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東国の古代史

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2019-03-04 (Mon)  12:24

漆山古墳 現地説明会《高崎市》

9月2日に高崎市上佐野町にある発掘中の漆山古墳現地説明会に行ってきた。この古墳は、かっては個人所有でしたが、現在は高崎市に寄贈されています。調査を担当された考古学者は専修大学の土生田純之教授と高久健二教授。高崎市から専修大学へ調査が委託されてるようです。

漆山古墳現地説明会1 
↑土生田純之教授

漆山古墳現地説明会2 
↑高久健二教授


両教授とも初めてお目にかかりますが、土生田氏の書籍は読んだことがあります。教授は、漆山古墳の埋葬者を佐野屯倉の管理者であった守命(たけもりのみこと)の可能性が高いと考えているようです。漆山古墳は過去に何回か調査されており、築造時期は西暦580年頃と推定されている。守命は上毛三碑の一つ山上碑に登場する人物ですが、碑文の内容から推定される死亡時期と古墳築造時期は矛盾しないそうです。
私は其れよりも守命の出自について興味があります。以前、佐野三家出自について (1~3)を書いたが、関連した話が教授から少しでも聞ければと思い、出かけてみました。

漆山古墳現地説明会3 
↑後円部南側より

漆山古墳現地説明会25 
↑後円部南側より

以降は、最近の発掘調査で判明した事や講師の口頭説明を中心に記載します。過去の調査を含めた体系的な紹介はしません。

(1)墳丘サイズ、墓域に関する発見(土生田教授)
この古墳は前方後円墳であるが墳丘の破壊が進んでおり、古い資料を見ると全長は60mと記載されていたこともある。最近の資料では70mに訂正されているが、今日の説明では80mに達することは確実らしい。

漆山古墳現地説明会4 
↑現地の説明板

周濠も従来は不明であったが、二重の周濠と堤が最近確認され、墓域の全体長は100mを優に超えるという。今は前方部はバッサリと切り落とされて存在しない。土生田教授は昭和22年以前に破壊されていたと話していた。自分でも年を追って確認してみたが、後述する1947年10月30日(昭22年)の米軍写真では後方部らしきが見えます。その後の写真では円墳のように見えるので、この年に破壊されたのではないだろう
か。

漆山古墳現地説明会5 
↑前方部は正面アパートの反対側の外壁付近まであったと思われる

漆山古墳現地説明会6 
↑後円部側面も墳丘端は削られている

漆山古墳現地説明会7 
↑後円部正面からの墳丘画像

上の画像は後円部西側正面からの撮影した墳丘です。発掘調査の結果、周濠を含めた墓域はカメラ立ち位置あたりまで続いていたらしい。


漆山古墳現地説明会8 
↑国土地理院が保管する以下画像データからの切り出し
       撮影年月日 1947/10/30(昭22)
        写真番号    R256-No1- 56
        撮影地域    高崎
        撮影高度      2438m
        撮影機関   USA米軍
                      画質    400dpi


昭和22年の米軍画像を見ると墳丘周囲には明らかに周濠の跡が農地の地割に残っています。教授がおっしゃるよりも墓域更に広いようにも見えますが、残念ながら周濠地割の形が崩れているので元の範囲が分かりづらい。

漆山古墳現地説明会9 
↑周囲の佐野古墳群

しかし、すぐ北にあった御堂塚古墳の周濠は農地地割にきれいに残っています。時代が近ければ墳丘サイズと周濠サイズの比は、ほぼ一致する可能性があるので、漆山古墳を見るときの参考にはなると思います。撮影高度が分かっているので、画角(視角)から概略測定も可能でしょう。もっとも、確実な方法は周濠部のトレンチ調査しかありませんが。下図のGoogleでの概算計測では65~70mくらいの墳丘のようです。

漆山古墳現地説明会10 
御堂塚古墳の現在の痕跡(Googleより)

以下画像は倉賀野浅間山古墳の周濠地割す。古墳時代初期の古い古墳ですが、このように見事に地割に残る場合もあります。現在は住宅が多いですが今でも確認できます。

漆山古墳現地説明会11 
↑倉賀野浅間山古墳の巨大な二重周濠地割(1947年)


