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白石稲荷山古墳の地中レーダー探査結果 《藤岡市 》

群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳地中レーダー調査については、以前、記事にしていますが、中間結果が速報されたようです。以下は新聞web版二紙からの引用です。


*****引用開始******
土木技術の高さ明らかに 藤岡市が早稲田大と「白石稲荷山古墳」調査
東京新聞 2019年4月27日 

白石稲荷山古墳の地中レーダー探査結果 
非破壊調査の結果を説明する早稲田大の学生=藤岡市役所で

藤岡市教育委員会は、県立歴史博物館や早稲田大学と合同で学術調査していた国史跡「白石稲荷山古墳」(同市白石)について、墳丘の構造や形状などが明らかになったと発表した。前方部で新たな埋葬施設の存在を確認した。墳丘の形状は左右対称の典型的な前方後円墳で、関係者は「高い技術で造られた。古墳時代の中心である近畿地方との関係を考察する上で重要」と評価した。 (石井宏昌)

調査は二月下旬~三月中旬、地中レーダー探査やデジタル三次元測量など最先端の技術を活用し、非破壊で行った。

白石稲荷山古墳は五世紀前半の築造とされる。過去の発掘調査では、墳丘は前方部が少し変形した形状とみられていたが、今回の調査で、左右対称で三段に築かれた構造と判明した墳丘の全長も従来は百七十五メートルとされたが、推定百五十メートル強と分かった。市教委によると、この時代では東日本最大級という。

新たな埋葬施設は前方部の中心部で存在が確認された。古墳の中心となる後円部からは過去の調査で二つの埋葬施設が発見されており、この副次的施設とみられる。主になる埋葬者に近い人物のための施設と推定される。墳丘の中心軸に位置し、市教委では「墳丘築造時から計画されたとみられ、高い築造技術を裏付ける」としている。

会見した県立歴史博物館の右島和夫館長は「従来の変形的な形状を大きく修正する必要が出てきた。左右対称の整美な前方後円墳で、精度の高い土木技術で造られている。奈良や大阪の同時期の古墳と比べても遜色ない」と話した。

白石稲荷山古墳は一九三三年の調査で、後円部の墳頂部の東と西に埋葬施設を確認。副葬品に直刀や銅鏡、勾玉(まがたま)などのほか、家形埴輪(はにわ)や多数の石製模造品が出土している。早大と県立歴史博物館、市は昨年、同市上落合の国史跡「七輿山(ななこしやま)古墳」で同様の非破壊調査を行い、大規模な横穴式石室があったことを確認している。


「白石稲荷山古墳」は三段築成「東日本で5本の指」の規模 藤岡市
産経新聞 2019年4月26日 

 藤岡市は、早大、県立歴史博物館と合同で行っていた国指定史跡「白石稲荷山古墳」(同市白石)の先端考古学測量調査結果を公表した。構造は「整美な三段築成」と判明し、前方部からは新たな埋葬施設も確認された。墳丘規模は従来の推定と比べ縮小したが、「東日本で5世紀初頭の前方後円墳としては5本の指に入る規模」としている。(椎名高志)

これまで、墳丘規模は前方部前面が148メートル、全長が175メートルと推定され、県立歴史博物館の右島和夫館長は「やや変な形という認識だった」と振り返る。

だが、調査で前方部前面は約90メートル、全長は155メートルと判明。右島館長は「5世紀前半築造の奈良県・コナベ古墳の設計形状がそのまま反映されている」とし、「副葬品にふさわしい整美で典型的な前方後円墳。155メートルという墳丘全長も大規模で奈良・大阪の代表的な古墳と比べても遜色がない」と高く評価した。

前方部で確認された埋葬施設は6・8メートル×2メートルほどで粘土槨(ねんどかく)の可能性が高い。

中心軸に沿って作られており、市は「古墳の設計時から組み込まれていたと考えられ、主になる埋葬者の血縁者のためのものと想定される」とみている。


当初、後円部墳頂にある2基の埋葬施設に加え、中央地下に存在の可能性が指摘されていた埋葬施設は確認されなかった。方墳と思われていた古墳北側にある十二天塚古墳と十二天塚北古墳はいずれも直径22メートルほどの円墳だったことも明らかになった。

市は「古墳本体の実態がわかってきたため副葬品の検討を含め、築造年代の絞り込みを行っていきたい」と話している。

昭和8年の発掘調査で、勾玉(まがたま)や刀子(とうす)、家形埴輪(はにわ)などが多数出土。平成5年に国史跡に指定された。

調査はデジタル3次元(3D)測量と地中レーダー探査(GPR)を駆使し、墳丘の構造や地中内部の状態などを非破壊で行った。

*****引用終了******

【参考】

s-DSC_1455.jpg 
レーダー調査を担当した早稲田大の城倉正祥准教授


【感想】
以外な結果ですが、新埋葬施設は、後円部ではなく、前方部での発見です。発掘してみないと分かりませんが、埋葬者は首長と関係が深い人物と思われます。しかし、前方部の埋葬者が首長自身である可能性はやはり低いので残念です。となると後円部の東礫槨が首長のものという事になります。しかし個人的には、本墳は生前築造で何らかの理由で首長自身は埋葬されなかったという可能性もあり得ると思います。
また、墳形や埋葬主体部の形式から初期築造は4世紀に入る可能性もあるかと想像してましたが、今の処、5世紀初頭というところで落ち着いているようです。太田天神山古墳などと同時期になります。近畿地方の類似墳形の古墳や出土している家型埴輪の形式等も考慮して、築造時期を推定してるのだと思いますが、5世紀初頭は妥当な線なのかも知れないです。


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卑弥呼の鏡? - 柴崎蟹沢古墳《高崎市》-

柴崎蟹沢古墳は高崎市を流れる井野川の河岸段丘右岸台地上にあった古墳です。河岸段丘といっても現在の井野川は1Km以上北側を流れていて見えません。ボーリング調査によると、1万年以上前は現在の井野川支流一貫堀川あたりに烏川が流れていて井野川と合流していた可能性があります。おそらく、その頃に削られた段丘崖上の端部です。以下の画像の水田部分は井野川氾濫原になります。古墳位置との比高差は4mほどある。なお高崎市史によると「井野川支流の粕川右岸の河岸段丘上にあった」と記載されています。現在の粕川は南方の矢中町を流れていますが、古地図で見ると河川の付け替えがあったようで、かっては蟹沢古墳の北側を流れていたもよう。

この古墳は明治時代に既に削平されているが、何度か足を運び、削平跡を観察しようとした。しかし、住所地番がたびたび変わっており、正確な位置が分かりませんでした。やっと位置情報を入手した時は、家屋が立ち並んで観察不能であった。

柴崎蟹沢古墳1 
GoogleMAPフル3D画像より

柴崎蟹沢古墳2 
GoogleMAP画像より

柴崎蟹沢古墳8 
正面の住宅周囲が柴崎蟹沢古墳のあった位置

柴崎蟹沢古墳10 
3D標高図(標高は5倍強調)

柴崎蟹沢古墳11 
明治時代地図(1894~)の古墳位置表示(今昔マップより)

柴崎蟹沢古墳は1909年(明治42年)に地域住民によって発掘された古墳です。上の明治時代の地図(1894~)を見ると該当箇所に、おそらく山稜を示す凡例記載があるので、この2ヶ所が最新画像で示した2つの古墳であると思われます。

柴崎蟹沢古墳は小規模古墳ですが、三角縁神獣鏡2枚と内向花文鏡2枚が出土しています。三角縁神獣鏡の一枚は正始元年の年号銘記述があり、同向式神獣鏡と呼ばれている鏡です。学術発掘ではなかったが出土は間違いないと思います。神獣鏡の直径は約22cm。舶載鏡(中国鏡)にしてはやや大き過ぎるが、中国鏡にも20cm近いものもあるので日本製の倭鏡と断定することは出来ないと思います。

柴崎蟹沢古墳7 
蟹沢古墳の正始元年銘のある三角縁同向式神獣鏡(東京国立博物館画像)


三角縁神獣鏡は全国で数多く出土しており、総数は560枚ほどあるが、年号を持つ鏡は少ない。正始元年というのは、中国の三国時代の年号で西暦240年にあたります。中国の歴史書 三国志魏志東夷伝倭人条には239年(景初3年)の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記録があります。いわゆる卑弥呼の鏡と呼ばれるものです。正始元年は記録の翌年になりますが、邪馬台国の朝貢はに改元する266年までに4回行われています。年号を持つ鏡は邪馬台国に持たらされた可能性が高いでしょう。この年号を持つ銅鏡は日本で10枚程度しか確認されていない貴重なものです。以下年代順に記載します。

①京都府峰山弥栄町  大田5号墳     青龍三年銘方格規矩四神鏡(235年) 
②大阪府高槻市    安満宮古墳    青龍三年銘方格規矩四神鏡(235年) 
③大阪府和泉市上代町 和泉黄金塚古墳  景初三年銘画文帯神獣鏡(239年)
島根県雲南市加茂町 神原神社古墳   景初三年銘三角縁神獣鏡(239年)
⑤京都府福知山市天田 広峯15号墳     景初四年銘盤龍鏡(240年)
⑥宮崎県児湯郡高鍋  持田48号墳(伝)  景初四年銘龍虎鏡(240年)
⑦群馬県高崎市柴崎町 柴崎蟹沢古墳   正始元年銘三角縁神獣鏡(240年)
⑧兵庫県豊岡市    森尾古墳     正始元年銘三角縁神獣鏡(240年)
⑨山口県周南市    竹島家老屋敷古墳 正始元年銘三角縁神獣鏡(240年)

この銅鏡が蟹沢古墳のような地方の小規模古墳を有名にしたきっかけです。この銅鏡出土を重視した考古学者の森本六爾氏が1926年に現地調査している。彼の調査は、削平後17年も経過してる上、住民からの聞き取りが主ですから信頼性はそう高くはないと思います。彼の報告書によると直径12m程度の円墳であったと推定されている。
一方、出土品を収蔵している東京国立博物館の考古課長であった本村豪章氏は収蔵品発掘台帳に記載された以下の記述から一辺が22m程度の方墳ではないかと推定しています。台帳記述は、おそらく1909年に発掘され、後に寄贈された時のメモでしょう。

