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東国の古代史

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2024-04-07 (Sun)  06:25

九州風土記と日本書紀の関係 ~ 豊後国風土記の記述から分かる事

九州諸国の風土記として残存するものに豊後国風土記肥前国風土記がある。ただ何方も抄出本で完全なものではない。この2つの風土記以外にも、後世の書物(釈日本紀)に引用される形で残る逸文と呼ばれる風土記もある。これらの風土記抄出本と逸文は2種類に分類されている。一つは律令制度以降の国名で呼ばれる甲類風土記、もう一つは律令制度以前の国名で呼ばれる乙類風土記です。
甲類......豊前風土記、豊後風土記、肥前風土記、肥後風土記、筑前風土記、筑後風土記
乙類......筑紫風土記

甲類風土記は、西暦717年以降に施行された郷里制によって記述されている点や、日本書紀の参照引用があることが特徴となっています。従って書紀が完成した西暦720年から730年代にかけて執筆されたと言われている。また、甲類風土記群には共通する表記が多い点も特徴であって、九州諸国を管轄していた太宰府において一括して編纂されたと指摘する学者もいます。
甲類風土記日本書紀を参照して書かれている事はほぼ確実ですが、記載の仕方には明確な違いがあります。書紀は編年体・時系列で記録しているのに対して、風土記は地名の謂われを中心とした地理誌として記述されている。また、書紀には記載されていない風土記独自の地方伝承が記録されている点も見逃せない点です。一方の乙類風土記に関しては、不明確な点が多くて定説的な見解は無いと言ってよい。律令制が施行された西暦701年以前の7世紀末に記載されたと考える人が多いが、日本書紀の影響を受けている事も確かです。

(1)九州風土記と日本書紀の比較
ここで、九州風土記と日本書紀の関係性について、事例をあげて内容比較してみたいと思います。比較するのは、風土記と書紀の両者に同一の記載内容のある部分になります。事例は結構多いのですが、以下の2点を抽出してみます。
■日本書紀 巻7 景行記 景行12年条
■豊後国風土記 速見郡の項、直入郡の項、大野郡の項
なお、漢文読み下し文では理解しにくいので、両者とも現代語版で比較します。文章が長くなるが、記載内容が比較できる範囲まで引用します。


①日本書紀 巻7 景行記 景行12年条
景行天皇十二年
天皇はついに筑紫にお出でになり、豊前国の長峡県(福岡県長尾)に着いて、行宮を立ててお休みになった。そのところを名づけて京(福岡県京都)という。
冬十月、碩田国(おおきたこく)に着かれた。その地形は広く大きく美しい。よって碩田(おおきた)と名づけられたという。
そして速見邑に着かれた。そこには女性がいて、これを速津媛という。その地の長である。
天皇がお出でになると聞いて、速津媛は自らお迎えに出て、「この山に大きな石窟があり、鼠の石窟といいます。そこに二人の土蜘蛛が住んでいます。一人をといい、もう一人をといいます。また直入県の禰疑野に三人の土蜘蛛がいます。一人を打猿といい、もう一人を八田といいます。さらに国麻侶というのがいます。この五人はそれぞれ強力で仲間が多く、 皆、皇命には従わないと言っています。もし従うことを強いられたら、兵を興して戦うと言っています」と申し上げた。
しかし天皇は好ましくないと思われ、進まれなかった。来田見邑に留まって、仮の宮を建ててお住みになった。また群臣と謀って、「今、多くの兵を動かして土蜘蛛を討とう。もし、我が兵の勢いに恐れて山野に隠れたら、後にきっと災いをなすだろう」と言われた。
椿の木を取って椎(槌)を作り、これを武器とされた。強い兵を選んで椎を授け、山を穿ち、草を払って、石室の土蜘蛛を襲い、稲葉の川上に破り、ことごとくその仲間を殺した。血は流れて踩(くるぶし)まで浸かった。当時の人は、椿の椎を作ったところを海石榴市(つばきいち)と呼び、また血の流れたところを血田といった。
次に、打猿を討つため禰疑山(ねぎやま)を越えたところで、反乱軍たちが横の山から矢を射かけて来たので、天皇軍の前方に矢がまるで雨のよう降ってきました。そこで天皇は城原まで退却し、川原で占いをしました。そして軍勢を整えると、まず禰疑野で八田を討ち破りました。これにより打猿は勝てないと観念し、服従を申し出ます。しかし天皇はこれを許さず、一族郎党は自ら谷に飛び込んで死んだといいます。

②豊後国風土記 速見郡の項直入郡の項、大野郡の項
速見郡
■ 5人の土蜘蛛(打猿八田国麻侶)の伝説(速見郡の由来)
昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球磨贈於(くまそ)を征伐しようと筑紫に向かった。そこで周防国の佐婆津(さばつ)から船出して海部郡の宮浦に到った時、この村には速津媛という女がおり、この者は村の長であった。
速津媛は自ら出向いて天皇を迎えると「この山には鼠磐窟(ねずみのいわや)という大きな磐窟があり、そこには2人の土蜘蛛が住んでいます。その名をと言います。
また、直入郡禰疑野(ねぎの)には3人の土蜘蛛がいます。その名を打猿八田国摩侶と言います。この5人の人となりは並んで強暴で、また多くの仲間がおります。そして皆誹って「天皇になど従うものか」と言っており、もし服従を強いるならば、「兵を起こして抵抗するでしょう」と教えた。
そこで天皇は兵を遣わせると、兵たちは要害を遮って土蜘蛛たちを悉く誅滅した。これによって速津媛国と名付けられたが、後の人によって速見郡と改められた。

