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東国の古代史

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2020-04-29 (Wed)  15:32

上毛野氏とは何者か?(6/8) -氏族の系譜と構成過程-

前稿からの続きです。
(1)氏族の系譜構成
上毛野氏の始祖伝承系譜は前稿の中でも記載したが、もう一度示します。

上毛野氏とは何者か3

系譜ですから世代毎に線でつながっているのですが、豊城入彦から彦狭嶋までは、八綱田を除いて実在氏族に直接派生するものはない。始祖、または遠祖として出てくるだけです。殆どは御諸別大荒田別竹葉瀬の世代で実在氏族に派生していく。竹葉瀬田道の兄弟以後にも始祖となる系譜派生もあるが、現古(うつくしふる)も含めて本来の上毛野氏とは無関係の擬制氏族となる。

やや煩雑になるが、上の系譜から実際に派生する個人名と氏族名を挿入したのが以下の系譜群です。新撰姓氏録が情報源ですから、矛盾する内容が多く含まれるのを無理に系統化してるところがあります。個人名はつながっていても多くは血縁とは無縁で世代差を示すのみです。【 】内は氏族名です。個人名と同じく線でつないでいるが、これも系譜というより、該当氏族が系譜の上位人物を、始祖、遠祖、祖と呼んでいるという意味です。


上毛野氏とは何者か13

上毛野氏とは何者か14

上毛野氏とは何者か15

上毛野氏とは何者か16


上の系譜群は伝承形成期を経て最終的に出来上がった系譜です。
次に此れを、系譜を構成してると見られる実態的グループに別けてみます。分ける基準は以下項目によっています。
・新撰姓氏録での各氏族の「祖」の主張
・地縁(同じ地域に居住した)
擬制同族化
これらの要素で纏まりのあるグループですが、同時並行的に発生したわけではなく、時系列に形成されたものと推測します。

A:豊城入彦グループ(上毛野氏本流+α G)
 上毛野朝臣(右京-本来の上毛野氏)、下毛野朝臣、佐味朝臣、下養公、車持公、
 茨木公、佐自努公
B:八綱田グループ(和泉摂津G)
 佐代公、登美首、軽部、我孫、我孫公
C:彦狭嶋グループ
 垂水公
D:御諸別グループ(摂津、和泉G - 渡来系?)
 韓矢田部造、珍県主、葛原部
E:荒田別グループ(渡来系)
 田辺史、大野君(朝臣)、広来津公、止美連
F:竹葉瀬グループ(渡来系)
 上毛野朝臣(左京-田辺史改姓)、住吉朝臣、池原朝臣、桑原公、川合公、商長首

【補足】
上のグループのうち、伝承系譜で親子関係の記述があるのは、CとD、EとF。此れを信じれば同一グループになるが、含まれる氏族をみると血縁の可能性は低いとみる。

当初、この6グループは独立したものだったが、上毛野氏の形成過程で次第に一つの伝承系譜として統合されていったものと思います。豊城入彦グループも本来の上毛野氏は、上毛野朝臣下毛野朝臣だけで「狭義の上毛野氏」と呼びます。その他の氏族は「広義の上毛野氏」と呼ばれる擬制氏族です。これらの構成や形成過程をみると上毛野氏の実態は本当に寄せ集め氏族という印象がある。特に百済系渡来の田辺史とは、初期から交流があり、後に彼らは本来の上毛野氏と実質的に置き換わっていきます。田辺史が複数のグループに現れるのは、勢力を広げた結果、居住地域も広かったからでしょう。両者の関係は以下のような経緯から深まったものと推定できます。
田辺史氏は5世紀末期に日本と朝鮮の交流の中で、上毛野氏祖先が連れ帰った百済人を始祖伝承としていた。両者の同族認識はそこから生まれている。
■壬申の乱で大野君果安田辺史大友皇子側に付いた結果、田辺史天武天皇から東北出兵のペナルティを得る。その過程で上毛野氏と出兵行動を共にする。
本来、田辺史大野君上毛野氏の三者は血縁関係など無いと思うが、何らかの機会に豊城入彦の子孫として同族化が図られたものと思います。大野果安の息子大野朝臣東人は対東北活動や藤原広嗣の反乱鎮圧などで有名です。父果安の汚名をそそぐために尽力したと思われる。彼の活躍は時代的に本来上毛野氏の衰退とは反比例して隆盛していきます。20年間も東北地方で活動してるので、九州北部での広嗣征討戦時はかなり高齢になっています。

