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東国の古代史

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2019-07-27 (Sat)  08:00

公地制度の崩壊(3/4) - 聖武天皇の気質 -

聖武天皇は『 墾田永年私財法で何を目指そうとしていたのか? 何を隠したかったのかを考えてみたいと思います。しかし、その前の準備として皇太子時代の首皇子、即位してからの聖武天皇の行動や人となりが分かる記録を頭のなかに入れておく必要があります。系図と、彼の気質が推定できる記録を出来事年表の形で表示しておきます。無関係そうな出来事は年表からあえて省略しています。


公地制度の崩壊3
聖武天皇関連系図(クリック拡大


701   母藤原宮子が首皇子を生むが、心的障害で皇子とは離れて暮らす。
707 首皇子の父文武天皇死去。文武天皇の母の元明天皇即位(首皇子の祖母)。
714   首皇子元服・立太子(14歳)
715 元明天皇は後継として娘を元正天皇(首の叔母)として指名譲位。
   首皇子(15歳)の即位は見送られる。皇子の研鑽開始?
721   首皇子(21歳)の帝王学教師16名による研鑽。元明太上天皇死去。
722 天武天皇の孫である長屋王が左大臣となる(長屋王政権)。
722 多治比真人三宅麻呂を誣告罪で逮捕、死罪となるが首皇子の助命嘆願で
   流罪に減刑。
722   長屋王が百万町歩開墾計画を策定。
723 長屋王、三世一身法発布。
724 元正天皇が後継として甥である首皇子を指名し、聖武天皇が即位する。
724   長屋王と聖武の間で、聖武の母藤原宮子の「大夫人称号問題」が発生し、
   両者の間にしこりが残る。
727   聖武の夫人藤原光明子に某王(基皇子)が生まれる。某王立太子。
728 某王死去、聖武の夫人県犬養広刀自に安積親王が生まれる。
729   藤原四兄弟が安積親王への皇位継承を阻止するため光明子の皇后昇格を
   画策したが長屋王が反対。
729 長屋王が左道を学ぶと中臣宮処連東人が密告(某王を呪詛した罪?)。
        聖武は兵を派遣して長屋王を逮捕。長屋王と妻子は自害。
729 聖武が慣例を破って夫人光明子を皇后とする。非皇族の最初の皇后。
729 不比等の長子藤原武智麻呂の政権誕生。
730~735 干ばつ、落雷、疫病、地震の災異頻発。聖武天皇は連続する災異を
   自身に対する天の譴責(けんせき)と受け止め、大赦の詔。
736   聖武が被災地域の税減免、食料支援、医療支援を行う。
737 一時治まった天然痘が再び大流行。藤原四兄弟が天然痘で死去。
737   聖武が僧玄の働きで精神疾患が軽減した母宮子と初めて対面。
738   聖武の娘阿倍内親王立太子(後の孝謙)。橘諸兄右大臣就任で政権につく。
740   河内知識寺へ行幸。知識方式の盧遮那仏を見学。
740   太宰府に左遷されていた藤原広嗣反乱。広嗣上表で政権批判(聖武批判)。
740 伊勢、美濃行幸。山背恭仁京に遷都。
741 諸国に国分寺、国分尼寺建立の詔。
742 近江国紫香楽宮(離宮)に移る。
743 墾田永年私財法の詔。
743   紫香楽宮で大仏造立の詔。
   権力で民衆を使役したり資材調達するのではなく、民衆の平等な「知識」
   による造立に意味があると詔。鎮護国家思想の体現を目指す。
744 摂津国難波宮に遷都。聖武の唯一の男子安積親王が17歳で病死。
745   遷都による経済破綻、民心の要求で都を平城京に戻す。
745   紫香楽宮の大仏造立も平城京に移して工事続行。
749   藤原仲麻呂、正三位大納言に就任。聖武、娘に譲位して孝謙天皇即位。
749 東大寺行幸時に740年の知識寺行幸で自分も大仏造立を願ったと宣命。
752 東大寺大仏開眼供養。
756   聖武太上天皇死去。



歴史学者から指摘されることが多いが、聖武天皇の頑固さ、執着性の強さは多感な年頃であった皇太子時代のコンプレックスの影響だという説がある。


(1)一つは能力コンプレックス
祖母である元明天皇は首皇子が立太子した後にも関わらず、娘の元正天皇に譲位している。元明は皇子本人のためと思っていたかも知れないが、皇子からすれば見放されたという気持ちになったかも知れない。元明天皇も、その娘の元正天皇も、皇子を排斥する意識はなかったと思うが、彼の評価はあまり思わしくはなかったようだ。父文武天皇が即位した年齢になっても、まだ天皇としての力量はないと判断されたのだろう。2人が藤原氏の血筋を嫌って長屋王の血筋に期待していたという説を述べる人もいるが、皇子を教育研鑽しているところを見ると彼を完全に見放していたとは思えません。品格が備わるのを待っていたのではないか。
多治比真人三宅麻呂の誣告事件では、皇子の助命嘆願をみて、元正天皇も彼の力を見直したという見方もあるようです。法に照らせば死罪は仕方ないが、承認する天皇の事跡には傷が付く。最高責任者である天皇自ら助命するわけにはいかないが、第三者の皇子の意思であれば穏便に治まる。この行動力評価が即位に繋がったのだろうか。
確かに即位は24歳まで待たされたが、7世紀代であれば若すぎるくらいです。続日本紀では具体的に王子の能力について言及されていませんが、後の行動を見れば不適格という程ではないような気がします。

