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東国の古代史

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2019-08-29 (Thu)  07:27

古代中国の距離計測法と短里の存在性評価

魏志倭人伝書かれた前後の時代において、遠隔地の距離がどのように計測されたのか。また、魏志倭人伝を解読するうえで短里説は妥当なのか。本や論文で学んだ事を中心に自身の感想も交えて記載します。本稿は以前の記事シリーズ「陳寿にはめられた日本人1~4」の補足稿になります


(1)三国時代の距離計測法一寸千里法
日本の研究者、特に在野研究者は、魏志倭人伝邪馬台国への里程を使節の歩測や所要時間などで記載しているという前提で論じている人が多い気がします。それは当時の計測法という点で疑問です。江戸時代に正確な日本地図を作成した伊能忠敬は、短い距離を歩測と方位記録を繰り返す事で測量しています。しかし中国使節団が行っていたとは到底思えません。なぜなら非常に時間の掛かる作業で、伊能が何年かけて日本地図を作成したかを考えれば自明です。海上移動もありますし、他に目的を持つ使節団にそのような時間的余裕はないはずです。

当時の中国の首都から遠隔地への距離計測は、以下の中国古代学術書に記載されている一寸千里法で計測された可能性が高い。
周代の天文数学書『周髀算経(上巻) 』に記載される『一寸千里法
前漢天文数学書『淮南子(天文訓) 』に記載される『一寸千里法
両者とも蓋天説と呼ばれる宇宙概念を前提として、夏至南中時の(測量用の棒)が作る日影長を測ることで、それを緯度に代わる指標として計測しています。ただ、蓋天説は地上が球体という概念はないので、正確には現代の緯度と同じ考え方ではない。周髀算経も下巻では渾天説という、天は半球面という概念に変わっていくが、地上は平面のままで計算上は蓋天説と変わっていない

周髀算経(上巻)の記述する蓋天説の概念は、「天地は互いに8万里を隔てた平行な平面をなし、天の太陽、月、星は北極が天と交わる点を中心に円盤軌道で日周運動する 」というのもの。この記述だと太陽は常に天のどこかにあって沈まないが、太陽の光が届く距離には制限があるため夜になるという考え方です。一寸千里法の名称由来は言葉の通り、「日影長の一寸が地上の距離千里に相当する」という原理ですが、周髀算経では次のように考えているようです。


陳寿にはめられた日本人29
周髀算経の蓋天説概念図クリック拡大


上の概念図に示したように、(ひょう)と日影がつくる三角形AXY と、日下Oと太陽Sの作る三角形OXS とは相似形になる。日下とは太陽の真下で日影長がゼロになる地点です。言い換えると黄道面、北回帰線上になる。従っての観測点から日下までの距離OXは影の長さ s に比例する 。従って L=asとなります。aは比例定数で、天の高さHと表の高さhの比に等しい。つまり、a =H /h です。
天の高さは8万里とされ、の高さは 8 尺=80寸ですから、比例定数aは、
a=H/h= 80000里/80寸=1000里/寸
となる。これは概念上の例定数であり、一寸千里法の基本原理です。

【補足】
周髀算経には「周城における夏至の正午の影長が16寸であるのに対して、正北1000里の地点点では17寸となり、正南1000里では15寸となる」という記述がある。これは当時の実測値であると考えてる人もいる。でも現代では前述したように、天高8万里とする蓋天説の概念上から導き出される原理を記述したものという考え方が主流です一寸千里については、中世中国でも疑問視されていて、代になると検証のための測量実験も行われている。結果、一寸千里が成立しないことが確認されているそうです。また淮南子蓋天説では天高10万里で、表(ひょう)の長さは100寸としています。周髀算経と同じ方法で計算すれば、一寸は1000里に相当します。つまり蓋天説では、宇宙原理で日影長一寸=1000里と初めから決めており、実測の考え方は端から無い事が裏付けられる。


