FC2ブログ

東国の古代史

Top Page › 古代日本東国史考 › 多胡碑の「羊」動物説について
2019-08-12 (Mon)  13:45

多胡碑の「羊」動物説について

以下の引用記事は、プロの某歴史研究者が自身のブログで書いた少し古い記事です。
記事の主旨は、「上野三碑の世界遺産登録」にあたって、その登録意義には隣国や、黒いユダヤ人組織の計略としての思惑が隠されてるという点です。私個人的には、この記事の主旨を深く考えた事も無いし、即座に判断する知識を持たないので批評はできません。
確かに多胡碑の「羊」については帰化人であるという考え方が定説となっており、それを盲目的に前提にしている傾向があるのは確かです。その点は、客観的に、かつ、論理的に見直す必要があるでしょう。ただ、少なくとも近代の政治思想とは一線を画して考えるべきものであり、過去の歴史評価が近代思想に影響されてはいけないと考えます。

******************************引用開始********
上野三碑の世界遺産登録のリスク

今日も、古代・中世史研究家の○○○○が記事を書かせていただきます。ケ○ディ大統領暗殺事件には、非文明化・動物化を計画している「黒いダヤ人」の国際組織の問題が絡んでいる可能性を本ブログにて指摘しておりますが、このような国際組織のアグレッシブな世界支配計画にもとづく工作活動は、米国に留まらず、世界のあらゆる国々のあらゆる分野において見られ、昨日発表されたユ○スコU○SCOによる世界遺産登録問題にも見ることができるかもしれません。
 
特に今般、世界遺産に選ばれた日本の遺跡には、中国、朝鮮関連の遺跡が多いという特徴があります。朝鮮通信使のみならず、上野三碑にもこの特徴を見出せます。例えば、三碑の一つである「多胡碑」の説明では、碑文に見られる”給羊”という一文をめぐって、多胡郡を「羊」という名の中国・朝鮮系帰化人?に支配させたという解釈がなされいるようです(江戸時代に広まった多胡羊太夫伝説も影響しているかもしれない…)。ちなみに、『続日本紀』和銅四年三月六日条には、多胡郡が設置されたことについての記述は見られますが、多胡郡の支配を「羊」なる人物に任せたなどという文章はありません。”給”の文字に支配の委任を意味させるには無理があり、多胡郡は、郡という地方行政組織の一単位ですので、「郡司に任じる」という表現となっていたはずです。後にこの地方において繊維産業が盛んになった事実を思い起こしますと、朝廷には、多胡郡に羊を給付して羊毛を生産させ、毛織物を納めさせる目的があったと考えた方が自然です。また、人名であるならば、公文書における「羊」の一文字はあり得ず、官職も含めてフルネームで記載されるはずです。

仮に、羊=帰化人説の説明の下で登録されたとしますと、古代の歴史に託けて、現在の中国・朝鮮人による日本支配を正当化しようとする意図が隠されているようにも思えます。本ブログにて、再三にわたり指摘しておりますように、中国・朝鮮の背後には、スチャ○ルド家・スー○家・イズ○会を中心とした「黒いダヤ人」の国際組織があると推測されます。「黒いダヤ人」の国際組織は、歴史・文化面におきましてユ○スコを利用して工作活動を続け、着々とその支配地を日本にまで拡げようとしていると考えることができるのです。

※記事の中に著者の実名や組織の固有名称が記載されてるので伏せています。
********************************引用終了*******


多胡碑の羊動物説について1
多胡碑の碑文


背景を少し補足しますが、多胡碑の碑文には「」という文字があります。この碑文を解釈する上で、の意味が重要なポイントであり、かつ、不明点とされています。通説によれば、は渡来人を指している可能性が高いと言われています。前述記事の著者は、は動物のであり、これを渡来人と考えてしまうと渡来人(隣国人)による日本支配の事例になりうると警鐘しているわけです。私個人的な意見としては、渡来人か否かという点について検討の余地があると考えているが、動物説には無理があり、人物説を取らざるを得ないと考えています。
以下は、記事の主旨から外れているのは承知で著者に質疑応答させて貰ったメモです。著者はプロの研究者ですが素人のコメントにも回答してくださる珍しい方です。


