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2019-09-05 (Thu)  18:00

上毛野氏とは何者か?(4/8) -諸資料から見える氏族の痕跡-

(1)上毛野氏の人物痕跡
古代の群馬県に上毛野氏が居住していたのは確かだが、その痕跡は希薄と言わざるを得ない。文献や金石文等で散見される上毛野氏の記録を以下の表に纏めてみた。ピックアップしたのは上毛野に居住しているか、上毛野から畿内に出仕してるのが確実なケースだけです。なお、金石文の人物出自は可能性はあるものの、100%確実なものではありません。


上毛野氏とは何者か5
上毛野氏の地方人物一覧(クリック拡大


人物属性では、全部で12名が確認できますが、確実な本流上毛野氏はたったの4名です。しかも4名のうち1人は上毛野君小熊ですから、実在性はあると考えていますが、100%とは言いきれない。そもそも6世紀代の小熊が「上毛野氏」と呼ばれていた可能性はないと思う。ウジ呼称が定着したのは氏族形成が進んだ7世紀中葉以降ではないだろうか。その他の人物は、物部系、渡来系氏族から擬制同族化した人たちです。
本流で人物像が分かるのは以下の2名だけです。

①勢多郡少領  外従五位下 上毛野朝臣足人
②多古郡八田郷 官位不明 上毛野朝臣甥

上毛野朝臣足人少領とは郡司の副官です。おそらく郡司も親族であったのでしょう。外従五位下は地方官としてはトップクラスの官位ですが、外位は地方官人の官位ですから、禄は宮中内位より少ないはずです。でも記録は国分寺創建時の寄進に対する報償ですから、貴重な瓦などを寄付できる余裕があったことは確かです。
また、この記録のおかげで本来の上毛野氏が勢多郡域に居住していたことが分かります。足人は8世紀中葉の人物ですが、この地域に代々住んでいたとすれば、6世紀代の大室古墳群上毛野氏の初期奥津城の可能性がある。群馬県西部は榛名山浅間山の噴火による自然災害が多かった。暴れ川である利根川とも離れた中毛地域の赤城山麓を選んだのかも知れない。墓域の特定は彼らの移住時代を考える上で非常に重要です。大室古墳群であれば、移住期は6世紀初頭の可能性が高まります。全て横穴式古墳ですが、石室は畿内型を採用しています。


上毛野氏とは何者か6
大室古墳群初代 前二子古墳石室(6世紀初頭築造)


本来の上毛野氏が赤城山の麓にあたる勢多郡を本貫地としていたのは、三輪氏が三輪山の大神信仰を持っていたように、赤城山を信仰の対象にしていたせいでしょう。平安時代の神道集をみると赤城山信仰が盛んであったことが伺えます。現代は、三夜沢赤城神社が有名ですが、本来は前橋市の二宮赤城神社が本社という説が有力です。二宮町は勢多郡域の南端にあたります。
朝倉君は、書紀大化2年3月条の国司不正事件の際に殊勝であると褒められている。実在は確かです。ただ、上毛野君本流氏族なのか文献からは確認できません。しかし、那波郡朝倉郷(現在の前橋市文京町)には、天川二子山古墳104mがあり、築造は6世紀中葉です。地域、古墳サイズ、時代から判断して上毛野氏以外は考えにくい。大室古墳群よりも大型であり、権力があったと推定できます。

上毛野氏とは何者か25
前橋市文京町の天川二子山古墳(wikiより)


なお定説として、前橋市の総社古墳群も上毛野氏の8世紀の墓域説がありますが、榛名山麓から西に移動した物部氏の可能性もあります。総社古墳郡の石室をみれば氏族の繁栄状況は確実ですが、8世紀は本来の上毛野氏よりも物部系氏族のほうが優勢となっている。これは物部氏が上毛野氏と拮抗していた訳ではなく、上毛野氏の主流が畿内に戻って行き、物部氏(石上部氏)を中心とする擬制氏族が空白を埋めたと見たほうが正確です。ただ地方に残った上毛野氏自体は、奥津城は勢多郡域でも住居は国府付近にあったと思います。