(2)後円部で発見された盗掘溝について(高久教授)
漆山古墳の後円部上部から石室への侵入を試みた盗掘溝が発見されています。

漆山古墳現地説明会12 
↑後円部西側の盗掘溝入口(矢印)

漆山古墳現地説明会13 
↑左側が盗掘溝の終端付近(露天掘り)

盗掘者は本古墳が横穴式であることを知らなかったらしい。墳丘上部の深さ1.7mまで掘っているが、石室までは更に下方2mほどの距離があって届いておらず、断念しているそうです。この盗掘溝が掘られた時はまだ石室は開口してはいなかったということ。比較的新しい時代になってから開口したのでしょうか。

漆山古墳現地説明会14 
↑1783年(天明3年)の浅間山噴火の火山灰層

盗掘溝の上部には1783年浅間山天明噴火(浅間A層)の火山灰が積もっており、溝の底面下には1108年平安噴火(浅間B層)の火山灰があったため、盗掘溝は1108~1783年の間に掘られたとになる。あまり絞り込まれてはいませんが、火山のタイムスタンプは貴重です。


(3)墳頂で発見された形象埴輪と葺き石列(高久教授)
後円部の頂上には4つのトレンチが掘られていました。そこから埴輪が出土しているが、円筒埴輪ではなく、家型、器財などの形象埴輪と云われるものが多いそうです。

漆山古墳現地説明会15 
↑形象埴輪断片

漆山古墳現地説明会16 
↑形象埴輪断片

漆山古墳現地説明会17 
↑葺き石がまとめて配置されている

教授が立っている位置が本来の墳丘頂で、その上の層は全て火山灰層です。改めて浅間山の噴火の凄まじさが分かります。葺き石列の存在理由に関しては今後の調査によるという話でした。列と言っても整然と並んでいる訳ではないので盗掘時に乱雑に寄せられたものかも知れませんね。

漆山古墳現地説明会18 
↑出土した形象埴輪の一部

漆山古墳現地説明会19 
↑出土した埴輪は家型埴輪の断片が多い(専修大学生執筆画)


(4)石室の形態から分かること(土生田教授)
当日は雨天にも関わらず見学者が多かった。石室には少人数しか入れないため、4組ほどに分けて説明されました。一組ずつ、たっぷり時間を掛けて解説してくれましたから、土生田教授もアシストの学生も疲れたと思います。軽妙な語り口の教授には話しやすいのか、質疑も非常に多かった。

漆山古墳現地説明会20 
↑A型に積まれた羨道部は藤岡市の諏訪神社古墳石室にも似ている。
この点からも古墳の系譜を考える上で材料になると思う。

漆山古墳現地説明会21 
↑羨道部の石積み

羨道部はよく見ると、30度位の角度で何層もの石積みを段階的に行っている。このような工程を経ることで強度が保たれているのだとか。なお石室が開口する以前は、羨道部は大量の自然石積石で封印されていたと推定されるそうです。

漆山古墳現地説明会22 
↑石室の奥壁方向

漆山古墳現地説明会23 
↑石室入り口方向

石室の入口は両袖型という形式で羨道部天井にはマグサ石がある。石材には工人のノミ跡がたくさん残っています。形式的には畿内型の巨石造りでサイドは三段積みとなっている。天井に向けてわずかに傾斜して土圧の応力を分散している。床面はわずかに胴張り形ですが、埼玉県や群馬県藤岡市に多い完全な胴張り形ではない。土生田教授によると、畿内型ではあるものの、群馬型の要素も混じっているとのこと。このような様式は築造工人の指揮系統が畿内政権であることを物語っており、群馬的要素があるのは、埋葬された屯倉管掌者は現地採用された人物であるためと考えてるそうです。これは埋葬者自身の趣味という意味ではなく、指揮は官人がとっても工人は在地の人間が担当してるということです。教授の説には確かに説得力があります。
しかし、私には被葬者が現地採用であった可能性は高いにしても、本来の群馬ネイティブな人物とは思えない。やはり過去の記事でも記載したように、当初は畿内から派遣されて群馬に定着した渡来系出自の官人のような気もします。長くなるので詳細には語れませんが、相模国、武蔵国の屯倉管理氏族の状況を見れば、群馬の屯倉だけが現地ネイティブ氏族が採用されていたというのは考えにくい。また、屯倉管掌者は文字の読み書き、計数能力が必要ではないだろうか。6世紀末の東国では国造クラスでさえ文盲であった可能性が高い。これは地方の文化性が低いという事ではなく、日本に文字文化など無かったのですから当然と言えます。それでも、屯倉管掌者が財力基盤だけで採用されたとは考えにくい。名誉職ではなく実務職ですからね。機会があれば土生田教授の意見も聞きたい。

