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東国の古代史

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2019-08-11 (Sun)  19:15

豪族居館・水祭祀の発祥(5/6) -仮説根拠と評価②-

(2)土器形式からの推定
布留式土器は、布留遺跡の調査で初めて見つかり、命名されたものです。その後の調査で全国で確認されるようになりました。今では、大和王権の勢力拡大と共に各地に運ばれ、その後、各地域で作られた土器であることが判っています。

①地域の生活土器形式
以下の図面は関東全域で検出された外来土器の分布状況です。在地土器とされる土器類に関しては反映されていません。


豪族居館水祭祀の発祥35
関東の外来土器分布図クリック拡大


土器は、人の交流や移住を表す重要な遺物です。特に生活土器は移住しても暫くは以前の土器を使い続ける傾向にある。ただ、長い年月を経ると土器文化もやはり融合していき、複数の特徴が混ざり合ったりするのも事実です。上図の検出された土器は、その編年が正確に分類できているわけではないので、参考程度に見たほうがよいと思います。
分布図は河川が手書きで描かれているので、実際の河川地図と比較しずらいですが、群馬県の特徴だけみても、布留式土器井野川を含む烏川水系の上中流部にかけて検出されている。S字甕(かめ)も多いが、これは3世紀代の移住者がもたらしたもので、古墳時代初期までの遺物と考えます。

5世紀代に三ツ寺周辺の遺跡では急激に竪穴式住居が増加し始める。豪族居館内には当地には無かった掘建柱建築も出現しました。また、群馬には5世紀初頭までカマドはありませんでした。三ツ寺遺跡の近くに首長支配下と見られる渡来系の下芝五反田集落遺跡があります。そこでは今までにない朝鮮式カマが突然使われ始める。叩き目が特徴の韓式系土器も榛名山麓だけに短期間出現する。畿内移住者と共に渡来人がカマドなどの技術を持参した可能性が高いだろう。

②環濠居館の須恵器
5世紀初頭には群馬に須恵器の窯場はもちろん技術も無い。しかし、三ツ寺Ⅰ遺跡では畿内の優秀な須恵器が出土している。粘土分析で大阪陶邑製須恵器であることが分かっている。発見された須恵器は生活土器ではなく祭祀用です。
須恵器は後に群馬でも焼かれているが、本格的な生産は6世紀に入る。5世紀代の群馬産須恵器は品質が悪く明らかに失敗作といえる物もあるそうだ。おそらく、陶邑(すえむら)のように優秀な須恵器職人がおらず、試行錯誤していたのだろう。陶邑は大阪府南部に分布する古墳時代~平安時代の窯跡です。三ツ寺遺跡は5世紀中頃には出来ていたので、出土した須恵器は畿内から移住した時に運んだものと思います。
陶邑窯跡群(すえむらようせきぐん)における須恵器生産は、4世紀末から7世紀末まで、かなりの規模の生産が継続的に行なわれていた。このように継続性のある須恵器は、20年間を目安に型式の変化を編年資料として分類することが可能です。以下の表は陶邑須恵器編年表です。


豪族居館水祭祀の発祥36
陶邑窯跡群の須恵器型式編年表クリック拡大


黄色い網掛けをした部分は、本稿テーマに関連する時代型式です。次項の記述とも関連するので、型式時期に該当する古墳情報も記載している。古墳の祭祀場で検出された須恵器の分析で築造時期を特定しています。TK-23からTK-47は、いわゆる雄略期須恵器として指標となっている。西暦450年から490年頃に相当します。


(3)古墳築造状況からの推定

①古墳規模
吉備葛城毛野等の首長墓がいずれも5世紀中頃以降、その規模を大幅に縮小していることから、地方の大首長勢力の衰退が推定できる。それまで首長連合の単なる代表者であった畿内の王は、権力を大幅に増大させ、地方首長を統制する大王に変容したと考えます。以後、巨大前方後円墳は畿内の大王墓にのみ見られるようになります。以下の図は、古墳時代中期後半(TK23-TK47)における全国で築造された古墳の一覧です。西暦450年~490年頃の範囲でしょうか。


