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東国の古代史

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2019-03-03 (Sun)  06:14

伊勢湾人の墓? -下郷天神塚古墳《佐波郡玉村町》-

最近、興味を引くのは削平された古墳ばかり。すでに存在しない下郷天神塚古墳について調べてみました。
この古墳は、群馬県最古の古墳、元島名将軍塚古墳の後継古墳と言われています。関東では、栃木県の一部を除いて、前方後方墳はたったの一代限りで前方後円墳に姿を変えていきます。出土物から彼らは移住者の可能性が高い。おそらく最初の後方墳は移住者集団の首長本人、次代の後円墳は首長の近親者と考えています。墳形が変わったからといって、決して敵対的に倒された訳ではありません。この2つの墳形変化の間に、新たな広域首長連合が成立したと考えています。前方後方墳は東海西部の特定氏族の拡散によって広がったが、1世代を経るうちに、彼らも新しい連合に属したと考えている。それが自主的なものだったのか、特定勢力による軍事力が背景にあったのかは断定はできませんが、九州から東北青森まで統一されたところを見ると権力の要素もあり、連合に入らないの事による不利益があったようにも思えます。
この一代目の後方墳と次代の後円墳のペアを調べています。ペアで考えるのは移住者である彼らが定着に成功し、階級社会を築けたかどうかの証拠にもなるからです。さらに、東北地方を含む東国地域で、どの時代に、何処で出現しているのか明らかにしたいと思っている。その作業によって氏族の移動経路と定着範囲が確認できると考えています。

下郷天神塚古墳1 


群馬県には、このペアが確実なところが3ヶ所あると思っています。
①群馬県太田~栃木県足利.......藤本観音山古墳本矢場薬師塚古墳
②群馬県前橋........................前橋八幡山古墳+前橋天神山古墳
③群馬県高崎........................元島名将軍塚古墳+下郷天神塚古墳

しかし、高崎市の場合は略図で示すようにペアとしては少し離れ過ぎている。もっと近くに候補となりうる古式前方後円墳があります。例えば綿貫古墳群普賢寺裏古墳が候補となるでしょう。そこで定説では後継とされている下郷天神塚古墳の出土品や形態などを調べてみた。



①名称  :下郷天神塚古墳(現在は下郷という旧地名は消滅している)
②現在所在地
墳丘後円部:群馬県佐波郡玉村町八幡原(削平)
墳丘後方部:高崎市八幡原町 (削平)
③保存と調査状況
・       ~1915年 前方部を道路建設で破壊
・1915~1964年 後円部墳丘は残存
・1965~1970年 関越自動車道建設のため墳丘消滅 (未調査で消滅?)
・1976〜1977年 教育委員会の発掘調査
④墳丘形態
墳形  :前方後円墳/周濠あり
墳丘方位:西南西ー東北東
周濠長 :155m
墳丘  :墳長100m、後円径48m、前方幅48m、くびれ幅26m、高さ不明
葺石  :あり(河原石)
主体部 :不明(後円部に粘土槨と推定されるが未確認)
⑤出土遺物
埴輪  :人面線刻画付き器台形埴輪、円筒埴輪、朝顔形埴輪II式、壺形埴輪
土師器 :S字状口縁台付甕底部穿孔パレス壺(形態不明)
その他 :(銅鏡形態銘不明)、管玉 
⑥推定築造年代:公式には4世紀後半であるが西暦320年頃と思う。
⑦補足 :4Kmほど東には本古墳に先行する川井稲荷山古墳40mが存在。
     玉村町最古の前方後円墳またはホタテ貝式で3世紀中葉製の三角縁神獣鏡出土。
       北山茶臼山古墳と同じくセカンダリクラスからの三角縁神獣鏡の出土例。


この古墳は教育委員会で調査後に削平されたと思っていました。しかし、玉村町歴史資料館の第18回企画展資料を見ると、破壊されてから調査が入ったようです。このような大型の古式古墳が主体部の調査もなく破壊されるのは残念です。関越自動車道建設は突貫工事でしたから、行政規模の小さな玉村町では対応しきれなかったのか?

