FC2ブログ

東国の古代史

Top Page › 古代東国遺跡 › 塩古墳群《埼玉県熊谷市江南町》
2021-02-06 (Sat)  16:30

塩古墳群《埼玉県熊谷市江南町》

古墳時代前期の前方後方墳を求めて熊谷市塩古墳群(しおこふんぐん)を訪ねてみました。変わった名称ですが、「」は熊谷市江南町塩という字名から取られている。取材日は2021年2月5日です。
前稿の鷺山古墳の記事で、埼玉県の前期古墳は北部の本庄児玉地方と南部の比企地方に分かれると記載しました。塩古墳群は両者の中間に位置しています。両群には含まれない古墳群と云えます。また、塩古墳群の前方後方墳は単独で存在するのではなく、方墳、円墳を含む群集墳の中にあります。その中で前方後方墳は2つだけです。墳形の違いは埋葬者の地位と関係していると思われます。

↑塩古墳群の位置

当地は小高い丘陵地の杉林の中にあります。夏は涼しそうな場所だが、観察するには適当な時期ではない。以下のような状態だからです。どこの古墳も見学は冬が最適です。

塩古墳群25
↑夏の塩古墳群(google SVより引用)

塩古墳群1
↑塩古墳群Ⅰ支群の現地説明板

↑現在は熊谷市ですが、合併する以前は大里郡江南町です。江南とは荒川よりも南にあるため付けられた名称でしょう。

塩古墳群2
↑Ⅰ支群の主な墳丘名称(右側が北)

塩古墳群30
↑前方後方墳のあるⅠ支群全体図(発掘調査報告書より引用)

塩古墳群31
↑全支群(Ⅰ~Ⅶ)の墳丘配置図(発掘調査報告書より引用)

塩古墳群は古墳時代前期を中心とする古墳群です。全体では7つの支群より構成され、Ⅰ支群には前方後方墳2基、方墳26基、円墳8基からなると説明板にあります。全支群を合わせると倍の数の墳丘がありそうです。前方後方墳を含む方墳と円墳は混じり合っておらず、何か出自階層の違いのようなものを感じさせます。しかし、時代差もあるので葬送儀礼慣習の変遷かも知れません。

塩古墳群21
↑Ⅰ支群は杉林を貫く道路の両側に墳丘が密集する


(1)墳丘外観
①1号墳(前方後方墳)
塩古墳群最大の古墳が1号墳です。主軸方位はN―36°―W。墳丘主軸長35.8m、後方部軸長21.4m、後方部辺長20m、くびれ部幅5.2m、前方部長13.9m、前方部幅11.9m、後方部高4.2m、前方部高1.2m。後方部軸長と前方部軸長の比は2対3。墳形は典型的な古式前方後方墳で前方部は低く小さい。林間にあるせいか侵食を受けておらず、墳形がよく残っている。明瞭な周溝は後方部北側部分と前方部の取り巻で確認できる。周溝は後方部北側では幅6.1m、深さ0.7m。

塩古墳群28
↑1号墳測量図(発掘調査報告書より引用)

塩古墳群3
↑西側真横から撮影(左が後方部、右側が前方部)クリック拡大

↑右側が日陰で暗くて分かりづらいが、後方部と前方部の高さの差が明確に分かります。

塩古墳群13
↑前方部の西端から後方部を撮影(クリック拡大)

塩古墳群6
↑前方部の東端から後方部を撮影(クリック拡大)

塩古墳群8
↑後方部墳丘の側面を真横から撮影(クリック拡大)

塩古墳群7
↑後方部墳頂から前方部を撮影(クリック拡大)


②2号墳(前方後方墳)
塩古墳群で2番目に大きい古墳が2号墳です。2号墳は後方部の主軸と前方部の主軸が一致していない。後方部はN―46°―W、前方部はN―34°―Wです。墳丘主軸長30.1m、後方部軸長18.1m、後方部辺長20.1m、くびれ部幅5.3m、前方部長12.0m、前方部幅11.4m、後方部標高83.18m、前方部標高80.61m。後方部軸長と前方部軸長の比は2対3。1号墳と同じく古式前方後方墳で前方部は低く小さい。墳丘上面は凹凸が激しく後世の盗掘等による撹乱を受けている。周溝は後方部と前方部の一部で確認でき、後方部西側では幅5.3m、深さ0.3mある。

塩古墳群29
↑2号墳測量図(発掘調査報告書より引用)

塩古墳群17
↑東側真横から撮影(クリック拡大)

塩古墳群16
↑前方部の西端から後方部を撮影(クリック拡大)

塩古墳群12
↑墳丘東側面を斜めに撮影(右側後方部、左側奥前方部)クリック拡大

塩古墳群18
↑後方部墳丘を東から撮影(クリック拡大)


