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東国の古代史

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2019-07-28 (Sun)  09:00

公地制度の崩壊(4/4) - 聖武天皇の目的 -

最後に、聖武天皇の『墾田永年私財法の詔』の裏にある目的について考えてみます。少なくとも、詔で聖武天皇が述べた、三世一身法の機能不備についての説明は信用できるものではない。矛盾のある言い訳を繕ったのは、真実を隠すために、三世一身法では荒廃田の開墾促進効果が出ないことを述べざるを得なかったのだろう。


そこで本当の目的について、いくつか仮説を考えてみた。
長屋王施政への反発からか、または、長屋王粛清を黙認した引け目から、王の政治的な実績である三世一身法し去りたかった
②口分田の不足が全国的に問題となっていたため、一時的に土地の私有化を認めて、開拓意欲を煽り、耕作地を増加させる手段を採った。
③班田収授法の問題点の多さから大化以来の公地公民制を完全に諦めて私有を認める自由経済に向かおうとした。

①は、それほど公私を混同したり、感情に流される聖武とは思えない。また長屋王の弟鈴鹿王は臣下として採用され続けており、王以外には罪が及んでいない。王を嫌っていたとしても本人は刑死しており、朝廷にとって重要な政策まで廃止するとは思えません。
②、③は法改正の前後の記録を見る限り、律令制に関係する記述は見当たらず、可能性はあっても想像の域を出ず、証明することができない。班田収授法には班給を繰り返すと口分田が分離化してしまうという致命的な問題があった。しかし、制度を改善する施策も出ていない。当時、政権や天皇自身が律令制度の充実や改善を真剣に考えることは無かったか、能力を持つ人材が登用されていなかったのかも知れません。また、この詔が出された当時の朝廷の状況や、天皇自身の行動や心情について前稿で確認してきた。状況は続日本紀の記録にも如実に現れています。
これらを踏まえて推定すると行き着く結論は、聖武天皇は財政逼迫の中で仏教鎮護国家実現に向けて、墾田永年私財法を、有力氏族の寄進との交換条件に使った可能性が高い。この段階で公地制度を完全放棄したわけではないが、私有に関して大幅な緩和政策に踏み切ったということです。

これは一部の歴史学者が唱えている説でもあります。残念ながら他には考えつきませんでした。この説は説得力があると感じるが、同時に背景を明確にして置く必要があると考えます。以下に列挙します。


(1)背景1「豪族、貴族の欲求とは何か?」
当時、朝廷は干ばつや疫病の影響から立ち直れないうちに、聖武天皇のたび重なる遷都大仏建立事業で財政は逼迫しつつあった。直ぐにでも寄進が必要な状況だったと思います。しかし、墾田永年私財法は未開地を開墾して耕作できるようになってからの私有ですから、有力豪族や貴族には絵に書いた餅ともいえる。
即効性のある施策とは思えない。朝廷の口約束で有力者への寄進を働きかけたということになるが、このあたりがちょっと弱い気もします。ただ、結果論で見れば、各国の国分寺・国分尼寺の建立も東大寺の盧遮那仏も、ほぼ寄進で賄っている。朝廷は財力のある豪族・貴族をうまく説得できたということでしょう。この経緯を見ると、地方の豪族や中央貴族の土地の私有化要望は公地制施行の初期からあったような気がします。朝廷はいままで有力者の要求を拒否してきた。しかし、ここにきて財政逼迫に耐えられず、国家事業の推進を優先して要求を飲む方向で法改正を約束した。それが墾田永代私財法の背景というならば説得力があります。

【補足】
国分寺・国分尼寺造立の詔と私財法との発布時期について補足しておきます。国分寺造立の詔は741年には発布され、墾田永年私財法よりも2年先行していす。当時の国分寺・国分尼寺造立というのは地方の国にとっても大事業た。上野国の例を採れば、完成したのは詔から8年後の749年です。上野国は、有力な氏族が多かったせいで寄進は潤沢であったと推定できます。8年間での成はかなり早い方で、2倍以上かかった国や財源不足で新規の造立を諦める
国もあった。当時の詔は作業を初めなさいという宣言であり、寄進推進のため墾田永年私財法が2年ほど後発となったことは大きな矛盾にはなりません。


公地制度の崩壊1
上野国分寺金堂基壇

公地制度の崩壊0
上野国分寺五重塔基壇



(2)背景2「仏教と知識方式への執着の原因は?」
前稿で聖武天皇の人となりを分析してみたが、彼の強権的な考え方と知識方式という考え方がどうにもマッチングしません。反発はあっても、強権を発効して有力者から強制的に物資と労働力を徴発することも可能であったと思います。なぜ知識方式という民衆の奉仕精神にこだわったのか? このあたりを明確にしないと結論といっても説得力に欠けます。仏教に帰依していたからという単純な理由では納得できない。彼の独善性や強い執着性を考えると、精神的に彼を追い詰めるような何かがあったとしか思えません。

前稿の年表にも記載されてるが、長屋王の変の翌年、西暦730年から735年にかけては、干ばつ、落雷、疫病、地震と災異が頻発し、世間では長屋王の怨念によるものという風評もあった。しかし735年の詔で、「自身の不徳が原因である」と大赦の実施を発表している。聖武天皇は連続する災異を自身の行動に対する天の譴責(けんせき)と受け止めていたことが分かる。これは中国の天帝思想(道教の讖緯思想)の影響だが、災異は天が地上を治める天皇を信任していない証拠であるという考え方です。中国であれば、易姓革命という王朝交代のきっかけとして認知されていた。日本では王朝交代という概念は存在しない。あるのは天皇の交代だけです。

