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東国の古代史

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2020-05-30 (Sat)  17:00

古代北関東の古墳配置と水利

以下に示す2つの画像は群馬県と埼玉県の利根川周辺域の古墳配置です。一見して目立つのは、利根川南岸の古墳密度の薄さでしょう。北岸に関しては密度の減少は顕著ではない。

古代北関東の水利と古墳配置2
↑群馬県利根川北岸の古墳群(クリック拡大)

古代北関東の水利と古墳配置3
↑埼玉県利根川南岸の古墳(クリック拡大)

3世紀代において東海地方西部の氏族が東海道沿岸を航海し、関東地方の河川を遡上した可能性が高い。彼らが残した特徴のある土器が根拠となっています。当時の利根川東京湾に注いでいました。海岸線は今よりも、かなり後退していたと思われるが、関東奥地に至る遡上ルートは古利根川に他なりません。

古代北関東の水利と古墳配置0
↑江戸時代以前(左)と江戸時代後(右)の関東河川図(クリック拡大)
ホームページ「荒川の開発史」より引用
【補足】
江戸時代以前の河川状態が3世紀代まで遡れる証拠はありません。ただ、山岳地の谷筋は2000年程度では変化が少ないので、元荒川を含む古利根川水系と入間川水系の合流有無は確かでなくても、両水系の存在は確実と考えます。

埼玉県の荒川は、現在、利根川とは別河川になっていますが、当時の元荒川古利根川の支流でした。現在の荒川あたりには吉野川入間川が流れていたはずです。元荒川は江戸時代に吉野川に付け替えられて現代に至ります。
3世紀ころの関東平野沿岸部は湿地帯ですが、歩けるような状態ではなかったろうと想像します。東京湾から利根川を遡上した氏族グループの一派は利根川本流を上り、群馬県、栃木県に入ります。もう一派は、本流から支流の元荒川入間川(現荒川)を遡上し、東松山周辺地域に定住したと推測される。関東の古式古墳は前方後方墳で始まるが、小型ながら残存している地域です。
古利根川本流を遡った人々の殆どは北岸に定着します。南岸域に定住出来なかったのは河川の氾濫が原因であると推定できます。おそらく、利根川氾濫原利根川を北限とする、その南部地域であったのでしょう。しかし、古墳の配置図を見ると、河川から離れた地域でも古墳の密度は群馬県には遠く及ばない。これは何故だろうか? 有史に入ってからも火山被害の多い群馬県に比べれば埼玉県のほうが安全な地域とも言えるでしょう。

その要因を考えると幾つかの仮説が上げられる。しかし、最も有力なのは水利であると思います。当時の土木技術では大河川からの導水は技術的に不可能であったと思います。現代のように堤防があれば、河床が浅くなって天井川になることもあるが、自然河川では有り得ない。標高の高い遥か上流まで遡って分流水路を引くしかありません。しかし、例え工事が可能であっても、暴れ川の利根川は氾濫のたびに流路を変える。恒久的に使える施設は維持出来なかったと思います。
では水利に何を利用したかというと利根川に注ぐ小河川です。測量技術がありませんから、平坦地で人工的な水路を流すのは不可能です。可能なのは緩い傾斜地の小河川です。利根川北岸には赤城山から流れ出す小河川が無数にあります。これらの河川から分流水路を引いて稲作を行ったと思われる。彼らの出発地点を伊勢湾岸の舌状地と推定すれば、当地は地形的に類似しており、彼らの持つ灌漑文化に適用しやすかったのかも知れません。

利根大堰10
↑現荒川水系と入間川水系に囲まれた東松山周辺

一方の利根川南岸の埼玉県側には小さな河川が非常に少ない。元荒川も支流とは云え大河川ですから水利を直接得るのは難しい。秩父山系を下る小河川は利根川支流であった元荒川まで届く河川は少なく、現荒川に相当する吉野川水系に吸収されてしまいます。古墳の配置も山間地域に近い入間川付近の密度が高い。

結論として考えられるのは、元荒川利根川本流の間にある現代のJR高崎線沿いは、水利のない不毛の地であった可能性があります。これが埼玉県中心部の古墳密度の薄さの要因であると考えます。この傾向は江戸時代以前まで続いていたと思われる。江戸時代に入ると灌漑用の溜池などが作られたが、それでも水不足は解消せず、後に河川からの導水工事に至ったようです。高崎線沿線には多くの用水路が開発されています。現代では此れらの水利工事によって、不毛の地域は首都圏の野菜需要を支える一大生産地に変貌しています。


