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東国の古代史

Top Page › 古代東国史 › 上野国新田郡淡甘郷の比定地について
2020-10-21 (Wed)  22:46

上野国新田郡淡甘郷の比定地について

以前の記事上毛野氏とは何者か?(4/8) -諸資料から見える氏族の痕跡-」の中で、群馬県の上毛野氏関係氏族の痕跡事例を上げたことがある。そこに登場したのが矢田部根麻呂です。上毛野氏の関係氏族では珍しい東毛居住者です。記録されたのは古文書ではなく、正倉院御物の黄絁(きあしぎぬ)の墨書銘であった。以下のように記載されている。

新田郡淡甘郷の比定地について5
正倉院古裂銘文集成より引用

年号の天平勝寶四年は西暦752年に当たります。また、矢田部根麻呂新田郡淡甘郷(たんかんごう)の住人です。矢田部氏は本来、仁徳天皇の皇后八田皇女の御名代から発展したもので、名代部としての矢田部の伴造または部民の後裔氏族です。新撰姓氏録の左京神別によると「矢田部造(連)は伊香我色乎命之後也」とある。伝承上の系譜は、
伊香我色乎命(いかがしこのみこと)--大新川命(おおにいかわのみこと)--物部武諸隅(たけもろすみ)
なので矢田部氏物部系ということになる。墨書銘にはカバネが付記されていませんが、これは無姓なのか、省略されたのか不明です。東国には矢田部が多いが、カバネを持つ矢田部氏と無姓の矢田部氏がいて、どちらなのか判断できません。新田郡矢田部氏は本来の矢田部の伴造氏族から上毛野氏に鞍替えし、従属していた可能性もあるでしょう。上毛野国の物部系氏族である石上部氏上毛野氏と縁戚関係を結び、氏姓改姓を申請して承認された例もあるからです。氏族というのは血縁などとは無縁のものであり、自身に有利と見れば改姓も横行したようです。


新田郡淡甘郷は木簡の中にも記載例がある。以下は、奈良県橿原市高殿町の藤原宮朝堂院回廊跡で出土した付札木簡(荷物の発送元を示す荷札)です。画像では判読できないが、「上野国新田郡淡甘郷・阿波国阿波郡高井郷」の記載がある。地方から調(みつき)として収納された調布の徴収元を示す木簡です。
新田郡淡甘郷の比定地について3
藤原宮朝堂院回廊跡で出土した付札木簡
(奈良文化財研究所木簡データベースより引用)

この木簡は天武天皇7年(西暦678年)に記載されたもので、新田郡淡甘郷の地名が飛鳥時代後期まで遡ることを示している。藤原宮694年から710年までの宮なので、この木簡は調布に付帯して前宮から移設され、藤原宮で廃棄されたものでしょう。

この地名は平安時代に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)でも確認できます。承平年間(931~938年)に作成された行政区画辞書です。十巻本二十巻本があるが、二十巻本は古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称一覧を含んでいます。当時の地方政治史を知る上で貴重な文献資料となっている。

二十巻本 和名類聚抄[古活字版]には上野国新田郡の郷名が以下6項記載されています。
巻7・国郡部第12・上野国第92・新田郡・11丁表3行目 新田郡
巻7・国郡部第12・上野国第92・新田郡・11丁表4行目 新田……………………にふた
巻7・国郡部第12・上野国第92・新田郡・11丁表4行目 滓野[加須乃]………かすの
巻7・国郡部第12・上野国第92・新田郡・11丁表4行目 石西……………………いわせ
巻7・国郡部第12・上野国第92・新田郡・11丁表4行目 祝人[波布利]………はふり
巻7・国郡部第12・上野国第92・新田郡・11丁表5行目 淡甘……………………たんかんorたんかい
巻7・国郡部第12・上野国第92・新田郡・11丁表5行目 駅家……………………うまや
※[加須乃][波布利]は読み、または、別名を示す補足記載


以上の文献から、新田郡淡甘郷は少なくとも飛鳥時代後期から平安時代に存続していたことが分かる。では淡甘郷とは何処にあったのだろうか。新田郡は比較的広範囲で、現在の桐生市南部(みどり市)から太田市の範囲と推定されている。しかし、前述の6郷が新田郡内の何処にあったのかは明確ではない。淡甘郷の推定比定地もニ候補あります。