直入郡
■ 土蜘蛛の打猿八田国摩侶
昔、纏向日代宮御宇大足彦天皇(景行天皇)が行幸した時、この野には打猿八田国摩侶という3人の土蜘蛛がいた。天皇は自ら賊を討伐しようと思い、この野にやって来て あまねく兵たちをねぎらった。これによって禰疑野(ねぎの)と呼ばれるようになった。蹶石野(ふみいしの)。柏原郷の中にある。

大野郡
■ 鼠石窟の土蜘蛛(海石榴市・血田の由来)
昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球覃の仮宮に住んでいた。そこで鼠石窟(ねずみのいわや)に住む土蜘蛛を討伐しようと、群臣たちに命じて海石榴(つばき)の樹を伐らせ、それで槌を作って武器とし、勇猛な兵に授けた。
それから、兵たちは槌で山に穴を開け、草を押し倒して土蜘蛛を襲い、悉く誅殺した。すると、土蜘蛛たちの血がくるぶしに達するまで流れ出た。その槌を作った場所を海石榴市と言い、血が流れた場所を血田という。網磯野(あみしの)。郡の西南にある。


豊後国
↑豊後国郡名図(速見郡、直入郡、大野郡の位置)


(2)比較結果
日本書紀景行天皇の事績記述は、豊後国風土記では地理誌として3つ郡の由来話に分解されているが、全体の内容はほぼ一致している。ただ文面をそのまま引用している訳ではなく、地名の由来に主眼を置いており、物語の展開そのものは要約的な記載としている。また一つの纏まりのある逸話を複数に分割しているため、説明上、内容の重複が見られる。
ただ、一致しない点もある。日本書紀では景行天皇の征討は陸地移動しているが、風土記では明らかに船で移動している。これは検討すべき違いです(→両者本文の下線部参照)。

【補足】
日本書紀は物語を時系列で記載しており、先に、大野郡の青・白を討伐し、次に直入郡の打猿・八田・国摩侶を討伐する。豊後国郡名図、現地図と照らすと、天皇は大野川を下流から遡上しながら討伐したことになる。しかし、5人の土蜘蛛との戦いの前に来田見邑(風土記では球覃)の仮宮を住地にしている。来田見邑の比定地は現在の直入郡久住町、直入町あたり一帯に比定される。つまり直入郡に先に入っています。これは、風土記と書記の違いではなく、両書の物語の中での位置的な矛盾と言える。

大分県
↑クリック拡大
これを解決するには、
①大分郡から大分川~芹川を遡って来田見邑(球覃)の仮宮に入る。
②来田見邑(球覃)から大野川下流部に向けて山越えし、鼠石窟で青・白を討伐。
③大野川を遡って禰疑野に入って打猿・八田・国摩侶を討伐。
または、来田見邑(球覃)の仮宮を拠点として、大野川下流部と上流の禰疑野に各々放射状に討伐したとも考えられる。しかし、いずれも地形や距離を考えると、ちぐはぐな戦略には違いない。ただ、創作話のルート分析を厳密に行っても意味はないでしょう。また、この矛盾は風土記と書紀共通の問題ですから、両者の違いという観点では問題にならない。


(3)比較評価
豊後国風土記日本書紀の内容と細部まで似ており、明らかに参照・引用していると判断できます。厳密に云うと一字一句同じではないが、少なくとも矛盾しないように記述している。従って甲類風土記の執筆時期は書紀が完成する720年以降という判断は妥当性がある。

天皇の征討移動方法が両文献で異なる理由を考えてみたが、豊後国風土記の執筆者が単なる思い付きで変えたとは思えない。考えられるのは、甲類風土記は日本書紀完成後に新たに書かれた訳ではなく、原本・原資料が存在した可能性です。おそらく原本の記述は船による移動であった可能性が高い。豊後国風土記執筆者はそれに従ったのであろう。

【補足】
では日本書紀は、何故陸路を採用し、風土記原本の船移動記述に従わなかったのだろうか? この点についても検討してみた。おそらく次のような理由によると思います。
日本各地の街道整備天武朝(673~686年)において始まったというのが有力説です。しかし、西海道は一番遅れて8世紀初頭から整備が開始されている。街道整備は律令制度の一環として行われたので、公的な移動は陸路に制限されます。九州北部であれば太宰府を経由しての移動が義務付けられる。原則として海路は禁止された時期もあったようです。しかし当時の陸路移動は非常に労苦が多くて、実態としては船による移動が多かったと言います。また時代が下ると陸路は衰退し、海路の制限も緩和されました。
書紀の編纂時期は長期に及ぶが、後半は西海道の整備時期と重なっています。おそらく、正史である日本書紀は律令による原則街道使用の立場から、天皇の征討逸話も準じて陸路を採用したのではないかと思います。風土記原本・原資料の方は、執筆時期が先行していたため、陸路整備が行われておらず、海路使用で記述されていたのではないか。また、720~730年代編纂の甲類風土記が書紀に倣わずに風土記原本に従ったのは、政権の公的文書ではないので、執筆当時の移動実態に合わせたものと考えます。