【質疑】
碑文だけに着目すると、羊=人物説に無理があるのは御説ごもっともです。しかし、私は以下の2点から羊人物説も可能性を残しており、一方の動物説には無理があると思っていますがどうでしょうか。
①上毛野国分寺跡からは羊が先頭にある文字瓦が大量に出土している。瓦の文字は瓦の寄進者である人物名の可能性が高い。またこの手の瓦は多胡碑近くでも発見されている。
②正倉院には羊毛の織物があるが舶来です。正倉院文書でも羊毛を税として収めた記録は発見されていないはず。六国史には599年に百済から羊2頭が献上された記録があるが、それ以外の羊に関する記録は9世紀以降になる。それほど珍しい動物が8世紀初頭の地方の一郡司クラスに与えられたというのは考えにくい。

【回答】
日本に羊があったのか、なかったのかといった点は、重要であると考えられます。日本固有種はなかったかもしれませんが、6世紀の羊にとどまらず、7世紀の斉明期には、駱駝やクジャクまで、日本にもたらされておりますので、六国史に載らずとも、羊がかなり輸入されていた可能性は否定できないのではないでしょうか。駱駝は無理であったかもしれませんが、仮に、日本に羊がもたらされておりましたならば、気候的にも十分に生息できたはずであると考えられます。


著者は日本書紀という文献の設計構造を研究してきた文献史学者ですから、金石文に対する評価は、むしろ専門外と思いますが、おっしゃる事に一理ある見解だと思います。六国史の記録掲載の基準に一貫性がないのは事実であり、記録に無いからといって実績が無いとは言い切れないことは確かです。
また「」を郡司と捉えようとした時、人物名に官職名や姓(かばね)が付かないのは人物説の弱点であるのも確かです。しかし、碑文は公文書ではありません。公文書は別にあり、その内容を郡司側の人物がアピールしたい事を中心に抽出した顕彰目的の文です。


多胡碑の羊動物説について5


上の画像は碑文の内容毎に色分けしたものです。
青枠  新郡の多胡郡が従来の郡からどのように土地と住人を割譲したかを記している
黄色枠 朝廷の行政措置を承認した高官の名前が記されている
橙色枠 新郡の郡司の名と任命(?)

碑文は、文字量の配分から言っても、新郡の支配が及ぶ範囲、および、建郡を承認した高官の権威を強調したかったのは明白です。郡司の名前は便宜上記されたが主題ではない。年号日付けは碑文としての定形であって意味はありません。
もし、郡司に任命された人物の名前を強調させたかった場合は、「新郡の郡司は〇〇という人物が賜ったと記載されたはずです。しかし、其のためには一行分の追記が必要です。この碑文一面に書かれる文字数は文字の大きさを確保するためにも6行に抑えたかったと推定します。この碑の材質である牛臥砂岩は加工しやすいが、緻密で硬い材質でないため、小さな文字を刻印するには適しません。風化で文字が欠けて見えなくなる恐れがあるからです。そこで、新郡の郡司は〇〇という人物が賜った」は「羊に給う(羊に与えた=管掌を任せた」の二文字表現で省略し、文字数を抑えたと考えています。本来は「」を使うべきでしょうが、」であると役職名を記載しなければ文章として意味が通らないため、「」を使ったと思います。

多胡碑には、強い顕彰意識が込められています。短い文章の中で、支配力の及ぶ土地の権限範囲を強調し、さらに、承認した朝廷の高官名を出すことで、外部への威圧とも取れる意識のようなものを感じさせます。このような碑文の中に、例え地域産業の資源だったとしても、貰った動物の事などが唐突に記述されるのは、文章の流れとして不自然であることは否めないでしょう。また「羊」が動物であった場合、誰が貰ったのか分からない意味不明の文章になります。


