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東国の古代史

Top Page › 古代日本東国遺跡考 › 上並榎稲荷山古墳《高崎市上並榎町》
2019-03-02 (Sat)  16:13

上並榎稲荷山古墳《高崎市上並榎町》

古い記事で削平古墳として紹介したことがありましたが、もう少し詳しい情報を纏めておきます。

上並榎稲荷山古墳1 
上並榎稲荷山古墳と榛名山の位置関係(GoogleMAP)



本古墳は烏川左岸の高崎台地と呼ばれる部分にありました。1万年前ほど前には烏川本流が流れていた場所だと思いますが、榛名山の度重なる噴火による泥流で高崎台地が形成され、烏川は流路を南に変えたと思われます。現在の烏川は古墳から1Kmほど南を流れています。

上並榎稲荷山古墳2 
上並榎稲荷山古墳位置(高崎市史より)

上並榎稲荷山古墳3 
現在地の状況と上並榎稲荷山古墳の位置(GoogleMAP)


墳丘は1960年頃まで良好な状態で残存されていたが、耕地整理事業で未調査のまま削平されました。そのため、墳丘長は地割図からの推定がなされている。それによると、墳丘長120mの前方後円墳であるという。周濠については1995年の基底部調査で存在が確認されており、馬蹄形でした。1961年の航空写真でも墳丘範囲と周濠の跡がよく残っています。しかし、既に墳丘は削平された後です。よく見ると南側の道路貫通部には造り出しの跡がはっきり残っています。上空から見ても美しい古墳ですが惜しいです。

上並榎稲荷山古墳4 
1946年墳丘消滅前の上並榎稲荷山古墳(国土地理院航空写真)

上並榎稲荷山古墳5 
1961年墳丘消滅後の上並榎稲荷山古墳(国土地理院航空写真)


1995年の現地調査では円筒埴輪片が600個ほど採取されたが、他の遺物は無いようです。残されている遺物は1895年(明治28年)に墳丘上にあった稲荷神社の社殿を移築する時に出土した刳り抜き形石棺の蓋のみが、近くの天竜護国寺の境内に保管されています。石棺身は現地に残されたようですが、その後はどうなったか不明。


上並榎稲荷山古墳10 
石棺が保管されてる天竜護国寺の本堂

上並榎稲荷山古墳9 
石棺の保護建屋

上並榎稲荷山古墳8 
刳り抜き形石棺の蓋

上並榎稲荷山古墳7 
縄掛け突起

上並榎稲荷山古墳6 
縄掛け突起

石棺蓋の全長は238cm、縄掛け突起を除く長さは190cm、幅は81~88cm。石棺蓋の形状は、岩鼻二子山古墳不動山古墳と類似しているそうです。石棺内からは、鉄剣19本、槍2、甲冑(具足)数領、鉄鏃多数が副葬されていたと記録されているが、配置状態などの記録はありません。現物も保管されておらず行方不明。築造時期は出土品の内容から5世紀後半と推定されている。以上は主に高崎市史から引用しています。



此の古墳は高崎市下之城町にあった越後塚古墳と同様に近くには古墳が殆どなく、群馬では珍しい単独大型古墳です。古墳の規模からして、生活遺跡や耕作遺跡が付近に沢山あると思われます。この古墳から500m東の並榎北遺跡では、榛名山の495年前後と520年前後の2回の噴火(Hr-FA)で埋没した水田遺跡が発見されている。

上並榎稲荷山古墳14 
上並榎稲荷山古墳から4Km北方にある保渡田古墳群(GoogleMAP)


高崎市史の5世紀後半の築造推定が正しいとすると、保渡田古墳群と重なってきますので、移住者の可能性もあると思います。ただ後継の古墳が無いということは、何らかの原因で衰退したか、他の地域に移った可能性があるでしょう。保渡田古墳群と同時期の場合、Hr-FAによる泥流被害を受けた可能性があると思います。最初の画像の背景にあるのは榛名山です。冒頭記載したように高崎台地自体が榛名山の火山泥流によって出来ています。
かなり大きな周濠を備えているので、詳しい学術調査が入ったなら、周濠内の中島有無も確認できたと思うので残念です。しかし、円筒埴輪が保渡田と同じ規模であったとすれば、相当量の埴輪片が散乱していたはずです。1995年の調査では僅か600個の埴輪片だけなので少な過ぎる気もします。


墳丘は既に存在せず、現地に行っても痕跡もないが案内をしておきます。

上並榎稲荷山古墳12 
稲荷橋交差点ですが稲荷橋自体は東側40mくらいのところにあります。

上並榎稲荷山古墳11 
稲荷橋は長野堰用水の橋になっています。ここを北に入った場所が現地です。


なお、天竜護国寺の西隣に日枝神社がありますが、境内にあるお稲荷さんは、上並榎稲荷山古墳の上にあった稲荷神社を1908年(明治41年)に移築したものです。それ以前の地図には山稜と神社が記載されています。

