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東国の古代史

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2018-11-19 (Mon)  05:51

白石稲荷山古墳《藤岡市》

群馬県藤岡市にある白石稲荷山古墳です。大型古墳の割には群馬でもマイナーなイメージです。東国でも珍しい家形埴輪がたくさん出土してるのは知られていない。おそらく東京国立博物館がみな収蔵していますから、この古墳から出土してること自体が知られていないと思う。もっとも、発掘されたのが1933年ですから地方での埴輪復元は難しいし、適切な管理ができる施設も無かったためか?
昔、藤岡市埋蔵文化財貯蔵庫に見学行った時も、東京国立博物館から借用してる家形埴輪だけは撮影しないように注意された。今では藤岡市歴史博物館になったのだから、そろそろ藤岡市に返してやってもよいのでは!地方の目玉が少なすぎます。

-白石稲荷山古墳1 


-白石稲荷山古墳3 
白石稲荷山古墳(2007年撮影)

(1)立地
白石稲荷山古墳は鮎川の左岸河岸段丘の台地にある。小高い丘の上にある古墳ですから、下から見上げると後円部ばかりが目立つ中期の前方後円墳です。北西には鏑川の右岸河岸段丘があるので、台地はかなり広い範囲で丘陵地形を作っている。北方至近距離には6世紀前半の七輿山古墳という大型古墳がありますが、時代は1世紀ほど下ります。鮎川河岸段丘の一段下には猿田古墳群という円墳からなる古墳群があるが、やはり時代が下る。猿田地区には付近の伊勢塚八角墳を凌駕する日本一美しい模様積み石室猿田古墳が存在したという。残念ながら今では削平されている。

-白石稲荷山古墳16 
鮎川と鏑川の合流台地にある白石稲荷山古墳


(2)墳丘
白石稲荷山古墳は、藤岡市教育委員会のホームページによると、全長140m、前方部幅75m、後円部径71m、高さは前方部で4m、後円部で10mとなっている。但し、この古墳の墳丘サイズ情報は各資料で統一されていない。これについては後述します。

-白石稲荷山古墳4 
見た目は4世紀の古式古墳(東側の猿田地区より遠望)


墳丘は3段築成であるが、現在ではほとんど判別がつかない。前方部とくびれ部はともに狭く未発達な形です。後円部では3段に円筒埴輪と朝顔形円筒埴輪が巡っていたという。前方部では基壇と3段目に確認されているが全周ではなく部分的であったらしい。周濠については、現状では無いように見えるが、墳丘北西側に低地部分があって、片側だけに空堀があったのではないかと推定されてる。

-白石稲荷山古墳18 
墳丘くびれ部の円筒埴輪列(教育委員会HPより)


1933年(昭和8年)の発掘調査では、墳頂部に竪穴式の礫郭が確認され、副葬品が出土してる。出土品の特徴として家形埴輪があり、群馬県伊勢崎市にある赤堀茶臼山古墳と対比される。これほど多くの家形埴輪が出土した古墳は両古墳だけです。
埋葬施設は、後円部墳頂の東端・西端から1基ずつ検出された。ともに竪穴式礫槨で、砂利を敷き、壁は河原石の積み上げ、ドーム状に粘土の蓋をかぶせた構造を持つ。

-白石稲荷山古墳17 
等高線図(サイズ情報なし)


東礫槨
-白石稲荷山古墳5 
サイズ:長さ8.2m、幅0.9m主要部分は開墾で破壊)
出土物:内行花文鏡1、滑石製石枕1、滑石製模造品
    鉄刀2、碧玉製管玉9、碧玉製勾玉1、ガラス製切小玉管玉、
    埋葬施設上の地表面から家形埴輪5個

西礫槨
-白石稲荷山古墳6 
サイズ:長さ5.3m、幅0.4m
出土物:四獣鏡1、石枕1、滑石製模造品、鉄刀4、銅製刀子把1、碧玉製勾玉3、
    碧玉製管玉48、ガラス製小玉、櫛4、鉄器残片 等
    埋葬施設上の地表面から家形埴輪3個桂甲埴輪1個


