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陳寿にはめられた日本人(4/4) -大国として描かれた南国の倭国-

魏志倭人伝の誇張が東夷の地を平定した司馬氏や、恩義を受けた張華への配慮に影響されてる可能性については前稿で述べました。しかし、司馬懿(しばい)は公孫氏を滅ぼして朝鮮半島中部まで手中としましたが、倭国を攻めて領土とした訳ではありません。でも倭人伝の記述は倭国内の里程も誇張し、人口も著しく水増しが入った可能性が高い。たぶん司馬氏が倭国の朝貢を促した事実はあったろうと思いますが、それだけで、すべての誇張が施されたという論は弱い気もします。このあたりをもう少し検討します

東洋史学者の岡田英弘氏は、「中国の皇帝とは伝統的に外国使節の朝貢を求める」性格を持つと述べています。この性格は中華思想に起因すると云われる事が多い。中華思想とは古代道教の思想で、五服(ごふく)と呼ばれることもあります。この思想は、世界の中心は中国にあり、文化の中心である。辺境へ行くほど人民の文化度は低いが全て中国皇帝の臣民であるという考え方です。しかし、岡田氏は中華思想に原因を求めるのは誤りだと述べている。
                 
陳寿にはめられた日本人12
岡田英弘氏

中国人は喧嘩をしても当人同士の暴力に訴えることを美徳とはしません。では何によって勝負を付けるかというと、喧嘩をとりまく見物人にいかに相手が不当であるかを訴えるのだそうです。そして、味方につけた人数が多い方が勝ちという訳です。この際、味方に付ける人間は中立の立場の人間でなければなりません。

大陸文化の中国人は徹底した人間不信が基本ですから、第三者を味方に付ける事に価値を置く。この原理は国政のレベルでも同じです。三国志の時代は、という国に分かれて内乱となっていたわけですが、外交攻勢ではいかに諸外国を味方に付けるかで争いました。辺境の倭国からの朝貢も、むしろ倭国からの動機よりも、受ける側の中国に動機があった。勿論、倭国側も中国に後ろ盾になってもらうことで倭国内での優位性を得るというメリットがあった。お互いの目的に合致した朝貢といえる。

中国側から見れば、朝貢してくる国は、遠いほど、また、大国であるほどアピール力があります。それだけ、皇帝の徳が隅々まで知れ渡っていると宣伝できるからです。魏は西暦229年にはるばる西域の西トルキスタンのクシャン国から朝貢を受け、親魏大月氏王の称号を贈っていることは前稿でも記載しました。クシャン国は倭国よりもだいぶ大きな国だったようです。従って、対する東側の遠国からも朝貢が欲しいと思っていたはずです。此処にやって来たのが倭国(邪馬台国)ということ。
は西暦239年に倭国王に親魏倭王の称号を与えます。これは西のクシャン国に対する東の振り合いです。おそらく、は倭国が小国であることは知っていたでしょう。しかし、朝貢の宣伝合戦ですから、小国などと云う訳にはいきません。邪馬台国に至る行程も長大にして、そこに住む住民の数も大幅に水増しする必要があった。

【補足1】
後漢書西域伝のクシャン国(親魏大月氏国)の記録を見ると、「戸数10万戸、口40万、勝兵10余万」と記録されている。つまり戸数10万戸、人口は兵士を含めて50万人強です。中国の1戸あたりの平均人数は時代毎に多少変動しますが、平均すると約5人です。此の値は前述のクシャン国データでも一致している。この事は、中国人の目から見た計数法によっているからでしょう。魏志倭人伝の戸数も中国人による計数法で見ることが可能であると判断します。クシャン国の10万戸50万人と、倭国の15万戸75万人の人口を比較しても、両者の里程と同じように倭国のほうが、より誇張されていることが想定できる。アフガニスタン、パミール高原、インド北部にまたがる広大な国よりも人口が1.5倍も多いという設定になっています。

陳寿にはめられた日本人13
クシャン国(クリック拡大


以上が岡田氏が主張する、倭国が大国として魏志倭人伝に記録された原因という訳です。なかなか説得力のある論旨だと思います。卑弥呼の朝貢も中国側から朝貢要請に応じた可能性が高いのだろう。ただ、陳寿が三国志を実際に記述した時期を調べてみると、蜀が魏に滅ぼされ、に滅ぼされたあとの西暦280~284年頃でした。結果的にはの時代は長くは続かないのですが、一応、三国時代は終結して中国が統一されていた時期です。従って、三国志自体がの宣伝合戦のネタ目的と云うのは間違いです。宣伝合戦はの時代から継続していたと見るべきです。からの時代になっても権力者一族は変わっていないのですから、それが求める権威の象徴には変わりはない。司馬氏が実権を握っていたの宣伝情報は過去の既成事実として扱われたという事です。
この頃、倭国では卑弥呼は既に亡く、次の宗女トヨの時代です。トヨは266年にに朝貢していますが、280年頃は晩年(推定45~48歳)に当たります。トヨと畿内ヤマト朝廷の関係は無いのかもしれませんが、初期ヤマト王権が形成されていた時期になります。


「陳寿にはめられた日本人(2)」で魏志倭人伝の疑問点として、日本列島が九州を北にして南北に伸びた列島であるように記載されていることに触れた。おかしいのは南北に傾いた列島だけではありません。日本列島の全体の配置(緯度)が台湾付近以南に想定されているようです。これは、邪馬台国への里程、所要日数、風俗の記載にも合致しています。
なぜ、日本列島を南国にもっていくのでしょうか。実際に倭国に到達した人間を方位で騙すことは出来無いと思います。船乗りにとって方位の正確さは生死にに関わる事であり、行き当たりばったりで辿り着いてるわけではありません。

此れについても、岡田氏は論を述べている。
前稿で中国遼東地方の公孫氏に反抗してという国を起こしたことは記載しました。公孫氏は名目上はの地方官でしたが、に反抗する機会を狙っており、孫権と連携してに対抗していました。いわゆる近攻遠親策、「敵の敵は味方」というものです。は反乱を起こしたと組んで南北から牽制したわけです。特には水上戦に強かったから、初期の制海権はが握っていたのでしょう。


陳寿にはめられた日本人23
三国時代の魏、呉、蜀の位置関係(クリック拡大
(魏の公孫氏は238年に司馬懿によって滅ぼされている)


としてはを牽制する味方が欲しかったはずです。その役目を担ったのが、親魏倭王を与えた倭国という訳です。牽制するには、味方は敵の背後にいるのが上策です。そこで倭国を南国であるの東方上に配置して、を牽制したという解釈です。この宣伝情報は、の同盟国である倭国が単に大国であるだけでなく、を脅かす位置にあるという点が最大の目的だったと考えると受け入れやすい。西域のクシャン国の里程をも凌駕する、17000里という途方もない誇張は、単に司馬氏の功績を称えるだけでなく、大きな目的が隠されていたという解釈は説得力があります。

