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東国の古代史

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2019-08-15 (Thu)  09:33

上毛野氏とは何者か?(2/8) -武蔵国造の乱②-

(1)小杵の南武蔵拠点説について
使主の拠点は行田市のさきたま古墳群地域、または、5Km程離れた鴻巣市の笠原地域である可能性が高いと云われている。しかし、小杵の拠点は武蔵北部の比企説南武蔵説があります。比企地方は現在の東松山市周辺、南武蔵は東京~横浜地域を含む多摩川流域になります。

上毛野氏とは何者か1
関係者の配置図クリック拡大


まずこの点から評価していきますが、該当地域の古墳の変遷に着目するのが確実かと思います。南武蔵と北武蔵の大型古墳の変遷を時代別に配置して以下の表に整理しました。ただ、この地域の古墳は調査されていない古墳も多く、築造時代が明確でないものもある。従って、精度はそれほど高いとは言えないが、傾向はつかめると思います。


上毛野氏とは何者か2
南北武蔵古墳の時代変遷(セル内は古墳名、数字は墳丘長)
クリック拡大


表を見ると、南武蔵の大型古墳は5世紀中葉までに完全に衰退しています。南武蔵においては、武蔵国造の乱の時期には40m程度の瀬戸ヶ谷古墳しかない。5世紀の畿内大王の古墳築造統制に従ったものだと思います。ただし、首長が規制を受けたのであって、決して住民がいなくなった訳ではない。それに対して北武蔵の古墳は5世紀末に南部と入れ替わるように突然に行田稲荷山古墳から始まり、7世紀に至るまで中~大型古墳の築造が続きます。これを見る限り、小杵が南武蔵を拠点にしていたと見るのは難しくなります。仮にも国造を狙う力を持っていた訳ですから、小杵の一族は力を持っていたと推定できます。しかし、南武蔵には西暦450年以降は小規模な古墳が存在するだけです。従って小杵は比企郡地域を拠点としていたと考えるほうが自然です。使主小杵を倒して武蔵全域を掌握できた結果、武蔵南部から屯倉を差し出したと判断します。
小杵は誅殺されても古墳築造が許されたのか分かりませんが、比企地域では6世紀前半には大型古墳はない。前半にはおくま山甲山、後半はトウカン山古があるが、何れも規模はあまり大きくない。
仮に上毛野君小熊に支援を頼んだのが事実とすれば、比企説は距離的には考えやすい。小熊は群馬県西南部の藤岡市付近にいたとすれば、直線距離は30Km程度。もしも前橋の大室古墳群ならば約40Kmくらい離れている。
使主の拠点は通説どおり、行田古墳群に近い鴻巣市の笠原地域だと思います。使主はおそらく5世紀中葉に畿内から派遣されてきた物部氏自身か、物部同族ではないかと推定しています。でなければ、大型古墳が一斉に消滅する時代に僅かに築造された大型古墳の出現が北武蔵であったことを説明できない。これについては、別稿豪族居館・水祭祀の発祥(3~4)で詳細に記載している。古い地方在住氏族であれば南武蔵と同じ運命にあったと思います。
ただ群馬県の場合とは違い、布留物部ではなく、河内物部など本拠地の異なる物部氏の可能性があります。笠原氏のカバネ「(あたい)」は大和王権に従属した地方の氏族に与えられたカバネです。成立したのは5世紀で特に国造が賜るケースが多い。

【補足1】
前述の表は関東だけで見てしまうと単に南北地域の勢力闘争の結果と見えてしまうが、大型古墳の衰退は関東だけではなく、全国的な現象です。
弥生時代末期から古墳時代前期において、地方独特な形の墳墓はゆっくりと前方後円墳という共通の葬送儀礼に変化していきます。例えば東国であれば各地域で時差はあるものの、弥生墳丘墓から前方後方墳に変化し、それも1~2代で前方後円墳に変わって統一されるケースが多い。この現象は、地域首長のゆるい同盟関係、言い換えると精神的紐帯の上に成り立つ前方後円墳同盟を想定しないと説明しづらいと考えている。軍事力を背景にした全国的な統制が古墳時代前期に達成できていたとは到底思えないからです。
一つの例証として、九州筑紫の磐井君の墳墓が上げられる。磐井一族は後に磐井戦争を起こすくらいですから、畿内政権には相当な不満を持っていたはずです。しかし、筑後国風土記によると彼の墳墓である岩戸山古墳は生前に造られたという。もし、政権が墳墓の形態まで強制するような支配であったら磐井は前方後円墳など造らなかったでしょう。言い換えれば、当時の墳形は全国的な首長の精神的紐帯によって自主共通的に決められていたと考えられます。すでに共通の葬送文化として浸透していた結果です。
しかし、古墳時代中期初頭には大古墳が突然に消滅しはじめる。この変化は全国的に殆ど時差がありません。現象は地域首長の自粛とは考えにくい。大型古墳は首長の権力の象徴でもあったはずです。西暦400年頃、古墳時代前期初頭において、幾つかの大首長はまだ全国制覇の可能性を残した勢力であったと考えられるが、ゆるい同盟という制約の中で象徴文化を捨てるとは考えられない。
大型古墳の築造が九州から東北まで、畿内を除外して停止したのは、畿内勢力が広域地方首長同盟の協定を裏切り、急速に集権化を推し進めたと考えるのが自然です。つまり旧同盟は解体され、新たな枠組みが軍事力を背景に達成されたと考えられる。もし権力が横並びであるなら、畿内だけに巨大古墳の築造が続くことを說明できるだろうか。実際に軍事力を行使したのは畿内の反抗勢力と吉備・出雲地方に限られたと思われるが、威嚇行使は全国的に行われた可能性がある。