上並榎稲荷山古墳13 
1894年の地図

また当古墳の明治~昭和の削平経緯に関しては、以下のブログで詳しく説明されていますので、リンクを貼っておきます。著者は高崎市在住の方ですが膨大な量の史跡巡り記事を保有しています。
『隠居の思ひつ記』史跡看板散歩-126 天竜護国寺








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No title * by 正宗
こんばんわ。
調査発掘後の宅地造成なんでしょうけど、残しておいてほしかったですね。
狭い日本では重要なもの以外はしょうがないのかもしれないですが。

No title * by 形名
> 正宗さん、こんばんは。
どうも1960年代は高度経済成長時代の始まる時期のせいか、開発優先で史跡保存は二の次だったようですね。この古墳は殆ど学術的な調査も入らずに削平されてしまいました。群馬県だけではないですけどね。最近は高崎市も土地開発する場合は条例で調査を行うよう制約があるようです。史跡を残すには個人の地権では無理で行政が買い上げるしかないでしょうね。

No title * by マサソイト
榛名山といえば……確か……
噴火で鎧を着たまま埋もれた男子の遺体が見つかったことを思い出しました。
あと、記事の古墳のように
奈良県天理市にもよく似たような
大型前方後円墳が破壊・削平されていました。
現在は上に某有名宗教団体の建物が立っています😢
群馬県といえば保渡田古墳群を思い出したりしますm(_ _)m

No title * by 形名
> マサソイトさん、こんにちは。
「甲冑を付けた武人」は高崎市の北隣りになる渋川市の出土でした。渋川は榛名山に近いので、被害は大きかったようです。短時間に2~3mもの噴石が積もったとされてます。高崎市の場合は火砕流やその後の雨による泥流被害ですね。この古墳も明治時代には主体部が破壊されていましたが、墳丘のあった1960年に調査して欲しかったですね。天理市は布留物部の遺跡が多いですから、もし大学校内であれば保存して欲しいですね。他県の人が見に行っても何も残ってないのは寂しいです。

No title * by 上州の人
でも、この古墳も完全に破壊されてはいないようです。
古墳の周堀があったところ(後円部北西)に、しっかり古墳を認識しているであろう建物があります。古墳の名前は上並榎稲荷山古墳ですよね。その建物はアパートなのですが、名前が、「稲荷山ハイツ」です。古墳を現代と繋ぐ数少ないものですね。


オーナーの人に感謝したい!!

No title * by 形名
> 上州の人さん、こんにちは。
確かにGoogleで確認すると、稲荷山ハイツと稲荷コートが並んでますね。後円部の南側には墳丘に接するように緑屋根の稲荷荘という古風なアパートもあります。この近辺の土地所有者がアパート経営してるのかな。

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No title

こんばんわ。
調査発掘後の宅地造成なんでしょうけど、残しておいてほしかったですね。
狭い日本では重要なもの以外はしょうがないのかもしれないですが。
2019-02-17-20:34 * 正宗 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 正宗さん、こんばんは。
どうも1960年代は高度経済成長時代の始まる時期のせいか、開発優先で史跡保存は二の次だったようですね。この古墳は殆ど学術的な調査も入らずに削平されてしまいました。群馬県だけではないですけどね。最近は高崎市も土地開発する場合は条例で調査を行うよう制約があるようです。史跡を残すには個人の地権では無理で行政が買い上げるしかないでしょうね。
2019-02-17-20:46 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

榛名山といえば……確か……
噴火で鎧を着たまま埋もれた男子の遺体が見つかったことを思い出しました。
あと、記事の古墳のように
奈良県天理市にもよく似たような
大型前方後円墳が破壊・削平されていました。
現在は上に某有名宗教団体の建物が立っています😢
群馬県といえば保渡田古墳群を思い出したりしますm(_ _)m
2019-02-18-09:24 * マサソイト [ 編集 * 投稿 ]

No title

> マサソイトさん、こんにちは。
「甲冑を付けた武人」は高崎市の北隣りになる渋川市の出土でした。渋川は榛名山に近いので、被害は大きかったようです。短時間に2~3mもの噴石が積もったとされてます。高崎市の場合は火砕流やその後の雨による泥流被害ですね。この古墳も明治時代には主体部が破壊されていましたが、墳丘のあった1960年に調査して欲しかったですね。天理市は布留物部の遺跡が多いですから、もし大学校内であれば保存して欲しいですね。他県の人が見に行っても何も残ってないのは寂しいです。
2019-02-18-13:27 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No title

でも、この古墳も完全に破壊されてはいないようです。
古墳の周堀があったところ(後円部北西)に、しっかり古墳を認識しているであろう建物があります。古墳の名前は上並榎稲荷山古墳ですよね。その建物はアパートなのですが、名前が、「稲荷山ハイツ」です。古墳を現代と繋ぐ数少ないものですね。


オーナーの人に感謝したい!!
2019-02-25-09:13 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

No title

> 上州の人さん、こんにちは。
確かにGoogleで確認すると、稲荷山ハイツと稲荷コートが並んでますね。後円部の南側には墳丘に接するように緑屋根の稲荷荘という古風なアパートもあります。この近辺の土地所有者がアパート経営してるのかな。
2019-02-25-09:46 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]