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東国の古代史

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2019-01-13 (Sun)  12:29

長屋王粛清とその後の不可解な事件(1) - 密告者の人物像 -

最近二番煎じの記事が多いのでオリジナリティを出したいところだが、なかなか発想がわかない。「長屋王の変」の話も前から書きたい記事ではあるが、定説で語られることをトレースしてもつまらない。
小説まで含めれば、SF作家・豊田有恒氏の『長屋王横死事件』(講談社)などは異色の部類だろう。彼の歴史に関する洞察力は鋭い。読んでみると面白いのだが、この小説もやはり真実とは思えません。昼下がりのドラマとしてならば秀逸ですが。


前振りはこの辺にして「長屋王の変」の後日談を中心に書いてみます。

「長屋王の変」は超簡単にいうと、
聖武天皇の御代、天皇と当時の政権トップ長屋王との間は上手く行っていなかった。聖武天皇の決定に対して法に反するという理由で長屋王が反対する事が多かったためです
729年2月10日、漆部造君足と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道学びて国家を傾けんと欲す」と密告。藤原宇合ら率いる六衛府の軍勢が、長屋の邸宅を包囲する。尋問の結果、長屋王と妃の吉備内親王は2日後に自害し、子供らも絞首されて殺される。吉備内親王は元明天皇の娘ですから聖武には伯母にあたる。親王クラスの最高位臣下が暴力的に粛清され、親族も犠牲にするという凄惨な事件でした。


この事件に聖武天皇が関わっているかは不明です。ただ、誣告を受けて長屋王の弁明も聞かず、六衛府軍を派遣するということは何れにしろ死んでくれたほうがよいと思っていたふしはある。六衛府は天皇直属の親衛隊ですから天皇の命令がなければ動かせない。しかし、妻子は殺されたが、長屋王の弟は連座しておらず引き続いて臣下と
して採用されている。おそらくターゲットは長屋王だけでなく、聖武天皇の後継が長屋王の血筋に移るのを防ぐ目的もあったのだろう。処罰されたのは、上毛野宿奈麻呂ら7名が流罪で、邸内の他90名は逮捕されたものの全て釈放された。比較的、限定的な処罰で済んでいるのが特徴です。


長屋王を密告したのは、漆部造君足中臣宮処連東人の両名です。続日本紀は「誣告(ぶこく)」と記録しているので無実の罪をでっち上げたということだが、なぜ誣告と判明したのかは記録されていない。


長屋王粛清とその後の不可解な事件1
長屋王邸宅の位置

長屋王粛清とその後の不可解な事件2
長屋王邸宅模型



密告した人物は以降の本題に関わるので此処で補足しておきます。両名は事件から9日後に以下のように叙位を受けている。事件を報告した報償です。

■漆部造君足     従七位下 → 外従五位下
■中臣宮処連東人   無位   → 外従五位下

この時代、位階の見直しは常勤官吏の場合で4年毎です。順調に出世しても、通常なら見直し毎に1段階上がるだけ。身分の低い官人は無位からスタートすると順調でも七位に届けば良い方でした。無位から五位下というのは16段階を一気に駆け上がる破格の叙位です。ただ、いずれも外位であるので、貴族に列せられた訳ではない。従って、禄は内位の半分くらいだと思います。でも低い身分出身の官人としては通常到達できないところまで叙位されたというのは間違いない。

長屋王粛清とその後の不可解な事件3
大宝律令官位表(クリック拡大


特に中臣宮処連東人は無位からの昇進なので、おそらく密告の主役人物とみてよいだろう。漆部造君足はたぶん東人の上司にあたり、長屋王邸内での東人のの活動をカバーしたのではないだろうか。長屋王の邸宅は宮中の執務室に相当する規模で100名近い人員が働いていました。役人も多かったはずですから、目立たぬよう、上司とその配下をペアで操ることで事業活動をスパイしていたと思われる。


漆部造君足の「漆部造」というのは、漆塗りに携わる職掌であり、東大寺の造立にも関わっている。だが、この時代には漆塗りとは関係ない職業についてる者もいたという。この人物もそうした一人か。漆部造君足は六国史には一回しか現れない人物です。

中臣宮処東人の方は中臣氏の一族で、讃岐国を発祥とする氏族。元々、中臣氏は祭祀祈祷に関わる職掌だが下賤身分の氏族であったと松本清張は述べている。東人も事件までは無位であり、おそらく年齢も若く、中臣氏といっても宮中には縁のない身分の人物であろう。

両名とも、どのような経緯で長屋王に近づけたのか不明だが、王の不正を密告できたという事は、長屋王家の近習として勤務していたことは間違いない。長屋王邸に入った時期も不明なので、例えば黒幕が謀略のために送り込んだ人物なのか、謀略以前から事件と無関係に働いていた者なのかも不明です。


補足
長屋王は現代の金額で年収4億円とも云われており、京に大邸宅を持ち執務も邸宅でっていたことが、長屋王邸からの木簡出土で判明してる。長屋王は写経等の出版事行っていたらしく、この書籍の中のどれかが左道に関わるものと利用された可能が高いそうです。君足や東人もそれらの事業に関わっていたからこそ、左道の証拠を訴えることが出来たのだろう。



次回に続く




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No title * by 関根 聡
興味深く読ませていただきました。
よろしければ、下記で私の研究成果もご覧ください。
http://www.kojiki.org/maro/exploring.html

No title * by 形名
> 関根 聡さん、こんばんは。
長屋王邸の発掘報告書を直接見ていないのでなんとも言えないのですが、確か「長屋王家令」という記述の木簡が長屋王邸根拠となったという記述を見たことがあります。「木簡1783 麻呂家令」という木簡のことは知らなかったのですが、両方が出土しているという事は、長屋王邸を否定する絶対証拠にはなら無いような気もします。当然、他にも根拠があるのだと思いますが、この辺はどうなんでしょうか?また、それ以前に長屋王邸の否定はどの時代のことを指しているのか、hpでは読み取れませんでした。左京三条ニ坊に長屋王は一度も居住していなかったと主張しているのですか?

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興味深く読ませていただきました。
よろしければ、下記で私の研究成果もご覧ください。
http://www.kojiki.org/maro/exploring.html
2018-02-14-15:42 * 関根 聡 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 関根 聡さん、こんばんは。
長屋王邸の発掘報告書を直接見ていないのでなんとも言えないのですが、確か「長屋王家令」という記述の木簡が長屋王邸根拠となったという記述を見たことがあります。「木簡1783 麻呂家令」という木簡のことは知らなかったのですが、両方が出土しているという事は、長屋王邸を否定する絶対証拠にはなら無いような気もします。当然、他にも根拠があるのだと思いますが、この辺はどうなんでしょうか?また、それ以前に長屋王邸の否定はどの時代のことを指しているのか、hpでは読み取れませんでした。左京三条ニ坊に長屋王は一度も居住していなかったと主張しているのですか?
2018-02-14-18:55 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]