の使節は倭国に実際に渡っていますから、倭国への距離感は正確に把握していたはずです。でなければ実際に辿り着くのは不可能です。言い換えれば、魏志倭人伝の記載の誤りに使節関係者は気がついていたでしょう。しかし、は倭国がにとって脅威となるような国力を持っていないのは分かっていますから、に倭国の実態を知られて困ります。ましてや、に海上航路で直接倭国に到達されては絶対に困るわけです。従って、異常な里程の誇張は、戦略上の理由から倭国の正確な位置を隠すためとも考えられます。ただ、陳寿張華が此の事実を知っていたかどうかは不明です。魏志倭人伝の詳細な記述が全てデタラメとは思えないが、方位や里程は、実態とはかけ離れた値が朝の公式記録として管理され、陳寿に渡った可能性もあるでしょう。ある地点から里程ではなく所要日数に変わるのも情報撹乱のようにも思えます。もし、陳寿が邪馬台国の実態情報を把握していたとしても、前稿で記したように張華への配慮から、朝廷の公式記録に反してまで真実は書けなかったような気がします。


陳寿にはめられた日本人22
Google Earthによる洛陽~沖縄南端までの行程距離クリック拡大


上の図は、魏の首都洛陽から福州市の真東にあたる沖縄那覇までの行程距離図です。実際の行程ルートと比べると誤差が大きいでしょうが、沖縄まで入れても、約4000~4200Km程度でしょう。此の値は、17000里=7395Kmを考えれば、まだまだ差が大きい。此れほど誇張する必要はなかったと思われるが、やはり「17000里」の数値自体は、西域クシャン国の16370里に対してバランスをとったサジ加減の要素があるのでしょう。

なお、2019年現在においても、中国史書の里程と現代知識による実距離から短理を導入したり、別の観点から短里を持ち出す論者が多い。彼らは邪馬台国の所在に関する自身の主張に沿って、里という単位を都合よく改変したいのだと思うが、つじつま合わせの考え方だと感じます。一般に日本の史書は批判的に評価する人は多いが、なぜか中国史書を批判的に論じる人は極少ない。潜在的に古代中国の高い文化性に萎縮してしまっているのだろうか。中国史書にも何らかの目的を持って、嘘や誇張があるという視点で考えても良い頃だと思います。

さて長々と書き連ねましたが、何れにしても、魏志倭人伝が何らかの事情で正確な地理誌になっていないのは事実と思われます。結果的に親魏倭王という偉大なる称号が与えられると同時に、これまた偉大なる邪馬台国という幻想が後世に伝えられる事になったわけです。陳寿が意図したわけではないが、まさに私達は「陳寿にはめられた日本人」と云えそうです。





【補足2】
中国の史書には、邪馬台国の大雑把な方位が記述されている。
■三国志(完成時期280~284年頃)
 計其道里當在会稽東治之東
 意:(女王国までの)道里を計ると、まさに会稽東(かいけいとうち)の東にある。
■後漢書(完成時期は430年代)
 其地大較在会稽東冶之東
 意:その地(邪馬台国)はほぼ会稽東(かいけいとうや)の東にある。


陳寿にはめられた日本人21
会稽東治と会稽東冶の緯度の違いクリック拡大


会稽郡というのはの領土にあった地方名ですが、両書の記述には東治東冶の違いがあります。現在でいう蘇州市福州市に相当しますが、地図で示すように南北に570Kmほど離れている。この解釈については諸説あってどちらが正しいとは決着が付いていません。邪馬台国を九州島の中に置きたい論者は三国志の記述が正しいと主張するでしょう。個人的には、三国志の会稽東の東のほうが正しい気がします。というのは中国の使節は実際に倭国と往来しています。後漢書記述の会稽東の東になれば、倭国は下図の黒潮流路の東側にあることになり、往来のためには黒潮を横断することになります。屋久島とトカラ列島の間を流れる黒潮は、当時の中国の漕手のいる帆船でも横切るのは不可能で、誤って入った場合は抜け出せず、遭難する可能性が高いからです。もちろん鹿児島県より南にある島が邪馬台国である可能性はないということもあります。
古代の中国人は一寸千里の法で説明したように南北に離れた距離感は比較的正確に測れる方法を知っていました。しかし、前述の誇張説に立てば、列島配置自体に詐称意図があるのですから、どちらが正しいかはあまり意味のないものになります。からすれば背後に当たる会稽東の東方のほうが、インパクトは大きいでしょう。それに、3世紀の中国の持つ海上地理知識は、それほど精度の高いものでないのは、現存する14世紀の地図を見ても分かります。邪馬台国の方位記述の不一致は、原因に関わらず大きな問題ではないでしょう。


陳寿にはめられた日本人24
黒潮の流路と流速(海上保安庁データ)
クリック拡大


【補足3】
中国で三国鼎立が確立したのは222年頃ですが、3つの勢力が牽制し合い、戦うのは黄巾の乱184年以降まで遡ります。孫権は倭国が親魏倭王を貰う9年前の230年に海東遠征を行っています。配下の将軍衛温と諸葛直の二人の将軍に命じ、軍船に1万の兵士を乗せて夷州(いしゅう)亶州(せんしゅう)に向かわせています。不老不死の霊薬を求めたという説が一般的ですが、霊薬目的で1万もの兵力を預けるとは思えない。水軍は両国の征服が目的であったものと思われます。前面の魏と対峙し、更に背後に敵を置くのは上策ではないので、背後の勢力を把握するために先制攻撃しかけたのではないか。夷州亶州の東方、太平洋上に浮かぶ島国と考えられていた。夷州台湾だと思いますが、亶州はどこか明確ではない。
孫権の遠征軍は夷州(台湾)には上陸できましたが、亶州へはたどり着くことができず、航海中に兵士の9割を疫病で失った。230年当時に、亶州を倭国と同一視していたとは思えないが、台湾の東方沖合にあるというイメージは持っていたと思います。それでは見つかるはずがありません。亶州の存在は、欺瞞情報として魏が三国時代の初期から国内に流布していた可能性があります。国内に流せば自然に呉にも流れるからです。


