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東国の古代史

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2019-05-29 (Wed)  01:27

二倍年暦説《評価》

古代の暦(こよみ)に関する学説として二倍年暦説というのがあります。この説の内容と個人的な評価に付いて記載します。この呼称が正式なものかどうかは分かりません。春秋二倍年暦春秋年暦と呼ばれることもあるし、その他に一年二歳暦と呼ばれる場合もあるようです。意味的には同じと見てよいでしょう。

(1)二倍年暦説の論拠
この説は有名なので說明も必要ありませんが、要するに、現代の年間の春夏、秋冬を各々1年と数える暦で、現代の1年は2年となります。暦と言ってしまうと存在が確定してると誤解されそうですが、実在した証拠は無いと思います。つまり古代日本(倭国)にあったかも知れないという説です。
論拠は三国志注釈版(魏志東夷伝倭人条)の中にあります。三国志陳寿によって西暦280~284年頃に書かれた歴史書で、彼の死後に正史として認められています。当時の倭国の風俗についても記載されていますが、この文献の理解しずらい部分に注釈を付けたのが裴松之(はいしょうし)です。彼の三国志注釈版は西暦429年に書かれています。
裴松之は注釈版の中で当時存在した別書「魏略」の記述を引用しています。魏略魚豢(ぎょかん)という陳寿と同時代の歴史家が書いた歴史書です。既に現存していない文献ですが、陳寿魏略を参照して三国志を記載した可能性を指摘されています。
ただ、異論もあって、陳寿が典拠したのは魏略ではなく「魏書」という歴史書だという説もある。魏書王沈(-266年)という普の司馬氏に仕えた官吏が記載した本です。王沈は普の地理学者裴秀(224-271年)と親しかったので東夷の情報に詳しかったという。
何れにしても陳寿は他の文献を参考にして三国志を書いている可能性は高い。此の点について、陳寿は他書を盗用したと表現する人がいますが、盗用とは言い過ぎと思います。確かに日本書紀のように「一書に曰く」で引用を明示していないことは不誠実であるかも知れません。しかし、中国の修史官が正史を書く時には、過去の正史、信頼の置ける歴史書の内容を尊重して執筆する義務があったと考えます。官選の歴史書ですから当然と言えます。従って、あらゆる歴史書を読破するのは当たり前で、必要なら引用することもあったと思う。正史は国家の歴史書ですから、信頼のおける他書参照・引用が忌避される話ではないと思います。話が脱線してますが、この事は後述する論旨に関係するので敢えて記載しています。

【補足】
陳寿の三国志が世の中に出たのは陳寿の死後です。従って、正史として扱われるのか、本人も分からなかったと思います。ただ、国史としての体裁で記載しているのは確かなので、望みは持っていたと思われる。


二倍年歴説批判1
三国志魏志東夷伝倭人条(注)/ 裴松之


話を戻します。裴松之三国志注釈版で以下のように引用している。

原文:「魏略曰、其俗不知正歳四節、但計春耕秋収為年紀。」
意 :「魏略いわく、(倭国では)その習俗は正歳四節(陰暦の暦)を知らず、
    ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀となす。」

彼は倭人の暦に関する記述が、三国志オリジナルに無かったため、注釈版三国志の中で魏略から引用したのでしょう。この記述から、古代の倭人が一年を耕作期(春夏)と収穫期(秋冬)の二つに分けて数えていた可能性が推定された訳です。
しかし、三国志の注釈版記述から、この説が単独的に出てきたわけではありません。日本書紀という文献によると、初期の天皇の在位期間や天皇の享年は現実的でないほど引き伸ばされていることは知られています。一般的には「讖緯(しんい)思想による紀年の作為的延長」と解釈されることが多い。その結果、架空天皇の挿入や天皇在位、享年の引き伸ばしの可能性が指摘されている。二倍年は、この異常な年齢の原因を当時の年齢の数え方の違いから説明しようとしたものです。この説によれば実際の享年(宝算)は半分になるので解釈しやすいという訳です。ただ古代が一貫して二倍年暦であるということではなく、中国の暦が採用されて廃止されたというのが一般的な認識です。具体的な時期は提唱者によって様々で統一されていない。


二倍年歴説批判2
三国志魏志東夷伝倭人条


また、陳寿の書いた魏志東夷伝倭人条には以下の記述がある。
原文:「其人寿考或百年或八九十年。」
意 :「(倭人の)人々は長寿で、或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。」

