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東国の古代史

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2020-05-06 (Wed)  08:00

新川臣の墓「桐生中塚古墳」 (2/3) - 切石積み石室を持つ山寄せ古墳-

前稿からの続き


以降は中塚古墳を画像にそって紹介します。
本古墳は、標高約200m、台地の東斜面に立地。直径38m・高さ約5m、2段築成の円墳もしくは方墳で周溝を備える。埋葬施設は南に開口する両袖型の横穴式石室で全長7.67m、玄室部長さ約4.2m・最大幅1.85m・高さ1.74m、羨道部長さ約3.1m・幅約1.3m、安山岩の切石を切組積みなど高度な技術を用いて構築されています。なお、石室の開口時期は相当古く、古墳に伴う遺物は出土していない。

中塚古墳6
↑南から見た墳丘

中塚古墳は特徴のある墳丘を持っています。上の画像を見ると普通の平地にある円墳のように見えますが、墳丘の周りをぐるっと廻るとその特徴がよくわかります。


中塚古墳7
↑南東から見た墳丘

中塚古墳8
↑東から見た墳丘(南と北で形状が異る)

中塚古墳9
↑北から見た墳丘

中塚古墳10
↑西から見た墳丘

北側、西側から見ると、墳丘の盛り上がりは僅かです。つまり、この円墳はゆるい傾斜地に南向きに築造されており、山寄せ古墳に近い形です。山寄せは西暦650年頃に群馬県で流行した築造方法だったのかも知れません。平地に作れば、食料生産の邪魔になるが、このように住居から近い丘陵地であれば無駄がなく、築造工数も削減できるというメリットがあります。これは高崎市の同時代の山上古墳を見るとよく分かります。こちらは本格的な山中なので傾斜角はきついが同じ形式です。

中塚古墳17
↑山寄せ型の山上古墳

↑写角が狭くて分かりづらいが、山上古墳は急な山の斜面に墳丘がある。山の斜面に穴を掘ったという方が当たっています。


次に中塚古墳の石室を見て行きます。

中塚古墳11
↑石室入り口に続く溝

↑石室の開口部は南側にあり、時期は不明だが、かなり以前に開けられたようです。

中塚古墳2
↑石室入り口に続く溝

↑現在、玄門入口の前に溝状に土砂が埋没していますが、本来は玄門前部は前庭があったものと思われます。玄門の入り口左右に袖垣を形作っている石組みの壁が見えています。この壁の延長線の内側が前庭部です。ここで埋葬・追葬時や、その後の追善供養の祭祀を行ったものと見られる。このように前庭構造を持っているのが明白なのに、中途半端な状態で放置するのは如何なものかと思います。墳丘自体を築造当時の形に復元して欲しいと思います。なお、当日は石室入り口は塞がれていなかったが、過去入れないようなっていた時期もあるようです。

中塚古墳3
↑玄室に続く羨道

中塚古墳4
↑羨道の左壁面

中塚古墳5
↑羨道の右壁面

中塚古墳のような自然石を切り出して積み上げて構築する方法を切石積み石室と呼びます。この方式は古墳時代終末期の特徴になっています。切り出した石の積み上げの緻密さで加工職人の技術度が分かります。専門技術集団でなければできない仕事です。中塚古墳の石室は前橋市の宝塔山古墳蛇穴山古墳の精密な細工には及ばないが、国府からやや離れた地方としては最上級の構築技術が使われている。高崎市の山上古墳の羨道部もやや乱雑な仕上げに見えるが、石室は同じく丁寧な石組み技術が見られます。参考に山上古墳の石室画像を以下に添付します。

中塚古墳15
↑山上碑の横にある山上古墳の石室(黒売刀自の墓




以降は中塚古墳の玄室内になりますが、私は玄室に入るのが実は苦手です。笑
そこで、古墳マップというサイトに画像投稿されていたyoutaroさんという方に画像の提供をお願いしたところ、了承を頂きました。以降の3枚の画像はyoutaroさんの撮影です。この画像の的確なところは人物を入れて撮影していることです。これによって石室のサイズ感が明確に分かります。人物にぼかしが入っていませんが、これも了承を頂いています。

中塚古墳14
↑羨道部(転載はご遠慮ください

中塚古墳12
↑玄室部入口側(転載はご遠慮ください

中塚古墳13
↑玄室部奥壁側(転載はご遠慮ください

高崎市の山上古墳と築造時代は同じでも石室の大きさは異なり、規模の大きな石室であるのが分かると思います。この差は、そのまま権力・財力の差であったと考えても間違いはないでしょう。玄室は一部壁面と天井石の接点が崩れ、土砂が落ちていますが、東日本大震災の影響と思われます。最後になりましたが、現地に設置されてる説明板を添付しておきます。

中塚古墳1
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