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東国の古代史

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2021-02-04 (Thu)  09:00

鷺山古墳を築造した氏族の移住経路《埼玉県本庄市児玉町》

埼玉県北部の古墳時代前期古墳では最古の築造と言われている鷺山(さぎやま)古墳を訪ねてみました。場所は関越道本庄児玉インターチェンジの南方500mにあります。付近には多くの前方後方型周溝墓や、後に定型化した前方後方墳が小規模ながらある。南部の比企地方と併せて関東の初期古墳を観察できる興味深い地域です。因みに本古墳の公式な築造時代は3世紀末〜4世紀初頭と推定されている。取材日は2021年2月3日。

↑鷺山古墳の位置

ただ、此等の古式古墳の詳細調査は限定的であり、詳しい情報は少ないという印象です。鷺山古墳も墳丘の形状・範囲調査は実施されているが、埋葬主体部は発掘調査されておらず、不明となっている。にもかかわらず、築造時代が推定されるのは墳丘の形状や出土した土器の分析によるものです。この時代の北関東には東海地方に起源を持つ土器類が観察されるのが常ですが、この古墳も例外ではない。おそらく土器文化の自然伝播ではなく、東海地方西部からの移住者によるものと推定されています。この点では群馬県利根川水系の前期古墳と同様です。


(1)墳丘外観

鷺山古墳21
↑鷺山古墳の現在のGoogle衛星画像(クリック拡大)

↑標高84mの丘陵頂上部にある前方後方墳ですが、墳形整備されていないため、墳丘方位は後述の現地撮影画像でも全く分かりません。夏場は下草が繁茂して近付けないため、2021年2月3日に現地踏査した。しかし、笹ヤブに覆われているため、冬季でも明確な墳形を観察することは出来ませんでした。以降、現地撮影画像を添付します。

鷺山古墳1
↑北西方向からの撮影(クリック拡大)

鷺山古墳2
↑南側古墳標識位置からの撮影(クリック拡大)

↑標識後方の左手前に見える比高1mほどの段差は、前方部墳丘の側面と思われる。前方部の破壊が著しいのは、写真にも写り込んでる農耕機械による耕うんの影響が多いと思います。近年に後方部の破壊は大きく進んだのでしょう。

鷺山古墳10
↑墳丘南側からの撮影(クリック拡大)

鷺山古墳11
↑墳丘西側からの撮影(クリック拡大)

鷺山古墳12
↑墳丘北側からの撮影(クリック拡大)

墳丘北側には耕作平面があるが、この位置は周堀に相当する地形と思われます。墳丘北側は全体的に笹ヤブに覆われているので形状は全く判別できません。

鷺山古墳3
↑古墳標識側面の説明文(クリック拡大)

鷺山古墳5
↑後方部の全景(南より撮影)
(クリック拡大)

鷺山古墳8
↑後方部墳丘南面(クリック拡大)

鷺山古墳9
↑後方部と前方部の中間くびれ部分に相当する位置(南面より撮影)
(クリック拡大)

鷺山古墳4
↑墳丘中心のくびれ部(クリック拡大)

鷺山古墳7
↑後方部墳丘頂上(クリック拡大)

鷺山古墳6
↑後方部墳丘頂上の三角点84.4m(クリック拡大)

↑後方部の東側からの撮影を忘れたが、基壇面まで続く急な斜面となっている。基壇面と頂上の比高は、目視感触でも5mくらいと判断できます。


(2)墳丘の形状と方位
鷺山古墳は周囲の水田面から最大比高差7mの「く」の字形の丘陵頂点に築かれている。後方部の墳丘の頂点に標高84.4mの三角点がある。全長は約60m、後方部の墳丘の高さは5.4m、後方部の一辺が37m、くびれ部の幅11mで前方部につながる。後方部は完全な方形ではなく、四隅の部分が切り落とされた不正八角形に近いらしい。前方部は初期古墳独特の墳丘が低い形状。前方部前面の最大幅は約30m。前方部の盛土は後方部に近い部分が高くなり、標高80.3mであった。前方部全面の扇形に広がる部分は一段低くなっている。周堀は、ほぼ全周すると考えられていて、幅は4.3m、深さ1m程あるとのこと。

鷺山古墳13
↑南東方向に「くの字」形にひらく丘陵頂上部の墳丘(国土地理院3D画像)
(クリック拡大)

鷺山古墳14
↑丘陵頂上部の拡大画像(クリック拡大)

鷺山古墳15
↑拡大画像と墳丘測量図の重ね合わせ(クリック拡大)

