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東国の古代史

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2020-04-20 (Mon)  22:00

まぼろしの上武士天神山古墳《伊勢崎市》

アメブロで運営する東京都在住の方から古墳の情報を頂きました。私も名前は聞いたことがありましたが、既に存在していないので調べてみるのも忘れていた。情報によると大型古墳だったようです。

↑古墳跡の位置

上武士天神山古墳8
↑伊勢崎市総合運動場入口の古墳跡標識(GoogleSVより)クリック拡大


上武士天神山古墳(かみたけし・てんじんやまこふん)は伊勢崎市総合運動場北西部に存在した古墳です。古墳マップサイトなどに以下情報があります。しかし、これほど大きな古墳だったは知りませんでした。伊勢崎市には5世紀前半~中葉のお富士山古墳
全長125m)がある。時代は異なるが、ほぼ同規模になります。
・全長127m
・後円部径61m
・高さ5.5m(定型比較で低過ぎるので破壊後の残存前方部の高さと推定)
・前方部幅約80m
・墳丘方位  南南東(前方部)ー北北西(後円部)
・出土品   前方部より動物形象埴輪と男子像(以下出土品画像参照)

上武士天神山古墳2
↑東京国立博物館保管の形象埴輪「猪」(同館画像ライブラリより)

上武士天神山古墳0
↑石川県立美術館保管の男子像振り返る犬と呼ばれる形象埴輪
(石川県教育委員会HPより)

本古墳は6世紀代築造と推定されている大型前方後円墳です。出土時期は不明確ですが、犬、猪、男子像などの形象埴輪が出土している。昭和41年に教育委員会の委託で群馬大学が上武士天神山古墳を含む3古墳を発掘調査したが、完全に破壊されていて殆ど出土遺物はなかったそうです。私も1947年まで遡って航空写真で確認したが、明確な墳丘の痕跡は確認できない。後円部は古い時代(明治時代?)に削平されて、前方部の一部が残存していたらしい。
なお、本古墳は上毛古墳総覧では剛志村30号墳と記録されているが、何故か群馬県古墳総覧2017には記載が落ちている。

上武士天神山古墳3
↑1960年航空写真(範囲内が墳丘推定位置)クリック拡大

上武士天神山古墳12
↑1960年航空写真の拡大(赤○中心が現在古墳跡標識がある地点)クリック拡大
※本記述には訂正があります→後述の補足2を参照

↑現在の古墳跡標識が、古墳中心線のどこかにあるとすればですが、後円部の中心なら青位置、墳丘中心ならオレンジ位置になる。たぶん無いと思うが、埴輪が出土した前方部終端位置であれば、北方向に大幅にずれることになる。

上武士天神山古墳5
↑1947年航空写真(画像不鮮明で墳丘残存有無は不明)クリック拡大

以上の3枚の画像に追記した赤○は、概算だが直径が130m程度になるように描いています。周濠の存在は不明だが、墳丘全長がこの円に収まるサイズだと思います。

1947年以前の航空写真はおそらく存在しないので、1894年(明治27年)の古地図で調べたところ、墳丘の存在が確認できました。少なくとも明治時代中期までは墳丘全体が存在していた可能性が高いでしょう。

上武士天神山古墳6
↑左は明治27年古地図の上武士天神山古墳、右:現代地図の古墳跡標識位置
クリック拡大

今昔マップツールを使うと、現在地図位置と古地図位置のカーソルが連動してポイントします。左右の画像に追記した印の位置が同位置として対応します。当時の地図の古墳表示は後円部の頂上位置で記載されている場合が多い。従って、古墳跡標識の位置が後円部の中心付近であった可能性があると思います。いずれにしても、伊勢崎市史で確認すれば昭和41年の調査結果を踏まえた詳しい情報が分かるかも知れません。

上武士天神山古墳7
↑明治期の周辺の古墳位置(:上武士天神山古墳、:他の削平された古墳)