発掘の場所は中央部の元の高さ4尺、面積150坪程度の矩形なる土壌

この記述から元の墳丘は方墳(または上円下方墳)であった可能性が高いと考えたようです。私も本村豪章氏の推定は正しいと考えています。根拠は至近距離に現存している柴崎浅間山古墳の形状です。この古墳は調査されておらず、円墳と記載されている資料もあるが、真上からの画像でも方墳ではないかと思います。上円下方墳は下方部角が耕作等で削られると円墳のように見えます。浅間山古墳沢古墳と同時代の可能性が高く、規模もほぼ同じではないだろうか。
この残存古墳は道路から見ると小さく見えますが、南側の住宅居住者に案内してもらって近ずくと、その大きさに驚きます。直系は25m以上あるかも知れません。高さも5m程あるようす。墳丘西側に一段低い平坦な部分が8mほど付随しており、前方後方墳、もしくはホタテ貝式古墳のようにも見えます。笹竹が密集していて人が近づけず、墳丘の摩滅を防いでいる様子。蟹沢古墳よりも大型の可能性があると思います。この地域には残存を含めて8個の古墳が記録されているが、住民の方に伺うと、宅地化でもっと沢山検出されているが工事が遅れるために無視されているケースもあるとか。

柴崎蟹沢古墳4 
至近距離にある柴崎浅間山古墳(2007年撮影)

柴崎蟹沢古墳5 
柴崎浅間山古墳(2018年撮影)


蟹沢古墳は正始元年の年号鏡の出土からみても、西暦300年頃の築造の可能性があります。この時代は弥生時代の方形周溝墓から方墳前方後方墳へ変化した時期ですが、破壊されて円墳と記録されてる例が多いように思います。なお蟹沢古墳は、定説では4世紀後半築造と推定されているが、自分は半世紀以上は遡ると考えている。

三角縁神獣鏡は群馬県の前橋天神山古墳蟹沢古墳芝根7号墳北山茶臼山古墳、等から全部で12枚出土していますが、年号銘のある鏡は蟹沢古墳だけです。
前橋天神山古墳を除くと小規模の古墳が多く、地方に古くから勢力を張っていたネイティブ小首長と思われます。群馬県では大型古墳よりも小型古墳から三角縁神獣鏡が出土する例が多い。一般的には畿内政権の大王が地方の小首長へ従属の印として与えた鏡だと解釈されています。しかし、自分は鏡を与えたのは同じ地域の大首長だと思っています。全国的に何千人にも上る小首長と政権が個別に従属契約したとは到底思えません。地方の大首長が政権から鏡を入手した可能性はあると思いますが、それを更に従属配下に配ったのは地域首長であったと考えています。

群馬県の前橋天神山古墳からは三角縁四神四獣鏡三角縁五神四獣鏡が出土していますが、同じ鋳型を用いて鋳造された鏡は、前者が宮崎県や鳥取県で出土している。後者は奈良県の桜井茶臼山古墳黒塚古墳から出土しているのは有名です。
ただ、これらは年号銘のない神獣鏡であり、出回った時代は少し下ると考える。時代と距離を考えると前橋天神山古墳の埋葬者から配られたとは思えません。
個人的推測ですが、蟹沢古墳の銅鏡は、井野川水系最古の前方後方墳である元島名将軍塚古墳の埋葬者から配られたものと考えています。蟹沢古墳とは井野川を挟んで対岸となるが、直線距離で1300mの位置にあります。

柴崎蟹沢古墳6 
柴崎蟹沢古墳と元島名将軍塚古墳(1947年空撮画像/国土地理院)

元島名将軍塚古墳の埋葬者は東海地方西部から移住してきたオワリ族と考えています。前橋天神山古墳から一代遡る前橋八幡山古墳埋葬者と同族同世代でしょう。彼らはヤマト政権氏族とは異なると思います。

参考ですが、明治大学の考古学者若狭徹教授は、蟹沢古墳の埋葬者は水系を遡る中居町一丁目遺跡の方形周溝墓群(弥生時代)を作った氏族の子孫であると推定している。墓群は長期間運用されており、地域の開発に成功した様子が伺えるという。その成果によってヤマト王権に認められ、銅鏡を下賜されて更に倉賀野古墳群勢力へ発展したという説を述べています。自分はヤマト王権との繋がりに関しては従えません。古墳時代初期の成功者であることは間違いないので、倉賀野古墳群への連続性については可能性はあると思います。でも他の記事でも記載していますが、倉賀野古墳群は生活土器類からして在地勢力ではなく外来者と考えている。教授の説を採用すると、群馬県の首長は全てヤマト王権シンパ一色に染められそうです!


最後に卑弥呼の鏡について簡単に触れておきます。 三角縁神獣鏡については、製造に関して以下の二説がありますが、未だに決着していない。この銅鏡は畿内からの出土が圧倒的に多いのは事実ですが、邪馬台国所在の議論に結び付いてるため、結論が出ることはないように思われます。

①中国鋳造説
邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡100枚を下賜されたという記録に基づいている。魏の年号が記された蟹沢古墳の鏡を含む約10枚の銅鏡は本説の大きな根拠の一つとなっている

②日本鋳造説
中国から 三角縁神獣鏡がまったく出土していないこと、日本での出土枚数の多さ、中国の年号に存在しない景初4年の記載のある鏡が出土してることから中国の鏡をまねて日本で造られたという説。
※2015年に福岡県春日市にある弥生時代中期(BC200)の須玖タカウタ遺跡で当時の鏡を作る際に使われていた鋳型が出土した。鋳型は多鈕鏡(たきゅうきょう)というタイプの銅鏡で、三角縁神獣鏡ではないが、紀元前200年に既に銅鏡を作る技術があったのは確実。2世紀までは九州の銅鏡出土が畿内よりも多いが、舶載鏡と仿製鏡が混在してる証拠となる。
柴崎蟹沢古墳9 
※存在しない年号銘の原因については、中国側が皇帝の死を秘匿していたため、日本側が年号の変更を知らず製造してしまったという解釈がある。しかし、倭国向けに秘匿した訳ではないので、中国での鋳造でも景初4年製は発生しうると考えられる。



銘文を持つ鏡が何処で製造されたものか判断する材料として、その銘文の内容に着目する人もいます。柴崎蟹沢古墳の銅鏡には以下のように銘文が記述されている。

《記載》
 ■始元年 陳是作鏡 自有経述 本自州師 杜地命出 寿如金石 保子■■
《判読》
 正始元年 陳是作 自有経 本自州 杜地命 寿如金 保子宜
《意味》
 正始元年、陳是がこの鏡を作った。私の経歴を述べる。私は除州の鏡師であ
 たが、地を閉ざされ、出ずるを命ぜられた(訳あって国を追放された)。
 金石の如く長生きし、子孫繁栄する。
 ※自州(徐州)は三国時代の魏にあった行政区で、黄河と長江の中流域に挟まれた地域。
 ※銅鏡銘文は、年号、作者名、制作経緯や自己紹介、鏡の効能(吉祥句)で構成される
  場合が多い。

中国の銅鏡の銘文は押韻と言って、同一または類似の音をもった語を一定の箇所に入れる伝統がある。韻を踏むことで読んだ時のリズムが良くなる。この場合だと、述(じゅつ)、出(しゅつ)だが、2ヶ所しか韻が踏まれていない。通常なら大半の文節に韻を踏むのが本来である。日本で出土する魏鏡である三角縁神獣鏡の銘文は内容的に似ているが、皆、韻が完全に踏まれていない。もっと時代の古い方格規矩四神鏡などの漢鏡の銘文では完全に韻が踏まれている。銘文の作者は中国韻文の素養がないのか、それとも押韻の伝統がなくなったのか不明です。
陳氏の銅鏡制作工房の技術者で日本で出土する魏鏡の銘文によく登場する人物。銘文によるとから追放されたとあるが、何処に移り住んだのか不明。中国の歴史学者の王仲殊氏によると神獣鏡は中国南方の鏡であり、蟹沢古墳の神獣鏡銘文から、の銅鏡技術者である陳氏を追われ、日本に逃れて製造したという説を述べている。一方、滋賀県野洲市の大岩山古墳出土の鏡の銘文には年号が無いが、
鏡陳氏作 甚大工 荊莫周■ 用青同 君宜高官 至海東 保子宜孫
鏡は陳氏が作った。技巧を凝らす。鋳型を制作し、青銅を用いる。君子は高官になる。海東に至る。子孫は繁栄する
とある。至海東の主語がポイントだが、この銘文はすべて鏡の說明と効能(吉祥句)であるので、鏡が海東に向けて贈られると解釈でき、陳氏は倭国への下賜用に作成していることになる。この解釈が正しければ中国製と言うことです。前述の王仲殊氏は陳氏が海東に至ると解釈しているようだが、自分の事を君子で高官となるという意味になり、銅鏡銘文として前例がなく解釈がおかしいと思います。

前述したように、日本で出土した三角縁神獣鏡は560枚以上あり、下賜された枚数を大幅に超えている。100枚の下賜自体は否定できないが、日本でも鋳造されたのは確かなような気がします。一時期、銅鏡の成分分析でアンチモンの含有率が中国出土鏡と一致したことから中国鋳造説が力を得ました。しかし、まだ国産の銅鉱石から銅を造る技術は無かった可能性がある。銅のインゴットを中国から輸入して鋳造したとすれば成分分析では判断できない可能性もあります。また卑弥呼の100枚の鏡は三角縁神獣鏡ではなく、黒塚古墳で唯一棺内に置かれた画文帯神獣鏡であるという説もありますが、何とも評価できません。

私は年号や銘文を持つ銅鏡は中国製だと思いますが、銅鏡形式論で時代が下る銘文のない鏡は日本での鋳造だと考えています。倭国は後盾として中国の威光を借りようとしていたと思うが、日本で鋳造する物にの年号を入れるかというと疑問があるからです。卑弥呼の鏡の現物から鋳型を取って鋳造する踏返鏡(ふみかえし)の手法もありますが、初期の鏡である年号鏡は非常に少ない。粗雑な複製鏡ではないので中国製と見てよいと思います。239年の魏志倭人伝記録にある100枚に含まれるか否かは、朝貢が複数回あって追加下賜もあり得るので断定はできません。ただ、卑弥呼の鏡がどういう経緯で地方に配布されたかという点は難しい。地域毎に事情も異なると思います。彼女がいっせいに配布したとすれば、広範囲に同盟的紐帯が成立していた事になるが、クナ国との過酷な戦いもあったはずですし、時代的に疑問があります。それ以前に卑弥呼と日本の政権との関係性を明確化することは、もろに邪馬台国所在問題にも絡むので大きな課題となるでしょう。






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漆山古墳 現地説明会《高崎市》

9月2日に高崎市上佐野町にある発掘中の漆山古墳現地説明会に行ってきた。この古墳は、かっては個人所有でしたが、現在は高崎市に寄贈されています。調査を担当された考古学者は専修大学の土生田純之教授と高久健二教授。高崎市から専修大学へ調査が委託されてるようです。