2つの主体部のうち、東礫槨は大きいが、西礫槨は非常に幅が狭いのが特徴。西側の礫槨からは武具を表現した甲埴輪が出土してるが、幅は40cmしかないので壮年男性の遺体を納めるには幅が狭すぎる。幼い男児の可能性があるような気がする。また墳頂はかなり広いにもかかわらず、2つの礫槨は7~8mも離れており、中心には埋葬施設がない事が確認されている。両端の主体部は墳頂の円筒埴輪列の外側にはみ出す形になる。中心部分は首長自身のために残されていたものの、何らかの原因で埋葬することが出来なかったのだろうか?だとすると尋常ではない事件があったことも考えられる。中心部への埋葬を忌避するような習慣があったとは考えられない。さきたま古墳群行田稲荷山古墳にも辺部に金錯銘鉄剣が出土した礫槨があるが、中心部にはレーダー調査で埋葬主体部がある可能性が指摘されています。

-白石稲荷山古墳19 
行田稲荷山古墳の礫槨位置

なお、人骨はもちろん、歯が出土したという情報が見つからない。東礫槨は学術調査前に破壊されていたが、残土をフルイにかければ歯はあってもよさそうです。破壊されていなかった西礫槨からも出土が無かったようです。歯があれば年齢、性別等が特定できると思うのですが残念です。せめて礫槨下と周囲の土壌サンプルを採取してあれば、脂肪酸分析で遺体埋納の有無だけは確認できたと思うが、当時はそのような分析手法が無かったのであろう。

-白石稲荷山古墳22 

昭和8年の古墳調査は計画的なものではない。地域の農地開墾組合が発掘を行ってしまい、埋葬部が破壊されたことがきっかけになって調査が入っている。東礫槨は明らかに上位の者と推定されるが遺物が少ないので紛失してる可能性もあるように思う。発掘経緯も良くないが、調査された時代が早すぎた。最近であったなら、もっと解明出来たことがあったと思います。


(3)形象埴輪
本古墳からは、墳頂主体部上に配列された家形埴輪8棟、桂甲埴輪1個の形象埴輪が出土している。
西礫槨→前方部側から、高床倉庫1棟、切妻家1棟、大型切妻家1棟 計3棟
東礫槨→前方部側から、高床倉庫1棟、切妻家3棟、大型切妻家1棟 計5棟

東西で埴輪が向き合う形で、遺体の位置を避けて置かれていたと推定されている。
被葬者の至近距離に家形埴輪が置かれたのは、死後も家と穀物に不自由しないよう願いが込められていると思われる。このような墓制は他古墳では見られないと思います。赤堀茶臼山古墳でも家形埴輪が同数の8棟出土してるが、実際の家の配置で置かれた可能性があるという。この点で違いがあります。


-白石稲荷山古墳7 
左:赤堀茶臼山古墳の形象埴輪 右:白石稲荷山古墳出土の形象埴輪

-白石稲荷山古墳21 
西礫槨上の桂埴輪(短甲)

白石稲荷山古墳の家型埴輪の屋根は切妻で破風板が付けられている。台部には縁側状に突帯をめぐっている。窓の数は不定であり、模式表現ではなく実態表現の可能性もあるという。 倉庫埴輪は、西礫槨のものは屋根のみ残存であったが、東礫槨のものは完全復元されたそうだ。
上の画像でも分かりますが、赤堀茶臼山古墳白石稲荷山古墳出土の形象埴輪は類似性がある、時代的にも大きな違いないと推定できる。高床式倉庫は赤堀茶臼山の物よりも写実的で、造した埴輪工房の技術の高さを感じさせます。
桂甲埴輪のほうは、私のプロフィール画像で使用してる太田市出土の桂甲武人埴輪には及ばないが、細部まで表現された丁寧な作りだと思います。何れも東京国立博物館が所蔵しいます。

前述した至近距離にある猿田古墳群と平井古墳群の間には、埴輪窯(登り窯)が発見されています。藤岡市本郷埴輪窯は有名ですが、群馬県西部の埴輪は本郷猿田で焼かれた物が多い。本郷の工房技術者は畿内からの移住者である土師氏ですが、猿田でも活動していた可能性が高いと思います。ただ、出土した埴輪類の粘土分析は行われていないようで、ここで焼かれたことは証明されていない。

-白石稲荷山古墳15 
猿田窯跡群が発見された河岸段丘崖

登り窯を設置した段丘台地に接して古墳があるのは、本郷窯跡群と全く同じパターンですから、台地上の王子塚古墳平井地区1号墳などは土師氏の墳墓の可能性があると考えている。


