備えて始皇帝を欺き、準備に不審を持たれないよう画策したということです。


では日本にある徐福伝説のある地域を確認してみましょう。日本には徐福伝説が非常に多い。北海道を除く全国的にあると言っても過言ではありません。韓国の済州島にも徐福伝説はあるそうです。

日本の徐福伝承地と秦氏の関係3
日本各地の徐福伝説クリック拡大


しかし、徐福と三千人男女の出航の話が史実でも、さらに無事日本に到達できたとしても、こうも日本列島を広範に拡散したとは思えない。この現象には何か理由がありそうです。
個人的な見方ですが、徐福伝説のある地域の多くは、朝鮮半島からの渡来系氏族である秦氏の居住した地域と重なりがあるような気がします。一般に、秦氏は中国始皇帝の末裔を自称したと云われている。始皇帝は残虐非道であったため、命令を達成できなかった臣下の中には処刑を恐れて逃亡した者も多かったそうです。秦氏もそういった逃亡民の可能性があるのかも知れません。もっとも、もしそんな経緯があるなら、非道な皇帝を氏族の始祖とすることに違和感を感じます。秦氏の始祖伝承は信用できるものではないが朝鮮半島の新羅または百済を経由した渡来人であるのは間違いないようです。

私は、秦氏が主張する始祖伝承と徐福伝説は本来は無関係と思います。しかし、どちらも始皇帝と密接に関連する話なので、いつの時代にか融合してしまったのではないかと考えている。つまりに何らかの起源を持つ秦氏は、やがて徐福が日本に連れてきた男女三千人の末裔に変化してしまったのではないか? 両話の融合が、一般民衆の自然な誤解から発生したのか、または、秦氏自身が暴虐非道の始祖から、日本人に好かれる徐福に始祖をすり替えたのかは分かりません。何れにしても、秦氏の子孫は非常に多いので徐福伝説の地も必然多くなったような気がします。

一部の研究者の中にも、中国を脱出した徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫が秦氏となったたとする説を述べてる人がいます(此の説の根拠出典は後述)。しかし、徐福が集めた三千人徐氏の一族であったはずです。他の無関係な民衆が到達できる保証もない移住に応じるとは思えない。善男善女とは下層民ではなく良家の男子女子を指します。前述したように、徐福始皇帝に何れを滅ぼす計略があることに危機感をもっていた。できるだけ多くの一族を助け出したいと目論んだのだと思います。しかし、からすれば田斉を滅ぼした始皇帝は憎悪の対象ですから、運良く生き延びても自分たちをの末裔と主張するはずがない。秦氏などと自称するはずもないでしょう。名族であるの名を使ったはずです。従って、秦氏徐福の子孫というのは、説得力に欠けたあり得ない説だと思います。



さて徐福伝説の背景についてざっと触れてきましたが、中国での新発見によって徐福は実在性を帯びてきた。司馬遷(BC145-87年)史記は中国古代文献の中では群を抜いて正確な書物であると云われています。しかし私が史記を信じるのには他にも理由がある。史記が記述されたのは、徐福が出航してから130年程しか経っていない時期だからです。同時代史として記録された徐福の話の史実姓は高い。ただ、不明な点が無いわけでもない。2回目の出航命令があった同年に始皇帝は死去します。その死は暫く伏せられ、宦官趙高李斯による政治が数年続き、BC206年には滅びます。これが2回めの探索に影響したのか分からない。徐福始皇帝の死去以前に出航したと思われるが、正確な出航日時が分かりません。また、BC210年7月の皇帝の死は反乱を恐れて伏せられた訳ですが、何時まで隠されたのか不明です。

徐福の二回目の東方探索は、一回目のような誤魔化しではなく、逃亡の覚悟を決めた真剣な旅であったと思います。紀元前の時代、中国人にも東方海上の正確な地理認識は殆どなかったはずです。でも、大陸の海岸線伝いに航路をとるか、江蘇省から正確に東に向かえば朝鮮の済州島か、北九州、中国地方に到達した可能性は十分にある。私は徐福の亡命移住で何割の人が無地にたどり着いたのか分からないが、史実だと思っています。
前述したように多くの伝承地は秦氏の居住に端を発する伝承であると推測するが、それらの中には真実の徐福来訪の地が隠されている可能性はあるでしょう。
ならば、その地は具体的にどこにあるのだろうか。一つの資料として、中国の中世地図「東南海夷図に参考になる記載がある。この地図は過去記事でも紹介したことがあるが、もう一度引用します。