【補足】
中国の天帝思想は、天には天帝がおり、地上には唯一人の天子がいる。天子天帝の承認によって絶対権力者として地上を治める。天帝と天子に皇統のような関係はない。天子が不徳であれば天帝は天子への譴責として地上に災いをもたらす。これは日本の皇統世界観と異質なものです。日本の天皇は天つ神の指示で天孫が地上に降臨し、その子孫が皇孫として地上を治めていくという思想。当時の日本ではこの違いが明確には認知されていなかったのかも知れない。聖徳太子が中国の天子(皇帝)に向かって、日本の天皇を日出る国の天子と呼んで中国皇帝を激怒させたのは有名です。対等な物言いに怒ったと言う人がいるが、それは違う。天子とは世界に一人しかいないことを理解していなかったということ。


聖武は災異のあと、735~736年には大赦を繰り返し、災害地域の税減免や食糧支援による救済など、憐れみの対策を見せている。しかし、737年には聖武天皇を支える藤原四兄弟も天然痘で全員が死亡する。自分と同じく不比等の血をひく四兄弟は聖武自身が任命している。大きな後ろ盾だった不比等はすでに無く、残る藤原四兄弟を頼りにしていたと思う。それを一挙に失ったことで、聖武の心中はいかばかりだったろうか。それ以上に脅威を感じたのは自分の選任した臣下をも殺してしまう天の怒りに恐れ慄いたのかも知れない。既に天は自分を見放してしまっていると感じたことだろう。
740年9月には藤原広嗣の反乱があった。反乱は簡単に鎮圧されたが、広嗣は乱の上表で、「政治の得失を指摘し、天地の災異に言及した」と記録されてる。直接的には、僧玄昉吉備真備の罷免を求めているが、天地の災異とは737年の父藤原宇合が死去した天然痘災禍を指してる。前述したように災異は政権を運営した臣下の非ではない。天皇自身の罪であるから広嗣は聖武自身を曲折的に批判している。身内である広嗣にも罪を批判されたことは、自覚しているだけにショックであったろう。身内でさえの批判なので朝廷内の雰囲気も察しがつくものだ。
740年2月河内国知識寺への行幸のおりに仏教の知識方式を知り感銘を受けたことを後年述懐しているが、この広嗣の反乱を機に急激に仏教に傾倒していったのではないか。それは仏教への逃避だったかも知れない。

独善的な彼が、相反する知識方式という、民衆の奉仕精神を尊んだのは純粋な善意だったとは思えない。理想の方法で仏教世界において自身の栄達を願い、天の評価を見返したいという思いもあったのではないか。更には、権力の行使で民衆に過酷な使役を強制したり、資材を強制収用すれば、仏にも受入れてもらえないという恐怖があったと考えられる。
元正~聖武天皇の時代、朝廷は法に従わない僧行基とその集団を厳しく取り締まってきた。この行基と突然和解し、僧侶として認めて協力を求めたのも、目的達成のためだったと思う。政権の中には行基との合同事業に反対してる人達も多かったようだ。


公地制度の崩壊6
行基菩薩坐像


(3)背景3「遷都はなぜ必要だった?」
豪族・貴族との取引に利用された墾田永年私財法との関係性が不明だが、聖武天皇の5年に及んで繰り返された遷都について考えておきたい。
国分寺・国分尼寺も大仏も寄進にたよる方式で進めた訳だが、一方で繰り返された遷都という目的がよくわからない。遷都は墾田永年私財法よりも早い740年の広嗣の乱鎮圧・処刑の頃に始まり、745年まで続く。最後は財政逼迫で平城京に戻るわけだが、知識という奉仕活動を進める一方で、繰り返される遷都で財政浪費の原因をつくる。矛盾した行動は何のためだったのか。
広嗣の反乱で奈良の都でも反乱が起きると不安になって逃げていたという説があるが、広嗣の反乱はあっけなく鎮圧されて、平城京でも反乱の兆候などなかった。それに反乱を恐れるなら防御が手薄になる行幸などあり得ない。京において親衛隊である六衛府の守りを固めねば返って危険です。それほど愚かな聖武ではないだろう。

聖武は天に見放された自分と国家を象徴する平城京を嫌っていたのではないか。天が与える災いから逃避し、自身の罪をリセットしたかったのだろう。新たに仏都として建設する都だけが、聖武天皇にとって安寧に暮らせる場所という思いがあったのではないか。度重なる遷都も根っこは(2)項と同じく仏教への執着であったと推定します。


公地制度の崩壊4
東大寺盧遮那仏


聖武天皇の計略はほぼ成功したと言えるだろう。班田収授法を継続するために必要だった口分田も、墾田永年私財法で急速な開墾が進み、私有化された。天皇制社会主義の生産性低下という弱点を人間本来の所有欲を利用することで克服した訳です。私有化された耕作地は輸租田として課税されましたから朝廷も潤ったはずです。
でも、天皇を中心とした中央集権国家の確立という観点でみれば、相対的に天皇の力を弱体化させたと言えるでしょう。それは、聖武天皇が目指していた、古い慣習の天皇を超える絶対権力を標榜した思いとは逆行することになる。やがては皇統も象徴的な御旗と化すきっかけになりました。そこまで、見通す大局観のある施策では無かったということです。でも聖武自身がそのことを知ることはなかった。私財法から9年後の大仏開眼供養を見届け、更に4年後の756年に亡くなっている。






参考・引用資料
■日本書紀(上下)  宇治谷孟  講談社学術文庫
■続日本紀(上中下) 宇治谷孟  講談社学術文庫
■六国史       テキストデータ
■東アジアの古代文化40号、103号 大和書房 
■正倉院データベース 



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