「倭人は長寿で、80~100歳の人がいる」という描写があることから、当時としては寿命が長過ぎるので、二倍年暦説を補強すると主張する人もいます。想像ですが、おそらく此の一文も魏略の中に記述されていたと思います。

二倍年が初めて提唱されたのは、1880年にWilliam Bramsenというデンマークの日本史学者が「日本年代記」という書籍で発表したのが最初のようです。魏略を論拠とした解釈は、その後、山本武夫氏、高城修三氏等、日本人研究者によって提唱されています。しかし、学説として高い評価を得ているかというと、そうでもないようです。むしろ学術的には埋もれてしまった学説と扱われているかも知れません。


(2)二倍年説の評価
二倍年という考え方は、中国にも朝鮮にも、いや世界的に見ても学術的に存在が確認されたという話は聞いたことがありません。私自身にも懐疑的な点があるのですが、その理由を以下にいくつか記載します。

【補足】
一部の歴史学者がアジア南部島しょ部に実在すると主張してますが、主観的な判断や推定によるもので、学術的に証明されてはいない。仮にその存在仮説が正しいとしても、該当文化の伝播ルートは単なる想像でしかなく、証拠もない。

①東南アジア広域文化圏の倭国
九州地方の高度な水田稲作は紀元前9~10世紀頃には始まっていた可能性があります。それまでの時代にも稲は存在していましたが、陸稲(おかぼ)という種類です。専門的な分類では熱帯ジャポニカと呼ばれる場合もあります。現代においては、陸稲水稲は品種的に差は無いのですが、当時のものは別物で、陸稲は連作に弱く、収量も少ない。温帯ジャポニカと呼ばれる水稲は中国南部から導入されなければ日本には無いものでした。水稲栽培技術は文化として伝わったと思われるが、温帯ジャポニカ種の稲もみを持った移住者がもたらした可能性が高い。稲のDNA分析では長江流域が発祥地候補となっており、大陸から直通で日本列島に入ってきた可能性が高い。
また技術を伝えた渡来人の形質に最も近い集団は頭蓋骨の計測値から、河南省の新石器時代人、青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人と判定されている。彼らは農耕民族だが舟を操る海洋民族(海人族)の性格を併せ持つ。
一方、倭国に太陰暦が導入される以前の、縄文末期~弥生時代は、季節の農耕習慣で年を数えていた事は想像できます。もしそれが二倍年であるなら、水田稲作を伝えた移住者の故郷である中国華南地方でも、同じ年の数え方が古い時代にあったと考えるほうが自然です。仮にもっと正確な暦を持っていたなら倭国にも伝わったでしょう。東南アジアの広域文化圏で活動した海人族の影響力を考えると、倭国だけが孤立して独自文化を育んでいたとは考えにくい。むしろ水稲の伝播と一緒に彼らの文化が日本列島に広がっていった可能性が大きい。
しかし、中国の二十四史最古の史記を見ても太陰暦導入以前に二倍年があった証拠はないと思います。よく史記を含む中国古文献の百歳に至る長寿記述を証拠に上げる人が多いが短絡的です。近代でも長寿で有名になったコーカサス地方の実態が、戸籍の整備遅れによる年齢不明や詐称であったのは有名です。また、中国人には長寿を吉祥神仙境涯と捉える認識が特に強いようで、文章を飾る表現(吉祥句)として捉えた方が良いと思います。
二倍年が中国人の祖先が持っていた文化なら、記録好きの彼らですから何処かで具体的な年や年齢の数え方として記述されると思います。二倍年が中国南部にも無いのであれば、倭国だけにあったというのは説得力がない。

②魏略の記載解釈
前項で記述したように魏略の中に「計春耕秋収為年紀」という記述があったのは事実と思いますが、この記述が、倭人の暦としての年数の数え方を具体的に表現しているとは考えにくい。「春耕秋収」というのは漢文の慣用句表現と思われます。倭人は正確な暦を知らず、季節の移り変わりに伴う農耕生活習慣で一年を認識していたということです。日本人が「春の田植えの季節を迎え、やがて実りの秋を迎えて一年が過ぎる」と表現するのと同じでしょう。単に季節の周期性を表す慣用句を分解してみせて、年数の計数法と捉えるのは拡大解釈ではないだろうか。特に温帯地方であれば、季節の周期性が春夏秋冬1年であるのは明確なことです。その周期をわざわざ半分に区切って数える必然性がどこにあるのか不明確です。
更に、正格漢文の文法で「春耕で一年、秋収で一年と数えている」という読み方は可能なのだろうか? むしろ「春耕秋収を合わせて一年と数えている」と読んだほうが正しい解釈と思います。漢文というのは句読点の位置が表記されないのが特徴ですが、「」は一箇所のみですから、計る対象は「春耕秋収」までと考えるのが論理的です。もし各々を一年と数えるなら、例えば「計春耕為年紀、計秋収為年紀」のように並置記載になるはずです。魏略からの引用記述の奇妙な解釈で存在根拠とするのは説得力に欠ける。