陳寿にはめられた日本人14
孫権


【補足4】
中国では、(しん)の始皇帝の時代以前から長江付近の東海上には伝説の国があるという考えを持っています。そこには神仙が住み、不老不死の薬があると信じていました。始皇帝が不老不死の妙薬を求めたのは有名な話で、何回か探索部隊を出しています。徐福伝説では、の時代の方士徐福が3000人の男女を連れて山神山へ渡り、戻らなかったという伝承がある。は倭国が朝貢してきたのちは、恐らくこの伝説の国を倭国にかぶせようと画策した可能性があります。

東南海夷図精密
14世紀の中国東南海夷図に描かれた日本列島クリック拡大

14世紀まで下るが、中国の東南海夷図には日本列島の四国に相当する島に「徐福赤丸の部分)」という地名があります。此の命名は、徐福が渡った山神山は日本列島(倭国)の中にあるという認識が中国にあったと思われます。この認識がいつの時代まで遡れるのかは不明ですが、三国時代のの情報戦略の名残ではないかと考えています。想像ですが、徐福は実際に日本列島の四国あたりの可能性もあります。前述で補足しましたが、中国船がもし黒潮に乗ってしまうとすると、運良く抜け出せるとしたら、四国付近の可能性が高いからです。


陳寿にはめられた日本人15
三国時代の中国水軍船






参考・引用資料
■『三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条』(翻訳版)
『晋書・陳寿伝』(翻訳版)
『華陽國志・陳寿伝』(翻訳版)
『晋書・張華伝』(翻訳版)
『中国五千年』         陳舜臣 著
『諸葛孔明』          陳舜臣 著
『卑弥呼-倭の女王は何処に』    関和彦 著
日本国家の起源』       井上光貞 著
『日本史の誕生』        岡田英弘 著
『倭国』            岡田英弘 著
『倭国の時代』         岡田英弘 著
『女王卑弥呼の国家と伝承』   前田晴人 著
■『魏志倭人伝の謎を解く』    渡邉義浩 著 
■『邪馬台国の考古学』      石野博信 著
■ Google Earth / Wikipedia



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陳寿にはめられた日本人(3/4) -三国志の特異性と陳寿の性質-

中国には二十四史と称する正史が現存しています。この中で司馬遷の書いた史記陳寿の書いた三国志だけは特異な性格を持っています。他の二十二史の歴史書は何れも滅び去った前王朝の歴史を皇帝から命じられて編纂したものです。ところが司馬遷史記陳寿三国志は、自らが生きた同時代史を自らの意志で書き上げています。
               
陳寿にはめられた日本人7
司馬遷

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陳寿

陳寿の生き様はの正史である晋書のなかに陳寿伝として記録が残っています。陳寿の出身で、才能のある官吏であると同時に中々硬骨漢であったようです。専横を極める時の権力者には反発もしたようです。また一方で、同じ晋書の中で陳寿の悪評に関する逸話も記載されています。陳寿の出身で禄を得ていたにも関わらず、後漢の正統な後継者と考えていたので、西晋が滅びた後に批判を浴びている。悪評はこれが原因で作られたと思われます。時流に流されず、自分の考えを貫いたので反発をかったのでしょう。
また陳寿は形式主義的な慣習にも従うこともなかったので失職して郷里でくすぶっていた時期がありました。そんな彼を推挙して秘書官の職に就けてくれたのは、晋王朝の宰相や将軍として名高い張華です。彼が優れた人物であることは晋書張華伝を読むとよく分かります。詳しい経緯は不明ですが、彼は陳寿の類まれな能力を見出して推挙したものと思います。二人は年齢も一歳しか違いませんが、気も合ったのかも知れません。


陳寿にはめられた日本人9
張華

しかし庇護者である張華も、その才能がゆえに政敵に妬まれ、浮き沈みの激しい人生でした。陳寿よりも僅かに長生きしましたが、最後はクーデターに巻き込まれて一族尽く処刑されます。中国の歴史というのは凄まじい。人間不信の国というのが良く分かります。陳寿張華が失脚すると冷遇され、波乱の人生だったようです。彼が三国志を執筆したのは、正に不遇の時期だったそうです。このような事情で陳寿の三国志は初めから正史として扱われたわけではありません。正史として書き上げてはいるものの、日の目を見たのは彼が亡くなった後でした。

彼の生きた時代は、が滅び(西普)の時代への過渡期です。というのは後漢を受け継いだ国ですが、後漢の王はすぐに廃され、王位に就いたのは側近の曹操とその子孫でした。数年前に中国で曹操の陵墓が発見されて話題になりました。しかし曹操の子孫もやがて側近であった司馬氏に実権を握られます。
将軍職にあった司馬氏は遼東半島の付け根にあった宿敵公孫氏を滅ぼして権力基盤を固めた。公孫氏も元はの臣下でしたが、に背きを起こし、と連携して反抗しました。公孫氏を滅ぼしたことで中国の北東部は朝鮮半島中部までの領有となります。司馬氏は中国北東部を基盤とした権力者となったわけです。
やがて、司馬氏一族はクーデターで曹氏派から実権を奪います。そして後に飾り物であった曹氏の王位を廃し、に代わって朝を起こします。国名は替わりましが、実質的に権力者が変わった訳ではありません。陳寿の生きた時代は正に司馬氏が実権を握っていた時代でした。これが、三国志が同時代史と云われるゆえんです。陳寿を庇護した張華司馬氏に仕えていたわけです。司馬懿の孫に当たる司馬炎(普の初代皇帝)は特に張華の才能を認めて寵臣として扱いました。

張華の宰相や東北部の将軍職を務めた経験から、朝鮮半島情勢にも詳しかった筈です。張華自身は倭国に渡ったことは無いが、の使節は倭国に行っています。また、中国の華僑達はかなり古い時代から倭国と交易していた可能性が高い。彼等からも生の情報が張華にも伝わっていたと思います。また陳寿張華によく接触しており、東夷辺境地域の情報を張華からもたらされていたでしょう。しかし、実際には魏志東夷伝に正確な情報が記述される事はなかった。
陳寿三国志に関する評価として、同時代史であるがゆえに時の権力者におもねるあまり、司馬氏の功績を誇張していると云う説があります。大将軍であった司馬懿(しばい)が平定した中国東北部ですから、彼の戦果は過大に誇張されているという評価です。
通常のように滅び去った前王朝の記録ならば客観的に見られるが、そこには現権力者一族に対する遠慮やヨイショがあるはずで、批判的に見るべきだということ。確かに此の説には一理あると思います。平定した朝鮮半島を巨大な半島として距離を水増しして記述されたのは、その影響かも知れません。しかし、陳寿が誇張したというより、当時の司馬懿の功績は朝廷内で既に事実としてまかり通っていたと思われます。陳寿が誇張を主導したわけではない。