明治27年古地図をよく見ると武士天神山古墳周辺には多くの古墳が存在している。当時の山稜を示す表示は、円墳も含んでいるが、比較的大きな古墳の場合が多いようです。中には前方後円墳もあったでしょう。しかし、現在、此れらの古墳は殆ど削平されています。このような破壊はあらゆる地域で起きてる事ですが、一部だけでも保護して欲しいと思います。

【補足1】
以下画像は黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりというブロガーさんの記事から承認引用させてもらった画像(書籍画像)です。橋本1980の記述があるので、多分、某書籍が考古学者 橋本博文氏の論文、または、調査報告書から引用したものでしょう。

上武士天神山古墳10
↑個人からの承認引用なので転載はご遠慮ください

上武士天神山古墳は旧剛志村にありましたので、剛志天神山古墳という名前は同じ古墳を指すものと思われます。それは出土埴輪の類似性や前方部のみ残存した墳丘図からも想定できます。しかし不思議なのは、図中にある縮尺表示です。この縮尺が正しいとすれば、本古墳の全長は100mになります。前方部幅80mにも合致しません。従って、冒頭で古墳マップから転載した墳丘サイズは不正確とは断定できませんが、確認が必要です。しかし、この図面のおかげて残存していた墳丘の様子や埴輪配置、墳丘方位を正確に掴むことができました。また埋葬施設が3箇所もある不思議な古墳であることも分かりました。以上。


【補足2】
上州の人という群馬の古墳に詳しい方から本古墳の位置に関する情報を頂きました。
現在の古墳標識から北西に数十mの所にあった。墳丘の長さは127.7m」ということです。
私が1960年の航空写真画像に書き込んだ推定位置は、現古墳標識が古墳の中心線のどこかにあるという前提でした。しかし、情報によれば標識は、古墳とは離れた場所に設置されたということらしいです。画像をもう一度掲載します。黄色い線で示した位置に古墳はあったと思われます。

上武士天神山古墳13
↑1960年の航空写真に墳丘残骸が見える当古墳の位置(クリック拡大)

上武士天神山古墳15
↑現在地図に重ねた古墳位置クリック拡大)

本稿を最初に書いた時に、前方部墳丘の残骸と思しき地形があることには気がついていました。しかし、標識の位置が離れていたので、該当しないと判断してしまった。調査が入った昭和41年(1966年)当時には残骸があったはずなので、1960年画像にないと矛盾します。黄色線で示した位置で間違いはないと思います。残骸墳丘は補足1で記載した墳丘図にもピッタリ合致しています。おそらく古墳位置は私有地です。一方、標識がある場所は、当時から農道のようで、後に公道になっています。標識は古墳から離れてしまうが公共地に設置するしかなかったのでしょう。ただ、このサイズの古墳には周濠が空堀であったとしても付帯していたと思います。周濠があれば古墳標識は周濠端に入るのではないか。一点解決しないのは、127.7mという値と、補足1の縮尺から読めるサイズ(約100m)の不一致です。28mの差は誤差範囲とするには大き過ぎます。墳丘の土砂容量では2倍以上の差になりますが、測定値の違いの原因が分かりません。以上。



【参考・引用】
・GoogleMap/Earth
・古墳マップサイト
・国土地理院ホームページ
・今昔マップWeb
・東京国立博物館画像ライブラリ
・石川県教育委員会ホームページ





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* by 上州の人
上武士天神山古墳ですが、現在の標識から北西に数十mの所にあったそうです。
あと、墳丘の長さですが、127.7mです。
埋葬施設のことですが、前橋市の正円寺古墳(後円部+くびれ)や、総社二子山古墳(前方部+後円部)のように、1古墳の複数の地点に埋葬施設がある例はいくつかあるので、この古墳もその一例でしょう。

