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東国の古代史

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2019-08-09 (Fri)  10:34

豪族居館・水祭祀の発祥(2/6) -群馬の遺跡分布-

本稿シリーズでは、最終的に群馬県に展開する豪族居館祭祀施設を造った氏族まで推定するつもりです。そのためには、少なくとも群馬県内の同様遺跡の分布、構造の類似性を見ておく必要がある。


(1)豪族居館遺跡一覧
以下に、群馬県で発見されてる環濠形式の居館・祭祀遺跡の情報を纏めてみた。因みに全部で8箇所あり全国で一番多いそうだ。


豪族居館水祭祀の発祥11
群馬県の豪族居館遺跡一覧(クリック拡大


全て祭祀施設を伴うものだが、水祭祀か否かは確認出来ていないものもある。今のところ、確実に水祭祀と確認されてるのは三ツ寺遺跡北谷遺跡だけです。他は推定されてるに過ぎない。どれも大きな遺跡なので完全な形で展示保存されてるものはありません。なお、祭祀土器形態の情報は省略している。

群馬県内の場合、厳密には構造の異なる部分はあるが、北谷遺跡も、他のものも、ほぼ似た企画で造られている。原之城遺跡を除くと、どれも90m四方程度の広さを持ち、深い環濠を備えている。環濠は幅20~40mに達し、出入りには橋か狭い通路を構築しています。水深は3~4mある。


豪族居館水祭祀の発祥12
北谷遺跡地図(南面は削平)


豪族居館水祭祀の発祥13
北谷遺跡の復元構造図(現地案内板)


北谷遺跡の場合は、南面を除いた地表面に居館張出し部の構造が残っているのが分かります。現地に行くと立体的な形状を今でも見ることができます。上の2図を比較すると分かりやすい。


豪族居館水祭祀の発祥14
北谷遺跡の周濠石張り構造

道路向こう側の壁面から先は2mほど盛り上がっていますが、居館のあった平面です。周辺の畑からみると台地のように高くなっている。


豪族居館水祭祀の発祥15
三ツ寺Ⅰ遺跡の島畑(左手?)


三ツ寺Ⅰ遺跡の場合も、発掘前の周濠を除く島状部分は1.5mほど盛り上がっていて、島のように見えたので「島畑」という名で呼ばれていたそうです。


豪族居館水祭祀の発祥16
荒砥梅木遺跡の立地クリック拡大


豪族居館水祭祀の発祥17
赤堀茶臼山古墳と大室古墳群の間に位置する荒砥梅木遺跡クリック拡大


荒砥梅木遺跡は赤城山麓の末端に位置し、至近距離に大室古墳群がある。しかし、大室古墳群は6世紀初頭以降の古墳群であり、荒砥梅木遺跡の豪族館は東側の丘陵頂上にある赤堀茶臼山古墳の埋葬者、または、その親族と関係している可能性がある。この古墳は5世紀中葉の築造と推定されてるので、居館が一代限りだとすれば、古墳埋葬主体者の子世代かも知れない。周濠は居館の東側に流れている桂川から引水しているが、あまりに桂川に近すぎて氾濫で居館東部は流失しているという。やはり、三ツ寺Ⅰ遺跡のように河川を分流して導水する技術は氾濫に備えるという意味で重要なのかも知れない。


豪族居館水祭祀の発祥18
原之城遺跡の復元想像図


原之城遺跡の長辺は170mもあり、全国でも最大級だという。この遺跡に対応する古墳は推定されていないようだが、時代が合うのは5Kmほど離れた鶴山古墳(5世紀後半)だと思いますこの古墳は太田伊勢崎地区巨大古墳太田天神山古墳の後、唯一築造された全長102mの前方後円墳です。ただ、墳形が著しく削平されてるのと、この時代ならあるはずの埴輪が全くない点、甲冑類ばかりの出土品、舟型石棺が使われていない等、築造時代が異なる可能性もあるので居館との関連は断定できない。しかし、畿内の大王が地域の平定のために送り込んだ軍事氏族の可能性もあると考えてる。


豪族居館水祭祀の発祥19
本宿・郷土遺跡の周濠部石張りと土器


富岡市の本宿・郷土遺跡は上州一宮貫前神社の丘陵東部の鏑川左岸にあります。広い谷地になるが、写真のように濠の構造は同じです。周囲に古墳群があり、大型ではないが前方後円墳も含まれるので関連していると思う。


豪族居館水祭祀の発祥20
水久保遺跡の周濠張出し部


群馬県太田市世良田町にある水久保遺跡だけは他の居館遺跡と立地が異なる。早川流域ではあるが、平坦な湿地帯に囲まれた場所にある。形も四角形ではなく崩れた五角形で溝に石貼りがない。土器もS字状台付甕が主流です。時代的には大差はないが、他とは異質な点がある。なお、環濠に石貼りがあるのは、前述一覧表のうち、最初の3箇所のみです。導水路の流速によるものか、立地での川原石の確保のしやすさか、それとも、建設者の文化性によるのものか判断に迷います。


(2)豪族居館遺跡の地域分布
次にこれらの遺跡を地形図にプロットしてみます。

豪族居館水祭祀の発祥21
群馬県の豪族居館遺跡の分布(クリック拡大


予想どうり、山裾の扇状地先端部に集中しています。例外は水久保遺跡です。群馬県の場合は、榛名山、赤城山の麓の非常に緩やかな傾斜地という点で共通していると思う。富岡市の本宿・郷土遺跡だけは山間地であるが、鏑川の河岸段丘の上部にあり地形的には他と似ている。