これは私の想像ですが、陳寿は再就職の世話をし、その後も庇護してくれた張華には深い恩義を感じていたと思います。陳寿自身は出身であるびいきと言われています。の軍師諸葛孔明を高く評価し、詩文集を編纂しています。陳寿は孔明一族には評価されませんでしたが、孔明の政治力についても賞賛していました。から禄を得ていたとしても、を滅ぼしたの実質的な後継である司馬氏をヨイショしたくはなかったと思います。諸葛孔明が五丈原で病死した時に戦っていた相手はまさに司馬懿(しばい)です。


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諸葛亮と司馬懿が対峙した渭水南岸の五丈原
(クリック拡大)

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五丈原丘陵地帯

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」は三国志を知らない人も聞いたことがあるでしょう。仲達は司馬懿の字(あざな)です。五丈原の対峙中に孔明が死去すると、蜀軍は撤退を始めます。仲達が此れを追撃すると、突然、蜀軍は軍旗の向きを変えて反撃の構えを見せます。仲達は、孔明はまだ生きているのではないかと疑い、魏軍を後退させた。蜀軍は整然と隊伍を組んで撤退していったそうです。孔明の巧みな戦略が恐れられていた事を示す名言です。


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諸葛亮孔明

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司馬懿

話がそれましたが、陳寿が三国志を書くうえで司馬氏の功績を誇張したのは、朝の秘書官として推挙してくれた張華への配慮のような気がします。張華は才能があるゆえに皇帝の側近に敵も多く、常に微妙な立場に置かれていました。小さな不手際からも彼の立場を悪くする可能性があったと想像します。事実、張華陳寿の死後、権力闘争に巻き込まれ一族全て皆殺しにされている。
三国志司馬氏の命令で書き始めたものではなかったので、客観的な事実で記述することは可能であったでしょう。しかし、書が世に出た場合、推挙した張華に災いが及ぶ可能性はある。時流に流されない硬骨漢ではあっても、窮地を救ってくれた恩義を忘れる訳にはいかなかったと推定します。三国志は陳寿の死後に見いだされて、正史として扱うことが許された訳ですが、それは司馬氏の功績が当時の世評に反しない内容で描かれたからこそではないだろうか。このあたりが、前王朝が滅んでから執筆される正史と同時代史との違いでもあるような気がします。

【補足】
三国志が全体的に、文体も秀逸であり、正確で客観性のある執筆指針でも優秀であることは中国でも認められている。同時代の正史を目指していた文筆家は他にもいたらしいが、三国志の見事さに触れて執筆を諦めた人物もいるという。中国人は権力者にへつらう書には批判的な評価をする傾向がある。三国志は陳寿が自らの意思で書いた正史であり、司馬氏に対しても批判的な内容があったとしても不思議ではない。書が世に出たのは彼の死後であるから、内容が改変された可能性についても調べてみたが、特に証拠になるような情報はなかった。


次稿に続く



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陳寿にはめられた日本人(2/4) -魏志倭人伝の誇張-

『魏志倭人伝』の中には邪馬台国へ至る国々の道のり、方位、各国の人口、国の風俗などが記載されているのはご存知の通りです。でもその中には実際とはそぐわない相違点、または誇張と思われる記述があります。特徴的なのは以下の3点です。


①帯方郡(韓国ソウル)から南の距離が過大である
朝鮮半島自体が巨大な半島として描かれている。更に定説のとうり、記載される距離と邪馬台国までの所要日数を加算すると倭国は非常に大きな国として描かれている。邪馬台国の位置は九州島に上陸するまでに要した里程と残りの里程の値から、九州以外にはあり得ないとされている。しかし、倭人伝の里程は魏の標準里(約434m)では成り立たず、短里(70~90m)の採用が前提となっている。一方、標準を採用して倭人伝の記述を素直に追従すれば、邪馬台国は九州島の遥か南の海上にあることになろう。

【補足1】魏時代の距離計算法
日本の歴史学者やアマチュア研究者は、魏志倭人伝の邪馬台国への里程を使節の歩測や所要時間などで出しているという前提で論じている人が実に多い。それは計測法という点で甚だ疑問です。江戸時代の伊能忠敬のような歩測と方位記録で測量していたとは到底思えません。なぜなら非常に時間の掛かる作業で伊能忠敬が何年かけて作成したか考えれば自明です。海上移動もありますし、他に目的を持つ使節にそのような時間的余裕はないはずです。
当時の中国の首都から遠隔地への距離計測は、中国周代の天文数学書周髀算経 に記載される蓋天説による一寸千里の法』を応用して算出されている可能性が高いと思います。

蓋天説による一寸千里法 - コピー

蓋天説とは、天と地は互いに向かい合う8万里離れた並行する平面という概念です(後に渾天説が出て天は半球という概念に変わっていく)。
予め正確な距離の分かっている2点間の各日影線の長さ と  の差から、日影線一寸当たりの里程を算出する。周髀算経は一寸=千里に相当するとしている。これを基に遠隔地の距離を計測する手法です。測定対象地において、夏至の期間に太陽が南中したときの日影線の長さを測定し、洛陽からの総距離や中継地間の距離を求めていたと考えられる。この方法は現代の知識からすれば南北緯度方向の距離を求める事になります。もちろん当時の地表は平面認識ですから緯度という概念はありませんが、日影線の長さの差は緯度の違いに相当します経度の違う地点の距離を求めるためには、目的地の正確な方位を知る必要がある。方位は恐らく夜間の星による観測だと思います。

一寸千里法2
測定概念図

上の図例は高崎市から東京駅までの測定概念図です。実際には目視観測に頼るので、もっと短い区間で測量したと考えられる。子午線に沿った南北方向の距離(75Km)と目的地の正確な方位が分かれば、三平方の定理により距離を近似することができます。当時の中国では既にピタゴラスの定理は独自に理解されており、周髀算経にも記載されています。しかし、この方法では、同一緯度の2点間では日影線の長さが同じになるので測量は出来ないことになります。さらに、夏至の南中時の測定が必要なので、遠隔地の場合、測定者を派遣できるかという問題があります。

陳寿にはめられた日本人18
周髀算経の勾股定理はピタゴラス定理と同一

一寸千里の法自体は誤差の大きい測量法であるが、前述したように地表を平面として考えていたり、太陽が点光源ではないことも考慮していないので、誤差は大きなものになる。また、当時の中国思想や政治要素から里程の誇張も含まれている可能性が多分にあり、魏志倭人伝の里程記述を元に邪馬台国の位置を割り出すのは現実的には不可能と思います。