漆山古墳現地説明会1 
↑土生田純之教授

漆山古墳現地説明会2 
↑高久健二教授


両教授とも初めてお目にかかりますが、土生田氏の書籍は読んだことがあります。教授は、漆山古墳の埋葬者を佐野屯倉の管理者であった守命(たけもりのみこと)の可能性が高いと考えているようです。漆山古墳は過去に何回か調査されており、築造時期は西暦580年頃と推定されている。守命は上毛三碑の一つ山上碑に登場する人物ですが、碑文の内容から推定される死亡時期と古墳築造時期は矛盾しないそうです。
私は其れよりも守命の出自について興味があります。以前、佐野三家出自について (1~3)を書いたが、関連した話が教授から少しでも聞ければと思い、出かけてみました。

漆山古墳現地説明会3 
↑後円部南側より

漆山古墳現地説明会25 
↑後円部南側より

以降は、最近の発掘調査で判明した事や講師の口頭説明を中心に記載します。過去の調査を含めた体系的な紹介はしません。

(1)墳丘サイズ、墓域に関する発見(土生田教授)
この古墳は前方後円墳であるが墳丘の破壊が進んでおり、古い資料を見ると全長は60mと記載されていたこともある。最近の資料では70mに訂正されているが、今日の説明では80mに達することは確実らしい。

漆山古墳現地説明会4 
↑現地の説明板

周濠も従来は不明であったが、二重の周濠と堤が最近確認され、墓域の全体長は100mを優に超えるという。今は前方部はバッサリと切り落とされて存在しない。土生田教授は昭和22年以前に破壊されていたと話していた。自分でも年を追って確認してみたが、後述する1947年10月30日(昭22年)の米軍写真では後方部らしきが見えます。その後の写真では円墳のように見えるので、この年に破壊されたのではないだろう
か。

漆山古墳現地説明会5 
↑前方部は正面アパートの反対側の外壁付近まであったと思われる

漆山古墳現地説明会6 
↑後円部側面も墳丘端は削られている

漆山古墳現地説明会7 
↑後円部正面からの墳丘画像

上の画像は後円部西側正面からの撮影した墳丘です。発掘調査の結果、周濠を含めた墓域はカメラ立ち位置あたりまで続いていたらしい。


漆山古墳現地説明会8 
↑国土地理院が保管する以下画像データからの切り出し
       撮影年月日 1947/10/30(昭22)
        写真番号    R256-No1- 56
        撮影地域    高崎
        撮影高度      2438m
        撮影機関   USA米軍
                      画質    400dpi


昭和22年の米軍画像を見ると墳丘周囲には明らかに周濠の跡が農地の地割に残っています。教授がおっしゃるよりも墓域更に広いようにも見えますが、残念ながら周濠地割の形が崩れているので元の範囲が分かりづらい。

漆山古墳現地説明会9 
↑周囲の佐野古墳群

しかし、すぐ北にあった御堂塚古墳の周濠は農地地割にきれいに残っています。時代が近ければ墳丘サイズと周濠サイズの比は、ほぼ一致する可能性があるので、漆山古墳を見るときの参考にはなると思います。撮影高度が分かっているので、画角(視角)から概略測定も可能でしょう。もっとも、確実な方法は周濠部のトレンチ調査しかありませんが。下図のGoogleでの概算計測では65~70mくらいの墳丘のようです。

漆山古墳現地説明会10 
御堂塚古墳の現在の痕跡(Googleより)

以下画像は倉賀野浅間山古墳の周濠地割す。古墳時代初期の古い古墳ですが、このように見事に地割に残る場合もあります。現在は住宅が多いですが今でも確認できます。

漆山古墳現地説明会11 
↑倉賀野浅間山古墳の巨大な二重周濠地割(1947年)


(2)後円部で発見された盗掘溝について(高久教授)
漆山古墳の後円部上部から石室への侵入を試みた盗掘溝が発見されています。

漆山古墳現地説明会12 
↑後円部西側の盗掘溝入口(矢印)

漆山古墳現地説明会13 
↑左側が盗掘溝の終端付近(露天掘り)

盗掘者は本古墳が横穴式であることを知らなかったらしい。墳丘上部の深さ1.7mまで掘っているが、石室までは更に下方2mほどの距離があって届いておらず、断念しているそうです。この盗掘溝が掘られた時はまだ石室は開口してはいなかったということ。比較的新しい時代になってから開口したのでしょうか。

漆山古墳現地説明会14 
↑1783年(天明3年)の浅間山噴火の火山灰層

盗掘溝の上部には1783年浅間山天明噴火(浅間A層)の火山灰が積もっており、溝の底面下には1108年平安噴火(浅間B層)の火山灰があったため、盗掘溝は1108~1783年の間に掘られたとになる。あまり絞り込まれてはいませんが、火山のタイムスタンプは貴重です。


(3)墳頂で発見された形象埴輪と葺き石列(高久教授)
後円部の頂上には4つのトレンチが掘られていました。そこから埴輪が出土しているが、円筒埴輪ではなく、家型、器財などの形象埴輪と云われるものが多いそうです。

漆山古墳現地説明会15 
↑形象埴輪断片

漆山古墳現地説明会16 
↑形象埴輪断片

漆山古墳現地説明会17 
↑葺き石がまとめて配置されている

教授が立っている位置が本来の墳丘頂で、その上の層は全て火山灰層です。改めて浅間山の噴火の凄まじさが分かります。葺き石列の存在理由に関しては今後の調査によるという話でした。列と言っても整然と並んでいる訳ではないので盗掘時に乱雑に寄せられたものかも知れませんね。

漆山古墳現地説明会18 
↑出土した形象埴輪の一部

漆山古墳現地説明会19 
↑出土した埴輪は家型埴輪の断片が多い(専修大学生執筆画)


(4)石室の形態から分かること(土生田教授)
当日は雨天にも関わらず見学者が多かった。石室には少人数しか入れないため、4組ほどに分けて説明されました。一組ずつ、たっぷり時間を掛けて解説してくれましたから、土生田教授もアシストの学生も疲れたと思います。軽妙な語り口の教授には話しやすいのか、質疑も非常に多かった。

漆山古墳現地説明会20 
↑A型に積まれた羨道部は藤岡市の諏訪神社古墳石室にも似ている。
この点からも古墳の系譜を考える上で材料になると思う。

漆山古墳現地説明会21 
↑羨道部の石積み

羨道部はよく見ると、30度位の角度で何層もの石積みを段階的に行っている。このような工程を経ることで強度が保たれているのだとか。なお石室が開口する以前は、羨道部は大量の自然石積石で封印されていたと推定されるそうです。

漆山古墳現地説明会22 
↑石室の奥壁方向

漆山古墳現地説明会23 
↑石室入り口方向

石室の入口は両袖型という形式で羨道部天井にはマグサ石がある。石材には工人のノミ跡がたくさん残っています。形式的には畿内型の巨石造りでサイドは三段積みとなっている。天井に向けてわずかに傾斜して土圧の応力を分散している。床面はわずかに胴張り形ですが、埼玉県や群馬県藤岡市に多い完全な胴張り形ではない。土生田教授によると、畿内型ではあるものの、群馬型の要素も混じっているとのこと。このような様式は築造工人の指揮系統が畿内政権であることを物語っており、群馬的要素があるのは、埋葬された屯倉管掌者は現地採用された人物であるためと考えてるそうです。これは埋葬者自身の趣味という意味ではなく、指揮は官人がとっても工人は在地の人間が担当してるということです。教授の説には確かに説得力があります。
しかし、私には被葬者が現地採用であった可能性は高いにしても、本来の群馬ネイティブな人物とは思えない。やはり過去の記事でも記載したように、当初は畿内から派遣されて群馬に定着した渡来系出自の官人のような気もします。長くなるので詳細には語れませんが、相模国、武蔵国の屯倉管理氏族の状況を見れば、群馬の屯倉だけが現地ネイティブ氏族が採用されていたというのは考えにくい。また、屯倉管掌者は文字の読み書き、計数能力が必要ではないだろうか。6世紀末の東国では国造クラスでさえ文盲であった可能性が高い。これは地方の文化性が低いという事ではなく、日本に文字文化など無かったのですから当然と言えます。それでも、屯倉管掌者が財力基盤だけで採用されたとは考えにくい。名誉職ではなく実務職ですからね。機会があれば土生田教授の意見も聞きたい。

【補足】
漆山古墳は今でこそ単独の大型古墳として見られがちです。しかし、かっては佐野古墳
群の一つであり、周辺には多くの古墳が存在した。前述した1947画像でも墳丘や
地割が判別できますが、東130mには、群馬でも最大級円墳の蔵王塚(直径45m)
が、また北150mには漆山古墳と同規模の御堂塚古墳という前方墳もありました。
距離的に一族の可能性が高いと思われます。両者とも既に完全に削平れていますが、
氏族としての繁栄が伺えます。これらの古墳の代考証や埋葬者の性格なども検討しな
いと、早計に健守命の墳墓として漆山古墳を特定るのは危険という気もします。
また漆山古墳は上佐野町にありますが、現在の佐野地域が当時の佐野屯倉の佐野と同じ
か否かという問題もある。和名類聚抄には佐野卿の表記はなく、下賛郷、佐没郷、小野
郷等が該当すると推定されているが明確ではない。また距離的にかなり離れた山名町の
古墳には健守の息子または孫世代、更には次世代の黒売刀自が小さな山寄せ古
られています。これは山上碑の碑文内容ですから事実です。7世紀は古墳築造規制
も始まった時代ですから小型化は時流の影響す。しかし、健守命の墓が漆山
なら、直系子孫がなぜ佐野古墳群ではなく、人里離れた山深い場所にられている
か検討すある。地質調査で間を流れる烏川が存在したのは確実なので、おそ
らく、当時の両地域は卿名も異なっていた可能性があるだろう。
位置付けの明確な山上古墳から出発して考えれば、距離の近山名古墳群の性格も検討
ておく必要があります。この古墳群も6世紀中葉~7世紀築造されている。殆どが
すが、前方後円墳もあります。

漆山古墳現地説明会24 




蒸し暑い中、多くの見学者に分かりやすく説明してくれた両教授と学生たち、行政スタッフの方々に感謝いたします。



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コメント(22)

ごぶさたです。
調査員や作業員さんお暑い中大変だったかと思います。
あと見学お疲れ様です。
群馬県の古墳はまたいつか機会あれば
見てみたいですねm(_ _)m 
[ マサソイト ]2018/9/3(月) 午後 6:13