Re: タイトルなし * by 形名
上州の人さん、おはようございます。

いつも情報ありがとうございます。
北西に数十mというと、私が画像に書き込んだオレンジ線位置よりも北西にあったんですね。
畑の中に崩れた墳丘らしきものがあるのですが、前方部の残骸なのかも知れません。
昭和41年(1966年)調査時は残骸があったわけですから、1960年の画像には残っていないと
おかしいと思ってました。私の記事の最期に添付した残骸墳丘図面とぴったり合致しています。
大きな墳丘ですから、古墳跡の標識には図面を付けてほしいですね。
そう云えば、総社二子山も前方部側にも潰れていますが、石室がありましたね。
親族であれば、追葬で良いような気もしますが、何か当時のルールのようなものがあったのかな。
記事には追加で補足を入れておきます。

No Subject * by トクチャン
ブログにコメントをいただいたトクチャンです。
本当にありがとうございました。
私のブログのコメント欄に返信させていただきました。
まだまだ書き足りないことがたくさんありますが、ご容赦ください。あの地域は農村であるが故、いままであまり知られてきませんでしたが、度重なる古墳の盗掘や開墾ですっかり様変わりしてしまいました。碑の立つグラウンドの東側、西中学校のある所もかつてヤマ(古墳)があり、古墳を崩して中学校を建てたそうです。ロージンホーム脇のタテノヤマから剛志小学校のあたりまで数えきれないほど古墳があったそうです。小学校の隣のお寺の裏山も古墳だそうです。今僅かに墳丘の一部が残されているは他に武士の三柱神社のあるヤマだけでしょうか。このあたりの歴史についてはお菓子屋をやっておられた篠木弘明さんの書いた境風土記に詳しく書かれています。では、これからもよろしくお教えください。
ありがとうございました。

No Subject * by トクチャン
追記、すみません。少々追記させていただきます。
西暦に直すと、1966年か65年当時、利根川沿いの八斗島工業団地造成のため武士の天神山を含む周辺の三つの古墳を崩し、その土砂を田んぼを埋めるための造成につかいました。
隣接する剛志小学校や西中学校には私が子供のころ、学校建設のため古墳を崩した際に出土した埴輪や付近から出土した埴輪や直刀などが展示されていましたが、今はどうでしょうか。
武士~伊与久~渕名にかけてかつては古墳が集中していたそうです。
では。

Re: No Subject * by 形名
とくちゃんさん

伊勢崎の削平古墳は古い時代に破壊されたものが多いので、出土品できちんと管理されてるとしたら東京国立博物館ですね。地元博物館では、相川考古館と赤堀歴史民俗資料館ですが、前者はまだ行ったことがありません。相川は展示点数ではかなり充実してるという話です。かって、地元の公民館や、小学校などに寄贈されたものは、ほとんど残っていないと思いますね。また残っていたとしてもきちんとした管理がないので、どこで出土したものか分からなくなってるケースが殆どです。学問的な価値が無くなってる場合もありますね。中には相川考古館などに収蔵されたものもあるかも知れませんがね。
ちなみに、東京国立博物館は出土品全てでは無いのですが、画像ライブラリで公開していますので、ホームページから参照することができます。どこで出土したものか簡単な文言が付いています。地道に探して見るしかないですね。

Re: No Subject * by 形名
とくちゃんさん、こんにちは。こちらこそ宜しくお願いします。

私もあの近辺は、御嶽彼岸花公園ができた時に行きましたが、古墳があったような感じはないですね。古い地図で見て、こんなにあったのかと驚いた次第です。伊勢崎に限らずどこの地域でも、昭和の高度経済時代は、遺物は大事にされなかったですね。私も群馬県西部の古墳はある程度は把握してるのですが、伊勢崎中毛地域はまだしっかり調べきれていません。詳しい方に教えてもらう方が多いですね。伊勢崎の場合、非常に大きい古墳があまり調査されずに破壊されてるので、群馬県の古代史を考える上でも注意が必要ですね。

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上武士天神山古墳ですが、現在の標識から北西に数十mの所にあったそうです。
あと、墳丘の長さですが、127.7mです。
埋葬施設のことですが、前橋市の正円寺古墳(後円部+くびれ)や、総社二子山古墳(前方部+後円部)のように、1古墳の複数の地点に埋葬施設がある例はいくつかあるので、この古墳もその一例でしょう。
2020-05-02-22:38 * 上州の人 [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: タイトルなし

