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東国の古代史

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2021-03-03 (Wed)  09:35

北関東の「前方後方墳分布の様相」について

以下の図面は、群馬県と栃木県の前方後方墳の分布を示したものです。前方後方墳とは、弥生時代の各地方独自の要素を持つ方形周溝墓から進化し、前方後方形周溝墓の段階を経て定型化した墓制を意味しています。

北関東の前方後方墳分布の様相
↑群馬県と栃木県の前方後方墳の分布(梅沢重昭1992から引用して画像編集)クリック拡大
   群馬県            栃木県          栃木県
2:  茶臼山西古墳        41:茂原権現山古墳                51:下侍塚古墳
10:下佐野寺前第6号墳              42:茂原大日塚古墳              52:上侍塚古墳
11:堀ノ内CK12号墳                 43:茂原愛宕塚古墳                53:駒形大塚古墳
17:元島名将軍塚古墳                44:三王山南塚2号墳              54:那須八幡塚古墳
19:下郷SZ42号墳                    45:三王山南塚1号墳           
24:前橋八幡山古墳                   46:山崎古墳群1号墳                      
27:華蔵寺裏山古墳                   47:亀の子塚古墳(行事神社)                                    
29:太田寺山古墳                      48:星の宮浅間塚古墳                                     
35:藤本観音山古墳                   49:二根二子塚2号墳
40:山王寺大桝塚古墳                50:浅間山古墳(八ツ木)
※番号は図中の番号と対応する
※定型化した前方後方墳を対象としており、弥生後期の前方後方形周溝墓は含めていない
※栃木県の古墳名称は同名・重複が非常に多く混乱しやすいので要注意
藤本観音山古墳山王大桝塚古墳は栃木県の古墳だが、水系地域から群馬県側に入れる


両県の前方後方墳の様相の違いにお気づきでしょうか?
群馬県の場合は、利根川水系の各支流域に墳形としては単独で分布しているのが特徴です。墳形不明のまま削平されてしまったケースも存在しますから、一概には言えないのですが、地域特性として捉える事は可能と思います。一方の栃木県では、各水系地域に複数の前方後方墳が存在する。これは言い換えると、各地域において複数の首長世代に渡って築造されたという事です。群馬県では短期間しか築造されず、栃木県では長い期間で築造されたと解釈できる。この様相の違いが昔から非常に気になっていました。

前方後方墳を築造した氏族の移住時代は弥生時代後期です。彼らは、当初は弥生墳丘墓である方形周溝墓前方後方形周溝墓を造っていました。群馬県を含む関東全域で弥生後期の墓制はたくさん検出されています。また、パレス式土器S字状口縁台付甕などの東海地方西部の土器を伴う事から、彼らが東海地方伊勢湾岸からやってきたと推定できる。やがて彼らは弥生墳丘墓を進展させ、定型化した前方後方墳を造り始めます。
その前方後方墳を築造する時代が長かったということは、①始まりが早いか②終わりが遅いか、または、③始まりも早く、終わりも遅かった、の何れかと考えられます。栃木県の場合がどれに相当するのかは、各古墳の築造時代をある程度推定できないと判断できません。推定には墳丘や墳丘周辺から出土する土器の編年分析が必要です。これに関しては、現在、情報を持たないので明示することはできません。ただ、築造した時代範囲は不明確でも、前述したように長い短いの判断は可能です。
しかし、なぜ栃木県で前方後方墳の時代が長く続いたのかという疑問が新たに生まれます。これを地域固有の事情と言い放つのは簡単だが、何となく釈然としません。そこで、もう少し地域を広げて考えてみます。弥生時代中期~後期に東海地方西部を起点として拡散した氏族は、中部北陸、関東地方、東北地方中部まで広がります。これらの地域での前方後方墳分布の様相も確認しておく必要があります。と云っても、中部・北陸は勉強不足で全く確認が取れていない。分かっている範囲で整理してみると以下の様になります。