【補足】
漆山古墳は今でこそ単独の大型古墳として見られがちです。しかし、かっては佐野古墳群の一つであり、周辺には多くの古墳が存在した。前述した1947画像でも墳丘や地割が判別できますが、東130mには、群馬でも最大級円墳の蔵王塚(直径45m)が、また北150mには漆山古墳と同規模の御堂塚古墳という前方墳もありました。距離的に一族の可能性が高いと思われます。両者とも既に完全に削平れていますが、氏族としての繁栄が伺えます。これらの古墳の代考証や埋葬者の性格なども検討しないと、早計に健守命の墳墓として漆山古墳を特定るのは危険という気もします。
また漆山古墳は上佐野町にありますが、現在の佐野地域が当時の佐野屯倉の佐野と同じか否かという問題もある。和名類聚抄には佐野卿の表記はなく、下賛郷、佐没郷、小野郷等が該当すると推定されているが明確ではない。また距離的にかなり離れた山名町の古墳には健守の息子または孫世代、更には次世代の黒売刀自が小さな山寄せ古られています。これは山上碑の碑文内容ですから事実です。7世紀は古墳築造規制も始まった時代ですから小型化は時流の影響す。しかし、健守命の墓が漆山なら、直系子孫がなぜ佐野古墳群ではなく、人里離れた山深い場所にられているか検討すある。地質調査で間を流れる烏川が存在したのは確実なので、おそらく、当時の両地域は卿名も異なっていた可能性があるだろう。位置付けの明確な山上古墳から出発して考えれば、距離の近山名古墳群の性格も検討ておく必要があります。この古墳群も6世紀中葉~7世紀築造されている。殆どが
すが、前方後円墳もあります。


漆山古墳現地説明会24 




蒸し暑い中、多くの見学者に分かりやすく説明してくれた両教授と学生たち、行政スタッフの方々に感謝いたします。




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コメント(22)

ごぶさたです。
調査員や作業員さんお暑い中大変だったかと思います。
あと見学お疲れ様です。
群馬県の古墳はまたいつか機会あれば
見てみたいですねm(_ _)m 
[ マサソイト ]2018/9/3(月) 午後 6:13

こんばんは
古墳見学お疲れさまでした。
石室奥の大石は鏡石でしょうか?
羨道を自然石で閉塞してあったこと、畿内型古墳という説明。納得です。 
[ 自転車くま ]2018/9/3(月) 午後 6:47
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No title * by 形名
> マサソイトさん、こんばんは。
元気で古墳めぐりを続けていますか。
当日は雨天で気温は低かったが蒸し暑い日でした。古墳がある場所は大抵草深いようなところですから、蚊も多くて、この季節は見学には適しませんね。群馬も古墳に限ると最近めぼしい調査も聞きませんが、是非機会があれば見学してください。

No title * by 形名
> 自転車くまさん、こんばんは。
石室奥の石は鏡石ではないですね。石材は凝灰岩ですが、関東南部に多い柔らかい凝灰岩ではなく、見た目は砂岩や安山岩のような硬質な凝灰岩です。その隙間を埋めるように自然石が叩き込めれています。見た目は畿内型なので緻密な感じはしないのですが、講師は非常に頑丈に丁寧に作られてると言ってました。一方、羨道部は材料的には見た目の良いものは使ってないです。一般の家と同じで客間と居間の違いですと講師も説明してました。

No title * by sagami_wan
被葬者を現地採用された屯倉管理者か否かについては、興味深いですね。
屯倉首などの現地管理者といえば、丈部氏のように相模や下総など東国に多く集中しています。
群馬にも分布していることから、丈部氏が群馬でも現地管理者であったことは想定できますね。
とすれば、阿部氏と丈部氏との関係など中央からの派遣官人とみられますね。