【補足2】短里の計算精度
魏の時代の1里=約434mです。時代によって多少の変動はあるが大幅に変わる事はありません。研究者の中には1里の長さを極端に過小(70m程度)に解釈する人がいますが、中国の学者でさえ短里の存在には否定的です。日本の短里説は、もともと魏志倭人伝の朝鮮半島「四千里四方」を単純に近代の実測値に当てはめて逆算したいい加減な値です。しかし、後に古代史研究家の谷本茂氏が『周髀算経 』の記載から計算した1里=77mという結果を出したので、偶然の一致にも関わらず、短里の存在は正しいと思ってる人も多い。しかし、谷本氏の計算は一寸千里の法という中国古代天文知識と現代の知識である地球の球体半径を加味し、三角関数の応用で計算している。その誤差が大きい事は本人も認めている。この計算で短里の存在証明にはならないというのが歴史学会の大方の評価だと思います。

【補足3】クシャン国への距離から推定する一里の長さ
魏の時代、倭国は中国に朝貢し、親魏倭王の称号をもらっていたのは有名ですが、西の大国である西トルキスタン(現代のアフガニスタン)のクシャン国も同じように親魏大月氏王の称号を得ています。後漢書西域伝には、洛陽からクシャン国の首都カーピシーまで、シルクロードを通って16370里と記録されている。邪馬台国の場合は、洛陽から17000里と記録されていますから同程度の距離感ということになります。

20110924_2485834.jpg
洛陽~カーピシー間ルート図(クリック拡大)

洛陽からカーピシーまでのシルクロードにはいくつかのルートがあるが、代表的なのは北側のルートだと思われます。

距離測定1
洛陽~カーピシー間の測距離(クリック拡大)

このルートをGoogle Earthで距離を計算してみると、4700Km程度になる。このツールは標高・傾斜を意識していないので、実際には5000Km以上になると思います。
一里の長さは概算ですが、
5000Km ÷ 16370里 ≒ 305m/里
従ってクシャン国の場合でも、少なくとも一里は300mを確実に超えています。
中国では朝貢の価値は遠方になるほど高いものになるので、クシャン国の場合も里程は確実に誇張されています。実態里程で考えると、おそらく一里は400mを超えているでしょう。この点から考えても邪馬台国に至る行程(帯方郡から先)が短里であったなどとは考えにくい。短里説信奉者は、同時代でも東と西で標準里短里が混在していたなどと主張する人がいるが、当時の中国人を愚弄する論です。西のクシャン国を朝貢させたのは魏の曹真という武将であり、東夷の領土拡張・朝貢を促進した司馬懿(後の西普皇帝)とはライバル関係にありました。二人の功績が比較競争される時勢において、片方の距離の単位を変えるわけがない。そんなことをしたら司馬懿がバカにされたと思って黙っていないと思います(笑)。
西の16370里に対して東の17000里は、当時の司馬懿という武将の権力の大きさに忖度(そんたく)した作為のある距離感設定です。ただ、東夷方面における邪馬台国までの17000里は、西域よりも距離がより誇張されているのは事実です。それは前述の測距離図で見ても感覚的にわかります。この問題は、短里などという帳尻合わせロジックを持ち込んで解決するのではなく、中国の辺境に対する五服思想や当時の政治・権力闘争から解釈すべき問題と思います。


②日本列島の方位が正しくない
日本列島は西南から北東方向に長く伸びた列島であるが、記述では九州を北にして南北に伸びた列島として描かれている。列島の配置も熱帯地域に近いところに置かれていると考えられる。風俗描写もやや南国風のイメージが感じられる。


③倭国を構成する諸国の人口が誇張されている
 記載されている倭国連合の合計人口は15万戸(約75万人)で、邪馬台国だけで7万戸(約35万人)とある。計算は一戸=5人としています。当時の倭国に戸籍などあるとは思えないので、一戸の人数は当時の中国平均値を使っています。
因みに有名な佐賀県吉野ケ里遺跡の人口は、最盛期で1000~1200名です。倭人伝の記述で単純計算すれば、邪馬台国には40ヘクタールの吉野ケ里遺跡が300個もあるような巨大都市群になってしまう。吉野ケ里遺跡が邪馬台国と決まった訳ではないが、現在までの発掘調査ではクニ全体でも5400人程度と試算されています。また、邪馬台国の7万戸という人口は、当時の魏の首都洛陽の人口とほぼ同じ規模であり、到底信じられない数値です。この記述だけでも文献批判の対象になる記述と云える。



このような記載の不審さが現代の日本の歴史学者達を悩ませ、混乱におとしめた原因でした。これ等は陳寿の仕入れた情報の不正確さに原因があったか、陳寿自身が各情報を誤って理解したためにとんでもない記述になってしまったというのが一般的な見解のようです。
しかし、彼の伝記や当時の時代背景を知るうちに、これは少し違うのではないかと思えるようになりました。いや、魏志倭人伝が不正確な文書であるという結論が変わる訳ではないのです。しかし、当時の倭国を取り巻く中国の政治情勢を知る事が大切で、結局、倭国を理解する早道と思われます。魏志倭人伝は貴重な資料ですが、2000字の中だけで謎を解こうと思っても無理だと思います。

参考として面白い地図を紹介します。見覚えのある人もいるかも知れません。私が中学生の頃には確か教科書に写真が載っていたような気がします。


陳寿にはめられた日本人6
混一疆理歴代国都之図(クリック拡大


この地図は現存する最古のアジア世界地図だそうです。14世紀の明の時代に朝鮮使として派遣された韓国人が中国にあった二つの地図を朝鮮に持ち帰り、朝鮮半島の詳細図と日本を書き加えて作成したそうです。なお、この地図は「混一疆理図」と省略されることが多いが、中国人作成者による「混一疆理図」が別にあるので、正式名「混一疆理歴代国都之図で記載しています。

まず目を引くのは異様に大きい朝鮮半島と、日本列島の方位配置です。日本は九州を北にして90度傾いた南北に長い国として描かれています。四国と北海道が無いのはご愛嬌。それにやけに南の方にあるではないですか。これでは台湾と同じ緯度になります。
魏志倭人伝では、邪馬台国は北九州沿岸の国から南の方向にあると記述されています。全く時代が違うものなのに妙に魏志倭人伝の記述に合致しているとは思えませんか。この地図では九州から南に進むと畿内に至るので、この図の認識が過去の朝鮮や中国人にもあったとすれば、魏志倭人伝の記載は正しいと考えることもできます。

しかし、残念ながら混一疆理歴代国都之図に関する定説では、朝鮮が大きいのは詳細に記述するために大きくしてある。また、日本列島が90度傾いているのは、日本人から入手した図面を書き加える時に方位を間違えて書き込んだためと云われています。
私には他にもっと根源的な理由があるような気がします。しかし、三国志の時代から千年も経っているのに、まだこのような地図が描かれているのは不思議です。


