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東国の古代史

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2020-04-19 (Sun)  19:00

新川武井古墳《桐生市》 - 通称 武井廃寺塔跡 -

この遺跡を何と呼べばよいのか困っている。仮称として新川武井古墳と記載しました。全国的な考古学発掘成果の積み上げによっても、本遺跡は火葬墓に間違いないと思います。しかし、管理している教育委員会は未だに古い名称『武井廃寺塔跡』を改めようとはしない。火葬墓の可能性は高いが、確定はしていないというのがその理由です。

武井廃寺塔跡2
↑通称”武井廃寺塔跡”と呼ばれる火葬墓の骨

確かに、もし古代寺院跡であれば魅力的な仮説が生まれてくる。この遺跡の至近距離には古墳時代終末期の中塚古墳があります。埋葬者は高崎市の山上碑に記された新川臣の可能性が高い。とすれば、武井廃寺新川臣勢力の私寺の可能性が出てくる。その場合、周辺遺跡を含めた総合的価値は更に高いものになるでしょう。

 佐野三家の健守の命-○-黒売刀自(母)--
                      |---
長利(放光寺の僧)
 
新川臣-斯多々弥足尼-○-大胡臣(父)--


他稿記事でも詳細に触れたが、高崎市の山上碑を建立した人物長利は有名な放光寺(前橋市)の僧侶でした。彼の母親が新川臣の子孫である大胡臣に嫁いだ結果生まれたのが長利です。当時の地方上流階級が仏教に傾倒していたことが伺える証拠にもなり、その縁で婚姻が成立したとも推定できる。しかし、武井廃寺が寺院ではないなら、残念ながら新川臣勢力の信仰については推定する材料が無くなります。ただ、火葬墓であっても、それは仏教の影響と考えられるので、新川臣子孫一族は、のちに旧来の遺体埋葬文化を捨て、火葬墓に移行したと見ることは可能でしょう。仏教では人間の魂(精神性)に重きをおき、肉体は重要ではない。遺体を過度に重視したり、大きな墓を造る文化とは相容れないのです。山上碑を母の墓碑とした長利僧も古墳を造った訳ではないと思います。おそらく祖父の墓に母を合葬しただけでしょう。


この遺跡は以前にも短時間で見学したことがあるが、再度周辺を踏査して、遺跡と周辺地形を観察してきました。以下、画像で紹介します。

武井廃寺塔跡9
↑公園の南端から見た墳丘(中央最奥に小さく見える)

武井廃寺塔跡8
↑公園の西端道路より

武井廃寺塔跡7
↑西端道路より見た敷地内

以上の写真でも少し分かるが、現場は北部の標高が高く、南に向かってゆるい斜面になっている。全く平坦に整地されている部分は少ない。また周囲に残る盛り土は中世城郭等の痕跡だろうか? 寺院に限らず建築物があったようにも見える。

武井廃寺塔跡6
↑公園内には建築物の礎石とも見える大きな石が露出したり埋もれている

武井廃寺塔跡5
↑八角墳と判明した三段築成の墳丘

武井廃寺塔跡4
↑緩斜面上にあり、周辺に同じ高さの墳丘は存在しない

武井廃寺塔跡1
↑墳丘頂上中心の

武井廃寺塔跡3
↑専門用語で石櫃と呼ばれるタイプの骨蔵器

武井廃寺塔跡11
↑上野国分寺の七重塔礎石(中心の塔心礎1個+他礎石16個)

五~七重塔などの塔礎石には、西暦749年造営の上野国分寺ような個数が必要です。塔心礎一個だけの礎石などあり得ない。また三重塔クラスでも塔心柱が、穴から推定できる太さの木材で構造的に持つはずがない。もともと礎石と推定した学者の判断は軽率と言わざるを得ないでしょう。


以下に桐生市のホームページからサマリを引用します。
指定史跡武井廃寺塔跡の円錐状の加工石は塔の中心礎石である、という見解から、ここは古代の寺院があった跡とされ、武井廃寺塔跡として昭和16年に国指定史跡になった。 しかし、ここは武井字松原峯の標高210mの丘陵性台地の尾根上にあり、かなり傾斜地であることや、寺院の土台を支えた礎石も全く発見されていないことから、寺院の塔跡と断定することが長い間疑問視されてきた。
昭和44年の調査で、八角形三段の石積の墳丘が発見されたことがきっかけとなり、現在は奈良時代の火葬墳墓との見解が強く支持されている。円錐台形状の安山岩の加工石は、下位の直径が123cm、そこから17.5cmの高さで造りだし、上面の直径が105cmになる。そして、中央には直径43cm、深さ44cmの丸底状の穴が穿ってある。

武井廃寺塔跡10
の事例(石櫃)文化遺産オンラインサイトより引用

詳細調査でと判明した訳であるが、火葬墓事例では陶器などに収めて埋納する方法が採られている。また、必ず蓋石がセットであるはずだが紛失しています。
また墳丘の形状としては、群馬県には他に以下八角墳の事例があります。
三津屋古墳:群馬県北群馬郡吉岡町(7世紀前半)
伊勢塚古墳:群馬県藤岡市(6世紀前半)
神保一本杉古墳:群馬県高崎市吉井町(八角墳の可能性ありの域)
新川武井古墳の場合は火葬墓を伴うので、8世紀に入るのは確実と考えます。畿内で皇親の火葬が始まったのが西暦700年頃です。この変化は仏教の普及に密接に関連している。おそらく、地方へ広範囲に普及するのは8世紀後半ではないかと思います。


取材日時は2020年4月12日

【参考・引用】
・桐生市ホームページ
文化遺産オンライン 蔵骨器画像
・「穿孔骨蔵器 にみる古代火葬墓の造営理念」 J-STAGE   吉澤 悟




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