上毛野朝臣甥は正倉院宝物の調布墨書銘に現れる人物です。多古郡八田郷とは、多胡郡矢田郷のことです。は朝臣を賜姓されています。畿内居住なら渡来田辺史系も考えられるが、上毛野国にいるので、本来の上毛野氏であるが、傍系人物の可能性が高いと思います。足人と同様に官位を持っていたと思うが、調布墨書銘なので省略されたのでしょう。調布調(みつき)ですから、多胡郡で税を管理していた官人であるかも知れません。居住地は多胡郡矢田郷になっていますが、本来の家ではなく、郡領として多胡郡正庁で勤務するための仮住まいとも考えられる。

石上部氏が4名見えるが、名前からも推察できる物部氏です。上毛野氏とは同族関係を持った擬制氏族です。大宝元年(701年)には登与という人物が上毛野坂本君登与の名を賜る。他の2名、上毛野坂本朝臣男嶋上毛野坂本朝臣黒益は767年に朝臣を賜っている。おそらく登与の子孫でしょう。男嶋の出身は碓氷郡坂本郷(横川)ですが、宮廷にずっと出仕している。賜姓も含めて官位上昇の記録が5回もあります。官位評定は4年に一回ですから、少なくとも20年以上は畿内で暮らしている訳です。
石上部君諸弟は国分寺へのに知識物献上で749年に、前述した上毛野朝臣足人と共に褒賞記録がある。同じ石上部氏であるが、上毛野君、上毛野坂本朝臣などの名を賜っていないので、坂本郷ではなく磯部郷の物部氏かも知れません。本流の上毛野氏との婚姻関係の有無等で同じ石上部氏でも賜姓の有無があるようです。

官位が一番高いのは称徳天皇の采女(うねめ)として仕え、従五位上まで出世した檜前部老刀自(ひのくまべおいとじ)という人物です。采女は郡司の姉妹、娘の中から美人を選んで採用した官人です。称徳天皇に重用された采女として有名です。この人物も晩年は佐位郡(伊勢崎市)に戻っていると考えるが、父か兄弟が郡司であったのは確実です。檜前部君は渡来系と見られているが、後に上毛野佐位朝臣の名を賜る。


赤堀茶臼山古墳9
檜前部老刀自の親族墓の可能性が高い多田山12号墳
(老刀自が追葬されている可能性あり)


赤堀茶臼山古墳8
多田山12号墳出土の唐三彩陶枕
(称徳天皇から下賜された可能性がある)

山上碑金井沢碑に出てくる氏族については過去記事で詳しく述べてるので割愛します。
なお、人物一覧に国司は含めていません。国司は二年の任期がある朝廷の官人ですから、地方在住者とは違います。上毛野氏の中で同国に赴任した国司は上毛野朝臣馬長ただ一人です。本来の上毛野氏と見るが畿内居住は確実です。上毛野国司を六国史から抽出してみると色々な氏族の名が現れます。


上毛野氏の在地居住者の記録が少ないのは、以下のような理由によるものと推定します。
①上毛野氏を統率した主要な人物は、地方経営が軌道に乗ると、畿内に戻り、朝廷に出仕することが多かった。
上毛野氏宗家嫡流は、東北への出兵で赴任して来る時以外は、上毛野に長期常駐することはなかった。
③地方に残った上毛野氏は、宮廷出仕者よりも賜姓機会や昇進回数も少なく、記録される頻度が低い。
④上毛野氏でも、のちに同族化した氏族の中には、朝廷移民政策によって東北地方に移住させられた。