群馬県における歴史研究者の中にも、多胡碑の「」は動物の羊だと主張してる研究者もいます。『東国の王者』などの著作があり、古代氏族 「上毛野氏」の研究で知られてる熊倉浩靖さんはその一人でしょう。熊倉さんの主張自体は出版物では見たことが無いのですが、群馬学のセミナーメモなどが第三者によって紹介されているので、その概略はある程度分かります。

多胡碑の羊動物説について4
熊倉浩靖教授(右端)


第三者の講義メモからの引用なので、断片的な表現で正確でない部分もあると思いますが、熊倉氏の「羊」動物説の根拠は以下のようなものらしい。

多胡碑の碑文の「給羊」は「羊に与えた」という意味ではなく、文法的にも「羊を貰った」と解釈すべきである。
羊人名説の根拠は付近で発見された文字瓦に記された「羊子三」の文字であるが、これは現在では「辛」であると認定されている。従って碑文の「羊」とは関係が無く、「羊」を人名と見る必要はない。続日本766年に「上野国在住の新羅人午足193人吉井の姓を与える」いう記録に見える子午足」達は、動物の羊を飼育していたと推定が可能
子午足(後の吉井連)は羊を給わったが、飼育には失敗したと推定される。朝廷羊毛産業を推進するために下毛野国にも羊を給わった可能性があり、三毳(みかも)地区では羊毛から毛氈が作られていた可能性がある。多胡郡で当初は羊毛の産地として氈の生産を目論んだと推定できる。
6世紀において、下毛野国で「計牟志呂(けむしろ)」という毛織物を織った記録があり、この布は「之母都家野加毛志加(しもつけのかもしか)」とも書かれていた。使ったのは牛科の羚羊(れいよう)であり、欽明天皇に日本初毛織物を献上している。
推古7年(599年)の日本書紀の記録に、百済が駱駝1匹、驢馬1匹、羊2頭、白い雉1羽を献上してきた」とあるが、献上の羊は雄雌の可能性があり、多胡郡に与えられたのも繁殖を意図して同様であった可能性がある。また、弘仁11年(820年)の日本後紀にも「新羅の李長行が天皇に羊2頭、山羊1頭などを献上した」と記録されてる。


熊倉説の根拠のうち、については説得力のあるものだと思いますが、吉井町黒熊で発見された瓦が「辛小三」だとしても、「」は「」の異体字の可能性もあり、羊と無関係とは言い切れない。また上毛野国分寺出土の大量の文字瓦には、書体が異なる「𢆉」文字があり、この文字は確実に「羊」の異体字です。日々の作業で使う文字は簡略形で使う場合が多いと想定されます。従って、熊倉氏は多くの「𢆉=」文字瓦の成因を説明しなければならないでしょう。


多胡碑の羊動物説について2
上毛野国分寺出土の布目文字瓦


の根拠については出典文献が不明です。探してみたが検出できていない。がもし三毳(みかも)という地名文字からの推定だとすると根拠に乏しい。みかもの表記漢字「毳(むくげ)」は毛野(ケヌ)から来ている可能性もある。その場合の「毛」は毛人(蝦夷の古代呼称)やイネ科植物を指すという説もある。また栃木県の三毳(みかも)は山名であり、群馬県の御荷鉾(みかぼ)と同じく「御神(みかみ)」の音変化の可能性があると思います。
の毛氈については出典文献が分からないので具体的に反論しにくいが、下野国でが生産された記録はあったとしても、は他国で羊以外の獣毛で生産されており、根拠とはならない。
では、計牟志呂(けむしろ)の材料にした獣毛は面羊ではなく羚羊(れいよう)とありますから、奈良時代以前の事だとすれば、現在の山羊(やぎ)の毛にあたります。ニホンカモシカは奈良時代には 氈鹿(かましし)と呼ばれていました。
ニホンカモシカが羚羊零羊などと表記されるようになったのは、平安時代になって延喜式本草和名で統一されてからだと云われている。表記法の変化のきっかけは弘仁年間(810~824年)に山羊が渡来輸入されて呼称の整理があったと考えられているようです。もしも6世紀の欽明天皇に献上されたのが事実とすれば山羊の毛織物になる。
一方、熊倉氏の説明には、之母都家野加毛志加(しもつけのかもしか)との引用がありますので、彼は奈良時代元年とも言える711年の出来事の証明に、100年以上も下る平安時代の産業を持ち出している可能性もある。何れにしても、羊毛以外の織物をいくら例証しても牧羊証明にはなり得ないと思います。何故なら、問題としてるのは織物産業があったかどうかではなくて、西暦711年に動物の「がいたかどうかを議論してるのですから。

