FC2ブログ

東国の古代史

Top Page › 古代日本東国遺跡考 › 本郷埴輪窯と土師神社、諏訪神社古墳《藤岡市》
2018-04-03 (Tue)  14:17

本郷埴輪窯と土師神社、諏訪神社古墳《藤岡市》

群馬県の埴輪生産地は、藤岡市と太田市の2地域にあったことが知られている。藤岡市では、神流川流域の本郷埴輪窯跡と鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点があるが、もっとも有名な前者を紹介します。

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳1 


本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳2 
↑本郷埴輪窯跡は国指定史跡

説明板に記載されてるが、本郷埴輪窯は、明治39年に柴田常恵氏により発見された。昭和18年~19年に群馬大学教授 尾崎喜左雄氏により発掘調査が行われている。その結果、5世紀中葉から6世紀末まで生産されていたことが確認されています。

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳3 
↑保護建屋

遺跡は県道のすぐ横の保護建屋の中にありますが、道路西側の樹木に隠れて目立たない場所です。自動車だと見落としやすい。

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳4 
↑赤い帯で示した部分が窯のあった場所

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳5 
↑保護建屋の内部

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳6 


本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳7 
↑昭和初期に発掘調査された当時の画像

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳8 
↑窯の側面はすすで黒く変色している

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳9 
↑窯の中に残されていた埴輪


窯は神流川の河岸段丘の自然傾斜を利用した登窯という構造で、窯の下部で燃焼させ、熱と煙を上方に送り出して焼成する方法です。窯は全長約10m、幅1.2(煙出し部)~1.8m(裾部)。焼成部は長さ4m、1.2mの筒型で、約30度の傾斜を持っています。 中間あたりで傾斜角度が変わり、緩やかな下方部から空気を取り入れている焼成部はトンネル構造になっていたことが発掘調査で判明しているが、天井は崩れ落ちて残っていない。昭和初期の画像でもトンネル構造は確認できないので発掘時には既に崩れていたものと思います。
窯の中からは人物、馬、家、太刀、矛、盾などの埴輪が出土しています。

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳10 


この場所に埴輪窯が作られた理由は、地形的な利点や燃焼材の確保のしやすさあったろうが、地下の粘土層の存在が大きい。藤岡市街地のある藤岡台地一帯には良質な粘土層があって、この粘土は藤岡市の特産品である瓦の生産に現在も利用されている。

古墳の埴輪の中で重量比が大きいのは円筒埴輪です。本窯跡で製作された埴輪は、円筒埴輪だけでなく、人物、馬、家、武具等、各種の形象埴輪もあります。20数基の窯で大量生産されたらしい。埴輪は藤岡市中心部の小林古墳群を中心に広い範囲に供給されたことが分かっている。群馬県南西武部の古墳の埴輪はここで焼かれたものが多い。
発掘した尾崎喜左雄博士によると、埴輪の提供範囲は半径10Km圏内であったと言ってます。しかし、最新の調査では群馬県前橋市にある中二子古墳の埴輪のうち30%は藤岡市本郷で生産された埴輪が使われているそうです。
また5世紀代築造である保渡田古墳群の井手二子山古墳八幡塚古墳の膨大な埴輪も本郷・猿田埴輪窯で生産された可能性が高い。藤岡市の埴輪には、海綿骨針化石と埴輪製作時に割れるのを防ぐために混入する結晶片岩砂粒が含まれている。この特徴は藤岡地域で生産される埴輪に限られそうです。本郷埴輪窯から中二子古墳保渡田古墳群までは直線距離でも20Km以上あります。

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳11 
↑復元された中二子古墳の円筒埴輪

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳12 
↑保渡田八幡塚古墳を囲む円筒埴輪

ただ、前述したように窯一基の焼成部は長さ4m、幅1.2メートルに過ぎない。現在の陶芸用の長いものではありません。一度に大量に焼成することは出来なかったでしょう。窯の大きさによる不利は数で補っていたと思われる。例えば、前方後円墳を囲む円筒埴輪などは、1000~6000本にも達しますから、大型古墳では発注から納品までには相当時間を要したと推定されます。
中二子古墳保渡田八幡塚古墳の場合も複数生産地に発注していたのでしょう。おそらく地域首長は生前から準備を始めていなければ埋葬には間に合わなかったと思われる。
冒頭記述したが、群馬県の埴輪生産地は藤岡市と太田市の2地域は確定しているが、実際にはもっと埴輪窯はあったと思います。古墳時代でも埴輪の設置が盛んな時代と少ない時代があるが、最盛期にはとても2箇所では生産が追いつかなかったと思えるからです。

