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東国の古代史

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2019-08-10 (Sat)  08:00

豪族居館・水祭祀の発祥(3/6) -仮説設定-

一番の関心は、三ツ寺Ⅰ遺跡の環濠居館における水祭祀の発祥は、どこにあり、どうやって榛名山の麓で行われるようになったのか、そして、政治的にはどんな意味があったのかという事に尽きる。


豪族居館水祭祀の発祥25
環濠居館遺跡の分布


前稿でも述べたが、環濠豪族居館の大半が北関東3県と畿内2県の5県に集中しています。可能性をだけを考えれば、次のような経緯が考えられる。

環濠居館・水祭祀の文化が、北関東と畿内の山麓に各々独自に発生した

②畿内の環濠居館・水祭祀の文化が北関東の氏族に伝わって始まった

③畿内の環濠居館・水祭祀の文化を持つ氏族が北関東に移住して始まった

①は可能性としてはあっても、偶然とするのは説得力に欠ける話である。②は両地域の発生に時差があるとすれば、可能性は十分にある。しかし、文化というのは面で広がるのが普通で、特殊な環境で発生する文化でない限り、局地化するのは解せない。伝播していった順路に沿って同じような遺跡がないと説明しにくいだろう。特に畿内を除く西日本に少ない理由が説明できない。とすると、③が一番有力ということになります。人の移住であるならば、点での広がりがありうるし、移住先での時差による広がりも説明がつく。また、移住に特定の目的があったとすれば、西日本に少ない理由も説明が付くかも知れない。

そこで、次のような仮説群を立ててみました。


①いつ、何処から?
5世紀前半の頃、畿内の奈良盆地東端、天理市布留川流域に勢力を持っていた氏族『物部氏(物部首)』が東山道経由で北関東榛名山麓に移住した。そして、元々持っていた氏族文化である環濠居館を造り、水祭祀を行った。

②目的は?
移住のきっかけは、当時王権の指示であり、目的は地方首長への監視と威嚇と見る。中央集権化の一環として、地方首長の支配権を認める連合体制(前方後円墳連合)の解体と、それに代わる新しい統制支配の枠組み確立が目的であった。

③古墳との関連は?
北関東への先陣として配置されたのは、保渡田古墳群の井出二子山古墳の埋葬者であり、時期をおいて、さきたま古墳群の行田稲荷山古墳の埋葬者が派遣された。この措置以降では、旧前方後円墳連合の組織者である首長の古墳築造は禁止された。

④群馬での展開は?
群馬県においては、当初は榛名山山麓の末端に移住したが、氏族の増加、または、495、520年の榛名噴火の影響で、赤城山山麓や南部の碓氷川流域に移動していった。この移動配置は、旧来勢力への威圧・包囲網という効果もあった。


【補足】
■群馬県~栃木、茨城間の展開経緯については、栃木、茨城の遺跡年代が全て確認できていないので保留する。
■さきたま古墳群の氏族についても大王からの指示で派遣された氏族であると推定しますが、布留物部ではない可能性もあるので此処では保留します。物部支族または阿部氏等、氏族推定も可能ですが、本稿テーマが拡散するので別稿での考察とします。


ここで移住者と推定する氏族について簡単に記載しておきます。天理市付近は、東の山間から流れ出す大和川水系布留川扇状地にあたる。谷の出合となる留川左岸には石上神宮があり、流域には布留遺跡がある。
布留遺跡は春日断層崖から流れ出る布留川が形成した扇状地の周辺部に展開しています。特に縄文時代の初期~後期、そして、弥生時代末期~古墳時代にかけての規模が大きいのが特徴。古墳時代には最大となり、大和王権の軍事部門を司った物部氏の本拠地として栄えたようすが伺えます。その南部には纏向遺跡がつながり、古墳時代初期から後期に至る濃密な古墳群が近くに存在します。


豪族居館水祭祀の発祥26
奈良盆地天理市付近


豪族居館水祭祀の発祥27
布留遺跡上空の俯瞰(天理大の敷地全体が布留遺跡地区)


物部氏については、記紀新撰姓氏録先代旧事本紀等の文献を元にすれば、ある程度、氏族の出自に触れることもできます。しかし、みな8世紀から10世紀にかけて執筆された文献です。その真贋はともかくとして、文献より6~700年も過去の氏族について正確な事実として記録されてるとは思えない。文字さえ無かった時代の話しですから伝説に等しい。現代から鎌倉時代を分析するような訳にはいかないでしょう。遡れても、せいぜい200年がよいところではないか?
そもそも、8世紀以降に執筆された前述の文献は、氏族が自らの出自の尊貴性をアピールするために創作してきた伝承を集約して記録したものです。それらをベースに歴史を考えること自体が正常なアプローチとは思えない。従って、九州北部の拠点から饒速日命と共に東遷してきたというような話を完全否定する事もできないが、証明できない物語の引用は以降も出来るだけ控えます。