豪族居館水祭祀の発祥37
雄略期の全国古墳サイズクリック拡大


5世紀前半までに、全国的に築造された大型古墳は一気に沈静化します。畿内の200m以上の古墳は岡ミサンザイ古墳(245m)のみ。2番めは同じく畿内の狐井城山古墳(140m)です。前者は雄略天皇の古墳と目されている。後者は葛城氏の支配地にある古墳ですが、既に葛城氏は力を落とした時代です。生き残った葦田宿祢系の古墳の可能性もあるが、何れにしても大王に服従した首長に違いない。
関東では、金錯銘鉄剣で有名な埼玉稲荷山古墳(120m)と三ツ寺遺跡の主と目される井出二子山古墳(108m)です。この時代に、大王に築造を許可されのは、この3名だけと思われます。後は50m級の古墳しかありません。大王は強い統制力を得たと言えるでしょう。

数少ない大型古墳が特に北関東に築造されたのは、東毛の太田天神山古墳を築造した氏族への押さえだったと思います。この2名が大王の指示で配置されたと考えると当時の遺跡発生状況を説明しやすい。なお、天神山古墳の氏族は150~200年ほど前に東海地方西部から先行して移住してきたオワリ族の子孫とみています。


豪族居館水祭祀の発祥38
埼玉古墳群の初代は下端にある埼玉稲荷山古墳


保渡田古墳群さきたま古墳群の出現の仕方には共通項がある。どちらも突然に大型古墳の築造が始まる点です。通常、在地氏族が次第に力を蓄えて地域首長に成長する場合、付近に規模の小さい墳墓を伴う場合が殆どです。さきたまの場合は直系かは不明ですが、9基の古墳行田稲荷山古墳から始まる。保渡田では3基ですが、井出二子山古墳から唐突に始まります。保渡田の場合さきたま古墳以上に周囲には古墳が少ない。大きな力を持つ移住者の存在を考えないと出現の仕方を説明しにくい。
行田稲荷山古墳の周濠部造出から出土した須恵器による編年ではTK47(古相)にあたり、井出二子山古墳はTK-23という型式で前者に先行することが分かっています。


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行田稲荷山古墳の礫槨の位置

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行田稲荷山古墳埋葬者の関係表(クリック拡大)



②布留の古墳との比較評価
群馬の古墳群は既に他記事でも見ているので省略し、布留の古墳について触れておきます。布留遺跡は全体で見れば広大であるが、この地域に古墳は全く存在しない。祭祀居館地域と奥津城は完全に分離してる。布留遺跡付近の古墳は、北側の石上豊田古墳群と南側の杣之内古墳群です。石上神宮の周辺にも古墳は造営されていません。


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布留遺跡周辺の古墳群


同族であっても、地域が異なると墓制は違いが出るので比較することは意味が無いかも知れないが一応見ておきます。
図で示すように古墳は非常に多いが、5世紀代の古墳だけは少ない。全長118mの西乗鞍古墳のみが5世紀末期でぎりぎり入り、他は6世紀以降になってしまう。また西乗鞍古墳は既に横穴式石室となっています。井手二子山古墳は竪穴式石室+舟型石棺であり、埼玉稲荷山古墳は竪穴式礫槨+舟形木棺です。また西乗鞍古墳は未調査古墳で出土品での比較評価はできません。
布留地域の5世紀代古墳が極端に少ないのは、築造時期に断絶があるということだが、理由はよく分かっていません。一般的に考えれば、王権所在地が奈良盆地の南部から北部に移り、さらに河内平野に移っていった事から南部は相対的に衰退したと考えられる。しかし、氏族が全員移住した訳ではない。王宮に出仕した臣下も所有する氏族本拠地を移すことはないと思います。
これは仮説ですが、この時期に物部氏は王権の指示で、たびたび地方に移住していき、有力者が少なくなっていた時期であると考えています。6世紀に入って古墳が増えてくるのは、王権の強化が進んで安定し、氏族の活動拠点が再び畿内に戻った証拠だと考えます。本稿では畿内と北関東の関係に閉じて見ているが、全国的に見ても、物部氏阿部氏など軍事色の強い氏族が移住しているのは確実であり、5世紀初頭~中頃が移住の画期であった可能性が高いでしょう。



次回に続く


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