日本の徐福伝承地と秦氏の関係1
中国の東南海夷図二重クリック拡大
※東南海夷図には「東西南海夷諸國総圖」という複写版があるが、描画精度がやや低い。


日本の徐福伝承地と秦氏の関係2
東南海夷図の日本列島拡大図クリック拡大


中国人がどんな方法で此の地域の情報を入手したのか分かりません。この地図が作られたのは西暦1300年頃ですが、鎌倉時代から室町時代にかけての時代です。日本は中国の元寇を撃退したあとの時期です。894年に遣唐使が廃止された後は定期的な交流はなくなっていますが、公的な往来はなくとも、商業的交流はあったでしょう。日本人が日本国内の伝承に基づいて中国人に教えた可能性はあると思います。でなければ、徐福が到達した国という認識はあっても具体的な地域と地名まで中国人に分かるとは思えません。徐福は中国に帰ってはいないのですから。
実際に、日本の徐福伝説は後周(951年-960年)の時代に中国に伝えられています。中国には「義楚六帖」という僧義楚が著した仏教書があります。その中で日本の僧寛輔なる人物が伝えた話として「日本の富士山は蓬莱に他ならず、徐福は此処に住んで、その子孫は秦氏になった」と記している。山梨県富士吉田徐福伝説はこの書の影響かと思います。しかし、この話は寛輔なる人物の想像か、当時あった秦氏の伝承をそのまま述べたものだと思います。10世紀の僧が弥生時代の事を正確に把握できていたとは思えない。前述したように秦氏出自との伝承融合は10世紀には周知されていたと推定します。地域も富士山周辺ですから東南海夷図徐福記述は寛輔が伝えた話とは違うようです。


東南海夷図では、日本列島は四島に描かれているが、地名同定から左から3番目の島が中国地方四国相当するのは、まず間違いない。古地図の地名と現代地名との対応を推定します。

■迎江 →  松江or近江? 江とは浅い海の意。近江だと地図上の島が異なるか?
■長門 →  長門     地名変化がない。門は瀬戸内海への入口の意であろうか。
徐福相 → 徐福祠      「相」は「祠」の誤記か?祠は先祖や神を祀る場所。
              この地で徐福は亡くなったと考えることもできる。
■修前 →  備前?   付近の広域地名で前・後の付くのは備前、備後がある。
■修後 →  備後?    同上
周長 →  周防(周芳) 備後との隣接から安芸または周防付近か。
赤関 →  明石?   関は狭い海峡の意。明石海峡か。明石=赤石説がある。
讃  →  讃岐    四国の讃であろう。


日本の徐福伝承地と秦氏の関係6
東南海夷図地名と実際地域の対応推定


徐福祠は囲まれた地名から考えて、中国地方西部の山口県~島根県~広島県あたりの可能性が高いと思います。徐福伝説所在地で言えば、山口県上関祝島や広島県厳島の宮島町は候補となります。ただ両者とも時代の合う客観的な証拠遺物などがある訳ではない。伝承があるだけです。また、日本の中世には行基図という正確な地図があります。くまなく探してみたが、「徐福」の記載は見つかりませんでした。徐福が上陸した伝承はあったかも知れませんが、日本では地名にはならなかったようです。
なお、史記によると「徐福は平原広沢を得て王となり、二度と帰ってこなかった」と記録している。平原広沢とは広い平野と湿地という意味です。史記には具体的な地名の記載はないが、これを信じれば山岳の多い小さな島ではありえず、最終的に定着したのは河口平野部ということになる。また疑問なのは司馬遷はこの情報をどこから入手したかです。時代は邪馬台国さえない弥生中期中葉です。この時代に日本から中国への情報入手があり得るだろうか。史記と同時代に書かれた漢書地理志には「楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とあり、倭国は既に楽浪郡までは朝貢していたふしがある。朝貢した倭人徐福の近況を伝えたということだろうか?だとすれば、BC200~100年頃の倭人に徐福の移住は知られていた事になる。朝貢した倭人は、時代的に九州北部を本拠地としていたと思われる。倭人が徐福を知っているなら、上陸定住地は九州または近隣の中国地方西部の可能性が高い。少なくとも紀伊、東海は考えにくいだろう。

日本の徐福伝承地と秦氏の関係5
クリック拡大

徐福たちは、日本に上陸して永住したのか、また更に移住拡散していったのかは全く分からない。何しろ弥生時代のことですから記録などは期待できない。日本人と混血していったとすれば、痕跡を検出するのは難しいでしょう。各地に残る徐福の墓なども殆ど近世に造立されたものです。観光用の町興しに近い。日本には朝鮮半島国家からの亡命者はやたらと多いという印象があるが、中国からの移住者というのは極少ない。もし一部の日本人に中国系の血が入っているとしたら、面白い話だと思います。中国には系譜の確かな一族がいるようですから、日本の伝説地の人々とDNAを比較してみたいものです。ついでに、日本の秦、羽田、波多さんとも比較して貰えれば、私の徐福・秦氏無関係説も証明できるかも?




