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東国の古代史

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2019-08-12 (Mon)  13:05

豪族居館・水祭祀の発祥(6/6) -仮説根拠と評価③-

(4)埴輪の評価

①円筒埴輪の序列
この項は北関東古墳埋葬者の移住根拠とは直接関係しないのですが、畿内大王と派遣されたと推定される人物の序列を明確に表すので掲載しました。


豪族居館水祭祀の発祥41
雄略期に作られた古墳の円筒埴輪(クリック拡大


着目するのは円筒埴輪の段数と形態です。一番左が真の雄略天皇陵と目される岡ミサンザイ古墳のもの。次いで埼玉稲荷山古墳井出二子山古墳のものです。
・岡ミサンザイ古墳(480年頃築造)  7条8段 
・行田稲荷山古墳(490年頃築造)   6条7段
・井出二子山古墳(470年頃築造)   5条6段

古墳サイズだけでなく、円筒埴輪の段数も、当時の大王からみた序列を明確に示しています。大王の臣下への統制力が端的に現れていると思います。


豪族居館水祭祀の発祥42
西乗鞍古墳の円筒埴輪(左)と同時期の北関東円筒埴輪(右)


布留遺跡の南部にある杣之内古墳群西乗鞍古墳は5世紀末期築造ですが、生前雄略天皇に仕えた臣下でしょう。墳丘の円筒埴輪を見ると西乗鞍古墳円筒埴輪行田稲荷山古墳の6条7段と全く同じです。古墳サイズも同じで埼玉に派遣された人物と同等の力を認められた臣下とみます。

②人物形象埴輪
人物埴輪は畿内に較べて圧倒的に関東に多いのは事実だが、人物埴輪の発祥自体は大阪湾岸というのが定説です。人物埴輪にもⅠ期~Ⅳ期があるが、初期のものは畿内にある。関東で爆発的に発生するのはⅡ期からです。特徴的なのはⅡ期に入ると人物埴輪の形象パターンが急激に増加する。そのⅡ期の発祥古墳は、群馬では井出二子山古墳であり、埼玉では行田稲荷山古墳です。つまり人物埴輪で見ても、この2つの古墳が出てきます。両古墳が当該地域に突発的に変化をもたらした可能性が高いでしょう。両者を移住者と考えると理解しやすい。


豪族居館水祭祀の発祥43
高槻市今城塚古墳の形象埴輪


豪族居館水祭祀の発祥44
井出二子山古墳の次代 保渡田八幡塚古墳の儀礼形象埴輪


豪族居館水祭祀の発祥45
群馬県の人物形象埴輪


豪族居館水祭祀の発祥46
さきたま古墳群の人物形象埴輪


(5)地名からの推定
地名による移住者の同定はよく使われる手ですが、問題点が幾つかあります。

①命名された地名は何時まで遡れる?
地名がいつの時代まで遡れるかは殆ど分かりません。仮説での移住時期は5世紀前半としてるが、物部氏が6~8世紀にも移住していた場合には区別ができないでしょう。となると少なくとも時代を特定する材料には使えない。

②どこまでを関係地名とするか?
移住前の地域に名付けられた地名は対象になります。地名だけでなく、河川名や山名、神名なども対象になると思う。また、物部氏支族部民)につけられた名が、新たな土地で地域名として付けられる場合もありえます。
 
③発音の変化をどこまで認めるか?
前稿でも少し触れたが榛名山麓には「風呂」という地名がある。少し離れると河川名としてもある。これは布留が変化してる可能性はあるが、このような変化を認めるか否かという点です。厳密に言えば、当てられた漢字の違いも関係する。日本語は現代では51音しかないが、平安期までは88音あった。微妙な違いが漢字種でも別けられたという。だが文献と違って地名だけは地方ナマリもあるし、経年による発音や表記変化もある。どこまで関係地名として認めるか難しいところです。仮説を補強する根拠としては弱く参考程度でしょう。

以下の表は物部氏に関連する地名、神名としてピックアップした一覧です。西群馬郡が本稿テーマに関連する地域ですが、他の地方にも存在し、氏族が広く展開していた可能性を伺わせます。