下郷天神塚古墳2 
1976〜1977年の発掘調査状況(玉村歴史資料館の展示画像転写

上の発掘画像は後円部側の周濠と墳丘端ですが、墳丘は存在しません。表土に埋もれた弥生時代の周溝墓のように見えます。墳丘端の葺石は残っているが、基壇面より上がありませんので、埋葬主体部は既に無かったのでしょう。現在はちょうど高速道路の真下になる部分です。高速道建設に使う道路が右側にあるので、おそらく後円部全体の調査は行われていないのかも知れません。


(1)立地
烏川(からすがわ)が井野川と合流する地点から800mほど下った烏川左岸の侵食崖上にあります。元島名将軍塚古墳とは井野川水系で繋がっているが、4.8Kmほど離れています。

下郷天神塚古墳3 
1961年の墳丘残存状況(国土地理院)

下郷天神塚古墳4 
拡大画像(国土地理院)

↑前方部を道路が貫いていて墳丘は破壊されています。道路に影が見えるが、墳丘の影ではなく道路添いの樹木によるものです。既に前方部はかなり削られて低くなっているようです。後円部はまだ保存されているように見えます。天神塚の名前から祠のようなものがあったのかも知れません。周濠の痕跡が前方部端と後円部端に微かに残っています。

下郷天神塚古墳5 
現在の現場と古墳の推定位置

下郷天神塚古墳6 
関越道の東側

↑右側側道のフェンス部分が後円部側の周濠端になります。

下郷天神塚古墳7 
関越道の西側

↑左側の側道付近まで後円部墳丘があったもよう。交差点中央がくびれ部南端で手前は周濠部になります。

下郷天神塚古墳8 

↑画像の左隅あたりが前方部墳丘端で、右側住宅付近は前方部墳丘頂です。周濠端は撮影位置よりも後ろになります。広角レンズで撮っているので距離感が強調されていますが、墳丘長は100m程度として撮影しています。

下郷天神塚古墳20 

↑1961年画像では墳丘の西北に円墳が密集していますが、道路沿いの一つが近代の墓所として残っています。かなり大型の円墳です。陪塚にしては遠いが同族の古墳でしょう。道路先方に見えるのが下郷天神塚古墳のあった交差点です。

下郷天神塚古墳11 

↑墳丘から120mくらい南には烏川の侵食崖が迫っている。おそらく築造時は侵食はこれほど進んではいなかったと思われます。ここから少し上流にある若宮八幡宮境内には崖に落ちそうな大型円墳があります。


(2)出土品評価
S字状口縁台付甕底部穿孔は東国の古式古墳では定型的といわれるほど普及してる土器です。東海地方西部を発祥とする土器に間違いないのですが、移住者子孫が当地で焼成したものと、彼らの使用した土器の機能性を受け入れて真似た原住民もいたはずです。この古墳周辺のS字状口縁台付甕は東海地方独特の煮沸効率の高い薄地(厚みは数ミリ)のように見えます。たぶん同族が作成したものだと思います。

下郷天神塚古墳14 
本古墳周辺の生活遺跡から出土したS字状口縁台付甕(玉村歴史資料館の展示品

この古墳埋葬者の出自を推定する上でもっとも重要な遺物が、人面模様が描かれた以下の器台形埴輪です。玉村町歴史資料館に出向いたが、現物は企画展の時だけ収蔵場所から借り受けているようで、撮影できませんでした。

下郷天神塚古墳12 
人面線刻のある器台形埴輪(玉村歴史資料館の展示画像転写

画像が不鮮明なので分かり難いが、上の画像の断片を復元したものが下の模式図の図柄になります。なお、収蔵品は復元された形になっているようです。

下郷天神塚古墳13 
右側の図柄が人面模様(玉村歴史資料館の展示画像転写

以下の愛知県亀塚遺跡や岐阜県今宿遺跡出土の線刻人面土器と比較すると分かりやすい。表現は異なりますが、絵のパターンは同じです。安城市歴史博物館で見学したことがありますが非常に大胆で美しいものです。