No title * by 形名
> sagami_wanさん、こんにちは。
そちらはもう風当たりが強いでしょうね。
東国の屯倉は、ほぼ鎌倉街道に沿って、上毛野、武蔵、相模と並んでいます。畿内への搬送も当初は東山道でしたが、後には東海道が、また海洋ルートもあったかも知れませんね。屯倉を管理した氏族で有名なのは、畿内や東国にもいた三宅連などが分かっていますが、実態としては多様であったと思います。ただ文筆能力が必要であり、渡来系日本人が多かったという見解が多いですね。丈部氏なども単相ではないと思いますが、渡来の血を引く文化性の高い氏族なので屯倉に関わった可能性は非常に高いかも知れませんね。以前にもこの件で相模湾さんとお話しましたが、豪族系氏族と一緒に畿内から東国へ派遣されているのは確実なので、そういう意味でも在地ネイティブとは言いにくいところですね。

No title * by 上州の人
航空写真に出てきた御堂塚古墳は、後円部東の一部を除く墳丘を破壊されました。しかし、その後建てられた住宅地は当時の区割りがそのまま使われ、道路も周堀に沿って通されたので、古墳自体の痕跡は良好に残っています。

No title * by 形名
> 上州の人さん、こんばんは。
御堂塚古墳は伝出土品が何点かあるようですが、調査は全く行われないで削平されたみたいですね。高崎市史にも僅かな記述があるだけです。高校生の夏休みに、この近所でアルバイトしていたので土地勘はある地域ですが、跡地を丁寧に観察することはありませんでした。googleで見ると地割が残ってますね。此のへんは区画整理事業が行われる前に宅地化されたので、逆に残る結果になったのでしょう。距離計測機能で測ってみると墳丘長は65mくらいになりました。漆山よりもやや小さいかも知れないです。
蔵王塚古墳は堀口農園のハウスになっているようで痕跡はないですね。

No title * by 形名
> 上州の人さん
教えてもらった御堂塚古墳の痕跡を記事に追加しておきました。

No title * by 上州の人
県内にも破壊された古墳はたくさんありますが、区割りがここまで残っているのは恐らくここだけではないでしょうか。
他に区割りが残った古墳で有名なのは伊勢崎市の上渕名雙児山古墳ですが、残っているのは道路で南北に分断されたうちの南側だけです。
逆に、区画整備によって破壊された古墳は山ほどあります。(上並榎稲荷山古墳、太田割地山古墳&観音山古墳など)なぜこの古墳だけ区割りが残されたのか、という疑問が自分の中にあります。

No title * by 形名
> 上州の人さん、こんばんは。
上佐野町も住民の高齢化が進んでおり、近辺は消防車も入るのが難しいような路地もありますから何れは区画整理が入るでしょう。そのときには消えてしまうでしょうね。元々新幹線高架に沿ったあたりは歴史が古く旧家が多いようです。区画整理が入る前に、そういった旧家が手放した土地にあっというまに宅地化が進んでしまったんでしょう。漆山古墳を寄付した農家も旧家ですね。
雙児山は確か尾崎博士が調査したと聞きましたが墳丘は早くから削平されたようですね。うちから近い越後塚古墳も惜しいです。地割が消えた跡も墳丘東面の蛇行がかすかに畑の中にあったが今は完全に消えました。

No title * by 上州の人
上渕名雙児山古墳
調査のきっかけ:墳丘の土砂採取による破壊
調査者:群大(学芸)史学 尾崎喜左雄
調査時の状態:道路南側の墳丘3分の1が残存
外部施設:周堀有り 造り出しの有無は不明
外部施設その他:円筒埴輪列 ※形象埴輪有り
周堀の有無:盾形 深さ約2m
墳丘規模:約90m 後円部径60m 前方部幅82m
埋葬施設:横穴式石室(両袖型) 羨道幅1.4m 他不明
出土遺物:杏葉破片1点 金環2点
墳丘造成年代:6世紀後半~7世紀初頭

No title * by 上州の人
越後塚古墳は詳細は不明ですが、以下のことが判明しています。
1.墳丘長約130m
2.昭和10年の一斉調査時にはすでに盛土をかなり失っていた
3.墳丘主軸が南北→5世紀代の築造か?
4.(年代不明)土地区画整備時に消滅