豪族居館水祭祀の発祥47
物部氏に関連する地名、神社、遺跡一覧(クリック拡大


【補足1】
地名変化は、石上(いそのかみ)→ 石神(いしがみ)、布留 → 風呂です。矢田谷田は物部氏同族の「矢田部造」に関連すると見ているしかし、矢田部造に似た名称で「韓矢田部造」というのもいる。後者は上毛野氏同族の渡来系氏族と云われている。やはり上毛野氏同族の車持氏(君)と共に群馬に移住してきた可能性があり、話がややこしい。
また定説では榛名山麓は車持氏の居住地域とも云われている。本稿テーマの5世紀前半とは時代が異なると個人的に思うが、地名経緯として表の中に混在してる可能性もある。

【補足2】
前橋市の広瀬川付近に風呂川矢田川と気になる河川名が接続した形であるが、古い自然河川ではなく用水路として人工的に作られたようです。この地域にも物部と関連はあるかも知れないが、河川命名の経緯は不明です。

【補足3】
現在、書籍で入手できる氏族伝承は西暦900年代の「新撰姓氏録」などによるが、物部氏の同族は物部八十氏と云われるほど多い。物部氏というと単一氏族だと考えてる方がいるが、古墳時代中期には元物部氏は存在したろうが、後の物部氏「物部企業グループ」とも言うべき擬制氏族集団であって、本来の氏族と呼べる存在ではない。


表で見ると群馬県の山岳地域を除く南西部に集中傾向があり、中央部にもある。東部には少ない。東へ向かうほど密度が薄くなるように見える。結論として言えるのは、移住したと推定する物部氏との関連性は有意とみる。矢田地名などは物部氏と共にやってきた部民である矢田部造と関連するだろう。石神石上は布留地域の中にあった地名(大和国山辺郡石上)と推定する。物部は後に石上氏の名前を賜りますが、命名は居住地に関連していると思う。ただ、前述したとうり、これらは物部系氏族が居たという点は補強しても、移住した時代を特定するには弱い。


豪族居館水祭祀の発祥48
三ツ寺遺跡付近の「御風呂」地名を持つ水田遺跡(古墳時代中期)


上画像の御風呂遺跡は環濠居館のあった三ツ寺Ⅰ遺跡から南に400mのところにある水田遺跡です。居館の主が支配した地域で時代も一致します。西暦495年頃の榛名山噴火の火山灰層の下から出現したので、全く風化していません。また環濠居館のあった地域北部には下布留という小字がありました。下布留だけが存在したとは思えないので少なくとも井野川上流部に上布留があったものと思います。移住者が展開した地域は、標高の高い榛名山麓南部の榛名白川まで広がっていた可能性があるでしょう。


(6)保渡田古墳氏族の定説評価
当初、仮説を設定する時に、保渡田古墳群を造り、環濠居館水祭祀を行った氏族は車持氏かと考えた事もありました。これは群馬の古代史学者が考えてる説でもあります。榛名山麓を車持氏の支配領域としている。 車持君は天皇の乗輿(じょうよ、こし)を製作、管理することを職業とした氏族です。新撰姓氏録左京皇別の項に、「豊城入彦命の八世の孫の射狭君(ささのきみ)を始祖とし雄略天皇の代に乗輿を供進したため車持公の姓(かばね)を賜った
とある。また職掌氏族である車持氏は、その職務を果すための費用を貢納する車持部を与えられていました。車持部は全国的に分散しています。上毛野氏とは同族なので、群馬にも車持部があって車持部伴造氏族として車持君(公)がいた可能性は高いでしょう。状況証拠として、榛名山の山麓南部には神格は低いものの、車持大明神を祭神とする車持神社がある。赤城山麓になるが、「車」の文字瓦も出土してる。


豪族居館水祭祀の発祥49
車持神社は榛名山麓標高360mにある小さな神社


しかし、それらが造られたのは5世紀から大幅に下った7~8世紀の事であろう。負名氏である車持氏も他の職掌氏族と同じように奈良平安時代には、職掌から離れて多様化しているが、5世紀代においては、本来の職掌で王権に仕えていたはずです。王権が地方への武力支配を強めようとしている時代に、乗輿の製作を職掌とする氏族を派遣するでしょうか。考えられません。前稿でも述べましたが、当然、軍事能力を持つ氏族でしょう。従って、群馬の車持氏族は後代になってから車持部の管理者として派遣された人物集団とみます。車持神社が極端に少ないのは氏族の人口が少なかったためと思われる。8世紀末の上毛野氏の衰退と共に畿内へ帰っていった可能性もあるだろう。

