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東国の古代史

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2020-11-15 (Sun)  11:40

玉虫装飾の馬具《福岡県古賀市船原古墳》 - 糟屋屯倉の管掌者墓か?-

考古学ニュースとして、福岡県古賀市船原古墳で出土した玉虫装飾の馬具の話題が拡散しています。

*********引用開始********************************************
虹色の羽「一級品の証し」船原古墳馬具に玉虫装飾
2020/11/14 6:00
西日本新聞 社会面 小川 祥平 今井 知可子

船原古墳4
↑出土した杏葉(朝日新聞デジタルより引用画像)

船原古墳5
↑玉虫の羽の文様(産経新聞デジタルより引用画像)

船原古墳2
(西日本新聞より引用画像)

福岡県古賀市の船原古墳(6世紀末~7世紀初頭築造)出土の「杏葉(ぎょうよう)」に使われた玉虫装飾は、新羅を代表する技術で一級品の証しとされる。これまで九州では沖ノ島の金銅製帯金具が唯一の現存品。ただ祭祀用に持ち込まれ、野ざらしのままだった帯金具に比べ、今回の杏葉は被葬者やその土地の重要性と結びつく古墳からの出土。盗掘の跡がなく埋納時の状態が再現できるという点でも貴重な資料といえる。
法隆寺の「玉虫厨子」など現存する古代の玉虫装飾は、多くが国宝に指定されている。今回の調査に関わった福岡大の桃崎祐輔教授(考古学)は「玉虫装飾は当時最先端の技術」としつつ「馬具がセットで一括出土しており、装飾馬具の全体像を把握するためにも貴重だ」とする。
沖ノ島の帯金具は、新羅製の馬具の可能性もある。ただ一部が欠損するなど不明な部分が多く、制作地などの特定は難しい。船原古墳1号土坑からは少なくとも6組の馬具が出土。今後、玉虫杏葉がどのセットに属するのかを調べるほか、羽の分析などで舶来か国産か、いつ制作されたかを突き詰めていく。

船原古墳0
↑墳丘付近の1号土坑(西日本新聞より引用画像を編集)
1号土坑からの出土品・クリック拡大(古賀市ホームページより引用)
土坑図


福岡県粕屋郡にはヤマト王権の支配拠点「糟屋屯倉」があり、外交窓口の役割も担った。当時は新羅との緊張関係が続いた時期。朝鮮半島では王陵級でしか出土しない玉虫装飾と確認されたことで桃崎教授は「船原の主は外交のキーパーソンであり、新羅からも一目置かれていた存在」とみる。
 美術工芸の分野においての意義も大きい。新羅発祥の玉虫を使った馬具装飾技術は、次第に玉虫厨子(7世紀中ごろ)といった仏教美術、工芸にシフトした。今回の玉虫杏葉はその転換期のもので「空白を埋める資料」(桃崎教授)。謎の多い玉虫厨子の来歴を考える上でも価値が高い。
 古賀市教育委員会は2026年度に最終報告書をまとめる方針で、調査は「折り返し地点」という。今回の玉虫杏葉の確認は被葬者像をより鮮明にした。今後、さらなるピースが埋まることで、当時の社会、文化の状況が明らかになることを期待したい。 (西日本新聞:小川祥平)

科学補った人の目
船原古墳(福岡県古賀市)出土の馬具に新たに見つかった玉虫装飾。盗掘を免れ土中に密閉されたことで玉虫の羽がほぼ完全な形で残っていた。最新技術を駆使して形が浮かび上がった遺物から、第一級の考古史料を見つけたのは人間の目だった。
同古墳では、通常、副葬品が納められる石室ではなく古墳そばに掘られた土坑に約500点もの馬具や武器などが埋められていた。古墳は盗掘され副葬品の多くが失われたが、埋納坑は盗掘の痕跡がない。桃崎祐輔福岡大教授は「この時期の古墳で脇に埋納坑があることが想定しづらく、盗掘を免れたのでは」とみる。
発掘方法も異例だった。手付かずで土中に密閉されていたことから、金属のほか朽ちやすい布や漆なども残っていると推測。土壌ごと掘り出し九州歴史資料館や九州国立博物館のエックス線CTスキャナーで撮影、遺物の構造を解析した。
実際に土を落とした杏葉が古賀市に戻ってきたのは2018年7月。形やサイズを方眼紙に書き写す作業をしていた市教育委員会職員が、飾り板の下に「何かある」と気付いた。金属のさびとは違う、虫の羽の薄い筋目が見えた。再度のCT解析で、20枚もの羽がびっしりと並べられているのが映し出された。
「まるで湧いて出るような遺跡」。調査担当者たちはそう表現する。土坑から国宝級遺物が次々に見つかり、CT解析で形状や材質が明らかになり、肉眼で新たな発見がある。「発掘は現在進行中。次に何が出てくるのか分からない」。担当者たちは声を弾ませる。 (西日本新聞:今井知可子、小川祥平)