No title * by 形名
> 上州の人さん
伊勢崎の古墳は有名所は見て回りましたが、上渕名雙児山のことはよく知らなかった。高崎の八幡観音塚古墳とほぼ同時代ですね。太田伊勢崎の古墳は5世紀初頭にぱったり築造が途絶えるが、6世紀にはいると再び作られるのが特徴ですね。

No title * by 形名
> 上州の人さん
越後塚は、1894~1915年の古地図では後円部に山稜凡例がついていますが、1928年(昭和3年)からの地図では山稜凡例が消えています。その後も暫くは後円部に樹木があるので、墳丘が少し残っていた可能性があるが、大方は昭和3年までに削平されていたのではないかと思います。農地の地割自体は1961年まで確認できますね。多分、その年に区画整理で痕跡消滅のようです。しかし、5世紀の古墳なのに周濠の痕跡がない。群馬の古墳の周濠は殆ど空堀であったという説もあるので、農地で使われと消えやすいのかな。

No title * by 上州の人
現在、周堀に水があったことが確認されているのは、
太田天神山古墳だけです。しかし、この古墳も全体に水があったわけではなく、墳丘北側~西側の一部のみです。群馬県では恐らく太田天神山古墳を除いた古墳は全て空堀だったようです。

No title * by 形名
> 上州の人さん、こんばんは。
天神山は周濠の中をくまなく歩きましたが、道路になってしまった部分以外では、西側にやや低い湿地がありますね。東毛の古墳は平坦地にありますから、河川から水を入れるのは大変だったでしょう。平安時代には前橋からの女堀の掘削にも失敗してるが、水不足が厳しかったはずです。古墳に水をためる余裕はなかったような気がしますね。

No title * by 上州の人
群馬県は内陸部で標高が高いので、水を引くのは難しかったでしょう。東毛地域で水をひけそうなのは大間々扇状地の湧水くらいでしょうか。

No title * by 形名
> 上州の人さん
博識ですね。私は新田が好きなのでサイクリングがてら出かけるだけですが、重殿井戸、反町館跡環濠、妙参寺沼、風吹沼、矢太神沼、天沼などがありますね。鎌倉時代はこれらの湧水の水争いで争乱が起こり、鎌倉幕府が裁定した記録も残ってるらしいです。

濃尾平野の水田遺構を見ると、平坦な湿地帯に溝を掘って田と水路を分離していますが、これは谷地水田文化とは明らかに違いますね。群馬の標高200~300mにある水田は小河川から引水が多いみたいです。女堀の失敗が示すように水準器のない時代の平坦地工事では掘っても流れるかどうかは運任せだったのではないですかね。その点、赤城の粕川などは、暖傾斜ですから高度な土木技術がなくても引水出来たような気がします。研究者によると、群馬でも東海系移住者が来る前は水田は榛名や赤城の扇状地にしかなかったようですね。

No title * by 上州の人
群馬県の河川は谷川に近いので、水田も長続きしなかったようです。水田の遺跡も群馬県は範囲が狭いです。

No title * by 形名
> 上州の人さん
群馬の水田遺跡は三ツ寺1遺跡の400mくらい南にある御風呂遺跡が有名ですが、ここは結構広かったようです。ただ榛名山噴火の被害が多くて全面復旧はしていないようですね。降灰や泥流の影響でしょう。

No title * by 上州の人
群馬県は火山が活発だったので、火山灰が大量に積もっています。今も多くの古墳が埋もれているそうです。(推定数百基)

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> マサソイトさん、こんばんは。
元気で古墳めぐりを続けていますか。
当日は雨天で気温は低かったが蒸し暑い日でした。古墳がある場所は大抵草深いようなところですから、蚊も多くて、この季節は見学には適しませんね。群馬も古墳に限ると最近めぼしい調査も聞きませんが、是非機会があれば見学してください。
2018-09-03-22:43 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 自転車くまさん、こんばんは。
石室奥の石は鏡石ではないですね。石材は凝灰岩ですが、関東南部に多い柔らかい凝灰岩ではなく、見た目は砂岩や安山岩のような硬質な凝灰岩です。その隙間を埋めるように自然石が叩き込めれています。見た目は畿内型なので緻密な感じはしないのですが、講師は非常に頑丈に丁寧に作られてると言ってました。一方、羨道部は材料的には見た目の良いものは使ってないです。一般の家と同じで客間と居間の違いですと講師も説明してました。
2018-09-03-22:57 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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被葬者を現地採用された屯倉管理者か否かについては、興味深いですね。
屯倉首などの現地管理者といえば、丈部氏のように相模や下総など東国に多く集中しています。
群馬にも分布していることから、丈部氏が群馬でも現地管理者であったことは想定できますね。
とすれば、阿部氏と丈部氏との関係など中央からの派遣官人とみられますね。
2018-09-04-14:50 * sagami_wan [ 編集 * 投稿 ]