天地が互いに平行平面をなすという蓋天説では、天の高さは、場所、季節、時刻と無依存に8万里という一定の値だとしている。従って、一寸千里普遍的に成立するという前提に立つ。しかし、実際には地球は楕円球体であるのと、日影長が長くなる高緯度地域では誤差の要素が大きくなり、この前提は成り立たない。従って蓋天説と現実世界との違いは決定的であり、この方法で計測した距離は実際の距離とは乖離があると思われます。

測定方法を以下の図で具体的に示すと、周陽城観測地点から太陽の直下の地点(日下)までの距離は、水平な地面に垂直にたてられた高さ8尺の表の影の長さを測り、一寸千里法を適用することによって求められる。


陳寿にはめられた日本人18
測定概念図


周陽南千里間の距離 y式で表せば、
  ー L 
周陽城では日影長はb=16寸ですから、日下からの観測点の距離=16000里。周陽城南千里(回帰線寄りに)の地点はa=15寸ですから15000里となる。
  ー L 16000里 ー 15000里 = 1000里
※周陽城は実在ですが、南に千里の具体地名は明示されておらず、仮想地点です。

観測は夏至の太陽が南中したときの日影長の長さを測定します。蓋天説では天の高さは一定だが、太陽の軌道は夏至と冬至の間で変化すると考えていた。観測時期は太陽が観測点から最も高い位置にくる夏至に統一している。2点間の日影長の差は緯度の違いに相当します。現代の知識からすれば南北緯度方向の距離を求めた事になります。

この方法では子午線南北方向の距離しか計測できないが、経度の違う地点の距離を求めるためには、目的地の正確な方位を知れば計測は可能です。方位は恐らく夜間の星による観測ではないかと思います。ただ、行われていたと推定しますが、測量法として古代文献に記載があるのか確認は出来ていません。ご存じの方は教えて頂きたいと思います。


陳寿にはめられた日本人20
測定例


上の図例は高崎市から東京駅までの測定概念図です。実際には目視観測に頼るので、もっと短い区間で測量したと考えられる。子午線に沿った南北方向の距離ABと目的地Cの正確な方位が分かれば求められます。当時は三角関数の知識はなかったが、予めAC方位角度毎に、南北距離ABと東西距離BCの比を相似形の原理( △abc △ABC)から机上で求めておけば、BC、ACの長さが計算できる。ACは三平方の定理の応用でも求められます。 

陳寿にはめられた日本人19

当時の中国では既にピタゴラスの定理は独自に理解されており、周髀算経にも勾股(こうこ)定理として記載されています。



繰り返しますが、一寸千里法自体は誤差の大きい測量法です。一番の問題は、場所や季節に無依存に一寸の日影長が千里に相当するという原理自体が誤っているからです。緯度が変わると、実際には日影長一寸に対する地上距離は変わっている。太陽仰角の小さい高緯度地域や季節(日影長の長いケース)では誤差が大きくなる。例えば夏至の時期ではなく、冬至に観測しただけで一寸に相当する距離は1/3以下になってしまうそうです。逆に云えば、この方法が優れているのは観測時期を夏至に統一していた点です。この規定によって宇宙概念が現実とは乖離していても一定の観測精度が出たとも云える。後に蓋天説渾天説に変わっても夏至という一時点で見れば影響は無視できるからです。大変なのは辺境の地に観測者を派遣する点でしょう。行くことは出来ても、夏至というピンポイントに合わせて各地でいっせいに測量するのは国外では難しい。実態として夏至に近い期間の旅で測量したと思われます。ここにも誤差の要因があります。

魏志倭人伝の里程評価に話を戻しますが、このような現代知識から見たら原理的に不正確な測量方法が、魏代前後の時代に運用されていた訳です。私自身は、当時の里程と方位は、別な観点から誇張・改竄が入っていると考えますが、仮に誇張など無かったとしても、この方法で得た値で邪馬台国までの里程や正確な位置を決めるのは無理だと感じます。