こんばんは
古墳見学お疲れさまでした。
石室奥の大石は鏡石でしょうか?
羨道を自然石で閉塞してあったこと、畿内型古墳という説明。納得です。 
[ 自転車くま ]2018/9/3(月) 午後 6:47

伊勢湾人の墓? -下郷天神塚古墳《佐波郡玉村町》-

最近、興味を引くのは削平された古墳ばかり。すでに存在しない下郷天神塚古墳について調べてみました。
この古墳は、群馬県最古の古墳、元島名将軍塚古墳の後継古墳と言われています。関東では、栃木県の一部を除いて、前方後方墳はたったの一代限りで前方後円墳に姿を変えていきます。出土物から彼らは移住者の可能性が高い。おそらく最初の後方墳は移住者集団の首長本人、次代の後円墳は首長の近親者と考えています。墳形が変わったからといって、決して敵対的に倒された訳ではありません。この2つの墳形変化の間に、新たな広域首長連合が成立したと考えています。前方後方墳は東海西部の特定氏族の拡散によって広がったが、1世代を経るうちに、彼らも新しい連合に属したと考えている。それが自主的なものだったのか、特定勢力による軍事力が背景にあったのかは断定はできませんが、九州から東北青森まで統一されたところを見ると権力の要素もあり、連合に入らないの事による不利益があったようにも思えます。
この一代目の後方墳と次代の後円墳のペアを調べています。ペアで考えるのは移住者である彼らが定着に成功し、階級社会を築けたかどうかの証拠にもなるからです。さらに、東北地方を含む東国地域で、どの時代に、何処で出現しているのか明らかにしたいと思っている。その作業によって氏族の移動経路と定着範囲が確認できると考えています。

下郷天神塚古墳1 


群馬県には、このペアが確実なところが3ヶ所あると思っています。
①群馬県太田~栃木県足利.......藤本観音山古墳本矢場薬師塚古墳
②群馬県前橋........................前橋八幡山古墳+前橋天神山古墳
③群馬県高崎........................元島名将軍塚古墳+下郷天神塚古墳

しかし、高崎市の場合は略図で示すようにペアとしては少し離れ過ぎている。もっと近くに候補となりうる古式前方後円墳があります。例えば綿貫古墳群普賢寺裏古墳が候補となるでしょう。そこで定説では後継とされている下郷天神塚古墳の出土品や形態などを調べてみた。



①名称  :下郷天神塚古墳(現在は下郷という旧地名は消滅している)
②現在所在地
墳丘後円部:群馬県佐波郡玉村町八幡原(削平)
墳丘後方部:高崎市八幡原町 (削平)
③保存と調査状況
・       ~1915年 前方部を道路建設で破壊
・1915~1964年 後円部墳丘は残存
・1965~1970年 関越自動車道建設のため墳丘消滅 (未調査で消滅?)
・1976〜1977年 教育委員会の発掘調査
④墳丘形態
墳形  :前方後円墳/周濠あり
墳丘方位:西南西ー東北東
周濠長 :155m
墳丘  :墳長100m、後円径48m、前方幅48m、くびれ幅26m、高さ不明
葺石  :あり(河原石)
主体部 :不明(後円部に粘土槨と推定されるが未確認)
⑤出土遺物
埴輪  :人面線刻画付き器台形埴輪、円筒埴輪、朝顔形埴輪II式、壺形埴輪
土師器 :S字状口縁台付甕底部穿孔パレス壺(形態不明)
その他 :(銅鏡形態銘不明)、管玉 
⑥推定築造年代:公式には4世紀後半であるが西暦320年頃と思う。
⑦補足 :4Kmほど東には本古墳に先行する川井稲荷山古墳40mが存在。
     玉村町最古の前方後円墳またはホタテ貝式で3世紀中葉製の三角縁神獣鏡出土。
       北山茶臼山古墳と同じくセカンダリクラスからの三角縁神獣鏡の出土例。


この古墳は教育委員会で調査後に削平されたと思っていました。しかし、玉村町歴史資料館の第18回企画展資料を見ると、破壊されてから調査が入ったようです。このような大型の古式古墳が主体部の調査もなく破壊されるのは残念です。関越自動車道建設は突貫工事でしたから、行政規模の小さな玉村町では対応しきれなかったのか?

下郷天神塚古墳2 
1976〜1977年の発掘調査状況(玉村歴史資料館の展示画像転写

上の発掘画像は後円部側の周濠と墳丘端ですが、墳丘は存在しません。表土に埋もれた弥生時代の周溝墓のように見えます。墳丘端の葺石は残っているが、基壇面より上がありませんので、埋葬主体部は既に無かったのでしょう。現在はちょうど高速道路の真下になる部分です。高速道建設に使う道路が右側にあるので、おそらく後円部全体の調査は行われていないのかも知れません。


(1)立地
烏川(からすがわ)が井野川と合流する地点から800mほど下った烏川左岸の侵食崖上にあります。元島名将軍塚古墳とは井野川水系で繋がっているが、4.8Kmほど離れています。

下郷天神塚古墳3 
1961年の墳丘残存状況(国土地理院)

下郷天神塚古墳4 
拡大画像(国土地理院)

↑前方部を道路が貫いていて墳丘は破壊されています。道路に影が見えるが、墳丘の影ではなく道路添いの樹木によるものです。既に前方部はかなり削られて低くなっているようです。後円部はまだ保存されているように見えます。天神塚の名前から祠のようなものがあったのかも知れません。周濠の痕跡が前方部端と後円部端に微かに残っています。

下郷天神塚古墳5 
現在の現場と古墳の推定位置

下郷天神塚古墳6 
関越道の東側

↑右側側道のフェンス部分が後円部側の周濠端になります。

下郷天神塚古墳7 
関越道の西側

↑左側の側道付近まで後円部墳丘があったもよう。交差点中央がくびれ部南端で手前は周濠部になります。

下郷天神塚古墳8 

↑画像の左隅あたりが前方部墳丘端で、右側住宅付近は前方部墳丘頂です。周濠端は撮影位置よりも後ろになります。広角レンズで撮っているので距離感が強調されていますが、墳丘長は100m程度として撮影しています。

下郷天神塚古墳20 

↑1961年画像では墳丘の西北に円墳が密集していますが、道路沿いの一つが近代の墓所として残っています。かなり大型の円墳です。陪塚にしては遠いが同族の古墳でしょう。道路先方に見えるのが下郷天神塚古墳のあった交差点です。

下郷天神塚古墳11 

↑墳丘から120mくらい南には烏川の侵食崖が迫っている。おそらく築造時は侵食はこれほど進んではいなかったと思われます。ここから少し上流にある若宮八幡宮境内には崖に落ちそうな大型円墳があります。


(2)出土品評価
S字状口縁台付甕底部穿孔は東国の古式古墳では定型的といわれるほど普及してる土器です。東海地方西部を発祥とする土器に間違いないのですが、移住者子孫が当地で焼成したものと、彼らの使用した土器の機能性を受け入れて真似た原住民もいたはずです。この古墳周辺のS字状口縁台付甕は東海地方独特の煮沸効率の高い薄地(厚みは数ミリ)のように見えます。たぶん同族が作成したものだと思います。

下郷天神塚古墳14 
本古墳周辺の生活遺跡から出土したS字状口縁台付甕(玉村歴史資料館の展示品

この古墳埋葬者の出自を推定する上でもっとも重要な遺物が、人面模様が描かれた以下の器台形埴輪です。玉村町歴史資料館に出向いたが、現物は企画展の時だけ収蔵場所から借り受けているようで、撮影できませんでした。

下郷天神塚古墳12 
人面線刻のある器台形埴輪(玉村歴史資料館の展示画像転写

画像が不鮮明なので分かり難いが、上の画像の断片を復元したものが下の模式図の図柄になります。なお、収蔵品は復元された形になっているようです。

下郷天神塚古墳13 
右側の図柄が人面模様(玉村歴史資料館の展示画像転写

以下の愛知県亀塚遺跡や岐阜県今宿遺跡出土の線刻人面土器と比較すると分かりやすい。表現は異なりますが、絵のパターンは同じです。安城市歴史博物館で見学したことがありますが非常に大胆で美しいものです。

下郷天神塚古墳15 
愛知県安城市亀塚遺跡出土の線刻人面土器(安城市公式hp公開画像)

下郷天神塚古墳19 
岐阜県大垣市今宿遺跡の線刻人面土器(岐阜県公式hp公開画像)


特徴は顔面の線ですが、黥面と云われる入れ墨です。当時の人々がみな黥面であったかは断定できませんが、三国志魏志倭人伝には黥面文身の記載があるので入れ墨を行う風習があったのは事実でしょう。この土器は伊勢湾岸備讃瀬戸地域で出土しますが、その他では出土例が非常に少ないそうです。従って、この古墳の埋葬者は伊勢湾出身者子孫である可能性が高い。古墳の削平前に調査が入れば、もっと多くの人面土器が出土した可能性もあります。
また玉村町の調査では、周辺の生活遺跡から西暦250~275年位を境に急激にS字状口縁台付甕などの伊勢湾地域土器が増加している。この点でも本古墳築造以前に移住者が入っていることが分かります。先行する元島名将軍塚古墳の埋葬者は伊勢湾出身者本人かも知れません。
普賢寺裏古墳は未調査で詳しい情報がないが、結論として下郷天神塚古墳の埋葬者が元島名将軍塚古墳の近親者ではないにしても、後継者であるのは間違いないと思います。


【後述】
今後、以下の後方墳-後円墳のペアの下調べが完了したら、いずれ広範囲な評価記事を纏める予定です。
・福島県河沼郡会津坂下町....亀ヶ森古墳鎮守森古墳
・福島県郡山市田村町..........大安場古墳1号墳+次代不明
・栃木県大田原市................下侍塚古墳上侍塚古墳
長野県長野市...................姫塚古墳川柳将軍塚古墳
・長野県松本市...................弘法山古墳+次代不明






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コメント(21)

削平された古墳とペアで考えるのは新しい試みですね。
その上で、埋葬者が伊勢湾出身者子孫となれば、他の強大氏族に飲み込まれ埋没したと思われていたこれらの氏族の足跡が見えてくることが期待できますね。
sagami_wan2019/1/14(月) 午前 10:07

上並榎稲荷山古墳《高崎市上並榎町》

古い記事で削平古墳として紹介したことがありましたが、もう少し詳しい情報を纏めておきます。

上並榎稲荷山古墳1 
上並榎稲荷山古墳と榛名山の位置関係(GoogleMAP)