③普書の記載経緯
普書西普東普(265-420年)の正史ですが、唐代の648年以降になってから執筆された史書です。普書(巻97四夷伝倭人条)には、以下の記述がある。

原文:不知正歳四節、但計秋收之時以為年紀。人多壽百年、或八九十。
意 :「(倭国では)正歳四節(陰暦の暦)を知らず、ただ、秋の収穫時を以て
    年紀としている。人々の多くが百歳、あるいは八~九十歳の長寿である。

この記述は魏略三国志(魏志東夷伝倭人条)の内容によく似ていることが分かると思います。普書の修史官は過去の歴史書を読んでいる証拠です。しかし、よく見ると年紀の数え方の描写は異なります。「倭人は秋の収穫時を以って年紀となす」と記載されています。これは、魏略の記載に対して二倍年暦説を否定する内容なのか、それとも同じ意味なのか着目すべき点です。

この記述の違いから、以下のニ通りの解釈が想定される。
(a)普書の「計秋收之時以為年紀」は四季一回りを数えて一年とする考え方で通常
 年暦を表し、魏略計春耕秋収為年紀」は二倍年暦を意味している。
(b)魏略の計春耕秋収為年紀」も普書の「計秋收之時以為年紀」も表現方法は異
 なるが、両者とも四季一回りを数えて一年とする通常年暦で、同じ意味である。

私は後者(b)が正しいと思います。根拠は後述します。また、仮に前者(a)が正しいとしても、中国史書において倭人の観察記述が文献で異なることになります。いずれにしても二倍年暦説は学説としては弱いという結果になります。
(b)が正しいと考える根拠は普書の記述経緯に関係している。普書は対象となる時代と執筆期が大幅に離れており、正確性に欠けるという評価があります。倭人の観察記録も、その時代や風俗の情報ネタが何処にあるのか具体的には不明です。研究者の評価でも、殆どは古い時代の文献を参照して記載されており、独自の観察記録ではない可能性が高いという。そもそも、385~230年も前の正史を書くこと自体に無理があるのです。倭国の文化度もそれだけ長い期間を経れば変わって来るのは当然です。正確を期そうと思えば古い文献記述が頼りになるのは明白です。
記述内容の類似性は、普書が、魏略三国志を参照して記載している可能性が高い事を示している。更に見方を一歩進めることも可能です。普書が同じ記録を見て記載しているならば、当時の中国語で「計春耕秋収為年紀」と「計秋收之時以為年紀」が同意であるか、少なくとも矛盾しない表記であることの証拠になります。普書の修史官は、の末期からの初期に書かれた代歴史書の内容を肯定的に理解し、引用しているのです。

日本書紀記述との整合性
これは誰でも気が付くことですが、日本書紀の特定の時代が、春夏で一年、秋冬で一年と数えられていた場合、
・春夏 → 3月、4月、5月、6月、7月、8月
・秋冬 → 9月、10月、11月、12月、1月、2月
ですから、3-8月年9-2月年が交互に配置されることになります。古い天皇の時代は記事も少なく毎年の記録がない場合も多い。しかし、異常に長寿の天皇の記録を見ても、同じ年に例えば4月条9月条が同居しています。これは二倍年暦説では説明できません。
仮に、ひと月が陰暦月の半分の1~15日までしか無いとすれば辻褄は合いますが、日本書紀は、春4月秋9月というように季節と併せて月を記載している箇所が非常に多いので矛盾を生じます。また日本書紀全体を通して16日~月末日付の記事も存在するので、ひと月15日説を採っても問題解決にならない事は確かです。15日説は古事記の記述から導かれた論であり、正史では通用しない。


その他にも、二倍年暦と通常暦の境界がどこにあるのか、記録された時代は帝紀旧辞の時代か、それとも日本書紀編纂時なのか等、個人的に疑問がいくつかありますが、長くなるので割愛します。まだ調べ足りなくて断定はできませんが、少なくとも日本書紀の紀年が二倍年であるというのは、現時点では無理があるような気がします。暦は中国から輸入された陰暦太陰太陽暦)で記載され、天皇の享年(宝算)のみが二倍年で数えられたというならば、可能性はあるような気もします。しかし、どうしてそのような暦と一致しない数え方を行うのか必然性が無いように思う。
日本書紀の紀年は、ある目的を持って引き伸ばされているという事実は、事実として素直に受け止めればよいのではないか。二倍暦に留まらず、n倍暦などという数字合わせの根拠性のない論を持ち込み、書紀の記述年代を実年代に近ずけてみても、意味のないアプローチと思います。







