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東国の古代史

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2019-08-15 (Thu)  17:14

上毛野氏とは何者か?(3/8) -武蔵国造の乱③-

(3)上毛野君小熊は争乱に介入したのか?
本稿テーマからすれば、この点がもっとも気になる話です。定説では、[小熊ー小杵]と[朝廷ー使主]が敵対する構図が強調され、上毛野氏と朝廷が拮抗するかのような印象を与えているが、この解釈は疑問です。結論から云うと、小熊はこの争乱には介入してはいないと思います。介入は無かったと考える根拠を以下に纏めます。

①上毛野氏の位置付け
そもそも上毛野氏は地方出身の豪族から選ばれた国造ではない。軍事を担う官人的性格を持つ統治者として見るべきです。上毛野氏河内政権において頭角を表したが、継体天皇の皇統でも東国派遣命令にも従ったと考えられ、朝廷に敵対する根拠が無い。
始祖伝承の中で上毛野に都督として赴任したのは御諸別命からであり、6世紀初頭の氏族移住が伝承の中にフィードバックされていると思う。上毛野氏が地方出身豪族なら、当初から国造クラス以上の勢力を持っていたはずで、中央から都督としての赴任伝承が作られることは矛盾しています。日本書紀には景行天皇56年8月条に、病気で亡くなった彦狭島命の息子である御諸別命が父に代わって上毛野国に最初に赴任したと解釈できる記述があります。これらの伝承が史実だとは思いませんが、純粋な地方出身氏族が皇別氏族を詐称するような伝承を創作し、朝廷に提出するのは不可能であると考えます。氏族伝承の提出は日本書紀編纂に向けて7世紀末の天皇勅命として発せられており、収集されたものは検閲されたはずです。
5世紀初頭まで上毛野国に勢力を張ったオワリ勢力を牽制・統治するために移住したのは、布留物部であることは、別稿「豪族居館・水祭祀の発祥の中で詳しく述べた。上毛野氏継体大王との信頼関係を築くことに成功し、物部氏が牽制・平定した地域に上位氏族(君姓氏族)として赴任した可能性が高いと思います。

②小熊の勢力基盤
小熊より過去に現れる人物で、日本書紀に政治・軍事に関わる記録があるのは、大荒田別の子竹葉瀬田道のニ名だけです。仁徳53年と55年(実年代で5世紀初頭)の記録で、内容は新羅への出征と蝦夷征討逸話です。内容的に創作である可能性が高い。両者は氏族事績を担うために架上された人物像でしょう。文武を兄弟で分かち合うのも書紀独特の類型パターンです。5世紀代の東国に上毛野氏の存在した可能性は非常に低い。父の大荒田別の名前と、息子たちの朝鮮への関与を考えれば、紀伊~和泉に居住した時代だと考えます。従って、小熊が氏族で最初に上毛野に赴任した人物とみます。
とすれば、小熊は東国への移住を開始して間もない時代であり、東国での勢力基盤はまだ盤石ではなかった思います。仮に援軍を送りたくても大きな戦力を持っていたとは思えない。古くから筑紫君として支配地盤を持っていた同時代の磐井と同格には語れません。小熊が上毛野国で勢力基盤を完成するのは争乱後の6世紀中葉になってからと推定します。

争乱介入の記録
安閑期の争乱記録において、小杵が助力を求めたことは記載されているが、少なくとも小熊参戦した記述はない。もし助力を求めただけで小熊が必ず応じるのが当然の関係だったとすれば、両者の関係は相当親密であるか、利益を共有する間柄ということになる。小杵の出自はおそらく5世紀代に移住した物部氏で、敵対した使主とは同族です。しかし、北関東と東北経営を任務とする小熊と、単に武蔵国の国造地位が欲しい小杵に共闘する必然性があるかというと考えにくい。移住した時代も異なり、地縁があるわけでもなく、氏族としての接点も見いだせない。

④争乱介入時の小熊のデメリット
仮に小熊小杵に助力して小杵が勝利しても、彼は武蔵国の国造であり、上毛野国を治める小熊のメリットが考えにくい。それよりも朝廷との関係悪化のデメリットの方が遥かに大きい。小熊上毛野氏の始祖伝承の中にあるような東国全体を治める都督と考えれば介入は可能であろうが、都督は官人であり、朝廷と敵対する時点で矛盾してしまう。もしも反乱であるならば屯倉設置くらいで済むはずはなく、筑紫君磐井と同じように誅殺されるだろう。5世紀中葉まで遡れば葛城氏のように大王家との婚姻関係があり、政権を支える重要な氏族であっても、反抗的行為があれば、簡単に誅殺されている。勿論、大王の後継争いが絡んでいるのは確かだが、5世紀は大王と其れを取り巻く豪族との権力格差が決定的に開いた時代です。上毛野氏のような信任を得た氏族であっても、反抗が穏便に済まされるような時代ではない。

上毛野氏への懲罰
争乱から半年後の緑野屯倉の設置を、朝廷の小熊に対する懲罰と見る解釈は説得力に欠ける。小熊が本当に朝廷に敵対して軍事力を行使したのなら反乱です。なぜ懲罰が半年後なのか説明しにくい。また、安閑期に列挙される屯倉は、九州の磐井戦争に関係すると思われる筑前・豊前に多いのは事実ですが、上毛野国への設置は1ヶ所だけに留まる。この数はむしろ全国的な平均値よりも少ない。屯倉の設置記録が無いのは、出雲伊予讃岐の三国だけであり、懲罰とするには設置国が多すぎる。屯倉の設置が地方豪族への支配強化という側面は確かにあるが、屯倉は農産物生産だけが目的ではない。軍事拠点を支える補給所・軍営としての役割がある。東国、東北経営を担う小熊にとって不利になるものではなく、資源と捉えるべきである。全てが懲罰という考え方には従えない。