本古墳は烏川左岸の高崎台地と呼ばれる部分にありました。1万年前ほど前には烏川本流が流れていた場所だと思いますが、榛名山の度重なる噴火による泥流で高崎台地が形成され、烏川は流路を南に変えたと思われます。現在の烏川は古墳から1Kmほど南を流れています。

上並榎稲荷山古墳2 
上並榎稲荷山古墳位置(高崎市史より)

上並榎稲荷山古墳3 
現在地の状況と上並榎稲荷山古墳の位置(GoogleMAP)


墳丘は1960年頃まで良好な状態で残存されていたが、耕地整理事業で未調査のまま削平されました。そのため、墳丘長は地割図からの推定がなされている。それによると、墳丘長120mの前方後円墳であるという。周濠については1995年の基底部調査で存在が確認されており、馬蹄形でした。1961年の航空写真でも墳丘範囲と周濠の跡がよく残っています。しかし、既に墳丘は削平された後です。よく見ると南側の道路貫通部には造り出しの跡がはっきり残っています。上空から見ても美しい古墳ですが惜しいです。

上並榎稲荷山古墳4 
1946年墳丘消滅前の上並榎稲荷山古墳(国土地理院航空写真)

上並榎稲荷山古墳5 
1961年墳丘消滅後の上並榎稲荷山古墳(国土地理院航空写真)


1995年の現地調査では円筒埴輪片が600個ほど採取されたが、他の遺物は無いようです。残されている遺物は1895年(明治28年)に墳丘上にあった稲荷神社の社殿を移築する時に出土した刳り抜き形石棺の蓋のみが、近くの天竜護国寺の境内に保管されています。石棺身は現地に残されたようですが、その後はどうなったか不明。


上並榎稲荷山古墳10 
石棺が保管されてる天竜護国寺の本堂

上並榎稲荷山古墳9 
石棺の保護建屋

上並榎稲荷山古墳8 
刳り抜き形石棺の蓋

上並榎稲荷山古墳7 
縄掛け突起

上並榎稲荷山古墳6 
縄掛け突起

石棺蓋の全長は238cm、縄掛け突起を除く長さは190cm、幅は81~88cm。石棺蓋の形状は、岩鼻二子山古墳不動山古墳と類似しているそうです。石棺内からは、鉄剣19本、槍2、甲冑(具足)数領、鉄鏃多数が副葬されていたと記録されているが、配置状態などの記録はありません。現物も保管されておらず行方不明。築造時期は出土品の内容から5世紀後半と推定されている。以上は主に高崎市史から引用しています。



此の古墳は高崎市下之城町にあった越後塚古墳と同様に近くには古墳が殆どなく、群馬では珍しい単独大型古墳です。古墳の規模からして、生活遺跡や耕作遺跡が付近に沢山あると思われます。この古墳から500m東の並榎北遺跡では、榛名山の495年前後と520年前後の2回の噴火(Hr-FA)で埋没した水田遺跡が発見されている。

上並榎稲荷山古墳14 
上並榎稲荷山古墳から4Km北方にある保渡田古墳群(GoogleMAP)


高崎市史の5世紀後半の築造推定が正しいとすると、保渡田古墳群と重なってきますので、移住者の可能性もあると思います。ただ後継の古墳が無いということは、何らかの原因で衰退したか、他の地域に移った可能性があるでしょう。保渡田古墳群と同時期の場合、Hr-FAによる泥流被害を受けた可能性があると思います。最初の画像の背景にあるのは榛名山です。冒頭記載したように高崎台地自体が榛名山の火山泥流によって出来ています。
かなり大きな周濠を備えているので、詳しい学術調査が入ったなら、周濠内の中島有無も確認できたと思うので残念です。しかし、円筒埴輪が保渡田と同じ規模であったとすれば、相当量の埴輪片が散乱していたはずです。1995年の調査では僅か600個の埴輪片だけなので少な過ぎる気もします。


墳丘は既に存在せず、現地に行っても痕跡もないが案内をしておきます。

上並榎稲荷山古墳12 
稲荷橋交差点ですが稲荷橋自体は東側40mくらいのところにあります。

上並榎稲荷山古墳11 
稲荷橋は長野堰用水の橋になっています。ここを北に入った場所が現地です。


なお、天竜護国寺の西隣に日枝神社がありますが、境内にあるお稲荷さんは、上並榎稲荷山古墳の上にあった稲荷神社を1908年(明治41年)に移築したものです。それ以前の地図には山稜と神社が記載されています。

上並榎稲荷山古墳13 
1894年の地図

また当古墳の明治~昭和の削平経緯に関しては、以下のブログで詳しく説明されていますので、リンクを貼っておきます。著者は高崎市在住の方ですが膨大な量の史跡巡り記事を保有しています。
『隠居の思ひつ記』史跡看板散歩-126 天竜護国寺







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若宮八幡北古墳- 群馬県で唯一の複突出墳 -《高崎市》

以下は私が知る群馬県のホタテ貝式古墳一覧です。削平、埋戻しされている5基を除いて現地踏査しています。群馬県のホタテ貝式古墳は少なくとも数十基以上はあるようです。特に東毛地方に多い傾向があるように見えます。

女体山古墳(太田市)           全長約105m(ホタテ貝式)
②丸塚山古墳(伊勢崎市)       全長約81m(ホタテ貝式)
③長者屋敷天王山古墳(高崎市削平)    全長64m(造り出し付きorホタテ貝式)
④赤堀茶臼山古墳(伊勢崎市)      全長59m(ホタテ貝式)
⑤亀塚山古墳(伊勢崎市)       全長60m(ホタテ貝式)
⑥古海原前1号古墳(邑楽郡大泉町)    全長37m(ホタテ貝式) 
⑦沢野村77号墳(太田市)         全長46m(ホタテ貝式)
⑧地蔵山古墳(伊勢崎市)           全長60m(ホタテ貝式)
⑨塚廻り4号(太田市)          全長23m(ホタテ貝式)
⑩大室古墳群M1号墳(前橋市)               全長37m(ホタテ貝式)
⑪剣崎長瀞西古墳(高崎市)        全長30m(ホタテ貝式)
⑫情報団地古墳群(高崎市4基埋戻し) 全長30~40m(ホタテ貝式)
⑬若宮八幡北古墳(高崎市半壊)          全長46mホタテ貝式複突出墳


若宮八幡北古墳12 
群馬県最大のホタテ貝式古墳である女体山古墳105m
(群馬県太田市の太田天神山古墳の陪塚)


ホタテ貝式と一口に言っても方部は四角だったり、バチ形だったり色々な形状があります。本稿では特殊な形のホタテ貝古墳を紹介します。
正式な形式名称は複突出墳という。ホタテ貝式の墳形にさらに突出部が付加された古墳です。全国でも確認されてるのは15基程度?しかないようで、殆どが近畿地方に集中しています。関東で確認されているのは、東京と宇都宮の各一基と、一覧最後に記載した高崎市の若宮八幡北古墳のみかも知れません。1974年に発掘調査されているが、墳丘形態は特異で群馬県では類例がない。被葬者は畿内からの移住者の可能性があると思います。なお、付加されている突出部祭祀用エリアと考えられているそうです。前方後円墳のくびれ部に造り出しがあるのと同じ機能だと思われる。元々、方部も祭祀用という説があるが、使い分ける意味があるのでしょう。


名 称  若宮八幡北古墳若宮古墳群)
所在地 高崎市八幡原町若宮2145
築造年代 5世紀後半~末
墳 形   複突出墳、後円部は2段築成 
墳長   全長46.3m 
      後円部:南北35.6m、東西35.8m
      前方部:長さ10.7m、幅17.6m、くびれ部幅9.5m 
      造出 :長さ3.6m、前端幅14.9m
      ※墳丘は後円部の約1/3が残るのみ
周溝全体長 周溝あり、南北71.5m、東西66.6m
      周掘りの外側に幅約8mの周堤帯が全周にあり
葺石    あり
埴輪列  円筒埴輪(後円部基壇平坦面に二重に弧を描いて設置
        形象埴輪 家2個体、蓋5個体、盾持ち人9個体、人物10個体等
埋葬主体   竪穴式
石棺       舟形石棺、両小口に各2個の縄掛突起、全長182㎝、幅76㎝、人骨
       棺の内側は朱塗り
        ※舟形石棺の発見は1911年(明治44年)で所在は不明
副葬品    珠文鏡1(径7㎝)、大刀1、管玉13、小玉3、鉄鏃7    


若宮八幡北古墳13 
若宮八幡北古墳の測量図(下にあるの通常方部で左側にあるのが突出部)

複突出墳でも形状や突出部の位置はさまざまです。以下は事例です。
左から、
・群馬県の若宮八幡北古墳46m
・東京都にある野毛大塚古墳66m
・奈良県にある乙女山古墳107m
・三重県にある神前山1号墳29m
突出部の位置は何か意味があるんですかね?

若宮八幡北古墳10 
複突出墳事例




以下は発掘中の若宮八幡北古墳。石棺以外は1974年の画像。

若宮八幡北古墳4 
手前左が方部、左奥に突出部が見える。貫通する農道は現在ある道と同じ位置

若宮八幡北古墳6 
方部を横から見たところ

若宮八幡北古墳7 
墳丘基壇面の円筒埴輪列

若宮八幡北古墳5 
葺石は非常に丁寧に貼ってあり、労力を掛けているそうです

若宮八幡北古墳8 
1911年(明治44年)に完全な形で出土した舟形石棺であるが所在不明



若宮八幡北古墳11 
現地の古墳位置(高崎市八幡原町若宮2145番地)


若宮八幡北古墳2 
右側が方部と突出部のある部分。後円部の左側2/3は削平されている
現在でも約2mの高さがある(20190112撮影)

若宮八幡北古墳1 
残存墳丘の左側に方部があるが現状では確認出来ない(20190112撮影)
(南東より北西を撮影)

若宮八幡北古墳9 
上画像に墳丘目安線追加




【参考・引用】
■早稲田大学論文リポジトリー日本古墳の構造研究「帆立貝古墳論」 沼澤豊
■高崎市史「墳丘データ、発掘画像(白黒)」      資料編1原始古代Ⅰ



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白石稲荷山古墳 レーダー調査《藤岡市》転載

東京新聞webに藤岡市白石稲荷山古墳レーダー調査の記事があったので転載します。


引用開始
国史跡・白石稲荷山古墳 デジタル3次元測量や地中レーダーの先端技術使い調査
2019年1月26日

-白石稲荷山古墳2 
先端技術で非破壊調査が行われる白石稲荷山古墳=藤岡市で(市教委提供)