(2)谷本茂氏の一里計算法
魏の時代の1里=約434mです。時代によって多少の変動はあるが大幅に変わる事はありません。研究者の中には1里の長さを極端に過小(70~90m程度)に解釈する人がいます。日本の短里説は、もともと魏志韓伝の「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」を単純に近代の実測値から逆算した値です。しかし、後に古代史研究家の谷本茂氏が周髀算経の記載と現代天文知識から計算した1里=76.9mという結果を出した。偶然にも関わらず、両者の値が近かったため、短里の存在は証明されたと主張してる人も多い。谷本氏の計算は一寸千里法という中国古代の天文原理と現代知識を併せている。なお、地球球体説が中国に導入されるのは17世紀であるのは確実です。谷本氏の計算方法を以下に示す。


一寸千里法から一里を求める - コピー
谷本氏の測定図


周髀算経に記載のおける日影長は以下
  周陽城A地点)=16寸
  南千里 (地点)=15寸
■日影長を測る棒「(ひょう)」の長さは8尺なので表長=80寸(185cm)

A地点と地点の太陽の仰角をθaθbとすると、

計算 - コピー

【補足】
ラジアンは円の半径に等しい長さのの中心に対する角度。1ラジアンは57.29578° に相当。tan-1は逆三角関数arccotを示す。

A地点と地点間の距離をAB、地球の半径をとすると

計算2

周髀算経ではAB間の距離を1000里としているので、1里=76.9mとなる。

【補足】
現代知識を応用する場合は、赤道~北極間の子午線長は 10000kmと分かっていますから、緯度1度当たりの距離を導入しても、両者の緯度差から距離は単純に計算できる。緯度1度は約111kmに相当する。

地球を球体とする現代知識によれば、原理的に2点間の太陽仰角の差が地上での距離に比例している。一方、一寸千里法では2点間の日影長の差が地上距離に比例していると考えている。谷本氏の計算は太陽仰角の差から角距離を出す手順において間違いはないが、最後は周髀算経一寸千里法の原理である一寸1000里を使っている。蓋天説でしか通用しない原理定数を、現実世界の1里計算に使っている訳です。1000里が実測値であれば参考になると思いますが、当時の宇宙概念を無視している点と併せても、意味のない計算ではないかと感じます。



(3)大月氏国への距離から推定する一里の長さ
の時代、倭国は中国に朝貢し、親魏倭王の称号をもらっていたのは有名ですが、西の大国である西トルキスタン(現代のアフガニスタン)の大月氏国も同じように親魏大月氏王の称号を得ています。

①漢書西域伝(西暦80年頃の成立)
「大月氏国、(中略)長安を去ること万一千六百里」

②後漢書西域伝(西暦432年以降の成立)
「大月氏国、(中略)洛陽を去ること万六千三百七十里」

漢書西域伝では、長安から大月氏国まで11600里と記されている。もう一方の後漢書西域伝には、洛陽から大月氏国まで16370里と記録されています。邪馬台国の場合は洛陽から17000里と三国志に記録されています。後漢書と比較すれば、同程度の距離感ということになるが、余りにも僅差で恣意的なバランスと云える。後漢書16370里は5世紀になってから書かれた訳ではなく、代の書に既に値が採用されていたのでしょう。これに対して倭国への行程17000里がサジ加減されたと思われます。


20110924_2485834.jpg
洛陽~大月氏国首都間ルート図(クリック拡大


洛陽から大月氏国首都までのシルクロードには幾つかのルートがあるが、代表的なのは北側のルートだと思われます。


距離測定1
洛陽~大月氏国首都間の測距離(クリック拡大

このルートをGoogle Earthで距離を計測してみると、4700Km程度になる。このツールは標高・傾斜を意識していないので、実際には5000Km以上になると思います。なお、洛陽長安は直線距離で約320kmくらいです。

