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東国の古代史

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2019-08-11 (Sun)  12:28

豪族居館・水祭祀の発祥(4/6) -仮説根拠と評価①-

本稿からは前稿の仮説に対する検証評価を三回に分けて記載していきます。

前稿の仮説冒頭で群馬に移住したのは物部氏であると記載した。それは、物部氏が王権を支えた最有力の軍事氏族であったのが一番の理由です。5世紀の初頭には王権を取り巻く氏族分化はかなり進んでいたと考えます。これは王権に奉仕する職掌が専任化し、定着したことが関係してると思います。物部氏派遣の目的を関東在地勢力への監視と威嚇と考えているので、ある程度の軍事能力を持つ氏族でないと役不足です。決して軍隊を送った訳ではないと思うが、反抗の兆候があれば軍事力の行使も考えていたと思います。既に奈良盆地の抵抗勢力と吉備勢力への軍事制圧は実行された時期です。吉備の敗退が先行するとすれば、情報は北関東の在地首長にも伝わっていた可能性もあるでしょう。

物部氏は居住した遺跡出土品から、祭祀色の強い氏族であると認められる。玉造り跡や金属精錬跡も多く、物造りは得意分野であったようです。その後、5世紀後半にはヤマト王権の共同武器庫を管理する氏族となっている。軍事色を強めていくのは、その頃に創建された石上神宮の祭神が剣の神である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)であることからも推定できます。
ただ、それだけで氏族名を特定するには説得力に欠けます。軍事に携わった氏族は他にも大伴氏阿部氏巨勢氏などの氏族もいます。でも地方に進出した氏族のうち、物部氏が占める割合は圧倒的に多い。古代を通して云うなら、物部氏のいない都道府県は無いと言っても過言ではない。移住者がいて氏族名が特定できない時は「物部氏です」と言っておけば七割がた当たるかも知れません。移住の目的さえ分かれば氏族は比較的決めやすいのかも知れないが、移住時代と出発地を正確に特定するのはやはり難しい。
以下、幾つかの観点に沿って移住者が5世紀前半布留物部であった根拠性について記載していきます。


(1)布留遺跡との類似性
そもそも、布留遺跡との関連を疑ったきっかけは、三ツ寺Ⅰ遺跡の西方至近距離に、現在では消滅している下布留という小字(こあざ)があったことでした。いつの時代からか不明ですが、この地域に物部氏が移住しているのは確実だったのです。しかし、同地域に似た発音の「御風呂」地名や「風呂川」はあっても、布留は無いので地名探索も行き詰まってしまった。だが、豪族居館の立地構造を全国に広げて見ていくうちに、奈良県布留遺跡での河川導水遺跡に行き当たりました。両者には形態的な類似性があるのです。

①立地・導水方式
以下の画像は前稿でも使いました。上1/3辺りに右側から扇状地に流れ出すのが布留川本流です。しかし、遺跡調査の結果では、本流北側にも南側にも人工的な分流跡が残っており、河川の水を効率よく活用していた事が分かってきた。

豪族居館水祭祀の発祥28
黄色で囲った付近で発見された分流溝クリック拡大


豪族居館水祭祀の発祥53
分流溝(通称「大溝」)両岸の発掘状況


分流溝は、布留遺跡杣之内地区で発見されている。人工的水路と周辺には豪族居館や倉庫などの大型掘立柱建物が確認された。人工の溝は布留川から水を引く水路です。幅約 13~15m 、深さ約 2mある。遣物から溝が掘られた時期は古墳時代中期と推定され、平安時代まで機能しいる。
日本書紀履中天皇四年の条に「冬十月に、石上溝(いそのかみのうなで)を掘る」という記事があります。布留大溝は、この記事に対応するという見方が有力です。履中天皇は定説での在位期間は西暦427年~432年とされている。履中の実在自体はよく分かりませんが、実在云々よりも、この時期の大王の事績と捉えればよいでしょう。
話が脱線するが、日本書紀は政治記述については全く信頼できないが、こと土木工事の記事に関しては何故か不思議と正確です。後代では推古15年の、大和国山背国河内国大溝を含む灌漑土木工事が有名です。また、車木ケンノウ古墳とされていた斉明天皇陵が、八角形の牽牛子塚古墳であることが判明したのは記憶に新しい。日本書紀の記述どおり、娘の間人皇女と合葬されたという記述と整合して、二室に別けられた埋葬石(せっかく)から女性二人の歯が発見されました。ただし宮内庁は「墓誌が出ていない」とお決まりの反応で表向きは認めていません。

豪族居館水祭祀の発祥31
布留川から分流する人工的な大溝と環濠居館地区クリック拡大

【補足】
図中の田村川も自然河川ではなく、中生に布留川本流から灌漑用に分けた水路です。従って、大溝布留川で最初の人工分流と見られる。

豪族居館水祭祀の発祥54
布留川の人工分流である大溝は規模が大きい


布留川の南側では前述の人工の溝、大きな倉庫と見られる複数の総柱建物、豪族の居館と推定される石貼斜面、鉄製品を作った鍜冶工房跡、玉類などが見つかっています。大型建築物は武器庫の可能性を指摘する人もいる。


