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東国の古代史

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2024-02-28 (Wed)  20:35

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(2/9)「長野堰・倉賀野堰の歴史」

前稿からの続き

倉賀野堰が作られた正確な時期は良く分からないが、江戸時代初期の1630年頃には流路は存在したようです。おそらく一挙に作られた訳ではなく、少しずつ掘削されたものでしょう。17世紀代の絵図も何枚か残っているが、正確な位置や規模が判別できないほど大雑把な図面です。そこで、時代の下る1830年(天保元年)の絵図を以下に掲載します。この図面は当時の長野堰の規模やルートを知るうえで非常に役に立ちます。現在の水路図と、ある程度対比が可能となっている。

1830年の長野堰流路1
↑1830年の流路図(クリック拡大)

1830年の長野堰流路2
↑1830年の流路図の南北逆転(クリック拡大)

↑現代の地図とは南北が逆なので図面を逆転しています。烏川取水の直後に榛名白川の地下を逆サイフォンによる伏越し工法で通しています。この伏越しは1814年に造られたらしい。この時代に実現していたとは驚きです。もっとも日本最古の伏越しは佐賀県にあり、17世紀初期だと言われている。有名な埼玉県の見沼代用水にも18世紀の伏越しがあります。従って最古のものから200年下る訳で、特別に古くはないそうです。
倉賀野堰は絵図の左上(→右下)に描かれている。水路図を見ると倉賀野堰というものの、倉賀野だけに供給している訳ではない。現代の双葉町、上下中居町、下之城町、倉賀野町、上下佐野町東中里町栗崎町台新田町岩鼻町と広大な面積に水を供給しています。倉賀野堰と呼ばれたのは、当時、倉賀野が周辺の村に対して際立って繁栄していたからであろう。


倉賀野堰流路図
↑現代の水路名(概略図)(クリック拡大)

上の画像でも分かる通り、現代の倉賀野堰は3つの幹線水路に分流します。これは江戸時代末期においても各水路規模の違いはあれど、存在しています。以下の画像見ると良く分かります。

1830年の長野堰流路3
↑1830年の水路と現在の水路名(クリック拡大)

1830年の長野堰流路5
↑1830年の水路と現在の水路名・南北逆転(クリック拡大)

上の図面は1830年の水路図に、現代の水路名を対比させたものです。もちろん物理的な位置が完全に一致している訳ではないが、類似している部分もある。位置が異なる要因には、当時の地表面は比較的自然地形が多かった事があげられる。現代においては宅地化で丘陵地は崩されて標高が一定になっている。水路設計は標高次第で決定されるものだから、分岐する位置が異なるのは当然であろう。

1830年当時の水路体系と供給地域は、長野堰上流部の細かい分流を除くと以下であったようです。

   長野堰---南大類堰現在の地獄堰)---高関村、中居村、柴崎村、上中下南大類村、綿貫村
        倉賀野堰---五貫堀(主幹線水路のみ?)----下之城村、倉賀野町、台新田村、岩鼻村
                                矢中堰(現在の矢中堰+上中居堰)--上下中居村、矢中村、栗崎村
                  五本木堰(現在の川の面堰)---上下中居村、矢中村、東中里村、 栗崎村
                  上下中居堰群 -----------上下中居村
               粕沢川 ------------------供給地不明

上下中居地区は江戸時代も現代も面積が広いので、複数の水路から供給されています。

実は地元では倉賀野堰のことを現在でも五貫堀と呼びます。ただ、五貫堀が他の矢中堰等を含めた総称なのか、主幹線路だけを指すのかは不明です。他稿『貫の付く川』で記載したが、五貫堀の名称由来はよく分からない。しかし、推測は出来ます。「貫」は訓読みでは「つらぬく」です。命名は江戸時代ですから、その時代の水路に着目する必要がある。おそらく「つらぬく」とは五町村を貫く、または、大まかに五つの地域を貫く水路という意味ではないか?具体的にどの水路を指しているのか不明ですが、他の支線水路を含めた総称であった可能性が高いと思います。それが現代では主幹線水路のみを指すようになったと思われます。
因みに高崎市北部を流れる一貫堀川は灌漑にも使われているが、自然河川に近い。大きな人工の水路分岐は非常に少ない。従って「ひとぬき」の水路と呼ばれたのではないでしょうか。一貫堀も水路としては長いが、総延長では五貫堀のほうが圧倒的に長いはずです。