【参考引用】
■秦の始皇帝  講談社学術文庫版/集英社版  吉川忠夫著  
■混一疆理歴代国都之図と日本2016      村岡 倫
ホームページ 江蘇省の歴史を歩く「徐福の里を訪ねて」
■ホームページ 邪馬台国大研究 / 徐福伝説


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韓国にも除(ソウ)さん * by レインボー
>中国には系譜の確かな除氏一族がいるようですから、日本の除福伝説地の人々とDNAを比較してみたい。

〇興味深い記事でした。
 DNAですが、韓国にも除(ソウ)さんがいますね。
 日本はどうなのでしょう。
 草々

Re: 韓国にも除(ソウ)さん * by 形名
レインボーさん、こんにちは。

韓国の徐ソ姓も有名ですね。
朝鮮の氏族辞典で調べると「徐」はいずれも中国系の姓になるので、元は中国人なんでしょう。
3派があるようですが、2派は高麗時代からなので10世紀代の移住のようです。
もう1派の利川徐氏は少し古いみたいです。
日本の場合はよく分からないですが、韓国由来は利川徐氏が大阪のほうにいるようです。
中国由来も神奈川県にいるようですが、横浜市山下町なので横浜中華街に関係する帰化人
かもしれないですね。
しかし2200年も前の移住だと日本では氏姓形成されていない時代かも知れないので
徐氏姓が残る可能性は少ないような気がしますね。

No Subject * by sazanamijiro
京都の太秦に住む在日朝鮮人の知人は、昭和の渡来ですが、日本姓を「畑」として、秦氏の末裔のふりをしていました。(本人いわく)
古くから秦氏も雑多な人々が混じっていたようで、平安京に限って言えば、「秦嫌い」でも「秦氏」のふりして実を取る人がいたかもしれませんね(笑)

秦氏にも徐福にも興味があるので、精緻な史料にいいヒントをいただきました。ありがとうございます。
(オールポチです)

Re: No Subject * by 形名
sazanamijiro さん、おはようございます。コメントありがとうございます。

秦氏というのは渡来人としては大きな集団だったようですね。氏族というのは、血縁で結ばれていると考えがちですが、実態としては、擬制氏族が殆どで、利益による結びつきが多いと聞きます。その時々の状況で、所属する氏族を変更するような事も頻繁にあったようです。秦氏の場合は、始祖伝承になりますが、日本で馴染みのない始皇帝よりも、徐福と結びついたほうが有利だったのかも知れないですね。
ブログのよいところは、歴史研究を職業とはしない素人なりに、他者の意見を知る場になっている事だと思います。他のブロガーの意見に同意・不同意はあっても、それを発端にして発展意見を発信するのは、日記系ブログにない魅力のような気がします。期待してしまいます!

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韓国にも除(ソウ)さん

>中国には系譜の確かな除氏一族がいるようですから、日本の除福伝説地の人々とDNAを比較してみたい。

〇興味深い記事でした。
 DNAですが、韓国にも除(ソウ)さんがいますね。
 日本はどうなのでしょう。
 草々
2019-08-22-09:21 * レインボー [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: 韓国にも除(ソウ)さん

レインボーさん、こんにちは。

韓国の徐ソ姓も有名ですね。
朝鮮の氏族辞典で調べると「徐」はいずれも中国系の姓になるので、元は中国人なんでしょう。
3派があるようですが、2派は高麗時代からなので10世紀代の移住のようです。
もう1派の利川徐氏は少し古いみたいです。
日本の場合はよく分からないですが、韓国由来は利川徐氏が大阪のほうにいるようです。
中国由来も神奈川県にいるようですが、横浜市山下町なので横浜中華街に関係する帰化人
かもしれないですね。
しかし2200年も前の移住だと日本では氏姓形成されていない時代かも知れないので
徐氏姓が残る可能性は少ないような気がしますね。
2019-08-22-17:02 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

京都の太秦に住む在日朝鮮人の知人は、昭和の渡来ですが、日本姓を「畑」として、秦氏の末裔のふりをしていました。(本人いわく)
古くから秦氏も雑多な人々が混じっていたようで、平安京に限って言えば、「秦嫌い」でも「秦氏」のふりして実を取る人がいたかもしれませんね(笑)

秦氏にも徐福にも興味があるので、精緻な史料にいいヒントをいただきました。ありがとうございます。
(オールポチです)
2019-09-30-23:25 * sazanamijiro [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

sazanamijiro さん、おはようございます。コメントありがとうございます。

秦氏というのは渡来人としては大きな集団だったようですね。氏族というのは、血縁で結ばれていると考えがちですが、実態としては、擬制氏族が殆どで、利益による結びつきが多いと聞きます。その時々の状況で、所属する氏族を変更するような事も頻繁にあったようです。秦氏の場合は、始祖伝承になりますが、日本で馴染みのない始皇帝よりも、徐福と結びついたほうが有利だったのかも知れないですね。
ブログのよいところは、歴史研究を職業とはしない素人なりに、他者の意見を知る場になっている事だと思います。他のブロガーの意見に同意・不同意はあっても、それを発端にして発展意見を発信するのは、日記系ブログにない魅力のような気がします。期待してしまいます!
2019-10-01-09:30 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]