①前方後方墳が地域分散して単独で存在する地方
 群馬県
 大型が比較的多いものの、分散傾向にある。同一地域の同墳形での首長継承がない。
 埼玉県
 最大で60mで小規模墳が多い。美里で集中が認められるが、大半は弥生墳丘墓である。
 比企地方で集中するが、近距離の独立古墳群であり、同墳形の後継者とは言えない。
 全体的に前方後方墳の隆盛はない。首長継承例としては塩古墳群1号墳2号墳
 東京都
 残存自体が少なくて評価不能。
 神奈川県
 前方後方墳は最大でも55m級で数も少なく、分散している。同一地域、同墳形で首長
 継承している地域はない。東京~神奈川では明確な土器を伴う墳墓は殆どなく、前期
 古墳も少ない空白地帯である。
 千葉県
 前方後方墳は数も少なく分散傾向にある。同一地域、同墳形で首長継承している地域
 は少ないが、例外は高部30号墳高部32号墳古墳編年で第1期の前方後方墳であり、
 東日本で一番早い。しかし前方後方形で始まるが、第2期に前方後円墳(周溝墓から
 の過渡期形)になり、更に第4~5期に入ると再び前方後方墳が築造される。当地には
 東海地方、畿内地方からの移住者が入植しているように見える。

②前方後方墳が特定地域に複数世代で存在する地方
 栃木県
 前掲の通り地域集中している。特徴として、南関東や群馬県とは違い、方形周溝墓
 が弥生時代に殆ど出現していない。栃木県は移住者の定着が遅い可能性がある。
 茨城県
 巴川桜川流域において地域集中が認められ、同墳形で首長継承している久慈川水系
 と那珂川下流域では分散傾向にある。
 福島県
 山通りの会津地域で集中が認められるが、同一地域の首長継承とまでは言い切れない。
 中通りは、むしろ関東南部に近く、比較的大型の大安場古墳があるが、同墳形での首長
 継承はない。尚、北部の福島市は前期古墳の過疎地域で宮城県への地域連続性がない。
 福島県中通りへの移住経路は北関東から陸路、宮城県への移住経路は海路の可能性あり。
 会津の北陸系土器出土は顕著で、移住経路は日本海側経由と想定。
 宮城県
 前方後方墳の北限で知られる名取市では顕著な集中が認められる。同墳形での首長継承
 が5代も続いている。前方後方墳の時代が長く続いた事は明白。至近距離にある東北最大
 の前期前方後円墳ある雷神山古墳の埋葬者に権力継承されたと推定できる。

栃木県前方後方墳の様相13
名取市HPより(クリック拡大)


このように整理してみると、おぼろげながら傾向らしきが見えてくる。西日本から遠隔な地域に前方後方墳の集中が見られる。言い換えれば、遠隔地域ほど前方後方墳の時代が長かったという現象が浮かび上がります。具体的に言うと、6~8世紀の東山道、東海道で考えた時の畿内から距離で現象が変わっている。もちろん、弥生後期~古墳時代前期に東山道東海道も存在しない。しかし、当時の文化伝播は人的往来が唯一の手段であった筈で、古東山道は既に機能していたと思います。弥生時代、東海地方からの氏族移住の移動手段は船であったでしょう。移住には多くの炊事土器、種籾の貯蔵土器、耕作道具、食料の搬送が必要だからです。しかし、その後の人的往来の多くは陸路であったと想像します。遭難の危険性を伴う海路移動が定常的に行われていたとは考えにくいからです。

仮説を述べる前に前提的な考え方を明示しておきます。
一般的には、東日本での前方後方墳は、前方後円墳に先行する墓制であると考えます。前方後方墳西日本にも分布していますが、西日本では弥生時代の円形墳丘墓から発展した前方後円墳が主流を占めていた。『前方後円墳体制は歴史学者である都出比呂志氏が提唱した学説です。私はこの説を全てでは無いが、基本的には支持しています。西日本では、弥生時代から古墳時代出現期において、地方独特な形の墳墓はゆっくりと前方後円墳という共通の葬送儀礼に変化していきます。この現象は、地域首長のゆるい同盟関係、言い換えると精神的紐帯の上に成り立つ前方後円墳同盟を想定しないと説明しづらいと考えている。これは決して軍事的な支配関係を意味するものではありません。軍事力を背景にした全国的な統制が古墳時代出現期に達成できていたとは到底思えないからです。西日本では、この同盟が形成されていた。この同盟関係は、前方後方墳墓制にほぼ統一されていた東日本にも徐々に浸透し始めます。

