愛媛県今治市に新谷古新谷遺跡(にやこにや・いせき)という舌を噛みそうな遺跡がある。東日本に住む人には古代史ファンであっても余り知られていないと思います。四国出張が多かったので、多少土地勘がありますが、今治市は瀬戸内海国立公園に面する風光明媚な場所です。遺跡の北方にある海山城公園は高台にある絶景スポットです。新谷古新谷遺跡はやや内陸に入る丘陵地と平地の境界にあります。遺跡として特徴的なのは、弥生時代~古墳時代~奈良平安時代までの遺物が集中して出土する点です。古代から文化性の高い地域であった事が伺えます。
↑GoogleMAP
毎日新聞電子版によると、最近の調査で新たに丘陵部から7基の古墳群が発見されたという。古墳時代中期後半(5世紀後半)のものらしい。古墳の墓坑から、ガラス小玉、管玉、須恵器など多くの副葬品が出土しているそうだ。
↑古墳の土坑(毎日新聞オンライン)
↑土坑の土器群(毎日新聞オンライン)
↑出土土器(毎日新聞オンライン)
↑出土土器(毎日新聞オンライン)
灰色にくすんだ土器は須恵器です。保存状態が良いのは勿論だが、非常に品質の高いものに見えます。5世紀の後半に、このような土器を作れる技術があったとは驚きです。関東の須恵器も、この時代には一部で作られ始めているが品質が劣るものが多い。従来の土器焼成温度はせいぜい800~900度ですが、須恵器は1200度近くまで上げる必要がある。当然、専用の窯と燃焼管理が必要で高度な技術が伴う。出土品は、この地で焼かれた物か土質分析の情報がありません。当地産でないとすれば、大阪の陶邑窯跡群で焼成された可能性もあるでしょう。
瀬戸内海沿岸氏族の文化性は弥生時代から継続して高い事が分かっています。それは彼らの海人族としての航海技術や交易文化、その後の職掌が関係していると思われる。時代は下りますが、この遺跡から出土したもので有名な遺物は以下の2点でしょう。
①築状弦楽器
古墳時代後期の楽器です。一見、野球バットを縦に割ったような弦楽器です。古代中国の弦楽器「筑」と同じように、片手でバットのグリップにあたる部分を握り、上部の平らな面に張った弦をもう一方の手に持った棒ではらって演奏したと推定される。筑状弦楽器と呼ばれています。この地方で作られたものかは判明していない。数は多くはないが、日本各地で弥生時代の琴に似た弦楽器が発見されています。祭祀などで使われていた可能性があるでしょう。筑状弦楽器の出土事例は少ない。おそらく貴重な宝物であり、新谷古新谷の埋葬者は財力を持っていたものと思われます。
↑「築」の出土状況(愛媛県教育委員会)
②刻字土器
2019年に8世紀後半の頃と見られる刻字文字のある須恵器が出土した。上部は欠けていて、小型の長頸壺と推定されている。注目されるのは記載された文字です。
↑刻字のある須恵器(愛媛県教育委員会)
直径約7センチの底部に「凡直」、その下に「万呂」を合わせたと考えられる1文字、右横に「龍」と推定される文字が刻まれている。凡直は古代氏族、凡直氏(おおしのあたいうじ)を指すウジカバネです。須恵器の持ち主は凡直万呂という人物でしょう。龍が何を意味するのか分かりませんが、水神を指すのでしょうか。
「凡直」は瀬戸内海の沿岸諸国に勢力を張り、海部(あまべ)を統率した伴造氏族です。系譜伝承では、讃岐(香川県)の国造の始祖である神櫛王(景行天王皇子)の流れをくむという。神櫛王の子孫は讃岐で勢力を張っていた。敏達天皇の代に国造星直(ほしのあたい)が、国を押し統べるという意味で大押直(おおしのあたい)のカバネを賜い、のちに凡直(おおしのあたい)と改めたという。
【補足】
大化改新が実態的にどの時点で確立したかは、いろいろな説があります。その話は此処では置いておきますが、改新以前、朝廷や豪族は人民労役集団を所有しており、彼らは部民と呼ばれました。百済の部制を導入したものと言われている。