(4)築造時代推定
白石稲荷山古墳の築造時期は、あまり絞り込まれていないが、5世紀前半と推定されています。この推定は1933年調査のものですが、その後の調査でも訂正はなかったようです。墳型からして5世紀でも初頭の可能性が高いと思います。
そう考えると東毛の太田天神山古墳の時代に近いものになります。仮に5世紀中葉であるなら、綿貫古墳群の岩鼻ニ子山古墳(西暦450年くらい)にも近くなる。
以下は埋葬主体部の形態です。

太田天神山古墳210m(太田市、5世紀初頭) 大型長持ち型石棺
お富士山古墳123m (伊勢崎市、5世紀前半)  長持ち型
岩鼻ニ子山古墳130m(高崎市、5世紀前半) 長持ち
白石稲荷山古墳140m(藤岡市、5世紀前半) 穴式礫槨
・不動山古墳94m   (高崎市、5世紀後半)  船形
宗永寺裏東塚古墳  (藤岡市、5世紀後半)  船形石棺

白石稲荷山古墳岩鼻二子山古墳に距離的に近いが、埋葬主体部の形態からして岩鼻二子山とは系列が違うような気がします。東毛氏族との繋がり推定される綿貫古墳群の首長とは交流はなかったのかも知れない。氏族の出自が異なると思います。
白石古墳群でも5世紀後半に入ると宗永寺裏東塚古墳のように、くり抜き形の船形石棺が現れますが、前半期はまだ普及していなかったもよう。
墳形だけ見ると4世紀代の前期古墳に見えるが、前方部は畑に使われていたので、もう少し高さがあった可能性もある。竪穴式礫槨という主体部からみると時代がもう少し遡る可能性もあるが、さきたま古墳稲荷山古墳などは5世紀末期の築造なのに礫槨+木棺ですから、一概に古いとは言えない。
時代や出自推定に役立つ土器出土がないため、葬送用の土師器など使う文化は無かったもよう。一方で、出土している家形埴輪や倉庫形埴輪は赤堀茶臼山古墳(5世紀中葉の築造推定)の居館埴輪との共通性がある。従って本古墳も築造時期は公式に発表されている値の可能性はあるが、赤堀茶臼山古墳の築造自体がもっと遡る可能性があり、本古墳も連動するかも知れない。


(5)首長の地域的な位置付け
藤岡市の古墳は初期には、神流川流域の神田・三本木地区に出現する。三本木古墳などの大型円墳であり、銅鏡が出ている。中期になると鮎川流域に古墳の中心は移り、5世紀前半の白石稲荷山古墳十二天塚古墳・十二天北古墳が出現する。その後、舟形石棺を有する宗永寺裏東塚古墳が5世紀後半に出現、更に6世紀前半の七輿山古墳、後半の宗永寺裏西塚古墳へと継続する。白石稲荷山古墳は付近に時代の近い古墳も無く、これよりも古い古墳もないので当該地域で最初の首長と見られる。

出土遺物には、桂甲埴輪はあるが甲冑本体や馬具なども無く、鉄剣も少ない。軍事的な性格は薄い印象がある。神奈川流域からどうして中心が鮎川流域に移ったのか不明であるが、神流川沿いは土師氏が広範囲に住んだ可能性があるので、これとは別系列の地域首長であろうか。藤岡市では、この時代の最大の前方後円墳ですが、距離的には高崎市吉井町方面にも近く、鏑川下流部右岸を含めた鮎川流域を治めていた首長だと思います。一世紀後には緑野屯倉が設置される地域であるので、肥沃な土地であったのかも知れません。
ただ、当地域の時代が下る古墳と氏族系列が同じとは言い切れないと思います。白石古墳群は、北から七輿山枝群、平井枝群、猿田枝群、稲荷山枝群、下郷枝群の5枝群から構成されるが初期に並行するものはない。
この首長に続く5世紀中期~後半の古墳が地域にはない。通常、首長一族がその系譜で引き継いだ場合、20~25年に1基の頻度で墳墓が造られる。空白の時代があるので、最初の首長は一代で衰退した可能性がある。個人的には5つの枝群間の関係は薄いと考えている。5世紀代の上毛野には移住者も入ってきており、古墳群単位に同じ氏族が繁栄したと考えるのは危険です。


