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東国の古代史

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2021-03-06 (Sat)  18:30

阿曽岡・権現堂遺跡「出自が不明な前方後方墳」《群馬県富岡市》

群馬県富岡市には、利根川本流付近の低地帯にあるものとは異なる立地の前方後方墳があります。緩やかな丘陵地の頂上付近に立地している。付近の住居遺跡から出土する土器類は、弥生時代後期の樽式土器赤井戸式土器が大勢を占めている。これらの土器を使う氏族は丘陵地を住居としており、利根川流域のような低地帯には居住しない。また、住居遺跡の一部からは、東海系土器北陸系土器も出土している。この地域は長野県の土器文化の影響を強く受けている地域です。長野県からの移住者の可能性もあると思います。時代は下るが、群馬県渋川市の金井東裏遺跡で、火砕流で亡くなった甲冑武人が発見されたことは有名です。彼と近くに倒れていた妻は長野県南部の伊那谷で幼少期を過ごしていることが、人骨のストロンチウム同位体比分析で分かっています。長野から東海土器北陸土器を携えて多くの人が弥生時代から流入していることが想定されます。

阿曽岡権現堂遺跡15
↑群馬県の土器分布圏と阿曽岡・権現堂遺跡の位置(クリック拡大)

しかし、この遺跡の場合、複数土器文化が交錯していて、前方後方墳を築造した氏族出自の特定は難しいでしょう。少なくとも利根川流域の石田川式土器文化圏東海系土器とは異なるような気がします。立地に関しては、太田市の寺山古墳のように東海系であっても、小高い丘陵頂上にある前方後方墳もある。また、埼玉県の前方後方墳は殆ど丘陵台地上にあります。従って、立地としては全く普通なわけです。概して大型前方後方墳は平地にあり、小型の前方後方墳は丘陵上にあるケースが多い。また、後者は前方後方墳出現期のものが多いと言われている。

阿曽岡権現堂遺跡16
↑群馬県太田市の丘陵頂上にある寺山古墳(太田市HPより引用)



以下に阿曽岡・権現堂遺跡の残存する前方後方墳(1号墳)を紹介します。築造されているのは、上毛三山の一つ、妙義山の麓に近い丘陵地です。妙義山の背後には長野県と群馬県を隔てる山群が連なり、内山峠を経て佐久市に至ります。

↑阿曽岡・権現堂遺跡の位置

阿曽岡権現堂遺跡1
↑墳丘を南東から撮影

阿曽岡権現堂遺跡4
↑墳丘を北側から撮影

手前の道路部分は、周辺の耕作地から3~4mほど高所にあり、墳丘自体は高台にあるイメージです。以後、墳丘の高い方を後方部として記載していますが、正確な墳丘方位は確認できていません。現状では東南東ー西北西に見えます。

阿曽岡権現堂遺跡2
墳丘の前方部正面を東より撮影

阿曽岡権現堂遺跡5
↑墳丘の後方部を西より撮影

阿曽岡権現堂遺跡3
↑墳丘の北側側面(墳丘にくびれ部は残存していない)

阿曽岡権現堂遺跡8
↑前方部より後方部を撮影(遠景の山は長野県境の山群)

阿曽岡権現堂遺跡6
↑後方部より前方部を撮影

画像でも分かる通り、全体が小判形の墳丘で、築造時の面影は無い。というよりも、現墳丘の盛り上げは全く意味を成さないシンボル的なものだと思います。これを見て前方後方墳と分かる人はいないと思う。発掘調査で墳形は学術確認しているのですから、一般向けに形状復元してもよかったかと思いました。でも、発見時は埋葬施設が無かったというから、基壇部しか残っておらず、立体的な形状復元は難しかったのだと思います。



以下は、本遺跡の参考説明資料です。

阿曽岡権現堂遺跡13
↑現地の説明板(クリック拡大)

阿曽岡権現堂遺跡12
↑富岡市の遺跡紹介パンフレットより転写(クリック拡大)

当遺跡からは以下の古墳時代前期前方後方墳弥生周溝墓が検出されています。また周囲は弥生時代中期から古墳時代前期に至る住居遺跡が密集している。
①1号墳(残存)
 前方後方墳 全長40m 埋葬主体部は残存せず
②2号墳(削平)
 前方後方墳 全長56m 埋葬主体部は残存していたのか未確認
③方形周溝墓
 18.4m×11.3mの一基
④円墳
 石室を伴う円墳一基

古墳時代中期、後期の古墳は数少ないので、1号墳、2号墳を築造した首長氏族は衰退したか、居住地を移動したのかも知れません。

阿曽岡権現堂遺跡17
↑残存する1号墳と調査後に削平された2号墳の位置(クリック拡大)

↑発掘調査報告書(1997)を見ていないので、より大型の2号墳の位置が不明でしたが、奈良女子大学の『前方後円墳データベース』によると、1号墳の北西約100mの位置にあったようです。

阿曽岡権現堂遺跡14
↑阿曽岡・権現堂遺跡の住居遺跡から出土した弥生後期土器群(クリック拡大)


見学日は当遺跡からも近い北山茶臼山西古墳にも立ち寄りました。山の頂上に鎮座する小さな前方後方墳でした。高速道工事で削平されて今は跡形もないが、立地がとても興味深い古墳です。前方後方墳ではなく、前方後方形周溝墓の可能性もあると言われていたが、長胴化した二重口縁壷が出土しており、古墳編年では第7期と判定されている。これは古墳時代前期の終末に当たります。当日は事件があって山に登ることができず、立地確認できませんでしたが、次の機会に訪問しようと思います。





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