【補足2】
巨大古墳が消滅した後の5世紀中葉~後半の大型古墳は畿内を含めて非常に少ない。数少ない古墳埋葬者は政権から何らかの任務を負っていた人物か、政権と強い繋がりを持っていた人物と考えられる。金錯銘鉄剣で有名なさきたま古墳群行田稲荷山古墳を築造した氏族は、物部氏と見ているが、武蔵国の統治と上毛野国の東毛勢力牽制のために畿内から派遣された氏族だと思います武蔵国造の乱の登場者である使主小杵はその子孫であると考えている。さきたま古墳群太田天神山古墳を頂点とする群馬県の東毛勢力とは利根川を挟んで近い位置にあります。距離的には群馬県の西部勢力の拠点よりもずっと近い。

【補足3】
6世紀代に限ると、北関東地域と南武蔵には大きな違いがある。上毛野を含む北関東では5世紀中葉に一気に古墳は小型化するが、6世紀中葉に入ると再び大型するものがあり、中大型が混在する傾向がある。大型といっても最大140m程度で、5世紀のような200m近い巨大古墳はない。多くは70~110m程度の前方後円墳である。一方の南武蔵は、6世紀に入っても大型の古墳が作られることはなく、中小型古墳だけになる。理由は不明だが、地域の氏族勢力盛衰や畿内政権との関係性が影響しているのではないかと思う。


(2)上毛野君小熊の出自
問題は小熊が争乱に介入したのかという点ですが、結論に向かう前に上毛野氏の出自伝承に触れておく必要がある。上毛野氏は、三輪山を信仰する三輪氏の流れをくむ氏族と考えます。三輪山は奈良盆地の東南部になります。別名御諸山(みもろさん)とも呼ばれているが、この名は上毛野氏の始祖の名にも現れます。上毛野の名を冠するのは東国との接点を持ったためと思うが、移住する以前の時点で何と呼ばれていたのか分からない。下の地図では仮りにプレ上毛野氏と記載している。
ただし、三輪氏とは真の血縁的同族かというと、そうとも言えない気がします。恐らく大阪湾岸、和泉地方に展開していた三輪氏と地縁によって同族化(正確には三輪山信仰の受け入れ)を行ったのではないかと思っている。いわゆる擬制氏族というものです。これについては、後続稿でも触れる予定です。


上毛野氏とは何者か22
三輪氏とプレ上毛野氏の分布推定クリック拡大



上毛野氏の始祖伝承系譜を以下に示します。

上毛野氏とは何者か3

広義の上毛野氏というのは非常に多くの氏族の集合体として構成されています。宗家に限定すれば系譜の始祖は豊城入彦命になりますが、同じ上毛野氏でもグループ化されており、八綱田彦狭島御諸別荒田別・・・と系譜を追って始祖としている。これが真の血統であるなら意味がないのですが、氏族系譜というのは血縁とは無縁のものであり、系譜の上位に繋がるほど尊貴な位置付けになる傾向がある。氏族の中で階級化があるということです。また渡来系集団も同族化されていますが、八綱田命を始祖とするグループは渡来系と言われている。

始祖の名前に着目すると、豊城入彦命イリ御諸別あたりはワケが入っています。豊城入彦イリ王朝(三輪王朝)、御諸別~荒田別ワケ王朝(河内王朝)時代の人物ということになる。なお、王朝という言葉を使いましたが、私の捉え方は政権であって、敵対的な王朝を意味していません。上毛野氏の祖先系譜は他氏族と同様に架空人格の架上ですが、初期の氏族形成期が5世紀初頭と判断することは可能です。始祖の中にワケが多いのは上毛野氏河内王朝河内政権)の大王と繋がりが深いことを示している。居住地域も、紀伊北部から和泉、茅渟といった大阪湾岸地域が多い。始祖系譜の中に荒田別が現れていますが、この名称は紀伊地域の荒田神社に痕跡があります。また、三輪氏が居住していたと云われる茅渟の県陶邑には陶荒田神社が存在する。

また上毛野氏は軍事氏族としての性格を帯びていたようで、5世紀代には朝鮮半島への出兵にも関わった記録がある。渡来系が後に同族化するのは、戦時捕虜などを連れ帰ったことが原因かも知れませんが、書紀の記述は誇張の可能性が高いので単純に信用はできません。7世紀後半の朝鮮半島への出兵実績が過去に反映されている可能性も十分にあります。
ただ、古くから軍事的な性格を持つのは確かです。6世紀初頭には東北地方への出兵や経営の任務を帯びて上毛野下毛野地方と関係を持つようになったと思われます。上毛野氏の活動を支える部曲(かきべ)の設置も多かったでしょう。それらの管掌は、大阪湾岸で地縁のある渡来系氏族が担っており、関東地方にいっしょに入植しているようです。やがてこれらの渡来系氏族も上毛野氏同族として擬制氏族化していきます。重要な点ですが、東国への移住は氏族独自に決められた訳ではなく、上毛野氏宗家も含めて朝廷の東北経営政策に従ったものだと思います。

話を上毛野君小熊に戻しますが、彼は氏族の初期の移住者であり、上毛野国への移住は、西暦500~525年くらいと推定します。この時代はまだ継体天皇の御代になります。小熊は生年も没年も不明ですが、墓所の可能性があると云われてる藤岡市七輿山古墳だとすれば、築造形態から没年は西暦540~550年頃と思います。大室古墳群の前二子山古墳も可能性があるが、6世紀初頭の築造推定が正しいとすると、小熊に当てるのは無理がある。




次回に続く




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