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東国の古代史

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2020-04-18 (Sat)  20:42

山上多重塔(1/2)《群馬県桐生市》

以下の表は、日本に現存する古代石碑石塔の一覧です。此れらには金石文と呼ばれる碑文が記されており、屋外定点に設置されたものです。

山上多重塔11
↑日本に現存する古代石碑石塔一覧(高崎市公式ホームページより引用)

数が一番多いのは奈良県ですが、次いで多いのは群馬県熊本県です。特に群馬県は時代的に古いものが多い。これらの石碑石塔の設置目的は各々異なりますが、いずれも当時の世相文化をうかがい知ることができる重要な遺跡です。この他にも墓誌などに古代金石文は記述されているが、墓誌は埋葬者個人の事績を表す場合が多く、文化的な意味を知る上では限定された遺物と言えます。
群馬県高崎市の山上碑多胡碑金井沢碑については過去記事の中でも度々触れてきました。本稿では4番目の山上多重塔について触れます。実は、私も塔の名称は聞いていましたが、場所も、金石文の内容についても最近まで知りませんでした。今回実際に見学してきたので此処で紹介しておきます。

山上多重塔は仏教に関係する遺物ですから、寺院や寺院跡とされる場所にあると思っていました。しかし、実際は思いもつかない処にありました。

山上多重塔1

辺りは赤城山の麓で起伏に富んだ台地の真っ只中です。周辺には何もありません。設置当時は寺院のようなものがあったのかと想像しますが、今はご覧のような状況です。
山上という地名は、藤姓足利氏足利五郎高綱が領土とした勢多郡山上保に相当する地域であろう。彼らは山上氏と称している。しかし、山上氏も時代的には平安時代初頭の12世紀に始まる。山上多重塔は其れよりも300年以上も古い遺跡なのです。

山上多重塔6

石塔は立派な保護施設に収められて管理されています。当地は冬場に赤城おろしの吹く過酷な場所ですから、保護屋がないと風化して文字も読めなくなってしまうのでしょう。以下は塔身の画像ですが、ガラス面が風雨と砂塵で汚れていて鮮明には撮影できませんでした。

山上多重塔3
↑南面

山上多重塔4
↑南面と西面

山上多重塔5
↑北面

山上多重塔7
↑説明板に掲載されてる画像の転写

山上多重塔は平安時代初期の延暦20年(西暦801年)7月17日、道輪と名乗る僧侶が法華経の経典を安置するために建立したものです。高さ185cm、下層幅48cmで、塔身が三層に分かれ全体が朱色で塗られています。塔身上部には深さ20cmの凹みがあり、法華経が収納されていたと考えられている。

山上多重塔9
↑塔身上層空間に経典が安置されたと推定される

塔の上層~中層~下層には道輪法師が、身分を問わず地獄から救われて安楽と平和を願い、建立した事が45文字に刻まれている。

山上多重塔8
↑碑文の読み順番(現地説明板内容に追記)

碑文は上層①→中層②→下層③の順に記されており、南面→西面→北面→東面の順番で読むようです。45文字の意味は、
如法経を安置する。この塔は、朝廷、神祇、父母、衆生、含霊いっさいの生命あるものの為に造られた。小師である道輪が此の塔を建てるのに関与した。それは延暦二十年七月十七日のことである。願うところは、絶え間なく地獄の苦しみを受けている衆生を救い、永く安らぎを得て悟りの世界へ到達されることである。

※如法経:法華経のこと
※朝廷:ここでは政を司る人々の意
※神祇:神そのものを指す言葉であるが、ここでは神を祀る者を指すのではないか
※衆生:一般民衆を指す
※含霊:衆生と同意
※道輪:この法師に関する歴史文献は残っていない。研究者によれば、鑑真の弟子にあたる道忠とその弟子達が
    下野・上野地域一帯で人々への教化を実施しており、道輪は道忠の弟子ではないかという説が有力。
    なお、道忠は埼玉県比企郡ときがわ町にある天台宗慈光寺を創建した人物として有名。


山上多重塔2
↑現地の説明板全文(2段クリック拡大


山上多重塔は当時の仏教文化史上最も重要な石造物の一つと評価され、昭和18年(1943年)に国指定重要文化財に指定されたそうです。
日本の仏教伝来は一般に西暦538年と言われている。この塔が設置されたのは、それから250年あまり経過している。このような地方の山深い地域にも仏教流布の活動に従事した僧侶がおり、また当時としては数少ない石塔を残したことに感銘を受けます。それにしても、碑文にある「絶え間なく地獄の苦しみを受けている衆生」という記述は尋常ではない。この表現は国全体の民衆の窮状を観念的に表現したものではないような気もします。この地域の受難を指しているのかも知れない。確かに当時の東国民衆が貧しかったのは想像できるが、少なくとも平和であれば ”地獄の苦しみ”とは形容しないだろう。大きな自然災害、または、政治的に民衆を苦しめる何らかの政策が影響していると思われます。遺跡の設置経緯については学者の研究成果もあるようなので、いずれ自分なりに検証し、続編として記事にしたいと思います。