古代北関東の水利と古墳配置5
↑行田市北部にある利根大堰

古代北関東の水利と古墳配置6
↑利根大堰のダム水門

古代北関東の水利と古墳配置8
↑水門下流側

古代北関東の水利と古墳配置4
↑導水制御している利根大堰須加樋管(水位差による自然流下式)

古代北関東の水利と古墳配置7
↑須加樋管から見た沈砂池と分流水路に続く整水堤

利根大堰11
↑3つの分流水路(左:見沼代用水 中:武蔵水路 右:埼玉用水

現在は、利根大堰という施設で利根川本流から水を分流し、水利の乏しかった地域にきめ細かく給水しています。因みに利根大堰は、見沼代用水武蔵水路(荒川に接続)、埼玉用水の3系統に分流している。埼玉県中心部が、大きな河川に囲まれながらも渇水の地であった事はあまり知られていない。しかし、取水施設の膨大な水量がこの地域の水不足の深刻さを物語っています。

古代北関東の水利と古墳配置10
↑さきたま古墳群の水利環境(現在の旧忍川は空堀状態)
(さきたま史跡博物館ホームページの引用画像を編集)

利根大堰の南方には古墳時代中期の有名なさきたま古墳群があります。水利に乏しい地域で、彼らが何世代にも渡り繁栄出来たのは、おそらく元荒川支流(旧忍川)の水利を上手く利用できる地形と土木技術を持っていたためと推定します。彼らは、この土地のネイティブではなく、おそらく後発の移住者であると思います。周辺には彼らの祖先に相当する古墳が存在しないからです。



【参考・引用】
・古墳検索サイト「古墳マップ」
ホームページ「荒川の開発史」
さきたま史跡博物館ホームページ
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さきたま古墳群 * by レインボー
>利根大堰の南方には古墳時代中期の有名なさきたま古墳群があります。水利に乏しい地域で、彼らが何世代かにわたり繁栄出来たのは、おそらく元荒川支流(旧忍川)の水利を上手く利用できる地形と土木技術を持っていたためと推定します。

〇たいへん興味深い記事でした。私は、さきたま古墳群の近くに8年ほど住んだことがありますが、ご指摘のとおりだと思います。
 この地域が、どのように水を得ていたのか、興味深いところです。

Re: さきたま古墳群 * by 形名
レインボーさん、おはようございます。

レインボーさんは確か農業技術系の職業をお持ちでしたね。
転勤が多かったんですかね。
記事の画像では写角に入っていないのですが、近くには見沼代用水が
走っていて、おそらく水不足に悩んだ地域ではと思っています。
さきたま古墳群の最初の首長は鉄剣で有名な稲荷山古墳ですが、この
古墳の北側には、旧忍川の跡があります。この流路も人工的なもの
である可能性は高いですが、何れにしても元荒川の支流が古代にも
付近にあったと思われます。
河川堤防のない当時は、自然に天井川ができる可能性は薄いですね。
導水は高度の技術が必要です。灌漑が必要な水田の標高よりも
高い位置まで河川を遡って分流水路を引く以外には方法がありませんね。
平坦地では距離が長くなるので、非常に困難であったと思います。
群馬県には平安時代の水路遺跡(女堀)がありますが、この時代に
なっても通水に失敗しています。

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さきたま古墳群

>利根大堰の南方には古墳時代中期の有名なさきたま古墳群があります。水利に乏しい地域で、彼らが何世代かにわたり繁栄出来たのは、おそらく元荒川支流(旧忍川)の水利を上手く利用できる地形と土木技術を持っていたためと推定します。

〇たいへん興味深い記事でした。私は、さきたま古墳群の近くに8年ほど住んだことがありますが、ご指摘のとおりだと思います。
 この地域が、どのように水を得ていたのか、興味深いところです。
2020-05-31-19:53 * レインボー [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: さきたま古墳群

レインボーさん、おはようございます。

レインボーさんは確か農業技術系の職業をお持ちでしたね。
転勤が多かったんですかね。
記事の画像では写角に入っていないのですが、近くには見沼代用水が
走っていて、おそらく水不足に悩んだ地域ではと思っています。
さきたま古墳群の最初の首長は鉄剣で有名な稲荷山古墳ですが、この
古墳の北側には、旧忍川の跡があります。この流路も人工的なもの
である可能性は高いですが、何れにしても元荒川の支流が古代にも
付近にあったと思われます。
河川堤防のない当時は、自然に天井川ができる可能性は薄いですね。
導水は高度の技術が必要です。灌漑が必要な水田の標高よりも
高い位置まで河川を遡って分流水路を引く以外には方法がありませんね。
平坦地では距離が長くなるので、非常に困難であったと思います。
群馬県には平安時代の水路遺跡(女堀)がありますが、この時代に
なっても通水に失敗しています。
2020-06-01-05:43 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]