一番の大きな要因は①であると思います。経営統治が安定した結果、活躍の場を畿内の宮廷に求めたと見ます。地方にいては出世するチャンスが乏しかったのではないか。④の東北移住は吉弥侯部氏(きみこべし)など上毛野氏の部民が六国史に記録されている。彼らの移住は自らの意志ではなく、氏上や朝廷の指示があったと考えられます。
このように上毛野国出身者の人物痕跡が薄いのは、この地域が朝廷から与えられた部民が多くを占めたことを物語っている。本来の上毛野氏は一握りであったと思います。


(2)上毛野国の郷名から類推する居住氏族
人物属性以外では、郷名と神名から氏族の存在を推定できるものもあります。しかし、これらの証拠を見る前に、上毛野氏を構成する氏族の候補を知っておく必要がある。六国史には該当する氏族名の記録がありますが、その名称は居住地域名から発生したことが推定される。そこでまず文献に現れる関係氏族を以下に記載します。

①『日本書紀』天武天皇13年(684年)11月条
八色の姓において、朝臣の姓を授けられた52氏の中に、上毛野君下毛野君車持君佐味大野君池田君の六氏の名が見えるが、六氏が上毛野氏同族であるとは書かれてはいない。

②『続日本紀』桓武天皇延暦10年(791年)4月条
池原公綱主らの言の中に、池原氏上毛野氏のニ氏の出自は豊城入彦命であること、豊城入彦命の子孫には「東国六腹朝臣」がいて東国の居地によって氏姓を得たことが記載されている。しかし六腹がどの氏族を指すのか明記されていない。

③新撰姓氏録 弘仁6年(815年)
以下記述があり、上毛野氏始祖系譜と併せて判断すれば、六氏は同族と見られる。
右京 上毛野朝臣  崇神天皇皇子の豊城入彦命の後
左京 下毛野朝臣  崇神天皇皇子の豊城入彦命の後
右京 大野朝臣   豊城入彦命四世孫の大荒田別命の後
左京 池田朝臣   上毛野朝臣同祖。豊城入彦命十世孫の佐太公の後
右京 佐味朝臣   上毛野朝臣同祖。豊城入彦命の後
左京 車持公    上毛野朝臣同祖。豊城入彦命八世孫の射狭君の後

④『日本三代実録』元慶元年(877年)12月25日条
上毛野、大野、池田、佐味、車持の各朝臣は崇神天皇の後裔であり、同祖だと記載される。


この他にも同族と判断できる氏族名はあるが省略します。纏めると、始祖関係が明記されてる新撰姓氏録の六氏が中心であるのは、他記述と併せて間違いないようです。なお、上毛野氏を構成する氏族のうち畿内にしか居住していないと判断できる氏族(池原公田辺史等)は除外してあります。

一方、和名類聚抄、上毛野国神名帳から抽出される郷名(郡名)や神名から抽出したのが以下の表です。

上毛野氏とは何者か7
上毛野氏と関連が推定できる郷名と神名クリック拡大


前述した上毛野氏の構成氏族名と和名類聚抄の郷名・郡名から判断すると、朝倉君池田君佐味君有馬君大野君の5氏族が居住候補には上げられる。しかし、池田郷大野郷は全国に数多く存在します。池田郷は群馬での数の多さから可能性はあると思いますが、桐生の大野郷大野君との関連を考えるのは無理がある。具体的な人格記録はなく、時代と郡域の合う古墳は中塚古墳一基しかないからです。有馬君の畿内居住は確実です。群馬居住が確実なのは、朝倉君佐味君佐位朝臣檜前部君の3氏族だけかも知れません。

