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東国の古代史

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2023-03-14 (Tue)  01:20

古代遺物と中世伝説の接点「倉賀野町40号墳」

倉賀野町40号墳は昭和10年の上毛古墳綜覧でも同名で呼ばれている。つまり、上毛古墳綜覧の名称が正式名となっています。この古墳だけでなく付近にあった古墳も同様です。しかし、周囲に残っている古墳は殆ど削平されて残っていない状態です。

↑Google MAP

この古墳から東方面には倉賀野東古墳群(大道南群)があるが、上毛古墳総覧の46~206号墳の160基とカウントされており、40号墳は含まれていない。しかし立地は倉賀野東古墳群の西端に位置するので、築造時代は、ほぼ同一と推定できると思います。倉賀野東古墳群、全て円墳で、横穴式石室であることは分かっているが、破壊が進んでおり正確な築造時代は判定出来ていない。しかし、およそ6世紀後葉から築造が始まり、7世紀後葉の早い段階で築造を終えたと見られている。

倉賀野40号古墳位置2
↑周囲の残存古墳と削平古墳の配置(2段クリック拡大)

倉賀野町40号墳は、ちょうど2つの古墳群に挟まれた位置で、古墳密度の薄い場所のようです。北西方向の近距離に長賀寺山古墳という60m級の前方後円墳がありますが、その他は小型の円墳ばかりです。

倉賀野40号墳1948
↑1948年画像(2段クリック拡大)

倉賀野40号墳19602
↑1960年画像(2段クリック拡大)

↑1960年画像では墳丘はやや整ってるように見えるが、大きさは現状とあまり変わらないと思います。1948年でも同様です。


以下に現在の現地画像を掲載します。いずれも画像クリックで拡大します。

倉賀野40号古墳6
↑倉賀野緑地公園入口

↑以前は旧中山道から古墳が見えましたが、現在では住宅に囲まれて見えません。古墳は倉賀野緑地公園の入り口にある駐車場と畑の境界にあります。この付近は倉賀野町字荒神山と呼ばれた地域です。

倉賀野40号古墳3
↑北より

倉賀野町40号墳の形状は円墳です。現在のサイズで直径約5.0m、高さ約2mあります。古墳頂上の祠周囲には、杉の木が数本植えてあり、古墳西側には庚申塔の板碑が設置されている。学術的な調査は全く行われておらず、築造時代も埋葬形式も不明です。

倉賀野40号古墳1
↑南西より

倉賀野40号古墳2
↑西より

形状は明らかに駐車場のある北側が削り取られています。円墳だとすれば、本来はもっと大きな墳丘であったと思われる。どの程度削平されたかにもよるが、既に埋葬施設は無い可能性もあるでしょう。前述したように、1948年まで遡って確認しても、現状と大きさはたいして変わらないようです。削平されたのは近代以前の古い時代だと思われます。

倉賀野40号古墳4
↑北東より

倉賀野40号古墳5
↑南東より

↑南東から見ると、きれいな墳丘に見えます。倉賀野東古墳群の円墳は墳丘が崩されて、石室が露出しそうな古墳が殆どでしたが、この古墳はやけに墳丘が高く残っています。

ただ、本墳は古墳として扱われてはいるものの、後世の伝説を伴う遺跡でもあります。実は地元では本墳のことを「荒神山の一本杉」と呼んでいます。伝承によると、江戸時代に造られた墓であるという。伝説であって、真実か否かの確証は全くありません。本来は古墳であったものが、江戸~明治時代の伝承と結びついて、勝手に江戸時代の墓にされてしまった可能性もあります。この古墳の形状が高さのある塚に保たれているのは、この伝説のためではないかと思います。

倉賀野には「皇紀二千六百年 伝説之倉賀野(昭和十五年十一月五日発行)」という名前の書籍があります。著者の徳井敏治氏は、昭和8年から16年まで倉賀野尋常小学校の校長先生を務めていた方です。この本は、徳井氏が在任中の昭和15年に皇紀二千六百年記念事業として倉賀野城周辺の伝説を調査し、編集したものです。自ら伝承を尋ね歩き、歴史のある倉賀野の町の伝説を後世に残そうと尽力されたということです。