下郷天神塚古墳15 
愛知県安城市亀塚遺跡出土の線刻人面土器(安城市公式hp公開画像)

下郷天神塚古墳19 
岐阜県大垣市今宿遺跡の線刻人面土器(岐阜県公式hp公開画像)


特徴は顔面の線ですが、黥面と云われる入れ墨です。当時の人々がみな黥面であったかは断定できませんが、三国志魏志倭人伝には黥面文身の記載があるので入れ墨を行う風習があったのは事実でしょう。この土器は伊勢湾岸備讃瀬戸地域で出土しますが、その他では出土例が非常に少ないそうです。従って、この古墳の埋葬者は伊勢湾出身者子孫である可能性が高い。古墳の削平前に調査が入れば、もっと多くの人面土器が出土した可能性もあります。
また玉村町の調査では、周辺の生活遺跡から西暦250~275年位を境に急激にS字状口縁台付甕などの伊勢湾地域土器が増加している。この点でも本古墳築造以前に移住者が入っていることが分かります。先行する元島名将軍塚古墳の埋葬者は伊勢湾出身者本人かも知れません。
普賢寺裏古墳は未調査で詳しい情報がないが、結論として下郷天神塚古墳の埋葬者が元島名将軍塚古墳の近親者ではないにしても、後継者であるのは間違いないと思います。


【後述】
今後、以下の後方墳-後円墳のペアの下調べが完了したら、いずれ広範囲な評価記事を纏める予定です。
・福島県河沼郡会津坂下町....亀ヶ森古墳鎮守森古墳
・福島県郡山市田村町..........大安場古墳1号墳+次代不明
・栃木県大田原市................下侍塚古墳上侍塚古墳
長野県長野市...................姫塚古墳川柳将軍塚古墳
・長野県松本市...................弘法山古墳+次代不明







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コメント(21)

削平された古墳とペアで考えるのは新しい試みですね。
その上で、埋葬者が伊勢湾出身者子孫となれば、他の強大氏族に飲み込まれ埋没したと思われていたこれらの氏族の足跡が見えてくることが期待できますね。
sagami_wan2019/1/14(月) 午前 10:07
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No title * by 記紀いっぱつ
こんにちは。

後方墳-後円墳のペアが初代と2代目以降の墳墓との着想、興味津々です。今後の展開を楽しみにしています。

No title * by 形名
> sagami_wanさん、こんばんは。
東海西部の氏族が拡散したのは既に定説化されていますが、古墳単位で明確に色分けは出来ていないような気がします。移住者が入る前の先住者、さらに後から入る別の移住者が考えられます。群馬の場合でも、みな一緒くたに上毛野氏の墓に括られていますが、そんな単相とは思えないですね。多分、一時は繁栄しても衰退していくものあったと思います。そんな古代の地方政治史の中での氏族の浮沈みたいなものが知りたいですね。

No title * by 形名
> 記紀いっぱつさん、こんばんは。
墳形の違いがあるセットは同族と思います。なのに、同族の慣例習俗を変えさせる、自発的なのか、他のバイアスなのか、力が働いて変わった訳ですね。その原因を探りたいという興味をもありますね。また拡散も一方向だけでなく。一時代の土器ベクトルでみると反対の方向を向いていたりします。なにか政治的な変革があったのでしょうが、そのへんも合わせて人の移動を考えてみたいです。

No title * by マサソイト
こんばんは。
過去記事から失礼します。
群馬県は古墳の削平が著しいですね。
しかし古墳群の様子が航空写真に残っているのが良いですね。

No title * by 形名
> マサソイトさん、こんばんは。
群馬の古墳も基本は調査されてから削平されるのが多いです。この古墳は後円部が佐波郡玉村町という小さな行政区にあったので、遅れていた高速道路の突貫工事に対応出来なかったものと思われますね。古い画像は国土地理院の航空写真で公開されてるものです。1940年代になるとアメリカ空軍が撮ったものがあります。
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
今日の大仙山も1948年の写真がありました。見たい年数範囲と空中写真にチェックを入れて、見る時に必ず高解像度表示を選べば削平前の古墳が見られます。なるべく撮影区画に小さいやつを選んだほうが低空で撮ってるので解像度が良いです。