*********引用終了******************************************




船原古墳は福岡県古賀市の海岸沿いから近い丘陵境界にある。海岸寄りには、鹿部田渕遺跡(ししぶたぶち・いせき)があります。日本書紀の記録によれば、西暦528年、筑紫磐井君はヤマト王権との争乱で破れます。磐井君は誅殺されたと思われるが、その息子葛子が助命と引き換えにヤマト王権に提供したのが糟屋屯倉(かすやのみやけ)だという。鹿部田渕遺跡糟屋屯倉の候補地です。遺跡からは6世紀中頃から7世紀初頭にかけての大型建物群が見つかっている。奈良時代の地方の役所、官衙(かんが)の特徴をもっていることから、糟屋屯倉から発展した建築群ではないかと言われている。
筑紫磐井戦争の実態がどんなものであったのかは不明です。所詮は勝者の記録ですので、日本書紀の記述どうりであったとは思えません。しかし、糟屋屯倉の設置経緯はともかくとして、存在したのは確かだと思います。



↑船原古墳の位置

実は糟屋屯倉は位置が特定されていません。一般的には、古賀市よりも南部にある糟屋郡粕屋町が候補地とされている。粕屋町には飛鳥時代から奈良時代の筑前国糟屋評の役所跡と目される阿恵官衙遺跡(あえかんが・いせき)がある。この遺跡も糟屋屯倉の候補地です。糟屋郡粕屋町は福岡空港の北東方向にあり、空港と多々良川に挟まれた地域です。面積も広く福岡県の町村としては最も人口の多い地域です。


船原古墳3
↑九州北部の屯倉と船原古墳の位置(クリック拡大)


糟屋屯倉の管掌はヤマト王権から派遣された人物が担当したと推定します。古賀市や糟屋郡には大型古墳も多くて、管掌に関わった人物の墓と目される場所は幾つかある。しかし、船原古墳は小規模ながら出土遺物の多さと豪華さは異質と言えるほどです。しかも、遺物は古墳横の土坑に埋納されたものであり、土坑自体がまれな構造物です。今回、確認された玉虫装飾の杏葉も実用的なものではなく宝物でしょう。船原古墳の埋葬者は、単に地域を治める首長ではなく、対外交易を司る官位を持っていた人物と思われます。屯倉は王権の直轄地ですが、管理するのは在地の租税品ばかりではありません。この地域の場合は、外交窓口としての役割を持っていたと推測されている。屯倉の管掌者と推定する理由は、出土品だけでなく、全長47mという古墳のサイズにあります。在地性の地域首長墓であれば、本古墳の倍の規模を有していると思います。




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* by 暇人
なぜ重要な物が出土すると、「ヤマトがー」に結びつくのでしょうが?新羅の王墓と同じ物が出土したらその九州の墓は王墓ではないと言えるのでしょうか。しかも畿内の王墓はもっと格上の出土遺物があると言いたいのでしょうか?筑紫君葛子は糟屋屯倉を献上したと言いますが、屯倉が本来朝廷の所有であるならば、何故に葛子がそんなものを所有していたのでしょうか?

Re: タイトルなし * by 形名
暇人さん

>なぜ重要な物が出土すると、「ヤマトがー」に結びつくのでしょうが?
●質問の意味がよくわからないのですが、記事は本古墳の埋葬者が対外外交を司った現地支配者、または、同様の機能持つ屯倉の管掌者という推定で書いています。古墳の築造時代的に、仮に九州王朝のようなものがあったと仮定しても、それが存続していた時代とは考えられない。北九州、大分に日本の平均屯倉密度の数倍の屯倉が存在することを見ても判断できます。屯倉が王権の直轄地であるのは確かであり、王権の所在地はヤマトにほかならない。仮に九州の王権ならば直轄地を設けるまでもなく全てが支配地であったはずです。
また、古墳時代前記まで遡っても、北九州~大分~宮崎沿岸の古墳は畿内の大型古墳の影響を強く受けています。出土品も例外ではない。畿内の葬送文化を受け入れている。九州独自の古墳文化ができるのは古墳時代中期以降です。熊本県と畿内の阿蘇ピンク石の石棺交流も畿内とのつながりの強さを示している。福岡県うきは市に、月ノ岡古墳、塚堂古墳、日ノ岡古墳と呼ばれる前方後円墳があります。この古墳は3代の継続性が認められる。特に初代の月ノ岡古墳は、九州にはない大型の竪穴式石室、畿内型長持石棺、武具、馬具、3重周濠など、九州の古墳とは思えない特徴を持っている。埋葬者は畿内出身の豪族、的臣の可能性が大きい。このように九州とヤマトが繋がりが深い。継体大王の時代に磐井王と敵対した時代が異例なのです。九州王朝の存在を信じたい気持ちは理解できますが、古田学会の一部が主張するような王朝の存在は可能性が限りなく薄い。九州は全体的には親ヤマトであった可能性が高い。九州でヤマトに反抗的な王権と位置づけられるのは、鹿児島県、宮崎南部の熊襲勢力だけです。