豪族居館水祭祀の発祥10
三ツ寺Ⅰ遺跡への導水方式クリック拡大


三ツ寺Ⅰ遺跡では、唐沢川という河川から、猿府川という人工の溝を分流させ、環濠居館に導水していた可能性が高い。布留川南岸遺跡と比較して見ると、導水の仕方は全く同じです。また、三ツ寺では環濠居館エリアに掘立柱建築群と祭祀遺物があって、これも類似している。布留川南岸と似ているのは時代的に近いためと思われる。仮説が正しければ出発時期の目安になると思います。
出土品を見ても、祭祀用の勾玉、剣等の滑石模造品や金属精錬用品も一致します。ただ、三ツ寺の場合はどれも本格的な生産というよりも祭祀のための用品という気がします。遺物の量がかなり少ない。これは施設の運用期間が圧倒的に布留遺跡のほうが長いという違いではないかと考えています。
また重要な点ですが、三ツ寺の建築物は当時の地方としては画期的な掘建柱建築が採用されています。畿内では掘立柱建物は軍事的性格を帯びる建物や倉庫に使用した物が多いと言われている。掘立柱自体が重量物を保管するための工法だからです。三ツ寺の場合も、もしそれが武器保管のための倉庫だとすると、氏族の移住目的や使命がより明確になります。

両者の遺跡構成の違いは布留川本流を分水する溝の大きさにあると思います。布留の大溝は幅が15m程度あります。三ツ寺の場合は導水路の調査は居館の周囲だけなので規模は不明ですが、本流の唐沢川の水量から考えて、それほど大きな水路では無いような気がします。布留川は上流にダムがあり、現在水量は少ないが、当時はかなりの水量があったと思います。溝の多きさは河川氾濫時のダメージに影響するので、治水技術力の差が本拠地と比べてあったとも考えられます。

②居館の形式
布留川南岸の布留遺跡では、大溝の南東側で多数の掘立柱建物が検出されたが、その中には国内最大級の総柱の掘立柱建物が含まれていた。また、三ツ寺 I 遺跡で見られたような居住地周辺斜面にを施した遺構も検出されている。この地域が布留の集落を統轄した豪族の居館地域であったと考えられます。残念ながら、三ツ寺Ⅰ遺跡と全く同じ環濠居館であるかは確認されていない。巨大な環濠で囲むには、すでに地域の建築物の密度が高過ぎたせいか。もっとも外敵がいなければ防御も必要ない。単純に三ツ寺と比較すること自体意味が無いかも知れません。外観的には、建築物、溝の石貼りなど類似性が認められます。


豪族居館水祭祀の発祥29
布留遺跡杣之内地区の大型掘立柱建物群


豪族居館水祭祀の発祥30
豪族居館跡


布留遺跡は画像でも分かる通り天理大学の広大な敷地と重なっており、調査が十分とは言えない。未調査区域が大部分を占めるそうです。また、弥生からの複合遺跡のため、地方にある遺跡と違って重なりが多く、地層撹乱によって検出が難しい面もある。更に発掘が行われれば三ツ寺遺跡との関連性はより強まると思います。

③祭祀形態
布留遺跡の具体的な祭祀場所を観察すると、発掘区内に石敷きの部分があり、その部分で円筒埴輪朝顔形埴輪が倒れた状態で発見されている。埴輪で区画された祭場があったようです。土師器高杯滑石製勾玉のほかに土製の管玉など祭祀用具が出土している。以下の三ツ寺遺跡の状況とよく似ている。


豪族居館水祭祀の発祥33
三ツ寺Ⅰ遺跡の水祭祀場石敷き


上の画像は三ツ寺Ⅰ遺跡の水祭祀場の石敷きです。縦に伸びる溝に沿って木製の樋が通ってて、環濠の上を跨ぐ高架水道橋で直接水を導水していました。高度な導水技術です。布留遺跡では全く同じ構造は発見されていない。三ツ寺との類似性のある遺跡があるか、全国レベルで調べましたが、全く同じ形式は確認されていないようです。
以下の表に全国の主な水祭祀遺跡の形態を示します。これは環濠居館とは無関係に、水祭祀というカテゴリでのみ抽出しています。


豪族居館水祭祀の発祥34
全国の主な水祭祀遺跡一覧(クリック拡大


豪族居館水祭祀の発祥24
奈良県の南郷大東遺跡(手前貯水池から木樋で導水)