No title

> sagami_wanさん、こんにちは。
そちらはもう風当たりが強いでしょうね。
東国の屯倉は、ほぼ鎌倉街道に沿って、上毛野、武蔵、相模と並んでいます。畿内への搬送も当初は東山道でしたが、後には東海道が、また海洋ルートもあったかも知れませんね。屯倉を管理した氏族で有名なのは、畿内や東国にもいた三宅連などが分かっていますが、実態としては多様であったと思います。ただ文筆能力が必要であり、渡来系日本人が多かったという見解が多いですね。丈部氏なども単相ではないと思いますが、渡来の血を引く文化性の高い氏族なので屯倉に関わった可能性は非常に高いかも知れませんね。以前にもこの件で相模湾さんとお話しましたが、豪族系氏族と一緒に畿内から東国へ派遣されているのは確実なので、そういう意味でも在地ネイティブとは言いにくいところですね。
2018-09-04-15:51 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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航空写真に出てきた御堂塚古墳は、後円部東の一部を除く墳丘を破壊されました。しかし、その後建てられた住宅地は当時の区割りがそのまま使われ、道路も周堀に沿って通されたので、古墳自体の痕跡は良好に残っています。
2019-03-04-22:13 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 上州の人さん、こんばんは。
御堂塚古墳は伝出土品が何点かあるようですが、調査は全く行われないで削平されたみたいですね。高崎市史にも僅かな記述があるだけです。高校生の夏休みに、この近所でアルバイトしていたので土地勘はある地域ですが、跡地を丁寧に観察することはありませんでした。googleで見ると地割が残ってますね。此のへんは区画整理事業が行われる前に宅地化されたので、逆に残る結果になったのでしょう。距離計測機能で測ってみると墳丘長は65mくらいになりました。漆山よりもやや小さいかも知れないです。
蔵王塚古墳は堀口農園のハウスになっているようで痕跡はないですね。
2019-03-05-02:25 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 上州の人さん
教えてもらった御堂塚古墳の痕跡を記事に追加しておきました。
2019-03-05-02:35 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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県内にも破壊された古墳はたくさんありますが、区割りがここまで残っているのは恐らくここだけではないでしょうか。
他に区割りが残った古墳で有名なのは伊勢崎市の上渕名雙児山古墳ですが、残っているのは道路で南北に分断されたうちの南側だけです。
逆に、区画整備によって破壊された古墳は山ほどあります。(上並榎稲荷山古墳、太田割地山古墳&観音山古墳など)なぜこの古墳だけ区割りが残されたのか、という疑問が自分の中にあります。
2019-03-05-21:20 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

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> 上州の人さん、こんばんは。
上佐野町も住民の高齢化が進んでおり、近辺は消防車も入るのが難しいような路地もありますから何れは区画整理が入るでしょう。そのときには消えてしまうでしょうね。元々新幹線高架に沿ったあたりは歴史が古く旧家が多いようです。区画整理が入る前に、そういった旧家が手放した土地にあっというまに宅地化が進んでしまったんでしょう。漆山古墳を寄付した農家も旧家ですね。
雙児山は確か尾崎博士が調査したと聞きましたが墳丘は早くから削平されたようですね。うちから近い越後塚古墳も惜しいです。地割が消えた跡も墳丘東面の蛇行がかすかに畑の中にあったが今は完全に消えました。
2019-03-05-22:16 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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上渕名雙児山古墳
調査のきっかけ:墳丘の土砂採取による破壊
調査者:群大(学芸)史学 尾崎喜左雄
調査時の状態:道路南側の墳丘3分の1が残存
外部施設:周堀有り 造り出しの有無は不明
外部施設その他:円筒埴輪列 ※形象埴輪有り
周堀の有無:盾形 深さ約2m
墳丘規模:約90m 後円部径60m 前方部幅82m
埋葬施設:横穴式石室(両袖型) 羨道幅1.4m 他不明
出土遺物:杏葉破片1点 金環2点
墳丘造成年代:6世紀後半~7世紀初頭
2019-03-05-23:39 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