次稿に続く



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陳寿にはめられた日本人(1/4) -魏志倭人伝の不備-

本稿シリーズは過去記事の内容を見直して書き直したものです。


佐賀県で吉野ヶ里遺跡が発見されたは昭和61年のことです。それを機に日本は邪馬台国ブームとなりました。歴史家、歴史作家は勿論、小説家にアマチュアまで加わって大盛り上がりだったと記憶してます。結果的に吉野ヶ里は弥生時代中後期の遺跡ではあるが、邪馬台国ではなかった。しかし、その後も邪馬台国所在論は活況で、その類の著作も次々に刊行されました。

陳寿にはめられた日本人1
現在の佐賀県吉野ヶ里遺跡公園


陳寿にはめられた日本人2
大型建築跡が最近発見された奈良県纒向遺跡


邪馬台国は依然としてその位置は確定はしていませんが、北九州説と畿内説は特に有名です。同じ九州でも数箇所の説があり、アマチュア研究家を加えれば、吉備、出雲、丹波、紀伊、東海、はたまた、四国、沖縄まで何でもござれ。候補に上がっていないのは、関東~東北~北海道だけだったか?書店に氾濫する歴史作家の“とんでも歴史本”も顔負けのビックリ説もありました。

陳寿にはめられた日本人3


しかし、推定に推定を重ね、途中証明もなしに結論に向かう論法、頑なに自説を譲らず対論の粗探しに終始する姿勢、もはや学説とは云えないように思います。あげくにマスコミが地域ナショナリズムを煽る風潮を作るものだから収拾がつかない。
その後、所在論が沈静化したのは、結局、『魏志倭人伝』をベースに幾ら論争しても決着は付かないという事実が浸透したのか?それとも、学閥や研究者の出身地域というナショナリズムを基底とした不毛な論戦にいささか疲れたのでしょうか?

先ずは意味のない所在論は早急に中止し、別な観点で研究を行うほうが賢明であると提唱したのは歴史家の関和彦さんだったと思います。これは冷静で正しい判断だった気がします。
最近では邪馬台国所在論を殊更前面に出した書籍は非常に少なくなりました。もっとも表題や帯に“邪馬台国”なんて入っていたら少なくとも自分は購入しないので、案外出版されているのかも知れません。

なぜ、所在論が決着しないかと云うと、考古学的な実績は別にして原因は2つあると思います。
①『魏志倭人伝』の邪馬台国の位置情報が正確でない
②日本書紀の編纂者は『魏志倭人伝』を知りながら、邪馬台国に一切触れていない

直接的には、①が原因ですが、どういう訳か日本書紀も無視を決め込んだために、①の不備はフォローされる事がありませんでした。日本書紀は卑弥呼の死から470年後の書物ですが、編纂された720年当時、ヤマト朝廷には邪馬台国について何らかの認識はあったのではないか?確かに、古くは文字文化の無かった日本ですから記憶がかなり失われていた可能性もあります。しかし、中国から蔑視され、対等な国交を目指していた日本が、対外向けの正史であった日本書紀の中で全く触れないのは不自然です。書紀の“邪馬台国隠匿説”が出るのも頷けます。

それはさておき、邪馬台国所在論を迷宮に閉じ込めたのは、そもそも邪馬台国の存在を記述した『魏志倭人伝』そのものだったという事です。この書物は中国の後漢が崩壊し、西暦220年に始まる『魏』『呉』『蜀』の三国時代を著した史書『三国志』の一部です。
『魏』の曹操、『呉』の孫権、『蜀』の劉備と諸葛亮と聞くとワクワクするファンもいるでしょう。でも、『三国志』といっても、羅貫中(らかんちゅう)の書いた「三国志演義」とは違います。『三国志』は正史なので朝廷公認の正式な歴史書です。「三国志演義」はフィクションで『三国志』を元に書かれた通俗小説です。
           
陳寿にはめられた日本人4
三国時代の地図

『三国志』は魏書、蜀書、呉書の三部65巻から成ります。第一部「魏書」30巻の最終巻が「烏丸、鮮卑、東夷伝」です。この最終巻の後半部が東夷伝で、朝鮮半島以東の7つの辺境民族の状況が書かれています。最後の7つ目が倭人の部分ですが、最終巻の末端に出てくる割には此処だけで約2000字もあります。これが通称『魏志倭人伝』と呼ばれているものです。


陳寿にはめられた日本人5
魏志倭人伝の一部(写本)

有名な話ですが、中国では伝統的に、ある王朝の正史はその次の王朝が纏め上げる責任を負います。『三国志』は『魏』が滅び、次の『晋』の時代に、陳寿(西暦233~297)という修史官によって記述されました。修史官は歴史編纂を行う官吏です。

今までに読んだ解説書の多くは、陳寿は東夷辺境地域の情報を正確に知らなかった。または、『蜀』出身の彼には東夷辺境の事など興味はなかった。更には、彼自身が調査する事もなく、それ以前にあった魏書(ぎしょ)や魏略(ぎりゃく)の内容を参考にして創作したのではないかという説が多いように思います。その点について紹介かたがた考えてみたいというのが記事の主旨です。


次稿に続く



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陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か? 2/3

前稿からの続きです。

前稿で記載したように、室賀・山尾両氏は、「魏や普の時代の裴秀地図には、混一彊理歴代国都之図(以下龍谷図と省略する)に描かれた日本列島の地理観があり、陳寿はその地図をもとに魏倭人伝を書いたので方位が誤って記載された」という仮設を発表しました。この説で魏志倭人伝の南は東に読み替えが可能だと主張した訳です。以下、この仮設が成り立たない根拠を地理史の研究者の話なども参考にしながら記載していきます。

(1)龍谷図に記載される日本は裴秀の地図を基にしていない
以下龍谷図の下段には、画像では細かくて判読できませんが、李氏朝鮮の学者 (ごんきん)による図の由来説明が記載されています。


陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か1
龍谷図(クリック拡大)

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か2
龍谷図の日本拡大図

は、龍谷図の作成にあたって、中国の地図『混一疆理図(清濬版)』『声教広被図』を参照し、あまりに簡略だった朝鮮と日本は詳しく書き直したと記載している。中国から持ち帰った2つの地図とは以下のものです。

■『混一疆理図(清濬版)』
清濬(せいしゅん)という人物が1320年頃に作成した地図です。『混一疆理図(清濬版)』は現存していないが、それを基にした『広輪疆理図』という地図がのちに制作されており、今に伝えられる。
■『声教広被図』
李沢民(りたくみん)という人物が1360年以降に作成した地図です。『声教広被図』も現存していないが、それを基にして改良された「東南海夷図」が今に伝えられる。