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二倍年暦 * by レインボー
>暦は中国から輸入された陰暦(太陰太陽暦)で記載され、天皇の享年(宝算)のみが二倍年暦で数えられたというならば、可能性はあるような気もします。しかし、どうしてそのような暦と一致しない数え方を行うのか必然性が無いように思います。

〇たいへん参考になりました。
 二倍年暦という説は、日本書紀が創作でなく事実に近いことを言いたいのでしょうが、ご指摘のとおり、無理が多すぎです。
 草々

Re: 二倍年暦 * by 形名
レインボーさん、こんばんは。
この記事は元々、一部のアマチュアの歴史家さんたちが、2倍暦にとどまらず、3倍暦、4倍暦というふうな根拠の怪しい仮説を持ち出し、それを適用する事によって書紀の紀年が実年代に近ずいたと主張し、n倍暦の正しさを決定視するような論調を見たことに反発して書いたものです。何らかの理由によって紀年は引き伸ばされているのは確実でありますから、そこにn倍暦を混在して適用し、適宜短縮化すれば、実年代に近ずいていくのは当たり前です。数字合わせの、あまりにひどい論理に流石に腹が立って書き始めたものの、冷静になると馬鹿らしくなってしまい、当初の内容から方向を変えて記載しました。お恥ずかしい限りです。

No title * by bigbossman
興味深く拝見させていただきました
自分は、記紀の古い時代の記述から
何かを論ずるのは難しいんじゃないかと思ってます
各天皇の事績はもちろん
天皇の代数や系図、干支などもですね

二倍年暦についても、もし中国側の資料に
はっきりした記述があるならともかく
おっしゃるように、魏略逸文の当該部分も
どうとでも解釈できそうな内容です
わかるのは、当時の倭国には月の朔望による暦はなく
太陽の動きで1年を認識していたことくらいじゃないでしょうか


Re: No title * by 形名
bigbossmanさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
記紀の信憑性に関しては同感ですね。日本の正史であるのは確かですが、客観性のある事実が書かれた歴史書とは思えません。中国のように王朝交代による治世ではなく万世一系が建前の歴史ですから、政争はあったとしても事実は隠されてしまう事が多いのではと感じます。また、二倍年歴に関しては、私個人的には単なる数字合わせの論のように感じます。適用された時期、その後の暦との境界等の証拠などもなく、学術的な分析の及ばない空論ではないかと思うこともあります。

* by 通りすがり
二倍年曆が無かったのなら、神社や皇室で大祓の儀式が年に二回も行われることについて説明がつかないと思いますね。二倍年暦については、孔子のことも調べてからお願いします。

Re: タイトルなし * by 形名
通りすがりさん、コメントありがとうございます。

> 二倍年暦が無かったのなら、神社や皇室で大祓の儀式が年に二回も行われることについて説明がつかないと思いますね。

大祓が年二回行われるという状況証拠については、古代中国文献などに依存しない日本固有の祭祀を上げている点で貴重な証拠事象であると思います。また、夏越神事、年越神事が古代暦に直結するという説が一般に流布されているのは承知しています。しかし、各々の神事が二倍年暦年の最後に行われた儀式であると何故断言できるのか疑問があります。私もこの分野を掘り下げて調べたことがないのですが、暦に直結すると事を歴史学、民俗学の立場から証明している論文も見たことが有りません。否定的な証拠が無いのも事実ですが、この神事を二倍暦の証拠とするなら、神事と暦の関連性もう少し詳しく論証して欲しいと思っています。


> 二倍年暦については、孔子のことも調べてからお願いします。

通りすがりさんが、孔子の論語等の独自研究者なのか、古賀達也氏の論文を引用しているのか分かりませんし、孔子の残した文献の何処の部分を、どう解釈して二倍年暦に結びつけているのか分かりません。従って、この指摘に対してお答えすることはできません。もし、一般的な言われている論語の「年齢と人間の成長度合」に関して証拠事例としているなら、この論はむしろ陳腐化した論であり、二倍年暦と結びつけるのは他の中国文献での証拠と言われるものと同類と感じています。