藤岡市白石の国指定史跡「白石稲荷山古墳」について、市教育委員会は早稲田大や県立歴史博物館と合同で2月から、デジタル三次元測量や地中レーダー探査による調査を行う。同古墳の大規模な調査は1933年(昭和8年)以来で、先端技術を活用した非破壊調査で墳丘の詳細な規模や構造などの解明を目指す。市教委は「確認されていない埋葬施設の存在など新たな発見や、古墳の築造年代の特定につながる可能性がある」と期待する。

白石稲荷山古墳は全長140メートル、高さ最大で約13メートルの前方後円墳。五世紀前半に築造されたとされる。1933年の調査で、後円部の墳頂部の東西に竪穴式の埋葬施設をそれぞれ確認。副葬品に直刀や銅鏡、勾玉(まがたま)などのほか、家形埴輪(はにわ)や多数の石製模造品が出土した。
確認されている二つの埋葬施設は墳頂部中心から外れていることから、さらに下層の中心に、より古い年代の埋葬施設が存在する可能性が指摘されている。
調査は早大文学学術院の城倉正祥准教授と学生らが2月26日~3月25日に実施。デジタル3次元測量で古墳の詳細な立体的データを解析、地中レーダー探査で墳丘構造や埋葬施設の状態、規模などを調べる。古墳の詳しい形状や別の埋葬施設の存在によっては古墳の築造時期がさかのぼる可能性があるという。
城倉准教授らは昨年、同市上落合の国指定史跡「七輿山(ななこしやま)古墳」で同様の非破壊調査を行い、大規模な横穴式石室があったことを確認した。(石井宏昌)
引用終了
 


-白石稲荷山古墳20 
白石稲荷山古墳

【補足】
本古墳には以下の疑問点が従来からあり、解明されることを期待します。
①白石稲荷山古墳の墳形は古墳時代前期古墳(3~4世紀)の形に近く、現状の
 5世紀前半の築造推定は遡る可能性がある。
②検出されている2基の埋葬主体部は不自然に墳頂端部にあり、中央が空いている。
 中央部に未検出の古い埋葬主体部の存在が推定される。また主体部上から出土し
 ている家形埴輪群は5世紀代の遺物として妥当性もあるので、古い埋葬部が検出
 されば、長期の追葬が行われた事になる。



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吉見百穴《埼玉県比企郡》

12月9日、埼玉県比企郡にある吉見百穴を見学してきました。
小学生以来、55年ぶりの再訪問です。半世紀の時を経て半ば観光地化されていたが、穴ぼこヒカリゴケも健在でした。ちなみに、旧高崎市出身の60~70歳くらいの年齢層は、ある事情があって本人の趣味に関わらず吉見百穴を知っています。
園内の土産物屋のおばさんが「うちは当時からここにあったんだよ。昔は見学の観光バスがひっきりなしに来ていたね」と話すのが印象的でした。ところで、群馬県人は何故か「よしみのひゃっけつ」と呼ぶが、地元の人は「よしみのひゃくあな」と呼んでいるようです。

所在埼玉県比企郡吉見町(国指定史跡)
形状横穴墓
総数219基
築造  古墳時代後期(6世紀~7世紀頃)

吉見百穴1 
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吉見百穴は埼玉県比企郡吉見町にあります。目の前には市野川という荒川の支流が流れ、対岸は東松山市です。東にある荒川と市野川に挟まれた地域になる。

吉見百穴2 
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吉見百穴4 
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吉見百穴3 
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百穴は小高い丘陵の岩盤露頭に掘られた古墳時代後期横穴墓です。岩は凝灰岩ですが、礫の混じっていない一見砂岩のように見える石です。百穴と呼ばれているが、総数は219個もあったらしく、丘陵西面全体に掘られているようです。現在は見学しやすいように階段が設置されていますが、非常に急な崖で遺体を運び込むのは危険だったと思います。古墳時代後期の横穴墓は幾つか見たことがありますが、これほど多くの穴が集中してる場所は少ないと思います。

吉見百穴5 
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穴の大きさは大小あるが、多くは入口部分が1m角くらいで、奥行きは1.5~3mくらい。内部の幅は1.5~2.5mのものが多い。玄室内部は通路部と台座状構造があります。台座部に木棺を安置したと推定されている。台座は片面だけのものと通路の両横に2つある場合もあります。穴は家族単位に埋葬されたと考えられているそうだ。
本来、入口は石の板材で塞がれており、逐次開閉して追葬した模様。出土品は見ることができなかったが、玉や鉄剣なども出土しており、ある程度地位の高い人も埋葬されているようです。おそらく穴の大きさが身分に比例しているのかと思います。

吉見百穴7 
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吉見百穴8 
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発見された時代は不明ですが、1887年(明治20年)に東京帝国大学の学生、坪井正五郎によって発掘されている。面白い話ですが、坪井は横穴が人の住居であると結論づけたそうです。この大きさで人が住めるとは思えませんが、小人(こびと)のような先住民族コロポックルの住居と考えたそうです。今では笑い話になりますが、日本の人類学・考古学の黎明期では東京帝国大学でもそんなレベルだったのでしょうか。その後、古墳時代の墓穴説が出て論争になったようですが、墓穴で決着したのは大正時代末期になってからという。

吉見百穴11 
発掘調査中の百穴(明治20年頃)クリック拡大

発掘当時は、山裾の基壇面が現在よりも低く、穴の数も明らかに多い。中央下部は
後に防空壕が掘られて破壊されてる。右端の山腹も今は削られて存在しない。

吉見百穴6 
クリック拡大

山の下方の穴には、ヒカリゴケが自生している穴がある。関東平野でヒカリゴケの自生地は非常に少なく、国の天然記念物に指定されています。穴が開放されているためか、乾燥化が進み、現在確認できるのは一基のみのようです。

吉見百穴9 
蛍光を発しているのがヒカリゴケ

吉見百穴10 
敷地内に併設されてる吉見町埋蔵文化財センター展示室(クリック拡大)

吉見百穴12 
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丘陵の中腹からは市野川の対岸にある東松山市街がよく見えます。
このあと野本将軍塚古墳も見学する予定でしたが、ゆっくりしすぎて時間が無くなってしまった。今日はこれから東松山文化センターで開催されるシンポウム野本将軍塚古墳の時代に参加します。駐車場が少ないようなので、自動車はここに置いて積んできた自転車で移動します。シンポは休憩を挟んで7時間に及ぶ長丁場なので帰りはクタクタになりそう。





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コメント(21)

野本将軍塚古墳の時代のシンポジウム参加
ご苦労様です<m(__)m>
吉見百穴は私も50年位前に車で行った記憶が有りますが
外観を見ただけです、よく見ると見所沢山あるんですね
私も「ひゃっけつ」と呼んでました。 
Toshiyan72018/12/11(火) 午前 7:46

白石稲荷山古墳《藤岡市》

群馬県藤岡市にある白石稲荷山古墳です。大型古墳の割には群馬でもマイナーなイメージです。東国でも珍しい家形埴輪がたくさん出土してるのは知られていない。おそらく東京国立博物館がみな収蔵していますから、この古墳から出土してること自体が知られていないと思う。もっとも、発掘されたのが1933年ですから地方での埴輪復元は難しいし、適切な管理ができる施設も無かったためか?
昔、藤岡市埋蔵文化財貯蔵庫に見学行った時も、東京国立博物館から借用してる家形埴輪だけは撮影しないように注意された。今では藤岡市歴史博物館になったのだから、そろそろ藤岡市に返してやってもよいのでは!地方の目玉が少なすぎます。

-白石稲荷山古墳1 


-白石稲荷山古墳3 
白石稲荷山古墳(2007年撮影)

(1)立地
白石稲荷山古墳は鮎川の左岸河岸段丘の台地にある。小高い丘の上にある古墳ですから、下から見上げると後円部ばかりが目立つ中期の前方後円墳です。北西には鏑川の右岸河岸段丘があるので、台地はかなり広い範囲で丘陵地形を作っている。北方至近距離には6世紀前半の七輿山古墳という大型古墳がありますが、時代は1世紀ほど下ります。鮎川河岸段丘の一段下には猿田古墳群という円墳からなる古墳群があるが、やはり時代が下る。猿田地区には付近の伊勢塚八角墳を凌駕する日本一美しい模様積み石室猿田古墳が存在したという。残念ながら今では削平されている。

-白石稲荷山古墳16 
鮎川と鏑川の合流台地にある白石稲荷山古墳


(2)墳丘
白石稲荷山古墳は、藤岡市教育委員会のホームページによると、全長140m、前方部幅75m、後円部径71m、高さは前方部で4m、後円部で10mとなっている。但し、この古墳の墳丘サイズ情報は各資料で統一されていない。これについては後述します。

-白石稲荷山古墳4 
見た目は4世紀の古式古墳(東側の猿田地区より遠望)


墳丘は3段築成であるが、現在ではほとんど判別がつかない。前方部とくびれ部はともに狭く未発達な形です。後円部では3段に円筒埴輪と朝顔形円筒埴輪が巡っていたという。前方部では基壇と3段目に確認されているが全周ではなく部分的であったらしい。周濠については、現状では無いように見えるが、墳丘北西側に低地部分があって、片側だけに空堀があったのではないかと推定されてる。

-白石稲荷山古墳18 
墳丘くびれ部の円筒埴輪列(教育委員会HPより)


1933年(昭和8年)の発掘調査では、墳頂部に竪穴式の礫郭が確認され、副葬品が出土してる。出土品の特徴として家形埴輪があり、群馬県伊勢崎市にある赤堀茶臼山古墳と対比される。これほど多くの家形埴輪が出土した古墳は両古墳だけです。
埋葬施設は、後円部墳頂の東端・西端から1基ずつ検出された。ともに竪穴式礫槨で、砂利を敷き、壁は河原石の積み上げ、ドーム状に粘土の蓋をかぶせた構造を持つ。

-白石稲荷山古墳17 
等高線図(サイズ情報なし)


東礫槨
-白石稲荷山古墳5 
サイズ:長さ8.2m、幅0.9m主要部分は開墾で破壊)
出土物:内行花文鏡1、滑石製石枕1、滑石製模造品
    鉄刀2、碧玉製管玉9、碧玉製勾玉1、ガラス製切小玉管玉、
    埋葬施設上の地表面から家形埴輪5個

西礫槨
-白石稲荷山古墳6 
サイズ:長さ5.3m、幅0.4m
出土物:四獣鏡1、石枕1、滑石製模造品、鉄刀4、銅製刀子把1、碧玉製勾玉3、
    碧玉製管玉48、ガラス製小玉、櫛4、鉄器残片 等
    埋葬施設上の地表面から家形埴輪3個桂甲埴輪1個