従って、『広輪疆理図』と「東南海夷図」2つの地図を見れば、龍谷図を作成する時の基になった中国地図を間接的に知ることができます。


①広輪疆理図
14世紀初頭の『広輪疆理図』の一部です。

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か3
広輪疆理図(クリック拡大)

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か4
広輪疆理図の日本拡大図(赤枠部分

【補足】
・「倭」→長崎地方?
・「門関」→「門司」、「太宰」→太宰府、「牌前」→肥前、「泉阿」→阿蘇?
・「徐福祠」→伝説の国徐福、「長門」「関」→下関
・「南京」→「平城京」

龍谷図の説明文にもあるように、日本はあまりにも概念的な記載であり、とても地図とは見えません。しかしはっきりと言えるのは14世紀の中国において、日本列島はいくつかの島からなり、西から東へ延びる列島であると認識されていたようです。


②東南海夷図
次は同じ14世紀ですが、少し時代の下った「東南海夷図」の一部です。

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か5
東南海夷図(クリック拡大)

ネット上などで、東南海夷図黄色枠部分(上図)が日本列島だと判断し、列島が南北逆になってるという評価を下す論を見かけるが、赤枠の中が日本列島であるのは間違いありません。下の拡大図と補足を見れば納得できます。黄色枠部は周辺の島名から鹿児島県の島しょ部と奄美諸島と思われます。または、当時の中国に伝わった日本に関する情報に混乱があったためかも知れません。中世中国には日本列島の情報が重複していた可能性もあります。一つの流れは実際に倭国に行った人物からの情報、もう一つは三国時代の魏と呉の戦略的な理由から列島配置が改変された情報です。従って、本図の島しょ部を証拠として南北の日本列島概念があったとは言いきれないと思います。これについては本稿第3話で触れる事とします。


陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か6
東南海夷図の日本拡大図(赤い枠部分

【補足】
・「平渡」「鳴子浦」→ 長崎、天草地方
・「宗家」「太宰」「門関」「肥前」「豊前」「豊後」「肥後」→九州各地方
・「長門」「関」「徐福相(祠)」「長門」「周長」「長門」→ 中国地方 「讃」→ 四国地方
・「南京」「遠江」「美」「尾没」「信」→ 畿内、中部、東海地方
 ※左上隅の島は「巨州」とあるので韓国の巨済島か?

東南海夷図の日本は『広輪疆理図』よりも詳しくなっています。僅かな時差ですが新たな情報が追加されたのでしょう。この図も、九州、中国四国、近畿、東海地方に至るまで西から東への列島として描かれています。
従って、権近らが参照した『混一疆理図(清濬版)』と『声教広被図』も、日本は概念図レベルであっても、西から東へ延びる列島として正しく認識されていたと考えられます。これは、龍谷図の日本列島は別の史料を基に記載された事を示します。

補足になりますが、宋の時代の古今華夷区域総要図(下図)を引用して日本が南北になっていると主張する人もいますが、前述の東南海夷図の黄色枠に書かれてる「倭奴」「日本」「毛人」「蝦夷」と配置が全く同じです。この図は、単にもっと東にある日本列島が入っていないだけかも知れません。

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か7
古今華夷区域総要図(クリック拡大)


龍谷図の日本列島の元ネタは何か
では龍谷図の日本列島の情報は何処から入手したものかという話になります。この地図の日本の方位は誤っているが14世紀の中国地図の日本よりもよっぽど正確に見えます。ここで地理史研究者である村岡 倫の見解を引用しますと、李氏朝鮮が受容していた日本全図とは、古くから日本で伝えられてきた行基図と呼ばれる地図であった可能性が高いそうです。

行基図は現存していませんが、この地図は江戸時代になるまで、何度も複写されており、一部の複写が残っています。理由は不明ですが、行基図は西が上になっている図面が多く、このタイプが朝鮮に渡って、そのまま龍谷図の日本として書き写された可能性が高い。以下の行基図龍谷図の日本は地形表現や地名も酷似しています。おそらく、朝鮮に渡った行基図龍谷図における日本の南北列島表現の原因です。

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か8
江戸時代に模写された行基図(クリック拡大)

行基図がどのような経緯で海を渡ったのかは不明です。行基は奈良時代の僧侶で、奈良盧遮那仏の建立や橋の建設など、公共工事を民衆レベルで主導した人物として有名です。当初は、朝廷との関係は悪かったが、後に聖武天皇とも和解して仏教による鎮護国家の推進に協力した。ただ、日本地図を作成したという記録は残っておらず、行基行基図を作成した証拠そのものは無いそうです。


また、龍谷図の日本は南北に配置されてるが、混一彊理歴代国都之図自体も複写されており、複写段階で日本列島の配置が修正されている地図もある。本光寺図(下図)は1988年に長崎県島原市の本光寺で発見されている。龍谷図よりも新しいものとされている。

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か9
本光寺図(クリック拡大)


以下は参考情報ですが、8世紀の唐の中国本土図 海内華夷図(下図)はマス目に仕切られた範囲で正確に踏査し、組み合わせて作られた形跡がある。これは普の裴秀が考案した製図六体の手法を使って作成している。もしこのような精度で日本列島が調査されておれば、14世紀の中国地図に描かれたような概念的な日本地図になることはありえない気がします。

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か10
海内華夷図(クリック拡大)



以上の確認から、以下のことが判断できます。

龍谷図の日本列島配置は、日本から入手した行基図の誤った方位挿入が原因であったのは、地図細部の描写から間違いないと判断できる。従って、少なくとも龍谷図を基に、の時代の裴秀地図の日本が、南北列島で描かれていたという推論は成り立たない。

■14世紀の中国地図が3世紀の裴秀地図の系譜を引いているか否かは明確ではない。しかし中世の中国地図が描く日本は稚拙でも、日本を西東の列島として描いている。方位的な地理感は正しいと言える。従って、3世紀の裴秀地図で日本が南北列島で描かれていたという推論もまた成り立たない。但し、裴秀地図の日本が南北列島であった事を完全否定できた訳ではない。の時代から中世までの時代変遷で訂正された可能性も僅かながら考えられるからです。

製図六体の手法で作られた裴秀地図は、8世紀の中国本土地図から判断しても非常に精密作られていた可能性はある。しかし14世紀の中国地図の日本は概念レベルです。仮に裴秀地図に日本があったとしても、レベルは同等以下であったと推定できる。これは彼の製図法の問題ではなく、領土ではない日本列島の調査など行っていなかったということです。このようなレベルの日本地図を参照して、陳寿魏志倭人伝にあるような詳細な行程記述が出来たとは到底考えられない。陳寿の記述の基になった情報は他にあった可能性が非常に高いと言える。