上州の人さん、おはようございます。

いつも情報ありがとうございます。
北西に数十mというと、私が画像に書き込んだオレンジ線位置よりも北西にあったんですね。
畑の中に崩れた墳丘らしきものがあるのですが、前方部の残骸なのかも知れません。
昭和41年(1966年)調査時は残骸があったわけですから、1960年の画像には残っていないと
おかしいと思ってました。私の記事の最期に添付した残骸墳丘図面とぴったり合致しています。
大きな墳丘ですから、古墳跡の標識には図面を付けてほしいですね。
そう云えば、総社二子山も前方部側にも潰れていますが、石室がありましたね。
親族であれば、追葬で良いような気もしますが、何か当時のルールのようなものがあったのかな。
記事には追加で補足を入れておきます。
2020-05-03-05:40 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

ブログにコメントをいただいたトクチャンです。
本当にありがとうございました。
私のブログのコメント欄に返信させていただきました。
まだまだ書き足りないことがたくさんありますが、ご容赦ください。あの地域は農村であるが故、いままであまり知られてきませんでしたが、度重なる古墳の盗掘や開墾ですっかり様変わりしてしまいました。碑の立つグラウンドの東側、西中学校のある所もかつてヤマ(古墳)があり、古墳を崩して中学校を建てたそうです。ロージンホーム脇のタテノヤマから剛志小学校のあたりまで数えきれないほど古墳があったそうです。小学校の隣のお寺の裏山も古墳だそうです。今僅かに墳丘の一部が残されているは他に武士の三柱神社のあるヤマだけでしょうか。このあたりの歴史についてはお菓子屋をやっておられた篠木弘明さんの書いた境風土記に詳しく書かれています。では、これからもよろしくお教えください。
ありがとうございました。
2020-05-03-15:11 * トクチャン [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

追記、すみません。少々追記させていただきます。
西暦に直すと、1966年か65年当時、利根川沿いの八斗島工業団地造成のため武士の天神山を含む周辺の三つの古墳を崩し、その土砂を田んぼを埋めるための造成につかいました。
隣接する剛志小学校や西中学校には私が子供のころ、学校建設のため古墳を崩した際に出土した埴輪や付近から出土した埴輪や直刀などが展示されていましたが、今はどうでしょうか。
武士~伊与久~渕名にかけてかつては古墳が集中していたそうです。
では。
2020-05-03-15:23 * トクチャン [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

とくちゃんさん

伊勢崎の削平古墳は古い時代に破壊されたものが多いので、出土品できちんと管理されてるとしたら東京国立博物館ですね。地元博物館では、相川考古館と赤堀歴史民俗資料館ですが、前者はまだ行ったことがありません。相川は展示点数ではかなり充実してるという話です。かって、地元の公民館や、小学校などに寄贈されたものは、ほとんど残っていないと思いますね。また残っていたとしてもきちんとした管理がないので、どこで出土したものか分からなくなってるケースが殆どです。学問的な価値が無くなってる場合もありますね。中には相川考古館などに収蔵されたものもあるかも知れませんがね。
ちなみに、東京国立博物館は出土品全てでは無いのですが、画像ライブラリで公開していますので、ホームページから参照することができます。どこで出土したものか簡単な文言が付いています。地道に探して見るしかないですね。
2020-05-03-16:54 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

とくちゃんさん、こんにちは。こちらこそ宜しくお願いします。

私もあの近辺は、御嶽彼岸花公園ができた時に行きましたが、古墳があったような感じはないですね。古い地図で見て、こんなにあったのかと驚いた次第です。伊勢崎に限らずどこの地域でも、昭和の高度経済時代は、遺物は大事にされなかったですね。私も群馬県西部の古墳はある程度は把握してるのですが、伊勢崎中毛地域はまだしっかり調べきれていません。詳しい方に教えてもらう方が多いですね。伊勢崎の場合、非常に大きい古墳があまり調査されずに破壊されてるので、群馬県の古代史を考える上でも注意が必要ですね。
2020-05-03-17:06 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]