2つの主体部のうち、東礫槨は大きいが、西礫槨は非常に幅が狭いのが特徴。西側の礫槨からは武具を表現した甲埴輪が出土してるが、幅は40cmしかないので壮年男性の遺体を納めるには幅が狭すぎる。幼い男児の可能性があるような気がする。また墳頂はかなり広いにもかかわらず、2つの礫槨は7~8mも離れており、中心には埋葬施設がない事が確認されている。両端の主体部は墳頂の円筒埴輪列の外側にはみ出す形になる。中心部分は首長自身のために残されていたものの、何らかの原因で埋葬することが出来なかったのだろうか?だとすると尋常ではない事件があったことも考えられる。中心部への埋葬を忌避するような習慣があったとは考えられない。さきたま古墳群行田稲荷山古墳にも辺部に金錯銘鉄剣が出土した礫槨があるが、中心部にはレーダー調査で埋葬主体部がある可能性が指摘されています。

-白石稲荷山古墳19 
行田稲荷山古墳の礫槨位置

なお、人骨はもちろん、歯が出土したという情報が見つからない。東礫槨は学術調査前に破壊されていたが、残土をフルイにかければ歯はあってもよさそうです。破壊されていなかった西礫槨からも出土が無かったようです。歯があれば年齢、性別等が特定できると思うのですが残念です。せめて礫槨下と周囲の土壌サンプルを採取してあれば、脂肪酸分析で遺体埋納の有無だけは確認できたと思うが、当時はそのような分析手法が無かったのであろう。

-白石稲荷山古墳22 

昭和8年の古墳調査は計画的なものではない。地域の農地開墾組合が発掘を行ってしまい、埋葬部が破壊されたことがきっかけになって調査が入っている。東礫槨は明らかに上位の者と推定されるが遺物が少ないので紛失してる可能性もあるように思う。発掘経緯も良くないが、調査された時代が早すぎた。最近であったなら、もっと解明出来たことがあったと思います。


(3)形象埴輪
本古墳からは、墳頂主体部上に配列された家形埴輪8棟、桂甲埴輪1個の形象埴輪が出土している。
西礫槨→前方部側から、高床倉庫1棟、切妻家1棟、大型切妻家1棟 計3棟
東礫槨→前方部側から、高床倉庫1棟、切妻家3棟、大型切妻家1棟 計5棟

東西で埴輪が向き合う形で、遺体の位置を避けて置かれていたと推定されている。
被葬者の至近距離に家形埴輪が置かれたのは、死後も家と穀物に不自由しないよう願いが込められていると思われる。このような墓制は他古墳では見られないと思います。赤堀茶臼山古墳でも家形埴輪が同数の8棟出土してるが、実際の家の配置で置かれた可能性があるという。この点で違いがあります。


-白石稲荷山古墳7 
左:赤堀茶臼山古墳の形象埴輪 右:白石稲荷山古墳出土の形象埴輪

-白石稲荷山古墳21 
西礫槨上の桂埴輪(短甲)

白石稲荷山古墳の家型埴輪の屋根は切妻で破風板が付けられている。台部には縁側状に突帯をめぐっている。窓の数は不定であり、模式表現ではなく実態表現の可能性もあるという。 倉庫埴輪は、西礫槨のものは屋根のみ残存であったが、東礫槨のものは完全復元されたそうだ。
上の画像でも分かりますが、赤堀茶臼山古墳白石稲荷山古墳出土の形象埴輪は類似性がある、時代的にも大きな違いないと推定できる。高床式倉庫は赤堀茶臼山の物よりも写実的で、造した埴輪工房の技術の高さを感じさせます。
桂甲埴輪のほうは、私のプロフィール画像で使用してる太田市出土の桂甲武人埴輪には及ばないが、細部まで表現された丁寧な作りだと思います。何れも東京国立博物館が所蔵しいます。

前述した至近距離にある猿田古墳群と平井古墳群の間には、埴輪窯(登り窯)が発見されています。藤岡市本郷埴輪窯は有名ですが、群馬県西部の埴輪は本郷猿田で焼かれた物が多い。本郷の工房技術者は畿内からの移住者である土師氏ですが、猿田でも活動していた可能性が高いと思います。ただ、出土した埴輪類の粘土分析は行われていないようで、ここで焼かれたことは証明されていない。

-白石稲荷山古墳15 
猿田窯跡群が発見された河岸段丘崖

登り窯を設置した段丘台地に接して古墳があるのは、本郷窯跡群と全く同じパターンですから、台地上の王子塚古墳平井地区1号墳などは土師氏の墳墓の可能性があると考えている。


(4)築造時代推定
白石稲荷山古墳の築造時期は、あまり絞り込まれていないが、5世紀前半と推定されています。この推定は1933年調査のものですが、その後の調査でも訂正はなかったようです。墳型からして5世紀でも初頭の可能性が高いと思います。
そう考えると東毛の太田天神山古墳の時代に近いものになります。仮に5世紀中葉であるなら、綿貫古墳群の岩鼻ニ子山古墳(西暦450年くらい)にも近くなる。
以下は埋葬主体部の形態です。

太田天神山古墳210m(太田市、5世紀初頭) 大型長持ち型石棺
お富士山古墳123m (伊勢崎市、5世紀前半)  長持ち型
岩鼻ニ子山古墳130m(高崎市、5世紀前半) 長持ち
白石稲荷山古墳140m(藤岡市、5世紀前半) 穴式礫槨
・不動山古墳94m   (高崎市、5世紀後半)  船形
宗永寺裏東塚古墳  (藤岡市、5世紀後半)  船形石棺

白石稲荷山古墳岩鼻二子山古墳に距離的に近いが、埋葬主体部の形態からして岩鼻二子山とは系列が違うような気がします。東毛氏族との繋がり推定される綿貫古墳群の首長とは交流はなかったのかも知れない。氏族の出自が異なると思います。
白石古墳群でも5世紀後半に入ると宗永寺裏東塚古墳のように、くり抜き形の船形石棺が現れますが、前半期はまだ普及していなかったもよう。
墳形だけ見ると4世紀代の前期古墳に見えるが、前方部は畑に使われていたので、もう少し高さがあった可能性もある。竪穴式礫槨という主体部からみると時代がもう少し遡る可能性もあるが、さきたま古墳稲荷山古墳などは5世紀末期の築造なのに礫槨+木棺ですから、一概に古いとは言えない。
時代や出自推定に役立つ土器出土がないため、葬送用の土師器など使う文化は無かったもよう。一方で、出土している家形埴輪や倉庫形埴輪は赤堀茶臼山古墳(5世紀中葉の築造推定)の居館埴輪との共通性がある。従って本古墳も築造時期は公式に発表されている値の可能性はあるが、赤堀茶臼山古墳の築造自体がもっと遡る可能性があり、本古墳も連動するかも知れない。


(5)首長の地域的な位置付け
藤岡市の古墳は初期には、神流川流域の神田・三本木地区に出現する。三本木古墳などの大型円墳であり、銅鏡が出ている。中期になると鮎川流域に古墳の中心は移り、5世紀前半の白石稲荷山古墳十二天塚古墳・十二天北古墳が出現する。その後、舟形石棺を有する宗永寺裏東塚古墳が5世紀後半に出現、更に6世紀前半の七輿山古墳、後半の宗永寺裏西塚古墳へと継続する。白石稲荷山古墳は付近に時代の近い古墳も無く、これよりも古い古墳もないので当該地域で最初の首長と見られる。

出土遺物には、桂甲埴輪はあるが甲冑本体や馬具なども無く、鉄剣も少ない。軍事的な性格は薄い印象がある。神奈川流域からどうして中心が鮎川流域に移ったのか不明であるが、神流川沿いは土師氏が広範囲に住んだ可能性があるので、これとは別系列の地域首長であろうか。藤岡市では、この時代の最大の前方後円墳ですが、距離的には高崎市吉井町方面にも近く、鏑川下流部右岸を含めた鮎川流域を治めていた首長だと思います。一世紀後には緑野屯倉が設置される地域であるので、肥沃な土地であったのかも知れません。
ただ、当地域の時代が下る古墳と氏族系列が同じとは言い切れないと思います。白石古墳群は、北から七輿山枝群、平井枝群、猿田枝群、稲荷山枝群、下郷枝群の5枝群から構成されるが初期に並行するものはない。
この首長に続く5世紀中期~後半の古墳が地域にはない。通常、首長一族がその系譜で引き継いだ場合、20~25年に1基の頻度で墳墓が造られる。空白の時代があるので、最初の首長は一代で衰退した可能性がある。個人的には5つの枝群間の関係は薄いと考えている。5世紀代の上毛野には移住者も入ってきており、古墳群単位に同じ氏族が繁栄したと考えるのは危険です。


(6) 2基の陪塚
十二天塚古墳と十二天塚北古墳は、白石稲荷山古墳の北側に南北に並んでいます。
この時代の方墳、長方形墳は群馬県では珍しい。陪塚とされていますが、出土遺物からはどんな性格の人物かは分かりません。白石稲荷山古墳の東礫槨の埋葬者との関係性も特に伺えるような遺物は出ていない。全体に鉄剣も少ないし、甲冑本体や馬具も無いので農耕氏族的な人物像かも知れません。尚、古い書籍には前方後円墳と記載されており、数も一つと考えられていたようです。現在、付近を歩いても何処にあるのか殆ど分かりません。開墾で表面は削られているようです。

①十二天塚北古墳は北側の方墳
 長軸23m、短軸22m、高さ2.2m、竪穴式の礫郭あり。
 埋葬施設の外側から石製の紡錘車、勾玉、管玉、土師器出土(時代評価不明)。
②十二天塚古墳は南側の長方形墳
 長軸36.8m、短軸26.8m、高さ2.6m、墳丘には葺石と埴輪列あり。


-白石稲荷山古墳9 
十二天塚北古墳(上)と十二天塚古墳(下)


-白石稲荷山古墳10 
十二天塚北古墳の埴輪列と竪穴式礫槨(教育委員会HPより)


(7)墳丘サイズの混乱
群馬の古墳好きは既に気付いているでしょうが、この古墳の墳丘サイズ情報は混乱していて、どれが本当なのかさっぱり分かりません。すぐ近くに教育委員会の展示施設もあるが、訂正される様子もない。

-白石稲荷山古墳11 
現地説明板の記述


・昭和60年頃の書籍     全長  92m前方部幅  41m、後円部径52m
・現地説明板       全長175m、前方部幅148m、後円部径92m
・群馬県史資料編  現状:全長140m、前方部幅  62m、後円部径90m
         設計値:全長140m、前方部幅  62m、後円部径72m
・藤岡市教育委員会HP    全長140m、前方部幅  75m、後円部径71m