No title * by 上州の人
僕も調べたのですが、元島名将軍塚古墳よりさらに近い位置にある前方後方墳を2基見つけました。
下郷10号墳(下郷SZ42号墳) 全長42m 粘土郭

下郷2号墳(下郷SZ47号墳) 墳丘規模不明 竪穴系
※方墳の可能性有り

No title * by 上州の人
追記
下郷天神塚古墳の発掘番号は下郷SZ46号墳なので、かなり近くにあったようです。

No title * by 形名
> 上州の人さん
古い方墳、前方後方墳は結構ありますね。これらも何れ記事に纏めようと思ってます。まだ考え方がまとまらない。
参考記載です。本記事を書く時に検討したのですが、出土してる東海系土器形式で編年すると以下の時代順になります。
・倉賀野万福寺1号21m(前方後方?)
・元島名将軍塚古墳96m(前方後方)
・下郷SZO1 24m(前方後方?)
・下郷SZ42 12m?(前方後方)
・下斉田古墳 9.5m(前方後方)
・矢中村BSZO3 24m(前方後方)
・下郷天神塚古墳102m(前方後円)
順番は分かっても各古墳の絶対年代の間隔が不明なのではっきり言えないのですが、まず、小型の方墳or前方後方墳が東海からの移住者で階級の差から墳丘の大きさに違いがあると考えることが出来ます。もう一つは、地域先住の小首長が移住大首長と同盟関係を持ったために力を得て同型の古墳を作れた可能性もあると思います。または混在してる可能性もありますね。ただ地域広域首長権という意味だと元島名→下郷天神塚であろうと考えたわけです。

No title * by 上州の人
おぉ~!やっぱりこの辺りは古墳時代初期の大規模な古墳群ですね。時代をもう少し後にすると群馬No.2の浅間山古墳や同じくNo.12の大鶴巻古墳が登場します。さらに近くに安楽寺古墳があるので… 相当幅広い年代の古墳群ですね。県内で比べるとしたら朝倉・広瀬古墳群並みといったところでしょうか?

※朝倉・広瀬古墳群は、前橋市広瀬川右岸に分布する4世紀~7世紀の古墳約200基からなる古墳群。現在はほとんどの古墳が破壊され、9基の古墳が残るのみとなっている。
主要古墳については後でコメントします。

No title * by 上州の人
東国の古代史様
県内の古墳の中に、2世代続いた前方後方墳を発見しました。
富岡市宇田の、阿曽岡・権現堂遺跡1、2号墳です。2基とも前方後方墳で、墳丘規模もほぼ同じ、墳丘の主軸も同じです。現在、1号墳は消滅しましたが、2号墳は消滅せずに残っています。

No title * by 形名
> 上州の人さん、こんにちは。
私個人的には、倉賀野古墳群、広瀬古墳群も同族ではないかと考えています。考古学者の若狭徹さんは、中居町一丁目遺跡の方形周溝墓群(弥生時代)を作った氏族の子孫が発展して倉賀野古墳群勢力へ繋がるという説を述べています。つまり在地氏族ですね。私も倉賀野古墳群への連続性については否定できないですが、倉賀野古墳群は生活土器類からすると在地勢力ではなく外来者の可能性もあると。
広瀬の八幡山後方墳と天神山後円墳は東海系移住者だろうと思います。時期も元島名将軍塚とほぼ同じです。古利根川の氾濫原に接する微高地にありますので、利根川を遡上したと思っています。東海移住者は、荒川、利根川を使っています。3世紀の利根川は東京湾に注いでいたのは周知です。12月の東松山でシンポジウムに参加しましたが、荒川と利根川は接続していた可能性が大きいそうです。埼玉県東松山の古式古墳も荒川低地帯にある東海系ですね。でも広瀬古墳群の移住者2代は衰退した可能性もあります。時期的に倉賀野古墳群が後継かな?