(2)二つめは血統コンプレックス
血統で言えば藤原氏の血が入った首皇子よりも天武と天智の血を引く長屋王のほうが上回ると思う。持統天皇による強引な草壁系への皇位路線がなければ、長屋王の即位の可能性もあったろう。首皇子もそれは自覚していたと思う。
藤原宮子の「大夫人称号事件」を見れば、聖武天皇は明らかに長屋王を嫌っていたと思われるし、長屋王も内心、聖武の血筋を軽んじていた可能性はある。長屋王の左道事件は藤原四兄弟の策略と云われる事が多いが、逮捕には六衛府の兵士を動員してるので、聖武天皇の指示があったはず。長屋王は抗弁せずに自害したが、聖武天皇は初めから殺す意思があったと思う。皇位継承の第一候補の某王や自分を呪詛された可能性があるというだけで、冷静ではいられなかったのだろう。息子某王の死はショックが大きく落ち込んでいただけに、反動の憎悪も大きかったといえる。長屋王の変の対応では残虐な一面を見せています。某王以外に男子は安積親王がいたが、彼の藤原の血は薄く、藤原一族の反対は目に見えている。某王は聖武の期待を担っていた。

聖武天皇は歴史家が言うように、血統コンプレックスを持っていたと思う。しかし、それに負けて萎縮しているふうには感じられない。自身の血筋を嫌っていたわけではないし、絶望もしていなかったと思う。むしろ、母宮子から受け継いでる不比等の血について誇りを持っていたのではないか。宮子称号事件も従来の呼称とは違う新しい呼び名を考えたのも、そのためだと思う。臣下の指摘にも決して折れていない。古い天皇の慣習を受け継ぐことよりも、偉大な政治家不比等の血の入った皇統が自分を始祖として続くことを願っていたのではないか。それだけに実績のある天皇として名声を残したかったのだろう。この思いは彼の晩年の行動心理を推定する上で重要です。

【補足】
長屋王を密告したのは、中臣宮処連東人と他1名であるが、9年後の738年の記事に、東人は同僚と囲碁の最中に長屋王のことで喧嘩をして惨殺されている。
続日本紀は東人のことを「誣告(ぶこく)」した人と呼んでいる。従って長屋王の左道事件は捏造だったと続日本紀が認めている。定説では陰で糸を引いたのは藤原四兄弟であろうとされている。

【補足】
聖武天皇は藤原氏の傀儡であったが、藤原四兄弟が死んだので、橘諸兄や真備を中心とした反藤原政権を作ったという説があるが、それは疑問です。橘諸兄は、皇后光明子の異父兄です。「諸兄」とは義理の兄さんというような意味で男性性を呼ぶ呼称です。つまり聖武から見た橘諸兄との関係を表す名です。
確かに聖武と血縁はないが藤原一族でもある聖武夫妻の親族級と云える。聖武の引きがなければ諸兄の異例の出世はなかった。また、藤原氏から重臣を選びたくて疫病事件で信頼できる人材が死亡していた。後に台頭する武智麻呂の男仲麻呂は光明子を後ろ盾にしてるが、諸兄が右大臣就任時はまだ32歳です。政権トップには若すぎた。もし、聖武が反藤原に転じていたなら、その後の仲麻呂の急激な官位上昇はあり得ないでしょう。聖武在位最終で正三位大納言まで上がり、孝謙在位最終で太保(右大臣相当)に就任している。


聖武天皇の、法令無視、独断専攻、経済観念の欠落は、行動力の裏返しであるような気がするが、少なくとも冷静沈着な人間ではないようだ。感受性が強く理想を追い求める反面、考え方は独善的で利己主義的でもある。また、躁うつ気質があるようにも感じる。彼の晩年の振る舞いが政治的に混乱を招いていたことは想像に難くない。
母宮子は、原因は分からないが精神疾患の病があり、聖武が初めて対面したのは37歳の時だという。彼の執着気質は母から受け継いでいるのだろうか。

また、聖武天皇は中国の皇帝(天子)の権力を理想と考えていたふしがある。中国の皇帝は時の法律に縛られることはない。皇帝の意思で法令を曲げることも可能だった。しかし日本の場合は天皇も法に縛られている。長屋王が度々聖武天皇の決定に口を挟むのは、このことが根拠であり、長屋王と聖武の人間関係以前に、長屋王こそ法に忠実だったと云える。

聖武天皇の死後の記録を追うと、聖武天皇の考え方は明白になる。娘、孝謙天皇への遺言が孝謙の口から語られるが、「汝は臣下を天皇にするのも、天皇を臣下に下ろすも自由に決めてよい。また後継者が汝を軽んじる場合は皇位を剥奪するのも自由だ」と述べている。これは聖武天皇の皇位を継ぐ者は、従来の慣例や法には縛られないと宣言してるのに等しい。実際に孝謙天皇はその通りに行動する。僧籍の道鏡を法王の位に付け、天皇にすることさえ考える。その計画は妨害されたが、後に孝謙太上天皇は自分を批判した淳仁天皇を皇位から下ろして重祚することになる(称徳天皇)。
一般的に孝謙・称徳天皇の行動を乱行として記載されることが多いが、その根っこは父である聖武天皇にありそうだ。彼の善悪は別にしても、従来の天皇とは規格外の考え方を持つ。尊貴な皇統という出自に頼る権力ではなく、絶対的な権力、例えば中国の皇帝のような位置付けを標榜していたのかも知れない。
孝謙天皇の語る聖武の遺言は、余りにも後の孝謙の行動に一致しているので、続日本紀の編纂段階での創作の疑いもあるが、聖武が天皇の権力強化を求めていたことは間違いないだろう。


公地制度の崩壊7
聖武天皇一家 ?
(左から光明皇后、阿部内親王(孝謙)、聖武天皇)


次回に続く


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