これでは本当に墳丘範囲調査を実施してるのか疑わしくなります。特に現地説明板の内容は酷いです。どういう経緯でこんなデタラメな値になったのか?
おそらく、墳丘基壇面の採り方が全く異なり、トレンチ調査の結果は反映されていないのではないか。こうなるとどれも信用出来ないので、誤差はかなり大きくなるが自分で現状手に入るデータから計測してみた。

-白石稲荷山古墳20 

GoogleMapの3Dで見ても起伏はほとんど分からないので、国土地理院の色別標高図から墳丘範囲を推測してみます。


-白石稲荷山古墳12 
国土地理院の色別標高図


-白石稲荷山古墳13 
標高図からの墳丘範囲推定

どうやら、現状では追加した白線の範囲に墳丘の盛り上がりが認められます。
これを元にGoogleMapで距離測定を行ってみた。

-白石稲荷山古墳14 
墳丘サイズ測定


結果は以下ですが、藤岡市教育委員会ホームページの表記に比較的近い値です。

地形図からの計測  全長140m、前方部幅  76m、後円部径73m
・群馬県史記載  現状:全長140m、前方部幅  62m、後円部径90m
        設計値:全長140m、前方部幅  62m、後円部径72m
藤岡市教育委員会HP  全長140m、前方部幅  75m、後円部径71m

通常は墳丘範囲調査をすれば、トレンチを掘り下げるので耕作等による変形には影響を受けないはずです。これほどバラつく原因が分からない。調査方法の問題なのか、記録データの誤記が起因なのか、とにかく不思議です。今後はこの古墳の墳丘サイズは藤岡市教育委員会ホームページの表記が正しいものとして扱います。

【補足】
ある方から情報を入手したのですが、本古墳の墳丘長の混乱は、墳丘基壇面の捉え方にあるそうです。築造時に基壇面を造成している可能性があり、それを含めて考えると170m以上あるようです。しかし、定型的な前方後円墳としてみた場合は、墳長140m程度になるという話でした。当地の周辺は台地の上になりますが、平坦ではなく、ゆるい凹凸のある地形にあります。大型古墳ですから、多分、事前に整地作業が必要だったのかも知れません。



【参考・引用資料】
・藤岡市教育委員会 文化財保護課ホームページ
・東京国立博物館ホームページ
・群馬県史 資料編 群馬県立文書館 
・日本の古代遺跡 群馬西部編 保育社
・国立歴史民俗博物館研究報告 第120集
・GoogleMap
・国土地理院 色別標高図



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埴輪棺発見ニュースメモ《藤岡市本郷塚原A遺跡》

2018年5月14日群馬県藤岡市の古墳から関東では珍しい埴輪棺が発見されたというニュースが報道された。情報ソースを記録しておきます。


*********ニュース報道の引用開始******************

■上毛新聞オンライン
群馬県藤岡市教委文化財保護課が発掘を行った「本郷塚原A遺跡」(同市本郷)で、古墳時代に 埴輪 はにわ を焼いた窯跡とされる国指定史跡「本郷埴輪窯跡」に隣接する前方後円墳から、埴輪を使った棺「 埴輪棺 はにわかん 」が見つかったことが3日、分かった。埴輪棺は埴輪を作る工人集団がいた地域で出土する例が多く、市教委は「この前方後円墳が埴輪工人の墓だった証拠の一つになり得る。窯跡との関連をうかがう手掛かりになる」としている。
◎窯跡と関連 工人の墓か?
本郷塚原A遺跡には本郷埴輪窯跡と前方後円墳1基、円墳3基がある。これまでの調査では、窯跡と4基の古墳との関連は明らかになっていない。
市教委によると、埴輪棺は縦約50センチ、横約20センチで、前方後円墳の下から今年2月に出土した。小型のため、子ども用の棺か、1度葬った遺体を再び埋葬したものと考えられるという。前方後円墳に葬られた有力者ではなく、その近親者の可能性がある。人骨などは見つからなかった。
本郷塚原A遺跡から約300メートル南には、日本書紀の中に死者を弔うために埴輪を作ったとの記述がある「 野見宿禰 のみのすくね 」を祭る土師神社があり、窯跡もあるため、この地域が埴輪生産の拠点になっていたとされている。
市教委は今後、埴輪棺と前方後円墳を詳しく分析して、地域一帯の埴輪の工人集団の集落などについても調べる。
県立歴史博物館の右島和夫館長は「埴輪棺の発見が、窯跡と埴輪を作っていた集団との関連を裏付ける重要な手がかりになる」と話している。

埴輪棺発見ニュースメモ藤岡市本郷1 
埴輪棺

埴輪棺発見ニュースメモ藤岡市本郷2 
埴輪棺の発見位置

■毎日新聞オンライン
藤岡市教委は、発掘調査中の「本郷塚原A遺跡」(藤岡市本郷)の前方後円墳から、埴輪(はにわ)を使った「埴輪棺(かん)」が見つかったと発表した。古墳の周溝に並べることが多い埴輪を棺に転用するのは特殊という。埴輪棺は全国的にも珍しく、その多くが埴輪を作る工人集団「土師(はじ)氏」がいた地域で出土していることから、市教委は「前方後円墳と埴輪工人との深い関係性を示す手掛かりの一つになる」としている。
本郷塚原A遺跡は、これまでに、埴輪を焼くための「本郷埴輪窯跡」(国指定史跡)前方後円墳1基▽円墳3基が見つかっていたが、窯跡と古墳群との関係は明らかになっていなかった。
市教委によると、埴輪棺は今年2月に見つかった。縦約50センチ、横約20センチ。複数の「円筒埴輪」を組み合わせて作られ、上下は円筒埴輪の破片が詰め込まれてふさがれていた。人骨は見つからなかった。
埴輪棺の発見により、前方後円墳に葬られたのは埴輪工人である可能性が出てきたという。ただ、埴輪棺は、▽有力者の墓に入れる副葬品が見つかっていない▽後円部と前方部の中間地点で見つかった--ことなどから、市教委は「棺に埋葬されたのは埴輪工人の近親者の可能性がある」としている。また、棺は小型であることから、子ども用か、1度埋葬した骨を「改葬」した可能性が考えられるという。
本郷地区一帯は埴輪を作るのに適した粘土の産地で、本郷埴輪窯跡は関東一円に埴輪を供給していたとみられる。さらに、遺跡の南約300メートルには、日本書紀に記述があり、土師氏の祖先とされる「野見宿禰(のみのすくね)」を祭る土師(どし)神社がある。
市教委は「土師神社、埴輪を作る窯跡、埴輪棺のすべてがそろっていることから、前方後円墳と埴輪工人との関わりは深いものだったと考えられる」としている。
今後、別の古墳を調査するとともに、埴輪棺と前方後円墳との関連性を詳しく調べる。今回見つかった埴輪棺は調査終了後、藤岡歴史館(藤岡市白石)で展示される予定だが、市教委によると「2、3年後になる見込み」という。

■読売新聞

埴輪棺発見ニュースメモ藤岡市本郷3 クリック拡大

*************引用終了************************


【補足】
本郷塚原A遺跡は藤岡市を流れる神流川左岸の河岸段丘崖の上にある。
②埴輪棺が発見されたK-5号墳は明治時代に発見された埴輪生産用の登り窯跡に至近距離で隣接してる。
③埴輪を生産した氏族は土師氏であり、現代の大阪付近より移住してきた可能性が高い。移住の時期や経緯は不明だが、上毛野地域首長の要請と時の政権の承認があっての事と推定される。
④K-5号墳は前方後円墳であるが全長20m程度と小さい。殆ど削平状態であったため、横穴式と推定される埋葬主体部から遺物は発見されていない。
⑤埴輪棺は墳丘くびれ部で発見されているので埋葬主体者のものではない。
⑥通常、成人の埴輪棺は、棺として専用に作られたものなら1つに、円筒埴輪を流用する場合は2つを連結して配置して遺体を納める。発見されたものは1つの円筒埴輪とその前後を埴輪破片で塞ぐ形となっている。


【個人的感想】
現在、保存されてる登り窯が発見された場所には少なくとも20基程度の登り窯が並んで設置されたと推測されている。この窯から異常に近い場所に古墳がある。通常、仕事場と奥津城がこれほど接近しているのは、現在の感覚からすると異常な気もするが、当時の死生観と今日のそれとは違いがあるのだろう。
報道の中にも記載されているが、埴輪生産者の頭領的な人物が埋葬された墓であることは間違いないような気がする。但し、発見された埴輪棺に納められた者はその棺のサイズや埋葬された位置からして古墳の埋葬主体者とは異なる。おそらく幼くして亡くなった主体者の孫世代である可能性が高いだろう。
周辺には新発見の円墳を含めて4基の古墳があるが、歴代の頭領的人物と近親者が埋葬されている可能性が大きいと思う。ただ前方後円墳であっても、推定される石室規模は小さく、周辺の円墳の石室の方が大きい可能性もある。どんな葬送基準に従ったものなのか興味深い。
この古墳は約100基にのぼる小林古墳群の南端にある。当古墳群の中心付近には諏訪神社古墳という全長57mの前方後円墳もある。この地域の特徴として20~30m級の小さな前方後円墳が非常に多い。今回、発掘された小型前方後円墳は土師氏の中でも技術者クラスの人物であり、血筋は良かった可能性はあるが、それほど高位の人物ではないと思われる。


【参考画像】

埴輪棺発見ニュースメモ藤岡市本郷4 
↑中央十字のところが報道された古墳群位置(国土地理院標高図)

埴輪棺発見ニュースメモ藤岡市本郷5 
↑発掘中古墳と埴輪棺が発見されたK-5号墳(藤岡市教育委員会資料)
赤線の部分は埴輪生産用の登り窯が並んでいた場所


埴輪棺発見ニュースメモ藤岡市本郷6 
↑一部の墳丘には大型石室材が使われている(K-4号墳)

埴輪棺発見ニュースメモ藤岡市本郷7 
↑墳丘を覆っていた葺石(付近の神流川から運んだ石)

埴輪棺発見ニュースメモ藤岡市本郷8 
↑矢印が埴輪棺が発見された前方後円墳のくびれ部(K-5号墳)



本記事の作成にあたり、藤岡市文化財保護課より提供いただいた以下の資料より画像の一部、および、発掘情報を参照記載しています。
 『2018年1月20日(土)本郷塚原A遺跡 現地説明会資料』
無償提供してくれた藤岡市文化財保護課ご担当殿に感謝いたします。





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