過去の記事でも触れていますが、正倉院宝物の中のに以下のような記載があります。
①調布墨書銘     「上毛野国多古郡八田郷 上毛野朝臣甥
②楷布屏風袋墨書銘  「上野国多胡郡山那郷  戸主秦人 高麻呂  庸布一段」

調布とは租税の租庸調のうち、その土地の特産物を納める調(みつき)です。調は郡毎に決められていたはずです。つまり多胡郡の特産物が調布絹織物)であるのは確定的です。楷布屏風平絹を張った屏風(びょうぶ)です。いずれも絹の生産なしには租税として納められないと考えます。この点からも、当時、山羊などの毛織物が無いとは言いませんが、租税になりうる産業であったとは思えない。主力産業は絹織物であったはずです。従って、羊=動物説には無理があります。その他の項目は自分も既知であり、反論は過去記事「多胡の羊(2)」の中で記載している。



最後に前述の文献史研究者と熊倉説の中にある羊の繁殖試行に対する感想、見解を述べておきます。

近代の羊の品種はスペイン原産のメリノー種が7割以上を占めています。牧畜が盛んな中国北西部、オーストラリアの羊もメリノー種です。この羊は羊毛の質は良いが体質的に弱いと言われてる。特に湿潤な気候風土には弱いらしく、日本では明治時代になっても羊の牧畜による羊毛生産には失敗しており、輸入した400頭以上が全て病死しています。現代ではニュージーランドのコリデール種など湿潤気候にも適応した品種が開発されているので、日本の観光牧場で飼育されてるのもコリデール種です。


多胡碑の羊動物説について3
左メリノー、右リデール種(角がない)


しかし、6~8世紀の時代に入手出来たのは中央アジアの羊でしょうから、冷涼乾燥に適応しており、日本の気候風土に馴染めなかったと思われます。朝鮮半島の中世文献には羊を2000頭輸入したという記録があるようだが、逆に考えれば、自然繁殖が難しく、輸入しないと頭数が確保できなかったと考える事もできます。朝鮮半島北部の冬は北海道並に過酷ですが、それ以外の季節は日本と大差ありません。また、羊という動物は群れる性質が非常に強く、少数飼育では大きなストレスが掛かって長生きしません。6~8世紀の時代に半島からの献上品や輸入を行っていたとしても、数頭では長くは生息できなかったと思われます。それでも朝廷は何とか成功させたくて試行した可能性は否定できませんが、繁殖させ、羊毛を生産して国庫に収めた可能性は非常に低いでしょう。

ただ、前述したように、問題なのは織物産業の有無ではなく羊の存在です。当時の羊の環境適応性に関する評価は否定的であっても、短期の生存が不可能な訳ではない。711年の建郡当時の羊の存在を完全に否定することはできません。
念の為、考古学発掘で羊の骨の出土例があるか調べてみたが、奈良時代以前の遺跡で、馬、牛骨の出土はあっても、羊の検出例はありませんでした。ただ、考古学発掘では、確率的に考えても希少な羊の存在を判定する材料にはならないことは確かです。





日本史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



Comment







管理者にだけ表示を許可