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2022-08-23 (Tue)  16:00

島状遺構を持つ古墳に関する考察(4/4)「他古墳の中島評価と結論」

前稿からの続き

(3)岩鼻二子山古墳(高崎市綿貫町)
  総覧:岩鼻村番外2号墳
本古墳は既に大正時代に削平されてしまった墳丘長130mの大型古墳です。その規模にふさわしい周濠を持っていました。「周濠には、明治時代までの戸籍図に中島らしき区割りがあったが双方とも消滅」との情報を某知見者から得ている。しかし、出典元の該当戸籍図を実際に見ていないので判断出来ないでいる。一方、以下の観点から本古墳に祭祀目的の島状遺構があった可能性は低いと考えています。

下図は高崎市が保管する明治9~19年頃に作成された古墳周辺の地籍図と思われます。古墳の後円部周濠に接している道は有名な日光例幣使街道です。この図を見る限り、周濠内にはっきりと中島、または、島状遺構といえる区割りは認められない。情報提供の戸籍図も時代と場所が変わらぬ以上、この地籍図と同様と思います。

綿貫古墳群112
↑岩鼻二子山古墳の周濠付近の地籍図(左辺が北)

本古墳は、付近の不動山古墳と前後して構築されたのは確実であるが、不動山古墳の周濠にも中島は確認されていない。また岩鼻二子山古墳不動山古墳も、墳丘のくびれ部側面に造出部が存在する(以下画像参照)。造出部は祭祀の場であるのは確実です。この造出施設以外に島状遺構を持つことは機能的に重複する事になり意味がないと思われる。造出部が存在する以上、島状遺構はないと考えるのが論理的です。

綿貫古墳群10
↑岩鼻二子山古墳の墳丘東側にある造出部痕跡

綿貫古墳群111
↑岩鼻二子山古墳地籍図に認められる造出部の痕跡(左辺が北)

綿貫古墳群13
↑岩鼻二子山古墳の次世代である不動山古墳にある造出部痕跡(左辺が北)


(4)越後塚古墳(高崎市上中居町)
   総覧:佐野村74号古墳
越後塚古墳は高崎市上中居町に所在した130m級の大型前方後円墳です。ある時点まで後円部墳丘は火葬場として残存したようだが、何の調査も受けないまま削平されている。この古墳の周濠内には「前方部東側に1基の中島が存在した」との情報を得ている。しかし、以下の観点から、越後塚古墳に島状遺構、または、中島が存在した可能性は薄いと思います。

埋葬主体部が竪穴系の施設である事はほぼ確実です。周辺の前期古墳の配置から考えても、築造は5世紀初頭から中葉に渡るものと推定されている。これは、保渡田古墳群初代の井手二子山古墳に先行する。従って同様の島状遺構、または、中島を持っていた可能性は低い。

「前方部東側の1基の円墳」という情報出典は、越後塚古墳の前方部東側に存在した佐野村75号古墳(別名:オビンヅル塚古墳)と思われる。越後塚古墳はその大きさから周濠を持っていたのは確実です。しかし、佐野村75号古墳は周濠外の可能性が大きい。越後塚主墳との位置関係からも陪塚の可能性が高いと思う。正確な位置は不明ながら、図面に記載されていない小円墳が付近に存在していたことも分かっているが、それらも主墳の陪塚の可能性がある。

越後塚古墳位置
↑越後塚古墳(1041)と佐野村75号墳(1042)の位置関係「高崎市史

越後塚地割1
↑1959年の越後塚古墳の地割痕跡(墳丘は既に削平済、佐野村75号墳も同様)

以下図で周濠範囲を僅かに見える地割線痕跡から推定してみた。佐野村75号墳は周濠が一重濠であるならば周濠内に入ることはないと思われる。更に外濠があった場合は入るが、群馬県の5世紀初頭~中葉築造の古墳に二重濠を持つ例は少ない。たとえ二重濠だったとしても外濠内に祭祀施設があるとは思えません。

越後塚地割2
↑地割線痕跡から推定する墳丘範囲と周濠範囲


(5)七輿山古墳(藤岡市上落合)
七越山古墳は6世紀前半に築造された全長150mの大型古墳です。内濠と外壕を分ける堤上に円墳(美土里村51号墳)が存在する。この円墳が七輿山古墳の中島(島状遺構)であるとの情報がある。しかし、以下の観点から可能性は薄いと考えます。

美土里村51号墳は周濠内にあるわけではなく、内濠と外濠の境界である堤上にある。従って中島の形態ではない。中島でなくても祭祀施設の可能性はあるが、祭祀は主墳端、または極近い位置で行う事例が多く、祭祀施設とは考えにくいのではないか。主墳墓域内に存在する円墳なので陪塚である可能性が大きいと考えます。