(6) 2基の陪塚
十二天塚古墳と十二天塚北古墳は、白石稲荷山古墳の北側に南北に並んでいます。
この時代の方墳、長方形墳は群馬県では珍しい。陪塚とされていますが、出土遺物からはどんな性格の人物かは分かりません。白石稲荷山古墳の東礫槨の埋葬者との関係性も特に伺えるような遺物は出ていない。全体に鉄剣も少ないし、甲冑本体や馬具も無いので農耕氏族的な人物像かも知れません。尚、古い書籍には前方後円墳と記載されており、数も一つと考えられていたようです。現在、付近を歩いても何処にあるのか殆ど分かりません。開墾で表面は削られているようです。

①十二天塚北古墳は北側の方墳
 長軸23m、短軸22m、高さ2.2m、竪穴式の礫郭あり。
 埋葬施設の外側から石製の紡錘車、勾玉、管玉、土師器出土(時代評価不明)。
②十二天塚古墳は南側の長方形墳
 長軸36.8m、短軸26.8m、高さ2.6m、墳丘には葺石と埴輪列あり。


-白石稲荷山古墳9 
十二天塚北古墳(上)と十二天塚古墳(下)


-白石稲荷山古墳10 
十二天塚北古墳の埴輪列と竪穴式礫槨(教育委員会HPより)


(7)墳丘サイズの混乱
群馬の古墳好きは既に気付いているでしょうが、この古墳の墳丘サイズ情報は混乱していて、どれが本当なのかさっぱり分かりません。すぐ近くに教育委員会の展示施設もあるが、訂正される様子もない。

-白石稲荷山古墳11 
現地説明板の記述


・昭和60年頃の書籍     全長  92m前方部幅  41m、後円部径52m
・現地説明板       全長175m、前方部幅148m、後円部径92m
・群馬県史資料編  現状:全長140m、前方部幅  62m、後円部径90m
         設計値:全長140m、前方部幅  62m、後円部径72m
・藤岡市教育委員会HP    全長140m、前方部幅  75m、後円部径71m


これでは本当に墳丘範囲調査を実施してるのか疑わしくなります。特に現地説明板の内容は酷いです。どういう経緯でこんなデタラメな値になったのか?
おそらく、墳丘基壇面の採り方が全く異なり、トレンチ調査の結果は反映されていないのではないか。こうなるとどれも信用出来ないので、誤差はかなり大きくなるが自分で現状手に入るデータから計測してみた。

-白石稲荷山古墳20 

GoogleMapの3Dで見ても起伏はほとんど分からないので、国土地理院の色別標高図から墳丘範囲を推測してみます。


-白石稲荷山古墳12 
国土地理院の色別標高図


-白石稲荷山古墳13 
標高図からの墳丘範囲推定

どうやら、現状では追加した白線の範囲に墳丘の盛り上がりが認められます。
これを元にGoogleMapで距離測定を行ってみた。

-白石稲荷山古墳14 
墳丘サイズ測定


結果は以下ですが、藤岡市教育委員会ホームページの表記に比較的近い値です。

地形図からの計測  全長140m、前方部幅  76m、後円部径73m
・群馬県史記載  現状:全長140m、前方部幅  62m、後円部径90m
        設計値:全長140m、前方部幅  62m、後円部径72m
藤岡市教育委員会HP  全長140m、前方部幅  75m、後円部径71m

通常は墳丘範囲調査をすれば、トレンチを掘り下げるので耕作等による変形には影響を受けないはずです。これほどバラつく原因が分からない。調査方法の問題なのか、記録データの誤記が起因なのか、とにかく不思議です。今後はこの古墳の墳丘サイズは藤岡市教育委員会ホームページの表記が正しいものとして扱います。

【補足】
ある方から情報を入手したのですが、本古墳の墳丘長の混乱は、墳丘基壇面の捉え方にあるそうです。築造時に基壇面を造成している可能性があり、それを含めて考えると170m以上あるようです。しかし、定型的な前方後円墳としてみた場合は、墳長140m程度になるという話でした。当地の周辺は台地の上になりますが、平坦ではなく、ゆるい凹凸のある地形にあります。大型古墳ですから、多分、事前に整地作業が必要だったのかも知れません。



【参考・引用資料】
・藤岡市教育委員会 文化財保護課ホームページ
・東京国立博物館ホームページ
・群馬県史 資料編 群馬県立文書館 
・日本の古代遺跡 群馬西部編 保育社
・国立歴史民俗博物館研究報告 第120集
・GoogleMap
・国土地理院 色別標高図




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