朝廷の所属には伴造が統率する品部、御名代部、御子代部などがある。その他には海部(あまべ)というのがあります。朝廷に漁業や航海技術をもって奉仕した部です。海人部とも呼ばれる。海部を統率した氏族が海部氏(あまべうじ)と呼ばれる伴造氏族です。そのカバネには、連、直、臣、首、公の5種類がある。一方、豪族の所属は部曲 (かきべ) と呼ばれます。
部民は、農民、漁民、特殊技能民から成り、自立的な家族生活を営みがら、所属する朝廷や豪族に貢物や労役を提供していた。また部は集団ごとに地名、豪族名、職掌名などを冠して呼ばれる習慣がある。大化改新により組織上は廃止されたと書紀には記録されるが、氏族としては存続しています。また、地方の部は大宝律令公布頃(701年)まで存続した可能性があります。
他稿でも触れたことがあるが、正史記録上、讃岐、伊予には屯倉がありません。朝廷の直轄地が無いということは、当地の伴造氏族が全て自らの土地として所有していたという可能性があります。国内の反乱勢力討伐、朝鮮半島での海戦に備え、航海技術を重要視されていた彼らは優遇されていたのかも知れません。一方、当地には頓田川、富田という地名があり、朝廷の支配地であった屯田(とんでん、みた)の名残の可能性もある。地名由来を調べる必要があります。
↑西日本沿岸諸国に広がる凡直氏
(出典不明※歴史学者鈴木正信氏の論文か?)
系譜伝承の信憑性はよく分かりませんが、彼らが阿曇氏(あずみうじ)や尾張氏と同じ海人族の一派であることは間違いないでしょう。凡直氏は後に瀬戸内海各地に広がり、海部氏(あまべうじ)として勢力を張ったと思われる。凡直氏は所在の地域名を冠して呼ばれています。新谷古新谷古墳群の氏族は伊予凡直の一派ということになります。ただ凡直を冠するウジカバネが全て同族とは限らないと思います。出自の異なる氏族や擬制的に結びついた氏族もあったのではないでしょうか。
大宝律令が施行される8世紀初頭には、地方でも海部という組織は解体されています。それらを統率していた氏族は、そのまま朝廷の臣下として扱われ、地方豪族として力を温存していたものと思います。前述の須恵器の持ち主、凡直万呂も眼前の瀬戸大島、伯方島の海上交通を掌握し、権勢を誇っていたものと思われる。晩年は筑状弦楽器を奏でるような生活をおくっていたのであろうか。なお、遺跡の位置はやや内陸にあるが、船舶を駆使する職掌から考えると、住居は平野部の蒼社川や頓田川の水運を利用できる場所にあったのではないかと思います。
了

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Re: 古墳時代中期後半(5世紀後半)のものらしい * by 形名
レインボーさん、こんにちは。
レインボーさんの記事にある河内の勢力に従属していたのでしょうね。奈良勢力と河内勢力の関係は、多くの学者が説を出していますが、いずれにしろ、当時の大王であったのは、ほぼ間違いないでしょう。この時代は、大王の意識が朝鮮半島に向かっていた蓋然性が高いと思います。とすれば海運を担う氏族が重視されるのは自然ですね。
レインボーさんの記事にある河内の勢力に従属していたのでしょうね。奈良勢力と河内勢力の関係は、多くの学者が説を出していますが、いずれにしろ、当時の大王であったのは、ほぼ間違いないでしょう。この時代は、大王の意識が朝鮮半島に向かっていた蓋然性が高いと思います。とすれば海運を担う氏族が重視されるのは自然ですね。
〇たいへん興味深い記事でした。
5世紀というのは、大阪に巨大古墳がいくつも作られた時代です。おそらく、これら巨大古墳王権と関わりがあったのでしょう。
楽器とか文字とか、興味深い遺品は興味深いです。
草々