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東国の古代史

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2023-02-28 (Tue)  22:29

奇妙な神社 - 群馬県藤岡市中栗須の神明宮 -

藤岡市の中栗須というところに群馬県では余り聞きなれない神社があります。その名を神明宮という。群馬県を除く関東地方には数多くあるのです。神明とは伊勢神宮を奉祀する神社を指します。従って、一部例外はあるようだが、祭神は天照大神と決まっている。北関東では天照大神を祀る神社は割と少ないと思います。むしろ大国主命系を祭神とする神社のほうが多い。神明境内は非常に広いが、華やかさが無いというか、商業ずれしていないというか、置き去られた雰囲気のある神社です。

20230306藤岡ポタリング1

↑神社は南向きで一の鳥居があります。形は神明鳥居ですから伊勢神宮にふさわしい形式です。手前左手に「郷社神明宮」と刻まれた社号標が立っています。陰に隠れてしまったが、後ろに猿田彦大神」と刻まれた石碑もある。

20230306藤岡ポタリング2

↑参道途中の二の鳥居です。これは明神鳥居形です。従って扁額(神額)が付いている。扁額には諏訪大明神」と記されている。ここで「あれ?」と思ったわけですが、理由は後述します。通常、扁額には神社に祭祀されている神格名が表記される場合がほとんどです。この神社の場合は主祭神は天照大神であろうから、諏訪大明神は合祀されていると推定される。

20230306藤岡ポタリング3

↑三の鳥居です。これは一の鳥居と同じく神明鳥居です。ここに道路が通っていて参道が分断されてます。一の鳥居から拝殿までは、200mくらいある立派なあつらえです。拝殿前の広場も球技ができるくらい広い。しかし、一の鳥居と三の鳥居が神明鳥居であるのは祭神からして当然としても、二の鳥居だけは明神鳥居という変わったあつらえです。神明鳥居と明神鳥居が混在している神社というのは初めて見ました。いったいどんな意味があるのでしょうか。

20230306藤岡ポタリング4

↑屋根の瓦葺は比較的新しいが、木材は朽ちており、相当古いようです。

20230306藤岡ポタリング5

↑神楽殿も古いが立派な造りです。今でも春には例祭があるらしい。

20230306藤岡ポタリング6

↑由緒書きには、祭神は大日孁命(おおひるめのみこと)とあるので、やはり天照大神です。天照大神という女神は後発の神であって、本来の大王家(天皇家)の祖神は高御産巣日神たかみむすひのかみ)と言われている。天照大神が創作され、最高神となったのは恐らく7世紀末の持統朝あたりだと思います。持統天皇が女帝であった事と無関係ではないような気がします。この時期に出雲神話とヤマト神話は統合改変されて現在の記紀神話になったと考えられます。
合祀されてる祭神は他には無いようです。二の鳥居の扁額にある「諏訪大明神」は何処にいるのでしょう?由緒書きの日付けは昭和57年ですから最新情報と言える。なお、創建は1192年、源頼朝の発願となっている。明治13年に拝殿改築とあるので、見た目が古いはずです。

20230306藤岡ポタリング9

↑立派な絵馬が掛かっているが、塗りがはがれていて、絵のテーマは分かりません。

20230306藤岡ポタリング7

↑由緒書きによると、後ろの本殿は1585年の築造になるが、おそらく明治時代に改築されているものと思います。438年前の建築とは思えない。

20230306藤岡ポタリング11

↑境内にはたくさんの末社・摂社があるが、いずれも説明がないので何を祀っているのか分かりません。社殿の裏にも境内は70m四方の広さを持っている。広さだけは十分ある神社です。

ここで奇妙な神社である理由を記載しておきます。神明宮祭神は大日孁命(おおひるめのみこと)とあるので天照大神です。由緒書きには他に合祀されてる祭神はありません。しかし、二の鳥居の扁額(神額)には「諏訪大明神」と記されていました。扁額の神名と祭紳が一致しない神社というのは初めて見ました。諏訪大明神とは建御名方神たけみなかたのかみ)のことです。全国諏訪神社の祭神ですから、本社は長野県諏訪市にあります。扁額の「諏訪大明神」が神明宮に合祀されている事を表すのであれば、これは非常に奇妙です。建御名方神大国主神の次男坊ですから出雲系の神です。天照大神はもちろん天孫ですから、現天皇家の祖ということになる。出雲の神々から天孫への国譲りのピソードは非常に有名です。

