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東国の古代史

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2019-08-08 (Thu)  07:20

豪族居館・水祭祀の発祥(1/6) -遺跡の概要-

本稿シリーズは2018年2月に執筆した記事を全面的に更新、加筆したものです。

1981年、高崎市の新幹線延長工事の事前調査で不思議な遺構が見つかった。通称、豪族居館とも呼ばれる三ツ寺Ⅰ遺跡の発見でした。当時はまだ古代豪族の墳墓への関心はあっても、豪族が実際どんな家に住んでいたのか解明されてはいなかった。家型の埴輪は全国で出土していたが、祭祀用であって、実際の家屋描写とは考えていなかったそうです。
三ツ寺Ⅰ遺跡は新幹線の高架橋の真下にあるので、残念ながら今は埋め戻されて見ることはできない。かっては行政区も高崎市ではなく、群馬郡群馬町でしたから一辺が90mもある遺跡の土地を買い上げて展示保存は無理だったか?


豪族居館水祭祀の発祥1
新幹線工事前の三ツ寺Ⅰ遺跡 航空写真


上の航空写真の赤枠部分と下の遺跡図の赤枠部分が対応します。調査は居館全体を発掘したわけではなく、矩形部分が主体で、他の部分は遺跡範囲確認とポイント調査が行われたようです。従って、遺跡図には推定がかなり入っていると思われます。


豪族居館水祭祀の発祥2
現地に設置されてる案内板


豪族居館水祭祀の発祥55
発掘区画の詳細(若狭徹2004転載)


中央には石敷きがあり、そこへ外部から水道橋という樋(とい)で石敷きまで導水しています。石敷で水祭祀を行っていたと考えられている。一方、周濠の水は北西側河川から流入し、南東側へ流出する造りになっている。施設の周囲は全面石張りで土の流出を防いでいる。施設は一辺90m正方形。濠の水深は約3m。


豪族居館水祭祀の発祥3
現場に当てはめた構造物の配置(環濠の入口出口が現存猿府川に一致する)
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豪族居館水祭祀の発祥5
水濠への張出部の石貼り構造クリック拡大


豪族居館水祭祀の発祥6
居館中央部石敷き上の水祭祀跡クリック拡大


現在でも、三ツ寺Ⅰ遺跡豪族居館と呼ばれる事が多いが、特徴的なのは、その中で水祭祀が行われていたことです。私自身は、水祭祀を行うための施設であって、本当に居館と呼べるのか疑問もある。首長が定常的に暮らす住居は別にあった可能性もあるのではないか? 屋内の生活土器やカマド等の設置で判断もつくと思うが、祭祀の際に神との飲食を伴うのであれば、普段の生活と区別できなくなるかも知れない。また特徴的なことに、正殿とは区画を分ける多くの倉庫群、鍛冶場などを供えていることは、祭祀目的一辺倒とするには違和感もある。現状では首長の居館、祭祀場、一定期間の生活に足る衣食住用品をストックできた施設と考るしかない。三ツ寺Ⅰ遺跡は比較的調査が行われているが、他地域の豪族居館は完掘されてはおらず、祭祀が水祭祀であったのか否か判断できないところが殆どである。面積が大きい遺跡のため難しいのだろう。


豪族居館水祭祀の発祥7
復元模型(かみつけの里博物館)クリック拡大

【補足】
模型の左下の橋状の構造物が導水した水道橋。水濠の水は自然流入・流下水で、祭祀用の導水も同じ河川から水を曳いてるので、地形の高度差を上手く利用した仕掛けがあったと思います。2区画に明確に別れていて正殿と祭祀の場は右区画にある。左区画は倉庫軍であろうか。水濠への張出しは見張り台のように見えます。