※コメント欄で論述するのは無理があると思いますので、通りすがりさんが論証している記事などがあれば、リンクを張っていただけると新たな視点に気が付かされることもあると思います。宜しくお願いします。

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二倍年暦

>暦は中国から輸入された陰暦(太陰太陽暦)で記載され、天皇の享年(宝算)のみが二倍年暦で数えられたというならば、可能性はあるような気もします。しかし、どうしてそのような暦と一致しない数え方を行うのか必然性が無いように思います。

〇たいへん参考になりました。
 二倍年暦という説は、日本書紀が創作でなく事実に近いことを言いたいのでしょうが、ご指摘のとおり、無理が多すぎです。
 草々
2019-05-29-08:32 * レインボー [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: 二倍年暦

レインボーさん、こんばんは。
この記事は元々、一部のアマチュアの歴史家さんたちが、2倍暦にとどまらず、3倍暦、4倍暦というふうな根拠の怪しい仮説を持ち出し、それを適用する事によって書紀の紀年が実年代に近ずいたと主張し、n倍暦の正しさを決定視するような論調を見たことに反発して書いたものです。何らかの理由によって紀年は引き伸ばされているのは確実でありますから、そこにn倍暦を混在して適用し、適宜短縮化すれば、実年代に近ずいていくのは当たり前です。数字合わせの、あまりにひどい論理に流石に腹が立って書き始めたものの、冷静になると馬鹿らしくなってしまい、当初の内容から方向を変えて記載しました。お恥ずかしい限りです。
2019-05-29-19:41 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

興味深く拝見させていただきました
自分は、記紀の古い時代の記述から
何かを論ずるのは難しいんじゃないかと思ってます
各天皇の事績はもちろん
天皇の代数や系図、干支などもですね

二倍年暦についても、もし中国側の資料に
はっきりした記述があるならともかく
おっしゃるように、魏略逸文の当該部分も
どうとでも解釈できそうな内容です
わかるのは、当時の倭国には月の朔望による暦はなく
太陽の動きで1年を認識していたことくらいじゃないでしょうか

2019-05-30-08:41 * bigbossman [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No title

bigbossmanさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
記紀の信憑性に関しては同感ですね。日本の正史であるのは確かですが、客観性のある事実が書かれた歴史書とは思えません。中国のように王朝交代による治世ではなく万世一系が建前の歴史ですから、政争はあったとしても事実は隠されてしまう事が多いのではと感じます。また、二倍年歴に関しては、私個人的には単なる数字合わせの論のように感じます。適用された時期、その後の暦との境界等の証拠などもなく、学術的な分析の及ばない空論ではないかと思うこともあります。
2019-05-30-19:47 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

二倍年曆が無かったのなら、神社や皇室で大祓の儀式が年に二回も行われることについて説明がつかないと思いますね。二倍年暦については、孔子のことも調べてからお願いします。
2019-11-05-11:20 * 通りすがり [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: タイトルなし

通りすがりさん、コメントありがとうございます。

> 二倍年暦が無かったのなら、神社や皇室で大祓の儀式が年に二回も行われることについて説明がつかないと思いますね。

大祓が年二回行われるという状況証拠については、古代中国文献などに依存しない日本固有の祭祀を上げている点で貴重な証拠事象であると思います。また、夏越神事、年越神事が古代暦に直結するという説が一般に流布されているのは承知しています。しかし、各々の神事が二倍年暦年の最後に行われた儀式であると何故断言できるのか疑問があります。私もこの分野を掘り下げて調べたことがないのですが、暦に直結すると事を歴史学、民俗学の立場から証明している論文も見たことが有りません。否定的な証拠が無いのも事実ですが、この神事を二倍暦の証拠とするなら、神事と暦の関連性もう少し詳しく論証して欲しいと思っています。


> 二倍年暦については、孔子のことも調べてからお願いします。

通りすがりさんが、孔子の論語等の独自研究者なのか、古賀達也氏の論文を引用しているのか分かりませんし、孔子の残した文献の何処の部分を、どう解釈して二倍年暦に結びつけているのか分かりません。従って、この指摘に対してお答えすることはできません。もし、一般的な言われている論語の「年齢と人間の成長度合」に関して証拠事例としているなら、この論はむしろ陳腐化した論であり、二倍年暦と結びつけるのは他の中国文献での証拠と言われるものと同類と感じています。

※コメント欄で論述するのは無理があると思いますので、通りすがりさんが論証している記事などがあれば、リンクを張っていただけると新たな視点に気が付かされることもあると思います。宜しくお願いします。
2019-11-05-15:42 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]