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東国の古代史

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2020-04-29 (Wed)  16:00

上毛野氏とは何者か?(7/8) - 武官と文官の輩出 -

前稿からの続きです。

日本書紀に現れる上毛野氏の人物紹介を行います。
全てをピックアップするのはとても無理なので代表的な人物だけです。

上毛野田道(生年没年不明)
上毛野田道(かみつけのたぢ)は、仁徳朝に出てくる武人。伝承上は大荒田別命の子で、兄に竹葉瀬がいる。父親の大荒田別命神功紀に新羅征討で出兵した記録がある。記事は2箇所あります。
上毛野氏とは何者か27
仁徳53年、新羅が朝貢を怠ったため、兄の竹葉瀬が詰問使として遣わされ、続いて田道が兵を率いて新羅を撃破する。新羅の四邑の住民を捕虜として連れ帰る。
仁徳55年、蝦夷が反乱を起し、田道が遣わされるが、敗れて伊峙水門(いしのみと)で戦死する。従者は田道の遺品の玉を妻に与えるが妻は悲しみ縊死する。後に蝦夷が田道の墓をあばくと、中から大蛇が現れ蝦夷を殺したという逸話になっている。

伊峙水門については、上総国夷隅郡(いすみぐん)か、陸奥国石巻(いしのまき)の2説があるようです。前橋市の蛇穴山古墳の名称由来は田道の陵墓伝承があるためですが、残念ながら築造時代は古墳時代終末期で全く合いません。

上毛野氏とは何者か19
青森県猿賀神社の由緒書(クリック拡大

高句麗好太王広開土王)の碑には399年以降の17年間、倭国が出兵してきたことが記述されています。いずれも倭国の軍は撃退されたことになっている。この記録自体は誇張がかなり含まれていると思います。当時の日本の国力から見ても半島国家を完全に侵略するようなような大規模な攻勢が掛けられたとは考えられない。しかし、半島内の国家間の混乱に介入し、一方の利益になるよう働きかけを行った事実はあるのではないか。
おそらく、荒田別竹葉瀬田道の親子は、この時代の軍事氏族の実績を仮託された架上人格であると思う。なぜなら、荒田別は文武を兼ねた表現で記述され、竹葉瀬は瑞祥思想を持った文化人として、田道は武人として描かれている。竹葉瀬田道の兄弟は各々の性格を別けた人格として登場する。書紀独特の類型パターンです。5世紀代の上毛野氏の活躍を担って創作されたと思われるが、7世紀代の実在モデルが過去の伝承に影響を与えた可能性があります。竹葉瀬田道は後の上毛野君三千上毛野君稚子に対応しているようにも見えます。そうであれば、三千と稚子は兄弟か親子の可能性もあるでしょう。

氏族の伝承の殆どは物語として語り継がれた時代ですから、文書化された7世紀中葉から200年前の5世紀の事などが正確に分かるとは思えません。現代の平均的な日本人でも、6世代も遡れば系譜はあやふやになります。代々家系図を残してる家などほんの一握りでしょう。そのような環境で過去の伝承を創り上げようとすれば、当時のリアルタイムな活動事績が反映されていくと考えたほうがスジが通ります。ただ、上毛野氏の系譜の中に取り込まれた時の人物名がどんな意味を持つのかよくわからない。そこには何らかの因縁があると考えられます。
荒田別命という名前からすると、紀伊に関連する可能性がある。紀の川(吉野川)は古くは荒河と呼ばれており、下流域には荒田神社がある。大阪湾岸の茅渟県陶邑にも陶荒田神社があります。荒田別命が5世紀初頭に付近で勢力を張っていた上毛野氏を代表している可能性はあるでしょう。

上毛野氏とは何者か20
紀伊地方クリック拡大


②上毛野君小熊(生年没年不明)
前稿の武蔵国造の乱の中で記載したので割愛します。


③上毛野君形名(生年没年不明)
上毛野君形名の記事は書紀に一回しか現れません。舒明天皇9年の形名の記事の直前には大きな流星が現れたり、3月2日に日食が起こったことが記述されてる。当時は太陰暦ですから、日食は新月の1日にしか発生しないはずです。何らかの暦のズレが原因かも知れないが、推古朝と同じく舒明朝の終焉が近いことを予感させる為の演出の可能性もある。その年に蝦夷が朝貢しなかったとありますので、形名の記事も異変の脚色と云えないこともない。内容を見れば奇譚のような話ではない。記事はかなり長いので、要約記述と、形名の妻が夫を痛烈に叱咤激励する部分だけ漢文読み下し文で記載します。