『大国主神による天孫への国譲り際、経津主神建御雷神は、大国主神の御子事代主神から国譲りの意志を示された。大国主神は「我が子でもう一人意見を聞いてもらいたい子がいる。それは建御名方神である」と申された。そこへ、千人かかっても持ち上げられないような大石(千引石)を軽々と両手でささげ持って建御名方神がやってきた。建御名方神は「力競べをして決めよう」と言い、建御雷神の手をつかんだ。 すると建御雷神の御手は氷柱に化し、次いで剣刃に変わってしまった。 建御名方神は、畏れ驚き手を引っこめたが、建御雷神建御名方神の手を握ると、その手は葦のように柔らかくなってしまった。建御名方神はあわてて逃げ去るが、洲羽海(諏訪湖)に追いつめられ殺されそうになり、「命だけは助け給え。この地以外にはどこへも行かない。また父大国主神と兄事代主神の命令や意志には背かない。この豊葦原の中国は天つ神に奉ります」と申された。

このエピソードは「国譲り」と呼ばれるが、出雲神は追い出され、暗示的には殺されたという事。つまり、出雲神と天孫は敵対関係にあり、出雲神は敗者です。大国主神事代主神は国譲りに同意しており、大王家(天皇家)も大国主神を守護神に加えている。しかし、反抗した建御名方神は敵対神との位置付けだと思います。従って、建御名方神(諏訪明神)が合祀されるのは不思議な事です。本来ならあり得ない。
私には建御名方神が天孫に報復するために、天照大神を鳥居という結界を張って封印しようとしているのかと思えました。つまり、二の鳥居は「伏敵門として存在するのではないか? 伏敵とは敵の気づかぬ所に兵を隠すこと。伏敵門とは敵勢力を密かに阻止する防御設備を指します
おそらくは、境内のどこかにある末社・摂社に諏訪明神配祀されているというのがオチかも知れません。群馬県藤岡市には、上州藤岡諏訪神社があり、健御名方神八坂刀売神(やさかとめのかみ)を祭神としている。摂社、末社は近隣の神を対象とするのが普通です。おそらくは、この諏訪神社が関係しているのだと思われる。しかし、そうだとしても違和感の拭えない神社である事には変わりない。通常、摂社末社には主祭神と関係の深い神々配祀されるからです。関係が深いとは親和的要素が強いという意味です。少なくとも健御名方神が親和的だとは思えない。

本郷埴輪窯と土師神社諏訪神社古墳18
↑諏訪神社古墳の上に鎮座する上州藤岡諏訪神社

一般的に今の神社は、多くの祭神を取り込む傾向にある。その要因は複数上げられます。
7~8世紀における神話の統合化再編によって、各氏族の神は、大王家を頂点とする序列化や新たな神話の創作によって、必ずしも敵対関係にある神格という概念が薄れてきたこと。
②明治時代末期の合祀令により、合祀により神社の数を減らして、神社の継続的経営環境を改善しようしたこと。また、これには神社は宗教ではなく「国家の宗祀」であるという明治政府の国家原則に従って、地方公共団体から神社への公費提供を実現させるために、財政負担が可能なレベルまでに神社の数を減らす目的もあった。
③大正時代~昭和時代に入って、合祀令の制約が緩むと、商業主義神社は参拝者を獲得するために有名な神格を合祀するようになったこと。

特に②の合祀令の影響は大きく、全国で1914年(大正3年)までに約20万社あった神社は7万社まで減ったという。廃止消滅した神社もあれば、他の神社に合祀されて数を減じている。従って、中には天孫系神格と出雲系神格が合祀されている事例もあるのではないか。また、創建時本来の祭神が後に合祀された祭神に置き換わってしまい、「軒を貸して母屋を取られる」事例も沢山あるという。また日本の神社の中には、神社名と一般的な祭神名が一致しない神社もあるらしい。中栗須神明宮の場合はどんな経緯があったのか興味が湧きます。

【追記】
その後も諏訪大明神の神額が掛かる理由について調べてみたが、はっきりした事は不明です。ただ、この神社の末社については分かりました。現在は更新を止めてるHP「玄松子の記憶」によると、中栗須神明宮の末社は以下19社あるようです。しかし、これらの神社名からは諏訪大明神が祀られていると思われる社はありません。お諏訪さまは神額を残したまま相変わらず行方不明です。
因みに「末社」とは主祭神とはあまり関係のない客分の神を祀っている場合、または、本社に付属し、その支配を受ける小神社のことを指します。それに対して「摂社」は主祭神と関係の深い親密な神を祀っている場合と区別されています。従って諏訪大明神が祀られているとすれば「末社」でなければおかしいと思うのです。

参考中栗須神明宮の末社とその祭神
■国造社
高木神社
造化神社
六神社
風宮
雨神社
産泰神社
榛名神社
疱瘡神社
八坂神社
八幡宮
蠶神社
稲荷神社
阿夫利神社
武尊社
石神社
荒御前神社
奥玉神社
東屋神社




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