前方後円墳同盟を主導する氏族国家がどの地域であったのかは不明ですが、西日本から陸路で東国に使節がやってきたと推定しています。古東山道も、ほぼ8世紀の東山道と重複していたでしょうから、関東では群馬県が最初に同盟参加への要請圧力が掛かったと思います。群馬県では、前方後方墳がほぼ一世代で終了し、その後は前方後円墳になってしまう。この現象は前方後円墳同盟に早々に参画することになった事が原因と推定します。栃木県、茨城県以北では、距離的な要素、異文化要素で同盟要請が浸透するのに時間を要したという事だと思う。その間、旧墓制は維持された訳です。7~8世紀のヤマト朝廷にとっても、常磐、東北地方は異国として認識されている。上毛野国に相当する群馬県は、ヤマト朝廷対東北政策の前線基地として位置付けられていた。恐らく弥生後期の時代においても、西日本から見れば、栃木以北、常磐、東北には遠い異国認識があったのだと思われます。
また、もう一つ要素として考えられる事がある。西日本の前方後円墳同盟は「精神的紐帯の上に成り立つ」と前述しました。しかし、これは同盟初期の話で、時代が下るほどに参画要請は徐々に強圧的になったと考えている。言い換えれば、群馬県の首長たちは早々に圧力に屈服した可能性もあるでしょう。それに対して以北の地域は、新たな同盟要請には抵抗する意識があったのかも知れません。


【補足】
古墳時代出現期には、前方後円墳同盟は精神的な連帯で運営されたと考えています。しかし、古墳時代中期に入るとこの関係は激変していく。全国的に築造されていた大型前方後円墳は突然に消滅し始める。この変化は全国的に殆ど時差がありません。現象は地域首長の自粛とは考えにくい。大型古墳は首長の権力の象徴でもあったはずです。西暦400年頃、古墳時代中期初頭において、幾つかの大首長はまだ全国制覇の可能性を残した勢力であったと考えられるが、ゆるい同盟という制約の中で象徴文化を捨てるとは考えられない。大型古墳の築造が九州から東北まで、畿内を除外して停止したのは、畿内勢力が前方後円墳同盟、言い換えると広域地方首長同盟の協定を裏切り、急速に集権化を推し進めたと考えるのが自然です。つまり旧同盟は解体され、新たな枠組みが軍事力を背景に達成されたと考えられる。もし権力が横並びであるなら、畿内だけに巨大古墳の築造が続くことを說明できるだろうか。実際に軍事力を行使したのは畿内の反抗勢力と吉備・出雲地方に限られたと思われるが、威嚇行使は全国的に行われた可能性がある。






【補足】栃木県の前方後方墳事例
(1)侍塚古墳群
栃木県の前方後方墳那珂川水系と鬼怒川水系に分別される。以下の3つの前方後方墳那珂川右岸河岸段丘上の、直線距離で600mの範囲に築造されている。

栃木県前方後方墳の様相14
↑侍塚古墳群地形図(クリック拡大)

①下侍塚古墳(全長84m、栃木県那須郡湯津上)
栃木県前方後方墳の様相1
↑「日本一美しい古墳」がキャッチフレーズの墳丘

②上侍塚北古墳(全長48.5m、栃木県那須郡湯津上)
栃木県前方後方墳の様相2
↑墳形がかなり崩されている(左手後方の林は上侍塚古墳)

③上侍塚古墳(全長114m、栃木県那須郡湯津上)
栃木県前方後方墳の様相3
↑右側の林が前方部(耕作面は周堀)

栃木県前方後方墳の様相4
↑前方部後方より墳丘側面を撮影(左側が後方部)


(2)那須小川古墳群
那須小川古墳群は、栃木県那須郡那珂川町にある古墳群で、駒形大塚古墳・吉田温泉神社古墳群・那須八幡塚古墳の総称です。駒形大塚古墳だけは、やや離れた単独古墳であるが、吉田温泉神社古墳群と那須八幡塚古墳は600mの範囲内に存在する。

栃木県前方後方墳の様相15
↑那須小川古墳群地形図(クリック拡大)

駒形大塚古墳(全長64m、栃木県那須郡那珂川町)
栃木県前方後方墳の様相7
↑手前が前方部、前方部の現状は極端に低い(削平された形跡あり)

②吉田温泉神社古墳(全長47m、栃木県那須郡那珂川町)
 当古墳は神社が乗っている前方部のみ残して削平されているため、発掘調査の測量図を示します。ちなみに、吉田温泉は「よしだゆぜん」と読みます。

栃木県前方後方墳の様相5
↑墳丘測量図

栃木県前方後方墳の様相17吉田温泉神社古墳
↑残存する前方部の乗った吉田温泉神社(栃木県HPより引用)


③那須八幡塚古墳(全長62m、栃木県那須郡那珂川町)
栃木県前方後方墳の様相6
↑左側が前方部、右側が後方部


(3)茂原古墳群
茂原古墳群鬼怒川水系の支流である田川姿川に挟まれた河岸段丘上にある。周囲の水田に対しで数メートル高い丘陵上に築造されています。古墳群は直線で400mの範囲内に集中している。