【補足】
5世紀代から車持氏が群馬郡~勢多郡域を支配していたと見るのは疑問です。6~7世紀?に氏族形成された上毛野氏伝承を過去に遡って適用するような考え方は危険かと思います。上毛野氏王国、巨大古墳はみな上毛野氏の墓というイメージが作られているが、根拠が明確でなく考え得る仮説に過ぎない。


(7)文字遺物と文献評価
物部氏が存在する状況証拠として、幾つか事例をあげます。

山上碑の新川臣
高崎市山名町に山上碑と呼ばれる西暦681年に作られた古碑があります。内容は放光寺という寺の僧侶が、自分の母の葬送に際して、その系譜を称える碑文です。この中で父親は大胡臣、更に先代は新川臣と記載されている。居住地は赤城山麓の大胡というところで、おそらくは上毛野氏の同族と思われます。民俗学者の谷川健一氏は新川臣について、大新川命や大和国十市郡の新川邑の存在から、物部氏族ではないかと推定しています。大胡は上毛野氏の傍系が居住していたと推定できるので、上毛野氏に鞍替えした物部系グループでしょう。物部系に限らないが、氏族というのは其の時々で自身に有利な氏族への服属が頻繁に行われるような流動的な関係であったと云うことです。

金井沢碑の物部君
高崎市根小屋町に金井沢碑と呼ばれる西暦726年に作られた古碑があります。山上碑、多胡碑と共に上野三碑と呼ばれている古碑の一つです。内容は、佐野三家(佐野屯倉の管理氏族)の子孫の配偶者である女と其の一族関係者が先祖を供養するために仏に帰依(入信)することを宣誓した碑です。この中に、物部君午足磯部君身麻呂の名があります。磯部君は物部と同族です。この物部君は、畿内の物部(首/連)との関係が明確でない。おそらく早い時期に移住した物部氏部民、または、渡来人の統括者子孫かと思います。この時代には職掌氏族ではなく地方貴族に変容している。移住したのは6世紀末期の屯倉創設に関係している可能性もあります。

続日本紀の石上部君
続日本紀』の天平勝宝元年(749年)と五年(753年)の記事に、
「石上部君諸弟が国分寺造営に知識を貢進して外従五位下に昇叙された」
「石上部君男嶋ら一族47人が戸籍の不備を理由に改姓を訴えて認められ上毛野坂本君を賜った」                   
とある。石上部氏とは仁賢期名代(なしろ)として作られた石上部を統括する伴造氏です。畿内の石上氏は物部連からの改姓であるが、群馬の石上部氏がどんな経緯でいつ頃移住したのか判断は難しい。仁賢期は西暦490年頃に相当するが、名代創設と同期するなら5世紀前半に持っていくのは無理です。上毛野坂本君に改姓したのは何らかの理由で物部氏よりも上毛野氏にくっついた方が有利とみたのでしょう。坂本とは碓氷峠の入口、現在の横川です。

続日本紀の物部公
続日本紀』の天平神護元年(765年)と二年(766年)の記事に、
「上野国甘楽郡の人、中衛物部蜷淵(になぶち)ら五人に物部公の姓を賜わる」
「上野国甘楽郡の人、外大初位下礒部牛麻呂ら四人に物部公の姓を賜わる」
とあります。中衛とは宮廷の中衛府に勤務する守備隊で、天皇に密着して護衛する役目です。その選抜は出自を含めた素性調査が厳しかったそうです。前者は無位、後者も官位は低いので、まだ若者であろう。地方の物部氏出身の下層役人としては異例の処置であり、出身地域の物部に対する朝廷の信頼は相当に厚い。

【補足】
カバネについて補足しておきます。カバネが後から贈られるということは、功績に対する名誉であって、出自を厳密に表すものではないということです。

豪族居館水祭祀の発祥50



以上4点の事例をあげましたが、群馬県西部には色濃く物部系氏族が定着してることは確実です。だが、明確に5世紀代に移住した物部氏であると言える証拠はありません。多過ぎる物部氏と度重なる移住が弊害となっているような気がする。やはり前稿までの考古学的な類似性と政治的に大きな画期の現れを結びつけることによって仮説を立証するしかなさそうです。