【要約】
舒明天皇9年(637年)に蝦夷が叛き入朝を拒否したことから、形名は将軍に任ぜられ、蝦夷討伐に向かう。形名は最初、蝦夷に敗れ、兵は逃亡し、砦も包囲されてしまう。形名も逃げ出そうとするが、形名の妻は夫を強く鼓舞し、夫に無理やり酒を飲ませた上で自ら夫の剣を佩き、弓を張り、女達に弓弦を鳴らさせた。形名は再び奮い立ち進撃する。蝦夷は鳴弦を聞き、まだ多くの兵がいると思い軍を引いた。その間に、形名は戻ってきた味方の兵をまとめ上げ、蝦夷を破ることに成功した。

うれたきかな、蝦夷のために殺されむとすること。汝が祖たちは、蒼海を渡り、万里を跨びて、水表の政を平けて威武をもて後葉に伝へたり。今、汝、ひたぶるに先祖が名をくじかば、必ず後世のためにわらわれなむ。


上毛野氏とは何者か21
江戸時代末期の「前賢故実」より

形名は大仁(正五位相当)という官位の記述もあるので実在性を完全には否定できない。しかし、一世紀前の毛野君小熊から比べると、むしろ小熊の方が実在性がある気がします。なぜなら、小熊の記事には笠原直使主などの第三者が現れます。形名の記事には将軍である形名以外は名前もない妻や多数の下女、逃げ去った兵士と蝦夷だけです。交戦した場所の記載もない。さらに突っ込めば、蝦夷との戦いの最前線の砦に妻と下女が多数いるのもおかしな話です。正式な征討軍を指揮した記録のない形名は実在性に疑問がある。
上毛野氏が輩出した将軍は、後の上毛野君稚子を見ても実在したのは事実であるが、6世紀中葉から7世紀初頭の将軍達は、形名という架空の人格を代表者として託した可能性があるように思います。この手の記録は日本書紀には多い。その場合、神話、逸話、奇譚系の話を伴い、具体性のある記述や実在性のある人物が登場しないのが特徴です。この逸話も形名が交戦中に怖気づいた話となっている。一般に、この記事の裏には、上毛野氏の地位低下を表すとか、編纂段階での上毛野氏の名を貶めたい思惑が働いてるという説があるようです。しかし、それは見当違いと思います。なぜなら、逸話は一見、形名の戦記の形をとっているが、主題は妻の言葉に中にある。この話を挿入した目的は以下の3点であると思います。

①妻の叱咤激励の言葉を借りて過去の朝鮮出兵の栄光の歴史が語られている
②上毛野氏が三輪山の信仰者であることを暗示している
③三輪山の神を呼び出す鳴弦呪術の威力を誇示している

②は当時の畿内でも知られていた話だと思うが、ポイントは①だと思います。そしてさり気なく③も強調宣伝している。上毛野氏は軍事氏族であることは前稿でも触れたが、それは前述の田道の伝承でも語られている。妻の言葉は田道伝承とそれに続く無名の将軍たちを指している。また弓の弦を鳴らすことは古代では重要な呪術であり、元々は三輪山の神を呼び出すための儀式として存在していた。後に畿内の各氏族や宮廷でも鳴弦の儀として取り入れられている。つまり、この逸話は三輪氏上毛野氏が、かって担った事績を強調するために挿入されたもので、形名が情けない人物であることを披露するのが目的ではない。この逸話を挿入した者は三輪氏上毛野氏の復権と利益を期待する人物に間違いないと思う。