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳13 
↑本郷埴輪窯から見た土師神社の森

本郷埴輪窯から300mくらい南に土師(はじ)神社があります。神流川の左岸、なだらかな河岸段丘の中にある。広い敷地を持っており、近ずくとこんもりとした杉林が目立ちます。

土師(はじ)とは埴輪を作る人、後には葬儀を司る土師連(はじのむらじ)という職掌集団を指す。藤岡市の本郷埴輪窯も生産に携わったのは土師氏です。
日本書紀には以下のように記載されてる。
土師氏は相撲取りの野見宿禰(のみのすくね)を始祖としている。垂仁天皇の治世7年、大和の国の当麻の地にいた当麻蹶速(たいまのけはや)という勇猛な男を、出雲の国から召された野見宿禰という力士が相撲で倒した。野見宿禰は以後、大王に仕えたが、皇后の死に際して殉死の風習を改め、生きた人を埋める代わりに埴輪を作って献上したといわれ、これが埴輪の起源となった。以後、土師の職に任じられて土師臣(はじのおみ)と呼ばれた


本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳14 
当麻蹴速と野見宿禰の戦い


たぶん史実では無いと思いますが、そういう伝承が一族を権威付けるために作られたのでしょう。野見宿禰は出雲の人とあります。土師氏は後代には菅原の姓を与えられており、菅原道真も子孫だそうです。この土師氏の枝族が群馬にも流入してきたのでしょうか。なお、氏族の本拠地は大阪府藤井寺市付近です。

埴輪の製作には非常に高度な技術が必要であり、当初は朝鮮半島から渡ってきた専門的な工人集団が関係した可能性が高い。群馬県の土師氏も既に日本人化していたと思うが、元は渡来系の血を引く人々であった可能性があります。関東には多くの渡来系氏族が移住しています。その中でも土師氏がやってきたのは、かなり古い時期だと思われます。

土師神社の拝殿は小さいが、敷地は広く夏は涼しい場所です。

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳15 


本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳16 
↑拝殿

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳17 
相撲辻

境内には相撲の土俵もありました。相撲辻と呼ぶそうですが、日本には大阪と石川県、および、群馬県藤岡市の3ケ所にしかないそうです。ただし、神社創建当時からあるものかは不明です。因みに3ケ所の土俵に上がれるのは、大相撲の幕内力士だけだそうです。どう見ても円墳に見えますがどうなんでしょう?

本郷埴輪窯の北1Kmには諏訪神社があります。藤岡市では一番大きな神社ですが、諏訪神社古墳の真上に乗っかっています。石室は天井部が狭いA字型の独特な形状。古墳時代後期のものです。


本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳18 


本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳19 
↑前方後円墳の上に鎮座する諏訪神社

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳20 
↑後円部の真下にある諏訪神社古墳石室


因みに、諏訪神社の総社は長野県諏訪市にあります。この神社は出雲系の神社として知られています。土師氏の始祖伝承にある野見宿禰は出雲の人とあるので、土師氏自身は、実態はともかくとして、出雲系の集団としての伝承を持っいたことがわかります。藤岡市のこの地域に土師氏が移住していたとすれば、時代は下ると思いますが、諏訪神社が勧進されても矛盾はないような気がしますが?
この古墳は約100基にのぼる小林古墳群の中央にある全長57mの前方後円墳。この多くの古墳群を作った氏族と土師氏の関係性は調べても出てこないのだが、個人的には小林古墳群自体が土師氏子孫か、または土師氏を統括した氏族の墓ではないかと考えている。諏訪神社古墳の埋葬者は土師氏の地域族長一族能性もあるか







日本史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



Comment







管理者にだけ表示を許可