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東国の古代史

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2020-11-10 (Tue)  08:20

巨大用水路「女堀」1/2 - 女堀の掘削目的 -

女堀」という呼称は中世の灌漑用水路に付けられた名称です。埼玉県、長野県などにも残っている。
一般的に、過去に運用されたが、のちに廃止された用水路を意味する場合が多いようです。女堀の「女」とは、本来は「媼(おうな)=老女」を意味しており、役に立たないという意味だという説もある。
オバサンが聞いたら怒りだしそうな由来説です。


(1)群馬県の女堀とは
群馬の女堀は赤城山の南麓にある中世初期の灌漑用水路です。前橋市上泉町付近の旧利根川(桃木川)の標高93m付近を起点とする。幅15~25m、深さ3~5m規模で、赤城山南麓から大間々扇状地面を通り、標高90mの旧佐波郡東村西国定の独鈷田(とこた)に至る。総延長12.7kmにおよぶ大規模なものです。
掘削工事は、西暦1130年頃から1160年頃にかけて行われたと見られる。工事に関わった氏族は推定されているが、具体的な工事の主体者・体制などは明確になっていない。これほど大規模な用水にも関わらず、当時の文献に工事のことは記録されていない。


女堀5
↑赤城山南麓の標高95mラインを走る女堀
(地質ニュース「女堀の謎」より引用) 

現在の利根川は前橋市の南部を流れるが、旧利根川は前橋市の北側の桃木川広瀬川付近を流れていた。川筋の変化は13世紀初期から14世紀中期の間と推定されている。従って女堀は当時の旧利根川本流から取水する設計であった可能性がある。


女堀3
↑古地図に残る女堀の経路(ホームページ「Go!伊勢崎」より引用)
クリック拡大

女堀9
↑1947年(昭和22年)の前橋市二之宮地区の女堀跡(クリック拡大)

女堀10
↑1948年の伊勢崎市国定町独鈷田の女堀終点
(クリック拡大)

現在の女堀跡は一部が保存されているに過ぎないが、昭和中期までは全線に渡って痕跡が明確に確認できる。


(2)女堀の掘削目的
これまで女堀は、1108年の浅間山噴火後に荒廃した赤城山南麓に割拠した秀郷流藤原氏藤姓足利氏)によって掘削されたと考えられてきた。当時の藤姓足利氏上野国の在庁官人です。藤姓足利氏朝廷と上野国司の政治的後援のもとで、淵名荘の再開発を目指していました。現在の伊勢崎市にあたる佐位郡を荘園化した淵名荘は1130年に成立します。この荘園は、鳥羽上皇の正妻待賢門院璋子が1130年に建立した仁和寺法金剛院の御願寺領として成立しています。在地領主は藤姓足利氏淵名氏が務めています。
女堀淵名荘が立荘された頃に掘削工事が始まっている。従って、淵名荘の開墾のために女堀が計画されたと考えるのが妥当です。大間々扇状地は赤城山を下る小河川が数多くあって湧水地も多いが、水量が少なく、荘園開発には圧倒的に水不足であったと推定される。

【補足】
10世紀以降、律令制が崩壊しはじめると、地方豪族や中央の貴族特権階級は経済的な基盤を求めて荘園開発に専念していきます。特に上野国は荘園や御厨(みくりや)が次々と立荘されている。荘園は天皇親族、貴族、武士によって開発された私的な領地です。一方、御厨(みくりや)は寺社の領地です。荘園には2種類あって、一つは墾田(班田)によって成立した初期荘園である墾田地荘園がある。これは所有者が個人的に所有する領地です。もう一つは11世紀以降に寄進行為によって成立した荘園で寄進型荘園とも呼ばれる。寄進型荘園は寄進者と被寄進者の領主が利益を分け合う仕組みです。寺社に寄進された場合の多くは租税が免除されるので、寄進者も領主も旨味があります。11世紀以降はこの寄進型が多くなる。


女堀0
↑淵名荘を女堀の終末点とする従来の考え方(クリック拡大)
(伊勢崎市ホームページ引用画像を編集)


女堀は淵名荘の開墾のために計画されたと記載したが、近年、これまで女堀の終末点とされていた独鈷田の東側に、早川に至る佐位の大堀が確認されている。女堀の終末点が早川本流、または、早川を超えて新田荘まで延長される可能性が出てきたわけです。西の淵名荘と東の新田荘を分けているのは早川ですが、この西側に並行して佐位の大堀はあるようです。この発掘成果を踏まえると、早川流域も女堀の灌漑対象となりうる。新田荘は、義国流清和源が開発した荘園と言われているが、淵名荘と同様に藤姓足利氏も開発に関わっていると推定される。従って女堀の終末点が新田荘であることは矛盾しない。

女堀13
↑検出された女堀の延長「佐位の大堀」の推定痕跡(1948年画像)
(クリック拡大)

女堀1
↑淵名荘と新田荘を女堀の目的地とする考え方(クリック拡大)
(伊勢崎市ホームページ引用画像を編集)

これを受けて、近年女堀の掘削目的は新田・佐位両郡の境界地帯の開発を目的としたものと見られている。言い換えると、佐位郡の開発をねらう上野国の藤姓足利氏と、新田郡の開発をねらう中央貴族義国流源の共同プロジェクトと考えられる。当時の藤姓足利氏は朝廷での地位を失っていたので、荘園開発を推進するための政界とのパイプを持っていなかった。それを補完したのが中央貴族義国流源です。互いにメリットのある共同体制であったと推測される。


次稿に続く

【参考・引用】
■中世の巨大用水路「女堀」        伊勢崎市ホームページ
■史跡「女堀」              前橋市教育委員会ホームページ
■女堀の謎 鈴木尉元、堀口万吉、小荒井衛 地質ニュース415号
■赤城山南麓の開発と遺構《女堀》     峰岸純夫、能登 健
■ホームページ「Go!伊勢崎」        伊勢崎市紹介サイト
■歴史文化ライブラリ「新田一族の中世」  田中大喜 吉川弘文館
■中世前期 上野新田氏論           田中大喜
■国土地理院 航空写真アーカイブ画像


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