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東国の古代史

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2020-10-31 (Sat)  07:30

新田義重の居城?「寺尾茶臼山城跡」(高崎市寺尾町)

9月初旬の残暑厳しい某日、自宅から寺尾茶臼山城までハイキングしてきました。片道6~7Kmくらいの距離です。茶臼山には鎌倉・戦国時代の城跡があります。

寺尾茶臼山城2
↑佐野橋

途中の佐野窪町にある佐野橋佐野の渡しです橋桁は木製。去年の台風19号の増水で流されたが、復旧していました。塗りたての防腐剤の匂いがします。
ところで新古今和歌集に、藤原定家の「駒止めて 袖打ちはらふ かげもなし さのの渡りの 雪の夕暮れ」と詠んだ歌がある。この「さのの渡り」とは地名を指すが、当地の事だというヨタ話があります。でも「さの」とは和歌山県新宮市にある「狭野」です。我が郷土の「佐野」と勘違いした佐野村民は、よほど嬉しかったのか、近所に定家神社まで作ってしまった。想像力豊かなのは微笑ましいが、まさに県人の恥部?です。
定家神社
高崎市下佐野町の定家神社


話が脱線したが、茶臼山城に戻します。
地元では、この城郭跡は鎌倉時代源義重の居城であったと言われている。南北朝時代には新田義貞の弟脇屋義助の居城でもあったという。これは以下の現地説明板に記載されています。

寺尾茶臼山城8
↑茶臼山城跡説明板(クリック拡大)

寺尾茶臼山城3
↑城郭構成図と新田氏系譜図(クリック拡大)

源義重は、父祖の代から受け継がれた八幡荘(高崎市八幡町~安中市板鼻)に権益を持っていました。京都で生まれた義重は、1154年頃に北関東に下向します。定説では、直接新田荘に入ったとされるが、新田荘に進出する以前に八幡荘に居た可能性が高い。これは、義重の長男里見義俊、三男山名義範らが八幡荘周辺を所領としていることでも分かります。新田荘の成立は、正式には義重が新田荘下司職に任ぜられる1157年となります。また彼は1155年、源義平源義賢武蔵大蔵合戦(武蔵嵐山)に参戦しているので、鎌倉街道に通ずる八幡荘は軍事拠点としても考えやすい。

寺尾茶臼山城18
↑高崎市の源氏拠点図(クリック拡大)

寺尾茶臼山城は、どちらかというと義重の三男山名義範の領域に近い場所にある。義重軍事的に緊張状態に置かれたとき、彼が此の城を使用した可能性はあると思います。
1180年、源頼朝が相模で挙兵すると、義重の息子達は頼朝のもとに参陣したが、義重自身は日和見しながら寺尾城に籠もったと吾妻鏡にある。新田荘が平家方の荘園であったことで頼朝勢力に襲われる危険や、隣接する木曽義仲との不和が要因にあったのでしょう。しかし、長期に居住した可能性は薄いと思います。敵陣と対峙している訳ではないので、挟い山城に長期間籠もることは考えにくい。父祖からの譲られた八幡荘には館もあった筈で、一定の防御性は持っていたと考えられる。また、吾妻鏡は寺尾館とも記載しているので、寺尾町に別に防御性のある館が存在した可能性もあるでしょう。寺尾町北部にはという地名があります。因みに、中世城郭研究者である山崎一氏は寺尾茶臼山城義重居城説自体を否定する。




当日踏査は茶臼山の北側からアプローチしたが、夏草が生い茂って歩くことができない。仕方なく、南側にある城山団地まで回り込んで登りました。

寺尾茶臼山城19
↑寺尾茶臼山周辺のgoogle図(クリック拡大)

寺尾茶臼山城20
↑茶臼山の3D標高図(クリック拡大)

城山団地は岩野谷丘陵(観音山丘陵)の頂上部にあり、かっては茶臼山の南にも山の尾根が続いていたが、崩して宅地化したようです。

寺尾茶臼山城4
↑城山団地設置の城郭説明図(クリック拡大)

寺尾茶臼山城5
↑南郭下から見た城山団地(南方向)

寺尾茶臼山城6
↑南郭中心部

寺尾茶臼山城7
↑南郭と本郭の間の大堀切

寺尾茶臼山城9
↑本郭登り口(戸口)

寺尾茶臼山城11
↑本郭

寺尾茶臼山城10
↑本郭南側の土塁

寺尾茶臼山城12
↑本郭から東方向の展望

寺尾茶臼山城15
↑本郭から下に見える三郭(四郭は立木で見えず)

寺尾茶臼山城13
↑本郭直下の腰曲輪

寺尾茶臼山城17
↑本郭から堀切を挟んで北方向に見える矢倉台

以上が寺尾茶臼山城跡です。中世源氏の城郭知識はないが、一般的に多い戦国時代の山城という感じもします。本当に源義重の城郭なら素晴らしいが、吾妻鏡は曲筆も多く確証があるとは言い切れない。

下山は藪こぎしながら山の北側に降りました。酷暑でけっこう体に堪えます。幹線道路に出ると、道路を挟んで永福寺が見えたので寄ってみました。

寺尾茶臼山城1
↑茶臼山西方にある永福寺の新田義重供養塔(五輪塔)

永福寺義重が開基した永福庵が始まりという伝承があるらしい。でも永福寺曹洞宗です。源氏の新田氏は時宗を信仰していたはずです。八幡荘新田荘にある寺も時宗です。永福寺に墓があるのはちょっと妙ですね。もっとも、義重が籠もった館は太田市の新田荘にあった寺井だという説もあるようです。此のあたりは郷土の歴史有名人の奪い合いで、何が真実なのかサッパリ分かりません。郷土愛で歴史を創作して欲しくはないのですが。






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