①みどり市笠懸町 地域説
現在のみどり市笠懸町付近に比定する説です。特に阿佐美沼近辺を指摘する推定もあるようです。笠懸町上毛野氏の奥津城と言われる大室古墳群にも近く、上毛野氏と同族化していると思われる新川臣領域の隣接地域に当たる。個人的には新川臣自体が矢田部氏の可能性もあると考えています。矢田部氏伊香我色乎命の子大新川命を祖としているからです。また金山丘陵の北側には矢田堀町という地名もあり、矢田部氏の領域としては相応しいような気もする。
新田郡淡甘郷阿佐美沼周辺に比定する説は、淡甘郷を「アサマ」or「アワミ」と読み、これは「浅い沼(アサマ)」「淺海(アサミ)」を意味し、阿佐美沼に通ずるという根拠らしい。少々苦しい説明のように感じる。「淡」は音読呉音で「ダン」、漢音で「タン」であり、訓読としても「淡い」から「浅い」に通ずるのは根本意味を変えることになり、無理筋のような気がする?

新田郡淡甘郷の比定地について2
みどり市笠懸地域図(クリック拡大)

【補足】
群馬県みどり市笠懸町鹿にある鹿田赤城神社由緒は以下のようにある。
創立の起源は遠く神代にして大穴牟遅神を奉祀し、豊城入彦命御参拝あらせられ、荒田別命御社殿を改築せられ、天平勝賽年中上毛野駿河公幣帛を賜り、世々上毛野氏の崇敬篤く淡甘郷総鎮守の社として上毛野氏及びその族鹿田浅海両家の信仰もあり、上野国神名帳所載の従三位大穴伏明神はこの社にして天徳年中源經基朝臣幣帛を献り源家累代信仰篤し、保元年中新田義重卿富国の大社赤城大明神の御祭神豊城入彦命の御分霊を合祀し社号を赤城大明神と改め、またしし山の宮と称し神田を寄進せり。元弘三年新田義貞公義挙の際、自ら戦捉を祈願し、正平七年宗良親王御参拝朝敵退散の御祈願あらせられ新田家の崇敬篤し、明治五年村社に列せられ、同四十四年八月本社境内神社九社及び附近の神社九社を合祀せり。

平安時代後期に編纂された上野国神名帳新田郡域に従三位大穴伏明神が存在するのは事実であるが、創建経緯、信仰状況など何れも根拠がない。近代に作文された由緒と思われる。上毛野駿河は万葉集の歌の作者として現れる人物であるが上毛野国に定住した証拠はない。


②太田市高尾 地域説
太田市西南部の地域に比定する説です。証拠は2つあって、尾島工業団地遺跡(小角田下遺跡)からは「高生」墨書銘のある陶器片(10世紀)が出土している。

新田郡淡甘郷の比定地について1
小角田下遺跡出土の墨書土器

また、鎌倉時代の新田氏の文献から新田郡多古宇(たこう)」地名があることが分かっている。つまり、奈良・平安時代の「淡甘(たんかんorたんかい)」は平安時代末には「高生(たこう)」に変化し、鎌倉時代には「多古宇(たこう)」と表記された。その後、現在の「高尾(たかお)」へ変化したと推定されている。これは実在証拠があるだけに説得力があります。

新田郡淡甘郷の比定地について6
太田市西南部の高尾地域(クリック拡大)

補足
鎌倉時代に記載された「源義重置文」に新田義重から妻へ土地譲渡の旨が記されており、譲渡対象地域に「多古宇」が含まれている。なお、太田市には石田川の水源である矢太神水源(やだいじんすいげん)がある。現在の読みは「やだい」であるが「矢太」は矢田部氏と関係する可能性がある。

新田郡淡甘郷の比定地について4
鎌倉時代の新田荘地域に含まれる郷名(クリック拡大)
(太田市新田荘遺跡パンフレットより引用)


新田郡淡甘郷が、みどり市から太田市西南部にまたがる面積を持つとは思えないので、2説の一方が正解であるのは確かですが、証拠を伴う②説(太田市高尾地域)のほうが有力と見られる。矢田部氏は現在の桐生市みどり市から太田市全域に居住していたと推定する事ができます。勢多郡を除くと上毛野氏本流の痕跡は東毛には無いが、従属氏族(または擬制同族)は東毛にも存在していたと判断できるだろう。
もっとも、新田郡矢田部氏が本来の矢田部の伴造氏族であれば、上毛野氏とは無関係という事もあり得る。また、矢田部根麻呂が納めた正倉院御物が黃絁(きあしぎぬ)とあるので、新田郡調(みつき)が絹織物で納められていたことが分かる。伊勢崎市桐生市も含めて、この地域に古代絹織物産業が存在していたことが確認できます。





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