⑥争乱後の上毛野氏の地位
乱のその後の推移を見ても、上毛野氏は地方に経済的な基盤を確立し、100mを超える大型古墳の築造が許されていた可能性が高い。更に7世紀初頭には畿内政権の中に活動拠点を戻していくと同時に、やがて氏族として絶頂期を迎える。これは、上毛野氏と朝廷との関係は良好であり、臣下としても協力的であったことを示している。上毛野氏は決して有力な氏族ではないが、権力闘争などに関与しない、職業軍人的な側面を持っていたように感じる。7世紀に入ると優秀な文官も輩出するが、政治的ではなく、学者のような性格を持っている。

⑦小熊の墓?に見る上毛野氏への信任性
群馬県藤岡市には七輿山古墳という6世紀前半~中葉の大古墳がある。この古墳は、2018年に早稲田大学によって地中レーダー調査されたことで有名です。小熊が実在人物であれば、築造年代や緑野屯倉との位置関係からしても小熊の墓である可能性があります。築造された年代に限ると、墳丘長145~150mは東日本で最大級となります。6世紀は既に古墳サイズ規制が始まっていますから異例の古墳です。注目されるのは、墳頂から出土した円筒埴輪です。埴輪には突帯と呼ばれる筋模様があるが、7本あって7条8段と呼びます。地方古墳で7条8段円筒埴輪の出土例は稀です。また、突帯の数は埋葬者の権威・序列を示す可能性があります。この時代の畿内古墳として継体大王の今城塚古墳がありますが、墳丘部の円筒埴輪突帯は7条8段、周濠部のものは6条7段です。墳丘の設計プランも今城塚古墳と共有しており、埋葬者は大王との繋がりが深いと推定できる。継体大王は小熊より先に崩御していますが、両者の間には信任があったと見てよいであろう。また、七輿山古墳小熊のものでないとしても、上毛野氏の墓である可能性は高く、朝廷の信任があった人物と推定できます。6世紀の中葉にこのような古墳築造が許されているのに、わずか10年ほど前の西暦534年において、上毛野君小熊が朝廷に反抗して軍事介入したなどとは到底考えられない。

上毛野氏とは何者か23
七輿山古墳の7条8段円筒埴輪
群馬県歴博所蔵


【補足】
定説における小熊の朝廷への敵対行動は、上毛野氏の出身地は東国であり、4世紀代から国造として居住していたという考えを基盤にしてる。この前提自体に根拠がない日本書紀景行天皇55年条によると、「彦狭島王は東山道十五国都督に任じられた」とあり、国造との格の違いを示す。先代旧事本紀(国造本紀)は信頼できる文献ではないが、「彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時、国造に封ぜられたと」とある。ここでは国造と記述されるが、他国の記述は全て「国造に定める」とあるのに対して、「封ぜる」という皇別貴族に対する敬意表現を使っている。言い換えると、上毛野氏が身分の低い地方出身者ではないことは明白です。



(4)武蔵国造の乱の評価
武蔵国造の乱は東国の屯倉設置の経緯談であるので当然かも知れないが、争乱の記録と見た時はまるで緊迫感がない。これは朝廷と筑紫磐井の乱とは大きな違いだ。結果的に朝廷は小杵を誅殺したとあるが、軍隊を派遣した記録もないし、捕縛の描写もない。4つの屯倉の設置は史実であろうが、争乱の経緯は屯倉設置による朝廷の支配力をアピールするための脚色と感じられる。突っ込みどころは満載であるが、朝廷の争乱に対する裁定のやりかたも使主の言い分だけで決まっており、これが事実なら、初めからの出来レースと思われます。

笠原氏使主小杵の内紛は同族の中で起きたことになっている。笠原氏の氏族形成がよくわからないが、おそらく畿内から派遣された物部氏族の本流と傍流の関係にあったものと思われる。朝廷が地方豪族間の揉め事に介入して屯倉の設置口実にするという戦略はあり得ることだが、このケースではどうも現実感に乏しい。
なぜなら、西暦534年といえば、さきたま古墳群の初代 行田稲荷山古墳から数えても40年ほど経過した時期です。古墳群最大の行田二子山古墳140mの主が武蔵を治めていた可能性が高いでしょう。古墳の規模を見ても絶対的な力を持っていたと思えます。埋葬者は笠原直使主自身の可能性があります。
一方、比企の小杵一族の拠点地域を見ると、時代的におくま山古墳(62m)があるが全体的に規模が小さい。行田二子山古墳から見ると規模に大きな差があり、そのまま勢力の違いがあったと思えます。書紀の記述では国造の争いは長く決着しなかったとあるが、小杵の氏族勢力は、それほど大きくなかったのではないか。考古学的遺物は記述状況と整合しない。争乱は日本書紀の創作とは云えないまでも、虚偽・誇張が含まれているように思えます。


上毛野氏とは何者か4
さきたま古墳群最大の行田二子山古墳(140m)



上毛野君小熊の人物像を見て頂くために武蔵国造の乱から話を始めましたが、この過程でも上毛野氏の実像の一端は少し表現できたと思います。次回からは上毛野氏の実態をもう少し詳しく論証していきたいと思います。いわゆる定説とはだいぶ違いますので、中には抵抗を感じる人もいらっしゃるでしょう。それが狙いでもあります。




次回に続く



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