一里の長さは概算ですが、
①漢書西域伝の場合(長安~大月氏国首都)
(5000Km-320Km) ÷ 11600里 ≒ 403m/里

後漢書西域伝の場合(洛陽~大月氏国首都)
 5000Km ÷ 16370里 ≒ 305m/里

漢書では標準里に近い値が出ます。後漢書の場合は標準里を下回るが、少なくとも一里は300mを超えています。中国では朝貢の価値は遠方になるほど高いものになるので、後漢書の場合は誇張がかなり入っていると思われる。後漢書三国志よりも後に書かれた正史ですから、三国志と同じく代政情の影響を強く受けている。実態里程で考えると、恐らく一里は400mに近いでしょう。
以上の点から考えても、邪馬台国に至る行程が短里であったなどとは考えにくい。短里説主張者は、同時代でも東と西で標準里短里が混在していたと主張する人がいる。中には帯方郡から先だけが短里になっていると主張する人もいます。これは、当時の中国人を愚弄する論です。西の大月氏国を朝貢させたのは曹真曹操の甥)という武将であり、東夷の領土拡張・朝貢を促進した司馬懿西普皇帝司馬炎の祖父)とはライバル関係にありました。二人の功績がなにかと比較競争される時勢において、片方の距離単位だけを変える訳がない。そんなことをしたら司馬懿がバカにされたと怒り出します(笑)。


陳寿にはめられた日本人22
洛陽~沖縄南端までの行程距離(クリック拡大


上の図は、の首都洛陽から福州市の真東にあたる沖縄那覇までの行程距離図です。誤差が大きいでしょうが、沖縄まで入れても、約4000~4200Km程度でしょう。この値は、17000里=7395Kmを考えれば、まだまだ差が大きい。東夷方面における邪馬台国までの17000里は、西域よりも距離が、より誇張されているのは確実です。この問題は、短里などという帳尻合わせのロジックを持ち込んで解決するのではなく、中国の辺境に対する五服思想や、当時の政治、権力闘争、三国鼎立による戦略等から解釈すべき問題と思います。



(4)中国の距離単位系から見た短里
下表は中国の各時代毎の長さ・距離単位系の変遷を示しています。当たり前ですが、どの時代も各単位間には一定比率の約束事があります。値と比率は時代で変化しますが、この約束事は守られている。言い換えると単位というのは、このように一定比率で上位~下位単位が存在するからこそ利用価値があるのだと思います。日本の尺貫法も同じです。ある単位だけが単独で存在しても利用価値がない。「私の身長は5尺7寸5分です」というように端数表現ができなくなるからです。の範囲なら10進単位ですから、少数点を使えば一つの単位で表現できますが、直感的に長さが理解できなくなります。また、は10進ではない。


陳寿にはめられた日本人30
長さの単位の時代別変遷『邪馬台国の会』より(クリック拡大


表を参照すると、について言えば、との比率が変化していますが、下位単位の種類は変わっていません。もし短里があるなら、対応する一定比率のがないとおかしい気がする。しかし、中国の歴史書を見ても短里に対応する下位単位など存在しません。一方、もし一里が50歩の短里を新しく追加しただけで、下位単位の変更は無かったと仮定すれば矛盾はない。しかし、一国内に単位呼称も同じ、50歩のと300歩のを置く必然性が分からない。使用する人間が混乱するだけで、科学的にも、文化的にもあり得ないと思います。短里を主張するなら、度量衡制度史観点から作られた目的を論証して欲しいと思います。

邪馬台国研究者の中には、地域的短里説という考え方を説く人もいます。具体的には朝鮮半島の帯方郡(現在のソウルの南側)から先の里程は地域的短里だと説く。その論は、「周、春秋戦国の時代には色々な尺度が混在しており、三国時代になっても特定地域だけの短里が倭韓だけ残っていた可能性が大きい」と述べている。短里を使っていた理由は古来からの名残だったというのです。まるで雲を掴むような話で証拠も提示されていない。そして陳寿は、距離単位が変わっていることに気が付かず、魏志倭人伝を記載したという。しかし、代の楽浪郡は紀元前108年から存続しており、漢書地理志には楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とある。定期的に倭人の朝貢を受けたと記載されているから、少なくとも楽浪郡まで往来しているのは確実です。なのに中国の官吏は400年間も倭韓短里であることに知らなかったということになる。東夷諸国側はともかく、中国歴代王朝は倭韓を属国視していた。そのような話はとても信じられません。自説に都合よくの単位を改変し、邪馬台国を九州島の中に収めようという思惑が透けて見えます。