③その他の方墳・円墳
3号墳はかなりの大型で明確に方墳と分かる。他の小型の墳丘は方噴が多いはずですが、外観は円墳にも見えます。特にサイズが小さくなると外観では判別できない。

塩古墳群203号
↑3号方墳(クリック拡大)

塩古墳群1178号
↑後方に見える左が8号方墳、右が7号方墳(クリック拡大)

↑埼玉県の研究者の評価では7号方墳塩古墳群の中でも最古とされている。出土した土器片からの編年分析です。

塩古墳群2412号
↑後方左手に見える12号方墳(右側映り込みは2号墳の前方部)クリック拡大

塩古墳群231415号
↑道路東側の14号方墳(手前)と15号方墳(後方)クリック拡大

↑道路東側の墳丘は、方墳なのか円墳なのか判別しにくいが、前述図面によれば全て方墳のようです。


(2)出土遺物
1号墳の墳丘と周溝外側部分から、二重口縁壺、甕が出土している。遺物は後方部墳丘上から転落したものと推定されている。他は砕片の土師器が出土したのみで遺物量は少ない。二重口縁壺には2種類があり、時代差が見られる。口縁部~頸部まで完存し、外面全体と頸部内側まで赤彩の痕跡が残る。体部は胴中央部に最大径を有する球胴形をなすと推定されている。口縁部には焼成前の穿孔により、直径約1.3cmの円孔二個を1組として対向配置されてる。口径30.6cm、頸部の高さ9.1cm、頸部の直径9.6cm。

塩古墳群331
↑1号墳出土の二重口縁壺と7号墳出土の二重口縁壺(右下)
発掘調査報告書より引用)

2号墳の出土遺物は、墳丘北側と周溝部分から、有段口縁壺などが出土している。他は砕片の土師器が出土したが遺物量は少ない。1号墳の二重口縁壺の土器編年は布留式0~1式(250~270年くらい)に置かれ、2号墳の有段口縁壺は布留2~3式(290~350年くらい)の特徴を示すそうです。なお、古墳群最古の方墳と見られる7号墳から出土した二重口縁壺口縁部には棒状装飾が付されており、時代は1号墳に先行するという。縄文土器を連想させる装飾は素人目にも違いが分かる。
注目すべきは、群馬県を含む北埼玉地域の二重口縁壺との形状類似性です。この土器文化を東海地方西部を出発する以前に氏族が持っていたものだとすれば不思議ではない。しかし、定着以降の文化伝播だとすれば、関東広域の中で人の交流があった証拠となる。しかも二重口縁壺の類似性は関東に限らず、東北から九州でも散見される現象です。一つの土器文化も、人が分散していけば、各地でオリジナリティ化が進む。にも関わらず、共通性を持ち続けるのは葬送儀礼における広域共有文化があった事の証明になろう。弥生時代終末期から古墳時代前期初頭に、このような共通性が既にあったという事に認識を改めなければならない。


(3)築造時代と移住ルート
前稿の鷺山古墳記事でも使った埼玉県の前期古墳築造推移図を添付します。1号墳2号墳鷺山古墳と築造時代が並行しています。実年代は350年くらいと推定されているが、300年より遡る可能性もあると思います。特に塩7号墳などは完全に200年代に入るような気がする。出土土器による編年で記載されているので、各古墳の築造順番は正しいと思うが、絶対築造年代の信頼性はそれ程高くはない。土器や埋葬遺物に炭化物が残っていて、高度補正技術を伴うAMS加速器質量分析計が使用できないと、絶対年代値の精度は上がらないと思います。

塩古墳群27
前期古墳築造推移図
(平成26年ほるたま考古学セミナーテキストより引用)

最後に旧大里郡江南町付近の水系に触れておきます。最寄りの河川は滑川になります。この河川は現荒川の支流である市野川の更に支流となる。現荒川は古代吉野川でしたから、滑川吉野川の孫支流ということになります。塩古墳群の氏族は比企地方の氏族と異なるルートで遡上しているが、遡上支流が一つ異なるだけです。また江南町比企丘陵の一端ではあるので近縁の同族と見てよいかも知れません。

■本庄児玉地域・・・利根川小山川志戸川水系
大里郡江南町・・・荒川(古代吉野川)市野川滑川水系   
■比企地域・・・・・荒川(古代吉野川)入間川越辺川都幾川水系




【参考・引用】
埼玉県指定史跡「塩古墳群」の発掘調査報告書2011   熊谷市教育委員会
■埼玉県埋蔵文化財調査事業団設立記念事業「平成26年ほるたま考古学セミナー」テキスト   
 研究報告1「古墳」 青木弘 
■論文「古墳出現期の北武蔵 - 前方後方墳の成立 -」 増田逸郎
Google Earth 画像



日本史ランキング
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



Comment







管理者にだけ表示を許可