神名や神社では、車持君有馬君との関連が指摘されているが、両者とも在地の人物記録もないし、神格の低い神社があるのみで痕跡としては希薄です。前述してるが有馬君(公)は畿内の氏族であり上毛野との接点は無いと思います。一般に上毛野を車持氏の出身地のごとく記載してる情報ソースが多いが、本拠地は摂津です。車持氏は車持部の伴造氏族として西国、東国に広く展開している。上毛野氏と始祖伝承を共有しており、居住を否定はすることはできないが、車持部の管掌者がいたレベルでしょう。貴族階級の車持君が居たとは思えない。車持君の存在が否定的なのは、群馬郡域には該当する有力古墳がないからです。保渡田古墳群車持君の墓所とする説もありますが、5世紀代中葉~後半の古墳です。可能性はありません。また、藤原朝臣不比等の母、車持君与志古娘(よしこのいらつめ)が上毛野出身と云う説もありますが根拠がない。やはり摂津の車持氏の本拠地と思います。そもそも大王の輿を造る職掌から始まった氏族です。後に氏族中核は朝廷官吏に変容していくが、本拠地が遠隔の地方であるというのは無理がある。職掌を担う対価として車持部を上毛野に給わったと見るのが自然です。氏上の所在する本拠地と、氏族が賜った車持を一緒くたにするのは疑問です。

なお、本来の上毛野氏の祭神は赤城山(赤城明神)であると思われるが、「赤城」という名称が上毛野氏の伝承の中に現れないので表の中には載せていない。赤城神社は、上毛野氏の痕跡とされているが、関東地方とその近在には赤城神社は非常に多い。残存するものだけで以下の神社があります。
・群馬県..... 118社  ・栃木県........  9社   ・新潟県........13社
・埼玉県........23社  ・茨城県........10社   ・福島県........11社

その他を合わせて計191社あり、合併又は廃社を併せると334社あるそうです。これらが全て8~10世紀まで遡るとは思えません。殆どが中世~江戸期の分社でしょう。ただ、赤城神社以外にも上毛野氏の始祖を祀っている神社に、栃木県二荒山神社、青森県猿賀神社など幾つかあります。関東以北に分散していることは確かです。
上毛野氏は8世中葉には宗家嫡流は衰退し、擬制氏族に置き換わっていきますが、同族化した氏族も信仰的には統一されていた可能性が高い。神社、祭神がみな上毛野氏の足跡とは言い切れないが、福島にある神社などは創建を調べてみる必要があります。
720年には東北地方の行政官であった上毛野朝臣広人が蝦夷に殺害されていますし、大野朝臣東人の実績もあるので東北統治に関わったのは事実です。8世紀も中葉までは軍事的な平定が盛んだったようだが、8世紀末期に入ると、行政統治の時代に入っていたように思えます。この時代には本来の上毛野氏を核にして増大した擬制氏族が関東・東北地方に入植していったと見ています。この過程で信仰の痕跡も広がりを持ったのでしょう。




次回に続く



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No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんにちは。大野東人も上毛野氏だったのですね。多賀城碑にその名がありますね。旧勢多郡新里村にある、「山上多重塔」の碑文、「為□無間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」は、切実な叫びだったのですね。

Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

大野東人は桐生の山田郡、または、栃木県那須郡大野邑の人とい説はあるのですが残念ながら最近では否定的です。本稿の次稿ではもう少し触れていますが、壬申の乱で、大野果安と田辺史は大友皇子側に付いて参戦しました。敗戦すると、大野氏と田辺史は天武天皇から東北出兵のペナルティを得ます。その過程で上毛野氏と行動をともにしたことが縁で同族化したという説が有力です。東人は果安の息子ですから、東北出兵に関わらざるを得なかったようです。でも才覚を発揮してその後も軍人として活躍しますね。創作された系譜をみると下毛野君と同族化してるので、書紀に現れる上毛野田道の子孫ということになってます。推定ですが、実態は紀伊または大阪湾岸出身氏族と思います。あるいは、田辺史と行動をともにするので同じ渡来系かもしれません。
山上多重塔のことはよく知らなかったのですが、随分古い金石文ですね。是非、本物を見に行きたいと思います。大室古墳群とは北へ5kmしか離れていないです。

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。懇切丁寧なご教示ありがとうございます。山上多重塔は、上野三碑につぐ、第四の碑ということで、群馬県立歴史博物館の常設展会場に上野三碑とともにレプリカがあります。国宝だった時代もあったといいますけど、地元の人達は、その存在をあまり気にしていないようです。

Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私が書いてる上毛野氏の記事は、どちらかと云えば一般的に知られている定説とは異なります。nonokomamaさんもご存知と思いますが、上毛野氏を地方出身者と考える研究者はまだ多いようです。そういった方は東毛の大型古墳も上毛野氏のものと見ていますし、細かい人物単位の話も影響を受けています。従って私の説明も一つの説に過ぎないという事は、お伝えしておきます。

確かに私も山上多重塔の名前は知っていましたが、どこにあるのか知りませんでした。昨日、以下の5地点をgoogleで調べて地図に転記し、訪問準備完了しました。私は近隣の見学は全て自転車でこなすので、アナログなんです。(笑)
山上多重塔       桐生市新里町山上2555
天神古墳        桐生市新里町小林60-1
中塚古墳        桐生市新里町新川2592
武井廃寺塔跡      桐生市新里町武井598
善昌寺の新田義貞公首塚 桐生市新里町新川2728

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。
天神古墳は新里中央小学校の校庭の北の隅にあります。
一応公園風になってますけど、校庭なので「無断立ち入り禁止」みたいな立て札があったと思います。
誰も文句を言う人はいませんが、それがなければ、いい雰囲気だったと思います。
善昌寺の新田義貞の首塚には、新田郡出身者の私には、とても抵抗感があります。
善昌寺にはちょっと目立たないところに(本堂を通って内庭に)、弁天様か薬師様を祀る石宮のようなものがありました。古墳ではないかと思いました。ちょっと記憶があいまいですけど。


Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

小学校の校庭ですか。そう云えば、高崎市八幡小学校の庭にある古墳を見学してて不審者と間違われたことがありますね。挨拶してから入りますよ。新田義貞は確か福井で戦死でしたね。墓も福井のはずです。ただ御首は検分のため京都へ送られたんじゃなかったかな?悪源太義平と同じパターンで首を奪ったという伝承があるのでしょうが、どうなんですかね?私は新田源氏が好きなので、関係する史跡は出来る限り見るようにしてます。天気が良くないので、何日か先になりそうです。

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。
過去の記事を探すのはなかなか大変ですね。
善昌寺の石宮の弁天様の記事は、FC2ブログ2017年8月31日の記事の後半にありました。
メインの記事ではなかったので、題名等にはありませんでした。
御朱印の日付でやっとみつけました。
まあ、とにかく古墳だらけの村だったようです。
新田の人間には、義貞の首塚は、やっぱり勾当内侍の花見塚(旧新田郡尾島町)です。
史実はどうかわかりませんけど。

Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私は善昌寺の首塚が、勾当内侍が奪いとった首を埋葬したものと思っていましたが、別に首塚があるのですね。尾島町のほうですか。実は、おおたんの観光マップで回っているのですが、花見塚は掲載されていないので見落としていました(笑)。時間に余裕があれば回りたいが、いっぺんには無理かな。花見塚には勾当内侍の墓もあるみたいですね。それにしても、新田義重の娘が、夫義平の首を京の三条河原から家臣に奪わせた話と全く同じですね。それだけ義貞が地元の人に愛されていたということでしょう。確か金山城付近には義貞の供養塔もありましたね。新田義貞の居館跡と伝えられるのは、太田市の明王院安養寺の境内ですから、首塚が尾島町というのは至極当然という気がします。直ぐ近くですね。逆に、桐生の善昌寺にもあるのは何か訳がありそうですが、経緯を調べる楽しみができました。ありがとうございます。

No title * by nonokomama(samanthahonami)
こんばんは。
新里では、船田善昌が義貞の首を持ってきたとか、船田善昌は高齢なので戦線離脱して善昌寺に居るところに、桃井某が首を届けたという話になっています。桃井某はその後切腹したということで、桃井塚なるものも存在します。
花見塚の方には新田義貞だけでなく、南朝の話も付いてます。花見塚にある花見塚神社には菊の紋章があったと思います。新里の方には、南朝の話はないようです。
世良田の毛呂権蔵は、善昌寺で聞かされた話を納得しませんでした(『上野国誌』)。毛呂家は船田善昌館跡なのだそうです。
不思議な事に、新里の奥沢から流れ出した早川が、花見塚の脇を流れています。