ここで日本の尺貫法における「」について触れておく。日本の「」は約4キロメートルです。尺貫法では里の下位単位は「」ですが、1里=36町としている。これを36町里と呼ぶ。1町≒109mなので正確には1里3924mです。日本も古代では一里は300歩=550mくらいであった。これは中国の単位系をそのまま導入したからでしょう。
ところが、日本では中世(12~15世紀)において、「」の考え方を根本的に改めている。人が一定時間(半時≒約1時間)に歩ける距離単位に改制している。改制の理由は、従来、例えば300里という距離で示されても、歩いてどのくらい時間を要するのか分かりにくいという問題があった。しかし、一定時間で歩ける距離を一里とすれば、移動する所要時間が把握しやすいというメリットがあります。最終的には一里は36町里という長さに統一されたらしいが、その過程においては、1里の長さは、36町里40町里48町里などと地域によって違っていたそうです。これは人の歩行能力に対する考え方や、歩行する地形、道路整備状況などの違いで、地域によって相違があったのではないかと推定します。日本が統一されておらず、制度を決める行政が各国に任されていたのが原因でしょう。つまり、これこそ「地域固有里」です。このように新たな「」の概念と、地域による固有値があった理由が明確であれば、論理的な存在根拠といえる。
しかし、前述したように中国の「」は純粋に距離を表す尺度の範疇であり、一定数の「」に対応します。運用する人間や場所の影響を受けない。例え地域が違っても基本的には比率が変わる要素はないと考えられる。もし仮に、帯方郡から先だけに地域的短里があったとすれば、国内で50歩の里と300歩の里が混在したことになる。そこには、明確な単位改制の目的があったはずです。これを示さない限り、地域的短里の存在を論証したとは云えない。
邪馬台国が九州に収まれば、それでいいと云うような考えは無責任です。自分は邪馬台国は九州ではないと主張している訳ではありません。九州の可能性は十分にあるが、魏志倭人伝の里程を、短里という帳尻合わせ論で解決する訳にはいかないと思うだけです。それに、もうそろそろ魏志倭人伝の里程で場所を決めようとするアプローチはやめた方がよいと思います。


また短里の存在を示す根拠としてよく上げられる以下2点に関して見解を述べます。
①王朝交代による受命改制度量衡の制度が変わり、魏の短里が生まれた
中国の王朝には、前王朝の暦、法律、度量衡の制度を改めて、新たに制定する「受命改制」の思想があったのは事実です。前表の値の変動も受命改制の結果の変動です。しかし、表の値を見ても分かる通り、全時代を通じて里の変動量は最大でも6%以内です。の時代に「」が改制されても、前代の1/6まで縮小する事など到底あり得ない。また中国西域では標準里が使われている。新王朝として始める記念すべき受命改制の意義からしても、倭国に至る行程のみ改制が適用されたと云う論は非常に不自然です。受命改制(237年)は後漢からの変化に相当するが、表で見ても標準の変動は5%に満たない。「改制思想があったので短里が生まれた」という主張は、生まれた契機の話です。肝心の短里の値は、度量衡の変遷実績を無視した意味を成さない主張でしょう。

②『海島算経』という書物に標準里ではあり得ない測量記述がある
中国には三国志に先行する『海島算経』という測量技術指南の例題集のような書物があります。海を隔てた島にある山の高さと距離を測るものです。30尺の棒2本を使って、棒の先端から山頂を見通せる位置関係から距離を計算します。概念は一寸千里法の場合と似ています。この例題は、標準里だと山までの距離が遠すぎて、視認する仰角が小さく、地球の丸み問題で測定が困難なことから、短里を前提とした例題だという主張がある。確かに例題には現実的でない無理がある。しかし、この例題が実際の地形を想定して作られたとは限らないと思います。山が遠くて仰角の値が小さ過ぎるのも、机上の論理例題と考えれば矛盾はない。測量手順を指南するのが目的の書物です。短里を導入しなくても例題として成り立ちます。また、例題の前提原理そのものは地上平面説に立っているのは明白です。球体の認識があれば、そもそも、この例題は原理的に解法できないからです。この測量例題を根拠に短里実在を主張するのは、いささか強弁が過ぎます。