No title * by 形名
続)
朝倉の6世紀中葉の天川二子山古墳に始まる勢力も移住者ですが東海系ではないとお思う。畿内の物部氏か上毛野氏と考えています。

No title * by 形名
> 上州の人さん
阿曽岡・権現堂遺跡は貫前神社の近くですが、まだ行ったことは無いです。ただ今まで読んだ史料経験から、この地域の遺跡には長野経由で入ってきたS字状口縁台付甕など東海系土器もあるが、北陸系土器もかなり多いようです。古墳の被葬者が烏川から鏑川を遡上した可能性もあるが長野経由で入った人、または在地の氏族が土器文化の影響を受けた可能性もありますね。判断は難しいです。古墳の性格からいうと北山茶臼山古墳、川井稲荷山古墳などの、いわゆるセカンダリークラスと呼ばれる階層ですね。調査報告書『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』富岡市教育委員会 1997は高崎経済大学図書館(有料参照)にあるのですが248Pの太作ですから読むのは一苦労です。富岡市図書館にあれば無料で借りて読めるのですが。

No title * by 上州の人
となると鏑川流域はセカンダリークラスの古墳が多いことになりますね。

No title * by 形名
> 上州の人さん
鏑川の古墳は立地が変わっています。富岡地区には弥生の高地性集落遺跡、古い古墳や5世紀の豪族居館もあるのに、吉井にはいると後期の円墳があるが、大型は殆どありませんね。平井古墳群は鮎川水系だし。

No title * by 上州の人
鏑川流域は藤岡や高崎(安中)とはまた別の民族が居たのでしょうか?
富岡市や甘楽郡の古墳はまだ詳細は分かりませんが、首長の墓の可能性があるのは次の古墳辺りでしょうか?
・太子堂塚古墳(富岡市一ノ宮)
・御三社古墳(富岡市七日市)
・堂山稲荷古墳(富岡市一ノ宮)
・北山茶臼山古墳、西古墳(富岡市)
・笹森(稲荷)古墳(甘楽町福島)
・天皇塚古墳(甘楽町福島)
甘楽郡は下仁田町馬山や富岡市妙義町山口、甘楽町天引など、他地域よりちょっと独特な所に古墳が多いです。

No title * by 形名
> 上州の人さん
この中で古いのは、北山茶臼山古墳、西古墳ですが後者は明確なマウンドも見当たりませんでした。御三社古墳はすでに消滅で見ていません。天皇塚は5世紀前半の粘土槨だと思うが調査されていないんですよね。想像で云わせてもらえば私は在地のような気がします。特に東海系氏族は谷地に入らず高崎前橋の扇状地末端までです。おそらく濃尾平野での水稲栽培の灌漑法は、保渡田のような暖傾斜地の小河川からの引水による灌漑法とは文化が違うのだと。そう考えると鏑川流域もややイメージに合わないです。高崎前橋は古い東海系と物部+上毛野氏ではないかな?
藤岡地域ですが、これもよくわからない。土師氏が入っているのは確実ですが、全部が土師氏とは思えないし、大型の前方後円墳は平井だけで、古いのは白石稲荷山だけですね。立派な家形埴輪が出土してますが、土師氏ではないと思います。家形埴輪だけなら赤堀茶臼山のホタテにもありますからね。

No title * by 上州の人
その白石稲荷山古墳ですが、昨日から外部施設の調査のためにレーダー調査を行っています。調査は5月17日までなので、見学してみるのはどうでしょうか?もし奈良の箸墓古墳と同じ構造が見つかれば、古墳は4世紀以前のものとなり、東日本最古級になるそうです。

【上のコメントの続き】
鏑川流域でよくわからないところその2
方墳がなく、なぜか上円下方墳?や八角形墳が存在する。
~内訳~
上円下方墳・・・7基(南蛇井古墳群)
八角形墳・・・1基(吉井町一本杉古墳)