>新羅の王墓と同じ物が出土したらその九州の墓は王墓ではないと言えるのでしょうか。しかも畿内の王墓はもっと格上の出土遺物があると言いたいのでしょうか?
●船原古墳は全長40m台の小古墳です。いくら貴重な宝物が出土したとしても九州の王墓にしては規模が小さすぎます。また九州独自の葬送文化も見受けられない。そもそも土坑自体が日本文化では非常に珍しいものです。出土遺物の格上格下という分類は適当ではないが、出土した遺物は新羅で造られた杏葉の可能性が高い。または新羅の工人が来日して制作したものでしょう。

>筑紫君葛子は糟屋屯倉を献上したと言いますが、屯倉が本来朝廷の所有であるならば、何故に葛子がそんなものを所有していたのでしょうか?
●屯倉は朝廷直轄地になってからの呼称です。葛子、または、磐井君が権益を持っていた領地の一部を提供したということです。磐井王は本来は筑後が本拠地ですが、最盛期は北九州まで支配していたと推定してます。糟屋屯倉が福岡県にあったのは不思議では無いと考えています。

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なぜ重要な物が出土すると、「ヤマトがー」に結びつくのでしょうが?新羅の王墓と同じ物が出土したらその九州の墓は王墓ではないと言えるのでしょうか。しかも畿内の王墓はもっと格上の出土遺物があると言いたいのでしょうか?筑紫君葛子は糟屋屯倉を献上したと言いますが、屯倉が本来朝廷の所有であるならば、何故に葛子がそんなものを所有していたのでしょうか?
2020-11-19-12:03 * 暇人 [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: タイトルなし

暇人さん

>なぜ重要な物が出土すると、「ヤマトがー」に結びつくのでしょうが?
●質問の意味がよくわからないのですが、記事は本古墳の埋葬者が対外外交を司った現地支配者、または、同様の機能持つ屯倉の管掌者という推定で書いています。古墳の築造時代的に、仮に九州王朝のようなものがあったと仮定しても、それが存続していた時代とは考えられない。北九州、大分に日本の平均屯倉密度の数倍の屯倉が存在することを見ても判断できます。屯倉が王権の直轄地であるのは確かであり、王権の所在地はヤマトにほかならない。仮に九州の王権ならば直轄地を設けるまでもなく全てが支配地であったはずです。
また、古墳時代前記まで遡っても、北九州~大分~宮崎沿岸の古墳は畿内の大型古墳の影響を強く受けています。出土品も例外ではない。畿内の葬送文化を受け入れている。九州独自の古墳文化ができるのは古墳時代中期以降です。熊本県と畿内の阿蘇ピンク石の石棺交流も畿内とのつながりの強さを示している。福岡県うきは市に、月ノ岡古墳、塚堂古墳、日ノ岡古墳と呼ばれる前方後円墳があります。この古墳は3代の継続性が認められる。特に初代の月ノ岡古墳は、九州にはない大型の竪穴式石室、畿内型長持石棺、武具、馬具、3重周濠など、九州の古墳とは思えない特徴を持っている。埋葬者は畿内出身の豪族、的臣の可能性が大きい。このように九州とヤマトが繋がりが深い。継体大王の時代に磐井王と敵対した時代が異例なのです。九州王朝の存在を信じたい気持ちは理解できますが、古田学会の一部が主張するような王朝の存在は可能性が限りなく薄い。九州は全体的には親ヤマトであった可能性が高い。九州でヤマトに反抗的な王権と位置づけられるのは、鹿児島県、宮崎南部の熊襲勢力だけです。

>新羅の王墓と同じ物が出土したらその九州の墓は王墓ではないと言えるのでしょうか。しかも畿内の王墓はもっと格上の出土遺物があると言いたいのでしょうか?
●船原古墳は全長40m台の小古墳です。いくら貴重な宝物が出土したとしても九州の王墓にしては規模が小さすぎます。また九州独自の葬送文化も見受けられない。そもそも土坑自体が日本文化では非常に珍しいものです。出土遺物の格上格下という分類は適当ではないが、出土した遺物は新羅で造られた杏葉の可能性が高い。または新羅の工人が来日して制作したものでしょう。

>筑紫君葛子は糟屋屯倉を献上したと言いますが、屯倉が本来朝廷の所有であるならば、何故に葛子がそんなものを所有していたのでしょうか?
●屯倉は朝廷直轄地になってからの呼称です。葛子、または、磐井君が権益を持っていた領地の一部を提供したということです。磐井王は本来は筑後が本拠地ですが、最盛期は北九州まで支配していたと推定してます。糟屋屯倉が福岡県にあったのは不思議では無いと考えています。
2020-11-19-15:34 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]