この他にも中国の古典に出てくる距離記述から短里の可能性が高いという事例を何点も上げている研究者がいますが、現在地との比定や記述解釈が恣意的で客観性が薄い気がする。また、何れも一寸千里法で計測した距離ですから、根拠とはならないと思います。
漢籍では「千里、ニ千里」と言った大雑把な表現がよくある。観点が違うが、中には具体的距離を指すというより、「遠い、長大な」という意味で文章を飾っている場合も多いような気がします。概して言葉のリズムや荘厳さに重点を置く傾向があり、中国人は内容の客観性には価値を置いていても、同時に才筆であることが重視されている。




【参考・引用資料】
■書籍『邪馬台国はなかった』 朝日文庫         古田武彦著
書籍『倭国の時代』     筑摩書房         岡田英弘著
■書籍『邪馬台国への道』   徳間文庫           安本美典著
■論文『古代中国の緯度測量法』             野上道男著
■論文『周髀算経にみられる数値について』          下司和男著
■論文『魏志倭人伝の里程単位(一寸千(短 )里説批判』   篠原俊次著  
■講演会レジュメ『古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置』    
                                                                                   野上道男著
■論文集『東アジアの古代文化 34/53/61号』 大和書房  
■ホームページ 邪馬台国の会
■ Google Earth 
■ウィキペディア 尺貫法、里、町


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通りすがりにお邪魔しますm(_ _)m * by hyena_no_papa
「短里」についての記事が目に止まりましたので、ついついお邪魔させて頂きましたm(_ _)m 

私も古田氏の「魏西晋朝短里説」には非常に関心を持っておりまして、いろいろと当時の漢籍に当たって調べてみました。その結果は、倭韓を除いて「短里」の存在はありえないとの結論になりました。これは安本氏の所見の通りです。

特に『三国志』中の里程記事や、魏西晋朝の中枢にいた人物の書いた文献からも、「魏西晋朝短里説」など成立しないことが明らかです。

また、「周髀算経」から谷本氏が算出した値も、「知日之高大」にかかる計算手順を読めば、意味のないものであることは明白です。

私自身のHPにもまとめてありますのでご覧頂きましたら幸です。
http://hyenanopapa.obunko.com/tanri_ronten.html

尚、リンク先のYahoo!ブログは本年12月15日にて閉鎖されますが、既にFC2へと移転を済ませておりますので蛇足ながらご案内させていただきます。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/

大変お邪魔致しましたm(_ _)m

Re: 通りすがりにお邪魔しますm(_ _)m * by 形名
hyena_no_papa さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

hyena_no_papa さんの記事は全部ではないのですが、yahooブログで読ませていただきました。この記事にも、勉強させていただいた知識が入っていると思います。ホームページのほうはまだ訪問したことはありませんでした。なかなか、専門的な内容なので、私には付いていくのが大変だと思いますが、読ませていただきます。ご指導お願いいたします。

ところで、hyena_no_papa さんは、安本氏の「地域短里説」にたっておられますか?私の場合は、現時点ですが、地域短里説にも疑問を持っています。もう既に古典的な論ですが、誇張説、または、行程欺瞞説で考えています。今や少数派ですかね?(笑)
安本氏の書籍は余り読んではいないのですが、地域短里の存在根拠として、日本の中世以降の「里」を上げていますが、日本の「里」は中国の里とは意味が違うようですね。単位時間あたりに歩ける距離を基本に考えていると聞きます。個人の歩行速度に依存するものなので、36町里、40町里などバリエーションがあるようです。この点を見れば、地域短里が存在する現象と同じでなんですが、これは個人の歩行能力や、地域の地形、道路の整備状況に関係するからだと思います。一方、中国の「里」は厳密な尺度の世界であり、一定の「歩」に対応します。例え地域が違っても基本的には比率が変わる要素はないと考えています。もし、帯方郡から先だけに地域短里があるとすれば、その意義とか目的は何なのでしょうね?ここが疑問を感じている点です。この辺りもホームページを読めば記載されていますかね。

おはようございます。 * by hyena_no_papa
早速のご返信、ありがとうございます。

>私の場合は、現時点ですが、地域短里説にも疑問を持っています。もう既に古典的な論ですが、誇張説、または、行程欺瞞説で考えています。今や少数派ですかね?(笑)