(8)移住氏族の群馬での展開について
仮説設定の最後に記載した、移住後の氏族展開についての評価を行います。以下データは豪族居館・水祭祀の発祥(2/5)でも使いましたが、もう一度参照します。


豪族居館水祭祀の発祥11
群馬県の豪族居館遺跡一覧(クリック拡大


豪族居館水祭祀の発祥21
群馬県の豪族居館遺跡の分布(クリック拡大


遺跡の初代は明らかに三ツ寺Ⅰ遺跡と思われます。北谷遺跡の場合は時代的に重なっていると思います。その後、時代が下ると徐々に東部へ展開していく傾向が見られます。移動の契機はおそらく榛名山の噴火(HR-fa/fp)と思われるが、何故か完全な平野部である前橋伊勢崎台地への展開は少ない。この現象は以下のように評価しています。

■移住者の文化性
三ツ寺Ⅰ遺跡の立地が端的に示すように彼等の灌漑技術を活かすには山麓末端地の緩傾斜地が適していたのでしょう。居館を囲む環濠に導水したり、流水を利用した水祭祀も彼らの灌漑方式から必然的に生まれたものと考えられます。前橋伊勢崎台地のような平坦な沼地は適さなかった。

■先住者との棲み分け
平野部台地は旧支配勢力である先住者が多い地域でもあります。平野部の中に敢えて入らず先住者を監視するような地勢に勢力展開していったのは、移住後に先住者との地縁交流はあまりなく、牽制の意図を示したものであると考えている。東毛地域の5世紀初頭の古墳衰退以降、大型古墳の築造は、西毛・中毛に限定されることから、単に平和的な地方移住ではなかったと思えるからです。でも今のところ、戦乱を示すような証拠は見つかっていません。上毛野在地の先住有力者は繁栄はしていても、西日本の武力制圧の情報を入手して抵抗を諦めていたのではないだろうか。



本稿シリーズでは、群馬県内だけでなく、栃木県茨城県に展開している物部氏の定着時代の推定、北関東における移動状況などにも触れる予定でした。しかし、ネタ集めがスムースに進まず、盛り込むことが出来ませんでした。また稿を改めて試みます。





参考・引用資料
■日本書紀(上下)    宇治谷孟     講談社学術文庫
■続日本紀(上中下)   宇治谷孟     講談社学術文庫
■群馬の遺跡4/5/6         埋文事業団     上毛新聞社
■古代東国と大和政権   森田悌      新人物往来社
■東国の古代氏族     関口功一     岩田書院
■東国と大和政権     原島礼二     新人物往来社
■日本の歴史2 古墳時代  和田萃      小学館
■白鳥伝説        谷川健一     集英社
■群馬史再発見      梅澤重昭他    あさを社
白石太一郎 講演録「五世紀のヤマト王権と上毛野」 
■古墳時代の導水施設   九州歴史資料館作成
■東国千年の都パネル   前橋市教育委員会作成
■古墳時代の地域社会復元・三ツ寺1遺跡   若狭徹  新泉社

以下調査報告書・論文
■雄略朝期の王権と地域(論文抜粋)       山田俊輔
■奈良県天理市布留遺跡の発掘調査報告      置田雅昭
■古墳時代の布留遺跡調査報告          山内紀嗣
■古墳時代の豪族居館の変遷に関する研究     橋本博文
■布留遺跡豊井地区出土の初期須恵器をめぐって      竹谷俊夫




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No title * by sagami_wan
常識を覆す仮説見事です。
「上毛野氏王国、巨大古墳はみな上毛野氏の墓という幻想」とは厳しいですが、「5世紀代初頭から中央王権の強化一環として軍事行動や移住策が取られた」とすれば、当然の帰結でしょう。

かねてより、4世紀後半に王権指示により逗子に前方後円墳群が築かれたにもかかわらず、関東北部への王権の到達時期が隔たれていることの不思議さを感じていました。
埼玉古墳群の稲荷山の鉄剣銘文「世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。」も数代にわたりですから、5世紀初頭には、この東国の豪族が杖刀人の首を務める制度ができていた。つまりそれより前に王権の東国支配があったとみるべきでしょう。