No title * by 形名
> 上州の人さん
情報ありがとうございます。検索でnhkのニュース動画をみました。早稲田と合同なので、早稲田の電磁波男、城倉正祥先生の調査でしょう。yahooブログの中に学生が運営してるブログがあります。群馬の古墳編年は古頭の考古学先生のせいでみな半世紀~1世紀ほど新しくなってます。遺跡調査は縦割り行政の一環なので、早稲田のような地域無依存の調査グループが入らないと進歩しないですね。これからは変わっていくでしょう。
群馬は確かに単純方墳は少ないですね。八角は渡来人系の墳墓説を読んだことがありますが、どうでしょうかね。たぶん群馬だけで考えないで、関東~中部全域で検討しないとだめだと思います。

No title * by 上州の人
群馬県で方墳が多い所は…今のところ4か所(方形周溝墓は除く)ですかね。
1.前橋市総社
総社古墳群(3基)
2.太田市富沢
富沢遺跡古墳群(7基以上)
3.伊勢崎市西野町、磯町
峰岸山古墳群(最低5基)
4.藤岡市白石
白石古墳群(2基+1基)
あとは個々で数基、という感じです。

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こんにちは。

後方墳-後円墳のペアが初代と2代目以降の墳墓との着想、興味津々です。今後の展開を楽しみにしています。
2019-01-14-15:05 * 記紀いっぱつ [ 編集 * 投稿 ]

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> sagami_wanさん、こんばんは。
東海西部の氏族が拡散したのは既に定説化されていますが、古墳単位で明確に色分けは出来ていないような気がします。移住者が入る前の先住者、さらに後から入る別の移住者が考えられます。群馬の場合でも、みな一緒くたに上毛野氏の墓に括られていますが、そんな単相とは思えないですね。多分、一時は繁栄しても衰退していくものあったと思います。そんな古代の地方政治史の中での氏族の浮沈みたいなものが知りたいですね。
2019-01-14-21:29 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 記紀いっぱつさん、こんばんは。
墳形の違いがあるセットは同族と思います。なのに、同族の慣例習俗を変えさせる、自発的なのか、他のバイアスなのか、力が働いて変わった訳ですね。その原因を探りたいという興味をもありますね。また拡散も一方向だけでなく。一時代の土器ベクトルでみると反対の方向を向いていたりします。なにか政治的な変革があったのでしょうが、そのへんも合わせて人の移動を考えてみたいです。
2019-01-14-21:41 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

こんばんは。
過去記事から失礼します。
群馬県は古墳の削平が著しいですね。
しかし古墳群の様子が航空写真に残っているのが良いですね。
2019-02-14-18:26 * マサソイト [ 編集 * 投稿 ]

No title

> マサソイトさん、こんばんは。
群馬の古墳も基本は調査されてから削平されるのが多いです。この古墳は後円部が佐波郡玉村町という小さな行政区にあったので、遅れていた高速道路の突貫工事に対応出来なかったものと思われますね。古い画像は国土地理院の航空写真で公開されてるものです。1940年代になるとアメリカ空軍が撮ったものがあります。
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
今日の大仙山も1948年の写真がありました。見たい年数範囲と空中写真にチェックを入れて、見る時に必ず高解像度表示を選べば削平前の古墳が見られます。なるべく撮影区画に小さいやつを選んだほうが低空で撮ってるので解像度が良いです。
2019-02-14-19:34 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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僕も調べたのですが、元島名将軍塚古墳よりさらに近い位置にある前方後方墳を2基見つけました。
下郷10号墳(下郷SZ42号墳) 全長42m 粘土郭

下郷2号墳(下郷SZ47号墳) 墳丘規模不明 竪穴系
※方墳の可能性有り
2019-02-26-17:29 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