実は私も「倭韓短里説」より「誇張説」の方に幾分傾いています。既にご存知かもしれませんが、『魏志』「国淵伝」に戦果を10倍に誇張するという話が出てきます。曹操と国淵との会話中にですね。

誇張して書かれているかどうか、陳寿は知る由もないわけですよね。

しかし、既に私のブログをお読みいただいているとは汗顔の至りです(^^;) ミスや勘違いも多々あると思いますので、お気づきの点などありましたら何なりとご指摘いただきたくよろしくお願いいたしますm(_ _)m

Re: おはようございます。 * by 形名
hyena_no_papa さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

>「誇張説」の方に幾分傾いています。
そうなんですか!国淵伝は読んでいませんが、10倍誇張の話は引用話として聞いています。具体的な盛り具合は分かりませんが、曹操が生きていた時代は、まだ、司馬氏も拮抗するほどの力はなかったものの、戦果を競う体質は十分あり得たでしょうね。私は、この誇張と陳寿の入手した情報の関係を検討しようと考えているのですが、なかなか文献を読む力がないので進まないです。
私の日本史考フォルダに「陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か? 」という記事があるのですが、最後の纏め第3稿が書けない理由です。hyena_no_papa のホームページに関係する記事があるといいなと思ってます。
hyena_no_papa さんの記事はyahoo時代に読んだのですが、討論をトレースする形態だったので最初は全く付いていけませんでした。でも面白かったです。私の短里に対する基本的な考えは、あの記事群で固まったといってもよいです。

裴秀の地図 * by hyena_no_papa
>「陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か? 」

裴秀の地図は本を読んでいると時折遭遇しますね。申し訳ないのですが裴秀の地図についてはほとんど考慮に入れたことがありません。掲示板時代に身についた習性で、基本的事実を知らない事柄については口を挟まないようにしてきたんですね。生活の知恵とでもいいましょうか、、、(^^;)

下手に口を挟んで大やけど!という経験をしましたんで、それがトラウマになったみたいです。

しかし、掲示板というのは非常に有益なシステムでしたね。色んな人達と会話するうちに、どんどん知識や考え方が身についていきましたから、、、

話が長くなりました。こんなお話も掲示板があれば、気軽におしゃベルできるんですが、、、(^^;)

それでは今夜はこのへんで失礼いたしますm(_ _)m

Re: 裴秀の地図 * by 形名
こんばんは。

確かに気軽に書き込みできる掲示板は欲しいですね。見てるだけで勉強になりますね。

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管理者にだけ表示を許可

通りすがりにお邪魔しますm(_ _)m

「短里」についての記事が目に止まりましたので、ついついお邪魔させて頂きましたm(_ _)m 

私も古田氏の「魏西晋朝短里説」には非常に関心を持っておりまして、いろいろと当時の漢籍に当たって調べてみました。その結果は、倭韓を除いて「短里」の存在はありえないとの結論になりました。これは安本氏の所見の通りです。

特に『三国志』中の里程記事や、魏西晋朝の中枢にいた人物の書いた文献からも、「魏西晋朝短里説」など成立しないことが明らかです。

また、「周髀算経」から谷本氏が算出した値も、「知日之高大」にかかる計算手順を読めば、意味のないものであることは明白です。

私自身のHPにもまとめてありますのでご覧頂きましたら幸です。
http://hyenanopapa.obunko.com/tanri_ronten.html

尚、リンク先のYahoo!ブログは本年12月15日にて閉鎖されますが、既にFC2へと移転を済ませておりますので蛇足ながらご案内させていただきます。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/

大変お邪魔致しましたm(_ _)m
2019-09-09-22:52 * hyena_no_papa [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: 通りすがりにお邪魔しますm(_ _)m

hyena_no_papa さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

hyena_no_papa さんの記事は全部ではないのですが、yahooブログで読ませていただきました。この記事にも、勉強させていただいた知識が入っていると思います。ホームページのほうはまだ訪問したことはありませんでした。なかなか、専門的な内容なので、私には付いていくのが大変だと思いますが、読ませていただきます。ご指導お願いいたします。