「石上(いそのかみ)→ 石神(いしがみ)、布留 → 風呂」の地名変化も非常に興味深いです。

No title * by 形名
> sagami_wanさん、こんいんちは。
コメントいつもありがとうございます。
ちょっと過激な発言と云うか、本音を書いてしまいました。^^
歴史学者ってなんとなく県単位の縄張りみたいのがあって、外部の人間はあからさまには批判しないような雰囲気がありますね。もっとストレート言い合う風土があれば、群馬の学者さんも意識が変わってくると思うんですけどね。例えが悪いんですけど、九州の人は邪馬台国九州説が絶対だし、近畿の人は大和ですよね。それと同じで群馬には上毛野氏教にかぶれてる人が多い。学者さんも読者を喜ばそうとしてるのでは?!
おっしゃる通り王権の地方支配は従来よりも全体的に早いと述べる学者が出てきましたね。この記事を書いた時に白石太一郎さんの講演サマリを読んだのですが、一番でかい太田天神山210mも従来説では5世紀前半でしたが、400年または4世紀代に入る可能性あると述べていました。とすると、旧来の首長連合が解体されのも前倒しになりますね。従来説はヤマトが先進で地方は50年遅れるというのが常識でしたが、今、それが崩れはじめていると感じます。

No title * by 形名
確かに群馬の東部勢力は一目置かれていたのは事実だと思うが、吉備だって360mの古墳を造る勢力があっさり敗退してるんですから、所詮、敵わなかったと思います。逗子への派遣氏族の古墳はそんなに古いのですか。まさにオワリ族の移住を追っかけるよう圧力を掛けたということですね。

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No title

常識を覆す仮説見事です。
「上毛野氏王国、巨大古墳はみな上毛野氏の墓という幻想」とは厳しいですが、「5世紀代初頭から中央王権の強化一環として軍事行動や移住策が取られた」とすれば、当然の帰結でしょう。

かねてより、4世紀後半に王権指示により逗子に前方後円墳群が築かれたにもかかわらず、関東北部への王権の到達時期が隔たれていることの不思議さを感じていました。
埼玉古墳群の稲荷山の鉄剣銘文「世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。」も数代にわたりですから、5世紀初頭には、この東国の豪族が杖刀人の首を務める制度ができていた。つまりそれより前に王権の東国支配があったとみるべきでしょう。

「石上(いそのかみ)→ 石神(いしがみ)、布留 → 風呂」の地名変化も非常に興味深いです。
2018-02-20-09:47 * sagami_wan [ 編集 * 投稿 ]

No title

> sagami_wanさん、こんいんちは。
コメントいつもありがとうございます。
ちょっと過激な発言と云うか、本音を書いてしまいました。^^
歴史学者ってなんとなく県単位の縄張りみたいのがあって、外部の人間はあからさまには批判しないような雰囲気がありますね。もっとストレート言い合う風土があれば、群馬の学者さんも意識が変わってくると思うんですけどね。例えが悪いんですけど、九州の人は邪馬台国九州説が絶対だし、近畿の人は大和ですよね。それと同じで群馬には上毛野氏教にかぶれてる人が多い。学者さんも読者を喜ばそうとしてるのでは?!
おっしゃる通り王権の地方支配は従来よりも全体的に早いと述べる学者が出てきましたね。この記事を書いた時に白石太一郎さんの講演サマリを読んだのですが、一番でかい太田天神山210mも従来説では5世紀前半でしたが、400年または4世紀代に入る可能性あると述べていました。とすると、旧来の首長連合が解体されのも前倒しになりますね。従来説はヤマトが先進で地方は50年遅れるというのが常識でしたが、今、それが崩れはじめていると感じます。
2018-02-20-17:49 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

確かに群馬の東部勢力は一目置かれていたのは事実だと思うが、吉備だって360mの古墳を造る勢力があっさり敗退してるんですから、所詮、敵わなかったと思います。逗子への派遣氏族の古墳はそんなに古いのですか。まさにオワリ族の移住を追っかけるよう圧力を掛けたということですね。
2018-02-20-17:50 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]