Re: No title * by 形名
nonokomamaさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

なるほど、妻である勾当内侍系と、義貞の家臣(執事)系の伝承で分かれているわけですね。桐生市のホームページには善昌寺は船田善昌の縁で名前を変えたとありました。新田氏も決して一枚岩ではないし、家臣家も含めれば、尚更でしょう。本来、詐称の意識はなくとも、民衆の誤解や想像が、時を経ていつしか事実と伝承されるようになる場合もありますからね。特に有名な人物で、普通の死に方でない場合は尾ひれが付きやすい。歴史を創作してはいけないが、より身近に墓を置きたいという思いは理解できますね。

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こんにちは。大野東人も上毛野氏だったのですね。多賀城碑にその名がありますね。旧勢多郡新里村にある、「山上多重塔」の碑文、「為□無間 受苦衆生 永得安楽 令登彼岸」は、切実な叫びだったのですね。
2019-09-15-16:55 * nonokomama(samanthahonami) [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No title

nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

大野東人は桐生の山田郡、または、栃木県那須郡大野邑の人とい説はあるのですが残念ながら最近では否定的です。本稿の次稿ではもう少し触れていますが、壬申の乱で、大野果安と田辺史は大友皇子側に付いて参戦しました。敗戦すると、大野氏と田辺史は天武天皇から東北出兵のペナルティを得ます。その過程で上毛野氏と行動をともにしたことが縁で同族化したという説が有力です。東人は果安の息子ですから、東北出兵に関わらざるを得なかったようです。でも才覚を発揮してその後も軍人として活躍しますね。創作された系譜をみると下毛野君と同族化してるので、書紀に現れる上毛野田道の子孫ということになってます。推定ですが、実態は紀伊または大阪湾岸出身氏族と思います。あるいは、田辺史と行動をともにするので同じ渡来系かもしれません。
山上多重塔のことはよく知らなかったのですが、随分古い金石文ですね。是非、本物を見に行きたいと思います。大室古墳群とは北へ5kmしか離れていないです。
2019-09-15-20:03 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

こんばんは。懇切丁寧なご教示ありがとうございます。山上多重塔は、上野三碑につぐ、第四の碑ということで、群馬県立歴史博物館の常設展会場に上野三碑とともにレプリカがあります。国宝だった時代もあったといいますけど、地元の人達は、その存在をあまり気にしていないようです。
2019-09-18-20:51 * nonokomama(samanthahonami) [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No title

nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私が書いてる上毛野氏の記事は、どちらかと云えば一般的に知られている定説とは異なります。nonokomamaさんもご存知と思いますが、上毛野氏を地方出身者と考える研究者はまだ多いようです。そういった方は東毛の大型古墳も上毛野氏のものと見ていますし、細かい人物単位の話も影響を受けています。従って私の説明も一つの説に過ぎないという事は、お伝えしておきます。

確かに私も山上多重塔の名前は知っていましたが、どこにあるのか知りませんでした。昨日、以下の5地点をgoogleで調べて地図に転記し、訪問準備完了しました。私は近隣の見学は全て自転車でこなすので、アナログなんです。(笑)
山上多重塔       桐生市新里町山上2555
天神古墳        桐生市新里町小林60-1
中塚古墳        桐生市新里町新川2592
武井廃寺塔跡      桐生市新里町武井598
善昌寺の新田義貞公首塚 桐生市新里町新川2728
2019-09-18-23:55 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