立地に関しては、環濠に水を流入、流下させるために暖傾斜地を選んでいると思われます。平坦地での導水は土木的に高度な技術がいるため難しくなります。水祭祀があったとすれば、居館内に導水橋で渡すためにも傾斜が必要でしょう。


豪族居館水祭祀の発祥22
奈良県かしはら考古学研究所博物館の想像模型


上の想像図を見てもわかるとおり、祭祀では木製の樋の上に水を流して行う。自然地形から導水しますから、ある程度の傾斜がなければ成り立たない。平坦な場所では発生しない祭祀形式でしょう。ただ、平野部では水祭祀が無いという訳ではなく、別の形があったと思う。畿内には井戸からの採水による祭祀の例もある。水久保遺跡でも水祭祀は行われた可能性はあるでしょう。

豪族居館水祭祀の発祥23
青:パレス式土器文化人 黄色:在地弥生文化人 赤:環濠居館文化人
クリック拡大


群馬の古墳時代前期、平野部の大河川沿いに住んでいたのはパレス式系土器を持った移住者たちです。一方、山裾・山間地にはネイティブの樽式土器赤井戸式土器を使う弥生文化人子孫がいました。後者は小さな集落単位で分散しており、移住者のように大きな階級化社会を作るようなことはなかったようです。また、豪族居館を造る人たちも山の麓に住んでいるので、居住地としては重なり合っていたはずです。しかし、大型古墳や居館遺跡をみると、明らか弥生土器文化人子孫とは別勢力であり、優勢であったのは間違いないでしょう。環濠は防御が目的と考えた場合には、その辺りも関係あるのかも知れない。


豪族居館水祭祀の発祥24
奈良県南郷大東水祭祀遺跡の木製樋(毎日新聞記事より)


上の遺跡画像は奈良県南郷大東遺跡のものです。水祭祀遺跡としては有名な場所ですが、木製の樋が連続しています。関西地方の水祭祀遺跡は、その他にも纒向遺跡布留遺跡などが有名です。ただ、観光程度でしか見ておらず、地形などをじっくり観察していないので、北関東と同じ立地なのか分かりません。


(3)豪族居館遺跡の全国分布
群馬県を含む全国レベルでは、約40箇所の環濠居館遺跡が発見されている。遺跡の名前だけで住所が分からないものもあるため、40ポイントに満たないが、以下分布図です。


豪族居館水祭祀の発祥25
全国の豪族居館遺跡分布クリック拡大


大半が北関東3県(群馬、栃木、茨城)と畿内2県(奈良県、大阪)の5県に集中しているのが分かります。当然、発見されていないものあるでしょうが、偏りが目立ちます。この西と東の局地集中は、大方の人が予想する通り、ある仮説を導くでしょう。次稿では、その仮説設定を行います。



次回に続く


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No title * by さらばんど
形名さんは、大変、深く専門分野に入っておられる。
大学の先生なのでしょうか。
ナイス

No title * by 形名
> さらばんどさん、おはようございます。
とんでもないです。もうリタイヤした元普通のサラリー
マンですよ。もうじじいですね。
昔から遺跡は好きで、発掘説明会なんかには時々行くんです
が、歴史自体はあまり好きじゃなかったんです。
だから今でも古代中心で新しモノには手をださない!

No title * by sagami_wan
おやおやS字状台付甕ですか、なにやらまたオワリ族の続きが見られるのでしょうか。

No title * by 形名
> sagami_wanさん,
おはようございます。
残念ながら、今回のは別の氏族と見ています。
時代は異なるかも知れませんが、『国造本記』に駿河、相模
の国造として記されている氏族ですね。
といってもオワリ族も時が経って尾張氏となったときには
その性格は大きく変わっているように思えます。
純粋な氏族というものが本当にあったのかということ自体が
最近疑問なんです。
また群馬に広がった石田川土器も古墳時代中期に入ると、
もう他の土器文化の影響を受けて少しずつ変わってくるようです。
オワリ族の入った地域で彼等は滅びることは無かったと思いま
すが、後続の来訪者との混血も進んだように思いますね。

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形名さんは、大変、深く専門分野に入っておられる。
大学の先生なのでしょうか。
ナイス
2018-01-28-17:32 * さらばんど [ 編集 * 投稿 ]

No title

> さらばんどさん、おはようございます。
とんでもないです。もうリタイヤした元普通のサラリー
マンですよ。もうじじいですね。
昔から遺跡は好きで、発掘説明会なんかには時々行くんです
が、歴史自体はあまり好きじゃなかったんです。
だから今でも古代中心で新しモノには手をださない!
2018-01-29-05:32 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

おやおやS字状台付甕ですか、なにやらまたオワリ族の続きが見られるのでしょうか。
2018-01-29-09:13 * sagami_wan [ 編集 * 投稿 ]

No title

> sagami_wanさん,
おはようございます。
残念ながら、今回のは別の氏族と見ています。
時代は異なるかも知れませんが、『国造本記』に駿河、相模
の国造として記されている氏族ですね。
といってもオワリ族も時が経って尾張氏となったときには
その性格は大きく変わっているように思えます。
純粋な氏族というものが本当にあったのかということ自体が
最近疑問なんです。
また群馬に広がった石田川土器も古墳時代中期に入ると、
もう他の土器文化の影響を受けて少しずつ変わってくるようです。
オワリ族の入った地域で彼等は滅びることは無かったと思いま
すが、後続の来訪者との混血も進んだように思いますね。
2018-01-29-10:03 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]