豪族居館水祭祀の発祥4
環濠居館の構成と河川利用形態(若狭徹2004転載)
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水祭祀自体は全国に遺跡として残っており、特に珍しいものではない。しかし、ご覧の通り、環濠構造であって防御性があるようにも見えます。何から守っているのか明確ではないが、ひょっとしたら水の祭祀権が奪われるリスクがあったのか?言い換えれば水争いですが、古墳の分布からは有力勢力は至近距離にありません。環濠は他の全国的な遺跡でもあり、地域特性でないのは明らか。例えば、防御のためではなく水に囲まれた空間自体が祭祀に重要だったとも考えられる。河川自体は環濠の外を流れている訳ですから、河川自体を守る機能はありません。だが、その思想がどんなところから来るのか、自然発生的なのか、外来文化の移入なのか分からない。袋のネズミにも成りかなねない、このレベルの施設を戦乱を前提とした城郭とするのは無理があります。水神が降臨する場所、神をもてなす場所として価値があり、守っていたのかも知れません。

【三ツ寺Ⅰ遺跡出土品】
・土師器    須恵器を模倣した鬼高Ⅰ期(5世紀後半)の土師器高坏
・須恵器    大阪陶邑製が大半を占める甕(かめ)、高坏、坏(つき)
・滑石製模造品 祭祀用の勾玉(まがたま)、剣、他
・羽口     精錬用送風口
・ルツボ    銅、鉄製品の鋳造用


この遺跡は、考古学者の森浩一氏が韓国の雁鴨池(がんおうち)に似ていると話している。どのような意味を込めて話したのか不明だが、雁鴨池は7世紀後半の統一新羅王朝の宮廷庭園です。斉明朝の水祭祀施設との共通性は確かに認められる。両者は明らかに道教思想によるものです。しかし、5世紀代の三ツ寺Ⅰ遺跡とは性質が違う気がする。それに韓国の5世紀以前に同様の遺構は無いのでは?


豪族居館水祭祀の発祥8
韓国慶州の雁鴨池


何れにしても、水祭祀施設が重要なものであったのは間違いないだろう。大河川からの引水が技術的に難しかった時代です。傾斜地にある湧き水主体の小河川は水量が少ないが安定している。また流域が短いことから氾濫の危険も少なくて灌漑には適していたと思う。命の水だからこそ神に感謝し、途切れることが無いよう祈ったのであろう。


豪族居館水祭祀の発祥0
三ツ寺Ⅰ遺跡の北西至近距離にある保渡田古墳群クリック拡大


三ツ寺Ⅰ遺跡は明らかに至近距離にある保渡田古墳群のどれかの首長のものであると思うが、2000年に数キロ離れた染谷川左岸で北谷遺跡と呼ばれる水祭祀施設が発見されている。両者は構造、サイズともよく似ている。そのため、統一首長の代替わり毎に祭祀施設を別に造ったという仮設がある。つまり北谷遺跡保渡田古墳群の首長交代で新たに造られたという説です。他には前橋西部の古墳と関係しているという説もあるようです。染谷川は井野川支流ですが、東進して下流部は前橋市の利根川右岸にある古墳群にも近いためでしょう。


豪族居館水祭祀の発祥9
赤丸:水祭祀施設、赤四角:保渡田古墳群、緑丸:周辺の小河川
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水祭祀施設が同一地域に複数ある要因を洗い上げると次の5つくらいか。

①首長に就任した人物が自分のための祭祀施設を別に造った
②神社の式年遷宮のように別の場所に定期的に施設を作り直していた
③同族の中でも特定の血縁グループ単位で施設を造っていた
④近隣の複数首長が湧き水の多い此の地域に施設を造ったので集中してる
⑤水源として利用中の河川単位に祭祀施設を造っていた

このあたりが候補となろうが、私はの形態に近いと考える。首長毎に祭祀の場があるのではなく、河川自体が神として祀られていたのだと思います。首長一族で担当する河川の祭祀も役割分担していたのではないか。同時並行的に複数河川の祭祀を行っていたということです。なぜなら、首長が亡くなって施設を使い捨てるだろうか?貴重な灌漑用河川はそこにあるわけですから祭祀を放棄するということはあり得ない。
榛名山の裾野は緩やかで、大きな谷地はなく、付近には井野川水系の小河川がほぼ並行して幾つもある。河川単位説が正しければ、おそらく未発見の水祭祀施設はもっとあるだろうと想像します。

