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東国の古代史

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2020-11-04 (Wed)  21:25

山上碑に記された大児臣の墓「堀越古墳」(前橋市堀越町)

堀越古墳は群馬県前橋市堀越町にある古墳です。古墳時代終末期の古墳で、埋葬者が推定可能な有名古墳です。上毛古墳総覧には大胡町第15号墳として記載されている。

↑堀越古墳の位置

堀越古墳18
墳丘変形以前の堀越古墳(1948年/下1961年)


(1)古墳形態
形状   丘陵斜面に築造された径約25m、高さ約3mの円墳。石室前に台形に広がる前庭部がある。
     墳丘本体は北側が道路によって1/3ほど削り取られている。現地説明板には幅2.5mの空堀
     が南半分だけ巡っていると記載されている。しかし1948年の画像で見ると墳丘周囲に周濠状
     の地割が確認できる。内堀だけでなく、外堀も存在した可能性ある。
埋葬施設 南に開口する両袖式の横穴式石室で、全長約7m、玄室部は長さ約3.2m、幅約1.8m、
     高さ約2m。安山岩の切石積み構造。
築造時期 7世紀後半(西暦675年くらい)。
出土品  早くから開口していたため出土品は少ない。明治2年の発掘時に小刀などが出土したが行方
     不明。1972年、大胡町教育委員会が前庭部を中心に発掘調査を行い、石組みの壁付近で土師
     器坏2個、須恵器坏蓋1個が出土。

堀越古墳2
↑墳丘と南側の前庭部

堀越古墳13
↑墳丘北側は道路で削られている

堀越古墳14
↑石室奥壁間近まで削られている

堀越古墳4
↑羨道入り口

堀越古墳12
↑羨道部

堀越古墳5
↑羨道左壁

堀越古墳6
↑羨道右壁

堀越古墳11
↑羨道中間部

堀越古墳7
↑羨道と玄室を分ける玄門

堀越古墳8
↑玄室内部

堀越古墳9
↑玄室右壁

堀越古墳10
↑玄室左壁

埋葬施設の特徴としては、切石積みという技法を使った石室であり、古墳時代終末期の特徴を持つ。石材の加工・組付けは、乱雑な部分と緻密な部分を併せ持つ。全体的にはラフな加工が目立ち、桐生の中塚古墳のほうが丁寧に造られている。特徴的なのが、玄室と羨道の高さが2段に構築されていることです。これは、本古墳が丘陵傾斜地に山寄せに築造されているためと思われる。羨道床面から比べると、玄室の床はかなり高い。間を区切る梱石も通常よりも高い。玄室の天井は比較的高く、天井石の上の土砂層はかなり薄いと思われる。

堀越古墳15
↑前庭部の説明板と標識

堀越古墳1
↑現地説明板


(2)埋葬者について
堀越古墳埋葬者の名は、高崎市山名町にある山上碑の碑文に登場している。

山上碑文
辛巳歳(かのとみのとし)集月三日(10月3日)に記す、
佐野の三家(みやけ)と定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫の黒売刀自(くろめのとじ)
此れ新川臣(にいかわのおみ)の児の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫の大児臣(おおごのおみ)に娶(めあ)いて生める児の長利僧(ちょうりほうし)が母の為に記し定める文也
放光寺の僧

【補足】
・辛巳歳集月三日とは西暦681年10月3日を指す。
は実子ですが、は現在の孫と同じ意味ではなく、子孫を表す言葉です。
 従って系譜には表記されていない人物が入っている可能性がある
・新川臣系譜は斯多々弥足尼(したたみのすくね)のみカバネがスクネ(宿禰)になっている。
 これは斯多々弥(したたみ)が名であることを示している。「臣」は職位を示すカバネ。

碑文は隣にある山上古墳とセットで意味を成すものであり、古墳の墓碑となっています。母(黒売刀自)のために墓碑を造った放光寺僧長利の系譜関係が記されている。古墳の築造は西暦650年くらいの特徴をもっており、黒売刀自の父親との合葬墓の可能性が高いと言われています。以下は碑文から読み取れる系図です。

 佐野三家の健守命-○-黒売刀自(母)ーー
                     |ーー長利(子:放光寺僧)
 新川臣ー斯多々弥足尼-○-大児臣(父)ー

ここに出てくる赤字の大児臣(おおごのおみ)が堀越古墳埋葬者と目されています。大児臣は前橋市堀越町~大胡町地域を治めていたと推定される。因みに、新川臣は桐生市新里町新川にある中塚古墳の埋葬者と見られる。新川臣系譜の出自については、「桐生中塚古墳(1/3) - 山上碑との関係 -」の中で詳述したので割愛します。
佐野三家の系譜である山上古墳は高崎市山名町にある。前橋市堀越町とは直線でも18Km以上の距離があるので、通常の地域交流で大児臣黒売刀自が婚姻したとは思えない。長利は放光寺の僧であるが、両家が仏教に帰依していた可能性は低い、なぜなら大児臣も従来の埋葬形態である古墳を築造しているからです。この形態は仏教の戒律に反します。従って信仰による交流ではないでしょう。考えられる可能性は以下の2点です。

新川臣系譜も佐野三家系譜も物部系氏族で、同一氏族系譜による交流で婚姻が成立した。
新川臣系譜と佐野三家系譜、各々が上毛野君と縁戚関係にあり、上毛野氏の介在で婚姻が成立した。

両家の男子が官人で、国府での勤務を介する交流という可能性も考えたが、上毛野国の国府成立は713年頃であり、7世紀中葉の婚姻要因にはなり得ない気がする。なお、僧長利は父親の墓には墓碑を設置していない。父親とは関係が薄かったのであろうか?

