前稿からの続きです。
(3)女堀の未完成要因
女堀は、発掘調査の結果、未完成であることが分かってきました。堀の底面は工事の途中で止まり、水が流れた痕跡はありません。なぜ未完成なのか、原因は記録に残されていません。しかし、幾つかの要因推定説があります。
①設計ミス・技術不足説
ボーリング調査によると起点の標高は93.8m、終点は90.6mです。その勾配は1/3700という僅かな勾配です。設計者が意識していたかどうかは別にして、結果的に此のような僅かな高低差で通水するような仕組みであった。当時の技術レベルでいうと、この設計は非常に無理があります。精密な測量方法や道具があった訳ではない。下図は女堀の勾配図です。
↑女堀の現地表と底面の勾配図(クリック拡大)
(地質ニュース「女堀の謎」より引用)
勾配図を見ると、中間の二之宮地区から飯土井地区にかけては、現地表面が他の地域と比べて高い。にもかかわらず、この地点の女堀底面は必要な深度まで掘削できていません。元々、上流域に比べて下流域は7~10m程度の掘削深度を必要としていました。これは人力による土木工事の作業量としては厳しいレベルであったと思われます。未完成の要因の一つとして、下流域の流路に標高の高い場所を選んでしまった事が上げられる。また、測量基準点がないという工事手順の不備が原因である可能性がある。上の図面では分かりにくいが、女堀は幾つもの小河川を横断している。これらの河川との交差工事にも課題があったと思われます。
中間地点の掘削不足の区間は、当時としては掘削できていたが、その後、800年間の地殻変動で隆起したという推定もあるようです。しかし、わずか800年という期間で、限定された地域のみの隆起説は個人的には考えにくいと思う。それに掘削できていたのに通水しないというのも解せない。
②工事主体者間の不和説
淵名荘、新田荘の開発当初は、藤姓足利氏と義国流源氏との関係は良好であった。藤姓足利氏は実際工事を担当し、義国流は政治的な支援を担当するという分業体制ができていた。しかし、新田義重が1157年に金剛心院領新田荘の下司職に任じられる。義重は上野国に下向して在地への関与を強めます。やがて、藤姓足利氏と義国流源氏は徐々に競合するようになる。実際、義重の下司職補任により藤姓足利氏は新田荘から排除されていく。のちに新田荘の東に隣接する藤姓足利氏の薗田御厨荘官と新田義重は境界争いを起こしている。このように両氏族の共同プロジェクトであった女堀事業は、工事当事者間の不和により中止されたという説です。
ただ、女堀の終末点は新田荘まで含んでいても、途中の淵名荘までは藤姓足利氏の領域であり、掘削の技術的問題が解決すれば、工事は進行できたはずです。なぜ、工事全体がストップするのか疑問がある。共同プロジェクトの破綻よりも、藤姓足利氏自身の要因が疑われます。
両者の敵対関係は激しさを増して、1166年頃には、義国流源氏による圧迫は下野足利荘にも及びます。領主の足利俊綱は足利荘の領有権を失っている。やがて、藤姓足利氏の本拠地足利荘も義国流源氏に賜与されてしまいます。また一門は内紛による分裂で、嫡流は衰退・滅亡してゆく。庶流である大胡氏、佐野氏などは鎌倉幕府に帰順して生き延びていくが、淵名荘の淵名氏は没落していく。この過程で、女堀の工事も放棄されたと解釈したほうが整合性がある気がします。
③荘園整理令要因説
女堀が掘られた時代は平安時代後期の院政期以降にあたる。律令制が崩壊して、争って新田を開墾し、税金を逃れるために各地に荘園を広げた時代です。荘園の増大は有力貴族や彼らに保護された寺社などに莫大な収入をもたらした。一方、公領の減少で税の徴収が進まず、国家財政に打撃を与えていた。そのため、朝廷は荘園の新規設置を取り締まり、違法性のある荘園を停止させることで、公領を回復させ財政再建を目指しています。これを荘園整理令という。淵名荘も違法性が疑われて荘園停止となり、女堀の掘削も放棄されたという説です。
この時代の荘園整理令は以下のように発布されている。
延久の荘園整理令 1069年(延久元)後三条天皇
承保の荘園整理令 1075年(承保2) 白河天皇
寛治の荘園整理令 1093年(寛治7) 白河天皇
康和の荘園整理令 1099年(承徳3) 堀河天皇
天永の荘園整理令 1111年(天永2) 鳥羽天皇
保元の荘園整理令 1156年(保元元)後白河天皇
実際に上野国では、1119年に5000町歩の荘園が停止されているが、1130年以降では停止の記録はない。淵名荘は1130年以降に成立します。この荘園は、鳥羽上皇の正妻が1130年に建立した仁和寺法金剛院の寺領として成立した寄進型荘園です。領主は仁和寺であるが、淵名氏が在地管理者となっている。これだけでは淵名荘が違法性のある荘園であったとは言えない。
しかし、当時の荘園の立荘というのは、核となる私有領域、または、寄進型荘園を正規の手続きで開設し、実態は其の周囲の公領を私有地化して広げていくという手法が取られていた。従って、立荘は多かれ少なかれ違法性のある行為だったのです。淵名荘も中核は仁和寺の寺領であっても、それはほんの一部です。周囲に公領を取り込んで淵名氏の私領を広域化していった可能性が大きい。
↑新田荘内の新田義重所有領域(空閑19郷)
(伊勢崎市ホームページ引用画像を編集)
この手法は義国流源氏の新田荘でも同様です。新田義重の本来の領地は新田荘の西南部の空閑19郷地域でした。しかし彼が下司職として管理した土地は新田郡新田荘全域におよぶ。従って、淵名氏の淵名荘も荘園の広域化を朝廷に咎められて違法部分の荘園停止措置を受けた可能性はあると思います。特に淵名氏は藤姓足利氏であり、政治的に朝廷とのパイプがない。義国流源氏とは競合関係になったため、フォローしてくれる政治勢力がなかった。従って、朝廷に目を付けられていった可能性がある。それは藤姓足利氏の政治力低下・没落の流れとも言えると思います。
以上3点の要因説を上げた。
①設計ミス・技術不足説は工事に投入できる体制と期間があれば解決できなくはないと思います。しかし、淵名氏が没落したあと、新田荘を独占した義重とその子孫も工事を継続した形跡はない。他の事情も考えられるので単純には言えないが、女堀の工事続行は、この時代には困難な技術的問題であったのが1次要因と思います。
他方の②工事主体者間の不和説と③荘園整理令要因説は明確な根拠がある訳ではありません。当時の政治状況から推測されるものです。両者には共通する事項があり、それは藤姓足利氏(淵名氏)の衰退です。女堀工事の推定終盤期には淵名氏の政治的な衰退が始まっている。これが2次的な要因となって工事は中止された可能性がある。掘削工事期間(1130~1160年頃)から判断して、工事に難航している間に氏族の勢力衰退が進み、続行することが不可能となったと推定します。
了
【参考・引用】
■中世の巨大用水路「女堀」 伊勢崎市ホームページ
■史跡「女堀」 前橋市教育委員会ホームページ
■女堀の謎 鈴木尉元、堀口万吉、小荒井衛 地質ニュース415号
■赤城山南麓の開発と遺構《女堀》 峰岸純夫、能登 健
■歴史文化ライブラリ「新田一族の中世」 田中大喜 吉川弘文館
■中世前期 上野新田氏論 田中大喜

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