山上多重塔10
↑塔の背景には赤城山が間近に見える

見学した日は生憎の天気でした。塔は赤城山の麓台地上に立っており、晴れていれば、雄大な景色が望める場所です。高崎市から見る赤城山はコニーデ型の裾野の広い山ですが、当地は裾野の真上にあるため、上部の無骨な山容に見えます。

取材日は2020年3月28日

【参考・引用】
・桐生市ホームページ 「山上多重塔」 桐生市教育委員会
・東国仏教と日本天台宗の成立 高崎経済大学論集 熊倉浩靖
東国の仏教 J-STAGE    由木義文

次稿に続く


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No Subject * by ご〜ご〜ひでりん
形名さま、こんばんは。

山上碑、多胡碑、金井沢碑は以前巡ったことがあるのですが、この「山上多重塔」の存在は知りませんでした。
さすがぐんま、層の厚さを感じます。笑。
昨日もかなり風が強かったですが、赤城おろしの風に吹き飛んでしまいそうな場所ですね。

「絶え間なく地獄の苦しみを受けている衆生」というのが、とても興味深い碑文です。当時の群馬に何があったのでしょう。。。

Re: No Subject * by 形名
ご〜ご〜ひでりん さん、こんにちは。

コメントありがとうございます。
私も山上多重塔の内容を知ったのは去年でした。
割と近場にあったのに完全に見落としていましたね。
現場は低地に挟まれたような台地の上ですが、冬場の風の強い日は
砂塵が叩きつける荒野のような感じですね。
機会があれば一度見学してみるのもいいです。
人と会うのは多分稀でしょうから安全ですよ。笑

碑文の内容ですが、研究者によると、やはり朝廷の蝦夷征討方針が
8世紀末に変化し、38年戦争と呼ばれる長期戦に突入した事が原因と
分析してる学者が多いですね。
朝廷軍は、都を出る時の正規軍は非常に少なく、殆どが東山道沿いの農民
を徴兵してるようです。また、おそらく正規の租税に加えて食料や
労役の過酷な搾取を行ったのでしょう。農民は餓死するような状況に
なっていたのかも知れないですね。でないと碑文のような言葉は出て
こないと思います。この点については、自分なりに当時の文献を
読んで確認してみたいと思います。ただ、続日本紀の記録は8世紀末までで
日本後紀に入ってしまい、記録密度の問題で情報が少ないんですよね。

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No Subject

形名さま、こんばんは。

山上碑、多胡碑、金井沢碑は以前巡ったことがあるのですが、この「山上多重塔」の存在は知りませんでした。
さすがぐんま、層の厚さを感じます。笑。
昨日もかなり風が強かったですが、赤城おろしの風に吹き飛んでしまいそうな場所ですね。

「絶え間なく地獄の苦しみを受けている衆生」というのが、とても興味深い碑文です。当時の群馬に何があったのでしょう。。。
2020-04-20-01:53 * ご〜ご〜ひでりん [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

ご〜ご〜ひでりん さん、こんにちは。

コメントありがとうございます。
私も山上多重塔の内容を知ったのは去年でした。
割と近場にあったのに完全に見落としていましたね。
現場は低地に挟まれたような台地の上ですが、冬場の風の強い日は
砂塵が叩きつける荒野のような感じですね。
機会があれば一度見学してみるのもいいです。
人と会うのは多分稀でしょうから安全ですよ。笑

碑文の内容ですが、研究者によると、やはり朝廷の蝦夷征討方針が
8世紀末に変化し、38年戦争と呼ばれる長期戦に突入した事が原因と
分析してる学者が多いですね。
朝廷軍は、都を出る時の正規軍は非常に少なく、殆どが東山道沿いの農民
を徴兵してるようです。また、おそらく正規の租税に加えて食料や
労役の過酷な搾取を行ったのでしょう。農民は餓死するような状況に
なっていたのかも知れないですね。でないと碑文のような言葉は出て
こないと思います。この点については、自分なりに当時の文献を
読んで確認してみたいと思います。ただ、続日本紀の記録は8世紀末までで
日本後紀に入ってしまい、記録密度の問題で情報が少ないんですよね。
2020-04-20-10:15 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]