九州の甲類風土記の原本・原資料が何時の時代に書かれていたのか明確には分かりません。ただ、元明天皇「風土記執筆の詔」は西暦713年です。この付近で執筆されたのではないか。原本がそのまま朝廷に提出されなかった理由については以下のように推定している。
天皇の出身地は九州という神話を構想していたため、原資料と書記神話を整合させる必要がある。
■ヤマトタケルや景行天皇が九州各地の反抗勢力を征討した逸話を矛盾なく挿入する必要がある。
つまり九州の風土記原資料の内容は、日本書紀の構想に沿って検閲・改変が必要であったと思われる。ところが日本書紀の天皇征討話を含む巻1~13の執筆は編纂の最終段階であったため、書紀の完成まで甲類風土記の作成・改変作業に着手できなかったのではないか。

以下の文献執筆推定年代表を見ると、一見、風土記と日本書紀は独立した文献のようにも見えます。しかし、風土記の編纂が天皇の命令で行われたのは目的があってのことです。その目的とは正史である日本書紀の編纂であったのは間違いない。天皇の祖先が国々を征討した事を歴史記録として創作するには、個々の地方伝承がベースとして必要だったと考えます。

古文献執筆推定時期表2
日本書紀古事記風土記の推定執筆期と参照引用関係(クリック拡大)

この推測は別な観点からも裏付けられる。例えば、書紀景行記の物語としての詳細さとリアリティです。景行記が全くのゼロからの創作であったなら、数多い土蜘蛛の反抗逸話の創作までは現実的に無理であったと思います。言い換えると、甲類風土記は、風土記原本をベースに日本書紀の記述と矛盾しないように改変された文献であると考えます。もちろん、日本書紀の征討逸話は風土記原本・原資料をネタとして取り込んで作成されています。つまり、両者は時代変遷の中でお互いに参照しあい、整合性を持たせようと図ったと思われる。

これも推測になりますが、風土記原本を作成した時の原資料である土蜘蛛逸話は、現存する甲類風土記とは違っていたように思います。登場人物は似ていても、ストーリーは全く異なっていた可能性がある。そもそも、地方に閉じた地域伝承・逸話に天皇が登場すること自体に違和感があります。本来の地方逸話に天皇の巡幸・征討という物語を挿入合体させたのではないか。
豊後国風土記速見郡に登場する速津媛は天皇に従順な族長です。しかし本来は土蜘蛛たちの祖神である国津神であったのではないか。「速津」とは急流河川または速い潮流を指すとすれば、そこに宿る水神かも知れません。速津は土蜘蛛と協力して国の開拓を担う逸話だったような気がします。ところが改変逸話では土蜘蛛を告発し、裏切る立場に設定されている。
歴史学者によっては別の見方もあって、九州地域には女性の首長が多かった名残が物語に反映されていると見る人もいます。確かに九州風土記には女性首長の登場が多いのは事実です。だが、個人的には何れも土地神国津神たる女神の改変された姿かと思っています。
このように考えるのには根拠があります。景行記12年条を読んで違和感を覚えないでしょうか?
速津速見郡の族長です。しかるに、彼女の語る話は全て他の郡域の話です。また他の郡の族長は登場しない。風土記日田郡項では久津媛と五馬姫が登場するが、前者は土地神であり、後者は土蜘蛛とされている。久津媛は人に化けて天皇の前に現れるが、郡内の報告をするだけです。ただ一人族長とされる速津豊後国を統括する存在なのかも知れません。可能性のある行政的な役割は国造ですが、逸話からは国造のイメージは浮かばない。やはり可能性が高いのは、国土の創生神である国津神が本来の姿のような気がします。

【補足】
土蜘蛛も族長も、地域の首長であることには変わりない。前者は天皇に反抗する首長であり、後者は天皇に降伏・帰順した首長とも言える。また、日田郡の久津媛の逸話のように風土記においては、人と土地神の存在は容易に入れ替わるものとして描かれている。




【参考・引用】
■日本書紀 全現代語訳(上) 宇治谷 孟著 講談社学術文庫  →「巻7 景行記 景行12年条」
■ ホームページ『人文研究見聞録』
 ・日本書紀   現代語訳    →「景行記 景行12年条」
 ・豊後国風土記 現代語訳    →「速見郡/直入郡/大野郡」
■風土記の世界     三浦祐之著 岩波新書 →「豊後国郡名図
■本ブログ記事「古文献推定執筆時期(基礎資料)」→「文献執筆推定年代表」
■本ブログ記事「古代日本のハイウェー(1~5)


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