No title

追記
下郷天神塚古墳の発掘番号は下郷SZ46号墳なので、かなり近くにあったようです。
2019-02-26-17:33 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 上州の人さん
古い方墳、前方後方墳は結構ありますね。これらも何れ記事に纏めようと思ってます。まだ考え方がまとまらない。
参考記載です。本記事を書く時に検討したのですが、出土してる東海系土器形式で編年すると以下の時代順になります。
・倉賀野万福寺1号21m(前方後方?)
・元島名将軍塚古墳96m(前方後方)
・下郷SZO1 24m(前方後方?)
・下郷SZ42 12m?(前方後方)
・下斉田古墳 9.5m(前方後方)
・矢中村BSZO3 24m(前方後方)
・下郷天神塚古墳102m(前方後円)
順番は分かっても各古墳の絶対年代の間隔が不明なのではっきり言えないのですが、まず、小型の方墳or前方後方墳が東海からの移住者で階級の差から墳丘の大きさに違いがあると考えることが出来ます。もう一つは、地域先住の小首長が移住大首長と同盟関係を持ったために力を得て同型の古墳を作れた可能性もあると思います。または混在してる可能性もありますね。ただ地域広域首長権という意味だと元島名→下郷天神塚であろうと考えたわけです。
2019-02-26-19:24 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

おぉ~!やっぱりこの辺りは古墳時代初期の大規模な古墳群ですね。時代をもう少し後にすると群馬No.2の浅間山古墳や同じくNo.12の大鶴巻古墳が登場します。さらに近くに安楽寺古墳があるので… 相当幅広い年代の古墳群ですね。県内で比べるとしたら朝倉・広瀬古墳群並みといったところでしょうか?

※朝倉・広瀬古墳群は、前橋市広瀬川右岸に分布する4世紀~7世紀の古墳約200基からなる古墳群。現在はほとんどの古墳が破壊され、9基の古墳が残るのみとなっている。
主要古墳については後でコメントします。
2019-02-26-21:43 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

No title

東国の古代史様
県内の古墳の中に、2世代続いた前方後方墳を発見しました。
富岡市宇田の、阿曽岡・権現堂遺跡1、2号墳です。2基とも前方後方墳で、墳丘規模もほぼ同じ、墳丘の主軸も同じです。現在、1号墳は消滅しましたが、2号墳は消滅せずに残っています。
2019-02-26-22:01 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

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> 上州の人さん、こんにちは。
私個人的には、倉賀野古墳群、広瀬古墳群も同族ではないかと考えています。考古学者の若狭徹さんは、中居町一丁目遺跡の方形周溝墓群(弥生時代)を作った氏族の子孫が発展して倉賀野古墳群勢力へ繋がるという説を述べています。つまり在地氏族ですね。私も倉賀野古墳群への連続性については否定できないですが、倉賀野古墳群は生活土器類からすると在地勢力ではなく外来者の可能性もあると。
広瀬の八幡山後方墳と天神山後円墳は東海系移住者だろうと思います。時期も元島名将軍塚とほぼ同じです。古利根川の氾濫原に接する微高地にありますので、利根川を遡上したと思っています。東海移住者は、荒川、利根川を使っています。3世紀の利根川は東京湾に注いでいたのは周知です。12月の東松山でシンポジウムに参加しましたが、荒川と利根川は接続していた可能性が大きいそうです。埼玉県東松山の古式古墳も荒川低地帯にある東海系ですね。でも広瀬古墳群の移住者2代は衰退した可能性もあります。時期的に倉賀野古墳群が後継かな?
2019-02-27-11:33 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

続)
朝倉の6世紀中葉の天川二子山古墳に始まる勢力も移住者ですが東海系ではないとお思う。畿内の物部氏か上毛野氏と考えています。
2019-02-27-11:34 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 上州の人さん
阿曽岡・権現堂遺跡は貫前神社の近くですが、まだ行ったことは無いです。ただ今まで読んだ史料経験から、この地域の遺跡には長野経由で入ってきたS字状口縁台付甕など東海系土器もあるが、北陸系土器もかなり多いようです。古墳の被葬者が烏川から鏑川を遡上した可能性もあるが長野経由で入った人、または在地の氏族が土器文化の影響を受けた可能性もありますね。判断は難しいです。古墳の性格からいうと北山茶臼山古墳、川井稲荷山古墳などの、いわゆるセカンダリークラスと呼ばれる階層ですね。調査報告書『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』富岡市教育委員会 1997は高崎経済大学図書館(有料参照)にあるのですが248Pの太作ですから読むのは一苦労です。富岡市図書館にあれば無料で借りて読めるのですが。
2019-02-27-11:37 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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となると鏑川流域はセカンダリークラスの古墳が多いことになりますね。
2019-02-27-17:28 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 上州の人さん
鏑川の古墳は立地が変わっています。富岡地区には弥生の高地性集落遺跡、古い古墳や5世紀の豪族居館もあるのに、吉井にはいると後期の円墳があるが、大型は殆どありませんね。平井古墳群は鮎川水系だし。
2019-02-27-18:39 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