弥生時代、奈良盆地の中央には有名な『唐古・鍵遺跡』があったのは事実です。単純に考えれば、彼等の子孫が盆地内に広がり、各地で氏族形成が行われたと考えるのが自然です。物部氏唐古・鍵遺跡から近い、穂積郷石上郷あたりに勢力を張った氏族でしょう。現在の地域名でいうと、天理市の前栽町、布留にかけての一帯です。この地域が古式土器である布留式土器を出土する布留となります。近隣には、氏族奉斎の石上神宮や一族と推定される墳墓もある。
しかし、仮説で述べた移住は5世紀前半としています。この時代には、まだ石上神宮は創建されていなかったと思います。考古学的見地から、物部氏は5世紀初頭には布留川北岸に、その後は南岸を中心に居住していたと考えられている。

また、4世紀代には奈良盆地の中の覇権争いにより、王権を担う中心勢力は固定されつつあったでしょう。物部氏も覇権を握った時期もあったかも知れませんが、最終的には大王(おおきみ)勢力に屈して臣下の位置付けに下ったと思います。
5世紀初頭~中葉までは、広域首長連合が構築されており、九州から関東地域までの地方首長も参加していたと思います。しかし、5世紀中葉になると、大王勢力は、従来の統制力の弱い広域首長連合を解体し、中央集権的な支配への移行を画策していた時期であると考えます。まず、最初に力を削がれたのは奈良盆地西部の葛城氏、そして吉備の地方首長です。その後の支配は北関東、九州等の遠隔地に向かう。これらの変化は、いわゆる雄略期において起こった大きな画期です。このような権力構造の変化する時勢において、前述の移住は発生したと考えています。



次稿に続く


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No title * by おじゃる2
昨日は訪問コメントありがとうございました。

朝から返信を書いてたんですが承認も出来ないし返信も表示できないで申し訳無いですが、ご了承ください。

カワウは馬庭から入野橋を渡って直ぐ右折して200~300m先の対岸に工業団地が有る所でした。

No title * by 形名
> おじゃる2さん、わざわざすみません。
先日もyahooブログは事故で一時使えないことがあったので
何かトラブっているのかも知れませんね。
カワウは鏑の少し上流の方ですね。ありがとうございます。

No title * by sagami_wan
形名さん おはようございます。
武蔵国造の乱の意義と時期とどう関連付けるか、小杵の敗死とともに上毛野に緑野屯倉が設けられ、上毛野勢力が大きく削がれたと指摘する説との関係など興味津々です。
物部氏の東国進出についても次回最終稿を待っています。

No title * by 形名
> sagami_wanさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
武蔵国造の乱というのは本当に興味を引く記述ですね。史実の反映があるのか無いのか、関東内部でも広範囲なので、丁寧に調べないと書けないですね。また上毛野小熊が実名で出てきますが、西暦530年頃の上毛野氏を検討するのは本当に難しいです。小熊は記紀のヤマトタケルのような存在の可能性があるからです。上毛野氏は実態が良くわからない氏族です。擬制氏族の典型ですね。昔から興味はあったのですが、今はまだとても手が出ない感じですね。今回の環濠居館の話は、結局、雄略期の画期の中で発生した政治的な現象というところに落ち着かせようとしてます。従って、さきたま古墳には触れますが、西暦500年で打ち切ります。もう少しネタがあれば前述の安閑期まで伸ばしたところですがね。今はまだ書ける状態にないですね。

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昨日は訪問コメントありがとうございました。

朝から返信を書いてたんですが承認も出来ないし返信も表示できないで申し訳無いですが、ご了承ください。

カワウは馬庭から入野橋を渡って直ぐ右折して200~300m先の対岸に工業団地が有る所でした。
2018-02-09-16:23 * おじゃる2 [ 編集 * 投稿 ]

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> おじゃる2さん、わざわざすみません。
先日もyahooブログは事故で一時使えないことがあったので
何かトラブっているのかも知れませんね。
カワウは鏑の少し上流の方ですね。ありがとうございます。
2018-02-09-16:55 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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形名さん おはようございます。
武蔵国造の乱の意義と時期とどう関連付けるか、小杵の敗死とともに上毛野に緑野屯倉が設けられ、上毛野勢力が大きく削がれたと指摘する説との関係など興味津々です。
物部氏の東国進出についても次回最終稿を待っています。
2018-02-10-09:01 * sagami_wan [ 編集 * 投稿 ]

No title

> sagami_wanさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
武蔵国造の乱というのは本当に興味を引く記述ですね。史実の反映があるのか無いのか、関東内部でも広範囲なので、丁寧に調べないと書けないですね。また上毛野小熊が実名で出てきますが、西暦530年頃の上毛野氏を検討するのは本当に難しいです。小熊は記紀のヤマトタケルのような存在の可能性があるからです。上毛野氏は実態が良くわからない氏族です。擬制氏族の典型ですね。昔から興味はあったのですが、今はまだとても手が出ない感じですね。今回の環濠居館の話は、結局、雄略期の画期の中で発生した政治的な現象というところに落ち着かせようとしてます。従って、さきたま古墳には触れますが、西暦500年で打ち切ります。もう少しネタがあれば前述の安閑期まで伸ばしたところですがね。今はまだ書ける状態にないですね。
2018-02-10-15:30 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]