栃木県前方後方墳の様相16
↑茂原古墳群地形図(クリック拡大)

①茂原愛宕塚古墳(全長50m、栃木県宇都宮市茂原
栃木県前方後方墳の様相9
↑左側が前方部、右側が後方部

②茂原大日塚古墳(全長36m、栃木県宇都宮市茂原)
栃木県前方後方墳の様相8
↑左側が前方部、右の茂みが後方部

③茂原権現山古墳(全長63m、栃木県宇都宮市茂原

栃木県前方後方墳の様相12
↑前方部の正面(南)から撮影
(盛り上がりが前方部の墳頂で、後方部墳丘は正面奥の林の中にある)

栃木県前方後方墳の様相11
↑後方部の正面(北)から撮影


補足おわり


【参考引用】
■栃木県ホームページ
■名取市ホームページ
■「毛野の古墳」 梅沢重昭  季刊考古学別冊3「東国の古墳」大塚初重編 所収
■国土地理院標高図

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No Subject * by ご〜ご〜ひでりん
形名さま、こんばんは!
こちらの記事もわかりやすく、とても勉強になりました。

那須の侍塚古墳群や宇都宮も茂原古墳群等々、いろいろと見学しに行きましたが、栃木県内の前方後方墳はどこも複数の古墳が群集しています。

何か理由があって、他の地方と比べて前方後方墳の時代が長く続いたのか、それとも前方後円墳に移行するのが遅かったのか不思議に思っていましたが、なるほど!と納得です。

下侍塚古墳は墳形が本当にキレイに残っていますよね。
これから再発掘が行われると聞きましたのでとても楽しみにしています。
少しでもコロナが収束に向かって、見学会が行われるといいなと思っています。。。

Re: No Subject * by 形名
ご〜ご〜ひでりんさん、おはようございます。

つたない記事を読んでくださり、ありがとうございます。
本記事で書いた事はマクロ的な見方をしたときには、ある程度、
当たってる部分もあると思うのですが、詳細に各地域を見ていくと
決して、そう単純でないことがバレてしまいます。
特に、福島の現象は自分の考え方には合わないですね。
それと、千葉県の場合は、単純に東海系氏族の拡散とは考えられない
ような前期古墳の展開が見られます。もっと複雑なストーリーがあるような
気もします。もう少し真面目に調べて記事を書き直したいと思ってます。笑
記事を書くにあたり、ご〜ご〜ひでりんさんの記事情報が役立っています。
精力的な見学活動には頭が下がります。

侍塚古墳群は本当に綺麗な古墳ですね。キャッチコピーに違わない
美しさがありました。再発掘があるのですか。それは楽しみだ。
見学会には是非行ってみたです。

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No Subject

形名さま、こんばんは!
こちらの記事もわかりやすく、とても勉強になりました。

那須の侍塚古墳群や宇都宮も茂原古墳群等々、いろいろと見学しに行きましたが、栃木県内の前方後方墳はどこも複数の古墳が群集しています。

何か理由があって、他の地方と比べて前方後方墳の時代が長く続いたのか、それとも前方後円墳に移行するのが遅かったのか不思議に思っていましたが、なるほど!と納得です。

下侍塚古墳は墳形が本当にキレイに残っていますよね。
これから再発掘が行われると聞きましたのでとても楽しみにしています。
少しでもコロナが収束に向かって、見学会が行われるといいなと思っています。。。
2021-03-10-19:46 * ご〜ご〜ひでりん [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

ご〜ご〜ひでりんさん、おはようございます。

つたない記事を読んでくださり、ありがとうございます。
本記事で書いた事はマクロ的な見方をしたときには、ある程度、
当たってる部分もあると思うのですが、詳細に各地域を見ていくと
決して、そう単純でないことがバレてしまいます。
特に、福島の現象は自分の考え方には合わないですね。
それと、千葉県の場合は、単純に東海系氏族の拡散とは考えられない
ような前期古墳の展開が見られます。もっと複雑なストーリーがあるような
気もします。もう少し真面目に調べて記事を書き直したいと思ってます。笑
記事を書くにあたり、ご〜ご〜ひでりんさんの記事情報が役立っています。
精力的な見学活動には頭が下がります。

侍塚古墳群は本当に綺麗な古墳ですね。キャッチコピーに違わない
美しさがありました。再発掘があるのですか。それは楽しみだ。
見学会には是非行ってみたです。
2021-03-11-07:25 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]