美土里村51号古墳
↑外濠内に存在する美土里村51号墳

美土里村51号古墳3
↑現状の美土里村51号墳

七輿山古墳は、武蔵国造の乱に登場する上毛野君小熊の墳墓説があるように、6世紀前半の後期古墳です。後期古墳の周濠内に祭祀施設がないとは断言できないが、少なくとも群馬県の後期古墳では検出実績はない。従って、美土里村51号墳が祭祀目的の島状遺構、または、中島である可能性は低いと思います。

以下の図は、1972年から1990年までに発掘調査された結果から作成された七輿山古墳の周濠図です。黒い帯の部分が周濠です。二重周濠となっていて形態は特異です。内濠も外濠も狭い幅で構築されている。目立つのは内濠と外濠を分ける幅の広い堤です。外濠の幅は墳丘に対して対称ではなく、南側は狭い。南側は斜面に接しているため均等に構築できなかったようです。重要なのはくびれ部の両端を除いて、この古墳は周濠中島を設置するようには設計されていないと思われる。あるとすれば極小さな島状遺構でしょう。

七輿山古墳周濠復元
↑周濠部範囲(黒色部)

以下の図は、2018年~2020年にかけて早稲田大学によって調査された七輿山古墳全域の地中レーダー探査図(GPR)です。内濠にも外濠にも島状遺構の痕跡は検出されていません。スペース的に可能性の高いくびれ部両端についても言えます。
七輿山古墳GPR調査
↑GPRタイムスライス平面図(橙色は地中の石などの異物・構造物を示す)


(6)上武士天神山古墳(伊勢崎市境町上武士)
上武士天神山古墳は6世紀代に築造された全長127mの大型前方後円墳です。この古墳の前方部北東に近接して円墳があり、中島ではないかという情報がある。

上武士天神山古墳13
上武士天神山古墳の配置と1960年の前方部残骸痕跡(周辺の小円墳は削平済)

以下の明治時代の古地図によると、前方部の東に2個の円墳が存在しているが、周辺道路との位置関係から距離が離れていると思われ、周濠内には入らない。主墳の関連古墳だとしても陪塚の可能性が大きいと思う。

上武士天神山古墳明治期の周辺の古墳位置
↑明治27年頃の上武士天神山古墳と周辺の円墳(東側至近距離に2基の円墳がある)




【結論】
以上、群馬県に存在する中島を持つ古墳について、個別に評価してきた。結果的には、太田市の鳥崇神社古墳のみが、祭祀目的の中島、または、島状遺構の可能性があると結論付ける。従って、保渡田古墳群とは無関係に群馬の古墳にも島状遺構が存在した可能性は否定できないということになろう。しかし、事例サンプルとしては少なすぎるので最終結論を下すのはまだ早いと思う。同古墳の築造時代が不明確のため断言できないが、西部の保渡田古墳群の墓制文化の影響を受けて築造された可能性も無いとは言い切れないからです。ただ、群馬県の西部と東部で人的交流があった証拠はありません。また鳥崇神社古墳の埋葬者が保渡田古墳群と同族の可能性は否定できると思います。墓制形態が明らかに違うし、両者は地理的に35Kmも離れています。

井手二子山古墳と鳥祟神社古墳の距離
↑井手二子山古墳と鳥崇神社古墳の位置

本稿に掲載した古墳以外にも少数だが中島の可能性のある古墳は存在する。しかし、その殆どが削平済か未調査が多く、資料が乏しくて評価できない対象です。群馬県の島状遺構のルーツはどこにあるのかという疑問の回答はしばらく保留とするしかなさそうです。

補足
群馬県の古墳を俯瞰した場合、島状遺構、または、中島を持つ古墳は非常に少ない。存在していても調査されていなかったり、見落とされているケースもあり得るが、この施設が非常に少ないことは確かです。この墓制文化が少数特異的なものである事には変わりない気がする。

島状遺構を持つ古墳分布
↑島状遺構を持つ古墳分布図(全国で15ヶ所存在)

上図に学術的に祭祀用島状遺構を持つと確認されている古墳分布を示した。さらに各古墳の築造時期を整理すると、やはり島状遺構の文化発祥は畿内にあり、人の移動によって群馬県に伝わったと考えるのが考えやすいと思います。人の移動を伴わない文化のみの伝播は勿論考えられるが、遠隔な畿内と群馬県の地理的空間に該当墓制が存在しないという事実がある。この現象の意味するところは重要です。ただ西日本の場合は面での広がりの可能性を見せており、事情が少し違う。対して東日本では人の移動による伝播を考えたほうが考古学事象に整合しているように思います。