現地説明板によると、堀越古墳の築造時期は7世紀末から8世紀初頭と記載されている。妻である黒売刀自が亡くなったのは681年です。婚姻は同世代の可能性が高いので、夫である大児臣のほうが長生きしたとしても、8世紀に入ることは無いと思う。建碑した長利の推定年齢からして、黒売刀自は高齢まで生きたと思われ、大児臣は681年以前に亡くなっているのではないか?
なお、大児臣新川臣の子孫であるが、両古墳の距離は直線で8.6Kmも離れている。大児臣新川臣の嫡流後継者とするには距離が離れ過ぎている。大児臣新川臣系譜の庶流の可能性が高いでしょう。


(3)「おおご」地域名について
前橋市教育委員会の大胡地区文化財パンフレットによると、「大胡地区の名前の由来は上野三碑の山上碑に刻まれている大児臣による」と記載されている。これは誤解されやすい表現です。正確には、大児臣が生きた7世紀代に、当地域が既に「おおご」と呼ばれていたということです。そのため、首長も「おおご」を治める者という意味で大児臣と呼ばれたのでしょう。

因みに、和名類聚抄勢多郡項に「おおご郷」はありません。
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏5行目 勢多郡
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏6行目 深田
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏6行目 田邑[多無良]
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏6行目 芳賀[波加]
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏6行目 桂萱[加以加也]
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏7行目 真壁[万加倍]
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏7行目 深渠[布加無曽]
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏7行目 深沢[布加佐波]
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏7行目 時沢
巻7・国郡部第12・上野国第92・勢多郡・10丁裏8行目 藤沢[布知左波]

堀越古墳16
↑勢多郡域の堀越古墳

和名類聚抄が編纂された平安時代までに「おおご」地名が消滅した可能性があります。しかし、後世鎌倉時代の大胡郷大胡氏の存在を考えると地名消滅したのではないことが分かる。「おおご」地域は7世紀代から継続して存在していたのです。因みに大胡氏藤姓足利氏の庶流です。11~12世紀に同族の淵名氏山上氏等と共に赤城山の裾野地域に土着した武士集団です。大胡氏は「おおご」地域を拠点としたので大胡氏と呼ばれたのでしょう。この地域は、少なくとも、現在の大胡町、堀越町、河原浜町の地域を指すものと推定されるが、もっと広範囲な可能性もあります。

堀越古墳17
↑現大胡町と堀越古墳の位置(中世大胡氏の拠点を含む)


それにしても、金石文の文字資料で古墳埋葬者が推定できるというのは、すごい事だと思います。山上碑文だけで3つの古墳の埋葬者がほぼ特定されたのですから。




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群馬7世紀の古墳、興味深い * by レインボー
>碑文は隣にある山上古墳とセットで意味を成すものであり、古墳の墓碑となっています。母(黒売刀自)のために墓碑を造った放光寺僧長利の系譜関係が記されている。古墳の築造は西暦650年くらいの特徴をもっており、黒売刀自の父親との合葬墓の可能性が高いと言われています。

〇群馬7世紀の古墳
 埋葬者を確認できるというたいへん興味深い記事でした。
 7世紀後半となると、関東が大和の支配下に入る時期前と理解しておりますが、碑文を含め、関東の独自の様子がよく分かる感じがしました。
草々
 

Re: 群馬7世紀の古墳、興味深い * by 形名
レインボーさん、コメントありがとうございます。

日本の古墳は、文字文化普及の遅れや、墓誌を納めない慣習から埋葬者が特定できない
という問題がありますね。群馬県の場合は、渡来人の影響なのか、正格漢文ではない
史部流と呼ばれる日本語化された金石文が幾つか残っています。
改めて文字という文化の偉大さがよく分かります。こういった遺物がもっとあれば、
古代史ももっと解明されていたでしょうね。

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群馬7世紀の古墳、興味深い

>碑文は隣にある山上古墳とセットで意味を成すものであり、古墳の墓碑となっています。母(黒売刀自)のために墓碑を造った放光寺僧長利の系譜関係が記されている。古墳の築造は西暦650年くらいの特徴をもっており、黒売刀自の父親との合葬墓の可能性が高いと言われています。

〇群馬7世紀の古墳
 埋葬者を確認できるというたいへん興味深い記事でした。
 7世紀後半となると、関東が大和の支配下に入る時期前と理解しておりますが、碑文を含め、関東の独自の様子がよく分かる感じがしました。
草々
 
2020-11-06-07:44 * レインボー [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: 群馬7世紀の古墳、興味深い

レインボーさん、コメントありがとうございます。

日本の古墳は、文字文化普及の遅れや、墓誌を納めない慣習から埋葬者が特定できない
という問題がありますね。群馬県の場合は、渡来人の影響なのか、正格漢文ではない
史部流と呼ばれる日本語化された金石文が幾つか残っています。
改めて文字という文化の偉大さがよく分かります。こういった遺物がもっとあれば、
古代史ももっと解明されていたでしょうね。
2020-11-06-12:08 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]