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越後塚古墳は詳細は不明ですが、以下のことが判明しています。
1.墳丘長約130m
2.昭和10年の一斉調査時にはすでに盛土をかなり失っていた
3.墳丘主軸が南北→5世紀代の築造か?
4.(年代不明)土地区画整備時に消滅
2019-03-05-23:47 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

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> 上州の人さん
伊勢崎の古墳は有名所は見て回りましたが、上渕名雙児山のことはよく知らなかった。高崎の八幡観音塚古墳とほぼ同時代ですね。太田伊勢崎の古墳は5世紀初頭にぱったり築造が途絶えるが、6世紀にはいると再び作られるのが特徴ですね。
2019-03-06-03:28 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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> 上州の人さん
越後塚は、1894~1915年の古地図では後円部に山稜凡例がついていますが、1928年(昭和3年)からの地図では山稜凡例が消えています。その後も暫くは後円部に樹木があるので、墳丘が少し残っていた可能性があるが、大方は昭和3年までに削平されていたのではないかと思います。農地の地割自体は1961年まで確認できますね。多分、その年に区画整理で痕跡消滅のようです。しかし、5世紀の古墳なのに周濠の痕跡がない。群馬の古墳の周濠は殆ど空堀であったという説もあるので、農地で使われと消えやすいのかな。
2019-03-06-03:34 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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現在、周堀に水があったことが確認されているのは、
太田天神山古墳だけです。しかし、この古墳も全体に水があったわけではなく、墳丘北側~西側の一部のみです。群馬県では恐らく太田天神山古墳を除いた古墳は全て空堀だったようです。
2019-03-06-17:34 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

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> 上州の人さん、こんばんは。
天神山は周濠の中をくまなく歩きましたが、道路になってしまった部分以外では、西側にやや低い湿地がありますね。東毛の古墳は平坦地にありますから、河川から水を入れるのは大変だったでしょう。平安時代には前橋からの女堀の掘削にも失敗してるが、水不足が厳しかったはずです。古墳に水をためる余裕はなかったような気がしますね。
2019-03-06-21:12 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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群馬県は内陸部で標高が高いので、水を引くのは難しかったでしょう。東毛地域で水をひけそうなのは大間々扇状地の湧水くらいでしょうか。
2019-03-06-21:18 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

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> 上州の人さん
博識ですね。私は新田が好きなのでサイクリングがてら出かけるだけですが、重殿井戸、反町館跡環濠、妙参寺沼、風吹沼、矢太神沼、天沼などがありますね。鎌倉時代はこれらの湧水の水争いで争乱が起こり、鎌倉幕府が裁定した記録も残ってるらしいです。

濃尾平野の水田遺構を見ると、平坦な湿地帯に溝を掘って田と水路を分離していますが、これは谷地水田文化とは明らかに違いますね。群馬の標高200~300mにある水田は小河川から引水が多いみたいです。女堀の失敗が示すように水準器のない時代の平坦地工事では掘っても流れるかどうかは運任せだったのではないですかね。その点、赤城の粕川などは、暖傾斜ですから高度な土木技術がなくても引水出来たような気がします。研究者によると、群馬でも東海系移住者が来る前は水田は榛名や赤城の扇状地にしかなかったようですね。
2019-03-07-09:54 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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群馬県の河川は谷川に近いので、水田も長続きしなかったようです。水田の遺跡も群馬県は範囲が狭いです。
2019-03-07-17:46 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

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> 上州の人さん
群馬の水田遺跡は三ツ寺1遺跡の400mくらい南にある御風呂遺跡が有名ですが、ここは結構広かったようです。ただ榛名山噴火の被害が多くて全面復旧はしていないようですね。降灰や泥流の影響でしょう。
2019-03-08-02:00 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

群馬県は火山が活発だったので、火山灰が大量に積もっています。今も多くの古墳が埋もれているそうです。(推定数百基)
2019-03-08-06:50 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]