【参考・引用】
■群馬県古墳総覧2017
■高崎市史 資料編1 原始古代Ⅰ
■太田市教育委員会ホームページ
■前橋市教育委員会ホームページ
■朝倉・広瀬古墳群パンフレット 前橋市教育委員会
■七輿山古墳の測量・GPR 調査 
 早稲田大学 東アジア都城・シルクロード考古学研究所 デジタル調査概報
国土地理院ホームページ 地図・航空写真閲覧サービス 
■今昔マップ On The Web  埼玉大学教育学部人文地理学研究室
■Google MAP

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「島状遺構の系譜-保渡田古墳群-」(2019年3月10日)も読ませていただきましたが、島状遺構・出島状遺構が確認される古墳は14例しかないんですね。

保渡田古墳群の島状遺構は、奈良県の巣山古墳、大阪府の津堂城山古墳、三重県の宝塚1号墳、兵庫県の五色塚古墳などの島状遺構・出島状遺構と、形や配置が違います。かなりオリジナリティーが高いですね。

一番似ていると思ったのは、奈良県の宝来山古墳(垂仁天皇陵)の周濠に浮かぶ島です。

至柔のブログの

「(第11代)垂仁天皇陵に参拝しました」
(至柔の優柔不断日記、令和3年(2021年)3月17日)
http://gogensanpo.blog109.fc2.com/blog-entry-1173.html

に、島の写真を載せています。↓これです。

http://gogensanpo.blog109.fc2.com/img/DSCN0617.jpg/

ただ、これは元の外堤を削り残したものと考えられているようです。

Re: 保渡田古墳群の島状遺構は珍しいですね * by 形名
至柔さん、こんばんは。コメントありがとうございます。

確かに外見的には宝来山古墳(垂仁天皇陵)の中島は円形でそっくりですね。
以前の記事を書いたときに宝来山古墳のことも調べた記憶があります。
なぜ、事例に含めなかったのかは忘れていましたが、外堤の削り残しという
由来があったのですね。でもこの写真を見たら群馬のものとの関連を想像
してしまいますね。
島状遺構という墓制を見るにつけ、その事例は全国を含めても一握りなのに
一口では括れないほど各古墳のオリジナリティがありますね。
形と数を比べると同じ目的の構造物なのかと疑問を抱かせるほどです。
とても興味深いテーマですが、意外とその形態を専門的に研究している学者は
少ない印象でしたね。

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保渡田古墳群の島状遺構は珍しいですね

保渡田古墳群の二子山古墳と八幡塚古墳にはそれぞれ四つずつ円形の島状遺構があるんですね。知りませんでした。円形というのが独特ですし、後円部の周りに四つという配置も変わっています。

「島状遺構の系譜-保渡田古墳群-」(2019年3月10日)も読ませていただきましたが、島状遺構・出島状遺構が確認される古墳は14例しかないんですね。

保渡田古墳群の島状遺構は、奈良県の巣山古墳、大阪府の津堂城山古墳、三重県の宝塚1号墳、兵庫県の五色塚古墳などの島状遺構・出島状遺構と、形や配置が違います。かなりオリジナリティーが高いですね。

一番似ていると思ったのは、奈良県の宝来山古墳(垂仁天皇陵)の周濠に浮かぶ島です。

至柔のブログの

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http://gogensanpo.blog109.fc2.com/blog-entry-1173.html

に、島の写真を載せています。↓これです。

http://gogensanpo.blog109.fc2.com/img/DSCN0617.jpg/

ただ、これは元の外堤を削り残したものと考えられているようです。
2022-08-30-22:48 * 至柔 [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: 保渡田古墳群の島状遺構は珍しいですね

至柔さん、こんばんは。コメントありがとうございます。

確かに外見的には宝来山古墳(垂仁天皇陵)の中島は円形でそっくりですね。
以前の記事を書いたときに宝来山古墳のことも調べた記憶があります。
なぜ、事例に含めなかったのかは忘れていましたが、外堤の削り残しという
由来があったのですね。でもこの写真を見たら群馬のものとの関連を想像
してしまいますね。
島状遺構という墓制を見るにつけ、その事例は全国を含めても一握りなのに
一口では括れないほど各古墳のオリジナリティがありますね。
形と数を比べると同じ目的の構造物なのかと疑問を抱かせるほどです。
とても興味深いテーマですが、意外とその形態を専門的に研究している学者は
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2022-08-31-00:18 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]