【補足】
栃木県には5世紀初頭の環濠居館が僅かな時差で2つ接続してあるケースもあるので、首長の代替わりによる環濠居館新設という推定は有力な説であることは間違いない。


なお北谷遺跡は造りの丁寧さにおいて三ツ寺Ⅰ遺跡に劣るという指摘がある。水濠の底には火山灰の堆積があるため建設中に火山が爆発し途中放棄した可能性もあるというのだが、明確ではない。


豪族居館水祭祀の発祥10
三ツ寺Ⅰ遺跡と導水河川の位置関係クリック拡大

豪族居館水祭祀の発祥51
現在の猿府川(三ツ寺Ⅰ遺跡の下流側160m付近)
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三ツ寺Ⅰ遺跡は上図で示すように、唐沢川という井野川支流から、わざわざ猿府川という分流溝を人工的に掘って導水していたと考えています。今でも猿府川は付近に残っていますが、河床と平地の落差は大きいものの、普段は幅2mの小河川で上流部は唐沢川に接続していません。たぶん長い間に消滅したのでしょう。図面は推定で線を追加しています。分流した理由は、たぶん本流を直接利用すると洪水時に大きな被害を受ける危険があったためと思われます。また導水祭祀に水を導くためには複雑な地形の高低設計が必要であり、小河川のほうが技術的に簡単であったからと推定します。北谷遺跡もやはり染谷川に近接しており、同じように分流溝を作って導水していたと考えられるが、付近の湧き水を利用していたという説もあります。



次回に続く


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No title * by 穴掘名人
水祭祀はこちらにもありますが、遺構として把握されていません。今発掘中のところはその後も恒常的に使われたので、江戸時代、昭和と、何度も手を入れてあり、古墳時代にさかのぼる石がどれか、ということが不明です。でも工期が来てしまい埋め戻しとなっていしまいそうです。下流から馬、人型、鳥形などの木製品が出ています。こちらのように、石積みの肩が見つかるといいのですが、せいぜい今ある石を記録することしかできない
かもしれません。

No title * by 形名
> 穴掘名人さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
そうですか、長野県にも水祭祀はあるのですね。
古墳時代中期の長野県~群馬は稲作+一部狩猟採集の生活でしょう。当時は大きな河川から導水する技術はまだありませんから、湧き水主体の小河川や井戸は貴重であったでしょう。稲作と水祭祀は切り離せないものかも知れないですね。
長野の遺跡情報には疎いのですが、遺跡が継続的に使用された場合は地層の撹乱が起こり、分析を難しくしてるんですね。三ツ寺遺跡の場合は、おそらく榛名山噴火の影響で運用期間が短く、再使用がなかったので遺跡としては運が良かったのかも知れません。

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No title

水祭祀はこちらにもありますが、遺構として把握されていません。今発掘中のところはその後も恒常的に使われたので、江戸時代、昭和と、何度も手を入れてあり、古墳時代にさかのぼる石がどれか、ということが不明です。でも工期が来てしまい埋め戻しとなっていしまいそうです。下流から馬、人型、鳥形などの木製品が出ています。こちらのように、石積みの肩が見つかるといいのですが、せいぜい今ある石を記録することしかできない
かもしれません。
2018-03-26-14:46 * 穴掘名人 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 穴掘名人さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
そうですか、長野県にも水祭祀はあるのですね。
古墳時代中期の長野県~群馬は稲作+一部狩猟採集の生活でしょう。当時は大きな河川から導水する技術はまだありませんから、湧き水主体の小河川や井戸は貴重であったでしょう。稲作と水祭祀は切り離せないものかも知れないですね。
長野の遺跡情報には疎いのですが、遺跡が継続的に使用された場合は地層の撹乱が起こり、分析を難しくしてるんですね。三ツ寺遺跡の場合は、おそらく榛名山噴火の影響で運用期間が短く、再使用がなかったので遺跡としては運が良かったのかも知れません。
2018-03-26-17:00 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]