水祭祀の場として、三ツ寺遺跡は比較的新しいものだという事が分かります。特に顕著なのが、祭祀を行う場が三ツ寺では環濠で囲まれているが、他の遺跡はオープンな環境で行われていたようです。これは、祭祀を行った集団と在地住民との関係性が要因の可能性もあるかと思う。また、三ツ寺の祭祀は木樋で河川から導水して、石敷きの上で行われたと見られるが、他では導水した木樋の上で祭祀を行っていたようです。導水元も溜池井戸も使われている。施設の細かい点は、地形環境や地域文化的な影響を受けたと思われる。一覧の所在地に着目すると明らかに畿内から遠くない地域に集中傾向が見られる。北関東での水祭祀の発祥が畿内と深い関連性にあることは推定可能です。




次回に続く


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No title * by sagami_wan
豪族居館の広大な貯水池構造は、大型古墳造営の土木技術そのもです。
導水路による水の支配システムは統治と祭祀の象徴でしょう。

突然に大型古墳の築造が始まる点では、畿内中枢の影響下での戦略的な築造が想像されますが、後背地に広大な財の源、稲作耕作低地を抱えた弥生時代以来の土着豪族はどこに消えてしまったのでしょうね。

応神期から始まった東国進出は雄略期に完成を見たということですね。
大阪に朝鮮半島に向けた国際港湾都市を築き、同時に国内で東国支配を進めていたのですね。

No title * by 形名
> sagami_wanさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
登場人物として単純に考えれば、①縄文・弥生時代からの土着人、②3世紀代の東海地方からの移住者、③5世紀初頭の軍事氏族の移住者、ですが、おそらく勢力関係が変化しているだけで、滅亡した氏族はいないと思ってます。②のオワリ族も押さえつけられたが空洞化現象はないので、平野部で反映していたと思います。①の真の土着人は、遺跡密度から人口が少ないのは分かっていますが、どうも組織化して力を持つ大豪族に成長した勢力はなかったように見えますね。比較的標高の高い地域の小豪族として栄え、当初は移住者に服従して、やがては吸収されていったように思います。群馬の小豪族の古墳からは銅鏡が良く出土するのですが、大きな力に臣従した証拠かも知れないです。

No title * by 形名
おっしゃる通り東国統制の始まりは早いと思ってます。記事の中では定説を意識して「雄略期(457~479)」という言葉を使ってしまいましたが、軍事氏族の移住は雄略天皇即位から始まっているわけではないと思ってます。もっとずっと早いでしょう。私はこの時期の天皇皇統変遷をあまり信じていません。確実に言えることは5世紀代初頭から中央王権の強化一環として軍事行動や移住策が取られたということだと思いますね。結果的には上手くいったように見えますが、この時期の大王臣下への扱いは過酷だったと思います。やがて畿内の臣従者氏族の不満は増大し、旧王統衰退、継体大王が出現するきっかけにもなったと思います。

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No title

豪族居館の広大な貯水池構造は、大型古墳造営の土木技術そのもです。
導水路による水の支配システムは統治と祭祀の象徴でしょう。

突然に大型古墳の築造が始まる点では、畿内中枢の影響下での戦略的な築造が想像されますが、後背地に広大な財の源、稲作耕作低地を抱えた弥生時代以来の土着豪族はどこに消えてしまったのでしょうね。

応神期から始まった東国進出は雄略期に完成を見たということですね。
大阪に朝鮮半島に向けた国際港湾都市を築き、同時に国内で東国支配を進めていたのですね。
2018-02-17-10:09 * sagami_wan [ 編集 * 投稿 ]

No title

> sagami_wanさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
登場人物として単純に考えれば、①縄文・弥生時代からの土着人、②3世紀代の東海地方からの移住者、③5世紀初頭の軍事氏族の移住者、ですが、おそらく勢力関係が変化しているだけで、滅亡した氏族はいないと思ってます。②のオワリ族も押さえつけられたが空洞化現象はないので、平野部で反映していたと思います。①の真の土着人は、遺跡密度から人口が少ないのは分かっていますが、どうも組織化して力を持つ大豪族に成長した勢力はなかったように見えますね。比較的標高の高い地域の小豪族として栄え、当初は移住者に服従して、やがては吸収されていったように思います。群馬の小豪族の古墳からは銅鏡が良く出土するのですが、大きな力に臣従した証拠かも知れないです。
2018-02-17-12:33 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

おっしゃる通り東国統制の始まりは早いと思ってます。記事の中では定説を意識して「雄略期(457~479)」という言葉を使ってしまいましたが、軍事氏族の移住は雄略天皇即位から始まっているわけではないと思ってます。もっとずっと早いでしょう。私はこの時期の天皇皇統変遷をあまり信じていません。確実に言えることは5世紀代初頭から中央王権の強化一環として軍事行動や移住策が取られたということだと思いますね。結果的には上手くいったように見えますが、この時期の大王臣下への扱いは過酷だったと思います。やがて畿内の臣従者氏族の不満は増大し、旧王統衰退、継体大王が出現するきっかけにもなったと思います。
2018-02-17-12:34 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]