伝説の倉賀野
伝説之倉賀野

一本杉

荒神山の一本杉の話は、目次の「三、一本杉」に掲載されている。以下に内容を転載します。
天下麻の如く亂れた戰國の世も、元和の春と共に、世は太平を謳歌する時代となった。
甲阪新之助は、とある旗本の嫡男に生まれた。父は旗本八萬騎の四天王の一人として多數の部下を統率する身であった。その性質は勤嚴そのものの古武士、大阪夏冬の陣に其の名を謳はれた勇將にて、暇ある毎に語り聞かすは當時の武勇傳であった。
新之助の生みの母は早逝した。父は後添を貰った。後添には一人の娘が居た。名を桃千代と呼び母子は新之助と晴れて夫婦になる日を楽しみにして待って居た。然し、運命は皮肉にも新之助の心は、いつか許嫁とは反對な邸(やしき)の門番の娘お露にあった。『忍ぶれど色に出にけり我戀は、物や思ふと人の問ふまで』いつまでも知れずにはゐなかった。
桃千代を通じて繼母に、繼母より父へと知られた。如何に辯解したとて名ある旗本の嫡男の身が、いやしき門番の娘などと・・・・・
清廉潔白の士を以って世に聞ゆる父に許され樣もない事を知った二人は、或る夏の夜兩國大花火を期して姿を消した。行く先は豫(か)ねて便りに薄ら記憶の老女中、お藤の餘世を送る上州碓氷の坂本宿であった。江戸を出てから夜に日を次いで武州熊谷も過ぎ、本庄に辿りついた。何の用意とてない上に御苦労知らず、働く能なき二人には、それは此の世ながらの生地獄であった。折しも豪雨降り續き、河といふ河は未曾有の増水となった。船賃とて持たぬ上に、江戸から追手が迫ってくると聞いた兩名は、どうしてもこの川を渡らねばならなかった。
或る夜、淺瀬を見付けて川越しをした。だが不幸にも足はすべって河中に・・・・・・怒り狂ふ荒波の中に。明くる朝河岸近くの河原に多くの人が集まってゐた。近寄って見れば何と互ひに胴を結びし男女の溺死體であった。然も可憐にも女の體には新しい肉塊の動きさへ見受けられた。純朴な村人の目には涙さへ催された。
やがて二人のために河岸近くの高臺に比翼塚が建立された。兩親も江戸より馳付けた。此の二人のいぢらしさに肉親の愛情がこみ上げてきた。一切を許して立派な塚が立てられ、その上に二本の杉が植ゑられた。一本は大きく一本は小さくとは優しい村人の心遣ひの表象(あらわれ)であった。さゝやか乍も石塔も立てられた。
よく其處には訪れる人の供へた、だんご草花の供養も見出だされる。其の邊を荒神山(くわうしんやま)と云ひ、人々はあの杉を荒神山の二本杉と呼び慣らした。それから荒神山はただ荒れるに委せられて狐や貉の巣くふ荒山となった。
星移り年も幾度か改まって明治となった。さしも荒れに荒れた荒神山一帶も文明開化の叫びと共に、次第に開墾され田畑となった。荒神と名づけた田も出來た。だがどうした理由か、水田の水掛りが悪い上によく人々が怪我をする。又其の田を耕す者の家には必ず不幸が見舞ふとさへ云はれた。
人々は古老の言に從って二人の供養塔を立てゝ懇ろに弔った。其れ以來惡い事もなくなったと人々は喜んだのである。植ゑた二本杉は年を經て、すくすくと靑天に聳ゆる大木となった。
或る年雷が落って一本が真二つに割れてしまった。幸ひ枯れはしなかったが、その空洞になった所に、時々乞食どもが集まって火を燃してゐた。或る冬の朝、村人たちは怒って追出したが、すぐに又集まって來た。遂に一本は枯れた、だが抜目のない乞食どもは、他の一本にも空洞を見付けて、相變らず火を燃やしてゐた。
訪れる人々はその一本杉の根元に黒くこげた、むごたらしい痕跡を見つけて、風雨幾星霜にさらされて立つ梢を、深い感槪を以って眺めることであらう。

この話には、他にも幾つかバリエーションがありますが、大筋は似ています。この伝承出展元に関する情報はありません。従って事実にもとずく伝承なのか、創作話なのか不明です。しかし地元の人々に話が伝わっていたのは事実なので、荒神山は男女の墓として守られてきたものと思います。ただ、内容を吟味すると、武蔵の本庄まで辿りついた後に遭難した訳ですが、そこからの経過時間も流された場所も明記されておらず、倉賀野に流れ着き埋葬された経緯が不自然ではあります。
この伝説本が編集されたのは昭和15年ですが、上毛古墳総覧は昭和10年に纏められています。主に学校の教職員が調査まとめ役でしたから、明らかに江戸時代の墓であれば、古墳としての記録は無かったと思います。倉賀野町40号墳が総覧に記録されたという事は、一本杉伝承は必ずしも全ての人に信じられていた訳ではないのかも知れません。また、地域伝承を取りまとめた徳井敏治氏は校長先生ですから、上毛古墳総覧の記録収集の件は知っていたはずです。でも本墳が、古代の墓なのか、江戸時代の墓なのかは本人にも判断は付かなかったものと思います。

もしも倉賀野町40号墳が学術調査されれば決着がつくと思いますが、おそらく考古学的には大きな価値は認めらないと思うので、調査される事は無いでしょう。なお、倉賀野町西部には有名な大鶴巻古墳・小鶴巻古墳の近所に一本杉古墳という中型の円墳がありました。こちらも既に削平されていますが、この古墳は学術調査されており、記録も残っています。本伝説とは無関係です。



【参考・引用】
■新編 高崎市史 資料編Ⅰ 原始古代Ⅰ
高崎市史民俗調査報告書 第7集 倉賀野町の民俗 ー街道筋の民俗とその変化ー

株式会社アミッツ ホームページ 伝説之倉賀野




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