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東国の古代史

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2020-04-29 (Wed)  15:00

上毛野氏とは何者か?(5/8) -上毛野氏の分布と陵墓-

前稿からの続きです。
(1)上毛野氏の分布
人物記録も少ないし、地名なども明確な証拠にはならないので上毛野氏の分布を示すのは難しい。かなり古い資料ですが、参考に群馬大学の故尾崎喜左雄氏が教授時代に作成した上毛野氏居住地推定図を添付します。この資料が、未だに群馬県では比較的定説に近い情報として生きています。ただ、一部の学者からは資料批判されており、居住そのものが疑問視されている氏族もあります。私自身も利用できるところはあるが、見直すべきところも多いと感じます。


上毛野氏とは何者か24
上毛野氏主要豪族の分布推定図(昭和40年尾崎喜左雄氏の作成)
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この図で見ると、上毛野氏の本流は東毛地域の太田市まで含むように記載されています。尾崎教授は東毛の大型古墳を上毛野氏の墳墓と考えていたと思います。しかし、推測に過ぎず、根拠がありません。前稿までに示したように、上毛野氏の関連文献記録で東毛地域が現れることはない。東毛では5世紀初頭以降には大型古墳が作られなくなりますが、住人がいなくなった訳ではありません。もし居住者が上毛野氏と同族であれば、西部のように何らかの記録、地域名、神名等に痕跡があるはずです。

以下の2表は前稿で示したものですが、文献記録に現われる氏族名と居住した氏族の痕跡を示す地名・神名一覧です。

上毛野氏とは何者か5

上毛野氏とは何者か7

この2つの表データを郷名郡名を除いて地図上にプロットしたのが以下の図面です。

上毛野氏とは何者か8
:上毛野氏 擬制氏族 :神名
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全体にサンプル数が非常に少ないが、群馬県を西毛、中毛、東毛と分けると、全て西毛中毛に集中している。東毛には痕跡がない。このデータで結論つけるのは難しいが、上毛野氏は東毛エリアには移住しなかった可能性があります。理由はよく分かりません。
上図で右側1/3のエリアは東毛と呼ばれる地域です。楕円で囲った地域は、上毛野氏が移住する前の3~5世紀初頭の先住氏族エリアです。確実な根拠はないのですが、東毛の先住者とは棲み分けしていて、交流は無かったのかも知れません。西毛、中毛には5世紀初頭に移住した布留物部氏が居住していたと考えています。上毛野氏は、同じ畿内出身氏族という意識があって展開しやすかったとも考えられるが、おそらくは朝廷の意向が働いていた結果と考えている。


(2)先住氏族と上毛野氏の陵墓
古墳の変遷図を自作するには高機能なツールが必要ですが、そのようなものを持ち合わせないので、書籍の変遷図をベースに編集して簡易版を作成しました。

上毛野氏とは何者か26
群馬県の古墳築造変遷図(クリック拡大
■枠:先住氏族の古墳(3世紀~5世紀初頭)
■枠:後に朝廷に恭順した先住氏族子孫の古墳(中型古墳の築造が許された)
■枠:畿内より移住した上毛野氏の古墳
■枠:畿内より移住した物部系氏族の古墳

一般に太田天神山古墳につながる群馬県東毛エリアの古墳群を上毛野氏の奥津城とするような説があるが、これには無理があります。太田天神山古墳は現在では5世紀初頭の築造と見られており、その系列は古墳の連続性を見ても3~4世紀代から連続している。古墳築造変遷図の赤枠線で囲った3~5世紀前半までの古墳は先住氏族の墳墓と推定します。もし、これらが上毛野氏の墳墓で、その後も8~9世紀まで東毛地域を本拠地にしているなら、文献記録に居住地が残っていなくてはおかしい。しかし、人物属性の記録も中毛の勢多郡を東端として、これより西側にしか存在しない。

【補足】
■本稿では勢多郡と前橋市を中毛と表現しましたが、明確な定義があるわけではない。勢力分布を明確化するために西毛、中毛、東毛と分類した。西毛、東毛の2つで分ける場合も多く、その場合は勢多郡は東毛に入る。
■先住氏族については、以下の記事の中で触れているので、ここでは割愛します。
■東毛では大型古墳の築造が停止された5世紀初頭から以降、大型古墳は6世紀中葉まで築造されていない。鶴山古墳(102m)が例外ですが、この古墳は東毛でも西端にあり、付近の豪族居館との関係から中西毛勢力の可能性が高いと見る。

仮に東毛エリアが上毛野氏の一族であるなら、大王臣下ですから、5世紀中葉以降にも大型古墳の築造が許されたはずです。しかし、実際には一気に衰退する。少なくとも5世紀代に上毛野氏は東国に存在しなかったと考えられます。移住は6世紀初頭です。6世紀中葉になると東毛にも中大型古墳が復活するが、これは上毛野氏が東毛に進出したのではなく、在地の先住氏族が朝廷に服従し、関係を強化していった結果だと考えます。これに対して西毛・中毛の氏族は、5世紀中葉から6世紀代まで一貫して大型古墳を築造している。西部にいたのは5世紀に畿内から移住してきた物部系氏族です。6世紀に入ると、先発の物部氏は後発移住者の上毛野氏と地縁や通婚等をきっかけに擬制氏族関係を結んだと考えられる。


上毛野氏とは何者か10
群馬県の古墳時代後期古墳(6世紀代)クリック拡大


前述の古墳築造変遷図では、西部の後期古墳が少ないように見えるが、藤岡市や安中碓氷方面地域の古墳が省略されているせいです。上図は群馬県の後期古墳マップです。平野部を中心に偏りなく分散してるのが分かります。巨大古墳がないのは、上毛野にも古墳のサイズ規制が浸透し始めていたと考えています。

前稿でも触れたが、藤岡市の七輿山古墳150mは緑野と呼ばれる地域の北西端にあり、白石古墳群の一つです。推定築造年代は6世紀前半~中葉で、武蔵国造の乱に登場した上毛野君小熊の墓の可能性がある。6世紀代で150mの古墳は関東最大であり、これが許されたのは朝廷との関係が良好な証拠です。円筒埴輪の突帯も今城塚古墳と同じ6条7段を誇り、生前の継体大王との繋がりが想定できる。

上毛野氏とは何者か11
藤岡市白石古墳群の七輿山古墳(クリック拡大

大室古墳群については上毛野氏傍流の墳墓であると思います。前二子古墳(94m)はその初代と推定する。後には中二子後二子小二子と続きます。上毛野氏宗家は移住してきたものの、再び畿内に戻っていき、傍流が残った可能性が高いと思います。

上毛野氏とは何者か12
前橋市大室古墳群の前二子古墳(クリック拡大



次回に続く



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