その背景には以下のような事実が関係してると考えられる。
三輪氏三輪君根麻呂白村江の戦いに参加している。一説によると、彼は国家守護の祭祀に関わる者として参戦した可能性があるという。しかし結果は惨敗で、三輪神の権威は失墜した。以後、国家守護神は三輪氏の反対にも関わらず、伊勢神に移行していくのは有名なことです。また同時に上毛野君稚子も将軍として参戦しているので、敗戦の責任を三輪系氏族が問われた可能性が大きい。しかし軍の構成を見ても水軍を持っていて、経験実績のある将軍は阿倍比羅夫くらいしかいない。上毛野氏も対蝦夷戦のような陸上戦闘の経験しかなかったものと思われる。日本に戦術というものがない時代に、経験の浅い海戦を行ったのですから、個人的責任を問われるのは不本意だったでしょう。逸話の挿入は、このような事件の名誉回復の意図が過去に遡って込められてる気がします。しかし、当事者である将軍形名の口から語れば非難されかねない。妻の言葉に託したところが巧妙な手口です。三輪系氏族の口からあからさまには云えない事を婉曲的に挿入した作為のある記述だと思います。
国史編纂は7世紀末期から作業が始まり、720年に完成するが、7世紀後半の事件の影響が過去の記録にフィードバックされ、創作的に反映される事がけっこう多いと思います。


④上毛野君三千(生年不明ー681年)
前稿で上毛野氏は軍事氏族の性格を帯びると書いたが、それは上毛野氏が興隆する初期の話です。7世紀後半~8世紀でみると、文官の活躍が多くなる。特に国史編纂、律令選定の作業等に関わっていくので、朝廷の氏族への信頼は高いと見える。
上毛野君三千上毛野氏には珍しい文官です。国史編纂に向けた基礎資料の記定作業に従事しており、その中では皇族以外で大錦下という官位を得た唯一の人物です。大錦下は従四位下に相当します。それ以上の官位を持つ者は実態として20名に満たないので相当な高位です。684年には没後にもかかわらず、朝臣姓を賜っている。彼はどちらかと云うと文学博士のような人物らしい。
天武天皇は681年に帝紀上古諸事の記定作業を命じている。チームの筆頭は記録上は川嶋皇子、忍壁皇子らの名があるが、これは名誉職ですから実質的なリーダーは三千ではないかと思う。でなければ大錦下という位を得るのは無理であったと思います。しかし記定作業の完成前に三千は亡くなっている。既に高齢であったのかも知れません。
なお上毛野君形名が実在とすれば、形名、上毛野君三千上毛野君稚子の3名は年代的に血縁の可能性もあるが、関係を示す記録はない。また三千だけが文官なので、宗家のなかでも血縁的には離れているかも知れませんが、三千と稚子は氏上の可能性が高い。
前項で上毛野君形名の逸話について記載したが、こういった各氏族固有の逸話というのは日本書紀編纂段階で新たに執筆された訳ではありません。口伝された話をまとめた典拠となる資料が存在したはずです。
日本書紀の典拠資料には、①帝紀②旧辞③風土記④諸氏族の墓記(先祖伝承記録)があります。このうちのは各氏族から提出されたものですが、西暦691年に上毛野氏三輪氏を含む18氏に墓記(事績集成)の提出が命じられている。これは、日本書紀編纂に向けた準備段階だと思います。ここでも三輪氏上毛野氏が同時に提出を命じられたのは両者が深い関係にあったからではないだろうか。三輪氏上毛野氏は出自伝承を整合させる必要性があったと推定しています。この墓記には前項の上毛野君形名の伝承も含まれていたはずです。

おそらく、上毛野氏の墓記は681年に卒去してる上毛野君三千が既にまとめていたものと推定します。三千は上毛野氏の氏族伝承をまとめ上げた人物の可能性が高い。氏族伝承記録は各氏族が必ず持っているものですから、それを複写して朝廷に提出したのでしょう。なぜ伝承を持つかというと、それが当時の身分制度の中で氏族を格付けする証明になったからです。新撰姓氏録なども、これらの資料を集大成して作られた専門書です。氏族自身が自分達の生い立ちを記述するのですから、でまかせとは言えないまでも、誇張脚色があるのは当然の事です。
この時代の上毛野氏の有力者で文筆能力の高い人物は三千以外にはいない。氏族の中でも、後に主流となっていく田辺史氏は本来文字書きを職掌とするような氏族ですから、三千は彼らを統率していたと思います。田辺史系からは、のちに続日本紀を編纂した上毛野公大川や、その息子で、新撰姓氏録を編纂する上毛野朝臣穎人(かいひと)が現れるが、三千とは1世紀の時代差がある。



次回最終稿に続く




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