ところで、hyena_no_papa さんは、安本氏の「地域短里説」にたっておられますか?私の場合は、現時点ですが、地域短里説にも疑問を持っています。もう既に古典的な論ですが、誇張説、または、行程欺瞞説で考えています。今や少数派ですかね?(笑)
安本氏の書籍は余り読んではいないのですが、地域短里の存在根拠として、日本の中世以降の「里」を上げていますが、日本の「里」は中国の里とは意味が違うようですね。単位時間あたりに歩ける距離を基本に考えていると聞きます。個人の歩行速度に依存するものなので、36町里、40町里などバリエーションがあるようです。この点を見れば、地域短里が存在する現象と同じでなんですが、これは個人の歩行能力や、地域の地形、道路の整備状況に関係するからだと思います。一方、中国の「里」は厳密な尺度の世界であり、一定の「歩」に対応します。例え地域が違っても基本的には比率が変わる要素はないと考えています。もし、帯方郡から先だけに地域短里があるとすれば、その意義とか目的は何なのでしょうね?ここが疑問を感じている点です。この辺りもホームページを読めば記載されていますかね。
2019-09-10-09:57 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

おはようございます。

早速のご返信、ありがとうございます。

>私の場合は、現時点ですが、地域短里説にも疑問を持っています。もう既に古典的な論ですが、誇張説、または、行程欺瞞説で考えています。今や少数派ですかね?(笑)

実は私も「倭韓短里説」より「誇張説」の方に幾分傾いています。既にご存知かもしれませんが、『魏志』「国淵伝」に戦果を10倍に誇張するという話が出てきます。曹操と国淵との会話中にですね。

誇張して書かれているかどうか、陳寿は知る由もないわけですよね。

しかし、既に私のブログをお読みいただいているとは汗顔の至りです(^^;) ミスや勘違いも多々あると思いますので、お気づきの点などありましたら何なりとご指摘いただきたくよろしくお願いいたしますm(_ _)m
2019-09-11-10:12 * hyena_no_papa [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: おはようございます。

hyena_no_papa さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

>「誇張説」の方に幾分傾いています。
そうなんですか!国淵伝は読んでいませんが、10倍誇張の話は引用話として聞いています。具体的な盛り具合は分かりませんが、曹操が生きていた時代は、まだ、司馬氏も拮抗するほどの力はなかったものの、戦果を競う体質は十分あり得たでしょうね。私は、この誇張と陳寿の入手した情報の関係を検討しようと考えているのですが、なかなか文献を読む力がないので進まないです。
私の日本史考フォルダに「陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か? 」という記事があるのですが、最後の纏め第3稿が書けない理由です。hyena_no_papa のホームページに関係する記事があるといいなと思ってます。
hyena_no_papa さんの記事はyahoo時代に読んだのですが、討論をトレースする形態だったので最初は全く付いていけませんでした。でも面白かったです。私の短里に対する基本的な考えは、あの記事群で固まったといってもよいです。
2019-09-11-14:24 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

裴秀の地図

>「陳寿の見た倭国図は裴秀の誤った地図か? 」

裴秀の地図は本を読んでいると時折遭遇しますね。申し訳ないのですが裴秀の地図についてはほとんど考慮に入れたことがありません。掲示板時代に身についた習性で、基本的事実を知らない事柄については口を挟まないようにしてきたんですね。生活の知恵とでもいいましょうか、、、(^^;)

下手に口を挟んで大やけど!という経験をしましたんで、それがトラウマになったみたいです。

しかし、掲示板というのは非常に有益なシステムでしたね。色んな人達と会話するうちに、どんどん知識や考え方が身についていきましたから、、、

話が長くなりました。こんなお話も掲示板があれば、気軽におしゃベルできるんですが、、、(^^;)

それでは今夜はこのへんで失礼いたしますm(_ _)m
2019-09-11-22:26 * hyena_no_papa [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: 裴秀の地図

こんばんは。

確かに気軽に書き込みできる掲示板は欲しいですね。見てるだけで勉強になりますね。
2019-09-11-23:50 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]