A~Fまでの各々の形成経緯についても触れていきたいが、現時点では分からないことが多く、話も長くなってしまうので、また稿を改めて触れます。
補足になるが、上毛野下毛野のウジを頂く氏族でも時代を経ると以下のような変化があるので注意が必要です。誤解が無いように記載しておきます。

①上毛野+(朝臣)、下毛野+(朝臣)
7世紀以前から続く本来の上毛野氏下毛野氏。居住地は畿内が主であるが群馬、栃木にも存在する。このうち上毛野君は、7世紀末から8世紀中葉までに対外戦争、内乱、東北出兵、政変で消耗したり、主要な人物を失って急速に衰退する。
系譜では上毛野君小熊上毛野君形名との間に個人名を省略していますが、氏族として存在したであろうと思いますが、活動記録はなく、実在性は確認できません。

上毛野+地名+(朝臣/公)
地名をウジの中に含む上毛野氏。これを複姓の上毛野氏と呼ぶが、これも次項と同じく、本来の上毛野氏の空白を埋める形で興隆する。内実は地方の物部系氏族、東北地方の氏族が含まれる。上毛野では碓氷郡の上毛野坂本朝臣、伊勢崎の上毛野佐位朝臣等が該当、東北地方では上毛野氏部民の吉弥候部が同族化した上毛野名取朝臣が知られている。上毛野陸奥公は朝臣から漏れているが、やはり吉弥候部や阿部氏系の丈部(はせつかべ)から改姓している。

③上毛野+(朝臣)
上毛野氏の衰退に取って代わっていく渡来系氏族です。代表的なのが前述の田辺史で、賜姓後はウジ・カバネまで本来の上毛野氏と同じになるので区別しにくい。無関係と言っても本来出自のことで、地縁や出兵で一緒に行動した経緯があり、それが縁で同族化している。
また、項の上毛野坂本朝臣大宝元年(701年)に上毛野坂本君を賜り、また神護景雲元年(767年)に以下の2名が上毛野朝臣を賜るとある。
・左京の人  正六位上上毛野坂本君男島
・上毛野碓氷郡の人  外従八位下上毛野坂本黒益
この記述から、物部氏族の一部は、石上部氏上毛野坂本朝臣上毛野朝臣と本来の上毛野氏と同じ名前に変化していくことが分かる。本流の上毛野氏の衰退に伴って擬制氏族が上毛野氏の主流に変化していく。前述の系譜図では混乱しないように賜姓後の名称は使わず本来の氏族名で記載している。8世紀後半の上毛野氏は全てこの系列に換骨奪胎されていきます。


(2)上毛野氏と三輪氏を繋ぐもの
上毛野氏三輪氏の接点については以前の稿で簡単に触れているが、氏族の構成を踏まえた上で、もう少し説明を加えます。以前の稿で「上毛野氏三輪氏の流れをくむ」という表現をしたが、三輪氏上毛野氏は本来の同族なのかよく分からないからです。三輪氏三輪山(御諸山)の信仰を介して吉備氏上毛野氏と繋がりを持ったという研究成果が、古くは志田淳一氏などによって発表されています。三輪山信仰と上毛野氏の関係については、以下の状況証拠から関連性が示唆されていたが、あくまで状況証拠で決定打にはならない。
①豊城入彦命が夢の中で御諸山に登ったという伝承
②御諸別王の名前が三輪山の別名 御諸山と一致する
③上毛野田道の墓から大蛇が出たという逸話(→蛇は三輪大神の化身)
④形名の妻の鳴弦逸話(→鳴弦は三輪大神の呼び寄せ呪術)


そこで、もう少し根拠性のある説を紹介します。前述の志田説に近い考え方かも知れません。八綱田命豊城入彦命の子として系譜に架上されているが、本来の上毛野氏との直接の関係は希薄です。それは八綱田命から派生する氏族の内容と数を見れば分かります。八綱田命を始祖としてる氏族(佐代公登美首茨木造軽部)は新撰姓氏録で見ると和泉に住んでいます。


上毛野氏とは何者か17
畿内の上毛野氏配置(クリック拡大


和泉の茅渟県には陶邑があります。日本書紀崇神紀に三輪山の神、大物主子孫を称している大田田根子が発見された記録がある。三輪氏大田田根子が大和の三輪山の地から和泉に出た経緯は分かりませんが、八綱田命系氏族と三輪氏とは地縁があったと思われる。そこで三輪山信仰を氏族の中に取り込んでいた可能性が高いという。
一方、上毛野氏の本流がどの地域を拠点としていたのか不明ですが、渡来系氏族との地縁が深いことや、河内政権との繋がりを考えると大阪湾岸南部から紀伊地域を根拠地にしていた可能性が高い。紀伊地域は紀伊丘陵があり、山深いイメージがありますが、大和盆地の三輪山周辺から見ても湾岸地域に進出しやすい地勢であることが分かります。