鏑川流域は藤岡や高崎(安中)とはまた別の民族が居たのでしょうか?
富岡市や甘楽郡の古墳はまだ詳細は分かりませんが、首長の墓の可能性があるのは次の古墳辺りでしょうか?
・太子堂塚古墳(富岡市一ノ宮)
・御三社古墳(富岡市七日市)
・堂山稲荷古墳(富岡市一ノ宮)
・北山茶臼山古墳、西古墳(富岡市)
・笹森(稲荷)古墳(甘楽町福島)
・天皇塚古墳(甘楽町福島)
甘楽郡は下仁田町馬山や富岡市妙義町山口、甘楽町天引など、他地域よりちょっと独特な所に古墳が多いです。
2019-02-27-19:51 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

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> 上州の人さん
この中で古いのは、北山茶臼山古墳、西古墳ですが後者は明確なマウンドも見当たりませんでした。御三社古墳はすでに消滅で見ていません。天皇塚は5世紀前半の粘土槨だと思うが調査されていないんですよね。想像で云わせてもらえば私は在地のような気がします。特に東海系氏族は谷地に入らず高崎前橋の扇状地末端までです。おそらく濃尾平野での水稲栽培の灌漑法は、保渡田のような暖傾斜地の小河川からの引水による灌漑法とは文化が違うのだと。そう考えると鏑川流域もややイメージに合わないです。高崎前橋は古い東海系と物部+上毛野氏ではないかな?
藤岡地域ですが、これもよくわからない。土師氏が入っているのは確実ですが、全部が土師氏とは思えないし、大型の前方後円墳は平井だけで、古いのは白石稲荷山だけですね。立派な家形埴輪が出土してますが、土師氏ではないと思います。家形埴輪だけなら赤堀茶臼山のホタテにもありますからね。
2019-02-27-21:01 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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その白石稲荷山古墳ですが、昨日から外部施設の調査のためにレーダー調査を行っています。調査は5月17日までなので、見学してみるのはどうでしょうか?もし奈良の箸墓古墳と同じ構造が見つかれば、古墳は4世紀以前のものとなり、東日本最古級になるそうです。

【上のコメントの続き】
鏑川流域でよくわからないところその2
方墳がなく、なぜか上円下方墳?や八角形墳が存在する。
~内訳~
上円下方墳・・・7基(南蛇井古墳群)
八角形墳・・・1基(吉井町一本杉古墳)
2019-02-27-21:21 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

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> 上州の人さん
情報ありがとうございます。検索でnhkのニュース動画をみました。早稲田と合同なので、早稲田の電磁波男、城倉正祥先生の調査でしょう。yahooブログの中に学生が運営してるブログがあります。群馬の古墳編年は古頭の考古学先生のせいでみな半世紀~1世紀ほど新しくなってます。遺跡調査は縦割り行政の一環なので、早稲田のような地域無依存の調査グループが入らないと進歩しないですね。これからは変わっていくでしょう。
群馬は確かに単純方墳は少ないですね。八角は渡来人系の墳墓説を読んだことがありますが、どうでしょうかね。たぶん群馬だけで考えないで、関東~中部全域で検討しないとだめだと思います。
2019-02-27-22:18 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

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群馬県で方墳が多い所は…今のところ4か所(方形周溝墓は除く)ですかね。
1.前橋市総社
総社古墳群(3基)
2.太田市富沢
富沢遺跡古墳群(7基以上)
3.伊勢崎市西野町、磯町
峰岸山古墳群(最低5基)
4.藤岡市白石
白石古墳群(2基+1基)
あとは個々で数基、という感じです。
2019-02-27-22:38 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]