↑墳丘の測量図は1985年に実施された墳丘調査資料から転記した図面です。墳丘方位は、南北線から25度西に傾いた方位で築造されている。前方部は未発達な柄鏡式古墳の形状に近く、典型的な古式前方後方墳となっている。現状の前方部は耕作によって、ほぼ破壊されており、明確には判別できません。因みに、破壊が進む前の過去画像を調べて見たが、墳丘が明確に確認できる画像はありませんでした。1960年の航空写真では、前方部の盛り上がりが東南部で僅かに確認できるレベルです。しかし、過去画像から周堀跡が地割に確認できます。以下に画像2点を添付します。

鷺山古墳18
↑1947年の国土地理院航空写真(周堀跡の地割が確認できる)
(クリック拡大)

鷺山古墳19
↑1960年の国土地理院航空写真(東南側の前方部が一部確認できる)
(クリック拡大)


(3)出土遺物
前方部と後方部を繋ぐ、くびれ部の西側の周堀から焼成前に底部穿孔した二重口縁壺が出土している。口縁部直径25cm、口縁部下端18cm、胴部の最大径が28.5cm、器高34cmで焼成後に彩色されている。口縁部の縁帯の幅は8cmで直径1.8cmほどの円形の透かし孔があけられていた。 また、完形品の碗型土器二重口縁壺の口縁部破片や、東海地方独特のS字状口縁台付甕の胴部と脚部をつなぐ破片が出土している。此等は、いずれも初期古墳の特色を示す遺物です。二重口縁壺型土器碗型土器は葬送儀礼の際に用いられ、墳丘に置かれたものが周堀に転落したものと考えられるそうです。

鷺山古墳16
↑墳丘表面から出土した二重口縁壺
(本庄早稲田の杜ミュージアム公開画像より引用)

墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形状や副葬品の内容は明らかになっていない。なお、墳丘表面から埴輪や葺石は発見されておらず、配置されていなかった模様。これは、築造が埴輪文化が広がる以前の時代であることを端的に示していると思われる。


(4)氏族の移住経路
前述したように、この古墳を築造した氏族は東海地方西部から移住した氏族であると推定します。埼玉県には北部の本庄児玉地域と南部の比企地方に古式古墳が分布します。前者は元荒川を遡上して当地に定住したと考えていた。しかし、現地の河川分布を調べてみて、この判断は誤っていました。本庄児玉地域に分布する多くの古式古墳は小山川とその支流である志戸川沿いに展開している。小山川は群馬県と埼玉県の県境を流れる利根川本流の支流です。

鷺山古墳25
鷺山古墳26
↑北部の本庄児玉地域と南部の比企地方に分布する前期古墳群
(平成26年ほるたま考古学セミナーテキストより引用画像を文字編集)

推定として言えるのは、埼玉県北部と南部の比企地方の移住氏族は、起源は同じ東海地方西部でも、移住した経路、時期が異なる可能性がある。本庄児玉地方に展開した氏族は、群馬県の利根川水系に定着した氏族と近縁であり、移住時期が一致していた可能性もあるでしょう。

鷺山古墳22小山川河口2
↑利根川本流に合流する小山川

鷺山古墳23小山川最下流の小山川橋より下流方向
↑小山川最下流の小山川橋から見た河口方向


鷺山古墳24
↑埼玉県の前期古墳の築造推移
(平成26年ほるたま考古学セミナーテキストより引用画像を編集)

↑築造推移図は各古墳から出土した土器形式からの編年で組み立てられている。実年代との対応は埼玉の研究者の推定値です。明確な根拠はないが、個人的には鷺山古墳が3世紀代に入る可能性もあると思っています。群馬県の元島名将軍塚古墳も3世紀代の可能性があります。この表では、比企地方の古墳は本庄児玉地域よりも、やや先行しているようにも見えます。何れにしても、利根川水系を遡上したグループも元荒川を遡上したグループも非常に古い時期に移住していることが分かります。
一つ疑問に思うことは、前方後方墳の規模の違いです。群馬県には、全長130mの前橋八幡山古墳を筆頭に100m級の前方後方墳が幾つも存在する。しかし、埼玉県の場合は、最大が鷺山古墳の60mであり、規模が圧倒的に小さい。後の古式前方後円墳では、野本将軍塚古墳雷電山古墳など大型古墳も散見されるが、それでも数は少ない。考えられる要因として、土地の生産力の大きさが影響してることは想像がつく。生産力の差が権力の大きさに比例していると考えるのが自然です。ただ、生産力の違いの具体的な要因が、他稿でも触れたことがある農耕水利の差であるのか、または、その他にも要因があるのか明確な答えは不明です。




【参考・引用】
■埼玉県埋蔵文化財調査事業団設立記念事業「平成26年ほるたま考古学セミナー」テキスト   
 研究報告1「古墳」 青木弘 
■論文「古墳出現期の北武蔵 - 前方後方墳の成立 -」 増田逸郎
ホームページ「本庄早稲田の杜ミュージアム」
■ウィキペディア「鷺山古墳」
■国土地理院 3D標高図、航空写真アーカイブ画像
Google Earth 画像



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