上毛野氏とは何者か18
紀伊地域の地形クリック拡大


その後、八綱田系の氏族と上毛野氏が同族関係を結んだときに、本流の上毛野氏三輪山信仰を取り込んだという説です。同族化のときに八綱田命を系譜の豊城入彦彦佐嶋の間に挿入したと考えると確かにスジが通ります。ただ、八綱田命の始祖系譜の位置がどうしてこんなに高いのか疑問もあります。ここで同族化した氏族は大きな勢力を持っていたとも思えないし、宮廷での高官も見当たらない。八綱田系氏族上毛野氏は古い時代からの地縁によるよしみがあったのかも知れません。此れも一説であって、上毛野氏三輪山信仰は確かだが、別な経緯も考えられなくはない。白村江の戦いには氏上と思われる上毛野朝臣稚子三輪氏大三輪根麻呂も一緒に従軍してるところからも両者の縁はかなり深いと思われる。八綱田命系との擬制同族化以前の深い結びつきがあったとも考えられます。

次回からは上毛野氏本流の各人物について見ていきます。



次回に続く




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No Subject * by nonokomama
こんばんは。
大野東人は、多賀城碑を建てた人ですよね。
どんな人か分かりませんでしたけど、ちょっぴり姿が見えました。
ありがとうございます。

Re: No Subject * by 形名
nonokomama さん、おはようございます。

コメントありがとうございます。
多賀城碑は東人が残したものですね。これほど有名な人物なのに、その
出自は全くわからないという不思議な人です。出身地さえ分かっていません。

大野という地名は全国に4郡30郷を数えますが。群馬のように単独で存在
するのではなく、濃密に分布する地域もあります。少なくとも群馬の
大野郷は無関係の可能性が高いでしょう。
父親の果安が壬申の乱に参戦している事を考えれば、地方でも畿内に
隣接した地域でないと考えにくいですね。美濃や播磨の可能性が高いでしょう。

またどうして上毛野氏同族になったのかも全く分かりません。
推定できるのとすれば、百済渡来系の田辺史と東北出征で同行した縁で
上毛野氏に同族化したというものです。田辺史は上毛野氏とは非常に
縁の深い氏族ですが、間接的に上毛野氏に近づいたのかも知れません。
東人も渡来系の可能性があるか。
壬申の乱で敵対した天武系からみれば、東北出征氏族は捨て駒でもあり
ますが、東人はこれを見事に乗り切り、朝廷の信頼を得たと言えるでしょうね。
蝦夷に殺害された上毛野朝臣広人などと比べると、お飾りの貴族ではなく、
実力を兼ね備えた実務派だったと想像しています。

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No Subject

こんばんは。
大野東人は、多賀城碑を建てた人ですよね。
どんな人か分かりませんでしたけど、ちょっぴり姿が見えました。
ありがとうございます。
2020-05-01-23:12 * nonokomama [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

nonokomama さん、おはようございます。

コメントありがとうございます。
多賀城碑は東人が残したものですね。これほど有名な人物なのに、その
出自は全くわからないという不思議な人です。出身地さえ分かっていません。

大野という地名は全国に4郡30郷を数えますが。群馬のように単独で存在
するのではなく、濃密に分布する地域もあります。少なくとも群馬の
大野郷は無関係の可能性が高いでしょう。
父親の果安が壬申の乱に参戦している事を考えれば、地方でも畿内に
隣接した地域でないと考えにくいですね。美濃や播磨の可能性が高いでしょう。

またどうして上毛野氏同族になったのかも全く分かりません。
推定できるのとすれば、百済渡来系の田辺史と東北出征で同行した縁で
上毛野氏に同族化したというものです。田辺史は上毛野氏とは非常に
縁の深い氏族ですが、間接的に上毛野氏に近づいたのかも知れません。
東人も渡来系の可能性があるか。
壬申の乱で敵対した天武系からみれば、東北出征氏族は捨て駒でもあり
ますが、東人はこれを見事に乗り切り、朝廷の信頼を得たと言えるでしょうね。
蝦夷に殺害された上毛野朝臣広人などと比べると、お飾りの貴族ではなく、
実力を兼ね備えた実務派だったと想像しています。
2020-05-02-08:25 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]