こんばんは。
天神古墳は新里中央小学校の校庭の北の隅にあります。
一応公園風になってますけど、校庭なので「無断立ち入り禁止」みたいな立て札があったと思います。
誰も文句を言う人はいませんが、それがなければ、いい雰囲気だったと思います。
善昌寺の新田義貞の首塚には、新田郡出身者の私には、とても抵抗感があります。
善昌寺にはちょっと目立たないところに(本堂を通って内庭に)、弁天様か薬師様を祀る石宮のようなものがありました。古墳ではないかと思いました。ちょっと記憶があいまいですけど。

2019-09-20-22:44 * nonokomama(samanthahonami) [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No title

nonokomamaさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

小学校の校庭ですか。そう云えば、高崎市八幡小学校の庭にある古墳を見学してて不審者と間違われたことがありますね。挨拶してから入りますよ。新田義貞は確か福井で戦死でしたね。墓も福井のはずです。ただ御首は検分のため京都へ送られたんじゃなかったかな?悪源太義平と同じパターンで首を奪ったという伝承があるのでしょうが、どうなんですかね?私は新田源氏が好きなので、関係する史跡は出来る限り見るようにしてます。天気が良くないので、何日か先になりそうです。
2019-09-21-06:29 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

こんばんは。
過去の記事を探すのはなかなか大変ですね。
善昌寺の石宮の弁天様の記事は、FC2ブログ2017年8月31日の記事の後半にありました。
メインの記事ではなかったので、題名等にはありませんでした。
御朱印の日付でやっとみつけました。
まあ、とにかく古墳だらけの村だったようです。
新田の人間には、義貞の首塚は、やっぱり勾当内侍の花見塚(旧新田郡尾島町)です。
史実はどうかわかりませんけど。
2019-09-21-19:56 * nonokomama(samanthahonami) [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No title

nonokomamaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

私は善昌寺の首塚が、勾当内侍が奪いとった首を埋葬したものと思っていましたが、別に首塚があるのですね。尾島町のほうですか。実は、おおたんの観光マップで回っているのですが、花見塚は掲載されていないので見落としていました(笑)。時間に余裕があれば回りたいが、いっぺんには無理かな。花見塚には勾当内侍の墓もあるみたいですね。それにしても、新田義重の娘が、夫義平の首を京の三条河原から家臣に奪わせた話と全く同じですね。それだけ義貞が地元の人に愛されていたということでしょう。確か金山城付近には義貞の供養塔もありましたね。新田義貞の居館跡と伝えられるのは、太田市の明王院安養寺の境内ですから、首塚が尾島町というのは至極当然という気がします。直ぐ近くですね。逆に、桐生の善昌寺にもあるのは何か訳がありそうですが、経緯を調べる楽しみができました。ありがとうございます。
2019-09-21-20:42 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

こんばんは。
新里では、船田善昌が義貞の首を持ってきたとか、船田善昌は高齢なので戦線離脱して善昌寺に居るところに、桃井某が首を届けたという話になっています。桃井某はその後切腹したということで、桃井塚なるものも存在します。
花見塚の方には新田義貞だけでなく、南朝の話も付いてます。花見塚にある花見塚神社には菊の紋章があったと思います。新里の方には、南朝の話はないようです。
世良田の毛呂権蔵は、善昌寺で聞かされた話を納得しませんでした(『上野国誌』)。毛呂家は船田善昌館跡なのだそうです。
不思議な事に、新里の奥沢から流れ出した早川が、花見塚の脇を流れています。


2019-09-22-23:36 * nonokomama(samanthahonami) [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No title

nonokomamaさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

なるほど、妻である勾当内侍系と、義貞の家臣(執事)系の伝承で分かれているわけですね。桐生市のホームページには善昌寺は船田善昌の縁で名前を変えたとありました。新田氏も決して一枚岩ではないし、家臣家も含めれば、尚更でしょう。本来、詐称の意識はなくとも、民衆の誤解や想像が、時を経ていつしか事実と伝承されるようになる場合もありますからね。特に有名な人物で、普通の死に方でない場合は尾ひれが付きやすい。歴史を創作してはいけないが、より身近に墓を置きたいという思いは理解できますね。
2019-09-23-05:53 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]