1830年当時の長野堰は、円筒分水などという技術はありませんから、水路を枝分かれさせる方法で分流していた。従って、水量を正確に灌漑面積に応じて分流させることは出来なかったようです。また供給する水の絶対量が少ないため、水路末端に行くと水量は細り水不足は深刻だったといいます。だからこそ水争いも激しかったのでしょう。各地区の水番が主要分岐点でお互いに監視していたと言います。

1830年の長野堰流路4
↑南大類堰(地獄堰)、倉賀野堰の部分拡大図

そこで倉賀野堰管内の末端では溜池が江戸時代に作られた。少量の流入水を排水することなく貯めて必要時に其処から流した訳です。それが現在も残る古堤(ふるつつみ)と新堤(しんつつみ)です。倉賀野下町への流路の末端に古堤が作られ、倉賀野と記載された流路末端に新堤が作られている。

明治新古堤地図
↑1894年(明治27年)の地図

しかし当初から計画的に造られた訳ではなく、きっかけは江戸時代の天災であったようです。徳川四代将軍家綱の寛文年代、全国的な大旱魃が起きている。時の高崎藩主は、年貢を減少する代償として、農民の労力により灌漑用貯水池として建設したと伝えられる。寛文年間は1661年から1673年までの期間を指します。これが古堤です。
日本の災害年表を見ると寛文年代には以下の記載がある。旱魃の記録は見えないが、風水害と旱魃は表裏一体なので旱魃に見舞われた地域もあったのでしょう。延宝2年からの飢饉は旱魃の影響だと思います。
寛文2年 1662 京畿大地震
寛文5年 1665 越後地震
寛文6年 1666 諸国風水害
寛文8年 1668 江戸大火
延宝2年~延宝3年 1674~1675 諸国飢饉

古堤
↑2017年の古堤

本来の古堤は現在の2.5倍ほどの面積があったが、灌漑用水としての利用がなくなり、現在は半分以上埋め立てられて画像のような状況です。周辺の宅地化で周囲に水田は一切残っていません。すでに昭和40年代には殆ど使われなくなっていたそうです。



新堤の方は時代が下って、工事は天明3年(1783年)に始まり、天明六年(1786)に完成している。この時期は天候不順が数年間続いています。その結果、天明8年まで続く有名な天明の大飢饉が起きている。
天明2年 1782   天明の飢饉始まる
天明3年     1783   浅間山大噴火。天明の飢饉拡大
天明6年 1786       江戸大水害
天明8年 1786       天明の飢饉収束

20230330畑までウォーキング
↑新堤のほとりにある説明板

天明3年は浅間山岩木山が大噴火しています。飢饉は天明2年から始まっているので噴火が発端ではありませんが、追い打ちをかけたようです。被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人が餓死したと杉田玄白は記録しています。しかし、全国の犠牲者の数は30万人以上とも言われている。東北地方ではヤマセ(北東風冷雨)による冷害の飢饉です。死者の殆どは東北地方で発生している。天明3年7月の浅間山噴火では大量の火山灰が降った。降灰で極度の不作に見舞われ、周辺では飢饉が発生している。餓死者も出たそうです。これらの影響で幕藩体制は危機に陥り、老中松平定信による寛政の改革が行われる要因となっています。
新堤が作られたのも、古堤と同じく天明の大飢饉という災害がきっかけだったのです。当時の高崎藩は寛文の飢饉の教訓を生かし、新堤を造ってコメの生産量を確保しようと図ったのでしょう。古堤新堤はどちらも1936年昭和11年)に改修工事がなされています。今の両者は、見かけ上は時代差を感じないが、当初の築造には100年以上の時差があります。

20230330畑までウォーキング7

新堤の見た目は比較的新しいが歴史は古い。昭和50年頃まで鯉の養殖をやっていたので、地元の年配者は鯉池(こいけ)と呼んでいる。鯉は長野県の佐久まで運んで佐久鯉として売ったそうです。産地偽装です。
小学6年生頃には、近所の悪ガキと此処で鯉を密かに釣った記憶があります。当時は深い笹藪で囲まれていたので周囲からは見えなかった。でもみな逃がして持ち帰ることはありませんでした。

20230330畑までウォーキング9

新堤が築造された1783年当時の将軍は、第十代 徳川家治(いえはる)です。老中は有名な田沼意次ですが、3年後の1786年には失脚するので、田沼時代の末期という事になる。

20230330畑までウォーキング10

田沼時代は初期から天災や飢餓が続出し、宝暦、明和期は大旱魃や洪水など天災が多発している。その後も天災地変は続き、天明の大飢饉がに至ります。そのため全国で一揆や打ち壊しが各地で頻発した。田沼時代の宝暦から天明期の38年の間に発生した一揆の数は全国で600件近くあるそうです。そのような時代に新堤は造られたのです。


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