結論として、龍谷図に関する室賀・山尾氏の仮説は成り立つ余地がないと思います。従って、魏志倭人伝ヤマタイ国への行程方位を畿内説に都合よく読み替えることはできません。ただし、これでヤマタイ国畿内説が消滅した訳ではない。室賀・山尾氏の推論で畿内説を主張するのは無理だと指摘しているだけです。

次回最終稿(予定)では、の時代情勢を踏まえて裴秀陳寿の行動について考えてみます。



次回に続く


【参考・引用】
■混一疆理歴代国都之図と日本2016                 村岡 倫 
■裴秀の地図と陳寿の東夷伝 東アジアの古代文化53号     弘中芳男 



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陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か? 1/3

歴史学者 山尾幸久氏の『魏志倭人伝1972』と『新版 魏志倭人伝1986』を読み直してみた。後者は改訂加筆版ですが、両方とも魏志倭人伝の史料批判書籍です。
この著作は、1956年に地理学者の室賀信夫氏が発表した『魏志倭人伝に描かれた日本の地理像 -地図学史的考察-』を基本的に踏襲したものです。室賀論文の発表が古いのと、歴史学会においては山尾氏のほうが断然有名なので二番煎じであることは意外に知られていない。でも室賀論文を自説に肯定的に引用してる学者は、その他にもたくさんいます。

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か1
『混一疆理歴代国都之図』龍谷大学図書館所蔵
(龍谷大学hpより)


室賀氏も山尾氏も邪馬台国畿内説を主張する学者です。その根拠として『混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうり・れきだい・こくとのず)』を上げている。本稿では省略して『龍谷図』と呼びます。この地図が作成されたのは意外に新しく、西暦1402年に中国から持ち帰った地図を基にして朝鮮で作成されたという。まず目を引くのは異様に大きい朝鮮半島ですが、それ以上に日本列島の配置です。日本は九州を北にして、本来位置よりも90度南に傾いた南北の列島として描かれています。私は中学生の時に教科書で初めて見て感動した記憶があります。
前述の二人の学者は、この地図が、魏や晋の時代の中国人の地理的観念を可視化したものであると説いた。誤った方位観念を持っていたのが原因と考えたからです。言い換えると、魏志倭人伝の「南は東に読み換えが可能」と唱えた訳です。当時、この論で畿内説は大いに力を得たそうです。本稿はこの室賀・山尾説が根拠とした史料否定がテーマとなります。


下の画像は『龍谷図』から地名を読み取り、図示化して見やすくしてあります。
引用元は山尾氏の著書『魏志倭人伝』です。

陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か2
『龍谷図』に描かれた日本


倭国の邪馬台国に関わる詳しい記述は、陳寿の書いた三国志(魏志東夷伝倭人)によることは周知の通りです。しかし陳寿は東夷地域、特に倭国の地理誌については他書を参照して執筆したというのが定説です。倭国には来ていない。具体的には魚豢(ぎょかん)という歴史学者が書いた「魏略」という本を参照しているという。
しかし、山尾氏は、前述著書で陳寿が典拠したのは魏略ではなく「魏書」という歴史書だと主張している。魏書王沈(おうしん~266年)という司馬氏に仕えた官吏が記載した歴史書です。

以下に山尾氏が著書の中で主張してる主な論旨を纏めます。

各歴史書の執筆時期
各推定執筆年代の精査から、陳寿が魚豢の魏略を参照するのは時期的に無理であり、魏書しか参照できなかった可能性が高い。
王沈の魏書・・・・・西暦265年以前の執筆
            ※王沈は266年没
・魚豢の魏略・・・・・西暦280年代の執筆 
           ※魚豢の没年は不明であり、山尾氏の推定では三国志と接近してる。
・陳寿の三国志・・・・西暦284年頃の執筆 
           ※三国志は284年頃に完成しているが執筆は280年頃からと推定。

魏書作者王沈と地理学者裴秀の関係
王沈地理学者裴秀(はいしゅう224-271年)と親しかったので東夷の情報に詳しかった。また裴秀自身もの将軍である毌丘倹(かんきゅうけん)と同郷であったため詳しい地理情報が手に入る環境にあった。

③裴秀は倭国を含む精密地図を作っていた
裴秀は魏の地理学者であるが、軍の参謀でもあり、軍略の観点から地図を作成していた。彼は精密な地図を作成する方法を定義した製図法「製図六体」を著している。
また当時としては非常に精巧な地図である『禹貢地域図』『地域方丈図』などを作っており、その中には倭国図も表現されていたと推定できる。

方位の誤謬
裴秀の地図(地域方丈図)は精密であったが、方位は90度ズレており、『龍谷図』の日本と似た地図であった可能性が高い。この地図を使って陳寿は魏志倭人伝の行程記事を書いたために実態と合わない結果になった


山尾氏は邪馬台国畿内説の問題点である方位の矛盾をこの説で解決しようと考えた訳です。しかし、裴秀の地図はどれも現代に伝わっていないので確認することはできません。あくまでも仮説に過ぎないと思います。
山尾氏の論旨に付いては執筆時期だけの評価が中心で、実際に引用しているかという評価が不足しており信頼性に疑問がある。魏書魏略も現存しないので、断定は難しいと思います。三国志注釈版では、裴松之による魏書からの引用があるらしいが、あくまでも後世の引用であって、陳寿が引用したわけではない。また魏書は、権力者の時勢に配慮した史書であると後世に批判されており、皇帝司馬氏に反感を持つ陳寿が引用する可能性は少ない。『晋書・陳寿伝』や『華陽國志・陳寿伝』を見ると彼はかなりの硬骨漢です。
または事実と認められたとしても、肝心のについては無理がある仮説と思います。その根拠に付いては次回に示します。



次回に続く。

【参考・引用】
■魏志倭人伝に描かれた日本の地理像 1956   室賀信夫
■魏志倭人伝 1972      講談社現代新書       山尾幸久  
■新版 魏志倭人伝 1986 講談社現代新書     山尾幸久
■永遠の謎か、邪馬台国と女王卑弥呼  集英社   直木孝次郎
■混一疆理歴代国都之図と日本 2016            村岡 倫 
■裴秀の地図と陳寿の東夷伝 東アジアの古代文化53号     弘中芳男 
■晋書 巻35 裴秀伝    翻訳テキスト版
■晋書 巻82 陳寿伝    翻訳テキスト版
混一疆理歴代国都之図 龍谷大学ホームページ



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